「神の恵みのパスポート」


2009.12.13(SUN)
新城教会 岡本信弘 牧師

へブル人への手紙 4章14節〜16節
『さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。
皆さんのお祈りに支えられ、今日もここに元気に立つことができることを感謝します。
十二月に入り、様々な場所にイルミネーションが施され、クリスマスが近いことが感じられます。クリスマスは、イエスさまの誕生日をお祝いする日ですが、子どもたちにとっては、プレゼントをもらう日かもしれません。私は、家が商売をしていてこの時期が一番忙しかったということもあり、クリスマスプレゼントをもらったという記憶が全くありませんが・・・。
教会では、いくつかのクリスマス会が計画され、すでに終わったものもあります。先週のクリスマスコンサートは豊かに祝されました。その一週間前までは、動員が二百名にも満たない状況で、「いや、本当に今年は大丈夫かな」と思っていましたが、当日は四百名以上の方々が来られ、心から感謝しました。また、昨日は子どもクリスマス会があり、そこにも親を含めて四百五十名もの方が集いました。犯罪が増え、様々な問題が山積し、心配が尽きない今の世にあって、幼い時にみ言葉を聞き、本当のクリスマスの意味を知るということは、とても大切なことです。

私はいつも皆さんに、「お元気ですか」とあいさつしますが、お元気ですかの言葉のかわりに「今、恵まれていますか」とあいさつしたら皆さんは何と答えられるでしょうか。「もちろん、恵まれています」と答えられる方、「ちょっとどうかな」と首をかしげる方、また、「恵まれるためにここに来たんですよ」と言われる方もおられると思います。
今日のメッセージのタイトルを『恵みのパスポート』とつけました。『恵み』という言葉をインターネットで検索すると、聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、またクリスチャンの証しなどがずらりと出てきます。クリスチャンになる以前、友だち同士で「恵まれていますか」というあいさつを交わすことはほとんどなかったのではないかと思います。クリスチャンになってから、「恵まれていますか」、「恵まれています」と、『恵み』という言葉を口にするようになったのではないかと思います。
皆さんが教会に来られて沢山の恵みを頂いて家に帰り、一週間を過ごすための活力にしていただきたいと願い、今日は「恵み」についてお話しします。

この一年もあと三週間となりました。一年を振り返ってみると、「あんな苦しい時、大変なことがあったけれど、神さまがそれを乗り越えさせてくださった。神さまが守ってくださった」と、感謝の思いに満たされます。神さまの恵みがいつも私を追ってくる、そのような生活ができたということが本当に感謝です。そのような思いで祈っている時、今日のみ言葉が与えられました。
今年はインフルエンザが大流行し、学級閉鎖や学年閉鎖がある中、実際にインフルエンザにかかった人もいますし、その他の病気に対する不安もあるかもしれません。また、経済的な不安を持っている方もいらっしゃるでしょう。
プレイズ出版もこの不況の中、大変です。しかし、昨日ちょうど会計士さんが来られて、「それでもプレイズ出版はまだいいですよ。私のかかわっている製造業の会社など、去年に比べるて八〇パーセント減ですよ。これが何カ月も続いたら、倒産する会社が相次ぐのではないかと心配しています」という話を聞き、この時も、プレイズは守られているなぁと思わされました。そして、毎日食べるものがあり、着るものがあり、住む家がある、これはただただ神の恵みだと心から感謝しています。今日皆さんが礼拝に来られ、ここにいることができることも神さまの恵みです。

ところで、ここには海外旅行に行ったことのある方が大勢おられると思いますが、実は今日、イスラエルツアーのパンフレットをお渡ししました。私も今まで何回かイスラエルに行きました。行ったことのある方はすごく感動し、ほかの人に、「必ず一度は行ったらいいよ」と言われます。まだ行ったことがない方は、是非一度行ってみてください。「ここでイエスさまがメッセージをされたのか、ここをイエスさまが歩いたのか」と、イエスさまの歩まれた場所を実際に歩くことができます。そして、聖書の記述が生き生きとしてきます。
一度行かれた方も、二度、三度と行ってほしい所です。知らない土地に行くと北も南もよくわからない状態でガイドさんに連れられて行き、夢のように、あっと言う間に旅行期間が過ぎてしまいます。しかし、二度、三度行くと、だんだんと点が線につながって、「ああ、イエスさまはこういう伝道活動されたんだ」と、さらに深く恵みを頂くことができます。二十五万八千円は、高いと思われるかもしれませんが、八日間の旅行中の食事代金はすべて含まれていますし、イスラエルツアーとしては格安です。是非今から計画してみてください。

