「人とは一体何者なのでしょう」


2009.11.29(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

詩篇 8篇3節〜9節
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。本当に久しぶりに、新城教会に戻ってくる事が出来まして心から感謝しています。十一月九日に新城を出て、その後東京で集会があり、そのままアメリカへ二週間程行き、先週帰ってきました。まだ時差があり、変な時間に眠くなったりお腹がすいたりしますが、今日は皆さんと共に、礼拝が守られます事を心から感謝しています。

 今回、アメリカ東海岸のほうを中心に巡回して奉仕させていただきましたが、最初にアメリカの首都ワシントンDC近くにある、バルチモアの教会で奉仕をさせて頂き、次に、ボストンに飛び、そこで集会をし、数時間移動してニュージャージー、ニューヨーク、またニュージャージーに戻り、その後はシカゴで三日間ほど集会をして、シカゴから五時間くらいの場所にあるマコームというイリノイ州の田舎街でセミナーをして、こちらに帰ってきました。全行程どうなるか心配でしたが、主の守りの中、全てうまく導かれた事を心から感謝しております。しかしアメリカに行ったといっても、今回はほとんどが韓国教会でしたから、二週間のうちに十日以上は韓国にいて、三日間位アメリカに行ったような雰囲気でした。韓国教会がアメリカには多いのですが、お招きを受けて奉仕をさせて頂きました。どこに行っても聖霊様が力強く働いて下さいました。韓国教会では早天祈祷会から集会があります。朝五時半から集会があり、そこでたっぷりメッセージを語り、また昼間にも集会があり、夜は九時から聖会が始まります。夜は皆が会社から帰ってから聖会が始まるので、聖会が終わると夜の一時くらいになります。宿舎に帰って深夜の二時、そして朝四時四十五分には起きないと五時十五分には出るので、三時間ぐらいしか眠れない日が続きました。しかし時差があり、目覚めてしまうので良かったです。健康も守られ、支えられ、全行程どれだけ集会をしたかわかりませんが、心から感謝しています。
 その時の写真を少しお見せしたいと思います。今日の午後から、「アメリカをとりなす」というテーマでセミナーを持ち、共に祈りたいと思います。

 今回はただ集会だけ持つのではなく、とりなしの祈りで色々な場所にも行かせて頂きました。九二年に霊的戦いが始まり、一時はどう進んでいくのかと心配もありましたが、十七年が経ち、主が世界規模で戦いを広げて下さり、アメリカ教会、韓国教会とも一つとなって世界をとりなし祈るようになるなど、夢にも思っていませんでした。けれども主がそのように導いて下さった事を、心から感謝します。

 これはニューヨークのマンハッタンの写真です。ジョージ・ワシントンが大統領の就任演説をした場所ですが、ここで毎日路傍伝道している人物がいます。彼は韓国ミッションの時に、私のメッセージの前に賛美を歌ってくれた人で、ジ・ヨンフンというとても優秀な声楽家です。彼は今ニューヨークのマンハッタンのウォールストリートとブロードウェイの交差点で、毎日路傍伝道をし、トラクト配布をしています。中々骨のある男です。彼と一緒に、路傍伝道とは行きませんでしたが、トラクト配布を手伝って一緒にとりなしの祈りをしました。

 これは9.11の現場です。ここでもお祈りをしました。これはイリノイ州の田舎ですが、日本には水平線はありますが、地平線はありません。しかしここでは驚く事に、三百六十度、ぐるりと地平線なのです。どこまで行っても平らな一平方キロメートルに一人いるかいないかというような奥地でも集会をしました。
 西イリノイ大学の心理学の教授の方が、数年前に新城教会のインターネットのメッセージを読んでメールをくれました。彼女が今回周りの教会に呼び掛けて、白人教会で霊的戦いセミナーが出来ました。ジョー先生も一緒に奉仕しましたが、よい集まりとなりました。

