カウントダウン・ワーシップ・メッセージ


2009.12.31(Sat)
新城教会 滝元 明牧師
新城教会 四元雅也副牧師
新城教会 岡本信弘牧師
新城教会 公畑フェルナンド副牧師
新城教会 上條 実牧師
新城教会 滝元 開副牧師

滝元 明牧師

  ハレルヤ!今年は本当に、皆さまにお世話になりました。今日はくじを引いて一番となり、感謝です。素晴らしい恵みを頂いた事をありがとうございます。
 実は昨晩、豊橋の「シーパレスリゾート」という所で、私と家内の結婚60周年記念という事で、子供達や孫達が集まって祝会をしてくれ、心から感謝しました。私達も結婚して60年、伝道に出てから60年経ちました。今では子供7人、孫が21人、ひ孫が七人ということで、本当に祝福されました。たいへん楽しい祝会でした。孫達が素晴らしい司会をしてくれて、「おじいちゃん、死ぬまで頑張って!」ということでしたが、私も死ぬまでイエス様の恵みの中で働いていきたいと考えています。

 皆さんにお祈りして頂いて、今年私は「滝元明ミニストリー」という事で、ロン・ブラウンさん達と共に、全国を廻ったわけですが、非常に祝福されました。私とロンさんとで、今年五十三日間、全国を廻らせて頂きました。どこへ行っても祝福されて、合計7463名集まりました。その中でイエス様を信じたい、という人たちは800人以上おられて、私の書いた「祝福への歩みだし」という本を差し上げました。「韓国リバイバルミッション」の他に、個人的にも働く事ができ心から感謝します。

 クリスマスの2、3日前に、千葉県船橋市で伝道しておられる、スティーブン・ケイラ―先生から電話があり、「先生、クリスマスおめでとうございます!」と挨拶して下さいました。そして、「先生、今年は先生をお招きできなくて残念でしたが、来年は是非とも来て下さい」といって、3月の集会に来るようお招き下さいました。それで、「滝元先生にとって来年は最高の年になりますよ!今年よりも10倍、100倍の祝福があります!」と言われました。非常に希望の持てる素晴らしい挨拶をして下さいました。

 私も、今年よりも10倍、100倍の祝福がありますよう祈っています。私にとって“10倍、100倍の祝福”とは何かというと、やはり願い求めている「日本のリバイバル」です。

 来年はリバイバルが起きるように願い求めています。日本の人々が救われることです。今年よりも十倍・百倍の人達が救われる事を願い求めています。

 特に最近感動したみ言葉があります。そのみ言葉をお読みしたいと思います。それはエステル記4章13節〜16節です。

『モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」エステルはモルデカイに返事を送って言った。 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」』

 その中でも、『私は、死ななければならないのでしたら、死にます』という言葉に感動を受けました。
 皆さんも、この箇所はご存じだと思いますが、ペルシャやメディアの王国を支配した王の妃になったエステルですが、問題が起きたのです。ユダヤ人のモルデガイは、ハマンという人に偶像礼拝を強制されましたが、彼は、「神以外には絶対礼拝しない」という事で、頭を下げなかったのです。その時ハマンは、「こいつを殺してやろう」と考えました。しかし一人だけ殺すのは面白くないという事で、彼が考えた事は、「モルデガイの民族であるユダヤ人全てをを滅ぼそう」と考えました。
 けれどもその時、王妃エステルは、自分の民族については明らかにしていなかったのです。しかしモルデガイが妃にお願いした事は、「今、民たちが殺されそうになっているから、あなたは王様の所に行って助けを求めなさい」
 彼女は、「法律では、招きがないのに王の所に行ったら死刑です。王の所に出る事は出来ません。」でした。
 その時にモルデガイが言った言葉は、「あなたが王宮にいるからと言って、あなただけ助かると思うな。もし、あなたが立ち上がらなかったら、救いは他からユダヤ人に来るだろう。しかし、あなたも家族も滅びるだろう」と言いました。
 それでエステルが考えた事は、「民族を救うために立ち上がろう!」と決断しました。そこでエステルはモルデガイに「シュシャンにいるユダヤ人達を皆集めて、私のために三日間断食して下さい。私も断食します。私は法令を破っても王の所に参りましょう。もし、死ななくてはならないのでしたら、私は死にます」と言いました。
 これは素晴らしい言葉です。彼女は民族のために、死ななければならないなら死ぬ、と決断しました。そのことによって、ユダヤ人すべてが救われたと記録されています。

 もう一か所聖書を見ると、エステルが王様の所に行った時、王が金の錫を差し伸べた事により助かった事が書かれています。王は、「何をしてほしいのか王妃。国の半分でも上げるが」と言いました。するとエステルは、ハマンと一緒に食事をして何を願ったかというと、「もう一度一緒に食事をして下さい」と願いました。
 ハマンは「自分が王の栄誉を得て、王様と王妃と共に食事をできる」と勘違いしました。王宮に出てきた時、モルデガイはひざまずいてハマンを礼拝しなければいけないのに、彼はひざまずきませんでした。それでハマンは、「明日、宴会の前にモルデガイを木にかけて殺そう」と、彼は自分の庭にモルデガイをかける木を立てたわけです。その許可を得るために王の所に行ったわけですが、その時に何が起きたかというと、このモルデガイが殺される前の晩、エステル記6章1節〜11節、

『その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。その中に、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタナとテレシュが、アハシュエロス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。そこで王は尋ねた。「このために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。」王に仕える若い者たちは答えた。「彼には何もしていません。」王は言った。「庭にいるのはだれか。」ちょうど、ハマンが、モルデカイのために準備した柱に彼をかけることを王に上奏しようと、王宮の外庭にはいって来たところであった。王に仕える若い者たちは彼に言った。「今、庭に立っているのはハマンです。」王は言った。「ここに通せ。」
ハマンがはいって来たので、王は彼に言った。「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。」そのとき、ハマンは心のうちで思った。「王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう。」 そこでハマンは王に言った。「王が栄誉を与えたいと思われる人のためには、王が着ておられた王服を持って来させ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来させてください。その王服と馬を、貴族である王の首長のひとりの手に渡し、王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。』と、ふれさせてください。」 すると、王はハマンに言った。「あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところにすわっているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたの言ったことを一つもたがえてはならない。」それで、ハマンは王服と馬を取って来て、モルデカイに着せ、彼を馬に乗せて町の広場に導き、その前で「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。」と叫んだ。』

