「聖霊のバプテスマを受けよう!」


2009.10.25(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

使徒の働き19章1節〜7節
「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。 その人々は、みなで十二人ほどであった。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日はこうして、皆さんの前でお話ができます事を心から感謝します。今もヘブンリー・キングダムの素晴らしい賛美を聞かせて頂きましたが、私達は神様を友と呼ぶ事が出来るのです。素晴らしいではないでしょうか。
 日本人には、神を友と呼ぶなどという考えは全くありません。日本のカミというのは、ほとんど友達にはしたくないようなカミガミばかりです。不動明王とお手々つないで歩きたいと思いますか。また、千手観音と一緒に手をつないでデートをしたい女の子が、どこにいるでしょうか。「近寄るな。あっちに行ってくれ!」という感じのカミガミばかりです。

 しかし、私達はイエス様と友達になれるのです。そして、イエス・キリストを信じると、国籍を超え、文化・習慣を超えて一つとなる事が出来ます。
 新城教会には、日本の方々ばかりではなく、海外から来られた方々もおられますし、また、私たちは海外でも働きをしています。私達の教会にはインターナショナル部会があり、初めは二人のペルー人の方々から始まったのですが、今や、二百人、三百人と集まるようになりました。そしてインターナショナルの兄弟姉妹は、金曜日から今日まで、聖会を持っています。「聖霊に満たされ、燃えて日本・世界のリバイバルのために働きましょう」と聖会をもっているのです。その講師として、アメリカからスタンレー・ブラック先生が来て下さっています。本当に霊に燃えた先生です。今から先生に少しの間お話をして頂きたいと思います。

<スタンレー・ブラック先生の挨拶>
 私は順先生が大好きです。彼は素晴らしい人物です。ここに今日来る事が出来て感謝しています。フェルナンド先生と一緒に、インターナショナル礼拝が出来ることを感謝しています。そして今夜、神様がして下さる事にとても期待しています。
 神様がどこにいつ生まれるか選ばせて下さるのなら、私は、今の時代に生まれることを選びたいと思います。ジョージ・ワシントンやナポレオンといった時代に生まれることも出来るかも知れません。チャーチルとかリンカーンのいた時代に生まれることを選ぶことも出来るかも知れません。
 しかし神様は、私達がそのような時代に生まれることを望まれなかったのです。この時代に生きるように定められたのです。それは、私とあなた、女性・男性、神様の目的に従って生きている、世界を福音の力によって動かすためです。
 このような素晴らしい時代に私達は生きています。なぜなら、神様はこの地を揺り動かそうとしておられるからです。この世界を黒雲が覆っており、多くの人々がクリスチャンになる事に対して否定的に反応し、多くの人は「イスラエルの父祖たちの時代に生まれたらよかった」という風に思っています。または、預言者の時代などに。
 しかし、私はそうは思わず、この今の時代に生まれてよかったと思います。何故なら今、私達は教会の時代の最後の章を書いている最中だからです。
 再び申しますが、今日、皆さんと共にいることができる恵みを心から感謝します。牧師先生に感謝したいと思います。順先生と素晴らしい奥様とお会いし、朝食を共にさせて頂きました(それは日本式ではなくアメリカ風でしたが)。ここに来させて頂いた事を、心から感謝します。神様の祝福がありますように。

 聖霊に燃えた先生です。今日の四時から、先生がメッセージを語って下さいます。それも、私のメッセージタイトルと同じ、「聖霊のバプテスマを受けよ!」というタイトルで語られます。四時からのインターナショナルの集会にも出て、実際に、聖霊の力を体験して頂きたいと思います。国を超えて、文化を超えて、私たちは一つとなって、神を礼拝できる事を心から感謝しています。

 私は先週、韓国で奉仕をさせて頂きました。皆さんのお祈りに支えられ、韓国リバイバルミッションを終えてからも、韓国の働きは続いています。二年後にソウルでリバイバルミッションを開きたいと願っています。良い関係を維持するためにも、続けて奉仕をさせて頂いています。今日はザワメキが韓国で賛美をしています。韓国で働きをする時に、日本の扉が開かれるという、神の不思議な法則があるのではないかと感じます。
 また、日本の教会に起こされた霊的戦いが、韓国教会に祝福をもたらしている現実もあります。それは皆様方の祈りによって、なされている事を心から感謝したいと思います。

