ヨハネの福音書 11章30節〜44節
『さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
ハレルヤ!アーメン、感謝します。本当に嬉しいです。こうして、イエス様は私が日本に来るたびに、このような素晴らしい教会にお送り下さり、特に、今回、こうしてイエス様の愛する新城教会に来ることができました。本当にイエス様に感謝の思いでいっぱいです。私たちの教会は、順先生と出会い、先生に礼拝に来て頂いて霊の戦いを教えて頂き、また、み言葉によって多くの励ましを受けてきました。岡本先生にもお世話になり、また、リバイバル聖書神学校でも、私達の教会から佐藤誠兄弟がお世話になっております。今、アメリカに、新城発のリバイバルが広がろうとしておりますから、引き続きお祈り下さい。
今日のお読みした聖書の箇所は、ラザロがよみがえったというストーリーで、私はこの箇所が本当に大好きです。死人がよみがえるわけですから(もちろんイエス様もよみがえられたわけですが)そういう事が実際に起きるわけですから、人生、これを信じることができたら、何が起こっても平気です。死んでも生きるのですから、クリスチャンの人生は喜びと希望で一杯です。感謝します。
この箇所はイエス様が十字架にかかる直前に起こった出来事です。もちろん、死者の復活と言いましても、イエス様の復活とは違います。イエス様は復活した身体のまま、天にあげられました。この光景は是非見てみたいです。もう一度帰って来られますから、オリーブ山にいれば見れるわけですが。ラザロの場合は、死んで生き返った後、また私達と同じように死にました。この点において、イエス様の復活と少し違いますが、いずれにしても、死んだ人が復活したのです。
私達の教会では、お医者さんから「もう助からない」との宣告を受けた末期癌の方が癒されたり、耳の聞こえない人が癒されたりといった奇跡は起きましたが、まだ、死んだ人がよみがえったのは見たことがありません。私の友達の牧師さんで、お葬式の時にそれをして大ひんしゅくを買った方がおられますが…(笑)。主に導かれなければ出来ない事です。
イスラエルのお葬式は一週間行われます。ラザロの葬式も一週間行われましたが、その中の四日目にイエス様が来られ、ラザロは墓から出てきました。当時、イスラエルは電車もなく車もない、もし親戚がガリラヤ湖に住んでいたり、ヨルダン川の向こう側に住んでいたりしますと、「死んだ」事を電話で知らせるわけにもいかないですし、すぐには来れませんでした。それで一週間葬式をするわけです。冷蔵庫に入れるわけにもいかないので体は腐敗し、四日目でも臭いのです。丁度一週間の四日目というと、真ん中の日です。もし日曜日に亡くなれば、日曜日、月曜日、火曜日、水曜日になり、真ん中の日です。ですから、親戚や家族皆が集まり、ベタニヤの村中から一番多くの人が集まっている中で、ラザロのよみがえりの出来事が起きたのです。イエス様は多くの人々が悲しみに沈む中、ラザロの墓に向かって「ラザロよ、出てきなさい!」と言ったのです。すると本当に死人がよみがえって出てきたわけです。これは想像しただけでたまらない光景です。ラザロは包帯を巻かれ、ミイラ状態のままで出てきたのです。そして、イエス様は、その包帯を「ほどいてやって、帰らせなさい」とおっしゃいました。それもそのはずです。ラザロは生き返りましたが、包帯は死体に巻きつけられていたわけですから、死体の腐敗臭が包帯にしみ込んでいたのです。ラザロ本人も、たいそう臭かっただろうと思います。その包帯を解いて帰らせろとイエス様はおっしゃったのです。このようにして、彼は生き返りました。このストーリーから、今日は『死を打ち破る人生』というタイトルをつけました。「死を打ち破る人生」それは、ラザロにあっただけでなく、皆さんの上にもあります。アーメン!そんな人生を実際に体験するために、この朝、三つの事をお話ししたいと思います。
まず始めに、イエス様が村に来られた時、皆が悲しんでいました。そして、イエス様も三五節で「涙を流された」と記されています。人々は、「ラザロは、イエス様のお友達だったから、イエス様は悲しんでおられるのだろう」と思いました。しかし、38節にはこう書いてあります。
「そこでイエスはまたも心のうちに憤りを覚えながら墓に来られた」
