「心を騒がせてはいませんか?」


2009.10.18(SUN)
新城教会 上條 実 牧師

ヨハネの福音書 14章1節〜3節
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

ハレルヤ!今日もこうして皆さんの前でお話が出来ることを心から感謝します。先週は台風十八号がこの地方に上陸し、色々な所で被害がありました。我が家の近くにある神社では大きな木が倒れ、また看板が倒れたりなど多くの被害があり驚きました。また十日には多くの方々が集い、T兄とN姉の結婚式が行われ、大変祝福された時を持つ事ができました。また先週の週報でお知らせしましたが、九日には日進市在住のO兄が亡くなられ、十二日に名古屋市にて葬儀を行う事ができました。O兄は大学病院の院長までされた方です。私はお亡くなりになる当日、彼が入院されていた病院に出かけ、お見舞いする事ができました。その時はまだ意識がありました。「お父さん、祈ります」と話しかけると、うなずかれお祈りする事ができました。しかしその三十分後彼は安らかに天国に帰って行かれました。ご家族の中には悲しみと寂しさがあります。しかし確実に天国に行き、またそこで再会できるという喜びと希望を持っておられる姿を拝見することができました。また昨日は昨年の十月十三日に亡くなられた、N姉の召天記念会を行いました。この一・二週間様々な出来事がありました。しかし全てが守られ、祝福された事を感謝いたします。今回O兄が病院のベットに伏しておられる姿そして、彼の死に立ち会いながら、私は二十三年前、自分が入院していた時の事を思い出しました。私は原因不明の病気で検査入院をしました。胸が痛くなり、咳が出ました。はじめはこの地域の、ある病院で診察して頂きました。しかし良くなりませんでした。その後、当時家内の妹が東京のある病院で看護師をしておりましたので、その病院にて診察して頂きました。すると一度検査入院をしてゆっくり診察しましょうという事になり、初めて入院をその時経験しました。トータルで一ヶ月間ほどの入院でした。考えられる多くの検査を全てして頂きましたが、全く何の病気かわかりませんでした。当時七十二キロあった体重が五十七キロになってしまい、体力もなくなり、胸やあばら骨付近が痛み出すと、熱が四十度近くまで上がり、その時採血して、血液検査をして頂いたりしましたが、全くわかりませんでした。一ヶ月経った時医師から「これが最後の検査です。これで何の病気か絶対に分かります」と言われ、検査のために地下鉄に乗って、大きな病院に向かいました。その時医師から、その大きな病院宛に書かれた紹介状を持参していたのですが、その紹介状の封が閉じていませんでした。いけない事かもしれませんが、その紹介状を見たところ、私の病気について書かれてありました。そして最期に書かれてあった「一番疑っているのは悪性腫瘍です」という言葉が書かれていました。そのことばを見て、本当にショックを受けました。悪性腫瘍。ガンを疑っているとわかった時、私は心を騒がしてしまいました。自分で悪いストーリーを考えてしまい「自分は死んでしまうんだ。愛する妻と二人の息子を残して死んでしまうんだ」と思った時、堤防が決壊したように、一気に恐れが入って来ました。「自分は死んだらどうなるんだろう」、「どこに行くんだろう」など暗黒の中に突き落とされたような感覚を覚えました。その当時、この教会のスタッフとして働かせて頂いていました。何度も聖書を読み、学んでいたのですが、死ぬ事が怖くて怖くてたまりませんでした。そんなとき私は神さまに触れて頂きました。不思議な体験をさせて頂きました。恐怖が心を覆い、真っ暗闇に包まれていた時
私の心に一つの聖書のみことばを思い出しました。そのみことばは

