「主はすべての災いから、あなたを守られます!」


2009.10.4(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

詩篇121編
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日も、こうして皆さんの前で語らせて頂ける特権を心から、感謝しています。
 昨日は、ヘブンリーキングダムの10周年コンサートがあり、大変祝福されました。400人のキャパ一杯の方々が来られました。メンバーの方々が頑張って、前々から準備し、練習されて、すばらしいコンサートでした。来られなかった方々のために、昨日の映像を少し用意しましたので、今からお見せしたいと思います。
 私はコンサートの中で、とても気に入った曲がありました。それは最後に歌われた、「We are marching」という曲です。それは、「この街を勝ち取りましょう」という歌でした。まさしく、この教会に与えられた使命の歌で、とても恵まれました。ティム・ケプラーさんも来られて、一緒に歌い、やはりすごい迫力だなと思いました。今からその、「We are marching」を皆さんにお見せしたいと思います。ヘブンリーキングダムの方々に、お疲れさまでしたと言う意味も込めて、大きな拍手を送りましょう。ハレルヤ!

 本当に、街を主にあって勝ち取りたいですね。そう思われないでしょうか(アーメン)。
 私達クリスチャンは街を勝ち取るために、主から選ばれた者たちです。主のために、悪魔の手から街を勝ち取るのです。そのような素晴らしい権威が与えられています。
 教会には様々な働きがありますが、それは一つに集約されます。それが“宣教”であり、悪魔の手から街を勝ち取る働きです。

 今週は本当に私達にとって忙しい週であり、重なる時には色々重なりまして、是非とも祈って頂きたいと思います。神学校もありますし、ハワイから冬木先生が来られて水曜日にメッセージを語って下さいます。また、土曜日にはお知らせしているように、結婚式があり、ジョー先生がこられます。ジョー先生はヤキマに住んでおられますが、滝川くんが二年間お世話になって、真理さんとそこで出会いました。
 私が二年前にヤキマに行った時、彼は断食して祈っていました。リバイバルのために断食しているのかと思ったら、そうではなく、真理さんをゲットするためでした。その祈りのかいあってか、ついに結婚する事になったわけです。

 そして来週の日曜日には、「滝元明ミニストリー」で、ロン・ブラウンさんとマキーダさんが来て下さり、コンサート風礼拝が開かれます。ぜひとも多くの方をお連れ頂きたいと願っています。色々ありますが、それらはすべて、「主のために国を勝ち取る」働きです。信じて進んで行きたいと願っています。

 先週、私はここでメッセージを語らせて頂き、「世に打ち勝つ者」という題で、話させて頂きました。主が一人一人に権威を与え、世に遣わして下さっているのです。
 同時に、神様は私達を守って下さるお方です。今日は特に、「神の守り」という事について学んでいきたいと思います。先ほど、詩篇の121編を読んで頂きましたが、その中から「主は全ての災いから、あなたを守られます」という題をつけさせて頂きました。
 今の時代は主の守りがなければ、生きる事が出来ない時代です。

 あるホームページを見たら、「この三十年以内に起こる確率」というのが出ていました。30年と言うのは一世代です。30年くらいで、次の世代が生まれますから、都市計画なども大体、30年のスパンで考えるそうです。皆さんの向こう30年以内に起こるかもしれない事柄の確率として、こんな記事が載っていました。(これは統計・確率のことで、根拠はわかりませんから、あまり信用しないで頂きたいと思います)

 「交通事故で死ぬ確率は0.2%」だそうです。しかし「交通事故で負傷する確率は24%」だそうです。また、「航空機事故で死ぬ確率」は結構低く、0.002%です。
 中華航空が名古屋空港で落ちた日、次の飛行機は函館からきたもので、その上が私の乗っていた沖縄便でした。名古屋に飛行機が降りるかと思ったら、「大阪に行きます」というので、「何だ、仕方ないな」と思っていると、「名古屋空港の滑走路で事故が起きました」とアナウンスされました。私は滑走路で飛行機がエンストでも起こしたのかなと思っていたら、そうではなく、名古屋で中華航空の飛行機が落ちたのです。それは丁度私の到着時刻で、私の娘はその時にテレビを見ていて、私の乗った飛行機が落ちたと思い、大変焦ったそうです。私の家内はその時に空港にいました。