イエス様は、泣いていたと同時に、怒っておられたのです。なぜでしょうか。ここで、私達はもう一度、創世記の、イエス様が天地万物をどのように造られたかという事を振り返り見る必要があります。創世記を見ると、天地万物を造られた時、最初にアダムという人が造られました。アダム、これはへブル語で、「人」という意味です。この「人」はどのように造られたかというと、もちろん塵(ちり)から造られたのですが、聖書には「神様は人間をご自分の似姿として造られた」とあります。これは、神様のご人格に似た者として造られたという事です。聖書は書いてあるままを読めばよいわけですが、「イエス様が全てを造られた」と書いてあります。ですから、人間がこの世に造られる前から、誰の手によって造られたわけでもない「イエス」という方、すなわち神であり人間である方がおられたということです。人間が造られる以前に、「造り主」としての神であり人間であるイエスという方は存在しておられたわけです。その、神であり人間である「イエス」という方が、自分に似た者を造ったわけです。神様は完璧なお方ですから、失敗作などはありません。
私が、家庭サービスとして料理をし、何か失敗をして「あっ!」と叫ぶと、妻が階段からかけ降りてきて「どうしたの!」とびっくりした顔ですっ飛んできます。しかし、神様は「あっ!」などとは言いません。神様は、私達を造った時にも「あっ!」などとは言いませんでした。やることなすこと完璧なお方です、その方が自分に似た者を造ったのですから、むちゃくちゃ似ているものが出来上がったはずです。区別がつかないほどのものです。ですから、あの創世記の頃に生きていた人が、イエス様の時代にも生きていて、イエス様の姿を見たとしたら、「あ、アダムちゃん!」と言ったはずです(笑)ほくろ一つ、髪の毛一本、鼻毛の一本すらも違わない、完璧に数えられて完璧にイエス様に似た者として、罪のない完全な者として造られたはずです。
ところが、そのアダムという人が罪を犯したことにより、神のものであるはずなのに、「いらないもの」が入ったわけです。この、「いらないもの」が我が物顔にこの天と地を支配するようになったと聖書は教えています。第一ヨハネに、「この世は悪いものの支配下にある」とはっきりと書いてあります。悪いもの達は、人間が罪を犯したことを取り上げて、父なる神様に言うわけです。「父なる神様、あなたは公正でフェアな方ですから、こんな罪を犯した者(人間)をこの天地万物の支配者とされるのですか。彼らには、私、サタンと同じ罪があるではないですか」と、人間の罪を口実に、ドアをこじ開けるがごとく、この世に入って来たのです。そして、一旦この世に入り込み人間と同じ権利をとると、彼らは、人間よりもずっと力のある天使達と同じ次元の存在ですから、天地万物を支配するようになり、その結果、人間は死ぬようになったと聖書に書かれています。死ぬだけでなく、神は人間に対し、「ありとあらゆる生き物を支配せよ」と言われていたのに、逆に支配されるようになってしまったのです。今日もマスクをつけておられる方々がおられますが、「すべての生き物を支配せよ」と神様は言われたのに、H1N1、豚の風邪のような顕微鏡で見なければ見えないような小さなウイルスにも、人間は支配されるようになってしまったのです。こんなに元気にしていても、あんなものがちょっと入っただけで熱がでて「わや」です。当然、こんなばかげたことになるはずではありませんでした。
本当ならば、「すべてのものを支配せよ」ですから、立場が逆のはずです。そんな状況になってしまったのは、アダムさんの犯した罪の結果なのです。それから後の人間であるアダムの子孫を見ますと、罪は犯す、病気にはなる、すぐ死ぬ、家族はばらばらになる、兄弟で殺し合いは起こる、もうめちゃくちゃになってしまいました。そして今、その罪は全世界に広がっています。そして、イエス様がこの地上に来て下さった時には、生まれたばかりの時から命を狙われ、家畜小屋で寝かされるような「死」に満ちた悲惨な状況でした。人はどんどん変わり果て、何と、葬式で人間たるものが泣いているのです。「こんな素晴らしい天地を造ったのに、何だ、これは。何故泣くのか。天地万物を造り、死人さえ生き返らせる支配力を全て持っている方がいるのに泣いている、何でこんなになってしまったんだ」と。
先日、日本に来てニュースを見ていると、人殺しをした人が逮捕され拘束されたということが報道されていました。新聞を見ると、その人のお母さんのコメントにこう書いてありました。「こんな子じゃなかった」と。私の母も、お客さんが来ると、よく私の前で言っていました。「子供は小さい時はいいんです。十代から大きくなったら、ほんとにもう…小さい時だけですわ」と(笑)