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

というみことばでした。それまで真っ暗で、怖くてたまらなかった自分が、そのみことばによって励まされました。「あ、私はイエスキリストを信じていたんだ」と思い出しました。「心を騒がせなくていいんだ。そうだ、イエスさまがいるんだ」とわかった時、真っ暗な部屋に電気がついたように、光が入って来て、一瞬のうちに不安がなくなりました。。それは聖霊さまが私に触れて下さった。語りかけて下さった時でした。いつも読んで暗唱しているみことばでした。しかしはじめは恐れと暗闇の中にいました。しかしみことばが私を生かして下さいました。「自分はイエスさまを信じているんだ!もし死を迎えても、天のみ国に行ける。大丈夫だ。そしてイエスさまはいやし主だ。病もいやして下さる」と信じる事ができました。一節のみことばが、私を生かして下さいました。
その最後と言われた検査の結果を、後日主治医が結果を知らせに、病室まで来ました。その結果は異常が全くなかったと言うのです。その時「まだ何か検査がありますか」と医師に伺うと「いや、今のところもうありません」と言われました。私は「では退院させて下さい」とお願いし、その日に無理やりに退院させてもらいました。状況は何も変わらず、病の中にありましたが、その後少しずつ回復し、今は元気で働かせて頂いています。振り返ってみると「あの病は何だったんだろう」と思います。しかし確かにあの病の時、みことばによって、私はいやされ、恐怖からみことばによって勝利に変えて頂きました。みことばがどんなに力強いか古い書物、おとぎ話ではなく、今も生きて働くことばだと言う事を身をもって体験させて頂いた時でした。
しかし、私たちは生活の中で、問題や病が起こると、心を騒がしてしまいます。神さまがいる事を忘れてしまいます。霊的戦いの世界に私たちは生きています。私たちの敵である悪魔は、聖書のことば、みことばを受け取れないように策略を巡らし、不安や恐れで一杯にさせてきます。感謝もできず、喜びもなく、問題山積みの状態で、毎日を過ごしてしまっています。教会に来て、みことばを聞くと励まされます。しかし悪魔はみことばを奪い取って行き、不信仰のまま毎日暮らしています。あなたは真の神を信じていながら、神さまを小さく、何もできない神さまと考えてしまいます。今日みことばの剣であなたも勝利を頂いて下さい。あなたはイエス様の十字架によって、救われました。ローマ人への手紙十章十三節に

「 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」

とあります。あなたがイエスは主ですと告白する時、救われるのです。そのイエスキリストが私たちの為に、十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえられた事により、私たちは天国に入る事が出来るのです。そのイエスキリストは、日々私たちに幸せを与え、祝福を与えて下さいます。みことばは今も生きて働きます。ですから今日私のメッセージは全て忘れてもかまいません。私のことばは全く力はありません。みことばを受け取って下さい。受け取った時から、みことばは現実の世界で働きます。こんな私でさえこのヨハネ十四章一節によって、立たせて頂きました。あなたもみことばを受け取って下さい。
創世記十二章一節からアブハム、後のアブラハムの事が書かれています。私はここを読ませて頂き、大変励まされました。

「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。」

とあります。ここで神が七十五才のアブハムに言われたのは、妻のサライとおいのロトを連れて、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と言われました。ここから出て、わたしが示す地に行きなさいと言われました。どこに行くのかわからないのに、神が語られたので、従って出て行きました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」と言われました。その当時アブラムは七十五才で子供が一人もいない。そんな中でも、「ではどうやって増え広がっていくのか」と、全く何もない状況の中でアブラハムは出掛けて行きました。「主はアブラムに仰せられた。」とあるように主のことばをそのまま受け取ったのです。そして十七章一節から五節を見ると、

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。 」

とあります。先程は七十五才、そして今度は九十九才、再度ここで「あなたと契約を結ぼう。あなたは大いなる祝福された者になるよ」と言われています。ここを読んでアブラムが出て行きなさいと語られたのが七十五才と言う事は約二十五年間も放りっぱなし。何も環境は変わっていない。あなたを祝福し増やすと言っても、まだ子供が生まれていない。神のことばを信じて出て行っても、自分ならば何も変化がない。どうなってしまったんだろうか?と疑い、あきらめてしまいます。しかしアブラハムはこの後、子供を産むことができない体であったサラからイサクが生まれ、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と語られるような、信仰の父となりました。先ほど十二章の所で「主はアブラハムに仰せられた。」とあります。また十七章でも「主はアブラハムに仰せられた」と、神のことばをそのまま信頼し出て行っています。また創世記6章では有名なノアの箱舟の事が記されています。その中で六章十三節から、

