「輝く未来のために」


2009.11.1(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

エレミヤ書 31章16節〜17節
「主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。 あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日もこうして皆さんと共に、礼拝を守る事ができます事を心から感謝します。巷ではインフルエンザが流行っておりまして、そんな事で少し礼拝へも出席は、「ちょっと、ひかえさせて頂きます」という方も中にはおられるかもしれませんが、勇気を持って出てきて下さいまして、心から感謝しています。ある意味、新型インフルエンザは国の危機かもしれませんが、共に祈り、戦っていきたいと思います。
 今日は、新城市では選挙がありまして、国も地方も変化しつつあります。こんな時にこそ私達クリスチャンは、主の前に出て真剣に祈らなければいけないと思っています。皆さんに今日は、リバイバルミッションニュースをお渡ししましたが、そんなことも書かせて頂きましたので、帰ったらお読み頂きたいと願っています。

 今日のメッセージのタイトルは「輝く未来のために」というタイトルです。誰でも、輝く未来を願って頑張っていますが、輝く未来どころか暗い世の中になって来ました。しかしみ言葉を学ぶのは、輝く未来のための秘訣を学ぶ時でもあります。聖書の中から、共に、その秘訣を学んでいきたいと願います。

 今日読んで頂きました、エレミヤ書三十一章のみ言葉は、皆さんもよくご存じの箇所だと思います。
 主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある

 聖書の言葉は主を信じる者たちに対して語られている言葉ですから、今日はこの言葉を自分のものとして、信仰によって受け取って帰って頂きたいと思います。「あなたの将来には望みがある」とありますから、これを「私」に置き換えて、「私の将来には望みがある!」と受け取りましょう。
 今日は礼拝が終わりましたら、恒例の新城教会運動会がありまして、運動会に出て、少しでも身体を鍛えて下さい。やはり、輝かしい未来のためには、身体も鍛えておかなければいけません。運動不足は良い事ではありません。

 来週の日曜日は、私は新城教会で礼拝を守らせて頂きますが、その次の週から二週間、アメリカで奉仕させて頂くことになっています。今回は、ワシントンDC、ニューヨーク、ニュージャージー、シカゴと、広範囲を二日、三日ずつ、それも韓国教会で奉仕をさせて頂くことになっています。アメリカには韓国教会が多くあるのですが、そちらからお招きを頂きました。これも韓国リバイバルミッションの流れの中で、主が道を開いて下さったのですが、是非とも祈って頂きたいと思います。
 今回のスケジュールは、すべて韓国側で作って下さったのですが、私はどこに行きたいとか希望はなかったのですが、最終日がシカゴになりました。

 以前に、私はある所からメールを頂きまして、それがちょうどシカゴ近郊の教会の方からでした。「こちらに来たら、うちの教会で集会をして下さい」とありました。
 私はシカゴに行く機会なんてあるのかな、と思っていましたが、丁度スケジュールを見ると、最後にシカゴでの奉仕となっていました。それで続いて、奉仕をさせて頂くことになっています。主が栄光を表して下さるように、是非とも祈って頂きたいと思います。

 先日も、ジョー先生が新城に来てくれました。私は先生と大変親しいですから、「今回アメリカに行くので、どこかで合流しませんか」と話をしたのですが、最後のアメリカ人の教会では、私とジョー先生が一緒に奉仕することになりました。
 ジョー先生は私の所に、時々、変な面白画像・動画などを、メッセージの足しになるように送ってくださいます。今回も「クレイジー」という画像を送ってきましたが、それをある人に見せたところ、「順先生、それは礼拝で見せないほうがいいよ。誰かの心臓が止まるといけないから」と言われましたが、今日の礼拝メッセージの内容と関連があるので、ちょっとお見せしたいと思います。

 皆さん、踏切でなぜ遮断機が下りるのかというと、「中に入ったら危ない」ということを教えるためです。
 また、海や川によく、「遊泳禁止」とありますが、何故泳いではいけないかというと、そこで泳ぐと危険だからです。「楽しい遊び場を私からとらないで・・・」というのではなく、危険だからやめなさいよ、という事です。
 私たちも、輝かしい未来を築くためには、聖書の基準に則して歩む事が重要です。
 ヨブ記十一章十三節〜二十節に、こんな言葉があります。

「もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。――そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。しかし悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みは、あえぐ息に等しい。」

 ヨブ記は難解な書物であり(ナンカイ読んでもわかりません)、ヨブの三人の友人が出てくるのですが、彼らの言葉は最終的に神様から否定されています。ですから彼らの言葉を引用するのはどうか、という意見もあるのですが、それは全てが否定されているわけではなく、真理も語っているのです。この言葉も、ナアマ人ツォファルという人物が語った言葉ですが、聖書全体からその部分を見ると、正しいことを語っています。
 「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くてもそれは朝のようになる」とありますが、たいへん素晴らしい言葉です。
 ここには、輝く人生を送るための条件が述べられています。その条件を人生に適用していきたいものです。「あなたの一生は真昼のように輝き、暗くてもそれは朝のようになる。望みがあるのであなたは安らぎ、あなたは守られて安らかに休む」

 先ほども聖歌隊が、素晴らしい賛美を歌ってくれました。「すべて安し、安し」と歌いました。「大売出しの歌かな?」と思った人もいるかもしれませんが、そうではなく、「すべて安らかですよ、平安ですよ」という意味です(文語体は難しいです)。全てが安らかなためには何をしたらよいのかが、ここに教えられているのです。

 まず第一に、「もし、あなたが心を定めあなたの手を神に向かって差し伸べるなら」という条件があります。
 私達の信仰生活の中での重要なポイントは、「心を定める」という事です。すでにクリスチャンの方々は、ある時、心を定めたと思います。「よし。私はイエス・キリストを信じて、これからは教会へ行こう!」と心を定めたのです。「心を定めた」事によって、信仰が動き始めたわけです。
 この事は新約聖書、ローマ人への手紙十二章二節にもあります。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 「心の一新によって自分を変えろ」と勧められています。ヨブ記においても、「あなたが心を定め」と、「心を定め」、「心を一新する」という、決断が重要なのです。「イエス・キリストを信じようかな、やめようかな、教会に行こうかな、行くまいか…」ではなく、「心を定める」のです。
 「あなたの手を神に向かって差し伸べる」、すなわち、主イエス様に目を向け、自らの手を差し伸ばす時、あなたの自主性と共に主が手を取って下さいます。今日初めて教会に来られた方もいるかもしれませんが、自らの「決断」があなたを救うのです。

 そして、第二に、十四節、「あなたの手に悪があればそれを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな」となっています。
 続いて決断しなければならないのが、「あなたの手に悪があればそれを捨てなさい」と促されています。「悪」、すなわち、「罪」と聖書が告げている事柄を「手放す決断」です。

 アフリカで、サルを捕まえるために一つの仕掛けをするそうです。どんな仕掛けかというと、それは、丁度サルの手が入るほどの大きさの穴を開けた箱を用意し、中にサルの大好きなバナナとか木の実を入れておくそうです。そして、そのボックスを木に縛り付けておくとサルが来て、その穴に手を差し入れてバナナを取ろうとします。しかし穴が小さいので手が穴から抜けなくなるのです。サルはバナナ欲しさに、一生懸命バナナを握ったまま、手を引き出そうとしても、バナナを持っているがゆえに、手が穴から出ないのです。そうこうしているうちに人が来てサルを捕まえ、サルは食べられてしまうのです。サルは手に握っているものを手放すことができずに、自分の身を滅ぼすのです。

 同様に私達も自分の手で悪を握っていると、手放さない限り、あなたにとって良い事はありません。手放す決断をしなさい、という事です。礼拝に来たら、自ら、何らかの決断をして帰る事が輝く未来のために重要です。