 この後は聖書を読んで頂きたいと思いますが、エステルが、「死ななくてはならないのなら死にます」と決心したことにより、神が働かれました。モルデガイが殺されようとしている前夜、王は「眠れなかった」とあります。
 私達は今年、日本のために一体何を願わなければいけないかというと、「この日本が救われるためなら」と、とにかく主のためにリバイバルを起こして頂きたい、という願いを持たなければいけないし、罪とは絶対妥協しないと決断する事が大切です。

 ダニエル書ではネブカデネザル王が建てた、金の像をシャデラク・メシャク・アベデネゴが礼拝せず、火の中に投げ込まれるその前、「拝めば赦してやるけど、拝まなければ火の中にぶちこんでやる」と言われました。
 しかし彼らが言ったことは、「王よ、そんなことがあれば、私たちの仕えている神は私たちを助けてくれます」そして次に、「たとえそうでなくても、私達は王が建てた金の像を拝みません」と答えました。そのようにしっかりと宣言した時に、素晴らしい神の業を見たのです。私達も妥協せずに、日本を愛して命をかけて生きていきたいと思います。

 孫が「おじいちゃん、死ぬまで頑張って」と言いましたが、普通は『死ぬまで』なんていう言葉は使わず、「おじいちゃん、使命のある間は頑張って」と言うと思いますが、孫は、「死ぬまで」と言いましたから、私もいつ死ぬかわかりませんが、信じている事は「死ぬまでは生きる」と思っていますから、生きている限り頑張っていきたいと願っています。以上です。ハレルヤ!ありがとうございました。


四元 雅也副牧師

 ハレルヤ!今年も早いもので、今日で2009年も終わりという事ですが、この場所にもう一度立たせて頂ける恵みを心から感謝します。この年も神様は素晴らしい祝福を教会に注いで下さって、また皆さんと共にリバイバルのための戦いを続けてくる事が出来て感謝します。私の立場というのは、会社でいえば(教会は会社ではありませんが)明先生が相談役か会長さん、順先生が社長で、信弘先生や上條先生が重役さんか部長さん、僕は中間管理職という所です。先生方が前線に出て頑張っている背後で留守を守ったりして働いているのですが、いつも「この教会で一番忙しく働いているのは誰かな」と考えると、本来なら上に立っているはずの先生方が一番忙しいです。明先生もそうですし、順先生や信先生、実先生もそうですし、僕達はその先生方の後ろについていっているわけですが、ついていきながら「ああ、疲れた」と息があがりそうになってしまうことも多々あって、本当に先生方が色々と働いている事に対して助けることができるようにと思うのですが、中々そうできないような現実もあります。

 2009年は「深みに漕ぎだして網を降ろして魚をとりなさい」というみ言葉を与えられてスタートしてきたのですが、この2009年を振り返ってみると確かに神様はそのようにみことばがこの教会の上に、また僕自身の働きの中に現実になってあらわされたようなことがあるのではないかな、と思って心から感謝します。昨年以上に神様は素晴らしい恵みをこの教会の上に注いで下さったと思わされています。

 僕は青年会を担当させて頂いています。先ほど今年行われたさまざまな行事のスライドをご覧いただきましたが、その中にも青年会が中心となって企画・運営した「The Call」という働きが2回にわたって出てきていました。特にこの夏は、青年達でスキットに挑戦する事が出来、すごく恵まれた時を持つ事ができました。ああいった働きはある意味効率が悪いと思います。準備に時間がかかって、本番は10分くらいでぱっと終わってしまうのです。あのスキットをひとつするのに2ヶ月前からずっと練習を重ねて、毎週日曜日に一日のスケジュールが終わった夕方から練習が始まって夜九時過ぎまで毎週のように練習して、また泊りがけで合宿をして、そして本番の前の“事前本番”といいましょうか、豊橋駅前に行って劇をして路傍伝道をするなど、色々な準備を積み上げて本番に臨みました。また、あの時には夜店もやりましたが、夜店も同じくらいの準備と労力をかけ、一日の伝道集会のためにみんなで頑張ったという、ある意味では効率の悪い働きではあるのですが、そのために皆が一生懸命神様のためにやるという事で、すごく反響も大きい所があり、神様が大きな恵みを注いで下さって、その働きに関わった人達も「ああ、こんなに恵まれるなら」「またやろう!」という事になって、クリスマスにもう一度劇をさせて頂きました。それも同じくらいみっちり練習して当日があっりました。そういう意味では青年会の働きでもいままでにない新しい事が現わされて、ある意味深みに一歩漕ぎだしたような一年ではなかったのかな、と思います。

 また、教会を通しての働きでは韓国リバイバルミッションが今年一年を通じてのテーマのような一年ではなかったかと思います。私は本大会には残念ながら参加しませんでしたが、今年初めの1月に5日間、また先日9日から14日までの間、韓国に出向いてとりなしと、順先生について聖会のご用にあたる事が出来まして、本当に順先生が外に出ていかれる時の忙しさたるを体験させて頂きました。本当に、ついていくのがやっとという感じでしたが、頑張っている先生の背後で何もできませんが出来る事をお助けするという事をさせて頂きました。韓国に一年間関わるという事を通して、本当に教会が受けた恵みは目に見える恵み、見えない恵みと色々あると思いますが、計り知れないものがあるのではないかと思わされます。やはり、一年間働いてきて思う事は、隣同士で協力しあうことや祈り合う事、互いに与えあっている影響力というのが歴史を紐解いていくと計り知れないものがある、そういう国同士が一致し協力して祈り合っていく事が本当に大切な事だ、という事を一年を通じて教えられたような気がします。これも深みに漕ぎだしていく働きではないかと思います。

今年、この年末に来年に向けて与えられたみ言葉を紹介していきたいと思います。

第一コリント 6章20節
『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』

 イエス様を信じることを通して一番先に起こる事が何かというと、“罪の赦し”だと思います。罪が赦されてはじめて私達は神の子どもとしての権威が回復され、悪しきものに立ち向かうための権威も約束されたのです。私達が、神様との関係の中で罪が赦されて神様と正常な関係を持つ事が出来るのはほんとうにすごい事です。これは聖書だけが教えている究極の福音とも言える大きな奇跡ではないかと思います。これは、世の中に他に宗教と呼ばれるものや“神様”と呼ばれるものは数え切れないほどたくさんありますが、しかしこの聖書だけが罪の赦しというものについてはっきりと断言しているという、他にはないものです。

