「リバイバルを熱く求めよう!」


2010.1.17(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

使徒の働き 2章37節〜43節
『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。』

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日はこうして、共に礼拝を守る事が出来ます事を心から感謝します。今も素晴らしい聖歌隊の賛美を聞かせて頂きましたが、「沖に出ましょう」という賛美でしたが、今年は一歩進んで沖に出たいと心から願っています。全ての領域で前進しますように、心から祈っています。「前進したのは年だけだった」というのでは寂しいですから、全ての領域で前進するように願っています。

 新年早々、国内外でいろいろな事件が起こっています。先週はハイチで大きな地震があり、本当に多くの方々が犠牲になったようです。また、今日は15年前に阪神大震災があった悪い記念日です。
 実は、1993年に甲子園球場で日本のリバイバルを目指して、日本中のクリスチャンが集まり祈りました。それから二年後、その地域に大きな地震が起こるなど、誰も予想していなかったわけです。私は甲子園ミッションのために、あの地域で真剣に働きました。しかしその二年後、大地震が起こり、甲子園ミッションのスタッフたちは、同じ地域で救援活動のために働きました。地震が起こったその日、私たちはすぐに現場に駆けつけました。私たちが最も行動が早かったと思います。同じ地域で救援活動にあたりました。

 人生は突然、何が起こるのかわかりません。特に現代は不確定な時代です。しかし私たちは永遠の希望である神の手の中にあります。全てを支配しておられる神の中にとどまるなら、何があっても主は守って下さるはずです。天地宇宙を造られた神と共に生きる事は最も重要です。
 実は今日は、大変忙しい一日になります。午後からは賛美集会があります。皆さんも、心から主をほめたたえて下さい。賛美はただのカラオケなどとは違い、賛美の中に主が住んで下さるのです。賛美の中で主と出会う事が出来ます。
 また、今日の夕方、急きょ、韓国から30名近くの方々が来られる事になりました。その方々は世界中を回って、とりなしの祈りをしている方々のようです。夜はその方々のために霊的戦いセミナーを持つことになりました。八時から始まりますので、よろしければご参加下さい。

 昨年の韓国リバイバルミッションを通して、日本と韓国の間にあった壁が大分崩れたように感じます。それから交流が始まりました。お互いが共に祈り合う事はとても重要だとわかりました。その中で、普段では体験できない祝福をいただくようになりました。
 悪魔は色々な場所に壁を作り、人々を孤立させようとします。人間は、壁が出来るとその中で過ごす方が心地よくなり、その状態が普通になってしまうのです。しかし神は壁を取り払い、自由にして下さるお方です。 

 今日のメッセージのタイトルは、「リバイバルを熱く求めよう!」とつけました。先日も金監督が来られて、新城教会は日本のリバイバルに関して、神から使命をもらっていると語られました。リバイバルを求めて熱心に祈らなければならない、と語られましたが、私はそのメッセージを聞いて、もう一度、日本のリバイバルを熱く求めなければならないと思いました。

 リバイバルとは、「今まで停滞していた信仰の炎が、もう一度燃え上がる」事です。
 一般でもリバイバルという言葉を使います。「昔ヒットした曲がもう一度流行る」というのをリバイバルと呼びます。弱くなった火が、もう一度強くなる、というのがリバイバルです。
 しかしリバイバルにはもう一つの意味があり、それは地域に、国に、主が主権的に介入されることです。自ら降りて来られ、そこに住む人々を救われる現象を“リバイバル”と呼びます。
 特に、私達がリバイバルという言葉を使う時は、後者の意味です。主が日本に主権的に介入され、人々を救われるという意味合いで使っています。
 日本のクリスチャンの人口は多くありません。昨年はプロテスタント宣教が始まって150周年という記念の年でしたが、クリスチャン人口は1%以下という、悲しい現実です。お隣の韓国に行くと、クリスチャン人口20%、30%という街もあり、全体では20%位が、クリスチャンと言われます。民族的にも宗教的にも、背景が同じなのに何故、日本と韓国はキリスト教の受容率においては大きく違うのか、と言われています。日本ではクリスチャンになる人がたいへん少ないのです。福音が閉ざされています。しかし、神自ら、この国に力強く介入して下さり、リバイバルを起こして下さると確信しています。

