「キリストの弟子となる」


2009.9.20(SUN)
新城教会 岡本信弘 牧師

エペソ人への手紙 4章13〜15節
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。夏も過ぎて、大分涼しくなって過ごしやすくなりました。これからあっと言う間に冬になり寒くなりますので、皆さん体調管理には十分気をつけてください。この夏も皆さんが私や私の家族のために、またプレイズ出版の働きのために祈ってくださり、支えられていることを心から感謝します。
今日の午後はサンデースクールがあります。私はいつもはあまり担当しませんが、「何か担当してください」と言われ、「夫婦セミナー」というテーマを与えられました。何を語ろうかと思っていますが、夫婦の基本はやはり“信頼関係”だと思います。信頼関係がなければ一緒に暮らすことも一緒に行動することもできません。
神さまとの関係においても、信頼がなかったならば、私たちの生活は空しく、うまくやっていくことが難しいと思います。そんなことを考える中で与えられたことは、「キリストの弟子となる」ということです。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ一章一二節)
これは、皆さんもご存知の有名なみ言葉ですが、罪の中に、サタンの支配下にいた者が罪赦され、神さまの支配下に移されるだけでなく、神さまの子どもとされる特権が与えられるという約束。それは、一方的な神さまの憐れみであり、恵みです。ここにいらっしゃるクリスチャンの皆さんは、その特権にあずかっておられます。

人間は、この世にいのちを受け、成長していくものです。中には自分で大きくなったと思っている人もいるかもしれませんが、成長するためには助けが必要です。赤ん坊はお母さんのおっぱいを飲み、ミルクを飲み、離乳食を食べ、やがて固いものも食べられるようになり、普通の食事をすることができるようになります。しかし、それには親の助けが必要です。
教会にもたくさんの子どもたちがいますが、お母さんにべったりくっついている子もいます。お母さんは「もう、ちょっと離れなさい」と言ったりしますが、私は、「そんなにくっつくと暑いよ」と子どもをからかいながら、お母さんたちには、「心配しなくても、そのうち子どものほうから『お母さん、私から離れてよ』と言うようになるから」と言っています。そうなると、親は寂しいものでありますが・・・。このように、初めは何もできなかった者がだんだんと成長していくのです。私たちクリスチャンも同じです。
初めにお読みしたみ言葉の中に、『あらゆる点において成長し、頭なるキリストに達することができるためなのです』(エペソ四章一五節)とあります。親が子どものことを心配し、元気に育っていくようにと願うように、神さまは私たちに“キリストに似た者”になってほしいと望んでおられることがわかります。
また、聖書には「キリストのしもべ」という表現がされている個所がありますが、今日皆さんと、「しもべ」よりももう一歩成長を遂げた「キリストの弟子」となることを一緒に学んでいきたいと思います。

私たちがキリストの弟子となるためには、いくつかの条件があると思います。
まず一つめは、主人に選ばれた存在であることをしっかりと認識することです。
皆さんの中に、何かを身につけるために、弟子入りをした経験のある方がおられると思います。「この人についていけば間違いない」と弟子入りをしたり、丁稚奉公をした方もおられると思います。望んでも「いや、お前はだめだ」と言われれば、弟子入りすることもできませんし、弟子入りしたからといってものになるかはわかりません。
この教会には、ミュージシャンを目指している若者が沢山います。学校で学んだり、有名な人に弟子入りして頑張っています。音楽音痴の私は「すごいなぁ!」と、尊敬しています。また、料理の世界では何年も何年も下積みをし、腕を磨き、やっと一人前になっていきます。それでも一流になれるのはほんのわずかです。
私たちクリスチャンの世界はどうでしょうか。聖書には、『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』(ヨハネ一五章一六節)とあります。それは、私たちが長年修行をしたわけでもなく、弟子入りして勉強したわけでもなく、ただ神さまのあわれみによって、一方的な愛によって、神が私たちを救い、永遠のいのちを与えようと選んでくださったということです。
皆さんの周りにどれだけのクリスチャンがいるかというと、千人に一人くらい、学生たちは、学校に自分のほかにだれもクリスチャンがいないという状況でしょう。それは、ただただ「あなたを愛しているから、救いたいから」という神さまの選びによるものです。