 「火災で死ぬ確率は0.24%」「台風で負傷する確率が1.9%」「台風で死ぬ確率が0.007%」「がんで死ぬ確率は、6.8%」だそうです。そして、「心臓疾患で死ぬ確率3.4%」、「肺炎で死ぬ確率2%」、「自殺が0.75%」「殺人で死ぬ確率が0.03%」だそうです。

 しかし、皆さん、この30年で、最も高い確率で起こるであろう事件が何かご存じでしょうか。それは「地震」です。「東南海地震が起こる確率は60%」です。「南海地震がおこる確率が50%」、そして、「東京の首都直下型地震が起こる確率は70%」です。
 そしてその中でも、最も高い確率が、「東海地震の起こる確率」です。なんと、「87%」です。
 皆さん、私達はどこに住んでいるでしょうか。東海地方ですね。何でこんな所に教会を建ててしまったんだ・・・。しかし、日本はどこでも危ないのです。癌になって死ぬ確率は6.8%ですが、東海地震が起こる確率は87%です。実に怖いではないでしょうか。
 
 先週の9月27日のニュースですが、「東海地震の予想震源域である静岡県西部で、一昨年以降、プレート同士が強く固着しているアスペリティーにひずみが溜まり、過去30年で最も巨大地震が起こりやすくなっている事が、26日、防災科学技術研究所によってわかった。震源域のプレート境界の前例のない、異常が起きている事を示した内容で注目される。研究成果は10月に京都で開かれる、日本地震学会で発表する」となっています。
 30年の中でも現在が最も危ないらしいのです。この建物は1980年に出来たのですが、もしかして危ないかもしれません。ここにあるスピーカーは、一つが百数十キロあるので、上と下で300キロくらいありますから、落ちてきたら一発で死ぬと思います。でも、後ろにワイヤーで固定していますから、心配しないでください。

 いずれにしても本当に、いつ何時何が起こるのかわかりません。冗談なしに危ない時代に生きています。本当に神の守りが必要です。皆さん、今日は神の守りをしっかりと受け取って、帰って頂きたいと思います。

 昨日も「TOTAL PRAISE」という賛美が歌われました。先ほどのザワメキの曲でも「主はあなたを守り」の内容も、詩篇121編です。もう一度、声に出して皆さんでご一緒に守りの武具を頂く気持で、読んでみたいと思います。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 素晴らしいみ言葉です。特に、7節のみ言葉を信じて、もう一度声に出して隣の方の目を見て、宣言してあげて下さい。「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」アーメン!

 このみ言葉が、全員に実現しますように。先ほども申し上げたように、危険が迫っている時代に住んでいますが、「主はすべての災いからあなたを守り、あなたの命を守られる」とありますから、このみ言葉を固く信じましょう。
 実は、121編には「あなたを守る」という言葉が6回使われています。以前にもここからメッセージをしたことあるのですが、6という数字は“人間の数字”と言われます。なぜなら、神は6日間かけて天地を創られ、7日目に休まれました。「6日間は働いてもよい。7日目は休みなさい」と言われました。6日間は私達に与えられました。6という数字は、ある意味“人”を表わしています。そして7は完全数であり、神を表す数字です。ここで6回「守る」という言葉が使われているのは、ある意味、神様が私達を守って下さるけれど、私達も注意深くなければならないという、人間側の責任も含んでいるのです。「神様が守ってくれるから大丈夫!」といって、一般道を120キロで飛ばしたら、当然、すぐに交通事故に遭います。やはり自分達でも注意しなければいけません。地震が近づいていると言っても、何の備えもしていなければ、対応できないのです。

 1995年に阪神大震災がありましたが、あの頃は甲子園ミッションが終わった後で、ミッションの女性スタッフが関西に住んでいました。ある時彼女の引っ越しを、男性スタッフたちが手伝いました。その女性は大きなタンスを持っていましたが、男性スタッフが、「このタンスを固定した方がいいんじゃないの」と言ったそうです。すると、その女性は、「固定しなくても大丈夫よ」と答えたそうです。
 しかし男性スタッフ達は、わざわざタンスが動かないように固定したそうです。そしてしばらくして阪神大震災が起こりました。彼女はそのタンスの前で寝ていたのです。固定していたからよかったものの、そうでなければ下敷きになって死んでいたと言いました。「大丈夫!」と言っても、大丈夫ではなかったわけです。

