ニューイヤー・ワーシップ・メッセージ

2010.1.1(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

 ハレルヤ!2010年、新年明けましておめでとうございます。しかし何がおめでたいのか、よくわからないところもあるのですが・・・。けれども、こうして新しい年を、皆さんと迎えることが出来、心から感謝しています。

 昨晩はここでカウントダウン聖会がありましたが、大変恵まれた聖会でした。
私たちは、何気なく「明けましておめでとう」と挨拶するのですが、その意味は「主の年2010年」という意味です。この季節に、何故1月1日が設定されているのかというと、それは聖書から来ています。365日の内、どこで区切ってもよいはずですが、この時期に区切られているのは何故かというと、イエス様の誕生日が12月25日とされていますが、聖書を見ますと、イエス様がお生まれになって八日目に割礼という儀式を受けました。その時から「イエス」という名前で呼ばれるようになりました。

 西暦はいつを新年として定めたかというと、イエス様が生まれてから八日目、すなわち、「イエスと呼ばれ始めた日」を新年としたのです。多く日本人が今日は神社に行ったりしていますが、日本が西暦を採用しているという事は、イエス・キリストの名前により一年を始めているのに他ならないのです。
 「主の年、2010年おめでとうございます、イエス・キリストのお名前によって、2010年を始めます!」と、隣近所の方々に新年のご挨拶をやり直して下さい。

 今日は雪が降りましたが、皆さま方がこうして教会に集まって下さり、心から感謝しています。今朝起きたら大変雪が降っていまして、「今日は誰も来られないかもしれないな…」と心配していましたが、大勢の方々が集まって下さり嬉しく思います。今日はこの新年聖会が終わりましたら、バプテスマ式があります。「1月1日にどうしてもバプテスマを雪の中で受けたい」という方々がおられますので、後からご紹介します。
 また、午後4時から、新年PPHがありまして、韓国からキム・ウヒョン監督ご一行、十数名が来て下さいます。今お迎えに行っていますが、主がこの年を祝福して下さると信じています。

 昨晩、6人の牧師たちがメッセージを語って下さいました。この新年礼拝において私は、先生方のメッセージを短くまとめて、皆さんにお伝えする役割があります。また私自身が主から受けているみ言葉を、皆さんにお伝えします。もちろん皆さんお一人一人にも主が語って下さいますから、そこにあてはめたら今年一年の主の約束が、明らかになると思います。一年が、主によって導かれるように祈っていきたいと思います。神様は過去・現在・未来を、現在形でお持ちですから、心配しないで主の前に出ていきたいと思います。

 昨晩、トップバッターで語ってくれたのが、私の父である滝元明牧師でした。彼は今年81歳になるのですが、今でも現役です。「死ぬまで頑張る」と言っています。人間、死んでからは頑張れないのですが、そんな中で彼が今年導かれたみ言葉というのが、エステル記4章13節〜16節でした。これは、エステルに語られた言葉ですが、エステル記には神様が出てきません。神の名前は全く出てこず、ただの物語のように思えるのですが、エステル記のすごさというのは、歴史の背後に神の支配がある、という事です。
 エステル記4章13節から16節、

『モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」エステルはモルデカイに返事を送って言った。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」』

 イスラエルの人々は当時ペルシャに捕えられていたのですが、ある時、ペルシャに住むユダヤ人を皆殺しにするという、法令が作られたのです。その時、ユダヤ人であったエステルが王に直訴し、ユダヤ民族が助かったという物語がエステル記です。
 実はこのエステルという人物は、王妃として王宮に住んでいましたが、彼女自身もユダヤ人でした。それで彼女は、自分の命を張って、ユダヤ民族を助けたというのが、エステル記のテーマです。
 その中で、モルデガイというエステルのおじさんが、彼女に語った言葉が、「あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこの時のためであるかもしれない」と語りました。
 彼女は偶然が偶然を呼ぶような形で王妃となりました。彼女は初めは奴隷のような身分であったのが、国の妃にまで登りつめた存在でした。ですから沈黙さえを守っていれば、自分の命は助かったはずなのですが、しかし彼女は命を張って民族を助けたのです。
 この所から教えられる事は、一人一人の人生に「偶然は無い」という事です。ここにあるように、「あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこの時のためであるのかもしれない」と、私たちがこの時代に生きているのは「この時のためである」のです。
 誰にでも、エステルと同じような瞬間が、必ずあるはずです。神の時の中に生きているということを意識して生活しましょう。この時エステルは、「私は死ななければならないのでしたら死にます」と、神の前に命を張ったのです。