イエスさまは宣教を始められた時、十二人の弟子を選び、共に行動していました。マルコによる福音書一三章に十二弟子の名前が出ていますが、皆さんは全員の名前を言えますか。イエスさまはなぜ弟子を選ばれたのでしょう。マルコ三章一四〜一五節にその理由が書かれています。
『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』
彼らを身近に置き、福音を宣べ伝えさせ、悪霊につかれている人々を解放するためにその権威を与え、遣わす。それが理由でした。
イエスさまご自身の役割を弟子たちにも委ねて、彼らを遣わしたことを見て取れますが、同じように、神さまは私たちを選んで、私たちを弟子として使いたいと願っておられます。皆さん一人ひとりがそのために選ばれてここにいることを是非覚えていただきたいのす。

そして、弟子になる二つめは、『彼ら(弟子たち)を身近に置き』とあるように、弟子は、いつも主人と共にいることが大切です。
丁稚奉公では、掃除、洗濯、ご飯作りなど、主人といつも共にいて、主人の言いつけを守り行い、主人の望むことを肌で感じていくわけです。弟子たちも、イエスさまが公生涯に入られて三年半の間、イエスさまと苦楽を共にしていたわけですから、色々なことを直接イエスさまから学んだでしょう。それには“共にいる”ことが重要なわけです。
聖書にこんなみ言葉があります。
『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』(第一ペテロ一章八節)
今皆さんは、肉の目でイエスさまを見ることはできませんが、愛しておられますね。みなさん「アーメン」と言えるかと思います。そして、見ることはできないけれど、「心から信じています」と答えられると思います。また、「言葉に尽くすことのできない喜びに満ち溢れていますか」と質問された時に、「はい、私はいつも喜びに満ち溢れています」と答えられたら本当に幸いな人だと思います。私たちの日々の生活の中では、辛いこと、悲しいこともありますので、「いつも喜びに満ち溢れている」と言うことができない時もあるわけですが、“イエスさまと共にいる”、いつもイエスさまを身近に感じることがとても重要なことではないかと思います。どうぞ、忙しい時にも疲れている時にも、どんな時にもイエスさまから離れず、忘れないでいてください。
夫婦もそうだと思います。私は仕事で東京や、時には海外に出かけたりして留守をすることがあります。海外ですと時差があるので、時間が合わず連絡をしない時もあります。何日か連絡しないと、「何で連絡しなかったの」と家内に言われます。私はその時いつも「でも、あなたのことを忘れたことはないよ」と言いますが、そうすると家内は笑いながら「ほんとかな?」と言います(笑)。
み言葉に、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ二八章二〇節)とあるように、どんな時にもイエスさまが私たちと共にいてくださることを覚えてください。

いつも身近にイエスさまを感じるためには何が必要でしょうか。それは祈りです。祈りはイエスさまとの会話です。私たちが身近な人にまず「おはよう」とあいさつするように、イエスさまにも同じようにすればいいのです。
ある本に、こんなことが書かれていました。
ジムというおじいさんがいました。彼は毎日、昼の十二時に教会に来て、数分すると帰っていきました。その教会の牧師さんは、「この人は信徒でもないし、どこから来て何をしているのだろう。もしかして何か盗んでいくのではないか」などと心配しました。そこで、牧師はおじいさんに「あなたは何をしに教会に来ているのですか」と聞きました。すると彼は、「私は祈りに来ています」と答えました。牧師が、「いや、それだけではないでしょう。だって数分だけしかいないじゃないですか。祈りにしても短いでしょう」と言うと、ジムさんは「いや、私にはそれで十分なんです。私は毎日、同じ時間にここに来てこう祈るんです。『イエスさま、ジムでございます』。そして、数分祈って帰る、それだけで、私には十分なんですよ」と言いました。
それからしばらくして、ジムさんが来なくなりました。どうしたんだろうと思っていると、彼が交通事故で骨折して入院したと聞き、見舞いに行きました。
彼の入った病院には、荒っぽく、愚痴ばかり言うような患者が多かったそうですが、ジムさんが来てから患者たちが明るくなったそうです。患者のひとりに、「何があったの」と聞くと、「ジムさんのおかげです。彼は足が痛くても文句ひとつ言わず、いつもニコニコして嬉しそうにしている。だから彼の所に行って、『あなたがそんなにいつも喜んでいる秘訣は何ですか』と聞いたんです。すると、『私の所に毎日のように来てくれる訪問者のおかげですよ』と彼が言ったんです。でも、ジムさんの所に面会に来た人など見たことがなかったので、『だれが面会に来るの』と聞くと、『その人は、いつも十二時に私のベッドの傍らに立ってくださるんです。そして私を見つめて「ジム、イエスだよ」とおっしゃるんです。そして数分間、イエスさまと交わりをするんです。それによっていつも心癒され、いつも喜んで平安な毎日を送ることができるんですよ』と答えてくれました」。牧師はその話を聞いて、ジムさんがいつもイエスさまと会話をし、身近に感じていたことを知ったのです。
イエスさまを身近に感じるというのは特別なことではなく、日々の生活の中のこういった普通のことなのではないかと思います。

