「敵の意のままにさせないでください」


2009.11.22(SUN)
新城教会 上條実 牧師

ヨシュア記 7章1節〜5節
「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。 ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。」

 ハレルヤ!今日皆さんとともにみことばを学ぶ事ができます事を心から感謝します。今朝滝元順牧師からメールが入りました。今日はアメリカのイリノイ州ゲイズバークという所で奉仕されているそうです。そして「今から集会があるので祈って下さい」ということでした。本当に忙しい奉仕をしているようですので引き続きお祈り下さい。また滝元明牧師は、今日兵庫県と言っても岡山との県境にある上郡という所にある上郡福音教会に出かけていき奉仕しています。ぜひ先生方のご奉仕と健康の為にお祈り下さい。
 人間は弱い器です。調子が良いと思っていても、ちょっとした事で心がしなえてしまいます。私は昨日、午前中に名古屋の方である祈祷会がありましたので出かけていきました。そして午後は教会に戻り、子どもたちの集会であるほさなクラブで集会をしました。その後礼拝の準備などをして快調に過ごしていました。しかし夕食を取っているとき、私の上唇に小さく口角炎が出てきました。私は良く口角炎が出る方で、治るのに数週間かかる為いっぺんに気持ちが重たくなりました。今日はまだ皆さんから見てもそんなにわからない状態かもしれませんが、ひりひりしていて気持ちが優れません。あとは健康であるにもかかわらず、この口にできた口角炎のため、重たい気持ちがします。口角炎になった方はわかると思いますが、とても不快な感じがします。
 私は、人間というのは昔三輪のトラックや自家用車が走っていましたが、そのオート三輪ようなものだと思います。三輪とも空気がしっかり入っていれば、スムーズに動きます。しかし一つのタイヤがパンクしたり、空気が抜けてしまったら走る事は出来ません。無理やり、そのまま走り続けていると、他の箇所までもが故障し、やがて廃車になってしまいます。オート三輪の三つのタイヤのように、人間は肉体と心と霊の三つでできています。もし一つの肉体が調子が悪くなると、同時に精神的も霊的も悪くなってきます。また心が調子悪くなると、他の霊も肉もバランスを崩します。霊的な部分が悪くなると他の箇所もバランスを崩します。だから霊肉魂の三つがいつも健康であるように祈っていかなければなりません。あなたの霊・肉・魂は元気ですか?私のように口角炎だけでも、肉体はもとより、気持ちまでもがいやな思いになり、人前に出たくないと思ってしまいます。小さな口という器官の上に小さくできものができただけで、後は全て元気であるのに、人間は弱いものだとつくづく思います。ぜひ今日の礼拝の中で、主に触れて頂き、霊肉魂全ての車輪の空気をしっかり入れ、完全な整備士である主イエスキリストにメンテナンスをして頂く時になるよう祈っています。
 さて先ほど読んで頂きましたみことばから「敵の意のままにさせないで下さい」というタイトルで今からお話ししたいと思います。ヨシュア記の七章は出エジプトの途中エリコという巨大な街との戦いで、イスラエルが神さまの偉大な業の中で圧倒的な勝利を頂いた後の出来事が書かれてあります。ある方のメッセージを読んだ時、エリコは、高さ四メートル、幅二メートルの石の壁で二重に守り固められていた。さらに城壁には八メートルを越す監視塔があり、その内部には二二の階段があった。さらに深さ三メートルにおよぶ堀が巡らされていた。明らかにこの城壁が象徴するように、武具を含め、あらゆる面で、エリコの人たちはイスラエルより遥かに条件のよい戦いができたはずであった。とありました。その城壁を破って敵が侵入する事は不可能に等しい状況です。そんな中不思議な方法で、イスラエルは勝ち取りました。「六日間城壁の回りを無言で歩きなさい。七日目は七回、回わりなさい」と言われました。そして最後に、時の声を上げました。するとなんと城壁が崩れました。そしてイスラエルの民はエリコの町に侵入し、完全な勝利を収めたと書かれてあります。普通ではありえない奇跡を、主によってイスラエルの民は経験しました。しかし主はその時一つの条件を示していました。それは「すべてのものを聖絶しなさい」という事でした。エリコの町にあるものを奪ってはならないという事です。しかしアカンという人が、その約束を破ってしまいました。その結果イスラエルの民は、次に戦いを挑んだアイという町に敗けてしまいました。ヨシュア記八章二五節を見るとアイの町は一万二千人の小さな町だったようです。イスラエルの戦う人数は六十万人とだと、ある方のメッセージに書かれていました。本当かどうかはわかりませんが、六十万人もいた巨大なイスラエル軍がアイという町での戦いで完敗してしまいました。主が「絶対取ってはならない。聖絶しなさい」と言われたものを、イスラエルのたった一人であるアカンが隠し取ってしまったのです。その為負けてしまいました。それと同時に、私はここをもう一度ゆっくり読んでいく中で、ヨシュアは失敗をしていると思います。エリコでの戦いでは、今までいつもヨシュアは神の声に従っています。神のみ声を聞いています。しかしこの七章の一節から見てもどこにも、ヨシュアは「神に祈った」とか「神の声に従った」とは書かれていません。偵察に行った人が「この町は一万二千人という小さな町ですから二、三千人で足りますよ」と聞き、その斥候の言葉を聞いて三千人を遣わしたのです。その三千人でアイの町と戦い、完敗し、彼らはアイの人々から逃げ出してしまいました。「下り坂で彼らを打ったので民の心がしなえて水のようになってしまった」と書かれてあります。その後になってやっと主の声に、ヨシュアは耳を傾けました。ヨシュア記七章十節から見ると