 今日のメッセージ・タイトルは、「聖霊のバプテスマを受けよ」というタイトルです。その箇所を今読んで頂きましたが、パウロはエペソという町の教会に着いて、最初にどんな質問をしたのかといいますと、十九章二節、「信じた時に聖霊を受けましたか?」というものでした。パウロの挨拶というのは、「こんにちは」とか「アロハ」とか「ハロー」ではなく、「信じた時に聖霊を受けましたか」という挨拶でした。エペソの教会は、その前にアポロという伝道者が来ていて、恵まれた教会でした。しかし彼らの答えがどんなだったかというと、「いいえ、聖霊が与えられる事は聞きもしませんでした」というものでした。
 するとパウロは、「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞きました。彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えました。するとパウロは、「イエスの名によってバプテスマを受けなさい」と、イエスの名前のバプテスマを受けせたのです。
 その後、パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨んで、彼らは異言を語ったり預言を語ったというのです。その人数は十二人でしたが、その後、異教の地エペソに大きなリバイバルが起こりました。

 エペソ教会とは新約聖書の中でも、中心的、代表的教会ですが、何故、エペソの教会がそのように変えられたかというと、12人の上に聖霊が臨まれたからです。彼らはイエス・キリストを信じていました。み言葉もよく学んでいたし、霊に燃えていたとあります。しかし「聖霊のバプテスマ」に関しては知らなかったのです。
 私達の信仰生活の中で大事な事は、「知っているか、知らないか」です。知ると大きな扉が開かれる、という法則があります。

 特に、クリスチャンは、「聖霊のバプテスマ」についてよく知らなければなりません。また、知るだけでなく、体験しなければいけません。そうすると人生は大きく変えられるのです。

 来年の二十四時間連鎖賛美集会の講師として、去年もここに来て下さったキム・ウヒョン監督が来られます。彼は韓国でクリスチャンになり、長い間クリスチャン生活を送っていました。しかし彼の心には喜びがありませんでした。救いの確信はありましたが、力がなかったのです。しかしある時、彼は聖霊のバプテスマを受け、人生は大きく変えられました。
 彼はKBSの有名なプロデューサーで、彼の事を知らない人は「北朝鮮からのスパイだ」と言われるほどに、韓国では有名人でしたが、彼が聖霊を受けて変えられてからは、リバイバリストとして働いています。彼がここに来てくださり、一日、二日と連鎖賛美で奉仕した後、一月三日の礼拝でもメッセージを語って下さるようにお願いしました。

 皆さん、本当に聖霊のバプテスマを受けることは重要です。かつてアメリカでリバイバルが起こった時に用いられたのが、チャールズ・フィニーという伝道者でしたが、彼が聖霊のバプテスマを受けた時の事をこのように語っています。
「聖霊は、私の肉体を、魂を貫くように降ってきた。その印象はまるで電気の波のよう、幾度も私を超えて行った。まるで愛の波が幾重にも押し寄せてきたようだった。他にどのように表現すればよいのかわからなかった。それはまさに神ご自身の息のようであった」と。

 天地宇宙を創った神の息吹を体験する、というのが聖霊のバプテスマです。皆さん、私達はイエス様を信じているし、永遠の命も得ていますが、同時に、聖霊の恵みを頂かなければいけません。
 旧約聖書・新約聖書全体を見ていきますと、聖霊に満たされた人達が神のしもべとして用いられています。そして聖霊が降る時に、「その人に与えられている本来の目的が現され」ます。
 人間は、もともと神によって創られていますから、「神の目的」があるのです。それは聖霊によって現されるのです。

 日本では悲しい事に、三万人以上が自殺します。しかし、生きる目的がわかっていたら、絶対に死ぬことはありません。「私にはこのような使命がある」とはっきりわかっていたら、いくら苦しくても死ぬはずはありません。死んでいくのは、生きる目的がわからないからです。しかし、聖霊様に触れて頂くと何が起こるのかというと、「その人に本来与えられている目的がはっきりする」のです。
 旧約聖書を見ても、ギデオンも、サムソンも、ダビデも、サウルも、ソロモンも、預言者達も皆そうでした。新約聖書でも、弟子たちも聖霊に満たされた時、彼らの目的がはっきりしたのです。
 私達も聖霊のバプテスマを受ける時に、与えられている使命がはっきりするのです。

 イスラエルの初代王、サウルに聖霊が注がれた時の様子が、第一サムエル記十章三〜六節に書かれています。

「あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。」

 預言者サムエルがサウルにこのような預言をしました。「あなたはパンを三つ持っている人と出会い、そのうちの二つをもらい、その後、預言者の一団に出会った時に聖霊を受け、新しい人と変えられます」と預言したのです。三つのパンと関連して、ルカ十一章五〜十三節、