 今日は、『人とは一体何者なのでしょう』というテーマでお話しさせて頂きたいと思います。私達は気がついたら人間に生まれており、進化論では“最も進化した”高度な生物だなどと言います。
 しかしアメリカの広い大地を見ながら、「人とは何者なのか?」と考えさせられました。私は飛行機に乗る事が多いのですが、上から地上を見ると多くの車がハイウェイを数珠つなぎになって走っています。それは豆粒にしか見えません。その中に、ドライバーが乗っていて、同乗者がいてなにやら話をしているのかもしれません。しかし空から見れば、人間の体内にいるバイ菌とかそんなものとあまり変わらないのではないかと思いました。それと共に人間は、考えてみれば、とても面倒くさい動物ではないかと思います。

 この頃はたいへん寒くなり、着るものも変えなければいけません。動物が「冬になったからちょっと衣替え」とか言って、ジャンバーを店に買いに行くことはありません。着のみ着のまま冬でも夏でも一枚の毛皮で過ごせます。しかし、人間は寒くなれば厚着しなければならないし、夏になれば涼しい服を着なければならないし、洗濯も料理もしなければいけません。また、食料を得るためにも本当に苦労します。
 今回、イリノイ州の三百六十度地平線の場所は、荒野でなく全てとうもろこし畑でした。アメリカの広大な大地の多くが畑になっているのを上から見て、「人間とはめんどくさい生き物だ」と思いました。サルやイノシシなどが農作物を作るとか、種をまき、収穫して食べている光景は見た事がないです。しかし人間は生きるためには、広大な農地が必要です。また、どれだけの道具が必要かわからないです。私達の回りには山ほど、道具があふれています。それでやっと生きる事ができるのです。子供が産まれても、動物であれば産み落とし、体をぺろぺろなめて終りだと思いますが、人間だとそうはいきません。

 今週か来週、私は二人目の孫を手にすることになると思います。娘が今臨月を迎えていて、はちきれそうなお腹をしています。先日、娘がある子どもに、「たくさん食べたね!」と言われたそうです。我が家もきっと来週か再来週は全く模様が変わるんだろうな、と思います。みんなで、生まれた子どもの世話をしなければならないのです。
 そう考えると、『人とは何者なんだろう』と思います。ダビデもそう考えたようです。先程の詩篇の八篇を見ると、

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 神とは天地宇宙を創り、人をも創られたお方です。人は強がっていますが、本当にちっぽけで実際は弱いのです。そんな存在を何のために造ったのでしょうか。人間は一度この世に生まれたら、精一杯生きていくしかありません。私達は日本に生まれました。海外など行きますと、『日本に生まれてよかった』と思う時もあります。何故なら、日本は色々な面で整っているからです。

 この頃は体制が大きく変化していますが、まだまだ日本は良い国だと思います。犯罪もそれほど多くはありませんし、社会資本が十分に整っていますから、感謝しなければなりません。私達は幸せだ、と思うのですが、世界ではこんな調査があるそうです。それは「世界幸福度指数」という調査です。世界のどの国に住んでいる人が、どれだけ幸せだと感じているかを測る指数です。
 今年の七月、イギリスのシンクタンクが世界百四十三カ国の幸福度指数を調査したそうです。皆さんはこの一四三カ国中、日本は何位だと思われるでしょうか。これだけ整っているから、多分上位だろうと思うでしょう。
 しかしアメリカなどには、さらに整えられた環境があります。日本は住む場所に関してはあまり幸せではないかもしれません。日本人の住んでいる家は、「ウサギ小屋」と評された事がありますが、それは当たりかもしれません。
 私は今回、ニュージャージー郊外の韓国人の超お金持ちの家に行き、食事を頂きました。その家の建坪がどれくらいかというと、何と、六百坪ありました。家の中で移動の為に自転車が必要なくらいでした。隣の教育館が三百坪ですから、その倍です。地下室を含めて3階建てでした。さらにテニス場とプールを造る計画だと言っていました。アメリカ東海岸などでは、そのような広い家に住んでいる人たちがざらにいます。三百坪くらいの家に住んでいる人達は沢山いて、私達も泊めて頂きました。

