「強い者を打ち負かせ!」


2009.12.27(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

マタイの福音書 12章28節〜29節
『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。早いもので、2009年最後の日曜日となってしまいました。つい先日、ここで新年聖会を開いたばかりと思ったのですが、あっという間に1年過ぎてしまいました。皆さんにとって 2009年は、どんな年だったでしょうか。様々な模様があったかもしれません。
 本当に、主の守りと、皆様方の熱い祈りによって支えられた事を、高い所からですがこころより感謝を申し上げたいと思います。いつも新城教会のために、私のためにお祈り下さり、共にこの戦いを進める事が出来、心から感謝したます。

 先週はクリスマスの集会があって、大変忙しい毎日でした。12月は何回もクリスマス集会が続きましたが、今年のクリスマス集会は祝福されたものばかりでした。ロン・ブラウンさんのコンサートから始まり、先週、25日の祝会まであまり派手な宣伝はしませんでしたが、不思議に、多くの人が集まり福音を伝える事が出来ました。蒔かれた種が成長して大きく実を結ぶと信じています。

 来週の日曜礼拝はキム・ウヒョン先生がメッセージを語って下さいます。昨年の7月、韓国から金先生と70名の兄弟姉妹が来て下さいました。韓国リバイバルミッションは金監督軍団がいなかったら、できなかったと思うのですが、神様は不思議な出会いを与えて下さいました。その出会いをきっかけに、韓国リバイバルミッションにも導かれ、私も色々な場所に門が開かれていきました。そのきっかけとなったキム・ウヒョン先生がここでメッセージを語って下さいますので、是非とも楽しみにして下さい。また、来週の日曜日午後からは新年聖会を持ちたいと思っています。
 しかし、それに先立ち、1日と2日はPPHで3回ほど、金先生がメッセージを語って下さいます。それにも期待をよせてお越し頂きたいと思います。

 今、読んで頂いた聖書箇所は、マタイ12章でした。28節に 『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』というあります。
 イエスさまがこの地上に来られた時、今まで起こらなかった事が突然起き始めました。それが何であったかというと、「悪霊どもが追い出される」という光景でした。人々はその光景を目にし、大変びっくりしたようです。それは、今まで人の背後に隠れていた悪霊が顔を出すという、奇異な光景であったようです。ですから人々は、その出来事を受け入れる事ができず、イエスさまの事を、「ベルゼブルという悪霊どもの首領を通して、追い出している」と批判しました。しかしその時、イエスさまがその光景を前にしながら、人々に語られました。

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 私達クリスチャンの目的が何かというと、「神の国を待ち望む」事です。今、この世界を見ると大変暗い世界です。もしも神がこの世界を支配されているのなら、こんな風にはなっていないはずです。ゆえにクリスチャンが何を目標にして歩むのかというと“神の国が現されますように”という祈りと共に、大きな目的があるのです。ですから、先ほども主の祈りの中で、「み国が来ますように」と祈りました。全世界の教会が、イエスさまの教えられたこの“主の祈り”を唱えています。
 しかし、「神の国が来ますように」とは祈りますが、実際、神の国が何であるのか、はっきりわかってはいない面があるのではないかと思います。
 当時のユダヤ人もそうでした。「神の国が来るように」とは祈ってたのですが、それが何であるのか、はっきりわかっていなかったようです。イエスさまが来られて、悪霊どもを追い出し始められました。そしてイエスさまが何と言われたかというと、「これは神の国の現れですよ」と言われたのです。悪霊が追い出される光景のを見るなら、それは神の国が訪れている証拠です、と。

 1992年に新城教会に聖霊様が訪れて下さり、その後、霊的戦いが始まりました。その光景を見たある人たちはびっくりしてしまいました。しかしそれが何であったのかというと“神の国”の訪れでした。“神の国”とは、この地上においては「神の支配」です。今まで悪霊どもが支配してきた領域が打ち破られ、神の支配が訪れる、それは霊的戦いそのものなのです。
 神の国の現れと、悪霊どもが追い出されるという事とは、イコールでつながれるのです。今、霊的戦いが行われているのは何を意味するのかというと“神の国の現れがある”事を意味するのです。
 「からし種」という、種の中でも最も小さい種がありますが、それは地に植えるとやがて大きな木になるという自然界の法則を例にあげながら、イエスさまは語られました。神の国も同様であると。神の国の訪れは、初めは目に見えないような小さなものですが、それがどんどん大きく広がるのです。