「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。」

と書かれてあります。この当時は水蒸気で、水分が整えられており、雨は降らない時であったと私は聞いています。そんな中神さまから、ノアは「箱舟を作りなさい」と言われました。彼はそのことばに従って忠実に箱舟を作り始めました。それも周りの人から「お前はいったい何を作っているんだ、頭がおかしくなったんじゃないか。何でそんな箱舟を作るんだ」とバカにされながらも、神からことばに従って箱舟を作りました。そして家族も動物たちも全部入れ、聖書は水によってこの地を滅ぼしたと書いてあります。皆さんはこの箱舟の大きさをご存知でしょうか?箱舟の大きさが長さが三百キュビト。幅五十キュビト、高さ三十キュビトとあります。一キュビトはひじから指先までだそうです。一キュビトを四十四,五センチとして計算すると、なんと箱舟の大きさは長さ三百キュビト×四十四.五=百三十三・五mです。幅が五十キュビトという事は、二十二.三メートルです。そして高さが三十キュビトという事は十三.四メートルになります。とても大きな箱舟を、ノアは作りました。ノアは疑うこともなく、神の設計通り作りました。計算すると二万トンの排水量があるそうです。その総トン数は四千トンになると言われます。この大きさがどれほどかという事を示したホームページがありました。そこには収容面積は、二百四十匹の羊を収容できる列車貨物台が五百二十二個入るほどの大きさだと言うのです。また現在世界に生息する動物は、そのホームページによると一万七千六百種類あるそうですが、雄と雌を入れたと書かれてありますので、三万六千匹。箱舟に十分入る事が出来る大きさだそうです。ノアの時代は今の時代と違い、工具や機材も全く揃っておらず、ゴフェルの木を使わなければいけず、木を切り倒して製材し、組み立て、やにを塗り、三階立ての百三十三メートルの巨大な船を、百年近くかけて作りました。本当に気の遠くなる大変な作業だったと思います。ここでも「神はノアに仰せられた」とあるように、「箱舟を作りなさい」と神が語り、ノアは単純に聞き従っています。先ほどのアブラハムも「神が仰せられた」ノアも「神はノアに仰せられた」とあります。アブラハムもノアも神さまが語った事を受け取って、実行して行き、そして祝福を頂いています。マルコ九章二十三節に

「するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

信じたらどんな事でもできるといっています。またルカ十八章十六節〜十七節にはこうあります。

 「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

子どものようにならなければいけない。と言っています。しかしみことばは一点一画変わることなく、今も働くのです。幼子のようにあなたが受け取った時に、あなたの現状が何も変わっていなくても、そこに神が手を伸ばして下さるのです。私には一才と十ヶ月になる「主共」と書いて「あると」という孫がいます。先日突然長男が買い物に行きたいからと、短い時間でしたが孫を置いて出かけました。孫は突然父親と離れてしまったため、泣いてしまいました。「なぜ泣くの、おじいちゃんだよ」などとあやしましたが、泣き続けるのです。彼の好きな歌を歌っても、泣きやまず、やっと好きなビデオを見せると泣きやみましたが、何か落ち着かない雰囲気でした。そして長男が買い物から帰って来ると、彼にしがみついて何とも言えないうれしい顔で、しがみついて抱っこされていました。それと同じように、あなたは神さまの子どもです。イエスキリストはあなたを愛してやまない親です。あなたはなぜイエス様を信じているのでしょうか。あなたの命を救うために、十字架にかかって下さり、葬られ、三日目によみがえって下さった神さま。あなたの身代わりに苦しみを受けて下さった神さまだから信じたのです。しかしあなたは心を騒がしてはいませんか? 先日の台風で停電した時に、懐中電灯で照らすと足元は明るいのですがあとは真っ暗です。それと同じように、私たちの人生も足元は、みことばで明るいかもしれません。しかし周りが暗くて、不安になり、立ちすくんでしまい、否定的になってしまいます。しかし今日、あなたの神は生きています。ですからみことばをあなたが握った時、受け取った時、信じた時勝利を頂けます。二十三年前毎日、「検査で結果が出ます」と言われ続け、それでも何の病気がわからず、辛くて不安で、真っ暗な状態であった私が、こんなに元気になったのは、みことばの力です。こんな私でも愛して下さり、触れて下さいました。ローマ二章十一節に