 実は幸福度指数から言うと、日本は百四十三カ国中、「七五位」です。そして六〇〇坪の家のあるアメリカは、何と、「一一四位」です。
 どの国が一番が指数が高いかというと、「コスタリカ」でした。二位がドミニカ共和国、三位がジャマイカ、四番目がグアテマラ、五位が何とベトナムです。ベトナムは戦争で大変な目にあったのに、ベトナム人は幸せだと思っているようです。環境に対する負荷や度合い、国への期待度なども換算して幸福度指数を算出したそうです。
 そうしてみると「幸福」と言いますが、幸せにも大きな個人差があり、相対的でもあり、一概に何をもって幸福と言えるのかわかりません。
 しかし本当の幸福が何かというとやはり、天地万物を造られた神、イエス様と出会う事が一番の幸福です。
 幸福度指数は色々な調査機関がありますから、違った順位が出るのですが、もう一つの調査機関のリサーチでの一位は、「バヌアツ共和国」です。それは、フィジーの近くのリバイバルが起こった国でした。そこの人達はイエス様を信じ、クリスチャンになった人達が九十パーセント以上ですから、そういう基準で「自分達は幸せだ」と言ったのだと思います。しかし一体、人とは何者か、という事です。

 こんな事を考えると人生とは一体何なのかと思います。しかし神様が私達を作ったからには、何らかの目的があるはずです。その目的について、今日はこの詩篇八篇から学んでいきたいと思います。
 四節で、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。」と二回も繰り返しています。そして五節に何と書いてあるかというと、

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」

と記されているのです。この言葉は、大変重要な言葉だと思います。この言葉は正確に訳されなかった経緯もあります。私達が使っている聖書では、「あなたは人を神よりいくらか劣る者とし」と正しく訳してありますが、英語やスペイン語の聖書では神ではなく「天使」と訳されているバージョンがあります。「あなたは人を天使よりいくらか劣る者とし」とされています。原語では「エロヒム」であり、「神」としか訳す事のできない言葉なのですが、「天使」と訳されています。何故、天使と訳されたかというと、「人間が神よりちょっと劣る存在として作られたなど、信じられない、天使ならわかるが」というのが理由らしいです。

 しかし事実は、私達は神よりいくらか(いくらかというのは“ちょっぴり”という意味です)劣る存在として造られたのです。機能的には、他の動物と比べたら人間はあまり優れていないかも知れません。生きるのに面倒くさい動物ですが、他の動物と何が違うのかといいますと、“権威の序列”が違うのです。神は全ての生物を創造する時に“権威の序列”を決められました。私達、人類の権威の序列は「神に次ぐ存在」、権威が与えられた動物として創られました。ゆえに、

『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

 人類によって、全ての動物が治められるのです。『すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。』…それらすべてを人間の手に託した、というのです。他の動物と比べ、ある意味人間は劣っている部分が多いかもしれませんが、最も違う特徴は、人間こそ、神に次いで権威ある存在として創造されたという事実です。

 時々、祈りを聞くと、「神様、感謝します。私のような取るに足らない、小さき者を救って下さって」という謙遜な祈りをされている方がおられますが、それは間違いです。「私なんかだめだ、価値がない」という人がいますが、そうではありません。人間はすごい存在です。先程言ったように、動物と比べたら劣るように見えるのかもしれませんが、実は人は神に次ぐ権威ある存在として創られたのです。ですから皆さんは「自分は駄目だ、価値がない」などと、悪魔に騙されてはいけないのです。神に次ぐ権威ある存在、それが人間だと知らなければいけません。特に、ここで、

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」

 この『彼』とは、イエス様のことを指しています。イエス様は私達の代表者です。そして、イエス・キリストを信じる者というのは、彼に続く者であり、彼から権威を委託された者達です。ですからイエスさまと同じ権威ある存在として、生きる事が出来るのです。

 ということは、人間は何を一番しっかりと理解しなければいけないかというと、「神から委託された権威を持っている」という事に関して、はっきりと認識を持たなければならないのです。同時に、この権威を行使する必要があるのです。