 同時に、私達はそのために熱く祈らなければなりません。リバイバルは先に選ばれたその国で救われたクリスチャンたちの手中にあります。その国のクリスチャン達が、どんな祈りをするかによって、国の未来は変わるのです。
 今日読んで頂いた箇所は、初代教会にリバイバルが起こった瞬間を記したものです。弟子達が祈っていると突然、聖霊が弟子達に降りて来て、人々は聖霊に満たされました。その時、ペテロが人々の前に立ってメッセージを語りました。それまで人々にメッセージを語っても、全く通じなかったのが、突然、心にメッセージが届くようになったのです。そして何と、その日一日で「三千人」が「私はクリスチャンになります!」と決断し、弟子として加えられたのです。今まではいくら語っても人々の心は固く、閉ざされていました。人々は福音を受け入れなかったのですが、突然、心が開かれたのです。聖霊が注がれた時、街にリバイバルが起こったのです。これはまさしく、主がエルサレムに訪れられた瞬間でした。それは一度で終わったのではなく、継続し、拡大していきました。使徒たちによって、多くの不思議としるしが行われたと記されています。普通では決して動かないような問題が、神の霊によって動き始め、解決し、病は癒され、悪霊は追い出されるという現象が、どんどん広がって行きました。これはすべて神からの一方的な働きかけでした。

 この事が日本に起こるように、今年は真剣に祈らなければいけません。甲子園ミッションの前後の礼拝メッセージは、毎回、リバイバルばかりを語っていました。でもこの頃のメッセージのタイトルを見たら、あまりリバイバルを語らなくなりました。「私も、ちょっと火が消えたな・・・」と思い、これではいけないと感じました。私が「リバイバル」というタイトルでメッセージを語ったのが前回いつであったのか調べると、2007年に一度語っただけでした。もちろん内容は常にリバイバルを意識していても、積極的にリバイバルについて語っていなかった事を反省しました。やはり私達は、本気で、この国の救いとリバイバルを祈らなければいけないのです。
 聖霊様が私達の所に力強く訪れて下さるならば、今までいくら泣いてもわめいても叫んでも解決できなかった問題が、瞬間的に解決するのです。そのためには、リバイバルを熱く求めなければならないのです。使徒2章1節〜4節、

 『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 『天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。』とあります。
 一九九二年二月の事でした。愛知県民の森で祈っていた時、まさしくこの事が起こりました。甲子園ミッションの働きがうまくいかず、苦しんでいた時、一週間愛知県民の森に入って徹夜祈祷会を行いました。一週間、神の前に祈ったら、何か起きるのではないかと期待して祈り始めました。しかし、3日、4日祈ったら疲れてしまいました。けれども、「せっかく一週間と決めたのだから、最後まで祈り続けよう」という事で、最後まで祈り続けました。最初は30人くらい毎晩集まって祈っていたのですが、段々と人数がへり、最後の日にはたったの8人になっていました。毎晩、二時間、三時間と山の中でリバイバルを熱く祈っていたのですが、段々疲れてきてパワーも無くなりました。最後の夜は皆、疲れ切っていました。その夜の祈祷会のリーダーは私でした。リーダーには素晴らしい特権があります。それは、祈祷会の時間を長くも、短くも出来るという特権です。その夜は30分位祈ったら帰ろうと決めていました。誰も声を出して祈る人はいませんでした。30分くらいたったので、「さあ、帰ろう」と思っていた時、私が祈っていた場所から少し離れた所から、音が聞こえ始めたのです。「ゴォ―…」と。
 私は飛行機が飛んできたと思いました。「また飛行機か・・・」と思っていたら、声を出して祈っていなかった人たちが、声を出して祈り始めたのです。「主よ、リバイバルを与えて下さい!」と、熱く祈り始めたのです。
 私はそれを見て、少し腹が立ちました。「せっかく帰ろうと思っていたのに、声を出して祈ったら、帰れないじゃないか」と思った瞬間、その音が私達の所にかぶさってきたような感じがしました。すると、八人で祈っていたのですが、ほとんどの人が固いコンクリート上に倒され、動く事ができなくなってしまいました。私はあまりにも突然で恐ろしく、「おい、ここから逃げるぞ!」と言って、その場から逃げ出しました。
 しかしその波が、教会まで追いかけてきたのです。そんな事が起こったので、心当たりの人たちにすぐ電話して呼び出しました。夜中でしたが、皆、教会に集まって来ました。するとまた聖霊が注がれて、朝まで祈り続けたという体験がありました。
 甲子園ミッションには色々と困難があったのですが、それ以来、問題の山をブルドーザーのように押し切ってしまったのです。その時期は、自分であるようで自分ではないような感じでした。

