「世に打ち勝つ者」


2009.9.27(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

第1ヨハネの手紙 4章13〜15節
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日はこうして、皆さんの前でお話ができます事を、心から感謝します。今も素晴らしいバイオリンの演奏を聞かせて頂きましたが、新城教会には色々な賜物を持った方々がおられ、主に仕えている事を心から感謝します。

 今日は花が飾られていますが、ここに花が飾られているという事は、何か特別な行事があったという証拠です。何があったかというと、最近、この地域ではブラジル人教会が多くなってきましたが、昨日はこの場所でブラジル人神学校の卒業式があり、200人以上の方々が来られました。私も参加させて頂きましたが、私達の教会から、イレーネさんとマルセロさんのお二人が卒業されました。
 20年前、たった二人からインターナショナルの働きが始まったのですが、今や本当に大きく成長しています。本当に素晴らしい事を、主が行って下さっている事を、心から感謝します。

 また、今週はゴスペルクワイヤー、「ヘブンリーキングダム」のコンサートが土曜日に開催されます。彼らは素晴らしいコンサートとなるように、毎日、真剣に練習し準備しています。是非とも皆さんご参加ください。土曜日の午後二時から、新城文化会館の小ホールで行われます。新しい方々をお誘い合わせのうえ、お越しいただきたいと思います。私もそこでメッセージを語らせて頂く事になっています。

 秋は、一般でも、運動会があったりと、色々なイベントが多くありますが、教会でも様々なイベントがあります。10月11日には、ロン・ブラウンさんとマキーダさんが来て下さって、「滝元明ミニストリー」と称する集まりがあります。お昼ご飯もついた伝道礼拝です。是非とも、大勢の方をお誘い下さい。また、10月のスケジュールを確認して頂きたいと思います。

 今日は、この地域に、ゴスペルクワイヤーのコンサートと、伝道集会のチラシを配布したいと願っています。是非、皆さんご協力いただきたいと思います。
 また、配布するだけでなく、地域のためにとりなし祈ります。この地域が祝福されるようお祈り下さい。そして、“芋煮会”もあります。楽しみにして参加して頂きたいと思います。

 今は一番よい季節です。暑くもなく、寒くもなく、我が家にデッキがあるのですが、外に出てお茶を飲みながら聖書を読んだりすると、とても気持ちが良いです。先週も、夜、聖書を読みながらデッキで寝てしまい、「寒いな」と思って目覚めると、なんと朝の6時半でした。一晩野宿をしてしまいました。こんな平和な日本に暮らすことが出来て、心から感謝です。

 先々週、お話しをさせて頂きましたが、今、日本に大きな変化が起こっています。この時にこそ、真剣に国のために祈らなければいけないとお話しさせて頂きました。ダニエル書の中から、ダニエルが時代の谷間で、国のために断食して祈ったと話しました。このような時期は、霊的力の入れ替え時期でもあり、特に祈りが必要です。是非とも皆さんも国の未来のために、お祈り頂きたいと思います。日本に平和がずっと続くように、日本の教会がリバイバルされるように祈りましょう。私自身も祈りの必要性を大変強く感じています。
 この頃テレビを見て一番面白い番組は、お笑い番組でも、ドラマでもなく、ニュースです。それも政治がらみのニュースです。毎日のように新しい改革が起こっています。変化するのは良い事ですが、飛び越えて悪い変化につながってしまったら大変です。この時にこそ、私達クリスチャンが真剣に祈らなければならないわけです。何故なら、聖書は、この世は悪魔の支配下にあると告げているからです。

 時々、「神がいたら、何でこんなに不幸な事が多くあるんですか。おかしいじゃないですか」と言う人がいます。それには理由があるのです。この世は悪魔の支配下にあるからです。もちろん全宇宙は神の支配下にあるのですが、この地球に限っては悪魔の支配です。何故なら、はじめの人間、アダムとエバが罪を犯し、悪魔に人類を渡してしまったからです。ゆえにこの地球は、悪魔の支配下にあるのです。そんな環境下に私達は過ごしているわけですから、常に戦いがあるのです。
 しかし、イエス・キリストを信じるとは、暗闇の支配下ではなく、神の支配で生きる事が出来るのです。