 皆さんも、注意はしなければいけません。神様は守ってくれますが、私達にまかせられている領域においては、注意深い行動をしなければいけないのです。教会には様々な交通機関で来られていると思いますが、ぜひ、気をつけて来て頂きたいと思います。それと共に、地震対策も、ちゃんとしておくことが必要です。人間側の万全な守りのアイテムを使いながら、同時に、神の守りがあれば完璧です。

 また、聖書には、守りの法則がありますから、神の法則を心に留めなさいと語っています。私達が守られるためには、こちら側の責任があると申しましたが、聖書に記されている「守り」のみ言葉を受け取ることが重要です。「このようにしたら守られますよ」という神様から出されている条件を、我々が守ることも要求されるわけです。

 まず第一にどのような条件があるのかというと、詩篇119編105編に、「あなたのみ言葉は私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。

 皆さんも、夜、ウォーキングしたりすることがあると思いますが、夜はフラッシュライトを持って出かけるほうがよいと思います。何があるかわかりませんから。しかしフラッシュライトは一キロ先を照らすことはできません。ただ、足もとしか照らせませんが、それで十分です。一足を出す時に、穴や危険物がなければよいわけです。フラッシュライトがあれば足もとが照らされ、危険から守られるのです。
 聖書のみことばは、遠く、永遠の世界や世の終りも照らしますが、重要なのは「足のともしび、道の光」だというのです。み言葉を読んでいると、どのように足を踏み出したらよいのか、その一歩を教えて下さるのです。朝、学校に行く前、また、仕事場に行く前に、み言葉を開いて、主の前に祈るなら、あなたの足を守ると教えています。
 現代社会は本当に危険な社会で、何が正しいのか、何が間違っているのかわからない時代です。しかし、み言葉が足元を照らしてくれるのです。同じ119編9節〜11節に、こんな言葉があります。特に若い方々によく聞いて頂きたいですが、自分は若いと思う方は(長谷川のおじいちゃん[95才]もご一緒に)読んでください。

 「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」

 色々な災いや問題の根源に、霊的問題があり、その原因となっているのが「罪」です。現代社会が何故混乱しているのかと言うと、人が犯した罪が原因となっています。それは皆さんも感じておられると思います。罪から守られるというのは、とても重要なテーマです。しかし現代社会は、「何が正しくて、何が悪いのか」という基準がありませんから、「皆がやっていれば、自分もやってよい」となってしまうわけです。
 しかし、聖書は永遠に変わらない基準ですから、聖書のみ言葉が心の中にあれば、心にブレーキがかかるのです。私も今までクリスチャンをやってくる事が出来たのは、幼い時から聖書のみ言葉を聞いたからだと思います。それが、罪に対するブレーキとなったのです。聖書の中に、「盗んではならない」という言葉があります。それをしっかりと神の言葉として受け取っていたら、「万引きしようかな」という時に、神の声が聞こえ、やめます。
 また、汚れた場面で、悪い事をしよう思う時、「姦淫してはならない」というみ言葉が入っていたらどうでしょうか。ブレーキがかかります。聖書のみことばをちゃんと心にたくわえなければならないのです。み言葉による守りをしっかりと身につけなければなりません。

 続いて、この121編は、始めは「私は山に向かって目を上げる」と「一人称」で始まるのですが、途中から、「あなた」と「二人称」に変わります。「私」がいつの間にか、「あなた」に変わるのは、どういうことかなと思いますが、何を表わしているかというと、まず自分が主の守りを体験し、「あなた」と隣の人にも宣言する信仰の現れではないでしょうか。と言う事は、自らの信仰告白であり、さらに、信仰継承を表わしていると思います。
 この教会は感謝なことに、私の両親がこの地域に入ってきて今年で、60年くらいたつわけです。しかし、「60周年記念」などは、しない方がよいと思います。それは“輪廻”を表す数字だからです。
 私達の教会で素晴らしいのは60年間信仰を持った人、50年くらいこの教会で過ごしている人、40年、30年、20年、10年、そして、昨日救われた人というような、バラエティがある事です。60年のビンテージもののような方もおられますし、昨年救われた、昨日イエス様を信じた、というような色々な方がおられるわけです。それで、クリスチャン生活が60年たてばどういう風になるのか、予測がつきます。この教会に来て、長く教会に集われている方々の生活を見れば、「クリスチャンって素晴らしいな」と思います。信仰が継承されているからです。
 今、私達の教会では、クリスチャンが4世まで出現しています。4世代にわたって信仰が継承されたのは、素晴らしい事だと思います。どんどん継承しなければいけません。ですから、ここにいる子供達は大きな使命を持っています。信仰継承を諦めたらいけないです。子供達が信仰を受け取り、“自分の信仰”とし、また“あなたの信仰”となるのです。世代を超えて信仰継承がなされる時に、主の守りの結束がさらに強くなるのです。教会に守りの力がさらに注がれるのです。