 “聖霊によって始まった事は聖霊によって決着がつく”とありますから、あれは確実に、日本のリバイバルを祈っていた時に起こった事ですから、必ず決着がつくはずです。初めよりも、後の方がさらに優れたものが来るはずですから、もう一度、リバイバルに目覚めて祈るなら、必ず、主は壁を打ち破り、日本に勝利を与えて下さると信じます。
 
 黙示録21章1節〜4節には、究極的には主がこの地上に新しい支配を置かれる時が来るという終末の預言です。しかしこのみ言葉は、同時に、リバイバルの原則でもあります。

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

 やがて人類の歴史が終わり、神の支配がこの地上に訪れると預言されています。しかしこのみ言葉は、リバイバルの預言です。リバイバルとは、終末を待たずして、私達のただ中に天のエルサレムが降りて来る事です。主がリバイバルの霊を注いで下さるなら、何が起こるのか、ここで一番強調されているのが、「主が共に住んで下さる」という事です。天地宇宙を造られた神が来られるとき、何が起こるのか、『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる』と約束されています。

 人類の歴史は悲しみと涙の歴史です。人生は笑う事よりも、泣く事の方が多いのかもしれません。しかし、主が来て下さるならば“涙が拭き取られる”のです。悲しみから解放されるのです。私達の教会に主がもう一度激しく訪れて下さるならば、ここに悲しんでいる人は誰一人いなくなるはずです。そうなれば素晴らしいではないでしょうか。そこに「もはや死はない」とあります。クリスチャンには、基本的には死はないのです。何故なら、イエス・キリストを信じる者には、永遠の命が与えられているからです。もし、この地上の命が無くなったとしても、天で永遠に生きる事が出来るのです。ですから私達には、もはや死はないのです。
 また、悲しみ・叫び・苦しみもないというのです。悲しみ・叫び・苦しみが無くなる事は、主が主権を持って生活に介入される時に起きます。ですからリバイバルを熱く祈り求める必要があるのです。それが聖書のメッセージです。

 世界のリバイバルの歴史を見ますと、聖書の原則に従って行動した民の中にリバイバルは起こっています。その中で最も大事なのが、「祈り」です。人間には本能的に“祈りたい”という気持ちがわき上がってきます。それは、クリスチャンである・なしに関わらず、わいてくるものです。「私は生まれてからこの方一度も“祈りたい”と思った事はない」という人はいないと思います。何かあれば、やはり人は祈りたいと願うのです。
 そもそも正月は、初詣に8000万位の人々が押しかけると言われます。何をしに神社に行くのかといえば、祈りに行くのです。それはやはり、どこかに祈りを聞いて下さる本物の神がおられることを、人は本能的につかんでいるからです。
 今日はセンター試験日ですが、普段では信心深く見えない高校生達が“困った時の神頼み”のようで、色々な神社に行って拝んでいます。

 “祈り”は神と交わるために、どうしても必要な道具です。今年は祈り深い一年でありたいと願います。その中で特に、“リバイバルのために熱く祈る”というテーマを外してはいけないのです。ですから、今年は新城、愛知県、日本、そして世界のリバイバルを含めて熱く祈りましょう。

 イエス様は十字架にかかられる前、深く祈られました。特に、人類の罪の身代わりとして、あがないとなる前はイエスさまにとって最も大きなテーマを祈られました。それがヨハネ17章11節に記されています。