 ある時、イエス様の所に百人隊長が来た事が記されています。マタイ八章五〜一三節。自分のしもべが中風で苦しんでいるので癒して下さい、と願ってきた事が記されています。

 『イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』

 その時、イエス様は何と語られたかというと、「イエスは彼に言われた。行って直してあげよう」とおっしゃいました。私はこの箇所を読むたびに感動します。
 当時、イエス様は有名で大フィーバーで、何万人という人たちが押し寄せていました。その中の一人がこの百人隊長でした。自分のしもべが病気だから何とかなりませんか、という願いを申し出たのです。
 するとイエス様は、「ちょっと待って。しもべが住んでいるのはどっちの方向。…治れ!」と言われたら簡単に治ったはずです。しかし、忙しいのに、「家まで行って直してあげるよ」と言われたのです。なんと、腰の軽い、愛の深いお方ではありませんか。

 イエス様は一人一人を個人として扱って下さるのです。私もいつもこうありたいと思っています。どんなに忙しくても、イエス様が個人として扱ったように、「一対大勢となってはいけない」と自分を戒めています。イエス様はいくら大群衆と相対しても、一対大勢ではなく、一対一の関係を持っておられたのを知る事が出来ます。

 けれども、せっかくこのように「行って直してあげよう」と言われたにも関わらず、百人隊長は、「私には来て頂くような資格はありません。ただお言葉を下さい。それで治りますから」と言いました。

 何故そのように言えたかというと、「私は百人隊長で権威の中で生きているのですが、私が部下に来いと言ったら来るし、やれと言ったらやります。ただ言葉を発するだけで実現する」と言いました。あなたは神の子ですから、あなたからの言葉をもらったら、私のしもべは絶対に治るはず、と言いました。
 百人隊長の信仰と言うのは“権威の行使”にありました。彼が神の権威を認めた事により、イエス様は、「こんなすごい信仰を見た事が無い」と評価したのです。それは権威の中で生きていた百人隊長にしか気づかない事かもしれません。
 しかしこの記事は、権威がどれほど大事かを教えているのだと思います。

 私達は神に次ぐ者として、神からの権威を頂いて、今度は権威を使わなければならないのです。百人隊長はイエス様からの癒しの許可をもらい、その言葉を自分の権威の下にいるしもべに宣言したら癒される、と信じていたのです。
 その通り、イエス様から言葉をもらって、彼が家に帰ろうとしたその瞬間に、僕は癒されたのです。
 私達に与えられた権威を正しく使うことが重要だとわかります。

 人間は初めから、権威のある存在として創られた事が、アダムとエバの箇所を見ても分かります。創世記一章二八節、

「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 これは、初めの人類に与えられた言葉ですから、全人類に与えられた言葉なのです。最初の人間に神が何と言われたかというと、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」でした。それが最初の人類への最初の言葉でした。
 「支配しなさい」…これが人間に与えられた使命です。私達も、神からこの言葉をもらっているはずです。
 その後何が起こったかというと、蛇が出てきています。創世記三章一節、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』

 そして、神が『取ってはいけないよ』と言われていた、善悪を知る木の実を取って食べるように誘惑したのです。すると最初の人類アダムとエバは蛇の誘惑に乗り、その実を食べてしまいました。そこから人類の不幸が始まったのです。蛇とはどういう存在かというと、田んぼのあぜ道に出てくる蛇ではなく、サタンのことを言っています。
 時々悪魔や悪霊は恐ろしい存在と思われますが、実は、全く怖い存在ではありません。何故なら、私達より高次元に住んでいて、知恵があるのかもしれませんが、悪魔や悪霊はいわば「蛇族」であり、地を這う生き物に属しますから、支配できる対象なのです。

