「再び、リバイバル!」


2010.1.31(SUN)
新城教会 滝元順 牧師

エレミヤ書 31章3節〜6節
『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」』

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日はこうして、皆さんの前でメッセージを語らせて頂ける恵みを心から感謝します。先週私はイスラエルで韓国の方々と共に礼拝を持ちました。150名くらいの方々が、韓国やアメリカから来られ、大変素晴らしい集会でした。皆さんに祈って頂いた事を、心から感謝しています。
 今日、皆さんと読んだ聖書箇所は、韓国リバイバルミッションのテーマのみ言葉として選ばれ、テーマソングにもなりましたから、よくご存じだと思います。

 この箇所で「乙女イスラエルよ」と語りかけられていますが、私達に対して語って下さっている言葉でもありますが、実は、最初はイスラエルに対して語られた言葉です。イスラエルは“北イスラエル”と“南ユダ”の二つに分断したのですが、特に、北イスラエルに対して語られたみ言葉です。北イスラエルには悪王ばかり出て、偶像礼拝ばかりしていました。ある意味、北イスラエルはその罪のために、見捨てられたような国になってしまったのですが、そんな国に対しても、このような回復のみ言葉が語られたのです。この中から、私達が信じ仕える神様のご性格を知る事が出来るのです。

 エレミヤ書31章3節〜6節に『私は再びあなたを立て直し』とか、『再びあなたはタンバリンで身を飾ります』また5節には『再びあなたはサマリヤの街々に葡萄畑を造ります』と、“再び”という言葉が二度どころか、三度も使われているわけです。私達の人生は、一度壊れ失うと立て直すのがなかなか難しいです。
 皆さんもいかがでしょうか。日々の生活の中で、失敗や問題があると、へこんでしまい再び立ち上がるのが難しいという体験があると思います。
 北イスラエルは再び立ち上がるなど、決して出来ないような状況にあったのですが、神はそんな北イスラエルに対して、「あなたは再び回復されますよ」と預言されたのです。

 『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。』と記されています。私達の信じる神はどのような神さまかと言うと、“永遠の愛”を持っておられる神です。私達は誰かに対して愛を持つ事が出来ても“永遠の愛”など、とうてい持つ事はできません。しかし私達の神様は“永遠の愛”を持って私達を愛し続けて下さっているわけです。今日、ここにおられるお一人お一人、私を含めて、決して見捨てることはなく、愛して下さっているのです。神の愛に触れる時、人生は変えられます。「再び立て直します!」という言葉は、大変励まされる言葉です。
 人生でいくら失敗があったとしても、もう一度立て直して下さるのです。

 しかし、このみ言葉は先ほども語ったように、最初は、北イスラエルに対して語られた言葉です。北イスラエルに何故、色々な問題が起きたか、その一番大きな原因が「偶像礼拝」です。いつも話しているように、日本人も偶像礼拝を行っています。それも、「自分を助けてくれる神」と思って、一生懸命やっていますが、それは神のふりをした悪霊を招くことになるわけです。悪霊が招かれるとどういうことになるかというと、初めはよさそうに見えるのですが、段々と国が荒廃していくのです。

 私は今週の土曜日、日曜日は、以前ここに来て下さった天野先生の教会で奉仕させていただきます。そこは本当に恵まれた教会なので、奉仕は楽しいのですが、それが終わったら、ネパールに行きます。それは今年の奉仕の中で、ある意味一番行きたくない国かも知れません。是非とも祈って頂きたいのですが、私は好き好んで行くわけではなく、何故行くようになったかと言うと、ネパールで宣教しておられる韓国人の宣教師の方がおられるのですが、韓国リバイバルミッションの時、私の所に来て「ネパールは霊的に大変な国だから、是非とも一度来て下さい」と私に話したそうです。そうしたら私は、「分かりました。行きましょう」と約束したというのです。しかし私は、全く記憶がないのです。そんな人と会った覚えもないし、記憶もないのですが、その方から何度も電話があり、行く事になりました。私は招いて下さったので行くのですが、一人で行くのは寂しいので誰か一緒に行かないかと声をかけましたが、一緒に行ってくれる人が見つかりませんでした。

 昨日、ある方と話たら、ネパールでは年間5000人から7000人もの少女達が、人身売買されているそうです。子供達はインドに売られ、売春宿で奴隷として使われるそうです。現代でもそういうことがあるのです。その国の人々は、偶像礼拝にどっぷりとつかっています。私はカトマンズに行くのですが、その街は女神に捧げられた街です。小さな女の子が女神として拝まれています。霊感の強い子を選び、その子を「クマリ」と呼んで宮殿に住まわせ、皆で少女を拝むのです。街は剣型になっており、八か所に女神が祀られていています。その剣の矛先はヒマラヤに向いています。