 三番目に、出エジプト17章10節〜13節に、出エジプトをしたイスラエルが、アマレクと戦った時の様子が記されています。

 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

 これはイスラエルの軍隊と、アマレクの軍隊との実際の戦争の場面です。その時にモーセは戦争の様子を山頂から見ていました。そのうち、モーセが両手をあげて祈り始めました。何のためかというと、「イスラエルが勝つように」と祈り始めたのです。しばらくすると、モーセは疲れて手を下げました。すると、イスラエルの形勢が悪くなり、アマレクが優勢になりイスラエルが負け始めました。
 モーセは少し休んでまた、「主よ、助けて下さい」と手を上げると、今度はイスラエルが強くなり、アマレクが負け始めました。また疲れて、手を降ろすとアマレクが優勢になりました。初めはその様子を、アロンとフルも偶然のことのように眺めていたと思います。「あれ、今はイスラエルが勝っている。あっ、負けた…」「あ、モーセが手を上げた。」「イスラエルが優勢だ。」「手を下ろした。」「負けている…」
 そして、「手の上げ下げと、戦いに関連性があるんじゃないのか!?」と気付きました。それでどうしたかというと、モーセの所に石を持ってきて、「モーセさん、この石に座って下さい」と言って座らせ、モーセの両手が下がらないように、アロンとフルが支えたわけです。それで、イスラエルはアマレクとの戦いに勝利したというのです。

 ここは本当に重要な情報を私達に提供していると思います。戦争というのは、目に見える現実の戦いですから、持っている武器とか、兵士達の体力とか勇気、そして、作戦などに左右されるはずです。
 しかし、祈りによって見えない世界で勝利している時、現実の戦いも勝利し、祈りの世界で負ける時に、現実も負けていたというのです。

 これは、見えない世界と見える世界が、表裏一体であることを表わしています。それと共に、一人の祈りではなかなか勝利できない戦いも、アロンとフルという側近が支えた事によって勝利したという事実です。祈りの法則をここから学ぶことができます。

 守りと勝利のためには「祈りが必要」だという事です。そして、見える世界だけで勝利をとろうとしても、見えない世界で勝利しない限り難しいことを、教えているのだと思うのです。

 今日は午後からセミナーと祈りの時を持ちたいと思いますが、三週間前にここでお話しさせて頂きましたが、今、日本はとても重要な時期です。毎日政治が変化するので、ニュースを見るのが大変面白いです。それは見える世界の変化のように私達はとらえますが、実は、見えない世界で何らかの変化が起こっている証拠です。
 という事は、この時期にこそ、私達クリスチャンが祈りの手を上げないといけません。特に、今回の一番大きなテーマが、「官僚制、官僚依存からの脱却」と言われています。長い日本の歴史が変わろうとしていますが、その背後の霊的問題について前回、お話しさせて頂きました。もう一度その事を皆さんと共に確認し、日本のために祈りたいと思います。ぜひ、午後のセミナーにも出て、一緒に祈って頂きたいと思います。見える世界と見えない世界はつながっていて、自分一人の祈りでは勝利できないことでも、キリストの体のとりなしの祈りにより、お互いに支えあい、勝利することができるのです。
 教会に来て持たなければならないのは、祈りの友です。是非とも、お互いにとりなし祈り合う仲間となって頂きたいと思います。ただ単に集まるのではなく、お互いにとりなし祈り合うならば、互いの戦いに勝利できますし、守られるという法則をみ言葉から学ぶことが出来ます。
 エペソ6章18節にこう書かれています。