 この17年間、私達は霊的戦いを進めてきましたが、主はある程度成長させて下さったのではないかと思います。そして私達は、神の国が現れたら、あくまでも拡大し続けなければいけない事を教えています。
 イエスさまが語られた中で、「一度、悪霊が追い出されても、また戻ってくる」と言われました。悪霊が出ていって、再び部屋をのぞきに来たら、きれいに掃除されているので、「部屋がきれいになったな…」と言って、7倍の子分達を連れてきて住みついた、という話です。そういう事を聞くと、「あまり霊的戦いなど、しないほうがいいんじゃないの。少し位薄汚れていた方がいいんじゃないか…」などという人もいます。しかし、それは間違いです。
 それが何を意味しているのかというと、「家がきれいになった」とは、「イスラエルの国」の事を言われたのです。実はイエスさまがイスラエルに来られ、そこで霊的戦いを始められました。それは神の国の現れであったのです。
 しかしどうなったかというと、広がっていったのではなく、人々はそれを受け入れずに、途中でストップしてしまったのです。その結果、何が起こったかというと、今のイスラエルを見ればわかるように、ある意味「7倍の悪霊」に乗っ取られたかのように、世界で最も危ない国の1つになってしまったのです。
 先日、イスラエルの宣教師の方が来られ、水曜主日礼拝でメッセージを語って下さいましたが、イスラエルとは大変な国だと思いました。
 一度、神の国の種がまかれたら、絶対にストップさせてはいけないのです。あくまで続けていくなら、神の国はどんどん拡大し30倍、60倍、百倍の実を結んでいくのです。

 すでに主は、この教会に神の国の種をまいてくださり、戦いは始まっています。私達はさらに、神の国の領域を広げなければいけません。そうすれば、やがて見える形で神の国がただ中に現されるはずです。これはキリストの体を通してなされる戦いです。この一年間、主が戦いの領域を広げて下さった事を、心から感謝しています。1年を振り返ってみると色々な領域で戦いを拡大させて頂きました。心から感謝し主のみ名をあがめています。

 神の前で祈っていた時、1つの言葉が心に浮かんできました。それが、今日の礼拝メッセージの主題にさせて頂いた、「強い者を打ち負かせ!」という、キーワードでした。それが与えられたのは11月の始めごろで、強い者に立ち向かい、打ち負かさなければいけない、と語られたような気がしました。

 マタイ12章28節から29節を見ると、『強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないでどうしてそのような事ができましょう。そのようにして、初めてその家を略奪する事が出来るのです』と語られました。「略奪」とは何を意味するのかというと、“福音宣教”です。私達は今、宣教の働きに従事しています。クリスチャンは皆、伝道者です。今回も、皆さま方が会社や地域の方々に案内して下さったので、大勢の人々がクリスマス集会に来て下さいました。それは宣教の働きです。
 宣教とは、どういう働きかというと、強い人の家に入って家財を奪い取るようなもの、すなわち、「略奪」だというのです。
 イエスさまはすごい表現を使われたと思います。そして“強い人”とは、悪霊の事です。人々が救われるのは暗闇から光、サタンの支配下から神の支配下に移される事だ、というのです。人々が暗闇の力に捕らえられているのを、捕らわれている牢獄に入り込んで、まず何をするかといえば、悪霊どもを縛り上げ、身動きできなくして、それから捕らえられている魂を救い出すのです。イエスさまは捕らわれている人のことを“家財”と言われましたが、それを勝ち取る働きが福音宣教であり、宣教は霊的戦いそのものなのです。その働きのために、弟子達を集められたのです。

 イエス・キリストを信じたなら、私達はイエスさまの弟子です。今日、ここにおられるお一人お一人は、「イエスさまの弟子」です。しかし、そうは言っても、「弟子とは何か」という定義がはっきりしていないかもしれません。けれども、マルコ3章13節〜15節を見ると、イエスさまの弟子がどんな存在であるのかわかります。

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは12弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 イエスさまの弟子とは、“福音を伝える”働きに従事する者です。しかし福音を伝えるためには、「悪霊を追い出す権威」がなければ、できないのです。今日、ここにおられるお一人お一人はイエスさまの弟子たちですから、福音を伝えるわけですが、それは悪霊を追い出す権威とつながっているのです。

 実はキリスト教の発展に最も貢献したのは、(もちろんイエスさまですが)パウロが功労者であると言えます。彼の働きをみると、様々な戦いにおいて勝利する神からの権威を委ねられた男でした。しかし、彼が本当の意味で宣教とは何かについて目を開かれたのは、ミニストリー最盛期ではなく、彼がローマにて捕えられ、2年間、牢屋に押し込められたときであると言えます。彼は落ち着いて自分の生涯を振り返り、主の前に出た時に、ある意味、「宣教の本質」について知らされたのではないかと思います。
 その事が記されているのが、晩年、彼がローマの牢屋で記した「エペソ人への手紙」ではないかと思います。彼が活躍していた頃は、自由にどこでも動き回る事が出来たのですが、忙しくてあまりゆっくりと神のみ前に出る事が出来なかったのかもしれません。しかし、牢屋の中で、ゆっくりと主の前に出た時、神が彼に語りかけられたのではないかと思います。
 彼がエペソという街に行った時、大きな事件が起きました。それは大きな騒動が起こり、命も危ういほどでした。その事について、彼はただの騒動ぐらいにしか思っていなかったのかもしれませんが、その光景を思い出し祈っていた時に、神が重大な事を教えて下さったのです。それで、彼は急きょ、手紙を諸教会に宛てたが「エペソ人への手紙」です。その手紙の最後で、彼は声高らかに語っています。6章10節〜13節、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』