 先日ネパールに行った方が「私はネパールほどショックを受けた国はありません」というのです。その国の国教はヒンズー教で、ヒンズーは“輪廻”を信じており、人は死んでもまた地上に輪廻し戻って来るというのです。人は死んだら神によって、百パーセント管理されますから、決して戻って来る事はありません。しかし輪廻では地上に再び帰ってくるというのです。ですから何をするかと言うと、生きている時に使っていた身体を全て捨ててしまいます。捨てるとはどうするかというと、「火葬」にするのです。どこで火葬にするのかというと、人が見ている河原で焼くそうです。目の前で薪を積んで人を焼いていて、街は臭くて仕方ないというのです。遺体を焼いているすぐ横では、子供達が水泳しながら火葬が終わるのを待っていて、焼き終わったらすぐに飛んでいくというのです。何故かというと、遺体が着けていた貴金属など、焼け残っている物を拾い、それらを売るそうです。「いやあ、悲惨でしたよ」というのです。
 私は「神様、そんな所に行きたくありません」と言っていたら、家内が私の所に来て「やっぱり行った方がいいんじゃないの」というのです。「それなら、あなたも一緒に行ってよ」というと、「だってお金がない」といいました。それで私は、「もしも、だれかがあなたに旅費を献金してくれたら、行けばいいんじゃない」と言うと、「そんな事があるわけないじゃん」と言いました。
 しかし不思議な事に、ある人が家内の所に来て「奥さん、ネパールにとりなしに行ってくれませんか?」と言って封筒を手渡しました。それを開くと、私が家内に言った額がぴったりと入っていて、ちょっとびっくりしました。神様は全部、私たちの話を聞いておられるのです。これは主からのゴーサインだと思いました。行くしかないと思いました。
 二週間後には、皆さんにその様子をご報告できると思います。

  やはり、偶像礼拝をしていると、国は暗くなります。何故なら、街や国に悪霊を呼ぶことになるからです。私は世界の最も深い闇は、「ヒンズー」にあると考えています。ある意味、ネパールは大きな戦いだと思いますが、そこで勝利を取ったら、新城教会に新しい勝利の季節がやってくると確信しています。

  どんなに崩れ、どんなに問題がある国に対しても、主は永遠の愛を持っておられるのです。そして“再び”あなたを立て直すと語っておられるのです。
 日本で信仰を持つのはある意味大変です。周囲は皆、偶像礼拝をしていますし、その中で「私はクリスチャンです」と宣言するのは中々大変です。

 しかし私は先週イスラエルに行きまして、イスラエルの国がどんな国か、色々とお話を聞いたのですが、イスラエルはユダヤ教の国であり、大部分の人が「イエスは救い主ではない」と信じているわけです。一番クリスチャンになりにくい国は日本かと思っていましたが、そうではなく、イスラエルが世界で最もクリスチャンになりにくい国です。
 実は以前にもここでお話しさせて頂きましたが、イスラエルは750万人位の人口があるそうですが、クリスチャンと呼ぶ事が出来るユダヤ人は、10,000人から15,000人くらいだというのです。イスラエルの人達は、以前、全世界に散らされていたのですが、帰還した人々です。自分がユダヤ人だというアイデンティティーがしっかりとある人たちです。ロシアやヨーロッパ、アメリカから多くのユダヤ人が帰還して国となりました。「イスラエルに帰ろう!」と、祖先の国にわざわざ、自国の安定した生活を捨てて戻ってきた人ばかりです。彼らにとってユダヤ人というアイデンティティーは、命よりも大切です。しかし、イスラエルではどういう教育をしているかというと、「クリスチャンになれば、ユダヤ人でなくなる」という教育をするそうです。
 もちろん国籍を剥奪されるわけではないのですが、自分のアイデンティティーを失うのです。最も大きな要素である“ユダヤ人“でなくなると教育されたら、中々、クリスチャンにはなりにくいです。
 しかしそんな中でも、「私はイエス様を信じます」と、主を信じている人々とお会いする事が出来ました。