 私はよく海外に行くのですが、例えば、韓国に行けば、そこには韓国の支配があります。しかし私が韓国に行っても、韓国人になるわけではなく、そのまま日本の支配がついています。また、アメリカに行くなら、アメリカの支配がそこにありますが、アメリカ人になるわけではなく、日本の支配がそこにあるのです。

 時々国際紛争などがあり、海外に出ている日本国民が危険にさらされる時があります。その時に政府が何をするかというと、日本人を助けるために、専用機を出したりして、日本人を救出します。それは海外にいても、日本人は日本の支配を受けているからです。
 同じように、この世が悪魔と罪の支配下にあっても、私たちは神の支配に生きるのです。ですから神は、神の民に対して最も関心を持っておられます。何かあれば、私達を最優先に助けて下さるのです。

 この頃も、新型インフルエンザなどが流行っていて、「大丈夫かな」と不安があるかもしれません。しかし聖書は、「地を這う生き物を支配できる」とありますから、ウイルスなどに支配されないように、戦って祈らなければいけません。
 今朝、コンピューターのニュースを見たら、うちは新聞をとっていないので、コンピューターで新聞を読むのですが、「東海地震が危険な状況になっている」という情報がありました。特に、東海沖の西方の断層でストレスがたまっていて、危ないというデータが10月の地震学会に発表されるそうです。西の方というのは、浜名湖近所だそうです。私達はその延長線に住んでいますから、危ないかもしれません。でも、私達は神の民として、主の守りを常に宣言しなければいけません。

 今回の選挙で、自民党の長い支配が終わり、民主党に変わりましたが、民主党のためにも真剣に祈らなければいけません。いつも話していますが、私達は“国のために祈る”視点を持たなければいけません。私たちは、「家族が幸せでありますように、病気や事故にあいませんように」という祈りを優先しますが、最も優先すべきは祈りは、国のための祈りだと思います。何故なら、国が安定を欠くと、そこに住む人達は皆、問題に引き込まれるからです。
 60数年前、日本がアメリカに対して戦争を始めたとたん、赤ちゃんまで戦争にまきこまれました。ですから政府のために、真剣に祈らなければいけません。

 先々週、私は北海道に行きました。帰りの飛行機は昼でしたので、それまで何をするか考えていました。北国市場に行って、ホッケか何かを買おうかと考えていました。平岡先生が、「順先生。あそこのホッケがおいしいよ」などと情報をくれました。(彼は前日に帰りました)そこに海産物を買いに行こうと思いましたが、まずは祈りました。「神様、ホッケを買いに行くべきでしょうか。それとも、どこかへとりなしの祈りに行くべきでしょうか」
 すると、「とりなしの祈りに行きなさい。」と語られたような気がしました。それで色々と調べると、鳩山さんの選挙区は北海道ですが、鳩山一族は貴族で、かつて夕張郡栗山という所に、牧場を持っていました。そこはかつて鳩山一族が支配していた為に、鳩山という地名がつきました。そこに、「鳩山神社」という神社があることがわかりました。鳩山さんは、マイ神社を持っているのです。
 私は朝六時にレンタカーでその神社のある場所にまで行ってみました。そこはすでに有名になっていて、「祝・鳩山首相誕生」と、“出世神社”として観光客が来るようです。話を聞くと、「鳩山さんは選挙を始める前には、ここに来て拝んでから始める」と村の人が話していました。
 また、おじいさんの鳩山一郎はフリーメーソンという秘密結社の儀式に感動し、メーソンロッジを自分の家に造りました。“友愛”というスローガンも、実は、フリーメーソンの掲げる標語の一つです。鳩山さんの奥さんについて調べると、彼女は、「自分には霊能力がある」と公言していて、周囲に常に怪しげな霊能者の影がちらつく、オカルト分野への傾倒が強い人だと言われます。昨年も、「私が出会った世にも不思議な体験」という、オカルト対談の本などを出しています。彼らのためにも、祈らなければいけません。

 先日、「ダニエルは21日間断食して、国のために祈りましたから、皆さんも断食して祈りましょう」と言いましたが、皆さんは断食して祈りましたか。私は断食が嫌いですが、今回は断食して祈りました。
 先週は、東京のある教会で奉仕しました。そして、その日の夕方から、日光の近くにある祈祷院の聖会に講師として招かれたので、そこに行くと、「断食祈祷会」でした。山の中で、買い物にも行けない環境で二日間閉じ込められ、一回の集会が三時間くらい続きましたが、三回ほど断食してメッセージを取り次ぎました。大変祝福された聖会となりました。断食が終わるとさっそく、焼肉屋に行って食べましたが。

