「リバイバルを待ち望もう」


2010.1.24(SUN)
新城教会 滝元明 牧師

詩篇 144篇12節〜15節
「私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。」

 ハレルヤ!おはようございます。今日は久しぶりに、お話しが出来る事を感謝します。今年も年の初めから忙しくて、北海道や九州に行って集会を持ちましたが、今日も健康でここに来ることが出来て心から感謝します。これから、「リバイバルを待ち望もう」というテーマで皆さんと一緒にみ言葉から学んでいきます。

 実は、私は新しい聖書を買いました。何故ならば、今まで持っていた使い慣れた聖書を持ち歩く間に、黙示録が全部破れてどこかに飛んでしまったので、新しい聖書を買い求めたのです。一つ、私が心に決めている事がありますが、それは今年は、「もっと聖書を読もう」という気持ちで聖書を買いました。買って最初にお祈りした事は、「今年は新しい聖書の中から、今年私に与えて下さるみ言葉をどうぞ教えて下さい」とお祈りした時、今読みました詩篇百四十四篇のみ言葉が最初に心に来ましたので、主が与えて下さったみ言葉だと信じて、この言葉から「リバイバルを待ち望もう」というテーマでお話しします。

 今読んだ聖書のみ言葉は、非常に素晴らしいみ言葉です。これは、ダビデの歌の一つです。詩篇144篇12節〜15節、

『私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。』

 このように書かれていますが、今年の正月に韓国から来られた金監督が三日にメッセージをされて、「必ず新城教会にリバイバルが来る」と話されました。これは聖霊に導かれて語られたと思います。そして、どうしたら新城にリバイバルが来るかという事で、非常に興味深い話をされました。金監督が朝早く祈っている時に教えられた事は何かというと、「子供たちよ、主にあって両親に従え」という面白いメッセージをされました。
 この教会が「親を敬い、親に従ったらリバイバルが来ます」というメッセージをしました。これは素晴らしい事です。

 親については色々な意味があり“自分の親、霊的な親”など、しかしユダヤ人にとっては、「あなたの父と母、親は誰ですか」というと「アブラハムです」というので、「アブラハムの信仰を持たなければいけない」と話をしておられましたが、やはり私達が今年願っている事は、「私達の息子らが若い時によく育った若木のようになりますように」とありますから、子供達が素晴らしく成長するように、祈っていかなければならないと思います。

 詩篇127篇3節〜5節、

『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。』

と書いてあります。子供達は神様の賜物です。その子供達が守られて、若木のようにすっと育っていくように願っています。
 この教会は感謝な事に、子供達が多いです。それは神様の賜物ですが、子供達が皆信仰をもって成長するように祈りましょう。そして、読んで頂いたみ言葉を、子供達も共に読んでみたいと思います。

 エペソ6章1節〜3節、

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。』

 「親孝行する」とは素晴らしい事です。親孝行ものは幸せになり、親不孝者は幸せにならないと。親孝行をすれば長生きするとありますので、この地上において神の祝福の中に長生きする事ができるとありますから、子供達もお父さんお母さんの言う事をよく聞いて、お父さんお母さんを愛していくようにしましょう。聖書の中には、「主にあって両親に従いなさい」と書いてあるし、「父たるものは主に従え」とあります。やはり、お父さんは主に従い、そして、主に従っているお父さんに子供が従っていくのです。ですから父親の信仰は非常に大切です。父親が本気になってイエス様を愛していれば、子供達もすこやかに成長する事が出来るし、また、教会にもリバイバルが来る、というひとつの素晴らしい教えを私達にして下さったので、今年は親孝行をしていきましょう。そうしたら祝される事が出来ます。

 しかし、今年私が特別に心に来たみ言葉は何かと言うと、最初に読んだ13節のみ言葉で、『私達の蔵は満ち、あらゆる産物を備えますように。私達の羊の群れは野原で幾千、幾万頭になりますように』です。
 これが今年、新城教会、そして日本の教会に与えられたみ言葉だと私は受け取りました。『私達の蔵は満ち、あらゆる産物を備えますように。』これは素晴らしいみ言葉です。これを自分のものにするように、一緒に読んでみましょう。ここに『私達の蔵は満ち、あらゆる産物を備えますように。』という言葉が書いてありますが、“蔵が満ちる”と言う事は、教会がいっぱいになるという事ですから、多くの魂が救われるように、信仰を持っていきたいと思います。
 「私達の蔵が満ちる」と言う事を、尾山先生の現代訳では、このように訳しておられます。