皆さんは一日のうちのいつ祈りますか? 朝祈る人もいれば夜祈る人もいるでしょう。
私はいつも、朝起きてからここから車で五分ほどの所にある総合公園に行って祈ることにしています。家の周りを歩いて祈ってもいいし、自分の家で祈ってもよいいのですが、私は本当にせっかちなので、家の近くにいるとすぐ、「これを先にやっておいた方がいいかな」と、祈りが後回しになったり、途中で切り上げて何かをやり始めてしまったりするので、「これではいけない」と思い、すぐには帰れない状況を作って数十分間祈り、それから仕事を始めることにしています。
皆さんもそれぞれに時間を取って祈っておられると思いますが、主の前に出て神さまとの会話を絶やさないようにしていくということは、とても重要なことです。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(第一テサロニケ五章一六〜一八節)
祈りは力です。祈ることによって力を頂き、日々喜んで感謝に満ち溢れた生活をしていくなら、キリストの弟子として成長していくことができるのです。また、世の中で生活していく上では、様々な誘惑や、問題が次々とやってくるかもしれませんが、そういったものも祈りによってはねのけ、解決することができるのです。

次に、弟子となるために必要なのは、「主人から多くのことを学び成長する」ことです。
学びはとても重要です。私も学生時代には親から「勉強しなさい。宿題はやったの」などとよく言われたことを思い出しますが、強いられて勉強してもなかなか身につかないものです。
皆さんにもそれぞれ得意、不得意の教科があると思いますが、私が学生の頃好きだった教科は、数学と物理でした。一つしか答えがない単純明快なものが好きで、ドリルも何十ページも予習をし、「もっとないかな」と思ったくらいでした。かといって、そんなに成績がよかったわけではありませんが・・・。
反対に、不得意だったのは英語です。聞いても、頭を通り過ぎてすぐ出ていき、まったく身につきませんでした。「どうやったら英語ができるようになるでしょうか」と聞かれると困るのですが、もしアメリカ人の恋人ができたらどうでしょうか。日本語のできない彼女のために、なんとか会話をしようと一生懸命学ぶでしょう。この教会にもそういう人が一人います。私の同級生ですが、彼は「いつの間にこんなに英語ができるようになったんだろう」と思うほど短期間のうちに英語ができるようになり、素晴らしい奥さんを得ました。彼のように、自分が「どうしてもこうしたい」と思って一生懸命学ぶなら、確実にマスターできるのではないかと思います。

私たちの学ぶべき人生のテキストは、聖書です。聖書を読むことが「師匠から学ぶ」ことであり、成長するために必要なものとして、神が与えてくださったものです。
『いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。』(使徒の働き二〇章三二節) 
み言葉は神の生きた言葉です。皆さんの生活において、道を教えてくれるものです。同じ週刊誌を何年にもわたって繰り返し読む人はいないと思います。しかし、私たちは聖書を何度も読みます。一か月前に読んだところをまた読んでも恵まれます。その時々に、感じることが違ったりします。それは、神が生きておられ、み言葉を通して今も私たちに語ってくださるからです。そして、そのみ言葉を皆さんが受け取る時、養われ、成長していくことができることを是非覚えてください。