「また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
と、こういう風に言われたのです。

 サムエル記では三つのパンのうち、二つのパンをもらって、次に預言者と出会って聖霊が注がれるとありましたが、ここでは、三つのパンについての最終的結論が、「求めるものに聖霊を下さらないはずはない」というものです。

 実は、キリスト教には三つの理解が大変重要です。ある意味で三つのパン、二つのパンをもらった後に、「もう一つのパン」をもらう必要があるのです。これは何を意味しているのかというと、イエス様がよみがえられ、天にお帰りになる前に、弟子たちに語りました。マタイ二十八章十八〜二十節、

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 イエス様が天に帰る前に、弟子たちに命じられた事が何であったかというと、「出て行って福音を述べ伝えなさい」と言われました。そしてその中身が、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」でした。「バプテスマを授ける」というのが、一つの大きな目的でした。

 先週は感謝な事に、水曜日にお二人の方がバプテスマを受けられました。本当に感謝です。日本の教会は中々大変な現実があり、一年間にバプテスマを受ける人の平均は一教会あたり「0.5人」という悲しい現実です。新城教会は感謝な事に大勢の方が洗礼を受けられるのは素晴らしいですが、バプテスマを授けることは教会の重要な使命なのです。そして、その中身が、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける」というものです。

 私達が信じる神は、三位一体の神なのです。父なる神様、子なるイエス様、聖霊様が一つだというのです。父なる神とはどういうお方かというと、天地宇宙を作られた創造主です。イエス様も神様ですが、人となられたお方です。イエス様は神の座を捨てて、この地上に来られました。その時、神が人となってしまったので制限を受け、全宇宙がコントロールを失ったという事はなかったわけです。依然として、天地宇宙は神の力によって保たれていました。という事は、神であるイエス様がこの地上に来られたけれど、依然として、全宇宙を支配される神はおられました。
 また、イエス様は十字架にかかって死に、三日目によみがえられ、天に帰られました。「ああ、また帰ってしまった。この地球には神がいなくなってしまった・・・」ではなく、聖霊様が来られたのです。これは同じ神様です。この三つの理解が大変重要です。「父なる神様、子なるイエス様、聖霊様」同じ神様ですが、使命は違っています。三位一体なる神理解は大変重要です。
 ゆえに、バプテスマは、「父と子と聖霊の名によって授けなさい」と命令されたのです。という事は、クリスチャン信仰も、三つそろって初めて完成です。

 まず第一に、父なる神様のバプテスマとは何でしょうか。
 パウロがエペソの教会で、「あなた方はどんなバプテスマを受けたのですか?」と尋ねると、彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えました。このヨハネのバプテスマにはどのような意味があるのかというと、ルカ七章二十九節を見ると、

「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。」

 ヨハネのバプテスマが、「神様はお一人であり、義なる方だ」という宣言であったわけですから、ヨハネのバプテスマというのは“父なる神様のバプテスマ”と定義づけてもよいと思われます。「ヨハネのバプテスマだけ受けました。」と答えたエペソ教会の人々に、パウロは続いて、「じゃあ、イエスの名前のバプテスマを受けなさい」と勧め、バプテスマを授けています。
 イエス様の名前のバプテスマについて、使徒二章三十八節に、

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言われました。」

 イエス様の名によるバプテスマは、悔い改めと罪の赦し、すなわち、「イエス様が救い主だ」であるという宣言の機会であったのです。
 父なる神様は天地宇宙を創ったお一人の神であり、イエス・キリストのバプテスマは、「イエス様が罪を赦して下さる、救い主なる神という宣言」です。皆さんはすでに、その事をよく理解しておられると思います。
 日本では八百万のカミガミなどと言いますが、神は一人しかおられません。天地宇宙を創られた神はお一人であり、同時に、私達を救ってくださる神はイエス・キリスト様お一人です。「イエス・キリスト以外に救いはない」のです。イエス様の名によって救われるわけです。

 そして、もう一つのパンが必要です。サウルが、「二つのパンを受け取った後、預言者に出会って聖霊を受けた」というのは、まさしく預言的な出来事だったのです。

 エペソの教会も、彼らは霊に燃えており、父なる神様の事はよく知っていました。また、イエス様の事も、救い主である事はよくわかっていたのです。
 しかし、まだ一つのパンが不足していました。それが何かというと“聖霊のバプテスマ”という領域でした。使徒一章五節、