『主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。」

「どうしてひれ伏しているのだ」と。イスラエルは罪を犯したと、その時教えられたのです。気づいていなかったのです。聖絶のものの中から盗み、偽った人がいるのだと気づかされたのです。十三節のはじめを見ると、

『立て。民をきよめよ。』

とあります。私はこれを読んだとき、このみことばが心に刺さったような気がしました。私たちはいつも、同じ失敗を繰り返しています。戦う前に祈りもせずに出ていってしまう時があります。そして戦いに負けてしまうのです。イスラエルの民はこのエリコの戦いの後で油断したかもしれません。祈らずに斥候の意見に従ったのです。その後アカンが罪を犯したという事があらわにされました。ヨシュアは徹底的にそのアカンの罪を裁き、悔い改めました。とても厳しい悔い改めです。ヨシュア記七章二四節〜二六節

『ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。』

 たつた一つの罪、聖絶しなかった一人を罰しました。六十万人ともいわれる戦士の中で、たった一人が聖絶しなかった。私たちであったら「それぐらいいいじゃないか」と軽く考えてしまうものを、イスラエルという国を守るため、徹底的に悔い改めています。誰もわからなかったのです。しかし主は見抜いていました。そしてそれに対して妥協しなかったのです。徹底的なきよさをこのイスラエルの民に要求しています。そして二四節にありましたが「金、外套、金の延べ棒」だけでなく「…および彼の息子、娘、牛、ロバ、羊、天幕、彼の所有物全部を取って」という書いてあります。何もかも、彼の身に着けていた物や天幕までも、そして息子も娘という家族までも滅ぼされました。罪は一人の問題ではありません。罪によって家族までもが祝福を失うのです。石で殺され、それが石の山になった、とあります。私たちには、今日はイエス・キリストの十字架があります。その十字架の犠牲によって私たちは救われています。しかし今日このみことばを開いて、「罪に対し軽く考えていないか」と恐れをもって点検しなくてはなりません。神にはごまかすことはできません。人をごまかすことはできても、神をごまかすことはできません。全てをご存知の主です。思いさえもご存知であり、その罪に対して今日も「聖絶しなさい」と語っています。罪から決別する決心を持って行こうではありませんか。今は情報化社会です。インターネットを開けば、すぐに悪い物を吸収する事ができます。エロチックなものも見る事ができます。また人間関係が破壊されています。すぐに怒りを燃やし、憎しみに満ちています。赦す事ができないのです。また私たちは偶像礼拝からもしっかり聖められなければなりません。罪に対して「この程度ならいいや」と軽く考えてしまうことがあります。神の前では隠す事はできません。もし示されている罪があるならば、今日しっかりと悔い改めていきたいと思います。また油断することがないように。アイでの戦いのように、祈らずに進んでしまわないように。主の前に帯をしっかり締め、戦いのポジションに立たなければいけないと思います。
アイの戦いで負けたイスラエルは、その後ヨシュア記八章一節で

