「クリスマス・メッセージ」


2009.12.20(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

へブル人への手紙 2章14節〜15節
『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』 

 ハレルヤ!皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日はこうして、喜ばしいクリスマス礼拝を持つ事が出来ますことを、感謝しています。
 今の石塚先生の賛美は良かったです。「イエス様は神だったけれど、人となって生まれて下さった」という意味の歌でした。固い飼い葉おけの中に寝かされ、人々を救うためにこの地上に来て下さった、という素晴らしい歌でした。新城教会には色々な賜物を持った方々がおられて、素晴らしい賛美を聞かせて頂けます事を、心から感謝しています。

 イエス様の誕生と絡めるのは申し訳ないのですが、先週は私にとって大変嬉しい事がありました。それが何かというと、私たち夫婦に、二番目の孫が生まれたからです。病院に早速赤ん坊を見に行ったら、サルのような赤い顔をしていて、ちょっとショックを受けましたが、日を追うごとにかわいくなってきました。しかし本当に人の誕生とは、大きなものだと感動しました。
 実は私は先週、韓国に行って奉仕をさせて頂きましたが、今年は韓国リバイバルミッションなどもありまして、韓国に行く機会が多かったのですが、ある意味二〇〇九年の総決算のような恵まれた集会となりました。コチャンという慶尚南道の北の小さな町で集会を行ったのですが、すばらしいリバイバル集会となりました。三日間は町の教会が連合しての聖会で、後の二日間は、地域の教会での奉仕でしたが、あまりにも祝福されたので後半二日間の集会をとりやめて、さらに二日間延長して続きました。すごく燃えました。その中で本当に色々な事を教えられましたが、今日はクリスマス集会と言う事で、伝道メッセージを語れと言われましたので、その事は次週お話しをさせて頂きたいと思います。
 先週の集会の模様を一枚だけ写真でお見せしたいと思います。十一月に建ったばかりの綺麗な教会で、毎日、午前中と夜の二回聖会が行われました。また午後は、地域の牧師先生方と共に、とりなしの祈りに行かせて頂き、色々な場所で祈る事が出来てとてもよかったです。私と四元先生とで、皆さんのお祈りの支えと共に奉仕しました。最後の集会は本当に“破れ出た”リバイバルを予感させる集会となりました。

 さて今日は、タイトルを「クリスマスメッセージ」とさせていただきました。どちらに転んでも、話せるようにとアバウトな題をつけました。主題をつけると、それにとらわれるので話しにくい一面もありますが、クリスマスメッセージとは聖書の全てのメッセージです。
 へブル書二章に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。』

 聖書の神様はちっぽけな神様ではなくて、天地宇宙を創られた神様です。私達、一人一人を創って下さった神であり、全てを支配しておられる神です。
 先週孫が生まれましたが、生まれるまでは心配もありました。「最初のお産だから、うまく生まれるのか。」と、色々と心配するわけですが、たった十ヶ月の間に子供の体が作り上げられていくのも不思議です。今世界に六十億以上の人達が住んでいますが、これは皆母親を通して生まれたわけです。うちの娘も初めてのお産で、陣痛が来て生まれる一時間前までは、「こんなの余裕だ」と思っていたらしいのですが、最後の一時間は「死ぬかと思った」と言っていました。皆、お母さんがお腹を痛めて生まれてきたわけです。しかし組み立てられたのは神です。創造主なる神がおられ、その方が、人間は血と肉を持っているので同じ世界に生まれて下さったのです。その目的は何かというと、「悪魔と言う死の力を滅ぼすために、また一生涯死の恐怖に奴隷となっている人達を解放するため」この地上に来て下さったのです。