『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』

と祈られました。また、21節〜23節、

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』

 イエス様が十字架にかかられる前に祈ったテーマは、「皆が一つとなるように」という事でした。“一つとなる”という事は大切です。
 “協力”という漢字は、「小さな力を十字架の元に三つ集めると、大きな力になる」と誰かが話していましたが、小さい力でも一つに集めると、普通では引っ張る事が出来ない荷物を引っ張る事が出来るわけです。
 イエス様は十字架を通して、何を成し遂げたかったかというと、「皆が一つとなる」と言うことでした。そのことを祈られたのです。
 特に、「彼らが全うされて一つになるために十字架にかかって死ぬのです」と言われました。私達が「心を一つにして」リバイバルを祈るなら、その祈りを聞いて下さるのです。家庭も、家族メンバーの心がひとつとなっていないと問題が多いです。家族が心を一つにしていたら、家庭はうまく行きますし、多少問題があっても乗り越える事が出来ます。しかし心がばらばらだと、うまくいきません。やはり、ひとつとなる事は重要なテーマです。

 教会も同じです。皆が色々な方向を向いていたらうまくいきません。ひとつの思いで祈るとリバイバルが起こります。リバイバルのために、心を一つにして熱く祈る事は大きな力を生み出します。

 「全うされて一つとなるように」とイエス様は祈られましたが、“全う”とは“完成する”とか“十分成長する”とか“成人・大人になる”とか“円熟の極みに達する”“欠けた所が無くなって整えられる”という意味があります。
 実にイエス様の“十字架を前にしての祈り”が実現したのがいつかというと、ペンテコステの時に実現しました。使徒の働き2章43節〜47節を読みますと、

『そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』

 彼らの上に聖霊が注がれた時に、人々の心に恐れが生じたとあります。それは「怖い」というのではなく、神に対する“畏敬の念”です。神に対する絶対的服従です。先週も“命の木を選択するのか、善悪の知識の木を選択するのか”とお話ししましたが、弟子達が神に対し、絶対的信頼と服従を持って仕えるようになったのです。そして、『彼らは心を一つにして宮に集まった』と記されています。“宮”とは教会です。皆が、心を一つにして教会に集まって祈るようになったのです。
 考えてみれば、1992年に聖霊が注がれた時にも、新城教会に祈りの運動が起こりました。誰も「祈りましょう」とは言わないのに、皆、教会に集まり、真剣にリバイバルを祈った思い出があります。きっと、ペンテコステの時もそのようだったのだろうと思います。我々が心を一つにして一つのテーマを祈る事は重要です。それにより主も毎日救われる人々を仲間に加えて下さったのです。また、多くの不思議な業と、あかしの奇跡が行われたのです。
 
 今年、この教会に、普通では絶対にあり得ない奇跡が起こると信じます。去年も奇跡を起こして下さいましたが、今年はさらに、“不思議としるし”が多く起きると信じます。皆さんはそのように信じておられますか?アーメン!!
 心を一つにして、自分の利益ではなく、リバイバルのために祈るならば、必ず起きます。
 日本の政治も教育も駄目になりました。どこにも望みがなく、苦しんでいる方々が多くいます。天が引き降ろされ、主がご介入して下さる以外に、解決の方法はありません。人々が“涙から解放される”ためには、クリスチャンが自分のためではなく、リバイバルのために熱く祈らなければならないのです。そして、主はひとつになる事を強く願っておられます。

  イエス様の十字架は、一度分裂したものを、もう一度一つにする働きです。エペソ2章14節を見ると、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』

と、書かれています。
 イエス様が十字架にかかり、よみがえった事により、何が行われるようになったのかというと、「二つのものが一つになって、隔ての壁が打ち砕かれるようになった」とあります。“隔ての壁”とは、“中の壁”とか“仕切りの壁”という意味で“何かを仕切っている壁”です。それは、イエス様の十字架を前にしての祈り、すなわち、『彼らが一つとなるためです』というテーマです。
 実は、この「二つのものが一つになる」とは、どのような意味を持つのでしょうか。今、語ったように、心を一つにして、リバイバルのために熱く祈る事を意味します。
 しかしそこには、さらに深い意味があるのです。そして、リバイバルのためにはその点について熱く祈る必要があるのです。では、何を熱く祈らなければいけないのでしょうか。
 