『主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」』

 徹底した悔い改めがなされた後、主はヨシュアに「戦う民全部を連れてアイに攻めのぼれ」と言われました。イスラエル全体で戦いなさいといわれました。教会員一人の問題だから関係ないのではありません。イスラエル全体、そしてヨシュアもともに行きなさいと言われています。ヨシュアは主の声を聞き、作戦を練りました。そして万全な準備と作戦の中アイに、イスラエル全体で戦いに臨みました。アイは前回同様イスラエルがやってきたので、イスラエルを追い始めました。作戦とも知らず逃げていくイスラエルを追いかけて行きました。その時後ろに隠れていた兵士がアイの町に火を放ちました。そしてイスラエル軍の間に挟まれたアイの軍隊は全て、一万二千人全部殺しました。徹底的に戦いました。悪魔は私たちに様々な方面から罪を起こさせるように働いてきます。ですから今日、徹底的に罪を悔い改め、聖い生活ができるように、助け主である聖霊さまを求めましょう。絶えず祈りなさいとありますから、祈り続けて行きましょう。マルコ四章二二節には、

『隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。』

とあります。黙っていればわからないと、隠していればわからないと悪魔はささやいてきます。しかしみことばは、主によってあらわにされ、隠されているものが明らかになるとあります。今日が救いの時であり、めぐみの日です。悔い改めるという行為はある面恥ずかしさを伴い、プライドが傷つけられたりするような時かも知れません。しかし私たちは天のみ国、神の国に入らなくてはいけません。行きたいのです。罪からはっきり決別するべきです。続いて何年か前にもこのみことばからお話ししたのですが詩篇四一篇一節〜三節

『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。』

ここをリビングバイブルお読みします。

『貧しい者に親切な人は神様から祝福を受けます。その人が困難にあう時、神様は助けの手を差し伸べて下さいます。また、無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を蹴散らして下さいます。病気になると神様ご自身が看護にあたり、痛みを和らげ心配ごとを取り去って下さるのです』

 すばらしいみことばです。「弱っている者に心を配る人は幸いだ」というのです。その人は、主がわざわいの日に助け出される。また彼をいつも見守り、生きながらえさせ、地上でしあわせな者にして下さる。というのです。ではあなたはどのくらい弱っている者に心を配っているでしょうか?
 彼に了解を得ておりますのでお話しします。ある時我が家の四男、Kと一緒に近くのスーパーに買い物に出かけました。買いものの途中、Kはカートを押しながらというより、カートで遊びながら買いものをしていました。買いものを終えて、最後に袋つめをしていたときです。Kにカートを先にかたづけるように伝えました。すると彼は元気よく押していくというより、カートに乗りながら片付けに行きました。そして帰ってきたのですが、Kが変なのです。悲しそうな顔をして、とぼとぼとゆっくり歩いて私の前に現れました。「どうした、誰かに怒られた?いじめられた?転んだ?」と彼に質問しました。すると彼はこんな事を言ったのです。それはちょうど身体障害者の方が車椅子で買いものをされていました。その方も買い物をしておられ、その方も身体障害者の方が使う台車を置く時に、息子とかちあったそうです。Kは普段から元気がいいのですが、繊細な子です。彼は心の中でその方に手伝ってあげたいと思い、「お手伝いしましょうか?」と言おうとしましたが、言う勇気がなかったのです。それで「手伝ってあげたかったけど言う勇気がなかった」としょんぼりしていたのです。いつも彼に怒っている私ですが「偉かったな。そんな事思ってたのか」と精一杯ほめてあげました。しかし私は、自分はどうだと責められました。私もその方がカートを返しに行く姿を見てはいました。しかしお手伝いして差し上げようとは思いませんでした。ただ自分の物を買って帰る事しか考えていませんでした。私は人は人。自分は自分という考えしかありませんでした。私はKの態度と心の内を考えると、恥ずかしくてしかたありませんでした。そして二年生の子どもに教えられ、感心しました。そしてKに今度しっかり言う事ができるようにお祈りしました。数日後Kがニコニコして私の所に来て、「困っている人がいたので、手伝いましょうか」って言えたと報告してきました。しかし手伝わなくて良いと言われたけど、しっかり言えたとニコニコしていました。私たちはわかってはいても、なかなか弱っている者、また他の人に心を配るということができないものです。マタイ二五章三五節〜四十節にはこのようなみことばがあります。