「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 イエス様によって預言された、聖霊のバプテスマは重要です。案外、クリスチャンでも、「父なる神様はお一人です。救い主はイエス様です。」と知っています。でも、もう一人の神、“聖霊様”について知らないのです。そして、バプテスマは、父と子と聖霊の名によるバプテスマなのですから、「聖霊によるバプテスマ」は重要です。
 先程読んだルカの福音書の三つのパンの中で、イエス様は何と言われたかというと、「求めなさい、探しなさい、叩きなさい、そうしたら開かれ、与えられますよ」でした。この三つ目のパンを受け取るためには、「求め、探し、また叩く」という「ひたむきさ」が必要だという事です。
 この第三のパンを食さなければいけません。エペソの教会も、聖霊の事がわかってから、大きく変えられました。そして、町も変わっていきました。エペソ教会はたったの12人でしたが、聖霊が注がれた時、町が変わりました。
 そもそも、ペンテコステの時に百二十人に聖霊が注がれて、教会は始まったのと同じように、聖霊を体験する人達はそんなに多くなくても、町中、世界中にインパクトを与えるのです。すごい事が起きると教えているのです。
 今日、聖霊様を激しく求めなければいけません。その力を頂いたら、使命がはっきりするのです。

 聖霊のバプテスマを受けるためにはどうしたらよいのか、パウロはこの事を説明した後、「手を置いて祈った」とあります。それと共に聖書は、聖霊のバプテスマを受けるための準備の法則について提示していますから、合わせて学んでいきたいと思います。

 私はよく韓国教会で奉仕させて頂きますが、その時に必ず第二列王記四章一〜七節から、「聖霊の油注ぎを受けよ」というメッセージを語ることにしています。去年の十月にもここから話をしましたから、皆さんはよく覚えていると思いますが、これは旧約聖書の中に記されている物語ですが、私達が聖霊を受ける為の準備として、神が与えられたストーリーであると信じています。

「預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 実はこの箇所は、預言者エリシャがやもめの一家を訪問して、実際的に油を増やすという奇跡を行った物語です。当時油は高価な物でしたから、貧乏なやもめの一家は増やされた油を売って負債を払い、その油の残りで“幸せに暮らす事が出来たとさ”という、ハッピーエンドの物語です。
 しかし私達が旧約聖書を理解する時には、必ず、新約聖書眼鏡をかけて理解しなければいけないわけです。旧約だけで理解すると、わからないところも沢山あるし、旧約聖書だけ読んでいると、血なまぐさく思えるところもあるので混乱します。結論は新約聖書にありますから、新約聖書の結論を持って、旧約聖書を理解しなければならないです。

 聖書を解釈する法則のひとつに、初めに出てきた言葉が、最終的に何を意味しているかで前半のストーリーの解釈を変える事が出来るという、「初回言及の原理」があります。ここに“油”が出てきますが、油は新約聖書で何を意味しているかというと、実は“聖霊”ご自身を指しています。さらに、「油が増える」というのも、聖霊に満たされるとか、聖霊のバプテスマという視点で学ぶ事ができるわけです。
 けれども、油とは無機質な物質ですから、聖霊様はご人格のある方なので、その辺は注意深く扱わなければいけないのですが、ここから、聖霊に満たされるための準備と秘訣を学ぶ事が出来るはずです。そのために、エリシャの奇跡がおかれているのではないかと思います。

 油が増える奇跡がどのように起こったのかプロセスをよく学んでいけば、また、プロセスに準じていくならば、油が増えるという奇跡、新約時代では、「聖霊に満たされる」はずです。聖霊に満たされるとは、言いかえれば、「聖霊様に支配される」という事です。
 聖霊のバプテスマとは“聖霊によってすべての領域が支配される”という意味だと私は思います。我々は人間ですから、自分の判断とか考えで生きると、往々にして欠けがありますから、変な方向に行きやすいわけです。
 この頃は不確定な要素の多い時代ですから、予測がつきません。しかし、聖霊様は神様ですから、聖霊様の支配があったら、この不確定な時代も乗り越えることだできるのです。

 この第二列王記四章七節は、我々に大きな希望を与える言葉です。

「彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 これを新約的な視点で見ると、聖霊に満たされると何が起こるのか、「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。」とあります。借金がある人はいつも不安があります。何故ならば、いつ借金取りが来るかわからないからです。「金を返してくれ」とゆすられるから、いつもびくびくして暮らしているのです。
 住宅ローンでも同じです。「ああ、また二十五日の支払日が来る、どうしよう…」などと、不安があります。しかし借金がなくなればどうでしょう。不安も無くなります。外部からのゆすりがなくなるのです。
 「その油を売って負債を払いなさい」とは、外部からの攻撃がなくなることを意味します。そして、「その残りであなたも子供たちも暮らしていける」というのは、素晴らしい希望ではないでしょうか。自分も、子供達も、幸せに暮らす事が出来るとしたら、そんな幸せはありません。人が一番に願っている事は、やはり自分の幸せと家族の幸せです。その秘訣が何と“聖霊に支配される”所にあるわけです。