『私達の蔵は満ち、貯えがいっぱいになりますように』

 これは、経済的にも皆さんが祝福されるようにという事です。去年は日本全体が不況でした。しかし今年は神様が祝して下さって、皆さんの産業や経済が祝福されると信じましょう。ここに書いてあるように、『私達の蔵は満ち、貯えがいっぱいになるように』とは、“蓄え”というのは貯金ですから、経済的に祝福されるように。今年は豊かに祝福される事を願ったら、もう一度『私達の蔵は満ち、あらゆる産物を備えますように。私達の羊の群れは私達の中で幾千、幾万となりますように』一緒に言ってみましょう。今年は経済的に祝される年となりますように。信仰を持ちましょう。

 神様は私達の経済を祝福する事が出来ます。私はこの前、北海道の登別温泉という所で集会をしました。今まで三十回続けて行ったのですが、登別では毎朝早天祈祷に行く事にしています。何故、早天祈祷会に行くようになったかというと、30年前から田中先生と一緒にリバイバルクルセードの聖会を始めたのですが、その時超教派で色々な人が来ておられるので、あまりよい言葉ではないと思いますが、私はこういう話をしました。
 「皆さん、この集会は超教派の集会ですから、異言は否定しませんが、集会中は異言で祈らないようにして下さい。異言を語りたい人がおられたら、登別温泉の地獄谷温泉で祈って下さい」と。
 しかし、その話をした後、私は心を責められました。地獄谷温泉の一月は零下10度か15度ですから、行く人があると困ると思い、早速、次の朝早くに起きて祈りに行くと、大勢の方が来られていました。
 ある方は「滝元先生はひどい事を言うなと思った」と言われましたが、私も行きそこで祈り始めました。今年も行きました。大体雪が40センチくらい積っていましたが、公園で雪を踏みしめて真剣に祈りました。お祈りしていると、北キツネが時々出てきます。また、5時くらいだとまだ暗いのですが、だんだんと明るくなってカラスのねぐらから、何百羽、何千羽くらい飛び立っていきます。カラスにも隊長がいて、「おい、これから室蘭に行くぞ!」「俺達は苫小牧だ!」と言うようです。それらのカラスを見ていて素晴らしいと思う事が聖書にあります。

ヨブ記38章41節、

『烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのはだれか。』

こういう事が書かれています。
 カラスは好きではない人の方が多いのではないでしょうか。しかし聖書では、カラスの子が飢えて、「神様、ちょうだい」と泣き叫んだ時に、『えさをあげるのは誰か』と書いてあります。
 今年は皆さん、信仰を持って行きましょう。「仕事が無い、どうやって生きていこう」とか、「どうやって食べていこう」などと心配しないで、イエス様におまかせして下さい。カラスの子さえも養っている神様ですから、私達を必ず祝し、産業も祝されて貯えも多くなる年になると信じていきましょう。信じますか?

 私はよく独り言のように、カラスなどに話しかける事があります。ここの中庭に住み着いているセキレイがいます。朝にはよくセキレイを見かけます。それを見かけると、「セキちゃん、元気かい?」と話しかけます。また、教育館の入り口の所に巣を持つ雀に、「すーちゃん、元気かい?」と。そう話しかけても、彼らは逃げずに喜んで遊んでいます。神様があの鳥さえも守って下さるとありますから、私達はもっと守って下さる事を信じましょう。

 聖書の中には『あらゆる産物が出るように』とありますが、この教会ではあらゆる産物が出ました。初め、ここには百人位の教会堂を造り、それから300人くらいになりこの教会堂が出来、また教育館が出来プレイズ出版が出来て、リバイバル神学校が出来たのは祝福だと思います。今日、順牧師はイスラエルに行って、そこで韓国の人達と集会をしてメッセージをし、開達は神奈川県のほうでザワメキの集会をしており、また望はSIRのとりなしの働きで世界中を飛び回っています。
 また、先週は安城で行われたゴスペルコンサートも素晴らしかったそうです。F姉妹が学校でPTAの役員をしておられ、そこで提案して下ったのがきっかけで、七百人くらい集まったそうです。今も、リソスが歌いましたがよい声で、私は「いつの間にあんなにいい声になったのかな」と思いました。これらも素晴らしい“産物”です。イエス様に心から従えば心配はないのです。

