「セレブレイトジーザス」 〜神が人となられた日〜


2009.12.6(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

ヨハネの福音書 1章1節〜14節
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日は、素晴らしい演奏を聞かせて頂きました。このままコンサートを続けて頂きたいくらいですが、今日の六時半からのクリスマスコンサートには、ぜひ、来て頂きたいと思います。
 巷はクリスマスムードで、十二月になりますと、社会が明るくなるような気もしますが、先週もお話ししましたように、クリスマスはイエスさまの誕生日ではないのです。実際の誕生日は、多分、四月から九月くらいの間で、寒い時ではなかったと言われます。
 では、クリスマスは何の日かというと、「イエスさまの誕生を祝う日」です。イエスさまが生まれた事は事実ですから、「イエスさまの誕生をお祝いする日」、それがクリスマスなのです。

 日本人は年間三度宗教が変わると言われます。十二月二十五日までは国民皆、キリスト教的です。ウォーキングでこの地域を歩いていると、イルミネーションで彩られ、クリスマスムード一色です。しかし、二十五日を過ぎると、今度は門松などが立ち、神道色が強くなります。また八月になると盆になり、仏教徒になり、何が自分の宗教かわからないのです。
 ある方が教会に来られて、「うちは仏教ですが、クリスマスもやりますよ」と言いました。「どんな風にやるんですか」と聞くと、ケーキを買ってきて、まずは仏壇に供えてから食べると言っていました。

 また、クリスマスはサンタクロースの誕生日のように考えている人もいます。誰がプレゼント交換などという習慣を作ったのかわかりませんが、子供達はプレゼントを要求しますから両親は困ります。親たちにとってクリスマスは“クルシミマス”という感じです。

 ある子供がサンタクロースに会ったそうです。しかし本物のサンタは、子供達が知っているサンタとはちょっと違い、お父さんお母さんがいない昼間に家にやって来たそうです。煙突のない家が多いので、裏の窓から入って来て、赤い服だとサンタだとばれてしまうので、黒い服でやって来たそうです。そして、その家の子どもに、「他の家でおもちゃをすべて配ってしまい、何も持っていない」と言ったそうです。だからその子は、お父さんとお母さんがタンスにしまいこんでいた、時計やかばんなどをサンタさんにあげたそうです。サンタはいっぱいになった袋を嬉しそうに抱えながら帰ろうとしたそうです。子どもは何ももらえなかったので悲しそうな顔をすると、サンタは「来年、また来るよ。メリークリスマス!」と約束してくれたそうです。
 これはサンタではなく、ただの泥棒だと思われますが・・・。

 クリスマスはイエスさまの誕生を祝う日だと説明させて頂きましたが、イエスさまはどのような方だったかというと、今読んだヨハネ一章のところに、「この方はご自分の国に来られた」とあります。
 という事は、イエスさまは神ご自身なのです。天地宇宙を創られた神ご自身がイエスさまなのです。そのお方が、この地上に人となって来られたのです。

 日本は教育の中で進化論を教えていますから“創造主”となると途端に引いてしまうところがあります。“カミガミ”は信じますが、“創造主”となると、進化論の方を採択してしまうのです。
 しかし、太平洋戦争中は日本に進化論はなかったのです。何故ならば、進化論というのは猿が人になったという考えですがら、「じゃあ天皇も猿?」という事になりますから、進化論は語れなかったそうです。けれどもこの頃では、まことしやかに進化論を教えています。

 聖書は、「初めに神が天と地を創造した」という言葉から始まっています。全地宇宙は神によって創られ、人類も神によって創られました。創世記1章27節、

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』

 私は、神が存在する事は否定できない事実だと思います。冬になると私は、「絶対に神様はおられる!」といつも確信し、感動します。特に、みかんを食べる時、「絶対に神様はおられる」と確信します。なぜなら、みかんは皮をむくと、実にうまく一口サイズにカットされているからです。誰がカットしたか知りませんが、「さあ、お食べ」と言わんばかりに、出来あがっているのを見ると、絶対に神がおられると感動します。むくと子供でも食べれるように、ご丁寧に(過剰包装のように?)袋の中に包んで、誰でも食べれるように準備されています。バナナも然り、実にうまく出来ています。進化論が正しいとすれば、私がみかんやバナナなら、絶対食べられないように、皮を鉄か何か固い物質で進化させると思います。しかし実際は、食べて下さいと言わんばかりです。それらは、人間のために神が作って下さったからです。
 花などもそうです。土の中から花が咲くわけですが、何故黒い土から、緑の葉っぱが出るのか、赤や黄色い花が出るのか、花などは人間しか楽しんではいません。ミツバチなどがちょっと蜜を吸うために“利用”するくらいで、動物が花を飾って楽しんでいる光景は見た事も聞いたこともありません。それらはすべて人のためです。天地宇宙を創られた神が確実におられるのです。