 私達はクリスチャンとして“世に打ち勝つ者である”という事を、今日は学んでいきたいと思います。私達は世に打ち勝つポジションを、神から与えられてするのです。
 先ほど読んで頂いた、第一ヨハネ5章3節から読んでみます。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 「神を愛する」と言っても、中々つかみどころがないと思います。けれども、神を愛するとは、「神の命令を守ること」だ、というのです。
 人には誰にも“良心”があります。悪い事をしたら、ちくちくと心が痛むのです。世界中どこでも、人間には同じ基準があります。人を殺したら罪、泥棒をしたら罪と、皆、同じ基準があります。それは神が人類に与えたものです。ということは、それらを固く保っていかなければいけません。さらに、聖書には、十戒があります。それらを心にとめることが神を愛する事なのです。そして、愛のなかで律法を守るならば、それは重荷にはならないというのです。

 今度、10月10日に結婚式があります。滝川充彦君と、中村真理さんの結婚式があります。この頃、充彦の服装や髪形も変わってきました。昔は嫌いな服でも、今では喜んで着ているわけです。思い出せば、先ほどここで司会をした四元先生も、昔は服装などあまり考えていない人でしたが、婚約した途端にパリッとしました。彼女を愛しているから服装も変ったと思いました。愛していると、「青い服はいやだ」と言っても、愛する人に、「青い服を着てちょうだい」と言われると、着る様になるのです。しかし、それは苦痛ではないわけです。
 同じように、私達が神様を愛していると、聖書に記されている事柄を守ることは、苦痛ではなくなります。
 時々、「クリスチャンになると、我慢の連続ではありませんか」などという人がいますが、絶対にそんなことはありません。

 さて、4節から見ると、「何故なら、神により生まれたものは皆世に打ち勝つからです。私達の信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神のみ子と信じるものではありませんか」とあります。
 先ほども、「世」が悪魔の支配下にあるとお話しさせて頂きましたが、世に打ち勝つ秘訣は何かというと、「イエスを神のみ子として信じる」とあります。

 どんな世が来てもイエス様を信るならば、世に打ち勝つことが出来るのです。そして、人生の勝利者となるのです。
 誰でも人は、人生の勝利者になりたいと願っていますが、人生の勝利者になりたかったら、「イエスを神のみ子として信じる」事です。これさえあれば勝利者となれるのです。

 「神によって生まれたものは世に勝つからです」に続いて、「私達の信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です」とあります。今日は特に、「私達の信仰」というキーワードで学んでいきたいと思います。
 「信仰」とは、私達が信じる事柄です。何を信じているのか、信じている事柄によって、世に打ち勝つことができるのです。私達はどんな信仰をも持っているのでしょうか。

 第一コリント15章1節〜5節には、私達が信じる中で、最も大切な事柄が何であるかが述べられています。聖書の中には「最も大切」という表現がいくつかありますが、その中でも一番大事な事だと思います。信じるとは何ぞや、ということです。
 1節から5節まで読んでみますと、

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」

 「私達の信仰、これこそ世に打ち勝つ勝利です」と述べられましたが、その最も大切な信仰、すなわち、信じなければならない事柄は、「キリストは聖書の示すとおりに、私達の罪のために死なれた事、葬られた事、また聖書の示すとおりに三日目によみがえられた事、またケパに現れ十二弟子に現れた事です」となっています。

 「私達の信仰」、それが世に打ち勝つ秘訣。その信仰の中心は、「聖書の示すとおりに」、イエス様は私達の罪のために死んで下さったという事です。

 アダムとエバが罪を犯したために何が起こったかというと、人類が悪魔の手に渡ってしまったのです。その罪が消し去られるためには、誰かが、身代わりになって罪を背負ってくれなければ人類は助かりません。それを誰がして下さったかというと、イエス様でした。イエス様が十字架にかかり、私達の罪の身代わりになって死んで出さった事、これは最も大切な事であり、絶対に忘れてはいけません、と教えているわけです。