 神が人となられた日、それを記念するのがクリスマスです。前にもお話ししましたように、十二月二十五日がイエス様の誕生日とは、聖書には書いてありません。しかし、十二月を、救い主が生まれたのを記念する月として祝っているわけです。三六五日のうち、いつの日かわかりませんが、歴史の中に神が人となって生まれて下さったのです。クリスマスの日がはっきり書いていないのも、嬉しい事ではないでしょうか。私は、イエス様の誕生日は、もしかしたら「八月五日」ではないかと思っています。なぜなら、それは私の誕生日だからです。私のためにイエス様は生まれてくれたのなら、八月五日だろうと。
 実に、神がこの地上に来て下さる事は、旧約聖書の中に預言されていた事でした。前回もその事をお話しさせて頂きましたが、へブル書一章一節から三節まで、そのことが記されています。先週、信弘先生もへブル書からお話しされたようですが、このへブル書一章一節から三節まで読んでみますと、

『神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。』

 ここに、天地創造の神が誰かと記されています。何とそれは、『み子によって世界を造られた』とありますから、「イエス様」であると告げているわけです。そして今もなお、イエス様によって世界は保たれているのです。このイエス様は、「神の本質の完全な現れ」だったというのです。

 日本人は、“カミガミ”は信じますが“創造神”となると、とんと関心がなく、「そんなものがいるのか」という人が多いです。しかし、神の存在は動かす事ができない事実です。この頃はそれがはっきりしてきたと思われます。しかし中々、人類は神の存在を認めたがらないです。

 私は仕事でしばしば飛行機に乗りますが、それはある意味心配です。何故なら、皆さんもジャンボジェットに乗られた事があると思いますが、ボーイング747という旅客機は、座席数だけで五〇〇くらいある、重さ四四〇トンもの“鉄のかたまり”だからです。その飛行機一台を作るのに、ねじから何から合わせると部品は六〇〇万点以上あるというのです。四四〇トンの機体に五〇〇人を満載してそれが一万メートル上空を、時速八百キロで飛んでいくわけですから、考えてみれば本当に乗りたくない乗り物の筆頭です。
 私は離陸と着陸の時には、信仰が強められます。何故なら、「神様、この飛行機が落ちませんように」と真剣に祈るからです。あるいは眠ってしまえば、眠っている間に天国に行けるという感じです。真剣に祈るか、眠るかのどちらかです。この頃は眠る事の方が多いかもしれませんが。
 どうでしょうか。六百万点の部品で、そのまま飛べと言っても飛行機は飛ぶ事はできませんが、それを機械として組み上げると、空を飛ぶ事ができるわけです。何故なら、その機体の中に“人間の知恵”が込められていて、安全対策も施されていて、故に、部品一つ一つでは決して飛ばないものですが、組み立てられると空を飛ぶ事が出来からです。ですから安心して乗る事ができます。

 実に、人間の体も同じだと言うのです。昨日読んだ中に、私達の細胞の中には、「生化学的機械」と呼べるような機械が何千もあるとありました。それが何かというと、例えば目は光を感知します。今私達もお互いに見ていますが、実はこれにはとても複雑な機能だそうです。人は光をどう認識しているのかというと、光が入ってくると細胞がそれを電気信号に置き換えるそうです。そして、電気信号が脳に伝わり映像を作っているわけです。そんなプロセスは単純だと昔は考えていたそうですが、この頃は科学が発達して、それは単純なプロセスではない事が分かりました。光を電気信号に変える事自体、おびただしい数の化合物が必要で、それが全て決められた時に、決められた場所にあって、決められた濃度で存在しなければ決して光が入っても、電気信号に変わる事はないというのです。
 それは何が言えるかというと、私達が物を見ているだけでも、おびただしい化合物や化学物質が必要あり、それら単体では光を見る事はできないけど、それが丁度ジャンボジェット機のように、一つの機械として組みあがるなら、光をキャッチ出来るというのです。
 細胞内にある生化学機械が決められた場所になければ、決して機能しないというのです。さらに、このような機械が、人には何千個も組み込まれているのです。それらは、細胞が機能するのに不可欠な役割を果たしている、というのです。
 科学が発達すればするほど、人間の体の神秘が解き明かされています。それはただの部品の集合体ではなく、誰かが機械として組み上げなければ“人間”は存在しないのです。化学物質があっても、それが生命体のシステムになるのは不可能です。放っておいても絶対にそうはならないのです。ジャンボジェットの部品を六百万個持ってきて組み上げ、飛行機になるように、人間も誰かが組み上げたわけです。「では、誰が組み上げたのか」・・・・“創造主なる神”以外、他に誰がおられるでしょうか。

