「神の力といのちによって生きよう」


2010.1.10(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

創世記 2章15節〜17節
『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。新しい年が始まってすでに10日も過ぎてしまいました。この分で行くと、一年もあっという間に終わりそうです。先週からは皆さんも、忙しく働いておられる事と思いますが、こうして週の初めの日に、教会に集まって神のみ言葉を聞き、主を賛美する事が出来、心から感謝します。
 
 先週は韓国から金監督一行が来て下さいました。先週の礼拝メッセージは、中々、預言的な素晴らしいメッセージでした。心から感謝しています。そのメッセージの中で私が一番印象に残ったのは、イサクが、父アブラハムの堀った井戸を再度掘りましたが、ペリシテ人たちが来て、井戸を埋めてしまいました。それでもまた新しい井戸を掘ると、再び敵が来て井戸を奪いました。しかしイサクはあきらめないで、井戸を掘り続けた人であった、リバイバルも同じだと話されました。
 リバイバルは一度聖霊様が井戸を掘って下さっても、悪魔が来てそれを埋めるというのです。しかし決して諦めず、リバイバルの井戸を掘り続けなければならないと教えられました。
 特に、「父が掘った井戸を埋められないように、世代を越えてリバイバルの井戸を掘り続けましょう」というメッセージに感動しました。実にそうではないかと思います。日曜日の礼拝は、一週間のうちに悪魔によって埋められたリバイバルの井戸を、もう一度掘り返して水が出る状態にし、一週間を始める役割があります。「井戸を埋められたかな・・・」という人は、是非とも掘り返して下さい。また、「昔はリバイバルに燃えていたけれど、今はそういう思いが少なくなった」という人は、確実に井戸が埋められていますから、今年はリバイバルの井戸が掘られるように祈らなければなりません。

 新しい年が始まりましたが、この中には受験生の方々もおられ、その方々は正月もなく真剣に勉強をされていると思います。
 しかし私達にとって一番大事な事は、一生懸命勉強してよい学校に入る事も大切かもしれませんが、それ以上に、神が私達に与えて下さっている使命に生きる事が一番重要です。「この人は、このために使おう」と、神ははっきりとした目的を持って地上に送りだして下さっているのですから、それをつかまえることが最も大切です。それぞれの人に、神様は目的をもっておられますから、ある時には道を変えられることがあるかもしれません。自分の願いがかなうこともあるし、かなわないこともあるかもしれませんが、最終的には、神の計画通りに生きていく事が、人生にとって最高の幸せだと思います。しかし、受験のために努力しておられる人たちが多くおられますから、是非とも祈ってあげて下さい。
 
 私は学生時代、あまり勉強しませんでした。今になると「もう少し勉強すればよかった」と思いますが、小学校三年生までは案外勉強ができましたが、四年生からできなくなりました。人間というのは面白い物で、一度つまずくとどんどんつまづくというか、私はテスト勉強をした事がありませんでした。テストというのは「学校で教えてくれたものを、どのくらい覚えているのかチェックするものであり、家に帰って勉強するのはおかしい」という、へんなポリシーあり、家では勉強しませんでした。ですから、高校三年生まで、テストに出る問題を“山かけする”という勉強方法を知りませんでした。
 高校三年生の時、友達が「今度は絶対にここから出る」というヤママークをノートに書いていたのを見て、「何だ、それ?」と聞くと、「ここを重点的に勉強すればいい」と言うのです。「そんな事があるのか」と言うと、「馬鹿だな、おまえ。こういう所をちゃんと勉強すれば、テストはできるんだぞ」と教えてくれました。しかしちょっと遅かったです。
 私の人生を考えてみて、牧師の息子として生まれ、やがて神のために働く事を主が望んでおられるのかな、と思います。一つ一つの出来事を通して、主がみ心の道に導いて下さった事を心から感謝しています。
 