エペソ人への手紙 1章7節
『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』

 この箇所で「み子による、血によるあがない」という風に書かれているのですが、ここに書かれている“罪の赦し”は血が流されることによって初めて可能になる、血が流されることによって罪の購いがなされる、というふうに書かれています。これは、神様が聖書を通して私達に教えられている変わることのない霊的な法則です。イエス様以前の旧約の時代にも、神の民であったイスラエル人に神様が教えられたのは、罪の赦しのために、きよいとされる動物を殺し、その血を注ぎだすということが罪の購いにつながるという事でした。

レビ記17章11節
『なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。』

 ここに『これ』とあるのは動物のいけにえのことを言うのですが、このように罪のあがないのためには動物を捧げてその血が流されるという事が必要でした。しかし、この動物の血というのは完全に罪を除き去ることは出来なかった事も聖書の中には書かれています。ですから人々から罪悪感もなくならないし、それゆえ繰り返し毎年同じように動物をほふり血を流して罪のための購いを神様にお願いするという事が続けてなされていました。しかし、イエス様は、神様であられたのに完全な形で人として生まれて下さり、動物の血ではなく完全な人として、完全な購いの血潮を流して下さいました。ですから私達はイエス様の血潮のゆえに罪悪感に苦しめられる事もないし、罪の責めにおびえて暮らす事も必要ないのです。罪から解放されたという自由の中で生きる事ができる、救われた喜びをもって生きる事ができるのがイエス様によってなされた救いです。ですから、これは素晴らしい事なのです。

 神道では12月31日に“大祓い”という行事が行われます。これは6月30日と12月31日の2回に行われる日本特有の宗教儀式で“穢れを祓う”という偽りの意味合いを持つ行為です。私達が日常生活で受ける様々な“穢れ”というものがその大祓いによって除かれる事を目的とした儀式です。また、日本には“厄”という概念があり、「今年は厄年だからあまり外に出ないでじっとしていよう」とか、「最近ついてない、厄病神につかれてるみたいだ」などと世の中の人は言います。日本人は厄がつかないように、という事でお祓いを受けたり正月に初詣に出かけたり、お守りをもらったり札をもらって車に張りつけてみたりなどするわけです。
それと同じような行為として禊(みそぎ)というものもあります。神社に行った時に、日本人は“神”とされるものの前に出るためには穢れを取り除かなければいけないという考えがあり、清らかな水で手を洗ってみたり、また祭りがある時には水を浴びるなど、穢れを祓ったり厄を除いたり、という呪術的な意味を持つ行為を日本人はするわけです。

 私達クリスチャンはこれが間違いであるという事は理解しています。しかし、ともすると一方ではそれと同じような、厄除けお祓いをするような感覚で、イエス様の十字架を捉えてしまうような危険があるのではないかと思います。お守りを受けるのと同じような感覚でイエス様の血潮を受ける、そんな気軽な気持ちでイエス様の十字架を考えてしまうような事がもしかしたらあるのではないでしょうか。そういった事を最近教えられています。

 聖書で言う“罪”とは、もともと穢れとか厄とかそういった概念とは全く違うもので、比較して考える事が出来ないものですが、同じ類のように私たちが受け止めてしまっていたら悪魔の偽りにだまされてしまっているのです。重ねて言いますが、聖書が教えているのは、私達が神様のまえに犯した罪が赦されるためには、罪のない者の血によらなければならない、という事なのです。そしてイエス様はただ一度だけ十字架にかかられたわけですが、これは神道でいえばみそぎとか祓い、また仏教で言えば念仏など、そういった上っ面の気休めではありません。イエス様が十字架にかかられた事を軽く考えて忘れてはいけないと思います。ただ一度の正しい行為によって全人類の救い・購いが完成したと聖書で教えています。このイエス様の十字架は私達やここにいる皆さん全てのために、ただ一度、流された血潮、ただ一度かかられた十字架…何度も繰り返し必要な物ではないという事です。私やあなたの過去や現在、また未来に至る全ての永遠のあがないが2000年前にイエス様の十字架において成し遂げられたという事です。そして、永遠の絶対者である神様、他に比べる事のできない神様がその神の座を捨ててこの地上に人間の姿をとってこられ、人間の中でただ一人、罪のない生活をされ、最後に自分が造った被造物である人間の手にかかって十字架にかけられ私とここにいる皆さんのために血を流された事がどれほど大きな重荷であるかを私達は本当に心に刻み、本当に考えていかなければならないのではないかと思います。

ローマ人への手紙 6章9節〜14節
『キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。』

 クリスチャンの人生というのは、イエス様が自分のために十字架にかかって下さったのと同じように、自分もまた自分にしか負えない十字架を背負ってイエス様についていく事だという事を、イエス様は福音書の中で教えておられます。これは、イエス様が十字架を負って下さったように私達も十字架を負いましょうという事ですからよく考えるとものすごく重荷のある言葉だと思います。イエス様は私達一人一人の過去・現在・未来の全ての罪のための代価を払って下さって神様の子どもとして買い取られたのだから今度は自分を欺いて罪に陥ることなく義のために生きなさい。イエス様が捧げて下さったからあなた方も捧げなさいよと、この所で勧めているわけです。イエス様が人として歩まれた人生も、ただ一度であり十字架もただ一度です。ですから私達も、ただ一度の人生を自分を喜ばせるためではなく神様を喜ばせるために生きていく事を人生の一つの目標として生きていくことが大切ではないかと思います。

 2008年に向けて与えられたテーマは“恵みの上乗せ”というテーマでした。そして、2009年には深みに漕ぎだすことを通して恵みの上乗せが実現するという事をお話ししました。来年はさらに私達が「捧げる」事を実践していきたいという事を思います。この十字架の原点に帰って、感謝と共に神様の前に自分自身を捧げていきましょう。

最後にもう一度、第一コリント 6章20節のみことばを読んで終わりにします。

『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』

以上です。ありがとうございました。

 