 昨日の明牧師の話では、彼はこの箇所にたいへん感動したそうです。「私は死ななければならないのでしたら死にます・・・」父は今年、81歳ですから、多分20年以内には死ぬと思うので、「別に感動する事ではない」と息子としては思いましたが、81歳でも彼は命をかけて「主に仕えていく」と宣言しておりました。
 私達も、イエス様のために、命をかけるような人生でありたいと願います。もしかしたら、この時代に生きているというのは、「この時のためであったのかもしれない」という、大きな事を、今年主は計画しておられるのではないか、と期待しています。

 二番目に登場して語ったのは四元雅也先生でした。彼が引用した聖書箇所は、第一コリント6章20でした。ここで、「あなた方は代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体をもって神の栄光を表しなさい」という言葉から語りました。大変素晴らしいメッセージでした。

 日本人には“汚れをはらう”という考え方があり、そのために初詣に行くと語りました。一年最初の日に、厄を落とし、汚れを清めてもらい“すっぴん”にしてはじめよう、という気持ちでいくわけです。
 けれども、日本人が考えている“汚れを清める”というものと 聖書の“汚れが聖められる”とは、全くレベルの違う話だと語りました。
 日本のお祓いなどはどのようにするかというと、竹竿の先に短冊をつるしたようなものを持ってきて振り回し、「ハイ、いっちょうあがり!」という感じですが、あんなものでは実際、塵も払えません。
 しかしイエス様は私達のために十字架にかかり、命を張ってくれたのです。“代価を払って買い取られた”というのは、イエス様が一度だけこの地上に来て、私達の罪の身代わりとなって死んでくれたのです。命を捨てるほどに私達を愛してくれたのです。
 罪の赦しには、必ず犠牲が伴うのです。もしも、私がだれかから一万円借りて、返せなくなり、誰かが私を赦してくれるなら、赦しとは私に一万円を請求しない事が赦しです。
 「許してあげるよ」と言っても、後から、「一万円返して」と言えば赦しにはならないわけです。“赦す”というのは、一万円を損しなければならないのです。
 聖書を見ると、「罪を犯したら、その報酬は死だ」とあります。人間に罪があれば、死ななければならないのです。人間の法律でも、罪を犯したら死刑がある位ですから、神の前に罪を犯したら、人間が死ぬというのは当然かもしれません。
 では“死ぬ”という立場の人間が、赦されるとしたら何が必要かというと、同じ価値が払われる必要があります。赦すためには誰かが、身代わりになって死ななければならないはずです。
 イエス様の死は、何と、私達の罪の身代わりであったのです。という事はどうでしょうか。私たちは“代価を払って買い取られた”存在なのです。イエス様は私たちの為に、命を張ってくれたのです。私のために命を捨ててくれたのですから、自分の体をもって神の栄光を表しなさい、と聖書は語っているのです。
 今年一年、忘れてはいけないのは、私達は代価を払って買い取られた存在だと言うことです。イエス様が私達のために、罪の身代わりとなって十字架にかかって死んで、よみがえって下さった、という絶大な犠牲のゆえに我々は生かされているのです。
 ですから、我々は自分の体をもって、神の栄光を表す使命があるのです。我々が主のために生きるのは、当然な事だと思います。このメッセージは、打ち合わせをしたわけではないのですが、明牧師のメッセージを受ける形となりました。「私は死ななければならないのでしたら死にます」とエステルが語った究極的な意味は、イエス様が私達の罪の身代わりとなって死ぬほど愛してくれた、だから私達も命をかけて主の栄光を現わすために、今年も生きるんだ、と決断をもって一年を始めていきたいものです。