 それと共に、預言的に生きる事が重要だと思います。聖霊様の力を頂いて、預言的に生きていこうではありませんか。受験生の方々は究極的には、何を一番勉強すればよいのかというと、「テストに出る一枚分だけ」を真剣に勉強すればいいのです。それ以外勉強しても、あまり効果はありません。何しろテスト用紙一枚分勉強すれば受かりますから、主から預言的な勉強法を教えてもらって下さい。私の人生も、案外そういう事が度々ありました。主に祈り、無駄足・無駄骨を折らず、人生を歩んでいきましょう。
 今年一年も、聖霊様の知恵によって預言的に生きるならば、必ず人生は祝福されます。

 今日のタイトルは「神の力といのちによって生きよう」とつけましたが、今年は神の力と命によって、人生を送りたいものです。今朝は神の力と命によって生きる方法を学びましょう。

 実は、今日読んで頂いたみ言葉は、初めの人間のアダムとエバが神から受けたひとつの警告です。
 新しく学校に入学すると最初に、ガイダンスがあり学校生活の案内があります。リバイバル聖書神学校も、入学した最初の日にガイダンスがあります。「リバイバル神学校で守ってほしい事柄」を、有賀校長が話すわけです。今年の四月からは、山崎ランサム先生が校長になられます。私の身分は、「舎監」と言って“小使いさん”なのですが(その身分が私は一番好きです)いつもガイダンスでは、「独身の方々は、この三年間は恋愛をしないで勉強して下さい。」と言われます。時には、「私は神学校へ結婚相手を見つけに来た」と言う人もいます。しかし神様に仕えるために三年間学ぶわけで、恋愛はちょっと横に置いて真剣に聖書を学んで下さい、と注意が語られたりします。ガイダンスで語られる事柄は、大変重要です。

 アダムとエバが神様によって作られて、最初に受けたガイダンスは重要であり、人類全体に対する警告として受け取った方がよいと思います。その時、何と言われたかというと2章15節〜17節、

『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

 一番注意されたのが何であったかというと、園には多くの木があって、どの実も取って食べていいけれど、「善悪の知識の木」からは取って食べてはならない、それを取って食べると「あなたは必ず死ぬ」と言われたのです。

 案外、この言葉は理解出来ない言葉だと思います。「善悪の知識の実を取って食べたら死んでしまう」とは何でしょうか。
 この頃の社会の状況を見ていると皆、善悪の基準がはっきりしていないのです。国の一番の問題は道徳の基準が毎年変わり、人々が何が良い事で、何が悪いのかわからない状態であると思われます。皆、自分勝手に生きていて、事件も多く、2010年もどうなってしまうのか不安です。
 私は「何で、善悪の知識の木の実をとって食べたらいけないのか・・・、むしろ、そんな木の実があれば、国民全員に食べさせた方がよい」と思います。そうしたら「これがよい事で、これが悪い事・・・」とわかりますから。
 しかし神様は「善悪の知識の実を取って食べたら死ぬ。食べては駄目だ」と言われたのです。と言う事は、「何が良い事で何が悪いか」を判断する力がもらえる木、とはちょっと意味が違うような気がします。何しろ、神様はそんな事を最初の人類に伝えたわけです。
 エデンの園には重要な二本の木がありました。創世記2章9節、

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』

 エデンの園には、見るにも美しく、食べたらおいしそうな木の実が満ちていた、というのです。
 人間は、つきつめれば何が一番大切かと言えば、食べる事さえ出来れば生きていけます。一番重要な事が何かと言えば、「食べる事」です。別に、仕事をしなくても、周りに食料さえあれば生きていけるわけです。私達は、日本に生まれ、食べものが沢山ある事を感謝しなければいけないのです。日本において、食べものがないという人は少ないです。隣の韓国も食料が豊富です。韓国の食事は日本と違い、色々なおかずが出ます。全部食べきれなくて大体は捨ててしまうそうです。韓国の人たちが捨てる食事で、北朝鮮の人達をすべて養う事が出来るそうです。それは、日本も同じです。沢山の食物がある事について、私達の感覚は麻痺しているのです。これは感謝しなければならないのです。神様は人類に、十分すぎるほどの食料を初めから用意しておられました。