 実は私は、今週の火曜日からイスラエルに八日間ほど行きます。多分私にとって、10回目、五年ぶりのイスラエルになると思います。
 しかし、今回のイスラエルの旅行は、ただの観光旅行ではなく、今までの旅の中で最も意味があるかもしれないと期待しています。何故なら、イスラエルに着いてから、三日間エルサレムで集会があるからです。それがどんな集会かというと、金監督が主催する韓国の方々が中心となる集会ですが、韓国人だけでなく、日本人も加わり、アメリカからも来られ、また、ユダヤ人でクリスチャンの方々も集まるからです。この四カ国が心を一つにして、「リバイバルを熱く祈る」集会です。私はその集会でメッセージを語らせて頂くことになっています。是非とも、私のために祈って頂きたいと思います。ツアーの中で賛美をしたり、集会をした事はありましたが、色々な国の人たちと一緒になってリバイバルのために祈るという事は、やったことがないので期待しています。

 イエス様はイスラエルでお生まれになったのですから、さぞかし、イスラエルはクリスチャンが多いだろうと思われるかもしれません。イスラエルはキリスト教の“メッカ”だろうと。けれども、ある意味において、世界で最もクリスチャンが少ない国かもしれません。
 イスラエルの人口は現在、750万人と言われますが、その中のユダヤ人クリスチャンは、1万人くらいだというのです。率としては、0.1%位であり、日本よりも低い位です。何故ならば、ユダヤ人達はイエスさまが救い主であるとは信じていないからです。今でも、他から救い主が来ると信じて待っているのです。
 私の知り合いがイスラエルに長く住んでいて、ユダヤ人になりたいと願って帰化を申請したそうです。帰化する時には色々とインタビューがあり、(ここにも海外から来られ日本国籍を獲得された人もおられるかもしれませんが)、かなり厳しいらしいのです。彼は、言葉も、文化もよく知っていて、色々な面でユダヤ人になっても大丈夫な人です。
 しかし最後の質問が何であったのかというと、「あなたはイエス・キリストについてどう思うか。彼が救い主だと思うのか、それとも彼を拒否するか」という質問であったそうです。
 「あなたはイエス・キリストを信じるか否か、それを答えろ」と言われたそうです。彼はクリスチャンなので、「勿論、私はイエス・キリストを信じます」というと、「それじゃ駄目だ、お前に国籍はやらない。イエス・キリストを信じないと宣言したら、国籍をやる」と言われたそうです。そんな事を言われたから国籍を蹴って帰って来た、と言っていましたが、それほどにたいへんな国なのです。

 何故クリスチャンが少ないのか、信じられないです。世界中からのクリスチャン観光客が集まっていますが、実際のクリスチャンは少ないのです。
 もしも皆さんがイスラエルに行きたかったら、3月にリバイバルミッションのイスラエルツアーがありますから、是非参加して下さい。3月10日からのツアーは、私が再び団長で行く事になっています。私は一月にも行くので、3月はあまり行きたくなかったので、皆さんにはあまり勧めなかったのですが、信弘先生が、「頑張って集めて下さい、新城教会でも案内して下さい。」と言われましたから、私も行くことを決断してお勧めします。3月のツアーは、1月よりももっとよいものになりますから、是非ご参加下さい。

 イスラエルに行くと聖書がよくわかるようになります。イスラエルのような危ない所に何で行くのかと、言われるかもしれません。しかし日本のような平和ボケしている所から、ちょっと緊張感のある所に行くのは、人生にとってプラスだと思います。弾などは飛んできませんから安心して下さい。アラブ人もユダヤ人も観光ルートで戦争すると、自分達が生活できなくなってしまいますから、観光ルートにはめったに弾は飛んできません。戦争するのは戦争する場所があります。それはガザとか、ヨルダン川西岸です。時たま、ほんのりと“火薬のにおい”がするときがあって少し緊張感がありますが、そこに行ったら真剣に祈らなければいけない、と思わされます。