 三番目に岡本信弘先生がメッセージを語って下さいました。彼が今年一年のみ言葉として導かれていると紹介したのは、詩篇91編14節〜16節でした。

『彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』

 「彼が私を愛しているから、私は彼を助け出そう」
 私達は、“彼”イエス様を愛しています。何故なら、聖書の教える神との関係は、決して恐怖の関係ではないからです。日本の神々はよく拝めば神になるけれど、放っておくと鬼になる存在です。「ということは、初めから鬼じゃないか」と、私はいつも言うのですが、聖書の神と人の関係は“愛”です。ちょうど、親が子供達に愛を与えるのが、無条件の愛であるのと同じです。
 昨年は私に、二人目の孫が生まれました。小さい頃から知っている私の娘が、「母親なんかできるのか」と思いましたが、意外とやっています。夜中に何度も起きて、ミルクを作ったり、お乳をやったり、「頑張っているな・・・」と思います。今までは「ちょっと起きて」と言っても「いやだ」と言っていたのに、自分の子供には無条件の愛をかけているのです。腹を痛めて産んだので、ご主人と一緒になって、私たちから見たらままごとのようにも見えますが、真剣に子育てをやっています。無条件の愛をかけているわけです。
 人の親でもそうするなら、神が私達を愛してくれないはずはないのです。命まで捨てて下さったのですから、私達もその方の愛に答えるのです。私達と神様との関係は愛の関係です。
 その愛の関係があるならば、「あなたを助け出しますよ」と語られています。それはギブ・アンド・テイクの関係ではありません。「お前が俺をよく拝んだら助けてやるが、拝んでくれなかったら鬼になるぞ!」という関係ではないのです。「愛しているから」助け出してあげますよ、と語られています。
 イエス様を愛していたら、助け出して下さるはずです。教会の中では、新しい年が始まっても、心が重い人もいるかもしれません。「まだ、私の問題は解決していない…今年はどうなるんだろう」と、暗い気持ちで新年聖会に集った方もいるかもしれません。
 しかし、主を愛しているならば、必ず、助け出して下さいます。聖書はそのように約束して下さっているのです。

 メッセージの中で、アブラハムとヨセフの人生を引き合いに出して、語られました。アブラハムは75歳の時、主から呼び出されて働きにつきました。また、100歳の時に子供を得ました。そして“神の友”また“ユダヤ人の父”とも呼ばれる、大きな使命を頂きました。
 時々私達は「私は年をとってしまったから、やることはない…」とか、「自分には能力がないから」などと言い訳をしやすいのですが、そういう事を今年は言わないようにしましょう。75歳から、アブラハムは人生の本番が始まったのですから。
 またヨセフは奴隷としてエジプトに売られました。ヨセフ物語を読むと感動し、涙が出てきます。彼は奴隷の身分でしたが最終的には、何とファラオの側近となりました。これは、エジプトの歴史を見ても事実です。奴隷の身分から、なんとその国の最高責任者になりました。神様は、現在の立場とかバックグラウンドとか、そういうものは全く関係ないお方です。「私はこんな家に生まれてしまったから苦労している」など、自分の環境に関して不平不満を言うものですが、それらをすべて越えて、奴隷の身分でも一国の責任者にすることができた神を信頼しなさいと、語られています。年をとって隠居寸前のようなアブラハムを使って、世界の父とし、神の友と呼ばれる人物にしたではないか、と。
 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう」と語られています。

 “彼というのは自分の事だ”と岡本先生は話していました。「滝元順はイエス様を愛しているから、イエス様は滝元順を助けてあげますよ」と。あくまでも今年はイエス様との関係が愛の関係でありますように。その時、皆さんに素晴らしい祝福がもたらされると信じます。これは、今年一年、私自身の指針としたいと願っています。

 四番目を担当したのは、インターナショナルミニストリーを担当している、公畑フェルナンド先生でした。ルカ5章12節〜13節、

『さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。』

 新改訳第二版では「らい病」と訳していましたが、第三版では原語をそのまま訳しています。「らい病人」とは当時、一般の社会からも隔離されていて、自分がライ病人であることを現わす特殊な衣服があって、「私は汚れた者です」と叫びながら道を通りました。すると皆がその人をよけていくという、可哀そうな差別された存在でした。しかしそんな彼をイエス様はいやされたのです。
 
 彼がイエス様の所に行ってお願いした言葉が、「主よ、お心一つで私をきよくして頂けます」と語っています。
 しかし、この意味がどのような意味かという事を、昨日語ってくれました。彼の、神様に対しての言い方は、もちろんいやしてほしいという気持ちでイエス様の前に出ましたが、疑問形というか、不信仰な所があったというのです。それは「あなたが私をいやしてくれるという事は、本当にみ心なんですか?」というような、主に全幅の信頼を置いているというよりも、「本当にあなたは私をいやすのですか。もちろん、あなたが私をいやす事が出来る方であることは知っていますけど、いやされるのはみ心なんですか」という疑問と共にイエス様の所に出た、というのです。
 しかしそんな疑問を持っている彼においても、主はいやして下さったというのがイエス様の愛です。しかし一歩進んで、先生が語ってくれたのは、私達が主の前に出る時、「あなたが私をいやしてくれるというのは、み心なんでしょうか」という気持ちで出る事が多いのですが、そのような心で出る事はやめましょう、というメッセージでした。

