「あなたの値打ちは?」


2009.9.6(SUN)
新城教会 上條実 牧師

第一コリント人への手紙 13章1節〜3節
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

ハレルヤ!おはようございます。今日も素晴らしい礼拝を持つことができ、心から嬉しく思います。今第一青年会の方々がとても素晴らしいスキットをして下さいました。先週日曜日に行われたザ・コールには三八〇名もの方々が来られました。教育館とリバイバル聖書神学校の間にあります中庭では大変窮屈で、もっと広い所があったら良いのにと思うほどでした。その時先ほどのスキットを披露して下さったのですが、参加された方一同がとても感動されていました。私も先週家庭集会を各地でご奉仕させて頂きましたが、ザコールに参加された方が、口々にお証しの中で「あのスキットは素晴らしかった」と語っておられました。何週間前から準備されておられましたが、とっても素晴らしかったと思います。
さてでは今からは、「あなたの値打ちは?」という題でみことばを学んでいきたいと思います。この、第一コリントの十三章はとても有名なみことばです。この場所は皆さんご存知のように“愛”がテーマです。
私たちは生活をする中で、様々な問題に直面します。何とかして問題を早く解決してほしいと思います。また病いが早く癒されてほしい、家族の救いが早く実現してほしい等様々な事を求めます。なかなか答えられないと私たちは焦ってしまいます。聖書には必ず解決し、いやされ、救われるとあるにも関わらず「どうして私には答えが来ないのか」と焦ってしまいます。どうして答えられないのでしょうか?しかし主は今も生きておられます。私たちは、自分が生きているようであっても神さまによって生かされています。 ローマ書十四章八節にこのようなみ言葉があります。

「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

今日あなたが偶然に礼拝に来られたのではありません。今日あなたは神さまによって生かされ、神の計画の中で、神の愛の中でこの礼拝に参加されています。そんな中で、「私達は生きるにしても死ぬにしても私達は主のものです」とあります。神さまのために生きておられますか?あなたはどれだけ神さまのために時間を捧げ、どれだけ神さまのために奉仕していますか?しかし現実私たちには責任のある仕事もあれば、家庭もある。そのためなかなか神さまのために時間をささげ、奉仕する事ができません。すると私たちは「神さまから見たら、自分はだめなクリスチャンと判断されていないか」と思ってしまいます。先日選挙がありましたが、選挙では当選ラインというものがあります。皆さんは神さまに奉仕すると、だんだん恵みが積まれて行き、悪い事などをするとだんだん減って行き、沢山奉仕をすると「やっと当選しました。あなたは祝福された人です。あなたの祈りの課題はかなえられます。」というような感じがしてしまいます。しかしイエスさまの事を忘れ、喜ばれない事などをしたり、考えたりしてしまうと、だんだんとその蓄積していたものが目減りして行き「今、神様が来られたらやばいことになる。…もしかして自分はラザロと金持ちの、金持ちが言ったところに行くのではないか?」「こんな信仰状態なら、イエスさまに愛されてはいないし、祈りの答えなどあるはずがない」と、何か浮き沈みしているような救い、信仰生活を考えてしまいます。今日のタイトル、イエス様から見た“「あなたの値打ちは?」はどんなものでしょうか?“値打ち”ということばはご存じだと思いますが、辞書にこのように記されています。「そのものの事柄が持っている価値。役に立つ程度、度合やそのものの品位」二番目に「品物の値段、値」とあります。私たちは神さまのためにどれだけ役に立っているのか?神さまから見た「わたし」の価値はどの位なのだろうか?などと考えると「自分は奉仕もしていないし・・・・。」と心配になってしまう時があります。あなたはどんな価値をつけられる人ですか?あなたの家族は、あなたに対してどんな価値、値打ち、点数をつけているでしょうか?結婚されておられる方ならば、あなたの伴侶からどんな値打ちをつけられているでしょうか?また学校や会社などでどんな値打ちとして測られているてせしょうか?仕事をされている方は「給料が私の値打ち。」学生なら「成績が私の値打ち」と考えておられる方もいるかもしれません。
我が家にKという男の子がいます。彼は今小学校二年生です。彼と先日一緒にお風呂に入っていた時です。彼は私にこんなことを言いました。「お父さんは、教会でメッセージをしている時はすごくかっこいい」と言ってくれました。しかしうれしいのも束の間「だけど、家に帰ったら普通のお父さんになっちゃう」と言うのです。「普通のお父さんって何よ」と聞くと「普通のお父さん?そりゃ、ぼくに怒ってばっかり」というのです。「じゃあ、お父さんのことは好きか」というと「怒っている時は全然好きじゃない」と言われました。彼から見た私はあまり点数が良くないみたいです。彼に対して愛をかけているつもりですが、実際は怒ってばかりで、彼から見たら価値のないものかなと思いました。まただいぶ昔のメッセージで聞いた話ですが、ある韓国の先生からこんなメッセージを聞きました。韓国のある牧師先生が礼拝中メッセージをしておられる時に、牧師夫人が家財道具一式を抱えて講壇に登って来たそうです。ご主人が怒って「おまえ何をしているんだ、今メッセージ中だぞ。何でこんなものを持って上がってくるんだ」と奥さんに怒ったそうです。すると奥さんは「あなた、あなたと講壇で生活しましょう。講壇では立派な事を語っているが、家では全然違う。」と答えたそうです。実際にあった話かどうかわかりませんが、韓国の先生がそんなメッセージをされていました。この話は何か私たちにピッタリする話かもしれません。教会に来ると賛美をささげ、みことばを聞き、何か心が洗われ、一週間ほこりがたまっていた所をクリーニングしてもらい、きれいになって帰っていくわけです。しかしすぐまたほこりがたまり、ある時は泥まみれ・ほこりまみれ・汚物だらけで汚くてなってやっと教会、礼拝にたどり着く。そしてまた礼拝をささげ、今日のように聖餐式に預かり、ささげものをすると目盛りがあがるそんな気がしていないでしょうか?しかしイエス様があなたにどんな値打ちをつけているかご存知でしょうか?
先週ザ・コールで私はすごく感動しました。何に感動したかと言うと、先ほどのスキットや全てが感動したのですが、特に感動した事は、第一青年会の皆さんが長い間祈り、準備して来られました。特にとっても暑い日にもかかわらず、炎天下の中集会の準備をしている姿に感動しました。暑い中普段仕事や学校など忙しい兄姉が、黙々とご奉仕をされていました。私は彼らの奉仕の姿を見て感動しました。主が喜んでおられると確信しました。しかしあの日から一週間すぎてどうでしょうか?神さまがあなたの値打ちを測られるとしたら、先週から比べて今週は目減りしているような感じがしていませんか?「あなたの値打ちは?」と問われたらなんと言う事ができるでしょうか?第一コリント十五章一節〜五節にこのようなみことばがあります。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