 園の中で二本の木が、特に目立つ重要な木でした。一本目は“善悪の知識の木”。もう一つは“命の木”でした。この二つの木を、神がある意味、重要な木として対照的に作られたようです。「善悪の木から取って食べては駄目ですよ、死んでしまうから」と言われました。
 しかし残念ながら、人間はやるなと言われたら、余計にやりたくなる性質があり、悪魔の誘惑によって善悪の知識の実を取って食べてしまったのです。神様は「それを食べたら死にますよ」と言われていましたが、その後何が起こったかと言うと、創世記3章22節〜24節、

『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

 何と、人が善悪の知識の実を取って食べてしまった事により、命の木に至る道がふさがれてしまったのです。ここに、少し不思議な言葉が出ています。「見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知るようになった」と。
 「あれ、聖書の神様は一人のはずなのに何で“我々の一人”なんて。神々ファミリーがいるのか。聖書の神様も、ウルトラマンファミリーのように大勢いるのかな」と感じてしまうのですが、聖書の神様は“三位一体の神様”です。この表現はそれを現わしているとも言われます。またへブル語の用法で、主語は複数でも動詞は単数だそうです。それは、神がとてつもなく大きいお方で、お一人だけど単数で現わす事ができないほど、偉大なお方だ、というのを現わしているとも言われます。
 いずれにしても、私達の神様は偉大です。人間の知識を越えたお方です。しかし人類は、その方の言いつけを、始めから破ってしまったのです。その結果、命の木への道をふさがれてしまったのです。
 命の木の実があれば、人は永遠に生きる事ができたようです。それがどんなものだったのかわかりませんが、もしも今でも命の木の実があったら嬉しいです。スーパーマーケットに行くと“命の木の実”というコーナーがあり、その実を正月などに家族で一斉に食べると、皆、若返ってしまうのです。命の木の実には、注意書きがあり、「くれぐれも食べすぎには注意して下さい。赤ちゃんになってしまいますから」などと書いてあるのかもしれません。
 何せそれを一つ食べるだけで、若返ることができるなら、私も若返ってみたいと思います。そうすれば昔のように髪も生え、肌もきれいになるだろうし、皆その実を食べて若返り、幸せに生きていく、それは素晴らしい知らせです。
 しかし何と、善悪の知識の木の実を取って食べてしまったゆえに、命の木の実を取って食べることができなくなってしまったのです。そこに至る道をふさがれてしまい、そこから人類の不幸が始まるわけです。

 聖書とは、すごい書物だと思います。これは一冊ですが、実は「66冊」からなっており、40人以上の筆者がいて、時代的にも、書かれた言語も地域もまちまちです。書き始めから、書き終りまで千数百年かかっていると思われます。創世記はモーセが書いたのか、誰が書いたのかよくわかりませんが、紀元前千数百年前に書かれた書物です。
 そして最後に書かれたのが、ヨハネの黙示録です。始まりから終わりまで千何百年もかかっていて、何十人もの筆者がいて、言葉も地域も全部ばらばらでの書物だったのが、一冊にまとめられたのが聖書です。だれがこれをまとめたのか、それは「神がまとめた」と聖書は語っていますが、もしも誰か編集者がいたとしたら、すごく頭がよい人だったと思います。
 創世記は、昔は全然関係なく、どこかに転がっていた巻物でした。そこに書いてあるのが、「命の木の実を取って食べる事が出来なくなった」でしたが、最後の書、黙示録には、22章13節〜14節、

『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。』

 これが聖書の結論です。私はいつもこの箇所を読んで感動するのですが“アルファ、オメガ”とは、これはギリシャ語の最初と最後の文字ですが、イエス様が最初であって、最後です。創世記においては、命の木の実を取って食べる権利を失ったわけです。エデンの園という人類が最も生活しやすい場所から、追い出されてしまったのです。
 しかし最後に書いてあるのは、自分の着物を洗って命の木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は幸いだ、と。「もう一度、命の木の実を食べる事が出来る」というのが、聖書の結論なのです。

 私達がイエス・キリストを信じる時に、何が起こるのかと言うと、一度ふさがれてしまった命の木への通路が開き、命の木の実を取って食べる事が出来るという、素晴らしい結論です。そしてその中心におられるのが、イエス様なのです。
 ヨハネ5章39節、
 