 このように記して、彼は諸教会に手紙を書き送りました。彼はもちろん霊的戦いについて、理解していなかったわけではありませんでした。けれども、晩年に重大な事を教えられました。それが“私達の戦いは血肉に対するものではなく霊的な戦いだ”という事でした。
 私達は現実の世界に生きていますが、実は、目に見えない「霊的な戦い」のただ中にあるのです。彼はそのことを聖霊様によって強く教えられたのです。その事はわかっていたはずでしたが、もう一度強く告げられたのです。
 それと共に、悪魔・悪霊どもの働きの様子について、主から教えられたのです。それがどういうものであったのかというと、ただ単なる集団ではなく、“主権・力・この暗闇の世界の支配者達、天にいる諸々の悪霊どもとの戦い”であると気付かされたのです。それは何かというと、「悪魔を親分とした組織との戦い」に気づかされたのです。悪霊どもは烏合の衆のように、わけもわからず、何の作戦もなく働いている存在ではなく、悪魔を首領とする軍隊組織を持っており、各チームには首領がいてサタンの意図を忠実に実現するために組織的に働いているという事でした。
 彼は主から、組織的な霊的戦いが行われている現実について知らされたのです。その軍団の最高司令官はサタンであり、その下には“主権・力・暗闇の世界の支配者天にいる諸々の悪霊”という階級と長がおり、それぞれのグループを束ね、組織的に機能している現実に気づかされたのです。それで彼は、「どうりであんなに苦労をしたのか…」と苦しみの意味について気付かされたわけです。

 霊的戦いには、苦しみがあって初めて気づかされる事が多いものです。それも大事ですが、いつも言う事ですが、「聖書は情報の書」ですから、先に情報を得て、先回りして戦う事ができるはずです。私達の戦いは血肉の戦いではなく、同時に、悪魔を首領とする組織との戦いであるのです。その事を我々もよく理解しなければいけません。
 サタンの各グループには長である“強い者”がいて、子分どもを束ねて動いているのです。それが悪魔・悪霊どもである事を知らなければいけないのです。

 私達は今年も霊的戦いを繰り広げてきましたが、これはただ単に「ここにいる、あそこにいる」という、1匹オオカミのような霊的存在との戦いではなく、サタンの組織に対して戦いを挑んだ事を意味するのです。人々が救われたのは、何を意味するのかというと、「サタンの組織自体が弱められた」ことに他ならないのです。私達はこのような理解と意識を持って、来年も戦い続けていかなければならないわけです。
 そんな戦いの中、特に、各軍団の親分のような「強い者」を打ち破り、縛り上げる事が組織壊滅のために大変重要であると感じています。
 11月頃から、主が、「強い者を狙って戦いなさい」と語って下さっているような気がしています。

 第1サムエル記17章を見ると、大変有名な戦いが記されています。そこに現れたのは、ペリシテの代表戦士である「ゴリヤテ」という存在でした。これは3メートルくらいの巨人であり、彼が出てきた事によりイスラエルの戦士全員が、戦意喪失してしまったのです。「俺と戦う者はいないのか!」と、彼はイスラエルに向かって声を荒げ、40日40夜にわたって叫んだのです。第1サムエル17章8節〜9節、

『ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」』

 「おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ…」この、ゴリヤテ1人をやっつける事は、ペリシテ人全員をやっつけることに他ならなかったのです。そして、イスラエルから出る戦士1人がやっつけられる事は、イスラエル全体がペリシテの奴隷として服従しなければならないという、1対1の戦いのように見えたけれど、実は、組織全体に関わる戦いであったのです。
 当時の戦いは、見える戦いに見えても、実は、彼らは霊的な戦いを意識していました。世界の戦争を調べてみますと、戦争とは現実の戦いで殺し合いのように見えますが、歴史を見ていくと、お互いが仕える霊的存在のぶつかり合いであり、戦いでした。当時も全くその通りでした。その状況の中、イスラエルは意気消沈し、全員がペリシテに支配されるのではないかという危機的状況の中で、彗星のように1人の少年が現れたのです。それが紅顔の美男子「ダビデ」でした。ダビデはゴリヤテを見た瞬間、ゴリヤテに立ち向かう決意を固めるわけです。家に帰ってから、第1サムエル17章を呼んで頂きたいと思いますが、ダビデがイスラエルの陣営に来た時、皆がゴリヤテを恐れているのを見ました。第1サムエル17章23節〜24節、

『ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。』

 しかし、ダビデは神から力をもらいました。彼はプロの兵隊ではなく、ただの羊飼いの少年でしたが、ペリシテ人の代表戦士に立ち向かい勝利を得た事は、すでに皆さんはよくご存じだと思います。
 第1サムエルの17章43節〜45節、

『ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」

 ここでもわかるように、戦争とはただの戦いではなく、「霊的戦い」であると認識していました。ペリシテ人は自分の神々により、イスラエルをなじり呪いました。しかし、ダビデは「万軍の主のみ名により立ち向かう」と言いました。
 私達クリスチャンは、ダビデと同じような存在です。見かけは弱く見えるかも知れませんが、万軍の主のみ名によって“神々”つまり悪霊どもに立ち向かう者です。
 ダビデはどのようにして、ペリシテの代表戦士をやっつけることが出来たのか、それはたった1つの石によって、ゴリヤテを打ち破ったと記されています。第1サムエル17章49節〜51節、

『ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を1つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと1つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

 ダビデはひと振りの剣もなかったけど、何と、ひとつの石でゴリヤテを仕留めてしまったのです。このストーリーについては、子供達もよく知っていると思います。ダビデは最初いくつの石を拾ったのか知っていますか?そうです。「5つ」です。それを袋に入れ、ゴリヤテに立ち向かったのです。
 昨日も、このメッセージを準備するにあたり、インターネットで色々な牧師先生方の同じテーマのメッセージを読ませて頂きましたが、「なぜ、ダビデは5つの石を拾ったのか?…その霊的意味」などを語っておられる先生がいました。私はただ単に、1つじゃ足りないと感じたからじゃあないかな、と思ったのですが、皆さんはいかがでしょうか。1つ目が外れたら、2つ目、3つ目を使えばいい、ただそれだけの事だと想像したのですが…。(ある先生はそう語っておられましたが)

 ダビデは石を5つ拾ったのです。しかし何と、1発目でゴリヤテをやっつける事ができたのです。私達クリスチャンも同じです。丸腰のように見えるけど、ダビデと同じように聖霊に満たされて、1発で敵の首領をやっつけることが出来るのです。このストーリーを通して、「あなたは勇士ですよ」と主が語っておられるわけです。
 そして私達は誰と戦うのか…。それはペリシテの代表戦士、ゴリヤテと戦ってイスラエルがペリシテに勝利したように、敵の代表戦士を倒す戦いをしなければならない事を教えられます。

 先週、私は第2歴代誌からメッセージを語らせて頂きました。時代を生きた2人の王の人生から語らせて頂きましたが、北イスラエルのアハブ王と、南ユダの王ヨシャパテが共に戦いに出ていったとあります。イスラエルの王はずる賢く、自分は変装して戦いに出ていったけれど、ヨシャパテ王は人がよく、王服を着て戦いに出たために敵に狙われ、危うく命を落としそうになった、話しました。
 しかしその時何が起こったかというと、アラムの兵士が何気なく矢を放つと、その矢が、全く見分けのつかない変装していた、イスラエルの王に命中したのです。それも丁度、武具と武具のすきまの一番弱い所、急所に矢が突き刺さって、何とイスラエルの王は死にました。そのような事をお話しさせて頂きました。
 ここもやはり、戦いがただ単なる戦いではなく、組織の長をめぐっての戦いが繰り広げられていたことがわかります。
 第2歴代誌18章28節〜34節、

『こうして、イスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」こうして、イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たちに命じて言った。「兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。」戦車隊長たちはヨシャパテを見たとき、「あれはイスラエルの王に違いない。」と思ったので、彼を取り囲んで戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。』

 アラムの王は、自分の配下の戦車隊の隊長達に、「兵や将校達とは戦うな、ただイスラエルの王を目指して戦え!」と命じていました。ですから兵士達は、血眼でイスラエル王を探していました。そして見つかったのがヨシャパテでした。彼はイスラエルの王ではありませんでしたが、王服を着ていたので狙われたのです。
 けれども、イスラエルの王がどうして倒されたかというと、「何気なく放たれた1本の弓矢により」と記しています。