『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

『…もっとも小さい者の一人にしたことは私にしたのです。』息子に教えられるくらいの私です。このみことばを読んで心が痛い気持ちがしました。人を傷つけられたり、責める事は簡単にしてしまっています。そして人から何か言われれば、自分が悪くてもなかなか謝る事ができずに、自分を正当化してしまうほどです。他人のことは全く目に入っていないのです。このみことばは『空腹であった時、渇いていた時、旅人であった時、裸の時、病気の時…』に必要なものを差し出しなさいとあります。私たちは『全てに時がある』とあります。見るにも時があります。また出かける時にも時があります。すべて時があります。私たちは全ての人が救われる事を願っています。またこの地域が解放されるように祈っています。しかし実際は全く無関心になっています。周りに空腹な人、渇いている人、旅人、裸の人、病気の人がいても気づかなくなっています。無関心になって、何も考えずに自分の生活だけに気を取られている生活になってしまっています。ルカ十章二七節〜二八節には 

『すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 有名な隣人を愛しなさいと言う箇所です。皆さんは今日、主を愛し、主を第一にして礼拝に来ました。しかし「隣人をあなた自身のように愛しなさい」というみことばは従う事ができないのです。自分に関係のある人でさえ私たちは愛せません。ましてや自分とは関わりのない人、地域は無関心です。日本のリバイバルのために祈り、この地域のために祈っているにも関わらず、隣人を愛せないのです。今日イスラエルとカインの悔い改めのように、徹底的に、妥協せずに主の前に悔い改めましょう。ヤコブ四章十七節には

『こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。』

とあります。見ていても、知っていても口先だけ「愛します」と言い、実行しなかったら罪だと聖書は言っています。隣人を愛するというのは犠牲を払う事、奉仕することです。犠牲を払うというのはイエス様が一番のよい手本を表して下さいました。これ以上ない犠牲です。人のために自分の命をささげる事です。しかし私たちは無関心になっています。愛を実行する事ができなくなっています。我が家のある子どもが、中学生か高校生ぐらいの時、ある人が困っていたので、私は子どもに「あの子を助けてあげて」と言いました。すると子どもが「関係ない」と簡単に断ったのです。私はその言葉にすごく腹立たしく、「何で関係ない?困ってるんだから助けてやれよ」と言った事があります。そして子どもはしぶしぶながら行動しました。皆さんのなかに、見ても、聞いても「自分には関係ない」と思わさせられていませんか?正しいことだと知っていながら、行えないなら罪だと書かれています。有名な良きサマリヤ人の話があります。エルサレムからエリコという所に降る途中、ある人が強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、殴られ、半殺しになりました。その記事がルカ十章三十節からに書かれてありますが、最初にその所を通ったのが祭司でした。祭司はその人を見たけども、反対側を通り過ぎていったとあります。その次はレビ人が来ました。その人も見たけども反対側を通り過ぎていったとあります。最後はサマリヤ人が来ました。サマリヤ人はユダヤと異邦人の混血の汚れた者だと言われ、イスラエル人からは排除されており、交わりすらできない、差別されていた人たちでした。その差別されていたサマリヤ人が、その傷ついた人を介抱し、家畜にのせて宿屋まで連れて行き、お金を払って「これで看病して下さい。もし足りなかったら帰りに払います」と言ったと書かれてあります。祭司やレビ人とは教会で働く牧師とか教会スタッフの事を言っているかも知れません。しかし私たちクリスチャンが“分かっていても反対側を通り過ぎてしまう”ことがあるのではないかと思います。「関わりたくない、関わったら面倒になるから」と知らないふりをして、見ないでいる現状が多々あるかもしれません。「隣人を愛する」。犠牲ということをもう一度学びたいと思います。先程読んだマタイ二五章四十節には

『すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 イエスさまのために祈ったり献金したり奉仕したりする事もイエスさまは喜んで下さいます。しかし主はあなたの回りの人たちに対して、それも最も小さな者のひとりにしたのは神さまのためにした事だと言っています。先ほどお読みしたルカ十章三七節では「あなたも行って同じようにしなさい」とあります。地域の人たち、また友人、また今まで私たちの目にとまらなかった人たち、風景になってしまっている方々に目をとめさせて頂きましょう。祈り、また困っている時には愛の手を伸ばすことのできる器になりたいと思います。今日全日本リバイバルミッションニュースをお渡しいたしましたが、来年の九月に東北の仙台市と盛岡市で集会を行います。是非覚えてお祈り下さい。先日東北の牧師会に出かけて行き、話し合いの時を持ちました。その時盛岡市のある先生が「この地域は本当に心痛んでいる人、傷ついている人たちが多い。」というのです。「何故ですか」と質問すると「この東北は自殺率が一番高いのです」と言われました。私も調べてみると、都道府県別の人口十万人にあたりの自殺数で、一番高いのは秋田県、二番目が青森県、三番が岩手県だそうです。東北で行うのも大きな意味があります。また今年五月には韓国で韓国リバイバルミッションが行われました。感謝な事に祝福のうちに終わりましたが、終わってしまったら祈らなくなってしまっていませんか?リバイバルを求め、この国と韓国のために祈っていましたが、止めてはならないと思います。今日もう一度、貧しい者、弱っている者に目を留める人は幸いだ、とあります。リビングバイブルの四一章の一節を見ると『その人は祝福を受ける』とあり、『その人が困難にあう時、神様は助けの手を差し伸ばして下さいます』とあります。人の事よりまず自分のこと。そして自分の事が解決したら、人に目を向けてしまいます。しかしそうではなくて、解決されていない時に、また解決するためにも、今日あなたが回りの人たち目を向ける必要があります。また、二節には

『無事に守って生かし、人前で面目をほどこさせ、敵を蹴散らして下さいます』

とあります。私たちは霊的戦いが必要な事だと知っています。しかし今日弱っている者に目をとめるとき、弱っている者に、愛の実践をすることが大きな霊的戦いです。敵を蹴散らして下さるというのです。また、三節には

『病気になると神様ご自身が看護にあたって下さいます。』

とあります。神さまがあなたの看護にあたって下さいます。お医者さん、看護師の方々の働きに敬意をはらいます。しかし聖書は神さまご自身が看護して下さるというのです。そして

『また、痛みをやわらげ心配ごとを取り去って下さる』

というのです。痛みも心配も取り去って下さる神さまを信頼していきましょう。ガラテヤ六章七節に 

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』

と書いてあります。主からの祝福を受けたいというのは全ての人の祈り、願いです。今日敵の意のままになっていませんか?目を自分のことばかり向けさせられて、人にまったく目がいっていないかもしれません。私たちは悪魔に、毎日肩車されて生活していませんか?霊的戦いの学びをする事によって、遠くの敵は見えるようになりました。しかし罪を軽く考えたり、弱っている者に目がいかないというのは、今の自分の現状をわからないようにさせている悪魔が、現状を見えないように肩車しているかのようです。そして私たちが行きたくない所に連れて行き、苦しみもだいているのです。自分の回り、家庭、近所、職場、などで、周りの人を意識し始め、祈り、愛の実践を行うとき勝利が起きはじめます。収穫が起こります。今から聖餐式を行います。十字架の意味をよく覚えて下さい。徹底的に自分を吟味し、悔い改めましょう。敵の意のままにされている所があるならば悔い改め、みことばを実行できる器となれるように祈りましょう。二週間後にクリスマスコンサートがあり、様々なクリスマスの伝道会が計画されています。この一番伝道しやすい時、多くの魂を刈り取らせて頂きましょう。お祈りします。


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