『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです』

 ユダヤ人達は、自分達の遺産である旧約聖書の中に、神ご自身が救いの道を用意されていると信じて、その秘密がどこかと、一生懸命研究していました。
 しかし、イエス様が現れて、「あなたがたは旧約聖書の中に永遠の命があると信じて、一生懸命研究しているけれど、その聖書が語っているのはわたしの事ですよ」と言われました。

 聖書の中には、三本の太い柱があると思います。最初は、創世記の中で「命の木の実を食べる権利を失った」という「失望の柱」です。けれども最後は「それをもう一度食べる事が出来ます」という「希望の柱」が立っています。しかし、ド真ん中に「真理の柱」があります。それが何かと言うと「イエス・キリスト」です。イエス・キリストを通して一度失った、命の木の実を食べる権利が回復される、と教えているのです。
 と言う事は、我々の人生の中で中心に立てなければならない柱は“イエス柱”です。“命”といは色々な意味があると思いますが、命にあふれる人生を一年間保ちたいと思うならば、“イエス・キリスト柱”を真ん中に据える事が重要だという事です。

 私達は人生において、色々な事をしなければいけませんが、何を優先するのかで人生の結果が変わってきます。今、皆さんの人生の中で最も優先順位が高い事柄はなんでしょうか。「私は、仕事が最優先順位です」とか、「子育てです」「趣味です」など、色々あるかもしれませんが、それらを今日はわきにおいて、イエス様柱を真ん中にどんと据えるなら、神の力と命によって生きる事が出来るのです。

 しかし先ほど扱った、「善悪の知識の木の実」を「取って食べたら死ぬ」とは、腑に落ちず、疑問が残ります。
 考えてみれば、多くの生物がこの世に存在しますが、善悪の基準を判断できる生物は人間だけではないでしょうか。ほかの動物は、善悪の概念さえありません。人間だけがそういう概念を持っているわけです。

 私の家の周りには、かつて野良猫が多くいて、夏など窓を開けておくと、野良猫たちがこっそりと家に入ってきて、楽しみにしていた魚の干物などをかっぱらって行きました。私は家の中に忍び込んだ野良猫に度々、出くわした事があります。野良猫は魚をくわえながら私を見て、「やばい」と思うのか逃げていくのです。私は逮捕してやろうと思って追いかけていくのですが、敵もさるものすごい勢いでちょっとしたすきまから逃げてしまうのです。本当に頭に来て、ちょっととっちめてやりたいと思いました(動物愛護の方には怒られそうですが)。
 しかし次の日、犯人の野良猫に出会っても、彼は全く悪びれていないのです。私と出会っても、涼しい顔で私の前を素通りします。それにまた腹が立ってしまいます。

 考えて見れば、動物は悪い事、良い事の判断力がなく、人間だけが善悪の判断をします。皆さんも善と悪という判断基準を常に持ちながら、生活しておられると思います。奥さんとご主人の間もそうです。私は家内に対して“善・悪”という二種類のものさしを持ち、家内も同様に私に対して、善・悪ものさしを右手と左手に持って生活しています。そしてお互いにその尺度で測るわけです。「あなた、こんな汚い食べ方をして」などと測り、また他の行動でも「これは悪、これは善」と測りながら生活しています。

 クリスマスの時に「大切な君」という劇をしてくれて、中々感動ものであり涙物でした。是非もう一度やってもらいたいと思います。人間はいつも善と悪という物差しを持って生活していて、それはよさそうですが、善悪の知識の実を取って食べた結果かもしれません。善悪を判断できることが人間にとって幸せかどうかは疑問です。猫や犬のように善悪がわからなければ、戦争や紛争、色々な事件もないかもしれません。物差しを持っているがゆえに相手のことを許せなくなるわけです。「あの人がやった事は絶対に許せない。私の物差しによれば100パーセント悪だ」という事になります。いずれにしても善悪の知識の実を取って食べたら死ぬぞ、と言われた事は事実なのです。