私のためにイエス・キリストが、罪のために身代わりとなって、十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さいました。私たちはそのことを信じた時、救われると聖書にあります。その十字架を信じることができたら救われるのです。また、有名なみ言葉でずがイザヤ四十三章一節〜四節

「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」

 というみ言葉があります。イエスさまはあなたがどう考えようが、どう信じようが、何を思おうと関係なく「あなたは高価で尊い」と語って下さいます。また、エペソ二章十節には、
 
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」 

ここに、私たちは神の作品だとあります。ここはよく語られますが、大量生産する製品ではなく、手塩にかけて作り出す。世界で一つしかない作品である。“あなた”は愛されている。と言う事を覚えて頂きたいと思います。

現在世界の人口は、一分間に約一四〇人の人が世界で生まれているそうです。一日で二十万人。1年で約八千万人が生まれているそうです。そして亡くなる人は一年で六千万人、という事で、今世界の人口は、昨日の午後一時半現在で六八億一七二五万人だそうです。
しかし、今日、あなたは愛されています。皆さんご自分の手を見て下さい。手を見ると、あなたの手の指には指紋があります。指紋があるからこそ聖書をめくる事ができます。この指先という小さなキャンパスの中で、六八億の中で一人として同じ指紋がないというのです。六八億人もいるにも関わらず、あなた一人用の指紋を創造された方がイエスキリストです。そのことを覚えるだけでも、私は神さまに愛されていることがわかります。それも特別な存在として作られています。またマタイ十六章二六節の有名なみことば、

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

とあります。あなたの値打ちはいくらかというと、全世界を手にいれても足りない、“あなたは高価で尊い”と神は言っています。また、ルカ十二章六節では

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」

五羽で二アサリオンという事は、二羽で一アサリオンと計算できます。しかし五羽というのは、一羽おまけでつけられるようなすずめでも、神のみ前には忘れられていないというのです。と言う事はこんな私でも必ず神の御前には忘れられてはいないというのです。祈って、祈って、なぜ答えられないのか?家族の救いのために一生懸命祈って、なぜ救われないのか?自分が病気が、なぜ癒されないのか?私たちは否定的なことを考えがちです。マタイ六章二十五節〜二十六節

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」

空の鳥、その一羽の鳥も主は養って下さっている。えさがあるかどうかさえわからない鳥さえ養って下さる。毎年つばめも日本に飛んできますが、「どこで巣が作れるんだろう」「ひなをかえすことができるのか」など、全く考えずに日本にやって来ます。そんなつばめも主が養って下さるのです。ましてや、私たちには、こういう経済状況の中でも主が養って下さる…これが聖書の神様であるのです。