 先週、私は、「聖霊のバプテスマを受けよ」という主題で語らせて頂きました。その中で大切なことは、「後ろの扉を閉める」事が重要だと語らせて頂きました。その中で特に閉めなければならない三つの扉についてお話ししました。それを復習させて頂きますと、「憎しみの扉」、「性的罪の扉」そして、「偶像礼拝の扉」をあげさせて頂きました。
 憎しみ、性的な罪、そして、偶像礼拝が敵の侵入を許してしまう扉であり、神から与えられた良きものを盗まれるという話をさせて頂きました。
 先週、礼拝が終わったら、私の携帯に小学校二年生の男の子から電話がかかってきました。「順先生。今日の礼拝メッセージは恵まれました!」と。「何が一番恵まれたの?」と聞くと、「憎しみの扉を閉めなければいけない、という話に感動しました」と言いました。小学校二年生でそんな事があるのかな、と思いましたが、憎しみの穴から手を離さなければならないのです。

 また、性的罪が世の中に蔓延しています。それは人生に祝福をもたらしません。必ず滅びに向かっていくのです。そして、偶像礼拝、この三つは手放す決断をしなければいけないのです。
 また先週は、ただ単に手放す、というだけでなく、それらの背後にある霊的理由についてもお話しさせて頂きました。「憎しみ」に関して、エペソ四章二十六節〜二十七節で、

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」

となっています。我々が誰かに憎しみを抱いてしまう原因は、人間関係の中にあります。関係がうまくいかなかったり、トラブルがあったりと、必ず何らかの理由があるのです。被害を被ったら、「あの人の言葉で大きな被害を被った」と、何らかのはっきりとした理由があるのです。その話を聞けば、「憎むのも仕方ないかな・・・」と思うかもしれません。しかし私達が、「憎しみ」を持っていると、悪魔に機会を捕らえられるのです。悪魔が私達の後ろに回り込み、人生を捕えます。
 ですから、いかなる理由があっても、憎しみを持ち続ける事は益にならないのです。何故なら、「悪魔」が機会を捕らえるからです。憎しみは大きな問題です。

 実は、「憎しみ」「性的な罪」そして「偶像礼拝」は、一つの言葉でくくる事が出来ます。それは、「関係」という言葉です。憎しみと性的な罪は「人間関係」に含まれ、偶像礼拝は「神との関係」の中に含まれるからです。
 私達は関係の中で常に暮らしています。そして、関係がうまくないとき、輝かしい未来も暗くなります。現実的に一番大きな関係は“人間関係”です。人間とは、「人の間」と書きますから、常に人間関係の中で生活しなければならない存在です。人間関係がなければどのくらい楽か、と思うかもしれませんが、そんな事を言えば無人島か何処かでなければ生活出来ません。

 先週はすごいニュースがありました。四日間も、転覆した船底に折り重なるようにして閉じ込められていた人たちが救出されたからです。三人は逃げ遅れたがゆえに、生きていて助かったのです。考えただけでぞっとします。あんな隙間に、身動きひとつ取れないで四日間もよくぞ生きていたと思います。(トイレはどうしたのかな、など考えてしまいますが)
 彼らが、救出されて語った言葉が、「一人だったら絶対にだめだったと思う」でした。三人いたから助かったと。ほとんど言葉は交わさなかったらしいです。時々、「生きてるかい?」と励まし合い、生き延びる事ができたそうです。
 私達は、人間関係があるからこそ、生き延びる事ができるのです。ですから、大切にしなければならないわけです。そんな人間関係を崩す力が「憎しみ」です。

 しかし聖書は、さらなる情報を提供しています。創世記十一章四節から九節を見ますと、初めの人類は同じ場所で、同じ言葉で過ごしていたようです。しかしある事件が起きて、人類は全世界に散らされました。四節から読んでいきますと、

「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」

 実はこの記録をもう少し深く、考古学などを重ねて調べてみると、人々が建てた塔というのはただの塔ではなく、「グラッド」と呼ばれる、塔の頂上には神殿が建てられていた宗教施設であったことがわかります。そこではシャーマニズムが行われる、降霊術の為の塔であったことがわかっています。高い所で人々は何をしたかというと、星占いをしたのです。