岡本信弘牧師

 ハレルヤ! 主のみ名を賛美します。
 もうすぐ2009年が終わろうとしています。皆さんにとってこの一年はどのような年だったでしょうか。私はこの一年間守られ、またこの場所に立つことができることを心から感謝しています。
 この一年で特に印象に残っているのは、5月に行われた韓国リバイバルミッションです。娘を人質(笑)にとられていたこともあり、仕事が忙しい中、何度か韓国へ準備のために行かせていただきました。海外に行くためには、留守の間の仕事の段取りなどもしていかなければならないので、出かける前は大変です。また、日本にいても、今はスカイプというインターネット電話があり、いつでも連絡が取れる状態にあるため、便利(私にとってはかえって不都合なものかもしれませんが・・・)なのですが、一日に何度も連絡が来て、そのたびに様々な雑事をこなし、忙しい日々を送りました。しかし、健康で主の奉仕をさせていただけたことは、神様の恵みであると思って感謝します。

 さて、私は昨年この場所で2009年のために「エリコの城壁が崩れ落ちる年となるように」と語らせていただきました。一年を振り返る時、様々な試練や問題、病や悲しみに苦しんだ方もおられると思いますが、その中でも、それぞれの城壁が崩れ落ち、新しい扉が開かれた年であったと確信しています。
 2010年のために私に与えられたみ言葉をお読みします。

詩篇91篇14節〜16節
『彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』

 このみ言葉から、神様は私たち一人ひとりの祈りに答えてくださる方であることを、もう一度覚えていただきたいと思います。
 この個所を何度か読んでいるうちに、神様は、旧約聖書に出てくる二人の人物を思い浮かばせてくださいました。一人はアブラハムです。彼は、後に「信仰の父。神の友」と呼ばれたと書かれていますが、彼は75歳になって主から呼び出されました。

創世記12章1節〜2節 
『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」』

 75歳といえば人生の後半に差しかかっている時です。そんな時に、アブラムは神様から、「自分の生まれ故郷を捨てて、わたしに従ってきなさい」と言われたのです。それでもアブラムは、『主がお告げになったとおりに出かけた』と聖書に書かれています。彼にも年齢のことや家族のこと、いろいろな心配事があったでしょう。また、責任も重く、守らなければならないものも沢山あったでしょう。しかし彼は、75歳という年齢にもかかわらず、すべてを神様に委ねて、行く所も知らずに導かれるまま出ていったのです。出ていってからもいろいろな困難がありました。しかし、再度、神様はアブラハムに声をかけられました。

創世記15章1節
『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』

 この言葉を聞き、子どものいなかったアブラムは、「あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と神に訴えました。すると神様はこのように答えられました。

創世記15章4節〜6節
『すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

 アブラムが主の言葉を受け入れ、信じたので、主は、それを彼の義と認められました。そして、彼が神の言葉を信じ、待ち続けたことによって、100歳の時、イサクを授かることができました。これで神の計画がすべて順調に進むかのように思われましたが、ある時、「いけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」という神の言葉がありました。勿論、彼はとても苦しんだと思いますが、彼は信仰もって神に従うことを選び、そのとおりに事を行おうとした時、神様からの信頼を得、息子イサクを取り戻せたのです。このように、アブラハムが、信仰もって主の仰せに従い、主の前にささげた時に大きな祝福を得たことがわかります。
 また、もう一人は創世記の終りに出てくるヨセフです。ヨセフはヤコブの11番目の子として生まれ、幼い時から父親に愛され、神様を愛した人でした。しかし、兄さんたちからは妬まれ、結果的にはエジプトに売られてしまいました。他の人から見れば、幸せな人生であったとは到底思えないような状況でしたが、主は彼を覚えておられました。

創世記39章4節〜5節
『それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。』

 ここに、ヨセフのゆえに、彼がそこにいることによってその家が祝福されたとあります。彼は何度も苦しい目に遭いましたが、神がいつもヨセフと共にいてくださり、彼を守っておられたことがわかります。
 その後、王様の夢を解き明かしたことをきっかけに王様に召し出され、最後には(普通ではありえないことですが)、奴隷であった彼が、エジプトの総理大臣に任命されたのです。これは神様のなさる業以外の何ものでもないと思います。
 またこの話はヨセフの祝福だけに留まらず、飢饉で苦しんでいたヤコブの家族をも救うという、壮大な神のご計画があったということがわかります。これは、彼がどんな逆境の時にも主に信頼したゆえに道が開かれ、神様の計画が成就したという証しです。
 新しい年、いろいろな問題、あり得ないようなことが起こるかもしれません。しかしそんな時にも、初めにお読みした『彼が私を愛したから、わたしは彼を助け出そう』のとおり、私たちが神様を愛し信頼していくなら、神様が私たちを必ず助けてくださるというこのみ言葉をしっかりと握って、前進していただきたいと思います。

 私たちがどんな時にも「神様、イエス様!」と祈れば、どんな小さなことでも神様は答えてくださる方であることを示す、一つの面白い話が載っていましたのでご紹介します。
 アメリカの元大統領 ジミー・カーター氏が、重要な首脳会談の前に、秘書に、「重要な会議だから、誰も通さないように」と言って中に入りました。しばらくすると誰かが戸をノックしました。「邪魔をしないようにと言ったのに、誰だ」と思い、仕方なく戸を開けてみると、それは自分の幼い娘 エイミーでした。「この重要な時に何の用だい」と聞くと、エイミーは「今から買い物に行くんだけど、五ドル足りないからお金をちょうだい」と言いました。すると彼はにっこり笑って「いいよ」と言い、五ドルをあげました。普通なら絶対に許されない行動だと思いますが、娘だから許されたのです。
 私たちが「イエス様」と祈ろうとする時、偉大なる神様に私たちが祈るのはおこがましいと思ったり、イエス様は今忙しいから祈ってもだめかも、というのではなく、私たちは神の子どもであり、イエス様はいのちを捨てて十字架にかかってくださるほど私たちを愛してくださっているので、エイミーちゃんが父親に求めたように、私たちも「イエス様、今困っています。これをしてください」と祈ってみてください。そうしたら、エイミーちゃんの願いを聞き、必要なものを与えた父親のように、神様は私たちの必要にこたえ、必ず助けてくださる方です。また、どんな大問題であっても、到底解決できないと思えるようなことであっても、神様にとって不可能なことは一つもありませんから、信じて祈ったら必ず道が開けます。祈りは必ず答えられます。
 最初にお読みしたみ言葉の「彼」のところにあなた(自分の名前)を、そして「わたし」のところにイエス様をあてはめて読んでみるとわかりやすいです。『あなたがイエス様を愛しているから、イエス様はあなたを助け出そう。あなたがイエス様の名を知っているから、イエス様はあなたを高く上げよう。あなたが、イエス様を呼び求めれば、イエス様は、あなたに答えよう。イエス様は苦しみのときにあなたとともにいて、あなたを救いあなたに誉れを与えよう。イエス様は、あなたを長いいのちで満ち足らせ、イエス様の救いをあなたに見せよう』となります。家に戻られてから、意味をかみしめてもう一度読んでみるといいと思います。
 先日の礼拝で順先生が、ガンが撲滅されるように、癒しが現されるようにと語られ、共に祈りました。私たちの祈りが主の前に届けられ、それが速やかに行われ、この教会の中で圧倒的な癒しの業、奇跡の業が現わされることを期待して、祈り続けていきたいと思います。
 サタンの惑わしや妨害により、時に不信仰に陥ったりするかもしれません。しかしどんな時にも主は私たちと共におられ、あなたを助け、あなたに恵みと祝福を与えてくださると約束してくださっていますから、信仰をもって喜んで歩んでください。
 来年、ここに皆さんが集まった時に、「この一年、神様はこんな素晴らしいことを私にしてくださった」と分かち合えるような年になるようにと願いお祈りさせていただきます。