「神にはえこひいきなどはないからです。」

とあります。神にえこひいきはありません。私が愛されていて、皆さんが愛されていないとか、アブラハムだけが愛されていて、皆さんが愛されていないという事はありません。。先程も親子のたとえをお話しましたが、子どもは親を愛し慕います。特に親になってみて子どもが病気になって苦しんでいる時ほど、つらい時はありません。子どものためならば親は自分の身を削ってでも、寝ずに看病します。だから自分はこんな病気がある。自分はこんな大きな問題があると思っているならば、その病、その問題のために、神さまは心配し、あなたを愛し、あなたのために特別時間を使って助けて下さいます。今日考え違いをしないでください。悪魔は、色々な問題があり、心配があり山積みのように大変だと、神さまはあなたを見はなしたと考えがちですが、そうではありません。そういう時こそ神さまがあなたの近くにいて下さるのです。悪魔はよく知っています。あなたの持っている病も、問題も、あなたがみことばを信じて神からの祝福をもらってしまったら、リバイバルが起きてしまうから必死になって不安を入れてくるのです。問題を見せてくるのです。今日、あなたに是非ともお勧めしたいのは、この一点一画変わらない、ただの本ではない神のことば、聖書を生きたことば、神のことばとして握って下さい。現状が全く変わらずとも、あのアブラハムでさえ二十五年間ほど変わりませんでした。あなたもみことばを信じたら勝利します。神さまである、イエスキリストに頼りましょう。誰か人を頼ってはいけません。神さまからの与えられた賜物を持っていて方もいらっしゃいます。しかしその人が力あるのではありません。また何かのカウンセリングや方法に頼っても行けません。そのように人や教えを頼ってしまいがちですが、それが悪魔の策略です。私たちの主。イエスキリストに頼りましょう。父なる神さま、子なる神さま、聖霊さま。この聖書にある三位一体の神さまを信じましょう。ヨハネの一章一節に

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

とあります。「ことばは神であった。」とあります。ですからみことばイコール神です。だからあなたがみことばを信じることが神を信じる事です。みことばを握りましょう。あなたの現状がどんな最悪の状況でも、主は人手によらず働いて下さいます。あなたに勝利を下さいます。先ほど「祈りは聞かれる」と賛美しました。その中で「遅れることはない」という歌詞がありました。私たちは今聞いてほしい。今解決してほしい。早くしてほしいと思います。しかし遅れる事はありません。主はあなたを用いてリバイバルのために用いたい、あなたを神の栄光のために使いたいと願っています。「見たことも聞いたこと思い浮かんだこともないような祝福を主があなたに下さる」ことを信じて下さい。私達の神は、本当に偉大な神です。イザヤ四十五章十八節に

「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。」

今日、外に出てみて下さい。山があります。また、当たり前のように空気を吸い、身体から二酸化炭素を出しています。天地を創造し、あなたを創造された神さまがいます。その神をあなたは信じています。神はあなたにこの天と地を備えて下さいました。私たちが見た事もない宇宙も、国々も全部創造された方だです。イザヤ四十三章二十五節

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

あなたはイエス・キリストを信じる時「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」と言って下さいます。さばきに行くところを、天の御国入れて下さるのです。あなたが過去どんな罪を犯しても、みことばは「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と言って下さいます。またへブル八章十二節

「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

あなたが十字架を信じて、罪を悔い改めたならば、赦して決して罪を思い出さないとあります。またTペテロ二章二十四節

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 十字架により全ての罪が赦され、またキリストの打ち傷のゆえに「あなたがたは癒されたのです」とあります。今日、病気も主がいやして下さいます。みことばが「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と語っています。命は主のものです。そしてキリストの打ち傷によって、あなたの病はいやされるとあります。一番良い時に癒しを与えて下さいます。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」病の中にある方このみことばを信じましょう。また、有名なみ言葉でマタイ十一章二十八節 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