 皆さんも今、色々な問題を持っていると思いますが、時々、神様の前に出て「あなたが私をいやしてくれるのはみ心なんでしょうか、み心じゃなかったらいやしてくれなくても…、み心なら・・・」というような、何か曖昧な態度で神様の所に出ていくものです。
 長い間、問題に苦しめられたりすると、「もしかしたら、この苦しみは神様からのプレゼントかもしれない」などという人がいます。時々、そういう風に言いたくなる気分はわかります。時々、大きな病を体験した方に出会うと、「私はこの病を感謝して、神様からの大きなプレゼントだと思っています」と言われる事があります。それを聞くと、ふっと、「ああ、素晴らしい信仰だ」と思ってしまいます。
 しかし神様は絶対に、苦しみとか悲しみとか病気を、皆さんにプレゼントするようなお方ではないのです。神様はとことん良いお方ですから、神様が「今年はあなたに大病をプレゼントしてあげよう。肺がんをプレゼントしてあげよう。脳腫瘍をプレゼントしてあげようか。胃がんをプレゼントしてあげようか」などとは、絶対にありえない事です。
 ですから、騙されないで下さい。神様は絶対に悪い物をプレゼントする方ではないのです。そのようなメッセージでした。エレミヤ29章11節、
 
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 ここで、神様が私達の将来のために立てて下さっている計画はどんなものか、それは「災いではなく平安を与える計画であり、あなたがたのために将来と希望を与える計画だ」と約束されています。
 今年、何か恐ろしい試練とか、病気とか、そういうものを神がプレゼントしようともくろんでいる事は決してないのです。
 昨日も語られていましたが、ヨブという男が大きな試練を受けましたが、その原因が誰であったかというと、サタンでした。神様がそれまでヨブを守っていたのですが、サタンが神の所に行っ、て「神様、あの守りを取り去って下さい」と願ったのです。それを願って守りを取り外し、それから悪魔はヨブに関わったという話をしていました。

 守りが取り外されるのには、それなりの理由があったのです。しかし神ご自身から、「今年はお前を守らないで、悪魔が入ってきてお前を苦しめるように」などというプランなど決してないのです。神様が私達によくして下さる事は、完全なみ心だと信じなければならないのです。「この問題が解決され、いやされるのはみ心ですか。み心なら私をいやしてくれますか」という態度ではなく、「神様が私に良くして下さるのは当然だ。主は、よいお方だ」と、そのような信仰を持って、主の前に出ていかなければいけない、という事です。
 ヨブも「主は必ず成し遂げて下さる!」と固い信仰に立って、主に信頼し始めた時から回復していったと昨日、語られました。主は私達によい計画を持っておられます。
 昨日、最後に「この2010年、あなたにとって奇跡の年になる。主が奇跡を起こして下さる」という宣言をしました。今年は皆さんにとって奇跡の年になります。アーメン!今日は夜、金先生も来ますから、こういう時にはみんなで大きな声で「アーメン!」と言いましょう。「そうかもしれないねぇ…」という、態度ではいけません。皆さんにとって今年は奇跡の年になります!この頃は私も韓国系の牧師になってきました(笑)。主は私達に、よいことをして下さるのです。その事を信じようではありませんか。

 次に、上條実先生が語ってくれたのが、ローマ書12章3節〜5節、

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

 ここから昨日は語ってくれました。特にこの中の『誰でも思うべき限度を越えて思いあがってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』という所から語ってくれました。
 新城教会がこの場所で始められて、50年になるそうです。何故なら、開牧師が今年50歳になるそうですが、彼が生まれた年に父がこの場所で伝道を始めたからです。通算すればもっと多くなると思いますが、本当に主が祝福して下さって、特に1992年に聖霊様がこの教会に訪れて下さり、霊的戦いが始まってから、教会は大きく変えられました。とりなしの祈りが始まり、教会も、リバイバルミッションも、プレイズも、霊的資産と共に現実的にも祝福されてきました。
 しかし、それを信仰によって勝ち取ったとか、熱心に祈ったからだとか、自分達の手柄にしては絶対にいけない、という事を語られました。本当にそうだと思います。これは全て主からの恵みであって、何故主がこのように環境を整えて下さったかというと、「使命がそこにあるから」主が扉を開いたのだから、決して自分達が努力して勝ち取ったものと錯覚してはならない、主からまかされた領域として、決して高ぶることなく、おごることなくつつしみ深くしなければならないという事が語られました。それはたいへん重要だと思います。