 そもそも、イエス様の時代から、信仰告白は、異教の神々のただ中で、「イエスは主です!」と告白する事でした。以前にもお話しさせて頂きましたが、イエス様は弟子達をどこに連れて行って、信仰告白に導かれたかと言うと、ピリポ・カイザリヤ地方でした。マタイ16章13節に、

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」』
 そして十五節〜十八節を見ると、
『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

と語られました。イエス様はペテロをはじめ、弟子達にそのように語られました。「イエスは主です」と告白するのは大きな事です。なぜなら、神の国のカギをもらう事ができるからです。今日、ここにおられるお一人お一人が「イエスは主です」と告白する時、天のみ国のカギが与えられるのです。あなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれ、地上で解くなら天においても解かれるカギです。天と連動したカギを与えて下さるのです。
 しかし、この信仰告白がどのような場所でなされたのかについて、以前にもお話しさせて頂きました。ピリポ・カイザリヤではどんな風景を見る事が出来るのかというと、その場所にはギリシャ神話の「パン」という神を祀る神殿が建っていました。人々は何をしていたかというと、ギリシャ神話の神々を、自分の守り神・救い主として礼拝していたのです。
 ご覧のように、後ろには大岩があり、ここに神殿を造ったという事は、大岩が自分を救ってくれると考えていたのです。でも、イエス様はそこにわざわざ弟子達をガリラヤから連れて行き、「あなたはわたしの事を誰だと思うのか」と質問しました。

 その時、偶像の神殿を目の前にして、弟子達は「あなたは神の子、キリストです!」と高らかに宣言したのです。これは私達の信仰生活と、共通しているのではないでしょうか。偽りの神々が満ち、偶像が満ちているただ中で、「イエス様は主です!」と告白するのは、昔も今も変わりません。今のイスラエルも日本もそうですが、困難な中で信仰を告白する時、大きな祝福があるのです。皆さんの中には「私は家族の中で、ただ一人のクリスチャンで、大変な戦いがある。」と言われるかもしれません。しかし、そんなあなたに神様は「カギをあげます。」と言われるのです。それは地上と天を結ぶ鍵であり、また回復の鍵です。

 何とイエス様は偽りの救いの岩がある場所で、「わたしはこの岩の上に教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つ事はできません」と語られました。救いの岩とはイエス様ご自身ですが、同時に、教会は、このような偽りの救いの岩と悪霊の神殿を踏みつける存在なのです。暗闇の権威の上に立てられるのが教会です。そして、“ハデス”悪魔・悪霊が支配している国は、決して教会に打ち勝つ事が出来ないと語られたのです。
 教会とは、そもそも敵の門前に立てられ、偽りの岩を踏み砕く存在として創造されたのです。そして、教会を通して人々の人生が立て直され、もう一度神の計画が回復される事を教えているわけです。

 実は今回、私はイスラエルに韓国の方々と一緒に行ったのですが、現地ではユダヤ人・クリスチャンの方々と交わりを持ちました。イスラエルに行く前にもお話しさせて頂きましたが、私達が救われたのは何故かというと、最初救いはユダヤ人に与えられたのですが、ユダヤ人がその救いを受け取らずに、諸外国に放り投げたからです。
 どうでしょうか、年末ジャンボ宝くじの当たり券を、「こんなのいらない」と放り投げる馬鹿はいないと思います。しかしユダヤ人はそのような事をしたのです。ユダヤ人達は、宝くじなどとは比べる事ができない、大当たり券を神からもらったわけです。自分達のただ中に、救い主がお生まれになったわけですから。それを受け取ったら、彼らが一番祝福されたはずです。
 しかしその当たり券を放り投げたのです。それを誰が拾ったかというと、私達を含む「異邦人」と呼ばれる人達でした。それで私達は救われたのです。前にもそのみ言葉を紹介したのですが、ローマ人への手紙11章11節〜12節、

『では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。』

ユダヤ人が当たり券を放り投げたものだから、私達は祝福されたのです。しかし、本家本元のユダヤ人たちが救われたら、どのくらい強力な教会が出来るのでしょうか。そもそも、ハデスに打ち勝つ教会とは、異邦人教会とユダヤ人教会がひとつになる時、真ん中にある“隔ての壁”が壊され、最も強い教会が出来るのです。という事をお話しをさせて頂きました。天のみ国の鍵は、そこにあると信じます。
 今回、イスラエルで行われた集会で、私はその事を話しました。天のみ国の教会とは異邦人教会とユダヤ人の中から救われた人達の教会が一つとなって、ハデスの門に立ち向かう時、勝利が与えられるとお話しさせて頂きました。そして、ユダヤ人のクリスチャン達と一緒に手をつないで「最強の教会が出来るように」と祈る事が出来ました。ですから私は今回、イスラエルに行ったかいがあったと思います。
 その時に何かが起こったわけでもないし、強い電流がきたわけでもありませんが、み言葉に沿って行動しましたから、きっと主が天のみ国のカギを、この教会に与えて下さると期待しています。