 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

 これを訳しなおせば、「すべての時に、聖霊によって祈れ」という意味です。その「すべての時」とは“カイロス、すなわち、神の特定の時”です。いつも祈れと言われても、そんな事はできないけれど、聖霊によって“カイロス”神の時をつかむのです。キリストの体の中に、「このことを祈りなさい」というテーマを投げ込んで下さいます。それをキャッチして祈るなら、勝利するのです。そうしたら、全ての聖徒、クリスチャンが守られると教えています。み霊によって祈るということは、大変重要です。

 教会はだれがリードして下さるのかというと、「イエス様」です。私は「牧師」という名前があまり好きではありません。なぜなら、私がリードしているかのように誤解されるからです。決してそうではありません。詩篇23編、これも守りのために大変重要なみ言葉ですから、読んでみたいと思います。

 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

 「主は私の羊飼い、私は乏しい事がありません」とあります。聖書は私達クリスチャンを「羊」または「羊の群れ」と表現し、イエス様が羊飼いという構図で描いています。我々は羊であり、イエス様が羊飼いなのです。そして、イエス様が牧者、羊飼いとなってくれているなら、決して乏しい事はないと告げています。これは大きな励ましのみ言葉だと思います。

 時々私達は乏しさを感じる事があります。しかし主が、羊飼いであるならば、決して乏しい事がないと約束しています。何と、「敵の前であなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いで下さいます。私の杯はあふれています」と約束しています。
 目の上のたんこぶのような“この問題さえ無くなれば、この敵がいなくなれば私は平安になるのに“と、時々思います。先ほども、「私は山に向かって目を上げる」と読みましたが、いつも目の前に問題の山があり、「何とかならないものか…。早くこの山を取り去って下さい…」と祈ることがあります。
 しかし、神の法則は少し違います。何と、敵はそのままにしておいて、敵の目の前で食事を整え、油注いで下さるというのです。敵は依然として目の前にいるのですが、敵の面前でも食事が整えられるのです。普通、敵が面前にいればどうでしょうか。食欲がなくなって、何もやる気がなくなるのではないでしょうか。

 昨日はコンサートがありましたが、コンサートを目の前にして、出演する子供達が、「ああ、緊張する」と言うので、「お前達でも緊張するの」と言うと、「緊張するよ」と言っていました。問題や、重要な事があれば食欲がなくなります。ましてや敵がいれば、意気消沈し、宴会などもってのほかです。
 しかし、主が共におられ、牧者ならば、敵が目の前にいようとも、宴会が出来るようになるのです。
 「油注がれる」とは、何を意味するのかというと、始めは敵に抑えられている状況が、聖霊の油注ぎにより、だんだん敵よりも強くなり、最後には、目の前の敵を見降ろすようになるのです。そこまで私達を力づけて下さり、守って下さるお方なのです。そのための条件が、「主が私の牧者である」ことが重要です。
 それと共に、こんな聖書のみことばがあります。
へブル人への手紙13章17節

 「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです」。

 先ほども言いましたように、私はあまり牧師という言葉が好きではありません。何故ならば、私がリードするようなイメージを受けるからです。あくまでも教会の牧者は、イエス様です。しかし、教会には牧師がいたり、副牧師がいたり、スタッフ達がいて運営されるわけです。
 「牧師などいらない、スタッフなどいらない」という考えもあり、そのようなグループもあります。しかし、聖書では指導者という立場を認めています。しかしそれは、別に人を権威的に指導するという意味ではありません、そういうポジションと役割があることを教えています。

 牧師、副牧師、伝道者、スタッフたちが、どういう役割かについて、ここで教えています。実は、「あなたがたの指導者の言う事を聞き、また服従しなさい」の「服従」とは何でしょうか。「服従」というと、何か「圧力をかけられる」イメージがあるのですが、違います。「従う」という意味よりもむしろ、「信頼する、確信を持つ、信じる」という、お互いの信頼関係を前提としている言葉です。

 教会で働かせて頂いている者達の役割は何かというと、「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたの魂のために見張りをしているのです」とありますが、「見張り人」という役割です。
 私達はある意味、皆さんから信頼していただき、皆さんのために見張りをする係です。また、「見張り」とは、「眠らない」という意味もあります。さらに、「いつも用意が出来ている」という意味もあります。