 十一月になると突然、日本に変化が起こります。それが何かというと、十二月二十五日までクリスマスモードになるからです。街中に星が出現します。そして、あたかも人間の運命が星に結び付けられているかのように、星占いが巷で流行ります。そもそも人類が全世界に散らされた理由、お互いに言葉が通じなくなった原点に、「星占い」があるのです。皆さんも、新聞やテレビなどで、「今日の運勢、今日の星回り」などがあって、ちらっと見てしまうかもしれませんが、星占いは本当に危険です。それは結果的に、悪霊を呼ぶことであり、結局何が起こるかというと、人々の関係がばらばらになってしまうのです。実は、偶像礼拝は最終的に、お互いに言葉が通じなくなる最も大きな原因です。憎しみの背後にも、霊的な理由があるのです。

 また、先ほど性的罪についてもお話ししましたが、先週も引用した第一コリント六章十五節〜十六節に、

「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです」

 当時のコリントの街には偶像の神殿が多くありまして、神殿には神殿娼婦と呼ばれる売春婦が大勢いました。何と、コリントの教会のクリスチャン男性さえも、そんな所に行く人がちらほらいたようです。パウロはその人々に対して警告したののです。
 「皆、やっている事じゃないか。お金を払って、ちょっとした遊びだよ」と、軽く考えていた人々がいたようです。その人々に対し、パウロは、「遊女と交われば一つ身体になる事を知らないのですか、二人の者は一心同体となると言われているからです」と語りました。
 何と、たった一回の行為でさえも、「一心同体」となる、これは結婚の時に使われる言葉です。「二人ではなく一人」になってしまうというのです。売春宿の女性と一体になってしまう、別に結婚式をあげたわけでもないのに、二人が一つになってしまう、そのような霊的束縛が発生するのです。神殿娼婦がどんな過去を持っているのか、どんな霊的背景を持っているのかわからないけれど、一回関係を持っただけでも、その人と霊的な部分さえも共有してしまう危険があるのです。それはただ単なる快楽とか、不道徳というレベルではなく、霊的関係づけです。ゆえに、気をつけて下さい、という注意なのです。

 二〇〇六年にイギリスのセント・トマス病院の研究者達が発表した論文が、時事通信に載っていました。
 「女性が浮気するのは遺伝子のせい」という論文です。「セント・トマス病院の研究者らは二十五日までに、このような傾向を示す調査結果を公表した。人の性的行動と遺伝子的要因を明確に結びつけたのは初めてで、結果は来月出版される医学誌、ツイン・リサーチに掲載される。十九歳から八十三歳までの女性の双子一六〇〇組以上を対象に、過去の性的行動についての聞き取り調査を実施、その結果、浮気をしたことがあるとした人のうち、遺伝的要因にあると判断されたのは四十一%で、これは遺伝の影響で癌などの病気を発症する割合よりも高かった」

 巷に浮気や不倫などが多く見られますが、それを調べると遺伝的要素があるというのです。それはただ単なる遺伝ではなく、そのような霊的つながりが家の中に入ると、次の世代、次の世代へと問題が生じるのです。そのようなただ中にあっても、心の一新により、心を決めて罪と戦わなければならないのです。
 コロサイ三章五節〜六節にはこうなっています。

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。」

 このような問題に関しても、「絶対に負けないぞ」という、心の一新をもって、決断を持って生活をする事が輝く未来のために重要です。罪が単なる自分の行動だけではなく、霊的世界とのつながりがあり、新しい世代へも悪い影響を与えるのです。
 二年くらい前、私はフェルナンド先生と一緒に、スペインの「エンラセ」というテレビ局で奉仕をさせて頂きました。スペインの多くの方々にテレビを通して、福音を語らせて頂きました。私は色々な国で奉仕をする時に、まず、「この国のタブーは何ですか?」と聞きます。やってはいけない事と、やっていい事とを聞いておかなければ、日本人の常識が向こうの非常識であったり、向こうの非常識がこっちの常識であったりしますから、やはり聞いておかなければいけません。
 日本人であれば子供がいたら、「かわいい、」と頭をなでますが、インドネシアでは頭をなでてはいけません。子供の頭をなでるのは「呪われよ」という意味になるそうです。「じゃあ、かわいい事を示すにはどうしたらいいんですか?」と聞くと、ほっぺたを引っ張るそうです。(日本でやったら問題になりそうですが)
 また、インドネシアでは家の調度品をほめてはいけないのです。ほめるのは「それ、ちょうだい」という意味だそうです。
 私は一度、試しに一つの魚の置物を「いいですね!」と褒めてみると、帰りには新聞紙にくるんでありました。(その家には高級車ベンツがあったので、そちらをほめてみればよかった、と思いましたが)