 

公畑フェルナンド副牧師

 ハレルヤ! 皆さん、私達のミニストリーのために祈って下さって本当に感謝します。今、同じ時にインターナショナル部会の方々もおられますので、そのためにもスペイン語で話させて頂きたいと思いますので、妻が通訳をさせて頂きます。この新しい年に神様が私に与えて下さった御言葉の聖書箇所をお読みしたいと思います。

ルカ5章12節〜13節
『さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。』

ここに、病気で苦しんでいるある男が登場してきます。しかし、この男はただの病気ではありませんでした。遠くから見てもわかる「らい病」でした。そして、その男の心には苦みと苦しみの傷がありました。なぜなら、その時代のらい病人は自分がらい病人である事を知らせるための特別な衣服を着なければならず、町で家族や友人達と住む事は許されず、また誰も彼に触る事を許されていませんでした。しかしこの聖書箇所を見ますと、どのようにしてかわかりませんが、この男はイエス様のいる場所に入ってきました。彼は、自分が置かれている状況というか病気にも関わらず出てきました。しかし弟子達は彼を見てかなり驚いたと思います。この男はらい病という治らない病気であっても、主の命令であればすぐに癒されると信じていました。しかし、一つの問題がありました。この男の信仰は確信が伴わないものでした。何故なら、主が自分を癒したいかどうか、それが御心かどうかわからなかったのです。この時、イエス様にとって彼の病は問題ではありませんでした。イエス様にとって問題であったのはこの男の確信のない信仰であり、それを癒す事でした。その確信のない信仰を癒すなら彼に奇跡を行う事が出来るからです。それでこの男はイエス様に近づいてこう言いました。「主よ、お心ひとつで私をきよくして頂けます」と。これは、男がイエス様に病気を治してくれるかどうかを質問したのではなく、ある事を言明したのです。他の言葉で言いかえるなら「私をこの病気から解放する権威をあなたがお持ちなのは知っているけれど、問題は、あなたがそれを私にしたいかどうかわからない」と言っているのです。私も、彼と同じように人生の困難な状況に置かれた時があります。私は信仰によって神様が私のために奇跡を行う力があるということはわかるのですが、しかし「神様は私に奇跡を起こしたいと思っておられますか?」と何回も訊ねた事があります。このように、主に対する疑問形の信仰である間、あなたの信仰は神様から奇跡をもぎ取るほどの信仰ではありません。しかし今晩、私があなたにお伝えしたい事は、神様があなたの人生に関心を持っていらっしゃるという事です。そしてただ、あなたの人生に奇跡を起こす事だけが神様の願いではなく、あなたの人生とあなたの家庭の中に神様の願い、「御心」を受け取らせようとされておられるのです。多分、あなたは自分の人生でこうしたいと思っている事が神様の御心かどうかわからない、とおっしゃるかもしれません。しかし私があなたにお伝えしたいのは、神様の願い、つまり「御心」というのはあなたにとって「良いこと」であり、あなたが「祝福されること」である、ということです。神様の願いとか、御心を知らないということは結果的に不安定な信仰になります。神様の御心を知らない人は、確信の伴う信仰を持つ事ができません。
もう一か所聖書をお読みしたいと思います。皆さんがよくご存じの箇所ですが、

エレミヤ書29章11節
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 神様の事をあなたが考える以前に、神様はすでにあなたの事を考えて計画されています。そして、聖書は「神の願い、御心は平安を与えるものだ」と書いてあります。しかし、この箇所で言っている“平安”というのはただの心の平安ではなく、また戦いが無いという意味だけではなく、ここでいう平安というのは「シャローム」という言葉で書かれていますが、その意味は“繁栄、富、豊富さ”という意味が含まれています。つまり神様が持っている計画というのは祝福と健康であり、その計画を私達に下さるということです。みなさん、素晴らしい将来を迎えたいと思いませんか?どうぞ考えてみてください、もし今まで神様が良いことをして下さったのなら、将来にはさらに良い事をあなたのために計画して下さっています。あなたが今まで夢に見てきた事、例えばあなたの子供達が主に仕える事であるとか、あなたの家族が神様の恵みと力で満たされる事、あなたの家庭が繁栄する事、祝福が家庭にも仕事にも教会にもある事、『そのような夢を与えたのは「私」なのだから、あなたの期待している将来を与えます』、と神様はおっしゃっています。ですから、神様はあなたの人生のすべての領域に祝福を与えます。それは、あなたが待ち望んでいる事です。それが神様の、私達に対する考えであり計画なのです。
では、手早くヨブのお話を見てみましょう。ヨブの子供達が死んで彼が全てを失った時、神様によるものではありませんでした。それは敵である悪魔が彼の子供達を殺し、財産を奪い彼を病気にしたのです。悪魔がヨブに触れるためには、神様がヨブの周りの囲いを外す必要がありました。神様が守りの囲いを外したので、悪魔はヨブに触れる事ができたのです。しかし、ヨブの周りにあった囲いというのは今私達の周りにもあるのですが、悪魔は私達にふれるためにその囲いを外すように神様にお願いすることはもはや出来ないのです。
ですから、第一ヨハネの5章18節を見ますと、
『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』