 今日、経済的に心配している方は「人の勤労がそれに加えることはないが主の恵みが人を富ます」とありますから、神様が恵んで下さると信仰を持つ事です。心配は無用です。「まず、神の国と神の義を求めよ」とあります。「信じたい」ではなくて「信じます!」と宣言しましょう。
 その次のみ言葉は13節、

『私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。』

 この前も「リバイバルを強く待ち望む」メッセージを順牧師がしましたが、皆さんはリバイバルがここに来る事を信じますか?
 1970年からリバイバルクルセードを始めて、甲子園や武道館など、ずっと30年間も「リバイバルを起こして下さい!」と祈っているので、必ず来る事を信じましょう。「幾千、幾万となりますように」とありますから、いつかはこの新城でも何千人かの教会が出来ると思っています。

 よく私が話す事ですが、ダンスホールを買って最初の集まりは、家内と見城姉妹と三人でした。竹の椅子に座って礼拝しました。見城姉妹が私を慰めるつもりで、「滝元さん、大丈夫ですよ。きっとこの街では大勢のイエス様を信じる人があると思いますよ」と励ましてくれました。
 そうしたら私は「信じているよ、僕は。将来、新城に千人入る教会を造りたいと思うし、ここから50人くらいの伝道者を出したいと思うよ」と言うと、腰をぬかすくらいびっくりしました。たった一人しか信徒がいなかった時でした。
 しかし、考えると神様が恵んで下さったのです。ちょうどその頃、日曜学校をしている時にちよちゃんという小学校三年生の子が、「幻を見たよ」と言ってきました。どんな幻だったか聞くと、「新城に大きな教会が建って、聖歌隊やピアノがある素晴らしい幻を見たよ」と。まだダンスホールの時代だったその時には、聞いても信じがたいものでした。信者もほとんどいない時でしたから。

 しかし、考えるとこれだけの教会が出来た事は、きっとこの場面の幻を見たのかもしれません。聖歌隊があり、ピアノがあります。神様が恵んで下さる時に、「幾千、幾万となりますように」信じますか?
 去年はインチョンでリバイバルミッションがありました。その時私と家内がインチョンの長老教会に招かれ集会に行きました。すると牧師先生が、「この教会は、23年前に百人の信徒で始め、今は九万人です。礼拝に今出席している人は6万人です」と言われました。一日7回集会があり、私が話した11時からの礼拝は、12000人ぎっしりでした。その音響は今までの中で一番素晴らしいものでした。「今、世界中で一番成長している教会のひとつがこの教会です」と言われました。

 皆さん、信じましょう。『幾千、幾万頭になりますように』とありますから、必ず新城も幾千幾万となりますように。
 私には朝起きた時に、楽しみな事があり、それは外の第二東名の工事を見る事です。茶臼山にはサービスエリアが出来ます。下り線と上り線に素晴らしいサービスエリアが出来るのです。そこには泊まる事が出来るし、素晴らしい計画があります。「ああ、早く第二東名が開通すればいいな」と思いますが、皆さん祈って下さい。毎朝、早天祈祷会では「早く第二東名が出来ますように」と祈ってきたので、祈りの答えだと思います。
 つい最近、新聞に出ていましたが、今飯田と引佐を結ぶ高速道路が出来ています。来年は、引佐と鳳来町が開通すると言っています。それから間もなく、御殿場と引佐まで第二東名が開通する予定だと書いてあったのは嬉しい事です。皆さんの中で遠くから来ておられる方が大勢おられます。島田や焼津からも来ておられる方々は、すごく時間がかかると思います。浜松からは第二東名が出来れば、20分で来れます。そして、伊勢湾道路に続いたら、岡崎からここまで10分か15分です。やはり神様はリバイバルの準備をしておられると思います。このように小さな教会ではなく“幾千、幾万になりますようにと”信じなければいけません。