 スペインで、「語ってよい事、悪い事はありませんか。この国の一番の問題は何ですか」と聞くと、国の一番大きな問題は「同性愛」だと言いました。ですからその事はなかなか口にできないそうです。地下鉄などに乗ると、男同士で手をつないだり肩をくんだり、気持悪いです。私は、「テレビで皆に、『それは罪だ!』と語ってもいいですか?」と聞くと、「いいですよ、しかし帰りにテレビ局の出口で、皆があなたを待っているかもしれないですよ」と言われました。
 しかし現実には、日本でも近ごろ結構多いです。アメリカなどは大変です。男同士、女同士が結婚してもよい、などという法律が出来たら教会は困ってしまいます。男性同士、女性同士が教会で結婚式をやらせて下さい、と言われて式を拒んだら法律違反になってしまうからです。そうなると教会はどうする、とアメリカの教会では悩んでいると言っていました。
 しかしの原因がどこにあるのかというと、聖書は、様々な社会問題の発生源が偶像礼拝にあると告げています。
 ローマ一章二十二節〜二十七節、

「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

 二十二節から見ると二十二、二十三節では、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」とあります。そして二十五節に、「造り主の代わりに造られた物を拝み」、「物を拝む」とあります。これは偶像礼拝の事です。日本人が拝んでいるのは手で造られた「物」、石や木や金属、こういう「物」を拝んでいるのです。
 二十四節では「それゆえ」二十五節では「それは」二十六節「こういうわけで」二十七節「同じように」と偶像礼拝を受けて、「それゆえ、それは、こういうわけで、同じように」とつなぎ、性的乱れが社会に蔓延し、さらにオーバーランして、男と男、女と女というような同性愛社会にまでなだれ込んでしまうと警告しているのです。
 偶像礼拝が諸悪の根源であるとパウロは論じています。今、アメリカやスペインなどでも男性同士、女性同士の結婚を認めていますが、そうなると次に何が起こるのか心配です。実は結婚はとても重要なことなのです。
エペソ五章三十一節〜三十三節、

「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」

 結婚生活の中にキリストと教会がシンクロしていて、正常な結婚は輝かしい未来を創りだすのです。キリストと教会が一つとなるとはどのような意味でしょうか。
 教会がイエス様と一つになれば何が起こるかというと、イエス様が持っている資産を教会が共有出来る、という事です。

 私の子供達も育って、結婚して今度二人目の孫が十二月に生まれることになっています。娘が学生時代、あまりお金が無かったのですが、ジョー先生が、「うちに泊めてあげるから留学していいよ」と言われ、私の娘はジョー先生の所にお世話になり、三年近くアメリカで過ごしました。しかしあまりお金はかかりませんでした。日々の生活は、アメリカはカード社会なので、クレジットカードで支払っていました。けれども、請求は全部、私のところに来ていました。なぜなら彼女はファミリーカードを持っていて、私の名前の下に娘の名前がついていて、彼女は自分で買い物をするのですが、支払いは父親である私の所に来ていたわけです。私が彼女の一カ月の分を支出を見ると、「沢山使ったな。色んな所で服を買って…」と思いましたが、仕方なく、支払いました。これは彼女が私の資産を共有していたからです。

 教会がイエス様の権威を共有するなら、教会はイエス様名義のファミリークレジットカードを使わせてもらうようなものです。教会がイエス様の中にある富を自由に使う事ができるとしたら、どんなに素晴らしいでしょう。
 それがどこから始まるかというと、一人の男性、一人の女性が結婚する中にある奥義から始まるのです。男性と男性、女性と女性ではそれはあてはまりません。悪魔は神の計画を知っていますから、神の法則を壊すために日夜真剣に努力しているのです。性的領域は単なる罪ではなく、深い霊的意味がある事がわかるのです。そして、偶像礼拝が諸悪の根源であることがわかります。