と書いてあるのです。つまり、神様は、神によって生まれた私たちを守ってくださり、悪いものは私たちに触れることができないのです!
そして、ヨブが問題解決を宣言し始めたことが、問題から脱出することにつながっていきます。私達はしばしば問題のただ中にいるときには、その問題ばかりを話し続けてしまう傾向があります。しかしヨブが解決する事を宣言し始めると、その時神様は一つの事をお示しになりました。それは、神様のヨブに対するご計画でした。
ヨブ記23章13節〜14節を見てみましょう。
『しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行なわれる。神は、私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある。』

ここでいう「みこころ」は、「良いこと」であることを思い出してください。そして神様は主権者であって、誰も神様の決めた事を変更出来ません。先ほどお読みしたエレミヤ書を思い出して下さい。
 私達に対する主の計画は、『災いではなく平安であり、あなたの望む将来を与える事です。』とあります。
この会衆の中に問題や、病気や人生の困難ばかりを考えている方はいらっしゃいませんか。家庭に置いて、仕事において、経済的な問題や感情的な問題、夫婦の関係などであっても、もしあなたが「神様、奇跡をするのはあなたの御心ですか」と聞くなら、神様はあなたにこう答えます。さきほどお読みしたルカ書のらい病人に答えたように、「もちろんだよ、奇跡を起こしたいよ!」と。(補足:スペイン語訳と英語訳のルカ5章12、13節のらい病人とイエス様の言葉はそれぞれ、『主よあなたがお望みなら私はきよくなります。』、『私は望んでいる。きよくなれ。』となっています。)
神様は「私は主権者だ。それがあなたに難しいと思えることでも私は必ず約束を果たす。」とお答えになります。
この、2010年にあなたが待ち望んでいる奇跡が起こる年になります。しかし、あなたは神様が必ず答えて下さる方であると信頼しなければなりません。神様はあなたに奇跡を起こしたいのですから、あなたは奇跡を起こす事が神様の御心であると信じなければいけません。確信の信仰を持ちましょう。神様はあなたに奇跡を起こしたいと思っておられるのですから。
 最後になりますが、私の後に続いて宣言して頂きたいと思います。スペイン語と日本語の順序が違うので、少しづつ区切る事はできませんからまずスペイン語で、次に日本語で言いたいと思います。
宣言:『2010年は私の奇跡の年である事を、イエス様の御名によって宣言します!アーメン!』


上條 実牧師

 ハレルヤ!本当に、皆さんの祈りによって一年間守られ、今日この場所に立てます事を心から感謝します。この一年を振り返ってみますと様々な事がありました。しかしすべて主の中で感謝に満ちあふれた日々でした。新城教会、全日本リバイバルミッション、リバイバル聖書神学校、まざわめき、プレイズ出版。どこを見ても多くの恵みを頂いた一年であったことを心から感謝します。私は子ども会を担当させて頂いています。お祈り頂いていました子どもクリスマス会も大変祝福されました。今年は特にインフルエンザの流行により、各学校が学年閉鎖や学級閉鎖等で人数が集まらないのではと心配していました。子どもクリスマス会の一週間前、一日をかけて子どもたちとともに真剣に祈る時を持ちました。学校や地域、また子どもたちが教えられた所をともに祈ることができました。しかし子どもたちは例年になく、誘うという意気込みがなく、いつもと変わらず過ごしているような気がしました。正直私は、今年の子どもクリスマス会の人数は、少ないだろうなと思っていました。しかし感謝な事に450名もの人たちが来会して下さいました。聖書の第一コリント二章九節に

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とありますが、この2009年私に、また家族に、教会に与えてくださった恵みは、このみことばがぴったりだと思います。年始では見たことも、聞いたことも、思い浮かんだことのない祝福を頂いた一年であった事を、神様に心から感謝しています。
さて2010年のために神さまから、私に与えて下さったみことばをご紹介したいと思います。それはローマ人への手紙12章3節〜5節です。

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

 2009年に与えられたみことばが「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」というみことばでした。さらに教会と自分自身が聖められて行く、その時満ち足りる祝福を頂く事が出来る、というこのみことばに支えられて一年間を過ごすことができました。今回この2010年に与えられたローマ人への手紙12章3節〜5節の前にある1節〜2節の所には、

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、 生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ 知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

とあります。「あなた方の体を神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」とか、「この世に調子を合せてはいけません」とか、「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。神は私とこの新城教会に聖さを求めていると信じます。今年五5月に行われた韓国リバイバルミッションのために、教会として多くの祈りをささげてきました。特に韓国という国と日本との霊的関係がどんなにあるのかという、「とりなしの祈りセミナー」を持ちました。そのセミナーはとても恵まれ、更にとりなしの祈りを広げてくださる時でした。特に今も心の中にとどまっていることばがあります。それは、韓国という国に対して「無知」であり「無関心」であったということばです。そのセミナーに参加して本当にその通りだと教えられました。今までも韓国に対して、日本が大きな罪を犯した事に対して祈ってきました。しかしまだまだ「無知」「無関心」であったことを痛切に教えられ、様々な角度からとりなしの祈りをさせて頂きました。そのセミナーで語られた『無知・無関心』ということばが、韓国リバイバルミッション後も、ずっと私の心の中に響いていました。そして今回2010年にあたり、神さまが私に語ってくださったみことば、ローマ人への手紙12章3節から5節のことばで、さらにまだ無知、無関心な所があると、教会と特に自分自身に語られたような気がしました。この3節のみ言葉を注目して見ましょう。三節の始めに「思うべき限度を超えて思いあがってはいけません」とあります。そして後半には「信仰の量りに応じてつつしみ深い考え方をしなさい」という事が書かれています。「全日本リバイバルミッション」「プレイズ出版」「ざわめき」「リバイバル聖書神学校」そして「新城教会」どれを見ても祝福され、この愛知県の新城市という小さな小さな田舎町にある教会が、よくぞここまで大きくなり、祝福を頂いたなぁと心から感謝しました。
 しかし今回みことばを通して、勘違いするな。錯覚するな。と教えてくださいました。ここまで祝福してくださった恵みは、私たちが何か、祈って祈って主から特別勝ち取ったかのように錯覚してしまい、思うべき限度を超えて思いあがっていると教えられました。今までたしかに多くの祈りがささげられてきました。毎週月曜日の夜愛知県民の森に出かけて行き、日本のリバイバルのために、新城教会のリバイバルのために、熱く祈りがささげられました。また主から霊的戦いを教えて頂き、様々な地域に出かけて祈り、解放の祈りがなされ、多くの集会、祈祷会、セミナーが行われてきました。その結果として、あの有名な阪神甲子園球場で「全日本リバイバル甲子園ミッション」という大集会を開催することができ、その後も全日本リバイバルミッションの働き、リバイバル聖書神学校、プレイズ出版、ざわめきなどなど多くの働きに拡大され、この教会もここまで祝福されて来ました。しかし私たちが祈って勝ち取ったのではない。3節の始めにある「思うべき限度を超えて思いあがってはいけません」というみことばから、思いあがるな。と教えてくださいました。「無知」「無関心」となってしまい、当たり前になっている。特別霊的戦いは、「他の教会、他のクリスチャンは目が開かれていない」と特権意識があり、自分たちが戦って日本にリバイバルを起こしてもらうんだ。日本のリバイバルを勝ち取るためには、霊敵戦いを知っている自分たちしかいないんだ」と、思うべき限度を超えて思いあがっていないか?と神さまが教えてくださいました。自分たちが勝ち取った霊的戦い、自分たちが祈って勝ち取った油そそぎ、と思うべき限度をこえてしまっていないかと教えられました。確かに祈ってきました。しかし思いあがってはいけません。信仰の量りに応じて、つつしみ深い考え方をしなさいというみことばのごとく、とにかくへりくだりなさい。霊的戦いは主が私たちに示し、担って下さったものである。主が下さった賜物、祝福であって、私たちが祈って勝ち取ったものではない。悔い改めて、へりくだって祈りなさいとしめしてくださいました。先ほどお読みした、ローマ人への手紙十二章四節五節には