 子供が生まれるまでの十か月で、母親の胎内においては宇宙規模の作業が行われ、部品と部品が組み合わされ、一人の人間が誕生するわけです。と言う事は、この場所に私達がいること自体、神の計画以外の何物でもないのです。
 創造主なる神がおられます。私達を作って下さった神を認める事は、何にも増して重要な事であるはずです。そして、その私達を作って下さった神が誰かというと、『み子によって世界は造られました』とあるようにイエス様です。その方は天地宇宙を造ったお方ですが、人間になってこの地上を歩んで下さったのです。そして苦しい事も悲しい事も全て体験して下さったのです。そのうえで、私達を助けて下さるのです。
 へブル書二章十八節、

『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。』

 人も、色々、苦しい事を体験したりすると、同じ環境の人たちに同情する事ができます。私の娘も、「お産って大変だ。これからはお産をする人達のために、もっと真剣に祈らなければ…」と言っていました。しかし同情する事はできても、代わってあげることは人間には出来ません。けれども、天地宇宙を造った神様は、ご自分で人を創っておきながら、そのままメンテナンスせずに放っておかれたのではなく、自ら人間となって人生を体験して下さったわけです。ですから細かい所まで、助ける事が出来ます、と言うのです。
 神様は現場主義のお方だと思います。現場にまで降りてきて、人の生活一般をチェックして、私達を助ける事が出来る、と語ってくださっているわけです。何と素晴らしいことではないでしょうか。

 私達も、そのレベルに下がって見なければわからないことが、この世界には沢山あると思います。例えば夏の暑い日に、アリの行列など見かけます。
 私は何年か前、インドネシアに行って公園で寝そべっていますと、身体がむずむずするので起きて見ると、何と軍隊アリのようなものが私のお腹の上を横切って、通過していました。私は慌てて飛び起きて、それらを振り払いました。
 皆さんも、もしもケーキにアリが来れば、バシバシと叩いてやっつけてしまうわけですが、アリの世界にとってみれば大変な出来事だと思います。“アリンコテレビ局”のようなものがあれば、アナウンサーは血相を変えて、「今日は大事件がありました。怪獣がきて、踏みつけられ、何百匹の同胞が死亡しました」と報道するでしょう。悲しんでいるアリの家族や友達のインタビューなどで、騒然とすると思います。
 しかし、それを行った怪獣である人間は、何も悪いとは思わないでしょう。けれども、私達がもしもアリの世界にまで入り込み“ありのまま”を体験する事が出来たらどうでしょうか。「これはアリたちを大事にしてあげなければいけない…」と思うかもしれません。

 神は人を創り、ただ放っておかれたのではなく、自ら、この世界に飛び込んできて生活して下さり、どこがどう大変なのか、人はどんな感情を抱いているのか、ということをチェックして、「ここを重点的に助けなければ、ここをよくメンテナンスしなければ…」と、私たちに関わって下さるのです。天地宇宙を造られた神様がおられます。その方が、この地上に来て下さった、それが“イエス様”なのです。

 日本人はカミガミなど信じて、それでよしとしていますが、考えてみれば日本のカミガミなど、本当にくだらない作り話です。よくぞ信じられると思います。皆、正月になると八千万人位が神社へ行きますが、神社に祀ってあるカミガミがどういうものか、調べてから行ってほしいと思います。この近所でよく祀ってあるのが“アマテラス”と“スサノオ”です。スサノオというカミが新城の富永神社で祀られていますが、日本神話を見るとスサノオはむちゃくちゃな存在です。田畑は荒すし、悪さはするし、最後は馬の皮を剥いでそれを機織りしている女神のところに投げ込んで、地獄にまで蹴り落とされたような存在です。
 また、アマテラスなど、スサノオに怒って、天の岩戸に隠れ、アマノウズメという女神がいやらしい踊りを踊り、男のカミガミが笑って喜んだと言います。そこでアマテラスは、「私のボーイフレンドたちに何するの」というわけで岩戸から出てきた、というのです。あまりにもくだらないではないでしょうか。