 イスラエル旅行というのは、行きの飛行機の中では皆、寝込んでいますが、帰りは皆聖書を読んでいます。何故なら、聖書が楽しくなるからです。普通は聖書を読んでも、地名や場所はわかりません。エルサレムやベツレヘム、ナザレなど、「ナザレはうどん屋だったかな・・・」と思うくらいです。しかしそれがはっきりとわかりますから「うどん屋さんはこの村の名前をつけたのか!」とわかり、また、「エルサレムはこういう町か」と、聖書を読むと匂いもわかります。聖書の世界がリアルに響いてくるのです。
 
 もし、聖書がみな、日本で起こった事件ならばどうでしょうか。「今日、豊橋でイエス様が生まれました」とか、「イエス様が茶臼山で、十字架についた」とか、そういうものであればよくわかります。それと同じです。イスラエルに行くと、聖書がわかるようになるのです。一度は「行ってみたいな、イスラエル」。
 リバイバルミッションツアーは大変お安くなっています。また、私が一緒に行けば楽しくしますから是非、行きましょう。

 実は、何故私達がクリスチャンになることが出来たのかというと、それには理由があります。
 旧約聖書を読んでみますと、本来、救い主は誰のために生まれたのかというと、ユダヤ人達の為に生まれたのです。ユダヤ民族の救いという視点で旧約聖書の世界は展開しています。勿論、もっと深く、くわしく旧約聖書を読んで行けば、それはユダヤ人だけではなく全世界の救い主として来られたことがわかりますが、ユダヤ民族の救いは、旧約聖書のメイン・テーマです。

 私のツアーの後に、聖書の事をもっと詳しく解き明かす、山崎ランサム先生のツアーが控えています。私よりずっと深い聖書の世界がわかります。私のツアーは浅いですが、彼のツアーは深いですから素晴らしいです。
 なにしろ、救いの中心はユダヤ人でした。けれども何と、ユダヤ人たちは、永遠の命をもたらす素晴らしい救いを受け入れず、「こんなもん、いらない」と、せっかく与えられた救いを放り投げました。どこに放り投げたのかというと、国の外に放り投げたのです。そのおかげで、私達はおこぼれをもらったと言うか、救われることが出来たのです。
 今のイスラエルを見ればよくわかると思いますが、自己中心と言ってはいけませんが、彼らは民族意識がたいへん強い国民です。という事は、もしも彼らがイエスさまを受け入れていたら、自分たちだけで独り占めしたことでしょう。
 けれども彼らが救い主を拒否したために、異邦人である我々に救いがもたらされたのです。ローマ11章11節〜12節、

『では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。』

 なんと、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだ」のです。先日も、この箇所から金監督さんがメッセージしていました。「何故、私達が救われたのかと言えば、ユダヤ人達が救いを放り投げた結果」です。
 ここで重要な真理を告げています。彼らがつまづいき、違反をした事により、異邦人である我々が祝福を受けたとしたら、ユダヤ人達が救い主を受け入れたら、世界にどれ程大きな祝福がもたらされるでしょうか、という事です。
 ローマ書11章15節、

『もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。』

 ユダヤ人達はイエス様を拒否し、十字架につけてしまった故に、彼らは自ら滅びを招きました。しかしその結果、人類は十字架により、神との和解が出来ました。
 だとしたら、ユダヤ人達が福音を受け入れるようになれば、何が起こるのでしょうか。それは、死者の復活に匹敵する素晴らしい勝利が人類に与えられるはずです。

 実は先ほど、「隔ての壁が崩されて一つとなる」というみ言葉を読みました。イエス様が十字架にかかる前に、「一つになりますように、全うされますように」と祈っていました。その最も大きな理由は何であったのかというと、エペソ二章14節〜22節、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』