「 あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」

ですから今日あなたのためにイエス・キリストが私達のために死んで葬られ、三日目によみがえって下さった時、神の子どもとなったのです。「私の子ども」です。子どもが親の事をどう評価しようとも、親は子どもに対して責任があります。どんなに「お父さんは普通のお父さんだ、いつも怒ってばかりいる」など言われても、神の目から見れば、「私の子ども」「絶対に見捨てない、見離さない。あなた一人を養って下さる。あなたは高価で尊い。あなたを作品として作った」それが私たちの信じている神、聖書の言っているイエス・キリストです。ですから私たちは今日イエス・キリストによって救われています。愛されています。しかしさきほどの第一コリント十三章を見ますと 

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

とあります。ここで、“役に立たない”なんの値打ちもない”と書いてあるのはどういう事なのでしょうか?それは「愛がないなら」というのです。「愛がなかったら」何の値打もないし何の役にも立たないとあります。この1節の所では、

「み使いの異言で話しても愛がなければうるさいどらやシンバルと同じだ」

とあります。私たちは聖霊の賜物で異言というものが神さまから与えられます。聖霊さまによる賜物、異言で祈ることが出来たとしても、そこに愛がなかったらうるさいシンバルとドラと同じだと言っています。また預言したり、山をも動かすような完全な信仰を持っていても、「愛がなければ、何の値打もない」というのです。どんなに立派な信仰があったとしても愛がなかったら何の値打もない。また三節では「持っている物を全部貧しい人に与える」、周りから見たら「素晴らしい善人だ」と見えるわけです。また、「私の体を焼かれるために渡しても」とありますから、死刑になる人を「私がかわりになって死にます」まるでイエスさまのような人だと、人から言われても愛がなければ、何も役に立たないと聖書は言っています。「愛」という言葉を広辞苑で見ると、「思いやり、相手をしたう、可愛がる」と書いてあります。“愛”皆さんは愛をお持ちでしょうか?「愛がなければ何の役にも立たない」とあります。イエス・キリストを信じたら「救われたから大丈夫、何をやってもいい」そうではありません。今日、あなたの中で本当にイエス・キリストを愛する愛を是非とも持って頂きたいと思います。マタイ三章十節

「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

とあります。私たちは主に対して良い実を結ばなかったらいけない、と言うのです。また、マタイ二四章四二節〜五一節には

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

と書いてあります。泥棒である悪魔・悪霊がいるのです。その悪魔・悪霊が進入されないように、いつも目をさましていなければなりません。悪魔は私たちを欺き、罪が赦されたら何をしてもよい。さばきはない。悪魔・悪霊の束縛はないと攻めてきます。そして家の中にある大事なものを盗んでいくのです。私たちはイエス・キリストを愛し「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」とあります。この聖書の言葉である”みことばの剣”を持って戦い、いつ神さまが帰って来てもおかしくないこの時、用心して目を覚ましていなければいけないのです。四五節から見ますと、

「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

いつ神さまは帰ってこられるかわかりません。主人はまだまだ帰るまい。と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。と言うようにならないように、私たちは気をつけなければなりません。私たちは、一生懸命リバイバルを求めて、日本のリバイバルのため、また今年は韓国のリバイバルのために一生懸命祈りました。今日も滝元順先生ご夫妻が韓国に出かけておられます。私たちはリバイバルを求め、奇跡、癒し、問題解決、人間関係、家族の救いなど様々な祈りの課題が成就するように祈っていますが、「愛がなかったら何の値打もない」と聖書は行っています。第一ヨハネ四章七節〜八節にこういうみ言葉があります。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

愛のない者に、神はわかりませんとあります。愛のない人は神さまがわからない。永遠の命を頂く事ができないというのです。また有名な箇所で第一ヨハネ四章十五節〜十六節では

「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

とあります。私たちは見せかけの信仰生活ではだめだという事です。イエス・キリストはあなたのために命をかけ、六十八億人の一人を愛するために十字架にかかって下さいました。そして、あなたの罪のためにあの滅びの場所に行って下さり、あなたのために三日目によみがえって下さいました。今日あなたのためにイエス・キリストが十字架にかかった事を、軽く考えないで頂きたいのです。
 とかく私も思うのですが、クリスチャンホームで生まれ育っていると、神さまの恵み、救いがわかりにくく、クリスチャン生活が当たり前で育っているクリスチャンホームの子どもたちは「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」というみことば、愛が当たり前になってしまっていると、主が共にいて下さる恵みを感謝できなくなってしまいます。「イエスさまは素晴らしい」という思いが、欠乏してしまいがちです。努力もせず神さまを知る事ができたので、イエスさまに愛をお返ししていきたい、イエスさまが私を愛して下さったという思いが欠乏がちになってしてしまっているのではないかと思います。私を含めてクリスチャンホームの子どもたちは、今日イエス・キリストの愛をしっかりと受け取って下さい。あなたもイエスキリストの愛を知り、愛ある器になって頂きたい。愛を実行できる器になって頂きたいのです。また聖書の中にこんなみことばがあります。マタイ二十三章二節〜七節