 実は、この善悪の知識の木にどういう意味があるのか、善と悪を決める事が出来るのは神様以外にはありません。人間がそういう尺度を持つと、よい結果にはなりませんよ、と神は言われたのです。人間の善悪の基準は曖昧で、すぐに変わってしまいます。その尺度で生きるなら、死に向かって行きますよ、という意味であったと思います。完全なる善と悪の基準を持っているのは神以外にはありません。という事は、“命の木と善悪の知識の木”とは、「神を選ぶか、それとも自分を神として、自分が善悪の基準となって生きるのかの選択」だったのです。
 私達日本人は、神々は信じていますが“絶対者なる神”は認めず、いわば自分自身を中心とする国民性を持っています。しかし、本当に幸せになるためには、自分が善悪の基準になるのではなく“命の木”すなわち、神ご自身、イエス様を中心として歩めば幸せに生きる事ができる、という事を物語っているのです。

 それと共に、“善・悪”というのがどういう意味であるのか、対立概念である表現は何を意味しているのかについて、ある先生がメッセージの中で“全て”という意味があると語っていました。「善から悪まで」というのは、端から端まで、“全て”を意味するというのです。そして“知る”とは、「できる」とか「支配する」という意味があるそうです。ゆえに、「全てを支配したいと願った」
 人類がどの場面で誘惑されたかというと、「全てを支配したい、全知全能になりたい、神様のようになれる」という場面で誘惑され、実を取ってたべたのです。その結果、人類は死の方向に向かってしまった、というのです。

 現代社会は知識がすごい勢いで増大している時代です。毎年毎年、今まで人類が五千年間に蓄積してきた知識量を新しく更新するような時代だと言われます。身近な例で言えば、携帯電話一つとっても、一年に何回も変わるので私は「新機種が出た、こんな新しい事が出来るのか・・・」と誘惑を受けてしまいます。今では、携帯電話一つあれば買い物も出来るし、電車にも乗れます。私は東京によく行きますが、新幹線に乗る時に窓口で切符を買いません。携帯電話で予約し、豊橋駅で携帯電話を機械にかざすと「ピッ」と音がして改札を通れるのです。東京に着いてからも、どこの駅でも改札で携帯電話をかざせば出る事が出来ます。お財布携帯、という機能です。便利な時代になったと思います。それはコンピューターネットワークシステムを背後に持った相当なハイ・テクノロジーだと思います。今ほど、知識が増大した時代もないのです。
 今年も、人類が今まで知らなかった知識を、数多く知るようになるのかもしれません。しかし、それは素晴らしく見えますが、知ってしまったがゆえに負ってしまう重荷も多いのです。私達が子供の頃はあまり知識がなく、そのせいか、あまり悩みませんでした。しかし、知識が増大してくると、やはり悩みが多くなります。皆さんの中でよく悩む人は、もしかすると頭がよいのかもしれません。知識が多いと悩みも深くなるからです。知識があるのもよいのか悪いのかわかりません。
 そもそも、人類が死の方向に向かっていったのは、自ら「何でも知りたい、何でも支配したい。全知全能になり神のようになりたい」と、善悪の木の実を取って食べた事によります。そこから不幸が始まったのです。

 善悪の木の実は、しばしば、ヨーロッパの絵画などではりんごに例えられています。皆さんの中で「アップル」というコンピューターを使っている人がおられるかもしれませんが、リンゴをかじったマークは「善悪の木の実をかじりました」という意味です。マックユーザーの方は、ある意味“善悪の知識の実を取って食べている”ようなものです(笑い)。