 ユダヤ人が救いを放り出したがゆえに、異邦人の私達の救われたのです。しかし本家本元には、ぽっかりと穴があいたように、クリスチャンはほとんどいない国になってしまいました。
 教会とは、そもそも、考えてみればイスラエルから始まりました。今、私が毎週礼拝で話している事柄はすべて、イスラエルの事ばかりです。しかし私達は、ユダヤ人達が救われて、エルサレムの初代教会が回復するようにとは、あまり祈りません。
 けれども、彼らが主を信じ、先におこぼれをいただいて形成された異邦人たちの教会と一つとなれば、神が計画した建物が完成するというのです。それが“隔ての壁が無くなり、一つとなる”という真の意味です。

 私達は「遠いイスラエルの事など関係ない」と考えてしまいがちですが、本家本元のリバイバルのために祈らないと、教会は完成しないのです。ユダヤ人達の教会と異邦人達の教会、その両者が目覚めて、隔ての壁が無くなり一つとなると、教会という建物が完成するのです。
 実は、「一つとなるように」とイエス様が真剣に祈られた真の意味は、そこにあったのです。
 今回、私達は韓国の方々とイスラエルに行って集会をします。去年は、韓国リバイバルミッションで日本と韓国の間にあった隔ての壁がなくなりました。しかし引き続いて、主は、本家本元に行き、本家のクリスチャンたちとも一致して祈れば、神の国が来ると語られているのではないかと思います。
 そのように考えると、今回のツアーは、歴史的意味があるのではないかと思います。そのために熱く祈らなければいけないと感じています。 
 詩篇122編、
 
『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。』

 エルサレムの平和のために祈れ。お前を愛する人々が栄えるようにと。現在、イエス様が生まれたイスラエルは、世界で最も渦中にある国だと言われます。イスラエルを中心とする中東情勢を見ると、2010年もかなりきわどい要素を含んでいます。
 今、イランが核兵器を開発していますが、もしかするとイスラエルが突然、イランの核施設を爆撃する可能性があります。今までにも、イスラエルは何度もそのような事をしていますから、もしもそういう事が再びなされれば、また中東戦争が始まるでしょう。それは世界戦争に拡大するとも限りません。
 ガザ地区では毎日のように戦火が絶えません。そしてテロはあるし、イスラエルの動き次第で世界全体は一喜一憂しています。イスラエルは四国よりも狭いような国ですが、実は“世界の火薬庫”とも呼ばれています。やはり、その国の平和のために、私達は真剣に祈らなければいけません。

 先日も、石堂先生というイスラエル宣教師が来られてお話しされましたが、イスラエルは敵国に囲まれ、政治的混乱もあるし、国の中も罪が溢れ乱れて、大変な状況にあると語られました。何故そのような状態の中にある人々と一つになる必要があるのでしようか。
 イエス様が最初、イスラエルでどのような働きを始められたのか・・・、それは、神の指、すなわち、「聖霊により悪霊を追い出し始められた」のです。イスラエルに神の国の種をまかれたのは、イエスさまでした。
 イエスさまは次のように語られました。ルカ11章19節〜、

『もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

 2000年前、イエス様はイスラエルで悪霊を追い出し、そこに神の国が来たのです。しかしユダヤ人達は、その働きを受け入れず、神の国の拡大はストップしてしまいました。その時、何が起ったのかというと、21節〜、

『強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」』

 時々このみ言葉を読んで、「霊的戦いなどしないほうがいいんじゃないか。あまり家を綺麗にすると、七倍の悪霊が入って来るから。少しくらい汚れていた方が安全じゃないの」という方がおられます。
 しかしそれは間違いです。この箇所は人についてと言うより、「イスラエル」を指しているからです。イエス様がイスラエルで霊的戦いを始められ、神の国が広がり始めました。けれども、ユダヤ人達は、それを止めてしまいました。その結果、何が起こったのかというと、「一度掃除されたのに、戦いがストップすると、七倍、すなわち、完全に悪魔に支配される」ような状況が国に起こると言うことでした。