「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」

ここに書かれてあるパリサイ人のように“見せかけの信仰”というものがあると思います。しかし見せかけの愛、見せかけの信仰ではなく、愛を持って神さまを信じていきましょう。この後聖餐式を持ちます。その聖餐をただ軽く考えないで下さい。“ぶどうジュースとクラッカー”ですが、聖霊によって十字架の血潮と、十字架により裂かれた肉を意味しています。良く子どもたちに聖餐式の大切さを子ども会で話します。すべての人達がイエス・キリストの愛を覚えて頂きたいと思います。またマタイ二十五章三十五節から

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

と、書いてあります。今日あなたのとなり人、それも愛の必要な人たちに、あなたが愛を実践していく時、値うちのあるもの。役にも立つものになる事ができます。愛の実践することが、イエスさまを愛することなのです。以前滝元順牧師が「「新城教会はどこにありますか」と聞かれたら、新城市富沢にあるのではなく、皆さんの中、それも最も激しい戦いを感じている現場にあると言っておられました。本部教会はどのような役割かというと、最前線の教会に、支援を行う役割がある。教会はコンビニに似ているとと言っておられました。コンビニは地域にあるのですが、必ず、どこかに本部がある。その本部がどこにあるか知っている人はほとんどいない。しかし本部があるが故に、地域のコンビニは存在する。本部は何をするかというと、必要なもの、不足しているものを最前線に送る役目です。人々に対して愛を注いでいく時、主の業が起きると信じます。よきサマリヤ人についても聖書で「同じようにしなさい」と言っていますが、「同じように」愛を実践していきたいと願います。今日「イエス・キリストを愛する」ことと、「愛を実践できる」ようにしたいと思います。今まで何も気付かずに、通り過ぎていた地域、人、出来事に注目して愛を注ぎましょう。またローマ八章三十四節

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

というみことばがあります。私たちの神は私たちのためにとりなして下さっています。だから、今週は私たちが様々な所をとりなして行かなくてはなりません。とりなしというのは間に入ると言う意味の”インターセッション”だと語られていました。私たちは、人や地域、問題、病などの間に入って、愛の中で祈りましょう。愛の実践を行いましょう。そして最後に、私たちは一生懸命、自分の努力で愛の行動をしたとしても途中で疲れてしまいます。愛する事ができなくなると、悪魔・悪霊はもっと「おまえは愛が無いものだ」と攻めてきます。しかし今日、私達の神は三位一体なる神。父なる神、子なる神、聖霊の神を信じています。聖霊さま、それは助け主です。ですから私たちには力が無くても、聖霊さまに力を頂きましょう。聖霊の油注ぎを求めて祈りましょう。「愛のある者に、愛の実践ができる者に変えて下さい」と祈りましょう。神の力によつて自分を変えて頂きたいと思います。聖霊さまを真剣に求めて祈りましょう。今まで努力して、愛の行動をしていたかもしれませんが、聖霊によって自然に愛を頂き、足が出て、手が出て、とりなし、愛の行動が出来るように求めて行きましょう。聖霊は“デュナミス”ダイナマイトという表現がされています。ダイナマイトのような、普段は砕く事ができないでき事も、聖霊さまの力で、爆発させて頂き、愛のなかで祝福を頂き、価値のある者、役に立つ者に変えて頂きたいと願います。今日イエス・キリストが十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さった、この事を絶対に忘れないで下さい。そのイエス・キリストを心から愛し、そのイエス・キリストを愛することが、人々を愛する事、愛の実践がリバイバルの原動力になる事を信じましょう。いやしや解放、祈りの答えが進む事とになる事を知りましょう。
愛を主から頂く時、値打ちがでて、役に立つ者となる事ができます。イエス・キリストを愛し、隣人を愛する時「役に立つ、値打ちのあるクリスチャン」になることができます。今回教えられたことは「愛しなさい」という事です。愛する事が、前進につながります。聖書の中に、「神に近づきなさい。そうすれば神も近づいて下さる」というみことばがあります。あなたが愛を頂く時、不思議ですが祈りが答えられていきます。あなたが愛した時に、問題が解決していきます。霊的戦いをする中で愛があったら、愛を持って祈り始めたら、答られていきます。祈り方とか、「この言葉で祈ったら大丈夫」ではなく、その中にイエス様の愛と人々に対する愛がなくてはなりません。最後に愛を頂いて生活できるようにお祈りしましょう。そして聖餐式を行いたいと思います。


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