 私の仕事は夢見る仕事です。「甲子園でやりたい」とか、「武道館で、東京で四十日」などと言って、迷惑をかけた部分もあります。「幾千・幾万になりますように、いつか新城に何千人かの教会が出来ます」と言うと、ある方は「また、でっかいことを言いだしたな」と思われるかもしれません。しかし信じるのはただですから皆さん、信仰を持ちましょう。
 マルコ8章13節〜21節、

『イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」』

 弟子達は奇跡を見ながら、不信仰を持ちました。それに対してイエス様ご自身が叱責され、色々な言葉をおっしゃっておられますが、17節から、

『それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか」

 聞いても信じない人は“まだわからない”のです。新城教会で霊的戦いが始まりましたが、それは長い間祈ってきた、リバイバルの答えであることがまだわからないのですか、という意味です。
 それから、イエス様ご自身がおっしゃっているみ言葉に「まだ、わからないのですか。悟らないのですか。心が固く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」と。
 私達は信じなければいけません。今まで、ここまで導いて下さったから、必ず“幾千、幾万となりますように”というのは、日本でもそういう素晴らしい事が起きるように祈らなければいけないです。

 二日前、兵庫県の加古川の牧師夫人から手紙が来ました。「感謝をお伝えしたいです。」とありました。その方は甲子園の集会で恵まれ、その時に親や大勢の方が救われました。「あの甲子園で私の家族は変えられました」と。その時に聖霊の火がつきました。よくザワメキが行って働いていますが、「リバイバルジャパン」に先日、「市民も動き始めた。クリスマスに千何百人が集まった」とありました。それが加古川教会です。ざわめきが行って、人々が集まるようになりました。それでその牧師夫人が「あの甲子園で恵まれ、祝された事を感謝しています。いつか、日本にも千人とかそういう教会が出来るように祈っています」と書いてありました。加古川に千人の教会が出来るように、日本に出来るように。

 私達はリバイバルを信じなければなりません。いくら順牧師が熱心に「霊的戦いをやりましょう!」「リバイバルが来ます!」と言っても、「そんな事があるのかな」ではいけません。信じなければいけません。
 「まだ、わからないのですか。悟らないのですか。心が固く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」
 こういう事をイエス様ご自身がおっしゃられました。私達は信仰により、いつかは新城の人達がイエス様を信じ、全ての人達が教会に来る事が出来るように信仰を持たなければいけません。偶像が砕かれて、多くの人達がまことの神を信じように信仰を持ちましょう。

 そして、21節にイエス様が最後に語った言葉は『まだ、悟らないのですか』
 今日、リバイバルが起きる事を信じればよいのです。「信じます!」起こすのは神様ですから、私達が何かするわけではありません。ですから、『幾千・幾万となりますように』信じます。

 一緒に言ってみましょう。「経済的にも恵まれます!」私達は、神様に対して信仰を持たなければいけません。神様にとって不可能はありません。『初めに、神が天と地を創造した』天地を造った神様ですから、死人の中からよみがえられた方ですから、奇跡を行う事が出来ます。

 私はメッセージを準備しながら一つの事を思い出しました。丁度、この教会の開拓時代、ここにあるピアノを買ってくれたのは、もう天国に帰られた河合さんというおばさんでした。その方はブタを飼っていて、残飯を集めて豚を大きくして、豚を売ってはお金を貯めてピアノを買ってくれました。ですからこれは“豚から出た”と言える素晴らしい産物です。その時に、河合さんは本当に頭の良い賢婦人で、熱心に教会に来られていましたが、すでに年で天国に帰られました。ご主人も救われ、息子さんは東京で牧師をしておられます。

 救われた時、穐近先生が来られ、メッセージをされました。田中先生はちょうど救われたばかりの頃で、「イエス様は、天も地も造られた神様なんだ。奇跡を行う事が出来る!目の悪い人の目を開ける事も出来るし、足萎えが歩く事も出来るし、イエス様は水の上を歩いたんだよ!」という話をしました。その時、田中先生は教会に来たばかりで、「そんなバカな」と言うと、穐近先生は怒って、「兄弟、何がバカだ。畳屋が畳を作ってその上を歩いたからと言って何が悪い。イエス様は天地を造った神様で、海も造られたんだから、その上を歩いたって大したことはないじゃないか」と言うと、彼は「う〜ん、…」と言っていました。
 