 本来は知らなくてもよい事を人類は知ってしまった、そこに、不幸の原点があるのです。
 去年私は、「癌と言う病が多くなってきているので、そのためにとりなして祈らなければいけない」と語りました。先日も癌についてテレビ番組でレポートしていましたが、癌の遺伝子はたいへん複雑な構造を持っていると言っていました。人間は、ヒトゲノム計画によって人の遺伝子配列を全て解析してしまいました。遺伝子の並びが何を意味しているかは少ししかわかっていないそうですが、遺伝子の配列はヒトゲノム計画で、スーパーコンピューターを使い、十年かかって全部読みとったというのです。ですから、人の遺伝子配列は知られてしまったのです。それは何かというと、神が人間のために書いた設計図です。それを人間は解読してしまったのです。それはすごい知識だと思います。
 しかし、先日その番組の中でやっていましたが、例えば、乳がん一つをとっても、多様なパターンの遺伝子配列があり、それを解読するプロジェクトが始まったそうです。しかし一度、人間が癌の遺伝子配列を解読した頃には、癌は人をあざ笑うかのように、自ら違った配列に変化するそうです。これは、人間と癌の知恵比べだというのです。それが「解読できるのですか」とレポーターが聞くと、学者は「それはわかりません。十年、二十年、いや百年以上かかるかも」と言っていました。
 ある意味、人間が知ったことにより、どうしても対応しなければいけない作業が多くなったのです。様々な領域で、今まで知られなかった事が知られてきましたから、知ったことによって、どうしてもそれらに対応しなければならなくなってきたのです。それで、人間が全て解読できるのかというと、それは無理なので、結局どこに向かうのかというと死です。ある程度は神の知恵と知識をかじる事が出来ますが、結局ふたを開けたものの、解明出来ないのです。一度ふたを開けたら、神は「あなたがふたを開けたのだから、自分でやりなさい」と言われます。しかし人間には出来ず、やがて自分で自分の首を絞める結果となり、死の方向に向かっているのが現代社会ではないかと思います。

 善悪の知識の実を取って食べたら死にますよ、というのは太古の昔に人に語られた言葉ではなく、正に、現代社会に語られている言葉のように思えてなりません。勿論私達は知識が増大している中で恩恵を受けている事は事実ですが、こんな環境の中で、私達クリスチャンが何に心をとめなければならないか、という事です。
 知識が増大した社会に住んでいると、どうしても、最新知識とかテクノロジーなどに心を奪われてしまいがちですが、「そこには命がありませんよ」と、最初に神は人類に警告を与えていたのです。
 どんな時代が来ても、私達の中心にすえなければならないのは、命の木である、天地宇宙を作り私達を作って下さった、イエス様に目を留めるべきです。ここから離れてはいけない事を教えられるわけです。
 正に、パウロと言う人はその事に深く気付かされた人物でした。第一コリント2章1節〜5節、
 
『さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。』

 パウロが何に気付いたのか、彼は当時最高の教育を受けた人で、知恵者中の知恵者のような人物でした。しかし彼は「知恵や知識に中心軸を置いていては駄目だ。そうすると、神の力は体験できない」と気づいたのです。
 ですから彼は一つの決断をしました。それが何かというと、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない事に決心した」というのです。
 彼は見かけは弱く恐れおののいているような、あまり精彩のある人ではありませんでしたが、働きは“御霊とみ力の現れがあった”というのです。
 彼の人生の秘訣が何であったかというと、彼の持つ信仰が人間の知恵に支えられず、神の力に支えられていた事でした。ですから彼も、その事を皆に伝えたかったようです。「あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられず神の力に支えられますように」と伝えたかったわけです。 

 現代社会でも同じだと思います。知識が増大して、色々知る事が出来る環境ですが、そのただ中で、人間の知恵や力によって支えられるのではなく、神の知恵によって支えられて生きる、それは、中心にイエス・キリストを置く事です。第一コリント1章18節から21節、

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』

 救われたというのは何を理解したのでしょうか。「こうなって、ああなって、やがて救われる」と理論的に全容は理解していなかったと思います。ただ、「イエス様があなたのために二千年前に十字架にかかって死んでくれたのです。イエス・キリストを自分の救い主として受け入れて下さい。イエス様がよみがえられた事を信じて下さい。そうしたら救われますよ」と、言われたわけです。
 普通なら、そんな事は「理にあわない、理解できない」と思います。しかし、何故、救いをそういう風にされたかというと、神は人間的な知恵や知識で説明のつく領域には救いを置かなかったというのです。人間が解析できる所には救いは置かなかったのが、神の知恵だというのです。
 我々が単純に、子供のように心を開いて「信じます」という告白のなかで、救いを受け取る事が出来る、これこそ神の知恵だというのです。それが何を意味するかというと、私達の信仰の中心は、知恵や知識ではなく、100パーセント神への信頼にあるのです。そうしたら神の力も体験できるし、人生は豊かになりますよ、と教えていると思います。