 人間は、弱い時には案外、神に忠実に従っていくのですが、力をつけてくると、「どんなもんだ。俺が頑張ったからこうなったんだ」と、高ぶってしまう傾向があるのです。今年、どんなに祝福があったとしても、それを自分の信仰が強いとか、努力したとかそんなものではなく、神の一方的な恵みであり、同時に、何故環境を整えてくれたかというと、あなたに主が使命を与えておられるからだ、という事です。
 もしも抱えていた問題が解決したならば、熱心な祈りとか、そういう事ではなく、主からの使命があるからこそです。特に、“キリストの体”という事が語られました。私達はキリストの体に属する各器官ですが、我々は一人では何もできない存在です。皆の賜物が一つになって、一つの事が出来るのです。教会は大きなファミリーです。幸せな人もいれば、まだ幸せでない人もいるかもしれません。しかし、喜びも悲しみも家族というのは共有するのと同じように、キリストの体は全ての問題を共有しなければならないのです。
 教会に来ておられる方の中で、誰か悩んでいたら、「可哀そうだねぇ」で終わってはいけないのです。自分の痛みとして、その方のためにとりなしていかなければならないのです。キリストの体、全ての器官が一つになる時、立ちあがって動き始めるものだ、と語られました。さらに主からのきよめを頂いて、一致を頂いて、立ち上がって進みなさい、と戒めのメッセージでありました。

 これは重要なメッセージです。祝福されても、おごり高ぶる事なく、主からの一方的な恵みであり、環境が整えられた事は、私達に大きな使命があることを確認しなければならないわけです。

最後に語ったのが滝元開副牧師でしたが、伝道者の書11章1節〜6節、

『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。 あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』

 私達の人生というのは、ある意味先が見えない人生であるのは確かです。この2010年も、経済はどうなるのか、国際情勢がどうなるのか、不安材料の方が多いのかもしれません。そんな時代のただ中に我々は生きているのですが、私達は聖霊によって支配され、神から愛されている者であることを、深く確認すると共に、私達の働きは、ここにあるように、「朝のうちにあなたの種をまけ、夕方も手を離してはならない」とありますが、『水の上にパンを投げよ、ずっと後の日になってあなたはそれを見出そう』と言われています。

 “水の上にパンを投げる”とはどういう意味でしょうか。それは全く無駄になるような気がします。しかし、水の上にパンを投げると誰がパンを食べるかというと、魚やプランクトンが食べたりして、養分となり最終的にはそれが魚を肥やし増やして、人間の所に戻って来る循環があるわけです。
 水の上にパンを投げるというのは、一見無駄なように見えるかも知れませんが、私達の食卓に上がる魚が、もしかして、自分が何年も前に水の上に投げたパンが関連しているという事もありえるわけです。
 時に、私達の人生の中で「これは無駄かもしれない」という働きもあります。ある意味、教会の働きというのは、形がある働きではありませんから、「ちょっと無駄ではないのか」という事も時々あるのかもしれません。また、クリスチャン生活は、「これは無駄ではないか、神様に仕えるというけれど、見る事は出来ないし、これは無駄じゃないですか」などと感じてしまう時があるのかもしれませんが、実は、聖書の法則というのは「朝のうちに種をまけ、夕方も手を離してはいけない、どれがうまくいくかわからないからだ」と語っているのです。
 これらのみ言葉から今年は“惜しまずに、投げ続ける、働き続ける”、“継続”という事を語られました。
 時々私達は「もう諦めようか」と思ってしまいますが、あくまで継続しなければならないという事を教えられるわけです。
 ある意味、新城教会を整えて下さったのは、諦めないで戦い続けてきた、これは決して自分の栄光ではなく、主が私達に使命があるがゆえに、先が見えないような戦いであったけれど、戦い続けてきたゆえに主が祝福を与えて下さったと思います。私達は、見えたらやってもいいよ、という所がありますが、信仰の世界というのは、先が見えない所があるのかもしれませんが、惜しまずに働き続けていく、という長期戦の視点を持たなければならないのです。