 また、“負債が払われる”とは、新約的視点で見ると、パウロは福音宣教を返さなければならない負債と受け取りました。日本は今、本当にリバイバルを必要としています。リバイバルのために何が必要か、“負債が払われる”ためには、聖霊に満たされる事がどうしても必要なのです。聖霊のバプテスマ、第三のパンは、我々が本当に真剣に求めなければいけない領域なのです。リバイバルはそこから始まるのです。

 この第二列王記四章を読んでいくと、色々な事を教えられます。このやもめは大変苦しい状況にありました。借金はあるし、借金取りは来るという、大変な状況の中にあったのですが、ある日、神の人エリシャが彼女の家に来たのです。そして「何をしてあげようか?」と聞きました。
 エリシャはイエス様を表しているのですが、イエス様は困り切った家に突然訪れ、何と言われるかというと、「あなたに何をしてあげようか」とお尋ねになるのです。今日、皆さんの所にイエス様が来られ、「あなたに何をしましょうか」と語って下さるのです。
 その時、エリシャは「あなたの家には何がありますか」と聞きました。するとやもめは「私の家には何もなく、ただ、油のつぼひとつしかありません」と答えました。

 するとエリシャは「その油のつぼを持ってきなさい」い言いました。何と、家の中にあった、殆ど切れかかった油のつぼから奇跡は始まったのです。これは何を意味しているのでしょうか。“油”を聖霊様として置き換える時に、私達は何がなくても、イエス・キリストを信じる事が重要、という事を教えているのです。

 聖書の中に、誰も聖霊によるのでなければ「イエスは主です」と告白できないとあります。私達が、「イエス様は神である、イエスは主です」と告白できるなら、すでに、聖霊によって告白させられているのです。

 今日、「私は弱り切って教会に来ているのです。この頃いい事がないんです」と言われる人もいるかもしれませんが、「イエスは主です」と弱々しい声かもしれないけど告白できるなら、聖霊様が共におられるのです。油つぼがあなたの内側にあります。

 皆さん、今、確認してみましょうか。「イエスは主です」と告白できるとしたならば、聖霊によって告白しているのです。では、皆さん「イエスは主です」一度やってみましょう。「イエスは主です!」言えましたか、よかったです。
 「イエスは」まで言えたけど、「主」の時に息が詰まった方は、ちょっと危ないかもしれません。礼拝が終わったら来てください。なんとかしますので。いずれにしても、「イエスは主です」と告白するだけで、聖霊様が私達の内側におられますから、喜びがわいてきます。皆さん、恵まれることは難しくないのです。告白だけで恵まれます。「イエスは主です!」と叫ぶだけで、内側の聖霊様が喜んでおられる感じを覚えます。もう一度、もっと大きな声で「イエスは主です!」と宣言しましょう。
 「イエスは主です!」主に、大きな拍手をささげましょう。ハレルヤ!

 あなたの中に油のつぼがあるのです。これが基本です。イエス・キリストを信じている、これがなければ奇跡は始まりません。しかし、これさえあれば、次の段階に進む事ができるのです。

 次にエリシャが出した条件が何であったかというと、「隣近所に行って、空の器を借りてきなさい。それも、ひとつ二つではいけません。沢山借りてきなさい」と言いました。
 この条件は、ある意味、やもめの家族にとってちょっと実行しにくい条件であったと思われます。何故ならば、その家には何もなかったからです。何もないにもかかわらず、隣の家に行って、「すみません、空の器を貸してくれませんか」などと言えば、お隣近所は何と思うでしょうか。

 この近所も田舎ですから、“前を見てても横もちゃんとチェックしている”のです。隣の家の夕食が何かということも、全て把握しているわけです。私の小さい頃などそれがもっと顕著でした。私の家は七人兄弟でした。お隣は十二人兄弟というすごい家族で、そのまた隣が五人兄弟でした。私は夕食の時には三軒のおかずを、いつも比べていました。「三軒の中でどの家のご飯が一番おいしいか…」というわけで、ちゃっかりと一番おいしい家の食卓に座っていた者でした。当時はお互いに、全てお見通しだったのです。