 今年一年間、私達には様々な仕事があるかと思います。皆さんも本当に忙しい中で働いておられ、私も忙しいですが、私以上に皆さま方はお忙しいと思います。会社で働いておられたら、多くの責任もあるし、たいへんなことはよくわかっています。しかし、どんなに忙しい中にあっても、人間の知識や知恵の領域を中心軸を置くのではなく、神に全幅の信頼を置いて生活しなければいけないのです。

 今年、私自身、教えられているみ言葉がこれです。ある意味、霊的戦いの働きも、人類があまりにも多くの知識のふたを、開けなくてもよい箱を開けたものだから、色々な領域に祈りを置かなければならないのだ゜と思います。
 しかし、私達は常に知識とか知恵を越えて、全幅の信頼を神に置く事が重要であると教えられます。今年、私自身が主から頂いているみ言葉の一つが、歴代誌第二の中の「何気なく放った弓矢がボスを一発で仕留めた」という所を導かれている、とお話しさせて頂きました。
 そのためには何が必要か。それは、私達が全幅の信頼を神に置く、“命の木の実”を選択し続ける事が霊的戦い勝利のために大変重要だという事です。

 命の木とは、まさしくイエス様ご自身でした。特に、イエス様が十字架にかかって死んでよみがえって下さった事によって、全人類の罪をあがなって下さいました。私達がその事を信じたら、命の木の実を取って食べる事になるわけです。それは、知識的にどうやって我々は理解すればよいのかわかりませんが、屁理屈を言わず、神の言葉として受け取っていく時に命がわきあがるのです。すでに皆さんの信仰の原点にそれがあると思いますので、今年一年間、そんな歩みをしていきたいと思います。
  
 今から聖餐式を行いたいと思いますが、ある意味、聖餐式というのは神秘だと思います。パンと、ジュースを食べ飲むという事ですが、私が子供のころの父の牧会スタイルはとても厳しい所があり、洗礼を受けなかったら聖餐式は受けられませんでした。今は、イエス様を信じ、信仰を共有する方は受け取って下さい、と私は言っています。
 けれども昔は、洗礼を受けなかったら「絶対に受け取らないで下さい」と言いました。私はバプテスマを受けていなかったので、聖さん式にあずかれませんでした。私は聖餐式に参加したくてしかたありませんでした。何故なら、昔は人数も少なかったから、一つのパンの分け前も大きかったし、ジュースもなみなみだったのです。それもちょうど、お昼ごはんの少し前にあるので、ブドウジュースの甘い匂いが呼び水となり、拷問のようでした。ですから私は「バプテスマを受けます!」と言って、食べたい、飲みたいばかりに洗礼を受けました。
 しかし聖餐式は神秘だと思います。何故なら、第一コリント10章14節〜16節、
 
『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

 聖餐式とは、イエス様が私達の罪の身代わりとなって、十字架にかかり死んでくれた事を「記念し、象徴する」意味合いがあります。
 先程言ったように、二千年も前の事で、見た事はなくても「イエス様が私達の罪の身代わりとなり、死んでよみがえって下さった」と、葡萄ジュースは血のような色をしていますから、「イエス様が十字架にかかって死んで下さったんだ」と、パンを見たら肉のかけらのようで「ああ、イエス様は私のために、肉が裂かれたんだ」と象徴的に思い出す、記念するという意味があります。

 しかしさらに一歩進んで、私達が祝福する杯は、“イエス様の血”にあずかる事でパンが“イエス様の体にあずかる事だ”というのです。それはちょっと信じにくい事だと思います。このパンはどこから買ってきたのか、多分、マルイチさんから安く大量に取り寄せたものだと思いますし、ジュースもそうです。少し前には、店の棚に並んでいたものが、「何でイエス様の血なの、肉なのか」と思います。けれども第一コリント十章では、「聖霊によって、信仰によって、み言葉の裏付けがあって聖餐式をすれば、イエス様の血だ、肉だ」というのです。そのメカニズムを解析して、と言われても、人の知恵の及ばない領域なので、信じるしかないのです。