 実は、11月に、主が私にこの言葉を下さいましたが、それには理由があります。教会を主が祝福して下さっていますが、時々、クリスチャンの方々の中で、色々な病気になったり、問題で苦しむ事があったりして、本当に心が痛いです。何故なら教会は1つのファミリーですから、皆が幸せになってほしいと願っています。それと共に、教会が“神の国”ならば、神の国には病も問題もないはずです。クリスチャンになったら、問題はなくなってもよさそうですが、現実はそういうわけではありません。
 もちろん、クリスチャンでも、色々な問題があったり、病気になったりすることはあります。それらは避けられないことではありますが、それにしても、「これはちょっと、あまりにもひどいではないか…」と思われるような出来事があります。それがどこに原因があるのか、すべてではないとしても、霊的な世界と関連があると私はにらんでいます。
 教会には神の国を広げる使命があります。教会の中に神の国がもっと広がったら、教会に属する人達が問題で倒される率は、かなり低下するのではないかと考えています。ですから教会の専門分野は霊的領域ですから、さらに戦って神の国の領土を拡大しなければいけないと考えています。

 11月くらいに、この教会の中で病気になった方々がおられ、私達は祈らされていました。教会も大きくなりますと、メンバーだけでなく、その家族とか親族にまで関係は広がりますから、クリスチャンでない家族や親族の問題も、教会の問題です。ですから私たちはいつもそのような方々からの祈りのリクエストをいただいて、戦い祈っています。

 近ごろ、日本の死亡原因の第一が何かといえば、「癌」です。この頃は癌についての報道が多くなされています。今、どのくらいの割合で癌になるのかご存知でしょうか。実は、「2人に1人」が癌になるそうです。今、ここに3百人以上が来られていると思いますが、確率から言えば、150人以上は癌になり、「3人に1人は癌で死ぬ」そうです。本当に、明日は我が身かもしれないという事です。
 新城教会の中でも、ちらほらと癌になって手術をされたとか、また、親族の中で癌で死ぬ間際に救われた方などいろいろおられます。

 先日もある方の葬式を司式させて頂いたのですが、その方は日本でも有名な大学教授で、癌の研究者でした。しかし彼も癌で死にました。私は病床に行って、彼に伝道しました。「先生。あなたの癌の状況はどうですか?」と聞くと、「この癌はこうなって、ああなって、やがて死んで行くのです」と言われました。「そうですか、死ぬんですね。」と言うと「はい、まず助かりません。」と言われました。
 「じゃあ、死後の世界はどうなるのかわかりますか?」と聞くと、「わかりません。」と言われました。私は死後の世界があることと、イエスさまが救い主であることを話しました。そして、「イエスさまを信じましょう」と言うと、彼は信じて洗礼を受け、やがて天に帰られました。
 私は葬式を司式させて頂きましたが、その葬式に参列された方々は、半数以上、癌と戦っている大学教授や医者たちでした。
 私は、そういう中で奉仕をさせて頂きましたが、「癌とは本当に大きな問題だ」と感じました。そして、もしもこれに霊的世界が関わっているとすれば、もちろん医学の領域も進んでいて、かなり克服されていますが、霊的問題がからんでいたら、教会がちゃんと対処し戦うことにより、治癒率ももっと高くなるし、病にかからず健やかに過ごす事ができるのかもしれないと感じました。
 ですから、教会は人類の敵であるこの1つの病、“癌”に対して、祈りによって立ち向かわなければいけないと思います。誰1人、この会衆の中で癌で命を落とす人などいないように、癌に関して、「教会に行けば癒される!」となれば、日本中、世界中の人々が主を信じる事が出来るはずです。

 11月頃、ある方の病気の様子を聞いて、たいへん心が痛みました。その時、主の前に出て祈っていると、この第2歴代誌18章を示して下さいました。
 それと前後して、テレビで癌のメカニズムについての報道がいくつかありました。近頃は「癌ワクチン」というのが開発され、それで癌が予防できる時代が来るかもしれないというニュースをやっていました。「そうなればいいな…」と思いながら見ていました。そういう分野を研究している方々のためにも、私たちは真剣に祈らなければいけないのです。癌のメカニズムを見抜いて、人類が幸せになるように研究することも、霊的戦いそのものですから、秘密の力が暴かれるように、研究者たちのためにも祈らなければいけないと思いました。

 そんな中で、癌ワクチンがどのように効くのか、そのシステムを1般人がわかるようにテレビでやっていました。それを見ながら、これはもしかしたら、霊的世界と関連があるのかもしれないと感じました。
 人間には免疫システムがあり、外敵が侵入すると敵をやっつけるのです。白血球やリンパなどがそれで、ばい菌が入って来ると襲いかかってやっつける機能です。

 日本の国にも同じシステムがあります。もしも他国から領空侵犯などがあれば、すぐに迎撃機が飛び立ち、「日本の領域に入ってくるな!」と追い払うのです。それは国にもあるように、我々の体にもあるのです。ばい菌が入れば、すぐに立ち向かう免疫機能があるのです。
 しかし癌は私達にとって、必要のない代物であるにも関わらず、癌細胞があっても免疫機能がそれらを無視して、癌細胞をやっつけてくれないというのです。けれども、癌ワクチンというのは、その時のテレビ番組の知識から言うと、リンパなどを取り出して特定の癌細胞を見かけたら攻撃するように教育するのだそうです。
 「いいか。癌はこういう特徴を持っているから、こいつを見かけたら攻撃してやっつけるんだぞ!」とリンパを教育して、体に戻すそうです。そうすると、それまでは癌細胞があっても見向きもせず、知らんぷりしていた免疫機能が、癌細胞を見つけると「敵だ!」と認識して襲いかかり、やっつけるそうです。ある意味、それは霊的戦いと同じではないでしょうか。