 熱力学の第二法則に“エントロピーの法則”というのがあります。分かりやすく言えば“乱雑さ”の指数です。例えばコップの中に水が入っていて、コップが割れたらどうなるかというと、絶対に元には戻りません。物事は、一度秩序を失うと、さらに秩序を失うものです。皆さんの部屋でも、掃除しなくなると、どんどん散らかります。エントロピーがかなり増大している家も結構あるかもしれません。
 我が家も、私だけだとエントロピーがどんどん増大しますが、家内がいると秩序が回復していくわけです。何故ならば、私の家内が掃除するからです。
 宇宙は熱力学の法則から言えば、どんどん秩序を失ってもいいはずですが、それがいにしえから宇宙が秩序を保っているのはなぜか…、それは天地宇宙を保っておられる神がおられるからです。その神はどんなに大きな神なのか、我々には想像がつかないのです。
 時々、「神が目に見えたら信じてもいいよ…」という人がいますが、見えたらおかしいのです。宇宙を一人で創造し秩序を保っておられる神は、そう簡単に見えるような存在ではありません。

 しかし、そんな神が人類の歴史に、一度だけ人となって現れて下さったのです。神が人間となったら、その方と話せば神の世界がどんなで、神がどんな事を考えているかわかるはずです。
 実は初め人間が作られた時、人間はかなり高度な機能を持ち合わせていたようです。何故ならば、初め神がアダムとエバを造られた時、彼らは神と会話が出来たからです。神様は基本的には目に見えないお方です。天地宇宙を創った方ですから、普通では目に見えるはずはないわけです。けれども、そんな偉大な方と人間は会話する能力を備えていたようです。神と会話する能力があったくらいですから、霊的存在である悪魔・悪霊どもと会話する位はいとも簡単であったはずです。
 そのように、人間はとても高度な機能を持って創造されたのです。初めは誰が神なのかは明らかであり、ちゃんと認識できる存在として作られていたのです。わざわざ伝道集会などを行って「神とは誰か?」など、みかんの話など話さなくても、各自認識できる能力が備わっていたのです。また、高度な自由が与えられ、自由意思で何でも選択できたのです。何故ならば、神は人をご自分に似せて創られたから、すごい能力があったのです。

 そんなただ中で何が起こったかというと、当然のように悪魔・悪霊とは会話できたはずですから、悪魔と会話してしまったのです。その結果、人間は何を選んだのかというと、神が「絶対にやってはいけない」という一つの事に手を出してしまったのです。それが何かというと、「善悪を知る知識の木」の実を取って食べてしまったのです。それを食べたら死ぬと神さまから言われていました。

 何故神はそんな木を作ったのかな、と思いますが、人間の世界には存在は必要でも、手を出してはいけないものが多くあります。
 私の幼い頃、私はこの辺りの小学校に通っていたのですが、先輩から「道端に蛇いちごがあるけど、絶対に食べてはいけない。食べると蛇になるぞ!」などと脅されていました。私の時代はお腹が減っている時代だったので、へびイチゴはとてもおいしそうに見えました。そこである日それを取って来て、弟に食べさせてみました。でも、彼は死にませんでした。

 人間は、絶対に食べてはいけないと言われると、取って食べてしまう性質があります。蛇にそそのかされ、木の実を食べてしまいました。それから人類に死が入ったと言われます。
 エデンの園には「命の木」という木もあり、ちょっと年をとれば、それを食べたら若返るような実だったらしいです。私も、その実を食べてみたいと思います。その実を食べれば毛が生えてくるのなら食べたいです。アダムとエバのおかげで食べられなくなって、死ぬようになってしまいました。超残念です。それから何が起こったかというと、神の怒りに触れて、楽園から追い出されてしまったというストーリーです。

 是非、創世記をよく読んで頂きたいと思います。創られたままの能力を人間が保っていたとしたら、今頃人類はどんな生活をしているのかと思います。せっかく、エデンの園に置かれたにも関わらず、追い出されてしまったのです。

 実は、楽園から追い出された事は、とても辛い事でしたが、聖書をよく読んでみると一番辛い事は何かというと、初めの人間は神の声を聞く事ができたのですが、楽園から追い出された後、“美しい場所から追い出された”というばかりではなく、「神の声を聞く事ができなくなった」所に、最も大きな不幸があるのです。そして、聞く事が出来る霊的世界の声は、下のレベルにある悪魔や悪霊の声しか聞く事が出来なくなったのが、最大の悲劇だと思います。せっかく神の声を聞く事が出来るように創造されたのに、何と、悪魔の策略によって最も大切な機能を失ったのです。