 教会のシンボルは十字架です。イエス様は私達の罪のために死んで葬られ、何と、三日目によみがえって下さったのです。この事をしっかりと信じていたら、「世に打ち勝つことが出来る、悪魔に勝利する事ができる」と教えています。それは本当に単純な事です。今日もう一度確認したいと思います。「イエス様は、私の罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくれた」「葬られた」、そして、「よみがえって下さった」「今も生きておられる」ということです。

 ここに、「聖書の示すとおりに」という言葉が二回も繰り返されています。それは「旧約聖書」の事を指しています。十字架に関しても、復活に関しても、「旧約聖書の中にすでに預言されて」いました。
 イエス様がこの地上に生まれたのは偶然ではなく、旧約聖書の中にすでに預言されていたことの成就です。私達は、事実の上に事実が重った事柄を信じるのです。

 もしも聖書が、でっちあげの書物ならば、イエス様の十字架も、十字架の意味も、復活も、全て作り話ならば、今日にでも教会を解散した方がいいと思います。なぜならば、そこには絶対に救いはないからです。空想の上に成り立っている事柄を信じるのは、時間の無駄であり、だまし事です。
 近頃は振り込め詐欺が流行っていますが、それにはまことしやかなストーリーがあるのです。もしもそれに引っかかるなら、自分の一番大事な物を盗られるのです。もととなっているストーリーが偽りなのか、真実なのかで、全く結果は変わります。

 そういう意味で、私達が信じていることが事実なのか、そうではないのかをしっかりと確かめなければいけないのです。
 日本人は皆、「私は仏教徒です」と言っていますが、一度、自分たちが寄り掛かっている仏教の教えが真実かどうかを、チェックしなければいけません。よく見なおせば、信じる事が出来る人など誰一人いないはずです。

 原始仏教と今の仏教とは、全く変わっています。そもそも、仏教は初めは原始仏教から始まりましたが、次に小乗仏教に変化しました。小乗仏教とは、一生懸命修行しなければ救われないという教えです。それが次に大乗仏教に変化したのです。修行などしなくても、大きな船に乗せて多くの人を輸送するように、誰でも救われるというのです。すでに小乗仏教と大乗仏教とでは、全然違うわけです。
 そしてそれが日本に入ると、鎌倉仏教ともなればさらに違います。浄土真宗は、「阿弥陀を叫べば救われる」などと、仏教の教えの何処にもない教えになっています。しかし阿弥陀を拝むと霊感を感じるものだから、「これは自分を助けてくれる神さまだ、阿弥陀さんだ」と手を出しますが、それは振り込め詐欺と同じです。味方ではないのです。全部、盗られるのです。

 しかし、キリスト教の教えは、事実に基づいています。「私達の信仰、これこそ世に打ち勝つものだ」とは、「事実に基づいたものです」ということです。特に、「聖書が示すとおりに」とは、旧約聖書の中で、十字架についても、意味についても、「すべて預言されていました」という事を意味します。

 イエス様が生まれる700年ほど前、イザヤという預言者が神の声を聞いて書きとめたのが「イザヤ書」です。その53章1節〜6節、

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

 「彼」とは誰でしょうか。それは、イエス様の事です。5節、「しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
 私達のすべての咎を負って下さった、「彼」が、イエス様です。十字架の場面、目的さえもイザヤは神から聞いて記したわけです。イエス様が十字架にかかって死んでよみがえったのは、ローマ時代にイスラエルで起こった事件であり、歴史的な事実です。しかしそれらは偶然に起こった事ではなく、「聖書が示すとおりに」起こったことなのです。

 イエス様が私達の罪の身代わりとなって死んだ、よみがえったのは、事実なのです。という事は、“私達の信じる信仰”それがこの世に打ち勝った、とありますが、それは信じるに値するべき事なのです。私達のために、神がひとり子をこの地上に送って下さったのです。何と大きな愛ではないでしょうか。ですから、教会に来て十字架を見たら、「イエス様が私の罪の身代わりとなって死んでくれた」という事を、思い出さなければいけません。これを信じる信仰が、「あなたを世に打ち勝たせる」のです。