何か人生に間違ってしまった子供は、親には想像もつかない姿に変わり果ててしまう事が人生には起こるわけです。神様も、自分が造った完璧な者が、惨めな病気と死にまみれている状態を見て、涙を流されたのです。また、そればかりではなく、何でこんな風になってしまったのかと、言いようもない怒り、言いようのない嘆きが、こみ上げてきたのです。これが「憤り」という言葉の中に現れているのです。
しかし皆さん、私達はまず最初に覚えなければなりません。それは、イエス様は、そういう嘆きを持たれたけれど、実際の私達は、本当は嘆きを受けるような、そんな存在ではなく、実はイエス様と同じ、「産めよ、増えよ、地を満たせ」と祝福され、また「全ての生き物を支配し、主と共に統べ治める権威を与えられているもの」だ、という事を思い起こす必要があるのです。このことをまず最初に覚えなければなりません。イエス様が私達を創造して下さり、あの十字架にかかって苦しんで血を流し、全ての呪いを身に受けて死から復活なさったのは、そこまでして私達を救って下さったのは、私達が、ただ天国に行くためというだけでありません。この地上において、偶像崇拝と様々な呪いの中にあった人々を救うためでした。私たちは、立ち上がり、イエス・キリストの栄光と権威を表すために造られた、という事をしっかりと思い起こさなければなりません。
私達がそれを知ったならば、人生は変わってきます。悲しんでいる場合ではありません。もし悩んでいる事があったら、それは自分に出来ない事があるから悩むのです。出来ない事があれば悩んでも出来ないのです。眠らなくても出来ないのですから、寝た方がよいのです。大体、「あんたがするんではない、わたしがする」と神様が言っておられるのですから、それを悩んでいたら神様の出番がありません。私達は騙されて、自分が何者であるかわからなくなっているのです。自分が何者であるかを知れば、醜いあひるの子ではなく、あひるよりももっと大きく、高く飛べて、遠くに飛べる美しい白鳥なのだということがわかります。私たちはそのことを知る必要があります。イエス様は、そのためにこの世に来られたのです。だからここで涙を流されたという事を、私達はまず覚えなくてはならない、それが第一番目です。
そしてもう一つは、イエス様はこのように言われました。
『そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」
ここでマルタが言った言葉に「墓に入れてから四日になる」とあります。今までイエス様がこの箇所以外で死人を復活させた箇所はあるわけなのですが、何故、この箇所が特別かと言いますと、「四日も」経っているからです。臭くなって、おまけに丁寧にミイラを作るための包帯でぐるぐる巻きにしてあったのです。さすがに、石を取りのけろと言われても臭いのです。ラザロは生き返り出てきているわけですが、包帯自体は死体に巻きつけてあったわけですから、臭いわけです。別に、四日間風呂に入っていなかったから臭いのではありません、死体が腐った腐敗臭です。それはそれは、もの凄い臭さです。
うちは犬を飼っています。この犬が、野原に出ていって私の投げたボールをキャッチして戻ってきます。しかし時々、ボールではなく違うものをキャッチしてくることがあります。それは、ネズミなどの死骸です。それをくわえて近づいてくると、それこそ5メートルくらいで独特の臭い匂いがしてきます。動物の死体というのは、そういうものです。それ位臭い物が生き返って出てきたわけです。
さて、ここで私達は何が言えるのでしょうか。一旦、イエス様という天地万物を造られた方の手にかかってしまうならば、それこそ臭くて近づけない、どうしようもない死体でさえ用いられるということです。皆さんの人生にも、やはり人間ですから色々なことがあると思います。どんな事が起きても今生きています。さあ、その生きている皆さん、ここでのラザロは死んでいるのです。死んでいる者を使う事が出来る神様ですから、ましてや私達が生きていて、失敗しようと、問題を起こそうと、取り返しのつかない事が起きようと、全て、このイエス様に用いられない事は何もないのです。全てが用いられます。
特に、人生の中で捨ててしまいたい事、「これだけは言えない」と感じていること、それが用いられるのです。私が救われた時には、人生に何の問題もないようなつもりでいました。私はポートランドのオレゴンという所にある日本人教会で救われたのですが、初めて教会に行った時、牧師さんがとても良い方で、食事に招いて下さいました。その席で、牧師さんに「アメリカの生活はいかがですか」と聞かれたので、私はカウチに座りながら「いやぁ、牧師さん、最高です!面白い!僕は今人生の絶好調!」と言ったら、その牧師さんは、後で信徒さんに「あの人だけは救われないだろう」と話していたそうです。しかし、その私が救われたのですからイエス様は何でもできます。