 けれども、神は人間を目的をもって創られました。人間を愛しておられるのです。目的を失ってしまった人類を、もう一度取り戻すためのプログラムを実行されたのです。聖書には、人間をどのように救い出すかの歴史が、創世記から黙示録まで貫かれています。それを見ると楽園から追い出されて、神の声が聞こえなくなった人類に対し、「神の声を聞かせる」為の一つのプログラムが開始されています。
 旧約聖書時代に、神の声をはっきりと聞く事が出来なかったので、神の奇跡を見ても信じる事ができませんでした。出エジプトを見ると、イスラエルが解放され、紅海がまっぷたつに割れるような、すごい奇跡を見ました。しかしその後何をしたかというと、また偶像礼拝に戻ってしまいました。神の奇跡を見ながら、彼らは神の声を聞く事が出来なかったのです。

 旧約時代、一般人が神の声を聞く唯一の方法が何であったかというと、神が遣わした預言者の語る言葉によってのみ、聞くことが出来ました。神が遣わされた特定の預言者が神の声をキャッチして、代弁したのです。

 しかし、聖書全体から見るとイエスさまのお生まれは、今まで聞こえなかった神の声が聞こえるようになった日でした。イエスさまの口から語られる言葉は、まさに神の声でした。イエスさまの誕生によって、人々に直接、神の声が届くようになったのです。何故なら、神が人間となって来て下さったので、コミュニケーションが可能となったのです。その事がへブル書の一章一〜二節に述べられています。

『神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。』
 
 旧約の時代には預言者を通してしか聞く事ができなかった神の声が、イエスさまのお生まれによって、イエスさまを通して、直接、神の声を聞く事が出来るようになったのです。それがクリスマスです。

 旧約聖書の中で最も偉大な預言者は、イザヤであったと思われます。彼が神の言葉を告げました。イザヤ四十三章四節、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

“わたし”とは神です。そして“あなた”というのは私達の事です。このように、神の言葉がイザヤを通して人類に告げられたのです。しかしこれはイザヤを通して与えられた言葉ですから、一般の人々には聞こえませんから、いくらイザヤがそのことを告げても、当時の人々はあまりピンとこなかったと思います。しかし、クリスマスを通して、イエスさまによって何が起こったかというと、ヨハネ一章一四節に、

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』

 『恵みとまことに満ちておられた』というのは、「愛で満ちておられた」という意味です。何と、旧約時代、「あなたを愛していますよ」と言われても、何か漠然としていたのが、イエスさまがこの地上に来て、そのご人格に触れたら、人々は実際に「愛に満ちている」とわかったのです。

 イエスさまは、人類を神が愛している事を表すために、十字架にかかられました。初めの人間、アダムとエバが罪を犯してしまった事によって、神の声が聞こえなくなり、その後もずっと犯し続けているのですが、その罪の身代わりとなってイエスさまが十字架にかかり死んで下さったのです。教会のシンボルは十字架ですが、何故十字架を掲げているかというと、礼拝の対象ではなく、イエスさまが愛を表してくれた事を思い起こすために掲げているのです。十字架は救いのシンボルです。
 今でも救急車などは(この頃は変な蛇を巻きつけたマークが多くなりましたが)赤十字です。日本は仏教国だからと、卍マークの救急車が来たらどうでしょう。「来なくていい、乗りたくない」と言うでしょう。しかし十字架マークを見ると、日本人でさえ、「ああ救われる」と喜ぶのです。神社マークや卍マークはでは引きますが、十字架マークであれば救われるという考えはどこから来たのでしょうか。
 それはイエスさまの十字架からです。神が人を愛していると旧約聖書で預言者によって語られていた事の実現が、イエス・キリストなのです。

 何と、イエスさまの十字架により、預言者にしか聞こえなかった神の声を直接、人々が聞く事が出来るようになったのです。
 さらに、イエスさまが十字架にかかり復活して後、聖霊様がこの地上に来て下さいました。それにより、全世界の人々が神の声を聞けるようになったのです。ですから、ケイラブさんも、神の声を聞いたわけです。麻薬を吸っているような中でも、神の声を聞く事ができたのです。イエスさまの十字架を中心軸に、聖霊様が来て下さったから、もう一度人類が神様の声を聞くことが出来るように回復されたわけです。