 また、十字架によって、「私達の病、痛みをも担って下さった」とあります。今日病を持っている方がいたら、心の痛みがあったら、イエス様の十字架はあなたの病も、心の痛みさえも、身代わりとなってくれたのです。それは事実です。
 なぜ、問題をもって教会に来て解決があるのか、それは、十字架の事実に基づいているからです。イエス様が十字架にかかる時、私達の病も、痛みも全て背負ってくれたから、その根拠があるがゆえに、癒しも、解放も起こるのです。教会に来て先に奇跡を体験する人が多いです。そして、「イエス様の十字架は本物だった」と気付く人が多いです。なぜなら、イエス様が私達の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んで、よみがえって下さったという事実があるからです。それがなければ奇跡はおきないのです。その事実がある故に、奇跡を体験出来るのです。

 先ほども言いましたように、私達は罪によって、悪魔の手に渡ってしまったのです。人類が罪を犯した故に、初めの人間、アダムとエバが罪を犯した故にです。しかし、蛇が、「罪を犯しなさい」とけしかけたのです。
 時々私達も、色々な誘惑があります。「この罪を犯せ。楽しいぞ。もっと世の中に目を向けて楽しまなきゃ」と、そのような誘惑がありますが、決してその声に耳を傾けてはいけません。アダムとエバはサタンの誘惑を受け、自ら罪に手を出してしまったのです。善悪を知る木の実をとって食べてしまったのです。その結果何が起こったかというと、神に対して罪を犯し、同時に、悪魔の支配に陥ってしまったのです。
 罪とは、私達を悪魔の支配下に置いてしまうものです。しかしイエス様は、それを助けるために、私達の咎を担って下さったわけです。第一ヨハネの2章15節から、この様に勧めています。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」

 世に引っ張られる力が強い時代に生きていますが、それらに立ち向かわなければいけません。世の中に引っ張られ、自分の欲望のままに生きていくと、どうなるかというと、悪魔の支配下に陥ってしまいます。
 しかし、イエス様が私達の罪の身代わりとなって、十字架にかかって下さったことにより、罪赦され、十字架の贖いによってきよめられる事が出来るのです。

 使徒の働き26章17節〜18節で救いについて、

「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」

 救いとは何か、それは、「暗闇から光、サタンの支配下から、神の支配下に移されること」です。イエス様の十字架の贖いという事実に基づいて、私達は、サタンの支配下から神の支配下に移されるのです。この信仰ゆえに、私達は世に勝つことが出来るのです。

 今、私達は素晴らしい時代に生きています。なぜなら、イエス様の十字架の贖いが完成した後の時代に生きているからです。ゆえに、私達はイエス様の十字架の恵みを仰ぐことが出来、罪も赦されるのです。そして、世に打ち勝つ権威を主から与えられている事を感謝しなければいけないのです。

 イエス様がお生まれになる以前、旧約の時代にもすでに神様はおられましたから、唯一の神を慕い求める事によって、神と交わることが出来ました。しかし、十字架の贖いが完成していなかったゆえに、困難があった事も見受けられます。
 私達は旧約聖書を読む時にも、常に、イエス様の十字架の勝利を心にとめて読むべきです。そうでなければ、怖くなってしまう時もあります。例えば、ヨブ記を読んで会社に行くとちょっと怖いです。ヨブ記1章1節

「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」

 “彼は潔白で正しく神を恐れ、悪から遠ざかっていた”と、模範的な神を愛していた人物だったのです。しかしここを見ると、信仰が豊かで、神に近いヨブでしたが、彼がまったく知らない内に、天で彼の事が話題になっていたのです。ヨブ記2章1節〜2節、

「ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

 1章と2章を続けて読むと分かりますが、ヨブの事が天で話題になっていたのです。そして、ヨブがまったく知らない内に、サタンはヨブを攻撃する“許可書”を神からもらっていたのです。そしてその後何が起こったかというと、ヨブは全ての財産を失い、子供達全員を亡くすような悲惨な目に会っているのです。そしてその事が起こった背景に、サタンが関わっていたのです。それも、普段私達が見聞きしているような、犯罪に巻き込まれたり、自然災害であったりして、持っていた大切な持ち物をすべて失ったのです。しかしなんと、その背後に、サタンが暗躍していた事が分かります。
 2章6節〜8節を見ると、