私は、プレイズの働きで毎週のように東京に出かけます。出かける時に、絶対に忘れてはいけないものは何だと思いますか? 私の場合、途中まで行っても引き返してまで忘れてはならないもの、それは携帯電話です。一日に何十本という電話をかけ、何十本もの電話を受けて、ある意味、携帯に縛られているような生活をしています。しかし、携帯電話は便利です。聖書がインストールされているので、どこでも読むことができますし、お財布代わりにコンビニで買い物もできます。今では切符代わりにもなり、電車にも乗れるというわけで、非常に重宝しています。
それでは、海外旅行に行く時に何が絶対に必要かといえば、パスポートです。準備万端整えて出かけたとしても、パスポートがなければ出国することはできません。ほかのほとんどのものは買うことができるし、金やカードを忘れても、同行者がいれば借りることができます。しかしパスポートは「ちょっと貸して」というわけにはいきません。誰かのパスポートを借りることも、どんなにお金を持っていても、パスポートを買うことはできません。海外旅行には、パスポートは欠かせないものなのです。そして、パスポートがあったら、ほとんどの国に出入りすることができるのです。
タイトルに掲げたように、どうしてもなくてはならない、あなただけに有効な『恵みのパスポート』を、今日、皆さんにお届けしたいと思います。

人生最大の恵みは、「罪からの救い」、そして「永遠の命を頂く」ことだと思います。
『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―』(エペソ二章五節)とありますが、『恵み』という言葉をキーワードにインターネットで検索した中に、「キリスト教の持つ大変ユニークな教えの一つに“恵み”ということがあります」と語るこの人が、救いについて例話を挙げておられましたのでご紹介します。

昔、中国で儒教の教師がクリスチャンになったそうです。日本で言えば仏教の僧侶がクリスチャンになるようなもので、一大決心だったと思います。また、人生が一八〇度変わったわけです。弟子たちは混乱し、「一度聞いただけで何で、よりによってキリスト教なのですか」と抗議したそうです。すると先生は、「まあ、私の話を聞きなさい」と言ってこう話したそうです。
『私が野原を歩いていて、草むらにあった古井戸に落ちてしまったと思いなさい。「助けてくれ!」と一生懸命叫んでいたら、一人の学者が通りかかった。その人が「あれあれ、お前は何でこんなところにいるんだ」と言うので、「野原を歩いていて、井戸が見えなくて落ちてしまったのです」と答えると、「人の通る道がちゃんとあるではないか。こんなところを通るからひどい目にあうのだ。今後十分に気をつけて、道のあるところを歩きなさい」と忠告しただけで、去っていってしまい何もしてくれなかった。
再び助けを求めて呼んでいると、宗教家がやってきた。「この人ならば助けてくれるだろう」と期待して「助けてください」と言うと、その人は「落ちたお前は何と気の毒なことよ」と手を差し伸べてくれた。しかし、どうしても届かない。その人は「ああ、お前は何と罪が深いんだろう。これも前世の因縁だから、諦めなさい」と言って、私を残したまま去っていってしまった。
さらに助けを求めて叫んでいると、今度はイエスさま来てくれた。「よりによって何でこんな奴が来たんだ、俺の一番嫌いな奴が…。儒教の教師である私を助けるはずがない」と諦めていると、イエスさまは何も言わずに手を差し伸べてくれた。だが、やはり届かない。やっぱりだめか、と絶望してかがみ込んでいると、イエスさまが井戸の中に飛び込んできて、「ほら、私の肩に足をかけなさい」と私を肩にのせて持ち上げ、井戸の外に出してくださったのだ。そして、穴の底でイエスさまは、「私のことは構わずに行きなさい。もう二度とここに来るんじゃないよ」と言ったんだ。だから私は、イエスさまを救い主と信じてクリスチャンになったのだ』という話でした。
まさに、イエスさまの本質を言い表している良い例話だと思います。イエスさまは私を、そしてあなたを愛してくださり、深い井戸の底のようなこの世に人となって来てくださって、罪のない方が、罪ある私たちの身代わりとなって罪を背負い、十字架にかかってくださったのです。
ローマ書三章二四節に、『ただ、神の恵みによってキリスト・イエスの贖いのゆえに値なしに義と認められるのです』というみ言葉が示すように、私たちが努力したわけでもお金を積んだわけでもなく、神の憐みによって永遠の命を頂くことができ、義とされたのです。
お腹がペコペコの時、やっとありついたご飯を「なんておいしいんだろう」と思うでしょう。のどが渇いた時、一杯の水を「ああ、水っておいしい」と思います。苦しみもがいている中で助けられた私たちがその苦しみから、問題から解放され救われたなら、その喜びは何にも代え難いものです。ましてや、罪から贖われ、救われたのですから、その感謝と感激は決して忘れてはならないことです。一年前に救われた人、五年前、十年前に救われた人がいると思いますが、この恵みを忘れることなく、主とともに歩んでいきましょう。