 しかし、聖書は神話ではなく、「歴史」です。聖書の素晴らしい所は、神話ではなく歴史的事実を通して、私達に情報を提供している所です。それも、イエス・キリストの誕生以前から、主に仕えていく人生がいかに素晴らしいかという情報を提供しているのです。

 この頃、一つの聖書箇所を読んで大変感動しました。それは第二歴代誌に二人の王様が出てきますが、イスラエルは始め一つの国だったのが、北イスラエルと南ユダに分裂しました。そして、北イスラエルも南ユダも、大勢の王様が出ましたが、この王様たちの人生を見ると、神に従った王の人生は皆祝福されています。
 しかし、神に従わない人生は、祝福を失っているのです。これは、歴史的事実の中で与えられている情報です。

 この頃は歴史が流行っているそうです。この間、面白い言葉を聞きました。“歴女”という言葉です。その意味が何かご存知でしょうか。歴史が好きな女の子、という意味だそうです。彼女たちは歴史にむちゃくちゃ詳しいそうです。歴史ロマンに浸っている女性の事を“歴女”というそうです。もし、歴女の方がここにおられたなら、一度聖書の歴史をよく調べたら、「これは本当にすごい!」と思うはずです。実在した王様たちですから、治めていた時代がどんなものであったのかわかっています。その中で、神に仕えた王様と、仕えなかった王様の人生が、どのくらい差があったのか比較できるのです。それは神話レベルではなく、現実の歴史の中で検証することが可能なのです。

 紀元前九世紀に同時代、同地域に生きた二人の王様がいました。それはイスラエル七代目の王、アハブと、南ユダ第四代目王のヨシャパテです。アハブ王の方は天地宇宙を造った神には仕えず、偶像に仕えていました。
 しかしヨシャパテ王は、天地宇宙を創った神に仕えた王でした。その事が第二歴代誌の十七章三節〜四節に記されています。

『主はヨシャパテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、その父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかったからである。』

 ここに、『主がヨシャパテと共におられた』と記されています。しかしアハブという王様に関しては、第一列王記十六章三十節に、

『オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。』

 ここで主に仕え、主が共におられる人生と、主の目の前に悪を行った王が描かれています。同じ世代に二人は生きましたが、その人生は全く違ったものになりました。このヨシャパテ王とは、「主が共におられた」とレポートされています。
 イエス・キリストを信じるとはどのような意味があるかというと、それは、「天地宇宙を創られた主が共におられる」という意味です。このクリスマス時によく読まれる箇所ですが、マタイ一章十八節〜二十五節を読むと、イエス様の誕生について書かれています。

『イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。』

 イエス様のお生まれの前に、いいなずけの夫ヨセフの所に主が夢で現れ、ひとつの事を告げました。それは、「聖霊によってマリヤはみごもったのですから、心配しないで妻として迎えなさい」と。そして、『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』です。

 クリスマスはどのような瞬間であるかというと、神が人と共に住まわれる、“主が共におられる”事が人類に実現した日であるのです。
 ヨシャパテは神を信じた故に、『主が共におられた』のです。しかしアハブは主を信じなかったゆえに、主は共におられませんでした。天地宇宙を創られた神が共にいる…すごいことです。旧約聖書においては、特定の人物としか主は過ごしておられなかったのが、主を信じる全ての人達と共に過ごして下さるようになった、その良き日が、クリスマスです。