 日本人は、偶像を自分を助けてくれる味方だと信じていますが、それは味方ではなく味方のふりをした、あなたにとって最大の敵であるわけです。出エジプトを果たしたイスラエルの民に、神は何と語ったかというと、出エジプト二十三章三十二節、

「あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。」

 偶像礼拝は悪魔、悪霊どもと結ばれる「契約」です。契約書があると貸主が来ると先週、お話しをさせて頂きましたが、偶像礼拝は貸し主である悪魔が近づく、本当に恐ろしい罪であるということです。先程の、ヨブ記十一章十四節、

「――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。――」

 ヨブ記がいつ書かれたかについては、色々な説がありますが、族長時代から士師の時代の間に書かれたのではないかと言われています。その頃の人々がどのような生活をしていたかというと、今のような定住型の家に住んでいたのではなく、天幕を引きずって旅をする遊牧民族でした。
 「あなたの天幕に不正を住まわせるな」とありますが、ヨブの時代の人々にとって最も大きな不正が何であったかというと、創世記の三十一章などを見ますと、ラケルがラバンの天幕からテラフィムを盗み出したと記されているように、天幕の中で行われていた偶像礼拝でした。
 ラケルはラバンの天幕からテラフィムを盗み出し、やがてそれがイスラエルに持ち込まれ、ダビデの時代にはテラフィムは巨大化し、国中にあった事がわかっています。「あなたの天幕に不正を住まわせるな」とは、家が行っている偶像礼拝です。それが引き金となり、様々な問題が起きるのです。
 聖書に接すると、輝かしい未来を止める原因が何かわかるのです。先ほども、「ここで泳ぐと命を落としかねませんよ」という立て札について語りましたが、聖書の中で最も大きな警告が偶像礼拝です。

 ヨブ記を一章から見ますと怖い気がします。ヨブという人物は神に近い人でしたが、ある日彼は、人生最悪の日を迎えます。それがヨブ記一章十三節から十九節に記されています。

「ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」と。

 ここで「ある日」と記していますから、彼は一日のうちに、地域で最も富んでいたヨブは全ての財産を失い、それどころか自分の愛する子供達でさえ、失ってしまったのです。この事を考える時に、ヨブがどんな心境だったかと思います。
 私達も時々、色々な問題があるかもしれませんが、ヨブと比べればまだましだと思います。今でもヨブが生きていたら、ここにヨブをヨブ事が出来たら、「本当にひどかったんだ。私なんかまだいい方だ。」と思うことでしょう。一日のうちに彼は、全ての財産を失っただけでなく、使用人たちも、何と、自分の愛する子供達もすべて失ったという、しゃれにならないストーリーです。

 しかし、聖書は情報提供の書であり、ここから多くの情報を入手できるのです。ヨブが全てを失った原因を表面的に見るならば、シェバ人が襲いかかってとか、カルデヤ人が三組になって襲ってきたとか、犯罪や民族紛争に巻き込まれた事によります。また、神の火が天から降ってきた、この表現は、多分、雷だろうと言われています。昔、雷は神の怒りだと思われていたからです。人々に雷が落ちたという気象現象ではないかと思われます。
 また、荒野の方から大風が吹いてきて、家が潰れて子供たちが死んだというのです。いわば天災です。犯罪、民族紛争、自然災害で財産を失ったり命を失ったというのです。我々もこれほどひどくはないかもしれませんが、毎日見ているニュースの中、報道されるほとんどが、犯罪や民族紛争で大勢の人が亡くなり、自然災害などで多くの人命が失われています。多かれ少なかれ、我々にも関わりがあります。この間も大きな台風があり、朝起きるとびっくりしました。家の前に、どこから飛んできたのか、大きなトタンが舞い降りていました。教会の配線もずれたり、すごい風でした。昼間でなくてよかったと思います。もちろんこういう事は自然災害ですが、聖書を見ると、すべてではないにしても、背後に霊的な理由があったことを付しているのです。