『恵み』には色々あると思います。救いの恵み・赦しの恵み・注がれる恵み、他にもたくさんありますが、先ほどから私がお話ししているのは『救いの恵み』についてです。罪だらけの者が、ただただ一方的な神の恵みによって救われる。これが、『救いの恵み』です。また、皆さんもよくご存じのルカの福音書に出てくる放蕩息子の話は、『赦しの恵み』です。恵まれた環境の中にあった者が財産をもらい、遠い国に出かけて行き、持っていた財産を湯水のように使い果たしてしまった後、彼は「父さんのもとに帰ろう」と、家に戻りました。そして、「私をしもべの一人として使ってください」とお父さんの前に悔い改めた時、彼は息子として受け入れられ、その地位を回復し、素晴らしい祝福を頂いたのです。赦されたのです。
もう一つ挙げた『注がれる恵み』、それは私たちが恵みを受けるだけでなく、受けた恵みを人にも分け与え、さらに神さまから恵みを頂くことだと思います。
人が罪を犯し続け、その中から救われて赦しの恵みを頂くのも素晴らしいことですが、それは、まず私たちが神に立ち返り、原点に戻ることです。私たちは、この恵みの上に、さらに恵みを頂くクリスチャンとして、成長していきたいものです。 

最初に読んでいただいた四章一四節のみ言葉に『さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。』とあります。クリスチャン生活は平穏な時ばかりではありません。楽しいことばかりではなく、クリスチャンとして堅く立っていくには戦いがあります。しかし、クリスチャン生活を充実したものにする条件があります。
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです』(テサロニケ第一五章一六〜一八節)
クリスチャンであれば誰もが知っている有名なみ言葉です。このみ言葉を実行できたら、最高のクリスチャン生活を送ることができると思います。しかし、頭ではわかっていても、いざ問題にぶつかった時、病気になった時、「喜んでいる」と笑顔で言うことができるかというと、到底できない自分がそこにいます。弱さがそこにあります。
また、『絶えず祈りなさい』と言われる神さまは、いつも祈り心をもって主と共に歩むことを望んでおられます。
仕事にはトラブルはつきものですが、突如起こる問題に、自分の力で何とかしようとあせる自分がいます。そんな時にこそ祈らなければならないのに、祈りが後回しになっていることがあります。
そして、神さまは『すべてのことについて感謝しなさい』とおっしゃいます。自分の人生を振り返るとき、多くの恵みを頂き、感謝すべきであるのに、すぐにつぶやいたりしてしまい、感謝を忘れている弱さを感じます。
クリスチャン生活をしていく中にも誘惑があり、迫害があり、問題があります。いろいろな不安を抱え、「私は今、大きな問題があるのに誰にも言うことができずにこんなに苦しんでいます。でもイエスさまは私の苦しみなんかわからないでしょう」と思っておられる方がおられるかもしれません。しかし、へブル四章一五節には、
『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』とあります。
イエスさまは神でありながら、人としてこの地上で生活されましたから、私たちと同じように時間が立てばお腹もすくし、一日仕事をすれば疲れて眠くなります。また、時にはけがをしたこともあったでしょう。とにかく、私たちの経験するすべての、いやそれ以上の苦しみ、悲しみ、弱さも、悩みも、すべて知っていてくださるのです。だからこそ、私たちの弱さに同情し助けてくださるのです。そのような神さまが共にいてくださることをいつも感謝して歩むクリスチャンとなりましょう。
また、皆さんは、「今日一日守られますように。病気を癒してください。交通事故から守られますように。事業がうまくいきますように」など、様々な願いを祈られると思います。一度祈ってみて問題が解決しなければ「やはりこんな難しい問題はイエスさまには解決してもらえない」と自分で決めてしまい、諦めてしまうことがありませんか。また、「こんな大きなことをイエス様に祈っても聞いてくれないだろう」と、イエスさまの大きさを自分で勝手に決めてしまって、初めから祈りもしないことがありませんか。
へブル四章一六節には、『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』