 第二歴代誌十七章十節に、ヨシャパテがユダを治めた時代がどんなであったかという事が記されています。

『そこで、主の恐れが、ユダの回りの地のすべての王国に臨んだため、ヨシャパテに戦いをしかける者はだれもなかった。』

とあります。ヨシャパテ王が治めていた時代は、神に従ったがゆえに、その国に戦いがなかった、というのです。私達の人生も同じです。主が共におられる人生は、無駄な戦いが起こらないのです。
 人生は本当に大変です。人が息をし始めたら、様々な敵が寄って来て戦いがあると思います。つくづく人間というものは弱い存在だと思います。我が家に孫が生まれたがゆえに、全員振り回され、迷惑していますが(笑)人間とは弱い者だと思います。放っておいたら、赤ん坊は死んでしまうので、皆で助けなければなりません。すでに、生まれた瞬間から赤ん坊には、大きな問題が起こっているのです。お腹がすけば、おぎゃあおぎゃあと泣きますが、ある意味大問題です。何故なら、ミルクを飲まなければ死んでしまいますから。人生というのは様々な戦いがあるわけです。
 しかしこのヨシャパテが王の時代、ヨシャパテには主が共におられたので、戦いがなかったのです。人生を平穏に過ごしたいと思うならば、主が共におられる人生を選ばなければいけないわけです。イエス・キリストを信じ、この方と共におられる人生を選ばなければいけないわけです。

 このヨシャパテ王の人生の雲行きが、怪しくなったことがありました。それが北イスラエルのアハブ王と手を組んで、ラモテ・ギルアデとのアラムの軍勢を攻めようとした時です。実は来週もここからお話しさせて頂きたいと思いますが。第二歴代誌十八章二十八節〜二十九節を見るとこうなっています。

『こうして、イスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」こうして、イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。』

 北イスラエルの王アハブは、とてもずるがしこい王でした。アラムを攻める時に、自分達の兵力では足らなかったので、「一緒に戦いに行ってくれないか」と、うまくヨシャパテをそそのかしました。ヨシャパテはお人好しで、「いいですよ、私達は昔は同族だったではないですか…」と、協力することに決めてしまったのです。
 当時の戦争では子分ではなく、親分を狙って戦ったのです。親分をやっつければ、全軍団をやっつけたのと同じでした。親分は親分としての服装をしていました。この近くで起こった設楽が原の戦いも同じでした。徳川家康などの大将たちは、鹿の角かぶとをつけて、「俺は大将だぞ」と威嚇したのです。見た目には強そうに見えますが、ああいう恰好をしていたら狙われやすいわけです。しかし昔の戦争のスタイルはみな同じでした。だから、王様は王服を着て戦争に出るのですが、アハブは汚い男で、「私は変装していきますから、ヨシャパテ王よ。あなたはそのまま王服を着て行って下さい。」と言ったわけです。

 ヨシャパテを犠牲にして、最終的には自分は勝利しようという策略でした。時々、人生にはこういう人がいます。要領がよい者が生き残って行くというか、また時々は「俺は貧乏くじを引いてしまった」という、誰かに利用される人生もあります。やはり「人生は要領よく生きていかなければ、私は要領が悪いから、こんなに惨めな人生だ」などという人もいるかもしれません。
 ヨシャパテ王は、性格のいい人だったのかもしれません。アハブはうまくこの王様を騙しました。しかし、このヨシャパテ王とは、主が共におられたのです。アハブとは一緒におられませんでした。

 この、ヨシャパテは王服を着ていましたから、戦場でどうなったかというと、すぐに「あそこに大将がいる」と、敵が集中しました。その事が第二歴代誌十八章三十節〜三十一節の所に記されています。アラムの王は兵士達にこんな命令を出していました。

『アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たちに命じて言った。「兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。」戦車隊長たちはヨシャパテを見たとき、「あれはイスラエルの王に違いない。」と思ったので、彼を取り囲んで戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。』

 ここに、主が共におられる人生の素晴らしさわかります。ヨシャパテがまさに、敵に殺されそうになった瞬間でした。その時、彼は主に助けを叫び求めました。すると、『主は彼を助けられた』とあるのです。