 奇跡を信じなければいけません。新城に伝道に入る時、何もない所からここまで成長させて下さり、皆さんが救われたという事は、必ず多くの人達が救われるという事を信じなければいけません。ですから私達は、不信仰から解放されなければいけません。リバイバルに対する不信仰を捨てましょう。「信じます」必ず、幾千・幾万の人達が救われる時が来ます。信じましょう。マルコによる福音書9章21節〜27節、

『イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」』

 これはてんかんです。「もし、お出来になるものなら私達を憐れんでお助け下さい」と言いました。リバイバルも、「イエス様、もしお出来になるのなら新城にリバイバルを起こして下さい」こういう気持ちがあります。「そんな奇跡なんて無理じゃないですか」
 しかしイエス様がおっしゃられた事は何かと言うと、『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』
 皆さん、“信じる者”には出来る、という事を信じなければいけません。ある方は病気を治してもらいたい、「出来るものなら私の病気を治して下さい。うちは貧乏です。出来るものなら少しでも豊かになりますように」しかし、「出来るものなら」ではなくて、信じましょう。
 24節に彼が叫んだ言葉は『信じます。不信仰な私をお助け下さい』これから私達もリバイバルのために何が一番問題かと言うと不信仰です。「イエス様、私の不信仰を取り除いて下さい。イエス様は奇跡を行う事が出来ると信じます」それだけでよいのです。「信じません」ではなくて「信じます」その時、イエス様は悪霊に対し、『私がお前に命じる。この子から出ていきなさい。二度と入るな!』そして癒された事が書かれてあります。「出来るなら」ではなく、出来ると信じなければいけません。

 これから、この教会の中に、日本の中に必ず大きなリバイバルが来ますから、信じましょう。きっと今に教会がいっぱいになって、座る事がないほどになると思います。はやく大きな教会堂が出来るように。「また、金がかかるな・・・」
 しかし、お金は神様のものです。建てるのも神様です。ですから皆さん信仰を持ちましょう。もしも、私が金を出して第二東名を造らなければならないとなると、永久に出来ませんが、国家で造っていますから、難しい事はありません。同様に、神様が栄光を現わせば、素晴らしいことが出来ますから、皆さんに必要な事が何かと言うと、不信仰から離れて、「信じます」これでよいのです。「信じ、まおし」という文語体の言葉があります。「信じたいです」ではなく、「信じます」
 皆さんの家庭の中で問題のある方も信じて下さい。イエス様は必ず解決されます。今、願っている事を信じたらイエス様が栄光を現わして下さる事が出来ますから、信じましょう。

最後に詩篇144篇14節、

『私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。』

 霊的戦いが始まって素晴らしい事は、サタンの策略を見抜いて打ち砕く、断ち切る事によりサタンの攻撃から守られる事は素晴らしいです。ですからここに書いてあるように、『私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。』
 今、順牧師と享子さんがイスラエルに行っていますが、感謝でたまりません。何故なら、私と家内が一九七五年にイスラエルに行きました。シナイ山の山頂で本当に心を引き裂かれる思いで、真剣に祈った事があります。何を祈ったかと言うと、ちょうどあの時、十字架の前にやせ衰えた享子さんを連れてきて、「イエス様、これではどうなりますか」と祈った時に享子さんが生き返って今は元気になりました。シナイ山の頂上で切に祈りましたが、今では元気にイスラエルに行っている事を考えると奇跡です。
 ですから皆さん、神にとって不可能な事はありませんから、信仰を持ちましょう。今日、問題のある方は信じるだけでよいです。難しい事もありますが「信じなさい」「信じます」それだけでよいのです。

 皆さん、一緒に宣言しましょう。「信じます!」皆さんの仕事も、必ず良くなる事を「信じます」家庭も祝される事を「信じます」また、結婚していない方は、良い方が与えられる事を「信じます」イエス様に期待しましょう。一言、お祈りします。


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