そしてもう一つ、私たち一人ひとりに神さまから与えられた役目があります。キリストの弟子となるためには、その役割を担い、それを忠実に行うことです。
今回の選挙で、民主党が政権をとり大臣も一新されました。私はあまり政治に関心がありませんでしたが、新聞で大臣たちの顔ぶれを見ながら「この国は大丈夫かな」と心配しています。前大臣たちがよかったわけでも、今までのままがよかったわけではありませんが、初めて政権をとった民主党がどのようにこの国の舵取りをしていくのか、祈っていかなければと思います。
今回の閣僚の平均年齢は、六〇・七歳で、前閣僚よりも上がっているそうです。日本はこの大臣たちによって骨格が決められていき、会社では社長や部長、専務といった重役たちが方針を決めていくわけです。教会はどうでしょう。もちろん、牧師は指導的な立場にありますが、牧師がすべてを決めるわけではありません。私たちの基はイエス・キリストさまであり、イエスさまを中心に“神の家族”として集められています。そして与えられているそれぞれの役目を果たしていくことによって教会が立て上げられていくと同時に、私たち自身がキリストの弟子となっていくことができると信じています。

今日は礼拝後、敬老の祝福祈祷があります。お年寄りたちはよく「私は教会の席を温めているだけで、何の役に立たないし皆にいつも迷惑をかけて」とおっしゃいます。しかし、そうではありません。年配の方々は早起きです。朝早く起きようとして起きるのか、起きてしまうのかわかりませんが、早く目が覚めるからといって、教会のため、牧師のために朝早くから祈ってくださっている方が多くおられます。「本当に、この人たちの祈りによって教会が守られている、支えられている」と思い、感謝しています。
反対に、こちらに座っている子どもたちも大切です。メッセージを聞いても、ザルに水を通すように何も覚えていないと思いますが、忠実に礼拝に出席することによって主の守りがあります。そして、将来この教会を担っていく者たちとなるのです。私も小さい頃から礼拝に出ていました。いつも居眠りをして、メッセージを聞いていなかったような者ですが、こうしてクリスチャンとして信仰が守られてきました。その当時を思うと、メッセージをされていた明先生に申し訳なかったなと思います。

私たちにはそれぞれの役割、賜物が与えられていると聖書は記しています。
『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。』(ローマ一二章六〜八節)
一人ひとりがその賜物を用いて働き、それが組み合わさり、教会が形成され、キリストの弟子としての働きが進んでいくことを覚えていただきたいと思います。