 私達は時々要領が悪く、色々と失敗するように見える事があるのかもしれませんが、主が共におられるか否かは大きな違いです。主が共におられるなら、色々な局面で主に叫び求めると、主が私達を助けて下さるのです。
 今日、初めて教会に来られた方もおられるかもしれませんが、この機会に是非ともイエス様を自分の神として信じて、歩んで下さい。これから主が共におられますから、どんな時でも主に叫び求める事ができるのです。そして、主は私達を助けて下さるのです。

 正に、ヨシャパテは死に瀕していたわけですが、神は敵を引き離されたのです。それが何を意味するかというと、「死の力が打ち破られた」事に他なりません。
 イエス様がこの地上に来て下さったのは、死の力を持つ悪魔を滅ぼすために来て下さった、とありますが、その事が“主が共におられた”にヨシャパテ王の人生に起こったのです。
 しかし、北イスラエルのアハブ王は兵隊達の中に紛れていて、自分は守られていたわけです。けれども、主が共におられませんでした。主が共におられない人生はどのようなのか次に書かれています。それが第二歴代誌十八章三十三節、

『ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。』

 実はこの時、イスラエルの王は隠れていました。両軍の兵士達は互いに弓を放って殺し合っていたわけで、今の戦争でいえば銃や何かを撃っていたという事になります。けれども兵隊にも色々な者がおり、「皆がやっているから俺も一応やらなければいけない。これが仕事だから…」と、いい加減に弓を放っていた兵士がいたようです。
 一人の兵士が適当に弓を放つと、その矢が飛んで行ってなんと、イスラエルの王の、武具と武具のすき間の急所に当たったのです。自分だけ助かろうと思っていたアハブ王に命中したのです。それで彼は夕方になって死んでしまったのです。

 ある意味、主の守りが無い人生は怖いです。何をやっても悪い方に転んでいくような人生です。「これはどういう偶然なんだろう・・・・」と思うかもしれません。案外、誰かが“何気なく放った矢に撃ち落とされる”人たちが結構いるのではないかと思います。
 アハブという男は「自分は助かる」と思っていました。しかしそこには主の守りがありませんでした。ヨシャパテは、危険な目に遭いましたが、助け出されました。この法則を今の時代、日本にも適用できるはずです。

 アハブ王は主の前に悪を行っていました。その悪が何かと言えば「偶像礼拝」でした。しかしこのヨシャパテは、そのようなカミガミを拝むのではなく、天地宇宙を創られたただ一人の神、それは今の時代で言えば、「イエス・キリスト」を信じる人生でした。その結果は大きく変わったのです。
 私達も選択しなければいけません。アハブの人生を選択するのか、ヨシャパテの人生を選択するのかです。しかしその結果は、大きく変わるのです。

 先週は、本当に素晴らしい知らせを聞きました。実は何年か前、この教会に一人の奥さんが涙ながらに来られました。その家は問題がありそうな家族ではなく、誰もがうらやましがるような家庭だったのですが、ある日突然、二人の息子のうち一人が学校に行かなくなり、いわゆる引きこもりになってしまったのです。
 その事が起こってから、その家族は本当に暗くなってしまいました。日本人はそういう問題が起こると、必ず科学的で効果的と思われる方法を試します。その家も色々と情報を集め、「どこのカウンセラーに行ったら、どこの病院に行ったら」と色々、試してみましたが全く効果がありませんでした。日本人はそういった科学的な方法を色々と試しますが、必ず誰かが、「どこかでお祓いしてもらったほうがいいんじゃないの、何かたたりがあるのかもしれない」と言います。
 その家族はそちらの方法も試していました。しかしそのご家庭の事を聞くと、“拝み事”と言われるような事は、普通の家庭よりもきちんとしていました。そこの奥さんは、嫁いでからも一日と十五日には両家の墓に必ず、行っていたそうです。そして、正月ともなれば、地域の氏神から始めて伊勢神宮にまで行き、帰りには猿田彦神社から砂をもらってきて屋敷にまいて、「この一年間安全でありますように」と祈りました。
 また祈祷師を呼んできて、部屋の一つ一つ邪気が入らないようにと封印してもらい、完璧なまでの呪術を置き、普通ならば、「ここまで真剣にやっている家に、何故こんな問題が起きるのか」という感じでした。