 アダムとエバは神の戒めに反して、善悪を知る木の実を取って食べてしまい、神に対しても罪を犯しました。
 しかし、アダムとエバは木の実を取って食べる前に、ひとつの過ちを犯していました。それが何かというと、蛇が出てきた時、彼の言う事を聞くのではなく、「支配」しなければいけなかったのです。けれども、言葉巧みに騙されてしまったのです。結果、最も大切な支配権を蛇にとられてしまったのです。本来は「神、人間、蛇」という序列が、「神、蛇、人間」と入れ替わり、それ以来人間は不幸になってしまったのです。
 何故、悪魔や悪霊どもが猛威をふるっているのかというと、初めの人間アダムとエバが、せっかく神からゆだねられた権威を悪魔に譲渡してしまったからです。

 第一ヨハネ五章一八〜一九節を見ますと、「全世界は悪い者の支配下にある」とあります。世界を見ると、色々な問題があり、悪魔・悪霊どもが猛威をふるっています。何でこんな世界になったのかというと、ひとつの原因があり、最初の人間アダムとエバが神に次ぐポジションを明け渡したからです。権威を奪われてしまったからです。

 本来、「神、人間、悪魔・悪霊」という序列が入れ替わり、「神、悪魔・悪霊、人」となってしまったのです。
 しかしイエス様がこの地上に来られたのはどういう目的があったのかというと、何とその権威の序列をもう一度、もとに戻すためであったのです。イエス様は地上に来られ、弟子たちに言われました。ルカ一〇章一九節、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 イエス・キリストを信じる者たちがどういう存在であるかというと、アダムとエバが悪魔に騙され奪い取られた権威を、もう一度回復し、神に次ぐ権威ある位置に戻して頂いた存在であるという事です。
 色々な問題が起こったり、色々人生にはあるかもしれませんが、「どうしよう。自分では祈り切れないから誰かに祈ってもらう…」それも大事ですが、その前に、「私は神に次ぐ存在なのだ」と、その権威を使い、問題に立ち向かう事が出来るのです。そのポジションに気付く事が重要です。
 マタイ一六章一八節〜一九節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』

 実は八月にこの箇所から皆さんと共に学びましたが、この言葉はピリポ・カイザリヤという場所で語られたとお話ししました。その時に一つの映像を見せましたが、覚えておられるでしょうか。「わたしはこの岩の上に教会を建てます」と語られましたが、“岩の上の教会”とはどういう意味なのか。
 私は何年か前に、ピリポ・カイザリヤという場所に行きました。来年の二月、三月にイスラエル旅行がありますから、是非行って頂きたいと思います。「この岩の上に教会を建てます」とは、岩とはイエス様の事ですが、実は目の前にある大きな岩をも意識して、イエス様は「この岩の上に教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」と弟子たちに語ったのです。

 当時、そこにはギリシャ神殿が建っていました。そこでは何がなされていたかというと、パンと言うギリシャ神話の偶像が拝まれていて、同時に、人々は目の前の大岩が神だと信じていました。ただの岩を“救いの岩”としていたわけです。

 日本でも同じではないでしょうか。大きな岩が“カミ”とされていたりします。イエスさまはこのような偶像礼拝の現場に弟子たちを連れていって、「わたしはこの岩の上に教会を建てる、ハデスの門もそれには打ち勝てません」と語られました。そこにはどのような意味があるかというと、「教会は偽りの救いの岩を踏みつける存在である」と言うことです。
 そして「本当の救いの岩がイエス・キリストだ」と語られたわけです。さらに、「ハデスの門も打ち勝てません」と。
 ハデスとは悪魔・悪霊の住処ですから、偶像礼拝の背後にはハデスが存在し、悪魔、悪霊どもが働いていることを意味します。そして教会は、これらの力を打ち破る権威ある存在として建てられたのです。

 さらに、「あなたに鍵を上げます」と語られました。それはどんなカギかというと、天のみ国のカギであり、「何でもあなたが地上でつなぐなら、天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、天においても解かれている」と言われました。
 実は、教会、クリスチャンは、神からの鍵、すなわち、権威が与えられていて、地上でつないだら天でもつながれるのです。悪魔の力を縛り上げ、縛られている人を解く権威が教会には与えられているのです。
 教会の原点に、神がクリスチャンに権威を与えている事と、教会の戦いは偽りの岩である偶像礼拝との戦いである事を示しています。そこから人々を解放する権威が授けられている、と主は語られたのです。