 案外、日本の教会も、敵がいても敵と見なさず、戦う機能があっても使われていない現実があるのではないでしょうか。しかしどうでしょうか、教会で敵についての教育を受けると、我々はリンパのようなもので、「これは敵だ!」と認識して、立ち向かうのです。するとどうでしょうか。敵はやっつけられて、教会は勝利するわけです。もしかしたら、私達の体の中にも同じ構図があるのかもしれません。敵が入っても敵と見なさず、病気に負けてしまう。しかし、免疫システムを教育したら勝てる…。

 それともうひとつ癌治療の最先端と、治療の難しさについてシリーズでやっていました。立花隆というジャーナリストが癌にかかり、彼自らが癌についての最新の研究を紹介していました。その内容は“癌がいかに複雑なシステムを持つ病であるか”をレポートしていました。今夜もBSでその番組があると思いますので、興味があれば視てください。

 先日、大きなニュースがありました。それは、「IPS細胞が開発された」というニュースでした。京都大学の山中教授が人工的に幹細胞を開発したというニュースでした。IPS細胞には大きな可能性があるそうです。たとえば、もし角膜が失われたとしても、再生出来る可能性があると言われます。
 しかしその山中教授が、その番組中で話していましたが、「このIPS細胞には大きな課題がある。それはIPS細胞が非常に癌に変化しやすい事だ」というのです。
 その番組の中で何を言っていたかというと、癌はどんどん広がっていくのですが、広がった子分の癌細胞はあまり関係ないと言っていました。現在最も注目されている癌についての研究が、「癌幹細胞説」だそうです。それは、癌細胞には親分がいて、親分の癌細胞をやっつけない限り、子分の癌細胞をやっつけても、またしばらくすると再発するというのです。けれども、その親分細胞は、巧みに正常細胞の中に隠れて、まったくどこにいるのか見つからないというのです。それはまさにアハブ王のようなもので、親分にもかかわらず王服を着けておらず、一般兵士の中に隠れていて、全然、どこにいるのかわからないのです。
 癌もいくら抗癌剤などでやっつけても、親分が生き残る以上、いつまでたってもうまくコントロールできないというのです。それを見ていて、「これは本当に大変な病だ」と思いました。
 さらに、「癌幹細胞」というのが、人間の体を形造る「幹細胞」と、構造がとてもよく似ていて、癌幹細胞をやっつけることは、生命維持に最も大切な幹細胞を傷つけることになり、人の命にかかわることになるというのです。ゆえに、癌を克服することはたいへん難しい、というのが結論でした。
 そしてそれはいつ、体の中で変化するのかわからないというレポートでした。2人に1人は癌になり、3人に1人が癌で死んでいく現実に、人類はどう向き合っていったらよいのでしょうか。

 それを見て、本当に人間の弱さと共に、もしもこの戦いに勝利できるとしたら、癌が霊的領域と関わりがあり、その領域で勝利できるなら、もしかしたら可能性があるかもしれないと言うことです。そして、何はともあれ、教会は見えない敵と戦わなければいけないと思いました。

 ボスがいて子分がいる構図にしても、戦いがあっても戦いに気づかない構図にしても、何か、癌と目に見えない世界がつながっているような気がします。同じ構図が我々の体の内外にあり、霊的構図が対比しているような気がします。もちろんそれは仮定ですが、目に見えない領域でのボスをやっつけたら、内側のボスも打ち破られ、癌がいやされるのかも知れません。それらがリンクしていたら、もしかしたらいされるかもしれない…。
 私は何らかの霊的戦いとのコネクションがあるかもしれないと感じました。特にそれを、ある方の癌のいやしを祈っていたとき、強く感じました。
 それで私は、「主よ。見えない領域のボスをやっつける事が出来ますように!」と祈りました。隠れているボスが打ち破られることによって、健康になるとしたら、そんな素晴らしい事はありません。霊的領域で勝利したら、身体にその結果が現れるとすれば、人類にとっても重要な戦いであり、課題です。神の国さえ広がれば、病がないのは確かな事です。