 前にもお話しした事がありますが、イスラエルでは羊の群れと羊飼いを実際に見る事が出来ます。私はこれまでにイスラエルに9回くらい行きましたが、この頃は行っていないので、また行きたいと願っています。この頃少し安定してきたようなので、またリバイバルミッション・ツアーをやりたいと話し合っています。来年あたり、もしかして、できるかもしれませんので、計画がありましたら是非とも、参加して頂きたいと思います。そうすると、聖書の詩篇23編などもよくわかります。聖書の記者がどのような光景を目にしながら、描いたのかが、やはり現地に行くとよく分かります。
 「主は私の羊飼い、私は乏しいことがない」という場面もよく分かります。何百匹もの羊が、一人の羊飼いの方向についていくのです。そして、その方向に、牧草地があるのです。羊は何も考えず、ただ、信頼してついて行くだけなのですが、それで牧草にあずかります。
 イエス様と私達の関係もそうです。イエス様が行かれる方向について行けば、牧草にあずかり、乏しい事はないのです。
 ある時、私は何故ひとりの羊飼いに、羊が群れをなしてついて行くのか不思議に思い、ガイドさんに聞きました。するとガイドさんが、「よく見て下さい、羊飼いは牧羊犬を持っていて、牧羊犬が群れがばらばらにならないように、見張り、まとめているのです。」と言いました。
 よく見ると、何匹も犬が群れの周りを走り回っていて、中には群れから外れた羊がいるのですが、牧羊犬が追いかけ、群れに戻すのです。

 そして、「牧羊犬をよく見てください。特に、耳を見て下さい」と言いました。犬は普通耳は三角形ですが、その頂上部分が切り取られ、台形になっていました。
 「何で、そんな可哀そうな事をするんですか?」と聞くと、「それは夜、牧羊犬達を深く眠らせないためです」と言うのです。

 砂漠気候は昼はとても暑く、逆に夜は大変寒くなります。それで、耳をカットされていると、犬はあまりにも寒いので傷口が痛み、熟睡できないそうです。狼や豹のような猛獣がこっそりと群れに忍び込み、羊を襲いに来た時、牧羊犬は熟睡していないので、夜中でも獣の匂いに気づき、すぐに飛び起き、獣に飛びつき敵を倒すのです。だから羊が守られるというのです。それは砂漠に生きる羊飼いたちの知恵です。

 牧師や伝道者、スタッフは番犬のような役割だと私は思っています。是非とも私達が眠り込む事がないように、祈って頂きたいのです。
 教会に、牧羊犬のような役目を持った人たちが機能する時、全体が守られるのです。私も本当にその事をいつも祈っています。皆さんの守りのために、眠り込むことがないように、悪魔の策略を事前に察知して、打ち砕くことが出来るなら、群れは守られるわけです。ですから、私達のために是非とも祈って頂きたいと思います。皆さんとの信頼関係の中で、喜んで仕事ができるように祈って下さい。

 先日、東京のある教会に奉仕に行ったら、他教会の牧師が来られていました。ちょっと元気のない顔で、一番後ろに座っていました。
 「今日はご自分の教会の礼拝はないのですか」と聞くと、別の方が、「先生、この方のために祈ってあげて下さい。この先生は燃え尽き症候群なんです。教会の仕事があまりにも大変で、燃え尽きてしまったのです。それでうつ病になって、今は自分の教会を離れてこの教会に出席しています。」と言われました。
 私はその方のためにお祈りさせて頂きましたが、教会の働きは霊的な働きですから、霊的戦いがわからないと、やがて燃え尽きるわけです。

 感謝な事に、私達は皆さんに愛していただき、祈って頂いていますから、燃え尽きることなく、さらに燃えて喜んで奉仕しています。神様は教会を与えて、「あなた方の指導者たちの言う事を聞き、また服従しなさい」と言われていますが、信頼関係の中で、教会で働かせて頂く者達は、「見張り人として眠らない」また「いつも用意が出来ている」という、牧羊犬のような働きが出来るように、是非とも祈って頂きたいと思います。

 続いて学びたいと思うのですが、実は、詩篇91編は守りのために大変重要なみ言葉です。ぜひ、この時代、皆さんの権威の宣言として読んで頂きたいと思います。

 「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」

 素晴らしいみ言葉ではないでしょうか。「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない」とあります。
 この頃は新型インフルエンザなどが流行っていて、「どうしよう、教会に行くのもやめようか」など言う人もいるかもしれませんが、皆さんあまり心配しないでください。
 アメリカの教会では、「いくら新型インフルエンザが蔓延しても、礼拝はやめない」と決議したそうです。私達も恐れてはいけません。神が私達を守って下さるのですから。しかし出来る限り、自分でも注意しなければならないと思います。「災いはあなたにふりかからず、えやみもあなたの天幕に近づかない」とありますから、このみ言葉をキャッチし、信じようではありませんか。