 この六人の先生方のメッセージを全体的につなげてみますと、(これは私の理解で語っていますから、今先生方は「違うんだけどな…」と思われているかもしれませんが)後に、文章にしたものが手渡されますから、それで見て頂きたいと思いますが・・・。
 ひとつの流れがあるのではないかと思います。今年に関して指針があると共に、将来に向けても“継続”という事に関しても、主が示唆を与えて下さっている事は、素晴らしいです。
 
 最後に、私自身が今年導かれている聖書のみ言葉は、礼拝の時にも語らせて頂きましたが、開先生の言葉を受けるような形で示して下さっているのではないか、と思います。第二列王記18章28節〜34節、

『こうして、イスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」こうして、イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たちに命じて言った。「兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。」
戦車隊長たちはヨシャパテを見たとき、「あれはイスラエルの王に違いない。」と思ったので、彼を取り囲んで戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。』

 私は年末にこの箇所からお話しをさせて頂きました。一人の兵士が何気なく矢を放った時、一番倒したいと願っていた敵の首領に弓矢が当たった、という所から、“何気なく放つ矢”が目標を射抜く年になると導かれています。
 主は今年、何気なく水の上にパンを投げるような働きの中で、私達が射抜かなければならない目標物を、聖霊の導きによって射抜く年になりますよ、と語られているような気がしています。
 ですから今年は何気なく、また無駄なように見える働きでも、主の前に忠実にやっていきたいと願います。あれがうまくいくか、これがうまくいくかわかりませんが、もしかしたら二つともうまくいくかもしれません。私は期待しています。主がきっと新しい事をしてくださると。何が目標かわからないけれど、何気ない働きの中で、敵が打ち破られていく、そんな年になるのではないかと期待しています。

 今週の月曜日の夜、私は愛知県民の森祈祷会に行きました。この祈祷会がいつからどのようにして始まったかというと、今週の水曜主日礼拝でもお話ししましたが、20数年前、新城教会において、若い奥さん方が癌でなくなったり、私の家内がどんどんやせて30数キロになり、「次に死ぬのは私の家内か・・・」と不安になりました。
 また上條牧師が変な咳をし始め、調べると背骨に腫瘍があるかもしれないという事でした。一度にそのような事が教会内に起こりました。みんな「祈っても聞いてくれない」という不信仰に陥って、教会は本当に暗くなりました。
 その時主が私に、「県民の森に行って祈りなさい」と語られました。「山に登って祈れ」と言われた気がしましたが、私は真夜中に一人で山に登って祈るような勇気があるものではないのですが、それだけ追い込まれていたのです。自分でおにぎりを二つ作って、熱いお茶を作って、リュックサックの中に聖書も入れたのですが、「どうせ暗くて読めないだろう・・・」と、聖書を出しておにぎりとお茶だけ持って、祈りに山に行きました。
 その頃私は、霊的戦いについては、これっぽっちも考えていなかったのですが、それだけ悪い事が起きると、「もしかして・・・」と思いました。それでその夜、悪魔・悪霊どもに立ち向かう祈りをしたのです。「出ていけ!」と。
 すると突然、真っ赤な顔をした天狗が目の前に飛び出てきました。私はその後、どうやって家まで帰って来たのか全く覚えていません。
 翌朝、そのことを話すとみんなに馬鹿にされて、「夜中にひとりでそんな所に行って叫んでいれば、そういう気持ちにもなるよ」と言われました。
 私は天狗を見て、しっぽを巻いて逃げたのです。しかし「負けてはいかん。リベンジしなければ」と思って、翌週、私一人だと怖いから仲間を誘って同じ山に、もう一度祈りに行きました。「今度は絶対負けない」という気持ちで行きました。「また赤いのが出てくるか」と思いましたが、天狗が出るどころか、その晩はとても恵まれました。
 「何が天狗だ、すごく恵まれるじゃないか」という事で、それから県民の森祈祷会が始まったのです。そしてその延長線上で聖霊が注がれ、霊的戦いも始まったのです。その頃、私の家内はすごく痩せていて朝も起きれず、いつ死ぬかという感じでしたが、だんだん体力が戻ってきて、上條先生も痩せてかまきりのようでしたが、だんだんと太ってきて、慶応大学病院で見てもわからなかった病気ですが、いやされたのです。
 今から考えてみれば、もしかしたらあれは癌の悪霊との戦いだったのかも知れません。今週の礼拝ではそういうテーマで語らせて頂いたのですが、今週の県民の森祈祷会はたいへん恵まれました。「聖霊の風が吹きますように!」と祈った時、突然すごい強い風が森全体に吹き、賛美と祈りが終わると風がピタッと止まりました。
 その後一瞬でしたが、寒い中に熱い風が吹いてきたのです。まるで遠赤外線の暖房器具の前に立ったかのように、電子レンジに入ったかのように内側から体が熱くなったのです。一緒に祈祷会に行ったS君も、「体がふわっとした」と言っていました。