どんな重荷があったとしても、休ませて下さいます。子どもがお父さんお母さんに抱かれている姿をみると、全体重を預けています。重荷のある方はイエスさまのふところに抱かれて、まかせきって下さい。主のところに来て下さい。必ず問題を解決してくださる方です。また、ヨハネ十四章十三節〜十四節に

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」

とあります。このみことばの剣を握って下さい。必ず祈った事は答えられます。しかし、みことばを信じても、あなたが祈ったにも関わらず、時に答えられない事もあります。それはあなたが求めた事よりも、持って素晴らしい答えを主が用意しているかもしれません。あなたがAを求めたとしても、主はBのほうが絶対必要だから、Bを下さる時があります。自分の祈っている事柄で「こうなってほしい」と願っているのに、その通りいかず、ジクゾーパズルに例えると、パズルがはまらないと不安になります。しかし先ほども言ったように、見たことも聞いたことも思い浮かんだこともない事を主が下さいます。祈ったのに何でこうなったんだろうと思っても、神に任せましょう。神は必ず驚く事を答えて下さいます。

マタイ七章七節〜十一節

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 ここで、「誰でも、求める者は受ける」のです。求めたら絶対に受けるのです。そして、探したら見つけ出す、叩いたら開かれるのです。ですから、このみ言葉を握って下さい。あなたがみことば通り、求めたら受けます。求めなかったら受けません。そして、

「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

すばらしいみ言葉です。そしてヨシュア記一章五節

「あなたは見放されず、見捨てられない。あなたの一生の間、主が責任を持って下さる。」

あなたの一生の間「主が責任を持って下さる」のです。なんと素晴らしい事でしょう。

そしてイザヤ四十一章十節

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

「見放さず見捨てない」と語って下さっている神は、ともにいて下さる方であり、 あなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、私たちを守って下さる方です。 また、使徒十六章三十一節に

「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」

これはあなたの神が、あなたの家族のために語っておられるみことばです。それを握った時、救われます。遅れることありません。そして最後に、詩篇五十六章九節を読んで終わりにしたいと思います。

「それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。」

もう一度、よく注目してください。ここに「私が呼ばわる日に、私の敵は退きます」とあります。あなたが、「私の神は生きておられて力強い神だ」と信じて神に呼ばわり祈った時に、このみことばを宣言した時に、「私の敵は退きます」というのです。色々な束縛があり悪いことだらけで「何でうちの家系は、自分は」と恐れてしまう時があります。しかしこのみことばを信じて下さい。現状がどうあろうと、あなたの敵である悪魔はあなたが呼ばわる時に、あなたが打ち砕くのではありません。「私の敵は退きます」。神が暗闇の力を打ち砕いて下さるのです。霊的戦いというと、何かすごいことを行っているように思えますが、私たちは宣言して祈るだけです。呼ばわるのです。その時に動いて下さるのは主です。あなたが神の子どもとなる特権を与えて下さるというのです。神さまの子どもです。最高の特権を持っておられる神の皇太子です。日本の天皇などを見ると、あの方々の救いのために祈らなければいけません。しかし彼は特別待遇です。生活が保障され、どこに行くにも細かく計画されており、天皇たちに失礼があってはいけないという事で、計画されています。ましてや私たちの神は生きています。ですからあなたが呼ばわったら、あなたが祈り始め、叩き始め、探し始めたら、全て答えられ、見つけ出し、開かれます。みことばで信じて下さい。せっかく主が二十四時間与えて下さっているのですから、くよくよしないで下さい。悩まないで下さい。あなたを通して、リバイバルを起こそうとしています。あなたを祝福しようと願っています。祈りましょう。喜びましょう。感謝しましょう。あなたは主の子どもですから、問題等を全部主にまかせて、喜び、楽しみましょう。今日あなたは心を騒がせてはいませんか?、神を信じましょう。素晴らしい祝福を頂きましょう。あなたは人からうらやまれるほどに、祝福頂ける人となる事ができます。みことばを受け取りましょう。最後にお祈りします。 


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