皆さんが今日、一つ言える事は、「神の声を聞いたから教会に来た」のです。神の声を聞いていなければ、絶対に教会には来ていないのです。偶然に来たと思われるかもしれませんが、それは絶対に違います。内側に、神の声を聞いているのです。「教会に行きなさい!そこに救いがありますよ」と。
 何故かというと、イエスさまが十字架にかかってよみがえって下さり、聖霊様が来て下さった事により、楽園を追放され神の声が聞こえなくなった人類に、もう一度神の声が届くチャンスが与えられたのです。

 教会の使命は、神の声が社会にもう一度回復されるために存在しているのです。旧約聖書の時代にイザヤを通し、「わたしの目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」という神のメッセージを、現実として紹介しているのです。その事を知り体験すれば人生が本当に変えられるからです。

 この頃、悲しい事に日本で自殺者が多くなっています。二日前にもNHKで討論会をしていました。「どうやって自殺を防ぐか…」しかし防ぎようがないそうです。私は本当に教会の責任を感じました。もしも、その人達が神の声を聞く事ができたら、絶対に自殺をやめるはずです。自殺ははっきり言うと、サタンの声を聞いています。何故なら、サタンは死の力だからです。どんな事があっても、自殺してはいけません。神様は、「生きなさい。あなたを助けます」と言われます。しかし悪魔は、「死んでしまえ、そうしたら楽になるぞ!」と言います。しかし絶対に楽にはなりません。ですから、日本中の人が神の声を聞くように、教会がその使命を果たさなければいけません。こんなに大勢の人が自殺する国は世界にありません。

 私はこの頃、韓国での奉仕が多いのですが、今週は韓国のコチャンという街に行き、水曜日から日曜日まで、連合のリバイバル聖会で奉仕をさせて頂くことになっています。是非祈って頂きたいと思います。
 先日も、韓国でこの話をし、「日本では年間に三万何千人という人が自殺します」と話すと、通訳が通訳を忘れて、「順先生、本当ですか!」と言うので、「後から話すから、早く通訳して」と私は言いましたが、本当に大変な国ではないでしょうか。
 神が私達を愛してくれている、私達は高価で尊い者であり、元々、神の声さえも聞く事が出来る神に似た存在として創られたとわかったら、自殺するはずがありません。どん底にいたとしても、立ち上がる事が出来るはずです。

 今、ここにおられる方々の中で、万が一、「心が重くて死にたいと思っている」とか、「私の人生はもうだめだ…」と思っている方がおられたら、絶対にあきらめないで頂きたいのです。神の声を聞いたら、必ず、立ちあがる事が出来ます。神が私達を創造して下さった事、愛して下さった事を知ったら、必ず立ち上がる事が出来るはずです。

 一九九八年、アメリカでベストセラーになった「ユーア・スペシャル」日本語で「大切な君」という絵本があります。マックス・ルケードという牧師が作った本が、日本でも大変話題を呼びました。どんな内容かというと、ウィミックスという木彫りの人形の社会があり、成功すると金の星のシールを貼ってもらい、失敗すると灰色のシールを貼られるのです。成功した人形は星のシールを貼って、いばって歩いているし、失敗すると灰色のシールを貼られ肩を落として、人生裏街道です。
 その中にパンチネロという小人は、いっぱい灰色のシールを貼られ落ち込んでいたそうです。皆は彼を見ると、「ああ、あの人は相当失敗したんだね、あの人はもうだめだね」と。
 しかしある時、パンチネロがガールフレンドのルシアに出会うのです。すると、その子は金色のシールも灰色のシールも貼られていなかったそうです。不思議に思ったパンチネロは、「何で君は金色のシールも灰色のシールもないの」と聞くと、「私達を作ってくれたエリおじさんに聞けばわかるよ」と言われ、失敗したパンチネロはある日、小人たちを作ったエリおじさんの工房に行ったそうです。
 すると、エリおじさんはパンチネロを抱き上げて、「いとしい子、他のウィミックスがお前のことを何と思おうと関係ないよ。」「ほんと?」「本当だとも。気にすることなんかありゃしない。金色シールやダメシールをつけたのはいったい誰かい。みんな同じようなウィミックスじゃないか。皆がどう思うかなど、大したことじゃないんだ。問題は、この私がどう思っているか、という事だよ。そして私はお前のことをとても大切だと思っている」
 その時、今までパンチネロの身体についていた灰色のシールがぱらぱらと落ちた、という心温まる物語です。

 私達は、成功したり失敗したりと、シールを貼り合っている社会に生きています。しかし私達を作ってくれた神様の所に行き、神の声を聞くようになると、「ああ、私は駄目じゃないんだ。大切な存在なんだ」と知る事が出来、精一杯生きていかなければならない事が分かるのです。