「主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。」

 病には色々な原因がありますが、霊的な原因もあるようです。サタンが神から許可証を得て、ある意味、合法的にサタンはヨブに関わり、ヨブは大病を患ったのです。
 こうして見ると、私達が人生の中で体験する様々な問題も、ただ単なる偶然ではなく、霊的な理由もあることがわかります。そして、何よりも怖いのは、ヨブが信仰的にも素晴らしい人物だったのに、彼が全く知らないうちに、そんな会話が天でなされていたと言うことです。その結果、サタンの訴えが通ってしまい、許可証が発行され、サタンはヨブに関わったという恐ろしい事実です。

 しかし皆さん、イエス様の十字架と復活は何をもたらしたのか。それは、「この世に打ち勝つ権威を与えられた」のです。
 ヨブ記を読む時にも、新約聖書の立場で読まなければいけません。今、私達は世に打ち勝つ者として、イエス様の十字架の勝利があることを知らなければいけません。
 私達はイエス様の十字架と復活により、どのような権威が与えられたのでしょうか。それに関して、コロサイ書の手紙2章12節〜15節がわかりやすく告げています。
 新城教会では、洗礼の時に、必ずこのみ言葉を宣言する事にしています。

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

 イエス様は、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と語られました。バプテスマは重要であり、単なる儀式ではなく神秘です。それが何を与えるのかというと、イエス様の十字架と復活を瞬間的にたどり、イエス様が十字架の上で勝ち取った権威を共有するのです。

 その中身は、「すべての罪が赦される」とあります。しかし、そればかりではなく、「私達を責め立てている債務証書を無効にする」というのです。
 サタンは神の前から債務証書、許可証をもらってヨブを色々な問題で苦しめました。最後には、病という剣でヨブを攻撃したのです。旧約時代には債務証書が有効でしたが、“イエス様の十字架と復活”により、何と、「私達を責め立てる債務証書が無効にされた」というのです。
 という事は、サタンは私達を見えない世界において、勝手に訴えることは出来なくなったのです。これは重要な事です。
 そしてその次に書かれているのが、「すべての支配と権威の武装が解除された」という約束です。
 すべての支配と権威、すなわち、サタンとその組織、悪霊どもが持っていた武器が武装解除された、これは武器で私達を攻撃出来なくなったことを意味します。
 ヨブの時代は、色々な武器で攻撃されましたが、イエス様の十字架と復活によって、武器はもぎ取られ、「彼ら」、すなわち、「すべての支配と権威」が、「捕虜となる」、悪魔の軍団が、二度と立ち上がれないように、捕虜とされたのです。私たちに完全勝利を与えて下さったのです。

 イエス・キリストを信じるとは、素晴らしい領域を含んでいるのです。そして、信じてバプテスマを受けるとは重要です。まだバプテスマを受けていない方は是非、バプテスマを受けて下さい。この権威を共有する事が出来るわけですから、一切の権威をもらって生きる事になるわけです。

また、エペソ書2章1節〜6節、

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

 イエス様の十字架を中心軸として、私達はイエス様と共によみがえり、「共に天の所に座った」というのです。バプテスマを受けるとは、イエス様のよみがえりと同じポジション、天の所に座らせて下さるのです。
 それは何を意味するのか、ヨブの場合のように、私達の知らない所でサタンは勝手に訴えることは出来ないことを意味します。何と素晴らしい権威を私達に与えて下さったのでしょうか。その中心に、十字架の勝利があるのです。

 「私達の信仰、それが世に打ち勝たせるものである」、その中心に、十字架がある事を忘れてはなりません。
 今日ここにおられる、お一人お一人は、世に打ち勝つ者です。このようなポジションをもらった者達は、この世のために祈らなければいけません。
 ある意味、時代はクリスチャンの手にゆだねられていると言っても過言ではありません。今の時代、クリスチャンが、十字架の勝利を受け取って、この世に出ていく時、世は変えられるのです。地が神の支配に委ねられていくと信じます。

 今日も私達は、イエス様と共によみがえり、共に天の所に座っているという、エペソ書のみ言葉を信じ、世に打ち勝った者として歩んでいきたいと願います。
 最後に、イエス様の十字架を心から感謝するとともに、世に打ち勝っている事を確認し、聖餐式を行いたいと思います。一言、お祈りします。


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