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

とあります。私たちは「キリストの体であって各器官」です。しかし「日本の教会が一致するように」「新城教会が一つになっていくように」といつも祈っているにも関わらず、実は「まだ、あの教会は霊的に開かれていない」「あの人は霊的戦いがわかっていない」とその教会・クリスチャンを非難してしまっている。日本のリバイバルの最前線に出ているかのように思っているが、実は妨げているのは自分である。限度を超えて思いあがっていると思います。私たちに与えて下さった、ただただ祝福。私たちに担ってくださった働きである。私たちに任せて下さった一つの器官であるという事を覚えなくてはなりません。新城教会が特別ではありません。聖書に「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とあります。新城教会だけに語って下さっているのではなく、全ての人たち、教会に語られています。へりくだって考えなおさなくてはなりません。この祝福・霊的戦い、とりなしは私たちに任せて下さったものである。担われた私たちが一つの器官として、役割を担って行かなくてはいけない。祈り続けたから、圧倒的な聖霊の満たしがあったのではない。ただ主の恵み、一つの器官としての役割である。だから私たちが徹底的にきよめられ、お互いの器官をいたわりあいつつ、進んで行かなくてはいけない。一致しなさい。体を意識して働きなさいと語ってくださいました。
特に第一コリント12章22節では、
『体の中の比較的弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものなのです』

とあります。私たちは比較的弱いとみられる器官に注目し、一つになっていく事を考えましょう。教会の中で疎外感を一切感じることがないように。わたしたちは「思うべき限度を超えて思いあがってはいけない」また「信仰の量りに応じてつつしみ深い考え方をしなさい」とにかく主が今まで与えてくださったことに、ただただ感謝し、へりくだり、思いあがってはいけないという事を覚えましょう。とにかくへりくだって神の前に一つになること、お互いを尊重し、いたわり合い、特に兄弟姉妹の中でも苦しんでいる方、悲しんでいる方に目を注ぎ、愛あるものとなりましょう。また主の体である教会が一致し、日本の教会を愛し、一つになる事を求め祈りましょう。イエス・キリストが頭で私たちは各器官です。2010年は新城教会の各器官が一つとなり、健全な体として頂きましょう。元気な体は働くことができます。新城教会だけでなく、日本の教会、また住んでいる地域などなど、神があなたに担ってくださっている働き場所で主の働きをまっとうして行きましょう。あなたという器官が動くとき、周りも動き始めます。とにかくへりくだって、一つとなり、リバイバルのために前進していきたいと思います。2010年は一つの体が機能する年となりますよう、互いに愛し合って行きましょう。そして更にへりくだって、聖さを求めて行きましょう。


滝元 開副牧師

 ハレルヤ!感謝します。皆さまの熱きお祈りに支えられて、この一年を過ごす事ができ、今日、こうして2009年の終りの日、皆さんの前に健康で立つ事ができ、心から感謝します。一年間を振り返って、どんな一年間だったのかと思うと、色々なことがありましたが、毎日が喜びに溢れた日々だったな、と思います。主の恵みにより、私は教会の中では中高生会を担当させて頂いており、また、ザワメキの賛美の働きの中でも若者と行動を共にさせていただく事が多いのですが、そんな中での主の働きは、何をしていても、神様からの喜びと、そして、若い彼らの笑い声が絶えなかった、そんな一年であったと振り返って思います。中高生会の働きの中のひとつに「歌って踊ってビクトリー」という集会があります。その集会では2時間から5時間、ずっと踊り続けながら歌うのです。そういった集会をしよう!と言いながら、踊らずに見ているわけにいかないので、一緒にやります。文字通り「歌って踊ってビクトリー」という集会なので最初から最後までずっと踊ります。彼らが踊るのに合わせて、もちろん、私も、少しずつさぼりながらですが踊ります。私は今年で49歳になり来年は50歳を迎えますが、年はとるもので、日々衰えるものは衰えます。以前はそうではなかったと思うのですが、息が切れてなかなかついていけないことがあります。しかしこれはいけないと思い、彼らに一生懸命ついていくのですが、ただそれが本当に楽しいというか、神様のご臨在の中で喜びに溢れる集会となります。開催する度なのですが、主は激しく臨まれ、神様が彼らをガツッととらえる瞬間があります。そうすると本当に天が開かれ、若い彼らが喜び踊るのです。「神様がここに来て下さった!」という瞬間を何度も体験させて頂きました。また、そのような事は中高生の働きだけではなく、ザワメキの働きの中にも見させて頂きました。その行く先々、主のご臨在と喜びの中、どれだけの笑い声を神様の前に上げさせて頂いた一年であったかと思う位、神様の祝福を頂く事が出来て感謝でした。
では、2010年に対して与えられているみ言葉をお読みします。