 私は感謝しました。今年、主は勝利を与えてくれるのではないかと期待しています。県民の森祈祷会は、二人の方が癌で亡くなって、皆がショックを受けてぺちゃんこになった時から始まったのですが、今年は日曜日に語ったメッセージのように、主が大きな勝利を与えて下さると予感しています。

 最後に一つ話して終わたいと思いますが、私はもう一つのみ言葉を今年は導かれています。次の機会に詳しくお話ししたいと思うのですが、神様が人類を造った時にエデンの園に置いたのですが、そこには二本の木がありました。どういうものかというと、ひとつは“命の木”もうひとつは“善悪の知識の木”です。これは、創世記の2章9節から見ると、

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』と書かれています。そして2章15節〜17節を見ると、神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

こう語られました。ここには、「命の木」と「善悪の知識の木」があり、神様はどの木からでも取って食べてよいけれど、「善悪の知識の木」からはとって食べてはいけない、と言われました。しかし、アダムとエバはそれに手を出してしまったのです。何で手を出したかというと、そこには悪魔の誘惑がありました。「とって食べてごらん、目が開かれて神様のようになれますよ」という誘惑にのったのです。
 「善悪の知識の木」というのは、ちょっと理解ができない木です。善・悪はちゃんと区別できたほうがよいと思われますし、何故神様は善悪を区別する実を取って食べたらいけないと言われるのか・・・、と。
 けれども考えてみれば、善・悪を区別できるのは人間だけです。動物は善悪という概念自体がないです。
 この、木の実を取って食べた後、人類は自分が裸だということを知りました。裸で恥ずかしいと思ったわけです。では、なぜ区別出来たかというと、善悪という概念に目覚めたからです。“善悪の知識の木”これは別名“知恵の木”とも呼ばれています。人は神のようになれる、その事に心を動かされ手を出したのです。善・悪というのは勿論、善と悪を区別する事もあるのですが、聖書の善・悪という表現が“右から左”すなわち、“全幅”という意味があるそうです。
 そうするとこれは、「全知全能」という意味になり、人は「全知全能になりたい。神のようになりたい」という気持ちから、悪魔の誘惑に乗ったのです。
 結果的に人類は何を受け取ったかというと、「それを取って食べたら死にますよ」と言われたように、死ぬようになったという事です。

 それが何を意味するかというと、“命の木”への道が塞がれたのです。命とは、神様ご自身です。二本の木の意味するところは、「神に全幅の信頼を置くのか」、それとも、「自分の知恵に頼っていくのか」の選択でした。
 今年、私がもう一つ導かれている事とは、「自分の知恵や悪霊的な知恵ではなく、全幅の信頼を神において生きる」と言うことです。
 人間が全知全能になりたいと願い、受け取ったのは「死」とは、まさに本当ではないかと思います。

 今週日曜日にもお話ししましたが、たとえば癌という病気でも、とても複雑なメカニズムがあるそうです。癌の遺伝子の配列とすごいパターンがあって、簡単には解析できないというのです。ヒトゲノム計画という人間の遺伝子を解析するためには、10年かかったそうです。しかし遺伝子の配列はわかったけれど、役割はあまりわかっていないそうです。
 それで今度は、癌のメカニズムの遺伝子情報を解析しようとしているらしいのですが、この先100年、200年、どれだけかかるかわからないと言うのです。それは複雑で極めて多い情報量だというのです。それは人類と癌との知恵比べだと、テレビでやっていました。
 人間の知恵、知識、科学が進んで今まで分からなかった遺伝子のレベルまで見抜いてしまったのです。しかしこれはある意味、開けなくてもいい箱を人間が開けてしまった事を意味するのではないでしょうか。
 ゆえにその結果として、人類は新たなる戦いに巻き込まれているのかもしれません。知識を得てしまったがゆえに、結局、神への全幅の信頼から離れ、自分の知恵で生きていかなければならなくなる・・・・。しかし人間の知恵には限りがあるわけで、神の深い知恵を全て見抜くことなどできないのです。結局、神への信頼を失った人類は、どうにもならず死んでいくという、悪いパターンがあるのではないかと思うのです。