 私は二週間前には、アメリカにいました。アメリカの第十六代大統領は、アブラハム・リンカーンです。彼は奴隷解放をした大統領として、大変有名です。彼の功績は今でも大きく記念されています。しかし彼のことが、ある日新聞にこのように紹介されたそうです。

 「この男を見よ、勇気がわく。」
 「もし君が時に落胆する事があれば、この男のことを考えてごらん。小学校を中退した。田舎の雑貨屋を営んだ。破産した。借金を返すのに一五年かかった。妻をめとった。不幸な結婚だった。下院に立候補、二回落選、上院に立候補、二回落選。歴史に残る演説をぶったが聴衆は無関心。新聞には毎日叩かれ、国の半分から嫌われた。
 こんな有様にも関わらず、想像してほしい、世界中至る所のどんなに多くの人がこの不器用な、不細工な、むっつり者に啓発されたことか。その男は自分の名前をいとも簡単にサインした。アブラハム・リンカーン」

 彼はクリスチャンでした。彼の人生を見ると、あまり幸せとは言えないようでした。生活はとても大変だったようです。しかしその中でも、神の声を聞く機能が回復されていたのです。ですから、彼しかできない仕事を、どんな困難があってもやり通しました。それは神様の声を聞いていたからです。
 私達の人生もそうありたいです。時々私達はエデンの園、安楽な、何の問題もない生活をほしがるのです。それを神様に祈ってしまう事もあるのですが、勿論、神様は問題を解決して下さる方ですが、それ以上に、神が私達を愛しているという事は、「私にしか出来ない仕事がある」と言うことです。我々がイエスさまを信じると、神の声が回復して、何をしなければならないのかがわかってきます。そして私達は勇気をもって、神から与えられた使命を果たすために立ち上がるのです。それぞれの人生、それぞれの戦いがあるのかもしれませんが、私達には神から使命が託されています。そのためにイエスさまはこの地上に来て、人間が失った神の声を聞く機能を、もう一度聖霊によって回復して下さったのです。

 それと共に、イエスさまがこの地上に来て下さったというのは、人類の真の敵について明らかにするためであったとあります。人類が神の声を聞くという最も大切な機能を誰によって奪われたかというと、勿論人間も悪かったけど、サタンによってその権利を奪われたのです。そして悪魔の声を聞くようになってしまったのです。第一ヨハネ三章八節、

「罪のうちを歩む者は悪魔から出た者です。悪魔は始めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは悪魔の業を壊すためです」

と記されています。
イエスさまは、悪魔の仕業を打ち壊すためにこの地上に来て下さったのです。私達人類の機能・使命は悪魔の力が打ち破られる事とリンクしているのです。敵の力を打ち破るために、神は私達一人一人を回復して下さるのです。

 今日、私達はこの場所にいます。本当に素晴らしい時期に私達は救われました。何故ならば今は、イエスさまの十字架が完成した以後の聖霊の時代だからです。人類が失った、最も大切な神様の声を聞くという機能が回復されているからです。旧約時代は特定の預言者しか聞く事が出来ませんでした。イエスさまの現れた新約時代にはイエスさまから直接聞く事の出来る素晴らしい時代でした。しかし、それは一部の人だけでした。今のようにメディアが発達していたわけではありませんでしたから、直接聞く事が出来る人たちはごくわずかでした。

 しかしイエスさまの十字架と復活により、今は聖霊により、主は一人一人に語りかけ、示唆を与えて下さるのです。この素晴らしいイエスさまの誕生を記念し、喜ぶクリスマス。私達はもう一度イエスさまが地上に来て下さった目的と、意味を知って日本中の人達が天地宇宙を作って下さった神の声を聞くように、祈り働く機会にしたいと願っています。

 最後に一言お祈りして、今日の礼拝メッセージのしめくくらせて頂きたいと思います。もう一度神の声を聞く事が出来るように回復された事を、心から感謝しましょう。神の言葉が記された神の書物、「聖書」があります。また、祈りの中で主が私達に語りかけて下さいます。このような素晴らしい時代にあることを、心から感謝したいと思います。
 まだイエスさまを知らない方は「イエスさま」という名前を使ってお祈りしてみて下さい。イエスさまの名前により、神のみ前に入り、「アバ父よ」と呼ぶ事が出来るとあります。イエスさまの名前で祈ったら、神と出会う事が出来るのです。人生のただ中で、神の声が皆さんを導くようになります。「主よ。あなたの声を聞かせて下さい」と祈ろうではありませんか。「神が人となってこの地上に現れて下さった」その方がイエスさまです。目には見えませんが、今、ここにおられます。ご一緒にお祈りしたいと思います。


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