伝道者11章1節
『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう』

そして6節
『朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』

 2010年のためにこのみ言葉が与えられました。神様により与えられた働きは、時としては水の上にパンを投げるような、意味があるのかと感じるような時があります。しかし、神様はそのような中にこそ、ご自身のみわざをなされるお方なのです。ですから、2010年は「パンを投げ続けなさい」と語って下さっているような気がします。
 今年は、ザワメキの働きで韓国ミッション本大会前後に、三度にわたり韓国に行かせて頂き本当に感謝でした。それも、若い兄弟達と一緒に行き、楽しい奉仕をさせて頂きました。一緒に行った若いメンバーは韓国で本当に人気がありました。ある教会に行くと「キャ〜」などと、普段のザワメキの集会ではあり得ないような集会となりました。ドラム・ベース・ギターで、それぞれのソロ演奏をするパートを作ったりしました。すると「キャー」というのです。大スターを前に卒倒しそうなほど、キャーキャーと「これがザワメキか?!」と思うような集会もありました。ある集会では、ドラムのM兄弟を目当てに、小学生や中学生が一番前にずらりと並び、最初は賛美していたのですが、そのうち携帯を持ちだして、何をするかというと、ムービーでずっと彼を撮っているのです。集会にならないなぁ、と思うのですが、そんな事を通しても、神様は国と国の壁を崩す働きをされたりして、神様は何を用いるかわからないな、と思います。
しかし、そのような表面的なことだけではなく、日本が過去に韓国に行った現実を知らなければいけない、という思いが与えられ、戦中日本の兵隊が使っていた刑務所に行きました。そこは今博物館になっているのですが、独立運動のために励んだ韓国の方々を、とらえて刑務所に投獄し、拷問をし、痛めつけ、さらには死刑する処刑所まである所なのです。その博物館は実際使用していた牢獄に、蝋人形で、その時の様子をリアルに再現していて、ずっと見ていくと日本人がどんなことをしたのか、過去の現実を目の当たりにすることになるのです。同行した若い彼らも、本当に心を痛めて祈りました。涙して「イエス様ごめんなさい。この日本人の罪を赦して下さい」と、その現実を受け止めて祈り、その上でのザワメキの働きをさせて頂きました。
神様がなされる働きは、まるで水の上にパンを投げるような働きかもしれませんが、その中で「わたしはそこに働く」とおっしゃって下さっているような気がして、ひとつ一つの働きを進めさせて頂きました。ですから「キャー」とか言っていると「これは何になるのかな」という気持ちにならないわけではありませんが、霊的な世界では、主の大きな勝利が打ち立てられていることを信じています。韓国のある田舎の教会で奉仕をさせていただきました。そこには中高生がとても大勢おり、そして、中高生である彼らはとても熱心祈っておりました。彼らの祈りは「主よ…!」という、一般的韓国教会の祈りという感じではなく、「主よー!」と、声のトーンが上に上がるような祈りを、中学生や高校生の子たちが真剣にしているのです。ですから天から聞いておられるイエス様も、「主よ…!」というよりも「主よー!」という声に耳がいってしまうだろうな、と思うような祈りを一生懸命している教会でした。五月、本大会の直前に行きました。五月に奉仕をさせていただいた時は、とても短い滞在時間でしたが、すごく喜んで賛美を受け入れてくださいました。そもそもザワメキのハングルバージョンを一生懸命に歌ったのですが、果たして、このハングルの歌は、通じているのかいないのか、それこそ水の上にパンを投げるような、“感情移入”のしようがないとところがありました。日本語ならば「ハレルヤ!素晴らしいー!」と心から言えるところが「ハレルヤ!ノーラオラ!」と、これ何だろうか?と最初は思っていましたが、それを一生懸命に賛美していく中で、彼らも一生懸命に歌って下さっているので、「これはひょっとして届いているのかな」と思いつつ賛美をささげさせて頂きました。そして韓国ミッション後、十月に再び同じ教会を訪れました。当日は、大きな垂れ幕までご用意くださり、すごく歓迎して下さいました。そして、その教会では、主はとても激しい聖霊さまの働きを見させて下さいました。その集会の中、日本では中高生の“歌って踊ってビクトリー”という集会をしていて、踊りの中に神様が働いて下さるから、そうする時に神様は天を開いて下さるという証をさせて頂きました。ザワメキの時間が終わった後、その教会の中高生のメンバーが前に出て賛美をリードして下さり色々な歌が歌われてきましたが、最後にザワメキの曲である「ダンシング」を歌ってくれました。後から聞くと、五月に行った時以来「ダンシング」をすごく喜んで下さって、その教会のテーマ曲となり、老いも若きもずっと歌ってきたというのです。そして、全会衆が本当に一生懸命踊りながら歌っていました。そんな時、私はドラムのM兄弟をつついて、「前に出て踊ってみな」と言うと、彼がと前に出て「ダンシング!」と踊りだすと、皆がワーッと踊りだし、文字通り一つになって激しく踊りました。その時に天が大きく開かれたことを感じました。そこは、国を越え、言葉を越え、人種や過去の歴史的事実も越えて、神様によって一つだ、というのをすごく強く感じました。これぞ、水の上にパンを投げた結果であることを感じました。パンを投げると「ずっと後の日になってあなた方はそれを見出す」と、主は言われるのですが、“ずっと後”がたった半年後に、「私が今こうして働いているよ」と、その会衆が一つとなって踊る姿を中で語っておられるように感じました。2010年は、もっともっと主が下さったパンを“水の上に投げる”福音宣教の働きをしなければならないと教えられています。

『朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』

と書かれていますが、イエス様は“気まぐれに”にパンを投げるようにとおっしゃっているわけではなく、「惜しまずにまき続けなさい」ということを語って下さっているような気がしてなりません。神様が下さったパンがそれぞれの手の中にあります。パンとは言うまでもなく「私は命のパンです」と言われたイエス様ご自身です。みことばのパンを、朝であるか夕であるか、どの場所であるかはわからないけど、あなたがたはそのパンを投げ続けなさい、と主は語っておられることを信じています。
 主が、この2009年の一つ一つの働きの中に本当に大きな喜びと祝福を与えて下さいましたが、この2010年は何をしようか、考えてみたのですが、人間的には、私は個人的には49歳となり、聖書から見ると“ヨベルの年”なのでゆっくり休む事が出来る年なのかな、と思ったのですが。しかしイエス様はそのような中でも、“種をまき続ける働き”をこの年にしなさい、と語って下さっているような気がしてなりません。主にあって「水の上にパンを投げる」2010年とさせて頂きたいと願っています。


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