 ヨブは、単に家族がやられただけでなく、自分もやられました。その原因について、ヨブ二章六節〜九節に、

「主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

 彼は病気にもなりました。そして、この病気にサタンが関わっていたのです。我々も多かれ少なかれ、病気にもなります。この頃も新型インフルエンザが流行っていて、どうなるか不安があります。もちろん、環境的・医学的な理由があるかもしれませんが、どれだけの確率かわからないけど、我々が見ているニュースの背景にも、敵の存在が関わっているという可能性をヨブ記は情報提供しているのです。
 ヨブ記一章六節〜八節、

「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

 見えない世界で神とサタンの間に会話があり、その結果として、災害が起きたり、犯罪が起きたり、病になったという、霊的世界の決定が見える世界に反映される事もありえると示唆しているのです。
 という事は、一〇〇%ではないかもしれないが、そういう世界もあると、聖書は教えているのです。そして、その一番大きな原因の一つになりうるのが、偶像礼拝による契約です。
 悪魔が私たちとの契約書を持っていたらどうでしょうか。神の前で話をしている時に、悪魔は神の前にその契約書を差し出すはずです。「神様、これを見て下さい。これは彼と交わした契約書です。だから彼に関わっても文句は言えないはずです。」と言って、地上に問題として反映されてしまったら、そんな馬鹿らしい事はありません。偶像礼拝から離れる事は大変重要であり、罪から離れるという事が、我々の明るい未来のために最も大切であるという事がわかります。

 ヨブは三人の友人、そして、一人の若者が入ってきて、問題に関して論議をしました。しかし最終的には神様は素晴らしいお方で、神を真剣に求める時に、多少ヨブの考え方は間違っていたとしても、失われた物を二倍にして戻して下さったというハッピーエンドで終わっています。人生、二転、三転はするけれど、神だけに目を向ける時、必ず主は回復を与えて下さるのです。

 しかし、このヨブの悲劇とは何かというと、ヨブにしても登場人物にしても、誰一人、問題の真犯人について気づかなかった所に、最も大きな悲劇があるのです。この真犯人が誰かと言うと、「サタン」でした。
 ある、ヨブ記の注解書に、「ヨブの悲劇とは、ヨブを含めて登場人物の誰一人として、真犯人について気づかなかった事だ」とありました。そして最後に、『その事に気づくことができるのは、ただ読者だけである』と結んでいました。

 ヨブ記を読んだら、私達は真の情報を受け取らなければなりません。現実問題の背後にある、霊的理由に気づかなければならないのです。
 そしてイエス・キリストを信じる時に何が起こるのか、ルカ十章十九節にこんな言葉があります。

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
 
 ヨブの時代は旧約時代でしたから、彼は一生懸命神に仕えていたけれど、自分の知らない所で悪魔に訴えられるような事があったけれど、イエス様の十字架と復活以後、すなわち、私達クリスチャンは、「知らない所でヨブのように訴えられる事はない」のです。イエス様を信じるならば、私達はむやみやたらに悪魔に訴えられる事はなくなるのです。何故ならば私達には聖書という情報がありますし、敵のあらゆる力に勝利する「権威」が与えられているからです。
 ヤコブ四章六〜七節、

「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

 私達がイエス様を信じて、神との関係ができると、豊かな恵みを与えて下さいます。恵み、という言葉は教会でしか使わないような言葉かも知れませんが、それは神からの「祝福」です。ヨブは辛い試練の中にありましたが、神を知っていました。それで、神に頼り、どんなに辛くても頼り切ったのです。その結果最後には、失った物を倍にして取り戻す事が出来ました。
 これは「豊かな祝福」です。しかし、新約時代は、「さらに豊かな祝福」が与えられるのです。
 どこに秘訣があるのかというと、ただ単に神の領域だけを知るのではなく、「神に従い、悪魔に立ち向う」、「悪魔に立ち向かう」という領域が付け加えられると、豊かな恵みプラス、「さらに豊かな恵み」が与えられるわけです。