とあり、私たちが大胆に神の前に近づくならば、神さまが恵みを注いでくださるのです。 「親の偉大さは、失って初めてわかる」と言われます。私の母は、二年半ほど前に天に召されました。何かあった時、「母さんだったら、どうしただろう。何と言ってくれただろう」と考えることがあります。母は多くの犠牲を払って、私に愛情を注いでくれました。親が子どもを愛する愛は、大きく深いものがあります。しかし、どんなに親が子のためにしてあげたいと願ってもやってやれることには限りがあり、無力さを感じる時もあります。子どもが病気で苦しんでいるのを見て、「代わってやりたい」と思ってもできません。また、「新品の自転車を買ってほしい」「ディズニーランドに連れていってほしい」などとせがまれた時、ボーナスもほとんどないし、そんな余裕はないからと、経済的にも制限される時があります。できることと、できないことがあるのです。
うちの子どもたちがまだ中学、高校生くらいの頃、私は子どもが欲しいと言ったものは何でも買ってやりました。「金持ちですね」と思われるかもしれませんが、それは誤解です。というのは、うちの子どもたちは小さい頃から家が貧乏だと思っていて、「これぐらいのものは買ってくれるだろう」と思えるものは要求しますが、「これは無理かな」と思うものは、お祖母ちゃんにお願いしたりしていました。子どもなりに、親の状態を察知し、計算して、自分の欲しいものを獲得していたのです。
何故こんな話をするかというと、私たちはイエス様に対しても、「これぐらいはかなえられるだろう。これはしてくれるだろう。でも、これは無理かもしれない」などと、計算したり考えたりしていないでしょうか。そんな心配は無用です。イエスさまは、制限される方ではなく、ここにいる全員が、同時に違うことを願ったとしても、その願いをすべて聞き、答えることのできる方です。ですから、どんな大きな問題であっても、到底実現不可能に思えることでも、願ってみてください。『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方』(第二コリント九章八節)なのです。
そして、欲しいものが手に入らないのは、あなたがたが願わないからだと言っています。『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。』(ヤコブ四章二節)

私は仕事上、どうしても損得を考えます。計算して得だと判断したら、その仕事に着手します。しかし、計算したからといって、その計算がいつも正しいとは限りませんし、うまくいくとも限りません。ましてや、目に見えない神さまを計算することも大きさを計ることもできません。
私は、計算も早く現実的な人間ですから、自分の計算外の大きいなことにはなかなか手が出せません。しかし、明先生は違います。今日も東京に元気に奉仕に出かけておられますが、先生は、まったく計算をされません。しかし、計算外に大きな恵みを頂いてこられた先生を見る時、「信仰を持って前進するなら、こんなに大きな恵みをいただけるんだなぁ」と教えられました。私は先生のことを信仰者の模範のような人だと思います。先生が自由に大きな夢を見て、それを実現するために私たちが使われる。そして、共に恵みにあずかる者とされたことは感謝です。
二十年ほど前になりますが、甲子園球場を三日間借り切って「甲子園リバイバルミッション」が開催されました。今見ると、そこに行かれた方は、ここにいらっしゃる方の半分くらいでしょうか。
当時私は、この教会からほとんど出たことがなく、右も左もわからない若造でしたが、財務を任され、先生の後についていろいろな教会に行かせていただきました。「どうなるんだろう」と不安を覚えながらも無我夢中で働き、多くの方の救いと癒しという大きな勝利を見させていただきました。明先生が神さまからの使命を受け取ったことにより、日本全国の方が祈ってくださり、リバイバルの波が広まっていきました。神さまが私にやれと言われても、私は受け取れなかったと思います。もっとも、そのような者には、初めから神さまは言わないと思いますが・・・。
また、東京リバイバルミッションの時にも、武道館を十日間借りるなど尋常ではありませんでした。武道館に私が交渉に行ったのですが、「十日間も何をするんですか。今までそんなに長く続けて借りた人はいません」と言われたのがすごく印象に残っています。帰って明先生に「十日間も借りた人はいないらしいですよ。無理かもしれません」と報告すると、「そんなことはまだわからん」と、一蹴されてしまいました。そして、先生の信仰どおり、東京リバイバルミッションが十日間、武道館で開催されたのでした。
神さまの御心を知り、受け取り、前進するなら、さらに沢山の恵みを頂くことができるのは間違いありません。皆さんもぜひ信仰を持って神さまからの恵みを受け、さらに恵みを増し加えていただきたいと思います。