 科学が進み、医学も進み、遺伝子情報まで解析出来るような時代になった半面、知ってしまったがゆえに、開けなくてもいいふたを開けてしまったがゆえに、結局、自分でやらなければならなくなって、「そら見ろ、できないじゃないか・・・」と、結局、行き着く先は全てを解析できず死んでいく、その道しか無くなってしまっているのが現状ではないかと思われます。

 神様が知恵の木からではなく、命の木から実を取って食べ、生きていきなさい、とは“神に全幅の信頼を置いて生きて下さい、自分の悟りに頼って生きて行ってはいけません”という警告のような気がしてならないです。
 しかし罪のゆえに、命の木の実を食べる通路がふさがれてしまったのです。しかし聖書はすごいです。旧約聖書から新約聖書というのは、何千年もの開きがあるのにもかかわらず、新約聖書の最後、黙示録22章の結論が何であるかというと、「命の木の実を取って食べる事が出来るようになる」とすごい結論なのです。黙示録22章13節〜14節、

『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。』

 クリスチャンとは、一度は道をふさがれた、いのちの木の実を食べる権利が回復された者達です。
 人間が、自分が神になろうとし、知識を得たことにより、結局、自分の首をしめる結果となりました。しかし、イエス様の十字架と復活によって、何と、もう一度命の木の実を取って食べる権利が回復されたのです。自分の知恵や悪霊の知恵ではなく、神の知恵100パーセント生きていけば、そこに必ず命があります、と主からみ言葉を頂いているような気がします。

 また機会があれば、もう少しこの事についてお話しさせて頂きたいと思いますが、2010年が始まりましたが、人間の悟りや知恵で生きるのではなく、神の知恵100パーセントで生きていきたいものです。
 いつも私はカウントダウンメッセージを、預言的にまとめるのですが、(私の考えも入っていますし、預言ではないと思いますので、皆さんが修正して頂きたいと思いますが)、全体を、次のようにまとめました。


2010年預言的メッセージ

 エステルがペルシャ帝国に住んでいたのは、ユダヤ人を助けるためであったことを、思い出しなさい。あなたは、エステルと同じように神の深い計画によって、今、日本に存在しています。そして、今年はその目的がはっきりと現されるように、熱心に祈りなさい。

あなたは、わたしの十字架の死と、復活によりにより、代価を払って買い取られた存在です。自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

年を取っていると言ってはいけません。何も出来ない、といってはいけません。アブラハムが75歳の時、わたしは彼を呼び出し用いました。ヨセフのことを思い起こしなさい。彼はエジプトに奴隷として売られましたが、エジプトの総理大臣にまでなったではありませんか。わたしは愛する者を救い、高く上げ、誉れを与えます。どんな場合も、わたしを呼び、わたしを求めなさい。

そして、神にとって不可能はないと固く信じなさい。
わたしがあなたのために立てている計画は災いではなく、「良いもの」です。あなたがみこころを求めるなら、今年あなたは奇跡を体験します。

今までわたしが新城教会で行ってきたことは、あなた方の努力や熱心さによってもたらされたものではなく、「あなた方に任された領域」であることを知りなさい。ゆえに、自分たちが特別だと思ったり、高ぶってはいけません。弱さを持っている人たちの痛みをにない、自分の痛みとしなさい。人に弱いと見られる部分が、わたしにとっては重要だからです。昨年よりもさらに聖くなりなさい。一つとなりなさい。キリストの体が一つとなるときに立ち上がり、歩き出します。

ある時は何のために働いているのか、解らないときがあるかも知れません。しかし、あくまで戦い続けなさい。後にその理由がわかる日が来ます。
おしまず、水の上にパンを投げなさい。今年は、あなたが何気なく放つ弓矢が、敵の首領の急所に命中するのを見るでしょう。人の知恵に頼らず、神の知恵によって歩みなさい。そこに命があるからです。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

第一コリント2章9節
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

このようにまとめましたが、今年主が、私達にこのようにして下さると信じます。最後に一言、祈ります。

 ハレルヤ、父なる神様。み名をあがめ、心から感謝します。2010年が始まりましたが、あなたご自身が私達と共にいて、私達を導いて下さる事を心から感謝します。2010年を歩むにあたって、指針となるような神のみ言葉を与えて下さった事を、心から感謝します。主よ、どうかこの時を祝福して下さいますように、このスタートを祝福して下さいますように。イエス様のみ名を通して、勝利を宣言して祈りをみ前におささげします。アーメン!


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