 私達クリスチャンは悪魔に対し、完全勝利出来る権威を持った者たちであり、この権威を使う為に生きるのです。それが人間の特徴であり、動物と大きく違う所が権威なのです。この権威をしっかりと認識して使う事が、大切だということを教えられます。

 今日は十一月二九日です。今週から十二月に入り、来週の日曜日にはクリスマスコンサートが開かれます。是非とも皆さん大勢の方々をお連れ下さい。クリスマスというのは一番伝道によい季節であり、チャンスです。クリスマスというと、何か心がうきうきして解放感があります。クリスマスシーズンはいいな、と皆思っていると思います。今回の新城教会ニュースにも、「クリスマス、なんだか心がうきうきしませんか」というタイトルで書きましたが、クリスマスになるとなんだか心が明るくなるし、イエス様のことを話題にしやすい時期だと思います。ですから今週はコンサートの案内して頂いて、来週はお友達をお連れ頂きたいと思います。

 そういう意味で十二月はよい季節ですが、同時に、意識しなければいけない事柄もある季節ではないかと思われます。それはどういう意味かというと、神から与えられた権威を使わなければならない季節であると言うことです。

 実はクリスマスが一二月二五日と言われていますが、一二月二五日がイエス様の誕生日などとは、聖書に記録されていません。いつ生まれたのか記されていけれど、三六五日のどこかで生まれたのは確かです。羊飼い達が野宿していたなどありますから、イスラエルは一二月になると寒くて野宿はできないそうで、春先ではなかったかと言われます。一二月二五日説がどこかで生まれたのかというと、ローマ帝国が「この日をイエス・キリストの誕生日にする」と決めたからです。ローマが国教をキリスト教にし、その日をキリストの誕生日としたのです。

 何故一二月二五日なのかというと、実は、当時ローマを含めその地域に、一つの強い宗教がありました。それは「ミトラ教」と呼ばれる太陽を神として拝む宗教でした。ローマ帝国はミトラ教の人々をキリスト教に改宗させるために、政治的策略として、今までミトラ教の太陽神の祭りの日、すなわち一二月二五日を、イエス・キリストの誕生日として変えたのです。「一二月二五日はイエス・キリストの誕生を祝え」と、上からの権威で変えてしまったわけです。元々、一二月二五日は、異教の祭りの日であり、イエス・キリストの誕生日ではないのです。だから「こういう日にクリスマスを祝うのはどうか」という疑問もあります。

 しかし、世界では、一二月二五日が誕生日だとされており、簡単には変える事ができません。
 先日ある本に、一二月二五日にクリスマスを祝うというのは、もちろん異教の影響はあるけど、「偶像礼拝に対する決別の日」と位置付けて、クリスマスを祝うのはどうだろうと記していました。私は本当にそうだと思いました。
 そもそも、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」という偽りの岩、偶像礼拝を目の前にして、それを打ち破るために教会に権威が与えられたのなら、一二月二五日という偶像礼拝の岩に対しての決別の日であり、「救いの岩であるイエス様だけを礼拝します」と宣言するならば、意義があります。

 また、十二月は年の瀬で、一番忙しい月ではないかと思われます。ある意味、私の経験からいって、今まで新城教会の歴史を見ても、クリスマスでうきうきしたよい月ではあるのですが、一方、色々な悲しい事件が起こったのも十二月のような気がします。「十二月は何か緊張する」というイメージが私にあるのは事実です。

 二週間前には竹内先生が素晴らしいメッセージを語って下さいました。私も、「先生はきっと素晴らしいメッセージをして下さるに違いない」と思っていましたが、後からメッセージを読ませて頂き、たいへん恵まれました。先生も、「十二月は戦いを感じる」と言われます。また、ジョー先生と先週会ったら、「昨年の一二月はとりなしの祈りを怠ったものだから、大変なことが多く起こった、だから今年は負けないように、真剣にとりなしの祈りをするんだ」と言っていました。