 しかし息子が引きこもってしまったゆえに、家族は真っ暗になってしまいました。それまでの笑い声も家から消え、その日から長い戦いが始まりました。
 けれども感謝な事に、彼女にはクリスチャンの友達がいて、「教会に来ませんか」と誘ってくれました。それまでも何度か誘われたそうですが、「教会?そんな所には行きたくない」と、あまり興味を示さなかったらしいですが、やはり人は色々、苦しい事があると神を求めるものです。
 その方は教会に来られ、いわばアハブとヨシャパテのように人生の選択について知ったのです。偶像の神に仕える人生と、本物の神に仕える人生について私はお話しさせて頂きました。偶像のカミガミに仕えるということは、実に危険な事であり、味方ではなく敵を家の中に招いている事に他なりません、とお話をさせて頂きました。私達がイエス・キリストを信じるという事は、天地宇宙を創った神が私達と共におられるという事を、お話しさせて頂きました。

 そんなに長い時間は話さなかったと思いますが、本当に、聖霊様が働いて下さり霊の目が開かれました。そして、「今まで偶像のカミガミに頼ってきたけれど、それは間違いだった!」とわかったのです。
 先程も言いましたように、その家は奥さんを中心に、ご主人も協力して偶像のカミガミに人一倍頼っていた家族でした。奥さんの仕事が何であったかというと、葬式の司会者だったそうです。「人を弔ってあげるのが私の天職だ」と考えていました。一般的に言えば完璧にカミに仕えていたわけです。
 しかしそれがカミサマ・先祖に仕えていたと思っていたけれど、そうではなかったのです。私は「そこから離れて下さい」という話をしました。聖書を見ても、「偶像のカミガミから離れたら、必ず祝福の人生が与えられる」とありますから、その事をお話ししました。すると、段々と偶像が家から無くなっていったのです。
 その家には六畳の部屋が仏間としてあり“立派な”というのは適切ではないかもしれませんが、壁一面が仏壇であるような部屋でした。専属の和尚が来た時に出すという、紫の座布団まで用意してあるような念の入れようでした。私は「ここに来ている霊が、先祖ではなく先祖のふりをした死の霊だったらどうしますか」と話をしました。

 先週は韓国にいましたが、韓国人も同じです。やはり家族を愛しているし、先祖の事を誇りに思っていますから、もし先祖の霊がいたら家に入れてあげたいと思う気持ちはわからないでもありません。先祖の霊がうろうろしていたら、「そんな寒い所にいないで、どうぞ家に入って下さい」と言いたくなるのは分かります。
 しかし聖書を見ると、『人間は死ぬと百パーセント、神の手の中に置かれる』とありますから、この地上には先祖の霊などいません。という事は、招いているのは先祖の霊ではなく、先祖の死に関わってきた、死の霊を招いているのです。

 私は「これは、死の霊を招いている事に他ならないですよ」と話をして、「イエス様は死の力を打ち破るために来て下さったのです」と話しました。その事がわかったようです。何とその家は、家族の合意で仏壇も全て処分してしまいました。初めは少し悩んでおられて、「この仏壇を捨てたら悪い事があるのでは・・」と言われるので、「仏壇と息子さんとどっちが大事ですか」と言うと「もちろん、息子のほうが大事です」と言われましたので、私は、「試しに仏壇を捨ててみませんか。仏壇はしょっちゅう、大セールの広告が来るではありませんか。もしも無くなっても、新しいのを買えますよ。一度捨ててみて、息子さんが助かったらそれでよいではありませんか」というと、「そうですね、何でもお試しコースがあるからね…」と、その大きな仏壇を捨てたのです。