 今、私達はイエス様の十字架と復活によって、霊的戦いに勝利する権威をもらったのです。その事により、今までは「豊かな恵み」だったのが、今度は、「さらなる豊かな恵み」が与えられます。
 「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」とあります。高ぶる、へりくだるとは何を意味するのか、それは「立ち向かう」に対応しています。「神に従いなさい、そして悪魔に立ち向かいなさい」というのがへりくだりにつながるのです。
 神に従うとは、神の奴隷になるようなイメージを持ちますが、従うは元々軍隊用語で、「指揮者に従属する」とか、「自らを服従させる」という意味です。それは、イエス・キリストの兵士として、「この場所で役目を果たしなさい」と、自分に与えられたポジションに着く事を意味します。教会はキリストの体であり、それぞれに役割があり、それぞれのポジションに着く事が、「神に従う」事なのです。与えられたポジションに従い、悪魔に立ち向かう時、悪魔は逃げ去ります。そして、「さらなる恵み」につながるのです。

 今日はメッセージの前半で、「心の一新」についてお話ししました。そして、「罪」についてもお話しさせて頂きました。中々ハードルが高いな、と思う方もおられるかもしれませんが、新約時代は、弱い私達を助けるために、聖霊様を遣わして下さっています。先週は私はその事についてお話しさせて頂きました。
 ヨハネ十四章二十六節、

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

また、ローマ八章二十六節に、

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

 聖霊様が私達と共にいて、助けを与えて下さるのです。私達は神から遣わされた勇士であり、神が与えて下さったポジションに着く時、教会に与えられたイエス様の資産を共有し、権威を持って敵に立ち向かう事が出来るのです。
 立ち向かうとは、罪に立ち向かう事です。それがイコール悪魔に立ち向かうことなのです。

 今週、私達が人間関係の中で、「人を憎まず、愛していこう」というのが、霊的戦いです。また、色々な誘惑があった時に、それをはねのける事が、霊的戦いを行っている事です。偶像礼拝に関してもしかりです。罪と戦い、この世と戦っていく、それがイコール霊的戦いであり、そこが最大の霊的戦いの現場であるのです。主の勇士としてその場に派遣される時に、神はそこで勝利を表して下さるのです。

 実は私はシカゴに行く事になりましたが、シカゴ近隣のあるアメリカ人の教会で奉仕をすることになりました。何故奉仕をすることになったかというと、数年前にある方からメールを受け取りました。それは自分の問題を分析してみると、「もしかしたらこれは霊的な問題かもしれない」と気付いたそうです。それで悪霊というキーワードで検索すると滝元順というのが出てきて、私のメッセージを読んだそうです。それで、私にメールが来ました。その人はアメリカに住んでいました。遠いところの人でしたから、どうやってお祈りして差し上げればよいのか、わからなかったのですが、住所を聞いたら不思議な事にYご夫妻が丁度シカゴに住んでおられ、彼らの住んでいる場所の近くである事が分かりました。ですから私はYさんに電話して、祈りをしてくれるように頼みました。
 神様の働きは全て無駄がなく、全世界に勇士を配備しておられます。彼女は元気になりました。この教会にも来られてさらに元気を取り戻して、アメリカに帰りとりなしの祈りをするようになりました。

 そしてある教会に出席するようになりました。その教会には多くの問題があり、皆、元気がなかったそうです。私の「主が立ち上がられた日」が英語に翻訳されていて、それを読んでもらったそうです。すると、幾人かの方々が「霊的戦い」に気づかされたのです。
 そして今回、その教会に、ジョー先生と私が奉仕に行く事になりました。それも韓国ミッションのからみで、不思議なことにシカゴに行くことになり、その教会でも奉仕することになったのです。

 神様の働きは全世界規模です。備えられた場所に一人一人を配備しておられるのです。役割をこなしていく中で、問題も解決され、さらには回りの問題さえも巻き込んで解決するほどの大きな勝利につながるのです。まさしく、「さらなる豊かな恵み」です。

「あなたの一生は真昼のように輝き、暗くてもそれは朝のようになる。望みがあるのであなたは安らぎ、あなたは守られて安らかに休む。あなたが横たわっても誰もあなたをおびやかさない。多くの者があなたの好意を求める」

 「あなたの将来には望みがあります」人生は尻つぼみではなく、輝く未来が用意されているのです!もちろん、今日学んだ事がすべてではありませんが、心を定めて戦っていく時、さらなる恵みを頂く事ができると信じています。


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