私の家は何も問題のないように見えましたが、実は、人には言えない事が一杯ありました。言ってみれば「家の恥」です。それがあまりにも大きすぎて、記憶の奥底に埋め込んでいるような、それ位大きな恥があったのです。牧師になり、よその教会に招かれて嬉しいものだから、イエス様の素晴らしさを伝えるために何でもかんでも言って暴露してしまい、そのテープを聞き、母はいつも「今日は何を言っているんだろう、またいらない事を言っていないだろうか…」と心配しています(笑)。
とにかく、一家に一つや二つ、三つや四つ、言えない事はあるものです。しかし、人生で用いられない部分は何一つありません。アメリカ人も魚は食べますが、魚の味はわからないようです。魚のえらのあたり、脂がのっていて一番おいしい部分ですが、それを捨ててしまいます。それから、卵や内臓なども全部捨てます。魚屋に行っても頭は全部切り落とされて売られています。一番美味しい最高の部分を切って捨ててしまう、クリスチャンはそれではいけません。人生で、目をふさぎたい所、捨ててしまいたい所、これだけは絶対に人には言えないような所、これら全部が主に用いられます。アーメン!
これだから本当に面白い。天国はよい所です。ただ、残念ながら天国では病気は癒されません。天国では病気はありませんから。天国では死人は蘇りません。死人がいませんから。天国では借金はありません。借金がありませんから。この地上は、「わやくそ」だらけですから、色んな事を神様はして下さるので非常に面白いです。そのために、この地上に遣わされています。特に、この新城は、色々な悲しみや苦しみがあった場所です。設楽が原の決戦の、当時のDVDや写真があったらえらいことでしょう。地面を覆い尽くす悲しみや苦しみ、呪いなど、全てが主にあがなわれ用いられているこんな素晴らしいキリストの体が、ここ新城にあることを主に感謝します。ハレルヤ!
ですから、問題があれば、これはチャンスです!出番です。イエス・キリストの御名の権威があります、これがあれば、ここからが人生の一番いい所です。それをイエス様は「もっと味わうんだよ」ということをラザロの死を通して語っておられたのです。人生、失敗もあるし問題もあります。私なんか、本当に失敗だらけで、よく生きているな、とさえ思います。私たちの教会に関して言えば、いかに信徒が優れているかという感じです。自慢するわけではありませんが、素晴らしい信徒達です。よくぞこんな素晴らしい信徒がいるな、と思うほどです。そのうちの一人がリバイバル聖書神学校で学ばせてもらっていますが、帰ってくるたびに霊的に力づけられて、今日は私の代わりにメッセージしてくれています。本当に、私達の弱さや欠点や問題の中に主が働かれ、もっとすごい栄光が現れていくのです。ですから、自分の持っている限界や、自分の持っている欠点、これに関して、文句を言ったり、駄目だと思ってはいけません。これが一番おいしいところに変わりますから、すべてに感謝し、これを受け取らなければなりません。
モーセは素晴らしい人です。彼は自分の事を「謙遜」と言っていますが、私などが「謙遜」と言えば、すぐに傲慢だとわかります。しかしモーセは自分で「謙遜」と言った、これがどういう事かと言えば、「謙遜」とは「どうもなりません。何も出来ません。ほんまにわかりません、どうしていいかさっぱり…何も出来ません」と、徹底的に思っていた人なのです。「でも生きている…これは神様以外にない」と心底思っていた人なのでしょう。ですから、私たちも「これはどうもならない」と思えたら、それは謙遜です。その謙遜の中に神様が現れて下さり、問題だらけでしたが、アマレク人とモーセが戦った時には、横にフルという人、そして自分の兄弟のアロンという人がモーセの手を支えたとあります。言ってみれば、モーセは、手も上がらないような状態でした。しかしモーセが手を挙げると、アマレク人にイスラエルは勝利したのです。何故でしょうか。モーセの体は弱くても、能力が足りなくても、モーセの言葉が弱くても、モーセには父なる神の権威が与えられていました。そして、その権威を象徴するならば戦いに勝利できるのです。神の権威によってイスラエルは勝ちましたから、私達が弱くても、限界だらけでも、どんなに恥をかいても、どんなに身動きとれなくても、主イエスの御名によって、神の国の権威によって、どんな事でも可能になります。アーメン!