 やもめの家も田舎にあったと思われますから、何もないのにも関わらず、隣に行って、「ちょっと器を貸して下さい」などと言うのは、ちょっと恥ずかしいと思ったでしょう。また、皆からは、「なんて無駄な事をしているのですか」と言われたと思います。
 しかし、「ちょっと恥ずかしい、無駄」と思える行動が、何と、奇跡をもたらしたのです。聖霊を受けるのも、そういう事だと思います。

 救いは口の告白で簡単に与えられるのですが、聖霊を受けるのには、「求めなさい、探しなさい、叩きなさい、」という、「ちょっとエネルギーがいる」行動が必要とされるのかも知れません。
 今日、教会に来ることも、少しは勇気がいったかもしれません。巷では、「大勢人が集まる場所には行かないほうがいい」と言われています。何故ならば、新型インフルエンザが流行っているからです。普通は新型は嬉しいです。車でも新型なら欲しいし、携帯も新型が欲しいですが、「新型インフルエンザ」は欲しくないです。大勢人がいる場所には、会衆に交じって“新型インフルエンザ様”も同席しておられるかもしれません。
 「大丈夫かな…」しかし心配しないで下さい。それらに立ち向かっていかなければならないのです。新型インフルエンザの恐れもありながら、今日教会に来られた方々、これは勇気ある行動ですから、お隣に行って、「器を貸して下さい」という行動と同じだと思います。
 また、「何で日曜日の朝早くに教会なんかに行くのか。そんな無駄な事をするより、身体を休めた方がいいよ」と言われたかも知れません。しかしその行動が、次につながるわけです。

 同時に、この空の器を集めるというのは、「求める、探す、叩く」というある意味、すなわち、“飢え渇き”を表しています。
 やもめの家族は最終的には、「集めた器の数だけ油が満たされた」と記されています。集めた器が一杯になった時、油が止まったというのです。油が止まった時、この家族は「残念!もう一軒向こうまで行って借りてくればよかった。お姉ちゃんが恥ずかしいからやめようって言ったからじゃないか」と悔しがったのではないかと思います。
 私達が、真剣に主を求めていく時に、聖霊様は私達の所に来て下さるのです。皆さん、やはり聖霊に満たされるためには、ひたむきさが必要です。ひたむきさについて、日本の教会は、韓国教会に学ばなければいけないと思います。韓国の方々の素晴らしい所は、ひたむきさです。真剣に主を求めている姿にいつも感動します。日本人は理知的・理論的で、「そんな事、しなくてもいいんじゃないの。そこまですることないよ」という態度でいたらいけないのです。信仰の世界、特に聖霊に満たされるためには、ひたむきさが必要です。真剣に主を求めていく時に、主は、三つ目のパンを与えて下さいます。

 そしてもう一つ、エリシャは条件を出しました。それが何であったかというと、これは前にもここから話をしましたが、四章四節です。

「家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

 エリシャは結構細かい指示を出しています。「家に入ったら後ろの扉をちゃんと閉めてから油をつぎなさい」と。これにも、深い意味があります。

 私は気がついたら、牧師の息子として生まれていました。私の両親は何を血迷ったのか、東京でクリスチャンになったのに東京を捨てて、愛知県の田舎、それも北設楽郡津具村に入って伝道を始めました。津具村に入って、父が伝道を始めたのはたったの四軒しか家がない場所でした。幾らなんでもたった四軒で伝道してもあまりにも大変で、最終的には新城市に来たわけです。
 しかし、この付近も五十年以上前は、何もない場所でした。桑畑で、土地が安いからという事で、ここに家と教会を建てたわけです。土地が安ければよいわけではありません。何故、土地が安いかと言えば、この辺は設楽が原の戦いで大勢の人が死んだ場所だからです。一坪五百円で買ったのです。今、五百円なら、いくらでも買いますが、昔はその五百円もなかったというさみしさがありました。
 私の両親は人が来ないものだから、「どうしたら人が来るだろう」と祈ったら素晴らしいアイデアが与えられました。それが何かというと、「とりあえず生んで増やしなさい」と、それで、七人も子供が生まれたわけです。感謝な事に、お隣もクリスチャンになり、お隣さんは十二人子供を産んでくれました。三軒目もクリスチャンになり、五人子供を産んでくれました。そして教会の前の、今では伊藤村と呼ばれる場所では、六人子供が生まれました。たった四軒で、四十数人の日本の平均的以上の教会が出来た、「やった!」という感じでした。初めはそんなところから教会が始まったわけです。