 しかしそれはすごい決断だったと思います。と言う事は、それほどに追い込まれていたわけです。紫の座布団も、「これも気持ち悪いから持って行って」と言うようになりました。それまで、その息子は引きこもっていて、私も何度もその家に行って、「出ておいで」と言っても、布団をかぶってびくともしませんでした。そして口から出る言葉は、「人生はおしまいだ。死にたい…」でした。
 もしかしたらこの子は自殺してしまうかもしれないと、とても不安でした。けれども、とりなし祈って行くうちに、徐々に彼は変わっていきました。中学生でしたが、中学はあまり行きませんでしたが、何とか卒業出来ました。そして次には定時制の高校に入りました。「高校もうまくいくのか」と思っていましたが、皆の祈りに支えられて、何とか高校も卒業しました。
 「ああ、これでよかった」と思っていると、今度は専門学校に行くと言いだし、どこに行くのかと聞くと、「税理士になるための学校に行く」というのです。私は、そんなことはやめたほうがよいと思いました。そんな大それた事、普通でも税理士になるのは難しいのに、どうせつまづくから、やめたほうがよいと思いました。しかし彼は、定時制高校を卒業してから、税理士になるという高い夢を持って、専門学校に入ってしまいました。
 「せっかく高校まで卒業できたんだから、後はだましだまし生きていってくれればいい…」と思っていましたが、彼は何と、税理士になるためのの学校に入ってしまいました。私は「あんたじゃ税理士は無理だ、中学校さえちゃんと行ってないのに、九九はできるのか?」という感じでした。

 けれども先日税理士試験があったのですが、何とすごい事に、彼は最年少で税理士試験に合格したのです!
その専門学校では、二年ほど現役の合格者は出ておらず、同世代の倍率だけで言えば千倍くらいでした。何と彼は、最年少で合格してしまったのです。
 私はそれを聞いて、神が生きておられる事を確信しました。「あの彼が…」などと言っては申し訳ないですが、今、この会衆の中にもご両親がおられますから言いにくいですが、彼は、日本一、最年少で合格したのです。

 本当に、神様の働きは大逆転です。彼の事で皆心を痛めていたのですが、彼がその家の救世主だったのです。ある意味彼は“小さなイエス様”でした。彼が生まれた事により、家族全員が救われたのです。偶像もなくなり、家族全員が幸せになり、周りも幸せになり、彼自身も本当に大きな祝福を頂きました。試験の前には、いつも祈ってあげました。私もまさか受かると思ってはいなかった、と言っては申し訳ありませんが、ご両親も、「これはイエス様以外にありません」と言っておられました。私もアーメンです。

 神様は大逆転をして下さるお方です。今まではアハブのような人生を選んでいたかもしれないけど、その家族がヨシャパテの人生に変わりました。そして、主が共におられるようになったのです。その時に何が起こったかというと、主が助けて下さったのです。今までは、矢が刺さって倒れていたような人生から、今度は主が共におられる人生へと、大きく変えられたのです。それも、一番起こって欲しくないような問題から“大当たり”へと転換したのです。まさしく主が大きなみ業をそこから起こして下さったのです。
 
 先ほどのへブル書一章のみ言葉の中に、『み子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れでありその力あるみ言葉によって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて優れて高い所の大能者の右の座に着かれました』とありました。今も、この時点で主が万物を保っておられ、私達と共にいて下さるのです。人間の人生全て、甘いも辛いも酸いも体験した上で、主は私達と共におられるから、私達を助ける事がおできになるのです。そのためにイエス様はこの地上に来て下さったのです。

 今日ここにおられる全ての方が、ヨシャパテと同じように“主を選び取る”人生を歩んで頂きたいです。必ず主は皆さんと共におられて、広い所に導きだして下さる事を共に学ぶ事が出来た事を、心から感謝しています。
最後にお祈りします。


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