 先ほども語ったように、ユダヤ人が一番救われにくいのです。聖書を読んでいても、イエス様が一番対立し、戦った人達が、律法学者とかパリサイ人と呼ばれた宗教家たちでした。
 実はイエス様時代のパリサイ人の末裔達が、今でもイスラエルにいます。行けばすぐにわかります。彼らは服装からして違います。全身黒ずくめで、ひげを生やしてとても不気味な感じがします。その人達は宗教家たちで、国が生活費のすべてをサポートしています。彼らは日々、旧約聖書とトーラーの言葉、そして祈りにかけて生きているのです。それは一見よさそうに見えますが、イエス様については完全否定する人たちです。そういう人達に伝道しても、すごく難しいそうです。ですから、異邦人クリスチャンがイスラエルに行って伝道しても、びくともしないと云うのです。そんな大変な中でもイスラエルで救われた人達は、熱心に伝道しています。けれども、中々困難があるようです。
 日本で路傍伝道しても逮捕などされませんが、イスラエルで「イエス様は主です!」などと路傍で語れば、すぐに警察が来て捕まります。ですから絶対に路傍伝道などできないのです。しかし、今回、韓国チームが路傍伝道をするというのです。彼らは勇気があり、「韓国語で賛美すればわからないから大丈夫!」と言いました。それはそうですが福音も伝わらないじゃないかと思いましたが、とにかく賛美すれば聖霊さまが働くというのです。

 この写真のように賛美し始めましたら、ちょっと睨まれました。しかし皆で賛美し、「永遠の愛により」という韓国リバイバルミッションのテーマソングを歌いました。すると何か目に見えない、霊的壁が崩れた感じでした。何と、皆が突然踊り始めたのです。あの黒ずくめの人々もわけもわからずに、踊り始めたのです。これは韓国リバイバルミッションの勝利ではないでしょうか。わけがわかっていなくても、み言葉を宣言して踊ってしまえば、聖霊様に触れられるわけですから、大きな意味があったと思います。
 皆さん、是非、ユダヤ教の人々が救われるようにお祈り下さい。この方々が救われるかどうかが、霊的戦いに勝利する大きな条件かも知れません。最も手強い、パワフルな悪霊の軍団は、この周りにうろついているのかもしれません。ローマ人への手紙11章15節を見ると、

『もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。』

 彼らがクリスチャンになるという事は、死人がよみがえる奇跡と同じくらいすごい事なのです。しかし、異邦人とユダヤ人の教会が一つになって教会は完成するわけですから、遠い世界の出来事ではなく、ユダヤ人の救いのために日本からも、真剣に祈らなければいけないのです。今日の午後、報告とセミナーを持たせて頂きますから、是非ともお越しください。

 今回、私はひとつ楽しみにしていた場所がありました。それがどこかというと、私がよく話すゲラサという場所に行く事でした。ゲラサという街に悪霊につかれた男が居たのですが、イエス様によって解放されたのです。何故この男が悪霊に憑かれたのか、それはギリシャ神殿による偶像礼拝と、祖先崇拝が原因していると先日お話ししました。この話は韓国でも共通するので、同じメッセージを韓国でもしました。
 するとこの間、ここに来られた監督さん達のチームがこのメッセージを聞いて興味を持ち、それが本当かどうか、現地に調査に行ったそうです。ガリラヤ湖付近には、古代のゲラサと思われる場所がいくつかあります。しかし、どの場所で実際、この事件が起こったのかは、はっきりしません。
 そうしたら何と、「順先生、聖書時代のゲラサを見つけた!」と言うのです。実はあの近所は、まだまだ発掘されていない遺跡が数多く存在します。しかし近ごろ、ハイファ大学が中心となって、ある場所を発掘したところ、聖書に記述されているゲラサに最も近い場所を発見したというのです。その場所は「スシタ/Susita」という場所です。そこを発掘したら、イエス様がゲラサに行って、悪霊に支配された男が出迎えたという、記録と最も似通った場所だというのです。そこにはイエス様時代の港の痕跡もあるし、豚が転がり落ちたのではないかと思われる崖もあるし、墓もあるし、それが聖書に記述されているゲラサと関連するのではないかと云われています。そこに連れて行ってくれるというので、私は楽しみにしていました。
 スシタに着くと、霊的圧迫と言うか、戦いを感じました。そればかりか、私たちが祈りを始めた途端、にわかに空がかき曇って強い風が吹き、雨が降ってきました。