 私達の小学校時代、輝かしい歴史があります。それが何かというと、通学団をクリスチャンで乗っ取った事です。そして、クリスチャンがノンクリスチャンを迫害したという、世界でもまれにみる歴史でした。「クリスチャンにならなかったら遊んでやらんぞ」と言って友達を迫害したために、校長先生にすごく怒られました。これはやがて日本にリバイバルが起こって、クリスチャンでないと肩身が狭いという時代が来る預言的な事であったと思います。

 しかし、私はクリスチャンホームに生まれても、あまり心は燃えていませんでした。けれども、こんな私にも、聖霊様は触れて下さいました。古くから教会におられる方々が私の事をよく、「順ちゃん、変えられたね」と言われます。嬉しいような悲しいようなご意見ですが、「新城教会で今までいろんな奇跡が起こったけれど、一番大きな奇跡は順ちゃんが変えられたことだね」と、もう天に帰られた田中先生のお母さんがよく言われました。本当に、そのくらい態度が悪かったのかと思いますが、冷たい男だったのです。しかし、聖霊様に満たされて、本当に人生が変えられたのです。

 特に、一九九二年二月十三日、愛知県民の森で祈っていた時、激しく聖霊様が触れて下さり、新しく変えられたのです。この教会も変わりました。
 あれから十七年経ちますが、今でもその時の油がこの場所にある事は、本当にうれしいです。その後も多くの方が救われて、今日に至っていますが、その時に一番重要な条件として、主が教えて下さったのが、四節の、「後ろの扉を閉めなさい」という事でした。

 聖霊様のバプテスマを受け、聖霊に満たされるために必要な事として、「後ろの扉を閉める」というのは大変重要だという事を、その時に教えて頂きました。そして、それを実行して以来、大きく変えられたと言っても過言ではありません。

 何故エリシャが後ろの扉を閉めろ、と言ったかについて、第二列王記四章一節を見ると、よくわかります。

「預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

 この家族はおびえていました。そのただ中に、エリシャが来て奇跡を起こしたのです。もしもこの家の扉が全開していて、奇跡が起こったらどうでしたでしょうか。いつものように、「貸した金を返せ!」と貸し主が来た事でしょう。そして、貸主が狙っていたのは何であったかというと、「どうせ金はないから、二人の子供を奴隷にしてやれ」と入ってきたわけです。
 しかし、その日家に着くと何か様子が違うわけです。戸が開いていて部屋は騒がしく、中では沢山の器に油が満たされ、いつも探し廻っていた二人の子供も共にいたわけです。そんな状況があればどうでしょう。扉が開いていたら、貸主が入ってきて、すぐに増えた油を持って行ってしまうし、子供達も奴隷にしてしまったのではないでしょうか。
 ですから、「扉をしっかり閉めろ」と言ったのだと思います。油を盗まれないために、「扉を閉めろ」と言ったと思うのです。

 現に、扉をしっかりと閉めてから油が増やされたので、油は盗まれないで、増えた油を売って借金も返す事も出来たし、子供達も、母親もしあわせに暮らしていけたという事です。“後ろの扉を閉める”というのは、油を盗まれないために、忘れてはならない大変重要な行動であったのです。

 私達の教会では、以前にも聖霊のバプテスマを求める運動は何度もありました。そして、何らかの賜物や現象も起こりました。異言を語ったり、預言を語ったり、華々しい聖霊様の働きも、五十年の長い歴史の中にはありました。しかし、大体そういう事が起こっても、一、二年たつとリセットされるのです。
 ある時には、すごい霊に燃えて主に仕えるのですが、やがて力を失ってしまうのです。「あれ、この間、あんなに燃えていたのにどうして…」信仰にはいつも波があり、上がったり下がったり…下がったり下がったりと、そんな信仰生活だったのが、一九九二年に聖霊が注がれ、「後ろの扉をしっかり閉めなさい。それから油をもらいなさい」と語られて実行したら、十七年間こうしてやって来る事ができたのです。その理由はただ一つ、後ろの扉を閉めたから、盗まれなくなったからだと思います。

 特に、「貸主」とは新約の概念を重ねると、「悪魔・悪霊ども」です。「悪霊どもにたいする扉を閉めろ。それから聖霊を求めろ」という事を教えられたのです。
 やもめの家では子供たちが狙われていました。子供たちが借金を作ったわけでもないのに、子供たちが狙われていたのです。という事は、子供たちの罪でもないのに子供たちが狙われていた状況があったという事です。