 特にこの11節のみ言葉、「まことに主はあなたのためにみ使い達に命じてすべての道であなたを守る様にされる」
 ここで、「守り」が天のみ使いによってなされると教えています。

 私達は案外、悪魔、悪霊たちを気にしますが、それ以上に、天の軍勢を気にしなければいけません。聖書を見ると、天の軍勢のほうがずっと多くて力強いです。私達クリスチャンは、み使いをも裁くことができると聖書は告げていますから、天のみ使いというのは我々に仕えるために遣わされているのです。
 この教会に霊的戦いが始まった日に、「み使いについて意識しなさい。主がみ使いを送って、あなたの戦いを助けます。勝利を与えます」と語って下さいました。私はそれまで、天使については、あまりよいイメージがありませんでした。
 私は森永キャラメルが好きで、よく買って食べますが、ラベルには、裸のちょろちょろと花の周りをまわるような、弱々しい天使が付いています。クリスマスの時だけ、どこからともなく現れるような、うさんくさい存在だと思っていました。しかし本来天使は、そうではありません。彼らは戦いの勇士たちなのです。悪魔・悪霊どもをぶっ潰すのも、天使の役割です。何と、主があなたに、強い、天の軍勢を遣わして下さるというのです。

 イエス様が十字架につかれる前、「今すぐにでも12レギオンのみ使い達を配備する事が出来る」と言いました。「しかしそうすると、十字架のプランも無くなってしまう」と。
 あの1レギオンの悪霊どもにより、ゲラサとデカポリスが抑えられていましたが、イエス様は一声で、「天の軍勢を12レギオンを呼ぶことが出来る」と言われました。12レギオンの天の軍勢を遣わしていただき、悪魔のプランが粉みじんになるように、主に祈りましょう。天の軍勢により守られている事を、知らなければいけません。

 最後に、次のみ言葉を宣言して、終りにしたいと思います。詩篇105編8節〜15節です。

 「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。」

 イエス・キリストを信じた者とは、「油注ぎを受けた者」なのです。神は私達に対し、「あのイスラエルを見なさい。他国の民から攻められ、虐げられていたように見え、また、ある時には大国の捕虜となったり、消えてしまいそうに見えたけれど、あの民は最終的に国を成した。その理由が何であったか知っていますか」と言われています。
 その理由とは、神が目に見えない世界で、一つの宣言をされたからです。「わたしの油注がれた者達に触れるな、わたしの預言者達に危害を加えるな!」と。

 私達クリスチャンは、時に社会の中でマイノリティーであったり、家族の中で独りぼっちであったりして、失望します。しかし「私には力がない」とは言わないで下さい。我々は油注がれた者ですから、神が私達を陰に隠し、敵に宣言されるのです。何と宣言されるかと言うと、「油注がれた者達に触れるな、預言者達に危害を加えるな」と敵に命じ、主、自ら戦って下さるという事です。

 イスラエルがエジプトで奴隷であった時、イスラエルの民が住んでいたゴシェンの地だけは、神が特別に扱われました。エジプトに10の災いが起きた時にも、そこには何一つ災いが起きなかったのです。
 皆さん、私達はゴシェンの地に住んでいたユダヤ人と同じように、また、出エジプトしたイスラエルを守られたのと同じように、イエス様の十字架の勝利がある時に、私達は油注ぎの中で守られるのです。信仰をもって、我々は進もうではありませんか。

 今日、これらの守りのみ言葉を自分のものとしましょう。どんな時代であったとしても、我々は主の守りの中で生きる事が出来ると、宣言したいと思います。
 今日は、イエス様の最大の霊的戦いの勝利である、十字架と復活の象徴である、聖餐式を皆さんと共に行いたいと思います。イエス様の十字架の血潮による守りを頂いて、今週も恐れずに、立ち向かっていこうではありませんか。

 それでは最後に一言、お祈りさせて頂きたいと思います。


[バックナンバー]