 日本の霊的戦いのボスがどこにいるのかというと、何といっても、「太陽礼拝」だと思われます。この頃は伊勢神宮がブームになっています。太平洋戦争がなぜ起こったのかというと、この“アマテラス”が世界の最高神だから、世界中に広げてやるんだ、という中で起こったのです。それが再び真剣に拝まれるようになれば、もう1度軍国主義に駆り立てられないとも限らないのです。ですから日本のボス的存在を意識して、悪魔に立ち向かわなければいけないです。
 この東3河は“穂の国”と呼ばれ、特別に、伊勢神宮のために造られたような地域です。しかしそのような事はわかるけれど、一方では分からない事柄も多くあります。隠れているボスがいるような気がします。アマテラスがボスで、王服を着ているようには見えるけれど、王服を着ていない一般に紛れ込んでいるボスもいるような気がします。そこが霊的戦いの難しさだと思います。

 しかし、神様の働きというのは“何気なく放った弓矢によって、敵を打ち破れる”というものです。「隠れているボスをやっつける」という情報は、私達にとって大きな励ましです。私達クリスチャンが持っている弓矢を放つ時、どこに放つのか分からないけど、主が矢をコントロールして下さり、その矢は敵のボスの急所を射抜くのです。
 私達の戦いは、私達の戦いではなく「主の戦い」ですから、それぞれの場所で矢を放っていく時、私達は何をしているのかわからないけれど、それが敵の首領を打ち抜くのです。ここにおられるひとり一人がそれぞれの場所で、それぞれの戦いをすることは、敵の首領を破る事に他ならないのです。

 私はこの第2歴代誌18章のみ言葉を心に抱いて、11月にアメリカに行きました。ニュージャージーのある韓国人教会で奉仕をさせて頂きました。それは素晴らしい集会となりましたが、ひとりの方がその集会に来られ、とても感動したそうです。そして。「この働きは韓国でもどうしても必要だ!」と感じたらしく、その方は牧師の奥さんですが、「私の父が韓国のある町で牧会していますから、是非とも行って下さい」と言われました。私も予定が結構詰まっていたので、いつ行けるかわからないと思いました。しかし結果的に、12月に慶尚南道の居昌(コチャン)という町で聖会を持つことになりました。
 それで、12月の始めの週に韓国に行ったのです。それはある意味、偶然の偶然で起こった事です。何故ならば、私はアメリカに行き、ニュージャージーの集会に牧師の奥さんが来られて、感動し、故郷のお父さんに電話して、「是非とも滝元順を呼んで集会をして下さい」と頼んで、お父さんが、信仰を持って見も知らない私を招いてくれたのです。それで、12月の初めに5日間のスケジュールが出来たわけです。

 今回の集会は、今年韓国の色々な場所で集会をした中で、一番恵まれたと思います。3日間の合同聖会でしたが、3日間あまりにも祝福されたので、あとの2日間計画されていた他教会での集会が変更され、5日間連続で聖会が行われました。(その辺りは韓国の素晴らしい所です)朝と夜の2回、そして昼間は牧師先生方と共に、地域をとりなしに行くというハードスケジュールでした。

 今回、聖会を企画して下さったのは、ニュージャージーで出会った牧師先生の奥さんのお父さんです。そのお父さんは昨年までニュージャージーで牧師をしていたのですが、自分の故郷に帰って伝道を始めたばかりでした。それでまだ小さな教会なので(とは言っても百人くらい集まっていましたが)、自分の教会から1分くらいの場所に11月に建ったばかりのきれいな教会があるので、その教会を訪問して、牧師に「一緒にやりませんか」と声をかけたそうです。するとその先生が、何人かの牧師を集めて、今回の聖会が実現したそうです。
 本当に一般的に言ったら、偶然が偶然を呼んで集会ができたわけです。しかし、何気なしに放った矢が、リバイバルにつながっていくのではないかと感じました。その聖会は、日増しに人数が多くなり、最後の日は床に人が座るくらいでした。私と4元先生が奉仕をさせて頂きましたが、その様子を映像でお見せしたいと思います。

 来週は金先生が来ますから、皆さん、このように燃えて頂きたいと思います。実はこの場所は日本の根源でもある、かつて「伽耶」という国があった場所でした。日本という国は、自動的に出来たわけではなく、朝鮮半島の南の豪族が入って出来た国であり、この場所がリバイバルする事は、日本がリバイバルする事です。また、韓国全体のリバイバルにもつながると思います。その話をして、本当に皆が燃えて祈ってくれました。聖会では神の国が現れ、悪霊が追い出される事が多く起こりました。それに対処するのが、私と4元先生の2人しかいませんでしたから、ちょっと大変でしたがすごかったです。また来年も集会をすることが決まりました。

 実はこの集会も良かったですが、最も良かったのが、神の導きが確実にあるという事を体験した事でした。
 先程もお話ししたように、11月に、「ボスと戦わなければいけない」と示されたのと共に、第2歴代誌のみ言葉が与えられました。そこで、「何気なく弓矢を射た時に、ボスを射貫きますように」と祈っていたのです。