実は、「後ろの扉を閉めろ」という具体的な意味は、「罪から離れなさい」という事です。私達が聖くならなければ、聖い霊である聖霊様は私達の所に来て下さいません。聖くなることはとても重要な事です。時々、「教会に来たら、やってはいけない事が多いから、あまり行きたくない」という人がいます。
 何故、聖書に「こういうことはやってはいけませんよ、気をつけて下さい」と告げているのかというと、それが餌となって悪魔・悪霊どもが侵入するからです。家の中に何故ネズミが来るかというと、家に穴が開いていることと、餌があるからです。夜中に電気をつけたら、ゴキブリがいっぱいいた、勝手場の明かりをつけたらゴキブリと目があったなど、とてもいやな気持です。何故ゴキブリがいるかというと、生ゴミがあるからです。炊事場を奇麗にしておかないと来るわけです。ちゃんと掃除して奇麗にしておいたら、“餌がなければゴキブリも来ない”のです。

 悪魔や悪霊どもがなぜ来るのかというと、餌があるからです。餌があることによって扉が開いて入ってくるのです。それが罪です。罪から離れて聖くなる事がとても重要なのです。十戒というのは罪の基準ですが、その中でも悪魔が侵入する扉を特に注意しなければならないと悟りました。主から教えられた、悪い意味での悪魔のえさとなる三つのパンの一つは、エペソ四章二十六節、

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」

 憎しみというのが、悪魔に対して扉が開く餌となります。聖霊のバプテスマを受けるために必要なのは、「憎しみを捨てる事」です。どんなにあなたを傷つけた人がいたとしても、人を憎むことによって、悪魔が機会を捉えるとしたら、憎んでも何の得にならないのです。背後に敵の力が来るとしたら、よい事はありません。ですから、何があったとしても、常に「許す」という立場をとる事が大切です。
 我々が聖霊を受けた時、本当に多くの問題が周囲にあって、憎しみが生じやすい環境でした。私は少々血の気が多い方で、昔はケンカが好きでした。(弱い者に対しては喧嘩早く、強い者に対してはすぐにごめんなさいと言う方でしたが)
 しかし主が、「憎しみを捨てなさい。悪魔が機会をとらえるから」と語られました。「憎しみの扉を閉める」事は重要です。

 そしてもう一つ、第一コリント六章十五〜十六節、

「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。」

 それは性的罪の扉です。現代はどうでしょうか。日本も世界も、性的な罪が蔓延しています。性的罪は悪魔が最も効果的に、人に与えられた良き物を盗む餌となるのです。性行為とは「二人は一体となる」と言われています。性的な罪によって何が起こるのかというと、「関係した人の霊的な背景も、背後の悪霊の軍団も一緒になる」のです。本当に恐ろしい罪です。

 最後の扉は、“偶像礼拝”です。偶像礼拝は三代、四代の呪いです。
 しかし、偶像礼拝よりもさらに恐ろしい罪が、もしかしたら性的罪かも知れません。何故ならば、偶像礼拝は何を拝んだのか、その背景を知ることが出来るからです。しかし性的罪は、相手が持っている霊的バックグラウンドなど、何も分からないからです。性的に結ばれる事によって、二人の霊的領域さえも共有化されるとしたら大変です。そこから強力な敵が侵入するからです。ですから「その罪から離れなさい!」と主は語られます。

 特に、「憎しみ」と「性的な罪」、そして、「偶像礼拝」、この三つの門をしっかりと閉めて固く閉ざし、聖霊様を求めたら必ず、聖霊様は私達の所に来て下さいます。

 私達は後ろの扉をしっかりと、閉めなければいけません。エペソの教会に聖霊が注がれ、リバイバルが起こったように大変革が起こるのです。この聖い三つ目のパン、「聖霊のバプテスマ」を求めましょう。

 聖霊様を熱心に求めたいと思いますが、その前に、三つの扉をチェックしようではありませんか。偶像礼拝についてはいつも話していますから、すでに扉は閉められていると思いますが、今日は、「憎しみ」を捨てて祈りましょう。性的な罪に関しては、本当に気をつけて下さい。聖く歩まなければいけません。また、夫婦関係も、愛し合って守られなければなりません。罪から身を守ることは、私達自身の祝福のため、また、子供達の祝福のために大変重要なことであるのです。

 今日は「聖霊のバプテスマを受ける」という事を共に学びましたが、エペソの教会と同じように、聖霊の油注ぎを受け、聖霊のバプテスマを受けて、日本のリバイバルのために働いていきたいと願います。

ご一緒にお祈りしましょう。特に、主を熱心に求めたいと思います。「聖霊様、私に触れて下さい」と。三つの扉が完全に閉められるように、敵に良き物を持ち去られる事がないように、ご一緒にお祈りの時を持ちたいと思います。


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