ですから本当に希望があります。新約聖書を見ると、半分以上がパウロ先生の手紙です。どこで書かれたのでしょうか。刑務所です。一番働けず、何も出来ない場所、懲役刑でなければ一番ひまな場所です。神様には出来ない事はないのです。「ここでは何も出来ないだろう」という所で、主は働かれます。アーメン!そんな神様の働きに期待して、私達はどんな事があっても、もっと神様に期待する気持ちを持って、イエス・キリストのみ名によって、祈っていかなければなりません。
三つ目に、イエス様は、人間の一番どうすることもできない所を用いて、死を打ち破る力を発揮なさいました。その死を打ち破る力というのは二つ、その方法が出てきます。お読みします。四一節
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
イエス様は、お父さんに願いを持たれました。この願いです。願いによって神様は働かれるのです。この願いは皆さんがなさっているように、「イエス・キリストの御名によって」とお祈りすることで聞かれるのです。ただ願うのではなく、イエス・キリストの御名によるから聞かれるわけです。
携帯電話は今では誰でも使いますが、今から20年ぐらい前、まだ携帯電話が出てきたばかりの頃には、トランシーバーのように大きく、また、かかりにくく、通じにくいものでした。また、使い方に慣れず、よく電話番号だけ押して、通話ボタンを押し忘れたものです。通話ボタンを押さないといくら電話機を耳に当てて待っていても回線がつながりません。ちょうど、「イエス様の御名によって」と祈るのは、通話ボタンを押すようなものです。イエス様のみ名によることが、天のお父様との関係を保証するわけですから、私達はイエス様の御名によってお祈りします。
次に、もう一つ大事な事は、その後の43節にあります。『そしてイエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出てきなさい!」』このように、イエス様は叫ばれました。イエス様がお祈りしたのですから、別にわざわざ叫ばなくてもよいわけですが、わざわざ大声で言われました。
私のメッセージを聞いて、時々、初めて来られた方が言われます。「牧師さん、そんな大きな声で叫んで祈らなくても、小さい部屋なのだから聞こえる」と。確かに、そうなのですが、つい大きな声が出てしまうのです。しかし、イエス様も大声で叫ばれました。何故か。これは、死んでいる者に叫ばれたのです。聖書を見ると、イエス様は、人格ではない者に叫ばれます。例えば、「波や風を叱りつけられた」と聖書にあります。波や風のどこに耳があるのでしょうか。また、ペテロの姑の箇所で「熱に叱りつけられた」とあります。熱に向かって「こら、さがれ!」と叱りつけたのです。熱に、耳や心があるでしょうか。しかし熱を叱りつけられたとあります。
これは霊的な世界の事です。要するに、この地上の全てを神様は造られましたが、この地上の全てを治めるために、神様は天使を送っておられます。全ての事柄に霊的な事が関係していると言えます。人格のない物に命じておられる、ということはその背後にそれを管理している霊的なものがあるということです。ですから、ラザロを支配していた死の霊、もしくはそれに関与する霊的なものに立ち向かうごとく、イエス様は「ラザロよ、出てきなさい」と叫ばれたのです。すると、霊界がガッと動いて、ラザロの魂がもう一度もとの体に戻り、体は生き返ったのです。ただ匂いは取れていなかったのでたまらない腐ったチーズかなにかのような臭いをまとってラザロは出てきたわけです。
このように私達はイエス・キリストのみ名の権威を使って、目に見えない霊的な人格に対して、命じ、立ち向かうことができます。この地上に関与しているものはあまりいいものではありませんが、そういった物に対して命じることができます。熱などよくありませんから、「こら、出ていけ!」などと私はよく熱などを叱りつけます。私の教会に来ている赤ちゃんが発熱すれば、「熱よ、出ていけ!」と言います。すると、赤ちゃんは泣いてしまいます。お母さんは、「この先生は何を言うのかしら、ガラの悪い…」と思っているでしょう。しかし、その後、電話がかかってきて、「先生、熱が下がりました!」と嬉しい報告を受けるのです。それは下がって当然です。また、赤ちゃんにも便秘がある様です。私は、便秘にも怒ります。おむつに手をあてて「こら、出てこい!」と。するとその後、お母さんから「先生、出ました!」という報告を受けます。背後に霊的なものが関わっていたら、イエス様のみ名によって命じるのです。