 最近、何人かの方がバプテスマを受けられましたが、バプテスマというのは、水の中に入り出てくるだけですが、それには象徴的な意味あいだけでなく、それ以上に深い意味があるのです。イエス様の十字架と復活を、瞬間的に体験するのです。死んで、生き返るのです。「水の中に入って出るだけで、何で死んで復活するの。そんな事は信じられない」と言うかもしれません。それと共に、イエス様と同じポジションに立つことになるのです。
 イエス様がよみがえられた時、「私には天においても地においても、いっさいの権威を受け取った」と言われました。バプテスマを受けると、その権威を瞬間的に受け取ってしまうのです。「そんな事、信じられない」と言われるかもしれませんが、それらは神秘です。人の知恵では理解できないけれど、そこに神の知恵があるわけです。
 ですからこれからバプテスマを受ける方は、「もう少し知ってから」とか、「もう少し知識を得てから」ではなく、信仰によって行動する事が大切です。その時に、祝福を受ける事が出来るのです。

 聖餐式も同じです。イエス様の裂かれた体と肉、「イエス様ご自身と一つになることだ」と言っているのです。しかしその前提に、イエス様が語られた一つの言葉があります。それがヨハネ6章51節〜59節です。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。』

 この言葉をイエス様から直接聞いたらどう思われるでしょうか。彼は、「まことにまことにあなた方に告げます。人の子の肉を食べ、血を飲まなければ命がない」と言ったのです。
 「俺の血を飲んで、俺の肉を食べなかったら、お前達に命はないぞ」と言ったわけです。今まで、イエス様に従ってきたけど「これはちょっとヤバい人ではないか、まずい…」と思われないでしょうか。それで、6章60節に、

『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」』
六十六節
『こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。』

 「俺の血を飲み、肉を食べなければ命はない」と言われてもなお、イエス様に従って行く人はあまりいないと思います。しかし12弟子は従いました。やはりこんな所にも、人間の知恵とか経験を越えて、主に従っていかなければならなかった、「善悪の知識の木を選択するのか、命の木を選択するのか」の戦いがあったのではないかと思います。
 ある意味、私達の信仰生活もそういう面があります。「そんな事信じられない、大丈夫か・・・」と、聖霊様の働きや、色々な賜物を見ると「大丈夫かな・・・」と、時にはあるかもしれません。霊的戦いがこの教会に始まった時も、自分達の知識や知恵、経験で理解できなかったので、「これは大丈夫か・・・」と思ったのです。

 イエス様は、「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ命はない」と言われましたが、それは結局、イエス様の十字架と復活を意味していたわけです。そして、その後に与えられる永遠の命を意味していました。
 この聖餐式はイエス様の体と血を頂く、知識的には分からないけれど、そこに命があるのです。私はこの聖餐式を軽く考えていたのではないかと思います。そこには本来、命の木の実を取って食べるのと同じような意味合いがあるのです。知識とか知恵を越えて、信仰を持って神の前に出る瞬間です。
 末の時代、特に知識が増大した時代にあり、情報に左右されやすいですが、常に私達はイエス・キリストを中心にすえて、信仰によって神と交わり、命の木を選択して行かなければなりません。そして、イエス様の十字架と復活によって、もう一度、命の木の実を食べる権利が与えられると約束されているのですから、今年一年、あくまでも信仰により、イエス様を最優先にして歩んで行くならば、必ず、神の力と命によって生きる事ができます。そして、あなたは命の方向に向かって行のです。しかし、善悪の知識の実は今でもあります。それに向かって行く時に命を失い、死に向かうのです。

 教会も同じだと思います。命の木の実を選択しなければいけないのです。今年一年、命があふれる教会になる為に、キリストの体がひとつとなって働いて行きたいと願っています。最後に一言お祈りします。


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