昔、ノルウェーにオフラという王がいました。ある時、一人で散歩に出かけた時に、ヨハンというホームレスに出会いました。ヨハンは王様に、「本当にいい時に出会った。私は何日も食べてないんです。是非食べ物を恵んでください」と願いました。王様には考えられないことです。王様は「お前、本当に食べる物が何もないのか」と聞き、哀れに思ってポケットから一枚のカードを出して、「今日の夕食にヨハンを招待する」と書き、サインをしてヨハンに渡し、「これを持って宮殿に来なさい」と言いました。ヨハンは大喜びで夕食時に宮殿に行きました。しかし彼は臭いボロボロの服を着ていたので、門衛に「お前のような貧乏人が来るところではない」と追い返されそうになりました。そこでヨハンはもらったカードを差し出しました。そこには「ヨハンを夕食に招待する」と書かれ、王様の直筆のサインがありました。門衛は仕方なくヨハンを丁重に迎え食事を食べさせました。彼は今まで食べたこともないごちそうをお腹いっぱい食べ、喜んで家に帰りました。
次の日の夕食時、ヨハンはもう一度宮殿に行きました。すると「昨日はカードを持っていたけど、今日はもう食べられないぞ」と門衛は彼を追い返そうとしました。しかしヨハンは、「このカードをよく見てください。ここに、“今日の”夕食にヨハンを招待すると書かれているでしょ。“今日”は今日ですよね。ですから、これは有効ですよね」と言いました。門衛も「それはそうだ」と納得して、食事に招き入れたのです。
それから何日間彼がそのカードを使って宮殿に行ったかわかりませんが、そのカードを持ち続けている限り、彼は夕食をたらふく食べてもよいという恵みを頂くことができたという、笑い話のような例話です。
ボロボロの服を着たヨハンは、罪人である汚れた私たちを表しています。汚れた者である私たちは、神の前に出ることができない者です。しかし、ヨハンが王様の一方的なあわれみを受け、カードを頂き、宮殿に行って食事を食べることができたように、イエスさまが私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえって今も生きて働いておられることを信じ受け取った時に、大きな恵みを受けるのです。
先にお読みしました『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』のみ言葉こそ、私たちに与えられた神さまからの招待状であり、恵みのパスポートです。これを持っているだけで、あなたはいつでも神の前に出ることができる。そしていつでも神さまからの尽きることのない恵みを頂くことができるのです。

最後にもう一つみ言葉をお読みしたいと思います。
『すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。』(第二コリント四章一五節)
私たちが恵みを受けて祝福されるだけでなく、その恵みはもっと多くの人に及んでいくようにしなければなりません。そしてそれは、神の栄光が現されるようになるためなのです。皆さんが恵まれ、祝福された結果として多くの人に恵みが波及していき、それが再びあなたのところに喜び、祝福となって戻ってくるというのです。
イエスさまが天に帰られすでに二千年もたっていますが、この恵みのパスポートは、今も私たちには有効であり、このパスポートを持って主の前に出る時、恵みを受け続けることができるのです。
新しい年も、皆さんが、さらに恵みを受け取っていけるようにと願っています。
一言お祈りいたします。


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