新城教会で、とりなしてくださる時も、そのとりなしの祈りと、とりなしの現場における御名による宣言、それによって背後にある霊的なものが変わっていきますから、人間の力では不可能な事が可能になり現れていくのです。早い話が、私達は霊界をそのように主イエス様と共にすべ治める事が出来るというわけです。これが「死を打ち破る力」になっていくのです。もちろん、神の主権を超えて働く事は出来ません。それは当たり前です。中には「そんなイエスのみ名によってなど、お弟子の中でも一二弟子だけがそんな権威があって、今の時代にはそんな事はありません」と言う方もおられます。しかしイエス様はあの70人にも、病を癒し、悪霊を追い出す権威を与えられましたから、誰でももらえるのです。
しかも、私達に与えられもしないような事が、聖書に書いてあっても面白くないでしょう。聖書に書いてあることは、全て実現します。皆さんの人生に100%実現します。聖書に書いてあることは、そのまま皆さんの人生に飛び出してきますから、まるで「飛び出す絵本」です。皆さんの人生に直接入ってきますから、すごい本です。ただ読んでいるだけではいけません。今でも、私達がイエスの御名によって宣言するならば、悪霊は追い出され、病は癒されていくのです。
しかし、一つだけここで大事な事を学びたいと思います。へブルの手紙二章七節
『あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。』
これがどういうことか、イエス様が十字架にかかって死んで復活して、私達の罪の代価を全て支払われたので、悪魔は私達を攻める権威は全くないということです。どんなに、私のように罪に汚れていても、主イエス様が命をかけて私の事を赦して下さっている以上、私を責める口実はサタンにはないのです。人が私の事を責め、怒っても、サタンには口一つ開かせてはなりません。しかし、彼らは勝手に上がりこんできて、勝手に悪口を言うわけです。お金をちゃんと返したのに、「まだ返してないだろう」と勝手な事を言います。借金の取り立てはもうできないはずです。代価は支払われたのです。しかし、取り立てをしてくるのです。お金を払ったにも関わらず金を払えといわれたら、私たちはどうしたらよいでしょうか。そんなときは、レシートを見せて、「払ったんだ、出ていけ!」と言うのです。これがイエスのみ名による宣言なのです。
支払い済みのレシートを提示して、「払ってあるのに払えとは何事か。出ていけ!」と、これが悪霊を追い出す力です。私達にはその権威が与えられています。でも、彼らは、非常に悪質な策略をもって今までこの地上を支配していたわけですから、皆さんを攻めてくるのです。だから、戦いが起きてくるのです。イエス様が十字架にかかられ、復活して、永遠の命を約束されても、この地上でのさばっている彼らが勝手な事をしているから、今だに時々、イエス様のみ名によって祈っているのに、まだ問題が続いたりという事があるわけです。ですから私達はあきらめないで、レシートを持っているわけですから、支払い済みであることを敵に覚えさせて、イエスの御名を行使して祈り、命令していかなければいけません。これが、死を打ち破る力となります。
最後に皆さん、覚えて下さい。皆さんの教会は、本当にそういう霊的な世界を知り、支配する権威を勝ち取っている教会です。しかし、それを教えられていない教会の中では、皆さんのお友達の方でも言う人がおられるかもしれません。「竹内さん、そんな事をして、悪魔に立ち向かうだのどうこう言って、そんな事をしなくても神様の主権があるのだから、その主権にゆだねていけばそんな事は神様がコントロールしてくれるのだから、何もあなたが口出ししなくてもいいですよよ」と言う人もいます。
旧約聖書と新約聖書は違います。旧約時代にはイエス様はこのレシートを私達にくれませんでした。まだ、旧約時代のモーセにもダビデにもエリヤにも、このレシートはなかったのです。ですから、エリヤのような人でも、イエスの御名はないわけですから、魔術師達と戦いはしましたが、直接悪霊と立ち向かう事はしていません。旧約聖書のどこを見ても、直接対決は出てきません。あくまでも、イスラエルの国とアマレク人、またペリシテ人との戦いです。