そして最後に、弟子として一番大切なことは、「いかにして主人を喜ばせるか」です。
私たちがどんなに熱心に祈ったとしても、学んだとしても、私たちの主人であるイエスさまを喜ばせることができなかったら無意味です。たとえば、家族のために、汗水たらして働いているお父さん、仕事から帰ってくるご主人のために食事を整え待っている奥さん、子どものために、体調が悪くても一生懸命頑張るお母さん。親孝行する子どもたち。病気の友だちのために祈る人、困った人に手を差し伸べる人。「だれかのために何かをしてあげたい」と、頑張っている人がいます。自分ために何かをするのは犠牲ではありません。しかし私たちがほかの人のために何かをしようとする時、犠牲が伴います。
ペテロと呼ばれるシモンとアンデレは漁師でした。ある時、湖で網を打っている時、イエスさまは二人に「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられ、彼らは何もかも捨てるという犠牲を払ってイエスさまにつき従ったのです。彼らはイエスさまの近くにいる間、悪霊を追い出し奇跡をなし、多くの人が癒されていくのを目の当たりにし、「この人はすごい、必ずユダヤの王になる人だ。私もいずれは大臣になれるかもしれない」と期待を持つようになったと思います。
しかしある時、イエスさまは弟子たちとオリーブ山に登り、ご自分がいなくなることを告げました。するとペテロはイエスさまに答えて言いました。 
『「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。』(マタイ二六章三三〜三五節)
弟子たちはみな、「あなたを知らないなどどは決して申しません」と言ったにもかかわらず、イエスさまが捕らえられた時どうしたかというと、『弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった』(同五六節)のです。
ペテロは、イエスさまのあとを追って大祭司の中庭までついて行き、何人かの人から「あなたもイエスさまと一緒にいたでしょう」と言われ、『「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた』(同七四節)。するとすぐにイエスさまが言われたように、『鶏が鳴いた』のです。イエスが言われたことを思いだしたペテロは、外に出て行って激しく泣いたと書いてあります。自分の弱さを覚えたわけです。
十二弟子が本当の意味でキリストの弟子となることができたのは、復活のイエスさまに出会ってからだと思います。それまでは、「この人についていったら大丈夫だろう」と思っていたのに、イエスさまが捕まったことで意気消沈していました。しかし彼らは十字架にかかられたイエスさまの姿を見、また、復活されたイエスさまに出会い、再び心燃やされていったのです。そして、ペンテコステの時、聖霊が臨まれ、力を受け、キリストの証人として遣わされていきました。迫害があり様々な問題がありましたが、彼らはそれらを乗り越え、多くの人たちを弟子にしていきました。その時初めて、彼らは本物のキリストの弟子となったのではないかと私は思います。
私たちも、主のために役立ちたいと進み始める時、迫害や、様々な問題が起きることがあります。何かを捨てなければならないこともあるでしょう。そんな時、弱い私たちが自分自身の力でなんとかしようとしても、なかなか乗り越えていくことはできません。しかし、弟子たちが聖霊の力を受けたように、聖霊の力を受けるなら強くされ、勝利を得ることができます。

新城教会では、若者たちが頑張っています。中高生のレツプレでも「どこから来るのかなぁ」と思うほど、大勢の子たちが集まります。また、八月の終わりに行われたザ・コールにおいても、青年たちが神さまのために真剣に奉仕する姿を見て、この教会も祝福されているなと思いました。
また、その光景を見ながら、自分の若い頃を思い出しました。二十五歳で献身をし、数年たった一九九〇年に、プレイズ出版の働きが始まりました。当初は、私と、今もプレイズで働いてくださっている夏目兄の二人で、毎日試行錯誤しながら印刷に明け暮れていました。全くの素人だったので大変でしたが、今思えば懐かしく楽しい時でした。
一九九三年十一月に行われた全日本リバイバル甲子園ミッションの時には、財務・運営を任せられ、その一年半ほど前に西宮にできた準備事務所に、新城で印刷の仕事をしながら、週に何日か甲子園まで出かける生活をしていました。その頃、そこには大勢の人たちが祈りに加わり、また実際的に「神さまのために働きたい。主のために何かしたい」、そう心を動かされた人たちが集まり、その働きが進んでいきました。しかし、準備の段階で「このままで本当に大丈夫なのか。本当にミッションは開催できるのか」と思うような問題や障害も次々と勃発しました。それでも神さまは、見事に主の業を進めてくださり、勝利を得させてくださいました。私は今でもその時のことを鮮明に覚えています。
あの甲子園ミッション本大会の三日間、多くのボランティアスタッフは実際の会場の様子を見ることがありませんでした。ひとりでも多くの方が救われるようにと、裏方として働いた多くの奉仕者たちがいたからこそ、あの働きが祝福されたと思います。
そのように、自分のためではなく、だれかから称賛されるためでもなく、ただただ神さまのために何かしたいと思う時、初めて主の働き人として、主に喜ばれ、神さまの弟子となることができるのではないでしょうか。

今、私たちは日本のリバイバルを祈っていますが、見えるところは中々厳しい状況です。しかし、まだ数パーセントしかいないクリスチャンとして、皆さんが選ばれたということは、ただ自分が天国に行くためだけではなく、神さまは皆さんを弟子として使いたい、そしてそれぞれの賜物を生かして働いてほしいと願っておられます。
最初にお読みしたみ言葉を心に止め、信仰の一致、神のみ子に関する知識の一致に達し、完全に大人になり、キリストの弟子としてこれからも働いていきたいと願います。


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