 「そのように感じていたのは、私だけではないんだ!」と思いました。十二月は、案外戦いの月ではないかと思います。どうしてなのかと理由を考えると、一二月二五日は「冬至」といって一年の中で、「最も日が短くなる日」であり、その日はミトラ教の太陽再生の祭りの日になっていました。
 
 実は日本においても、冬至は古くから太陽礼拝がなされていた日でもあります。そして冬至とはどういう日かというと、「死に最も近い日」とされ、恐れられた日でした。そのためか、一二月は偶像礼拝が多く、宮中行事も多くあります。一二月は“死に最も近い月”として位置づけられているからです。そのような位置づけがある事は、ある意味、最も死の力が活発に働く月なのかも知れません。
 しかし、こんな時にこそ、私達は、クリスチャンに回復されている“権威”をしっかり握って、死の霊に立ち向かうのです。

 十二月にクリスマスがあるのは、偶像礼拝に対する決別の日であり、死の力を打ち破るためではないでしょうか。歴史の中で冬至がクリスマスに置き換えたのも、意味があると思います。神がそれを、よしとされているような気がします。イエス様の目的が“死の力から人々を解放するためである”ことを人々に教えるために、あえて一二月二五日とされているのかも知れません。

 この月にこそ、私達人類に与えられた権威をしっかりと握って、死の力に立ち向かう祈りが大変重要ではないかと思います。今年の十二月は、最も素晴らしい月となるように、この権威を握って祈ろうではありませんか。「今までの人生の中で、最高の月だった」と言えるようにしていきたいです。

 何故、色々な事件が今まで起きたのかというと、やはり、神に次ぐ権威の意識が少なかったからではないかと教えられ、今年はしっかりと握って、一番暗い季節に光を投じたいと願っています。最も暗い月に光が最も強く輝くはずです。
 今、巷ではイルミネーションが流行っています。最も暗い月に、主は新しい光を照らそうとされておられるのです。

 最後に、私達がこの権威を使うためには何をしたらよいのか、実は、権威とは、さらに上の権威に従う事によって、下に権威を行使できるのです。“上の命令に従う”事が下に対して権威を行使するカギなのです。上の権威とは何かというと、主です。それは、ただやみくもに従うのではなく、「愛の中で従う」のです。
 第二歴代誌一六章九節、

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」』

 人生が数々の戦いに巻き込まれないために必要な事は何かというと、「主と心を一つにすること」です。主と心を一つにし、主のみこころを自分の心にするならば、何と、神は私達にみ力を表して下さり、ご自分の権威を託して下さるのです。主のみこころを常に求める事がどんなに重要であるかよくわかると思います。

 また、申命記六章五節、

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

 権威に従うとは何か、恐ろしいから従うというのではなく、「心を尽くし、精神を尽くし力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と教えられているように、愛の中で神からの権威を委託して頂くのです。さらに神に近付き、み心と一つになるならば、み力をあらわして下さるのです。心を尽くし精神を尽くし力を尽くして神を愛するならば、サタンに勝利できます。
 しかしみ心から離れてしまうと、多くの戦いに巻き込まれてしまう可能性があるのです。

「あなたは人を神よりいくらか劣る者とし、これに栄光と誉れの冠を被らせました」…主が私達に権威を授けて下さっている、この信仰をしっかりと受け取りたいと思います。これは、牧師だとか、伝道者とか、自分の職業には関係なく、猿ではなく人間である以上、権威は授けられています。どんな所に行っても決して恐れないで下さい。みことばの剣を持ち一二月に入って行くならば、敵は蹴散らされていくのです。この十二月は、最も輝かしい、最も光が輝く月になると信じます。人に与えられた偉大な権威を、今日も確認して、今週も雄々しく進んで行きたいと願います。最後にお祈りさせて頂きます。


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