けれども、新約に入ったら突然イエス様がサタンに向かい「出ていけ!」、「退け!」、「熱よ引け!」、「波よ、静まれ!」とやるわけです。ですから、このような権威が、新約の現代、私達にもあるわけです。それはどういう事かというと、神の主権の範囲内で、私達がそれをしなければならないという事です。でもそんな事をしたらよけい話がややこしくなる、という人もいます。放っておけば神様が治めてくれる、というのです。しかし、今の時代にはイエス様がレシートを私達に下さったのですから、使わなければいけないのです。
最後にこれだけは覚えていて下さい。ヨハネの福音書12章には、ラザロの復活の後に何が起きたのかが記されています。ラザロ以外にも、今まで死人が復活したことはありましたが、その時にはイエス様は、それを見た人達に「黙っていなさい、誰にも何も言ってはいけない」と言われました。何故なら、イエス様が十字架にかかる時が早まるといけないからです。しかし、この時には、皆が見ているエルサレムに一番近いベタニヤという町でユダヤ人も一杯にいる目の前で、四日たった死人をよみがえらせたのです。それを見たユダヤ人の祭司長、律法学者たちは何と言ったでしょうか。ヨハネの福音書11章53節、
『そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。』
と書いてあります。その日からです。その後、五十七節から、
『さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。』
これはどういうことでしょうか。簡単に言えば、指名手配という事です。この時からイエス・キリストは指名手配をかけられたのです。死人がよみがえったことにより、イエス様は殺される事が決定したのです。その後、12章に、
『イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。』
ここに、ラザロがいたと二回も書いています。なぜでしょうか。九節〜十節に、
『大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。』
と書いてあります。死人が生き返るのは素晴らしい事です。病気が治ったら素晴らしい事です。しかし、ラザロは死人から生き返ったために、殺されそうになるのです。もしかすると、殉教したのかもしれません。そして、イエス様は、その後十字架にかけられます。でも十字架に架けられた後、イエス様は復活なさり、それによって全世界の人々が救われるようになります。皆さん、霊の戦いでどのような事が起きても、戦いの手を休めてはいけません。
「ほら、霊の戦いをするからこんなことになるんだ」などと言わせてはなりません。その後必ず勝利をとります。ラザロは確かによみがえりました。でもその後彼は殺されそうになりました。しかし、殺されそうになるとわかっていても、ユダヤ人の前に立って、給仕をしているマルタ達と共にいたのです。平気なのです。何故でしょうか。さっきまで死んでいたのです。今まで死んでいたのですから、何があっても平気です。「やれるもんならやってみい!」といった感じです。天国に行ったり、また戻ったり、忙しい人です。元々死んでいた人でしたから何があっても平気なのです。地上における全ての祝福、病の癒し、死人のよみがえり、どんな事があっても全てを主のために用いることです。
皆さん、この地上でどんなに祝福を受けても、主のために用いる事です。この地上でどんなに祝福を受けても、死人がよみがえっても、病が癒されても、放っておいたらまた死にます。放っておいたらまた病気になるのです。人生は賞味期限付きです。放っておいたら腐るのです。それを、この地上で、少しでも主の栄光のために主からの祝福を受けてもっと祝福を受けて主のために用いましょう。
ヤベツの祈りというのがあります。「私を祝福して下さい。私の地境を広げて下さいますように。御手が私と共にあって、災いから遠ざけて私が苦しむ事がありませんように」と…私が、私が、私がという祈りです。「先生、この祈りは自己中心ではありませんか。私が、私が…って」こうおっしゃる方がいますが、皆さんが祝福されなければ、どうして他の人を祝福できるでしょうか。あなたの祝福は人のためです。あなたの祝福は神の国のためです。ですから祝福を受けなければいけないのです。ですから、新城教会は祝福されるのです。もっと祝福を受けるのです。祝福が集まるのです。ですから祝福できるのです。その祝福を用いて下さい。どんなにお金をもっていても、どんなに命があって健康で美しくても、賞味期限付きです。皆さん、使い切って下さい。主のために全てを使って主の力を毎日受けていきましょう。お祈りしましょう。