 今回、私を招いてくれたのは、王先生という先生ですが、その先生が私達と共に色々行動して下さったのですが、その先生の生まれ故郷は、コチャンからひと山越え、15分くらいのところにある、「タンドン」という村でした。そこが日本と大変つながりが深い場所ですから行ってくれますか、という事でした。
 しかしその先生は、その場所についてそんなに知っているわけではなく、その村を離れて50年くらい経つから、実家も廃屋になっていると言いました。その日は私達を温泉に連れて行って下さることになっていて、そのついでに故郷にちょっと立ち寄って、その村のためにとりなすスケジュールでした。

 タンドンは王先生の生まれ故郷です。のどかな村です。コチャンのすぐ近くです。ここに行くとこんな看板がありました。それは、「日本国天皇の故郷にようこそ」。
 このタンドンには神話があり、それが日本神話と同じだというのです。こちらの神話が日本に渡って、日本神話に変化したことを物語っています。こんな看板が出来ている事を、王先生も知らなかったのですが、韓国語と日本語と英語で紹介されていて、この地域が日本と深い関連があると紹介されていました。
 この看板を見た先生がすごくびっくりして、「私の生まれた家に祈りに行ってくれますか!」と言われました。「何でですか?」と聞くと、実は、その前日に私が聖会の中で、「自分の人生の中で、悪魔に矢を打ちこまれてた場所があったら、聖霊様に聞いて、つながりが断ち切られるように祈りましょう。」と言いました。
 その時、王先生の目の前に、故郷の実家の前にあった、古い堂が目の前に出てきたそうです。
 「そういえば、小さい頃、あそこで遊んだり、拝んだりした。断ち切って祈らなければ・・・・」と思って、断ち切って祈られたそうです。
 しかし次の日にその村に行くと、その場所についての説明が看板にあり、何と、「アマテラスを救出するために、女神のアマノウズメが大嘗祭を行った場所」となっていました。

 もちろん、それがどこまで事実かわかりませんが、今回私が、「隠された場所にいるボスに矢が刺さりますように」と祈っていた中で、私を招いて下さった先生の生家の前の堂が、日本神話の根源である、「アマテラスを救出するためにアマノウズメが大嘗祭を場所」とされている場所であったのです。それは伽耶の時代からずっと続いている、古い場所だったのです。ある意味、隠れた場所に潜んでいるボスに矢が刺さったような感じがしました。
 私はたいへんびっくりしました。偶然が偶然を呼ぶように、先生の実家の家の前が日本にとって、たいへん重要な霊的戦いの場所だったのです。その所で、日本とのつながりで働く敵の力、隠れているボスが打ち砕かれるように、と祈りました。

 王先生の実家に現在人は住んでいないのですが、一緒に行った先生の1人がそこを借りて祈祷院にし、「これからは毎週、ここでとりなしの祈祷会をします」と約束をしてくれました。
 先週も、「順先生、祈りましたよ!」と連絡がありました。神の不思議な導きがありました。まさかニュージャージーから始まって、こちらに結びつくなど、夢にも思いませんでした。何気なく放った弓矢が、国を超えて、根源に突き刺さったような気がしました。それは癌のいやしいう、とりなしの祈りから導かれました。

 主は、教会に新しい領域を広げて下さったのではないかと期待しています。来年の働きは、何気なく放つ矢が敵の首領を突き刺し、戦いに勝利するように祈りなさいと語られています。(1月1日のメッセージを、今語ってしまっているようですが)
 主がそのような語りかけを与えて下さっている気がします。もちろんこれは1つの側面として、見せて下さったものだと思います。神様の働きというのは、国を越え、人を越えて、グローバルなキリストの体として、受け継がれていく事を実感しました。
 あのニュージャージーの先生の奥さんが感動しなかったら、そして、それを父親の王先生が受け取らなければ、また地域の先生方が受け取らなければ、集会をすることもなかったし、私のスケジュールも全て含めて、弓矢が1つの場所に当たったような気がしました。

 何か、韓国リバイバルミッションの総決算を見るようでした。見えない世界での勝利が、病のいやし、特に癌のいやしにつながればいい、と切に願っています。皆さんも是非とも日本の隠れたボスが打ち破られるよう、祈って頂きたいと思います。キリストの体の中での連携される“霊的戦い”が、また、何気なく放たれる矢が、敵の首領を打ち破っていくと信じます。

 主が今、『強い者を打ち負かせ!』と教会に語られているような気がします。強い者が打ち破られ、神の国が拡大し、そこに住む民が皆いやされ、神の国が来るように願います。そして多くの人がイエスさまを信じ、この世界が神のもとに勝ち取られる為に、イエスさまの弟子として働き、戦いを続けていきたいと願っています。
最後に一言、お祈りします。


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