 霊的戦いはどこから始まったのかというと、イスラエルから始まりました。という事は、私達がイスラエルの何が回復するように祈らなければならないのか、それは、ユダヤ人達が霊的な敵について気付き、イエスさまの働きを受け継ぐように祈らなければいけないのです。
そもそも教会とは、マタイ十6章18節〜19節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 教会は、ハデスの門の門前にあり、ハデスの門、すなわち、悪霊どもの住処に攻撃をしかけるのが使命なのです。
 教会はどこから始まったのかというと、イスラエルから始まりました。しかし、その教会がある意味、消えてしまったのです。救いは全世界に出て、私達は救われたのですが、霊的戦いは現在、“異邦人”と言われる私達の手の中にあるのです。
 しかし、真の教会とは“二つのものが一つとなる”とき完成するのです。本家本元と、外で出来た異邦人教会が合体するときに、真の教会は完成するのです。すると何が起きるのかというと、「ハデスの門を勝ち取る事が出来る」のです。それは、霊的戦いの完全勝利を意味します。

 イスラエルの教会とクリスチャン達が、もう一度立ち上がらなければなりません。そして世界の教会と一つとなり、ハデスの門は打ち破られるのです。

 「リバイバルを求めて熱く祈りなさい」という意味は、勿論、「主が私たちの所に訪れて下さるように祈る」という意味ですが、さらなる熱い祈りは、「イスラエルの人々が救われるだけでなく、イエス様の始められた霊的戦を回復・継承し、私達と一つとなって共通の敵と戦うように」熱く祈る必要があるのです。その時、主が帰って来られるのではないかと思います。

 今回、イスラエルに行かせて頂きますが、きっと不思議な神の計画があるのではないかと期待しています。来週の日曜日私は、イスラエルにおりますが、午後は新城教会と携帯電話でつないで、その為に祈りたいと思います。
 ですから今週は、イスラエルのために祈りましょう。リバイバルが起こるように。本来救い主がお生まれになった国なのに、救い主を追い出してしまった悲しい歴史があります。その流れが現代まで継続していますが、回復するように祈らなければいけません。
 しかし今、一万人近くのユダヤ人達が主を信じ、頑張っています。けれども、宣教は大変です。イスラエルのための祈りが、単なるロマンで祈るのではなく、リバイバルのために祈るのです。
 私はイエス様が十字架にかかる前に祈られた祈りは、「そういう意味だったのか!!」と気づかされました。

 今年は、素晴らしい奇跡が数多く起こされるように、祈ろうではありませんか。苦しんいる人々が教会に来て、即座に解放され、癒されるような奇跡が起こされるように、祈っていきたいです。

 去年の12月25日クリスマスに起こされた、一つの素晴らしい奇跡の証を聞きました。それは何かというと、この教会にある問題で苦しんでいる人がいました。私もその方のために、真剣に祈っていましたが、いくら祈っても中々問題は解決しませんでした。
 その人は一時間足りとも、酒をやめることができない、アルコール中毒でした。私は、「この人はこのまま死んでしまうのか・・・」と思っていました。
 私は今まで、アルコール中毒患者の人達を何人か見ましたが、アルコール中毒になると、自分ではやめたいと願っているですが、どうする事も出来ず、やがて中毒症状が強くなり死んでいくのです。
 その人のためにも色々な角度で祈ったのですが、中々、問題は動きませんでした。本当に、いくら祈っても良くなりませんでした。

 しかし昨年の12月25日クリスマスフェスティバルの時、おいしい食事を食べて、劇を見て、私は普通にクリスマスメッセージを語りました。その夜、その人が集会に来ていました。けれども、私のメッセージを聞いている最中、突然、その人に聖霊が注がれたというのです。口から異言が出てきて、今まで長い間苦しめられて来たアルコールが、ぴたっといらなくなって飲酒が止まってしまったそうです。
 以来、20日くらいになりますが、全く、「飲みたくない」というのです。それは我慢ではなく、「酒が突然要らなくなってしまった」というのです。
 その証を聞いて、私はたいへん嬉しかったです。聖霊の訪れというのは、聖霊を真剣に求める聖会の中ではなく、ただのマイルドなメッセージの中でも注がれると言うことです。

 主の働きは、どこに起こるのかわからないのです。そもそも救いは、人間の知恵では理解できない場所に置かれたと、先週も話しました。今年はそんな主の奇跡がどんどん起こされるように、リバイバルを信じ、熱く祈りましょう!


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