 数年前、フェルナンド先生と一緒にプエルトリコに行きました。そしてある村にある、不気味な山にとりなしの祈りに行きました。すると同じように大嵐になりました。イエス様がゲラサに行った時「黙れ、静まれ!」と叫んだら、嵐がぴたりと止んだ、という記事がありますが、そのみ言葉が心に浮かびました。プエルトリコの牧師と一緒にその山に行ったのですが、プエルトリコの牧師は怖くなり「自分は行きたくない」と言って、どこかに隠れてしまいました。私たちはその山の上で、いちかばちかで「黙れ、静まれ!」と叫んだら、なんと大嵐がピタッと止まり、晴れたのです。それはすごかったです。
 すると、どこに隠れていたのか、プエルトリコの牧師が現れて「すごい!ニッポン・サムライ!」などと、わけのわからないことを言って出てきました。
 その時はうまく行きました。しかし、今回は本場ですからうまくいくかな、と一瞬思いました。「あのときは良かったけど、今回はだめだろうな・・・」と。

 しかし、聖書の素晴らしさは、一度で終わらず「再び」がテーマなのです。今日も、「再び」建てなおします、と主は語られます。
 時々、私達は神の奇跡を体験します。けれども、「一回目は良かったけど、二度目は無理だろう」“同じ柳の下にどじょうは二匹いない”と思うのです。
 しかし、私達の仕える神のテーマは“再び”なのです。一回目が良ければ、二回目はもっとすごい事が起こるのです。一回目よりも二回目はバージョンアップするのです。二回目は必ず起こるというのが、聖書の真理です。
 ゲラサでは雨は降るし、風は吹くし、同じ事を叫ぶにはかなり勇気がいりました。しかし、今回もいちかばちかやってみることにしました。韓国の方々に、「イエス様はこういう状況で何を言われましたか?『黙れ、静まれ!』と叫んだではないですか。俺達も試してみようじゃあないか!」と言うと、いつもは元気のよい韓国の兄弟姉妹たちは力なく、「アーメン・・・」と答えました。

 しかし、「黙れ、静まれ!」と怒鳴りました。何が起こったかと言うと、ほとんどぴたりと雨と風が止まったのです!!
 その上、二つの虹が出ました。本当に皆、興奮しました。私にとって一度ではなく、二度目も祈りを聞いて下さったのです。まさかゲラサに行ってこういう祈りをするとは思わなかったです。その現場に立って、イエス様時代に建てられたギリシャ神殿が残っているただ中に立って、このみ言葉について話しはじめた途端起こった事です。私達の神は生きておられます。必ず祈りを聞いて下さるのです。

 その反面、イスラエルに行くと、聖書の言葉は、やはりユダヤ民族のために語られた言葉なんだ、とちょっぴり寂しい思いもします。ユダヤ人というのは、特別な人なのかな・・・、と。
 今回もユダヤ人クリスチャン達が来て「自分達は特別だ」と強調したので、ちょっとむかついた部分もありました。「そんな事わかっているから、あんまり強調するな」と抵抗を感じました。彼らは、「あなた方、異邦人クリスチャンは私達に協力したら、いい事がありますよ」と、少し、上から目線で語るところもあったので、ちょっぴり抵抗を感じました。しかし、聖書を読むと、次のみ言葉が与えられました。
 ガラテヤ人への手紙6章14節〜16節、

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。』

 ここで語られているのは、私達の基準が何かと言う事です。それは、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」というのです。
 何週間か前に、「命の木と善悪の知識の木」というテーマを語らせて頂きました。人類が善悪の木を選んだ時に不幸が始まりました。神が「善悪の知識の木の実を取って食べたら、死ぬ」と言われた真の意味は何かと、お話しさせて頂きました。
 しかしその木は遠い昔の話ではなく、今でも私達の目の前にあり、いつも選択を迫られていると話しました。

 善悪の知識の木、というのは、自分の知識で神を解き明かしたり、自分の知識で生きていこうとする、自分を中心とする考え方です。神を中心として、神に全幅の信頼を寄せなければならないと話しました。そして救いとは、我々がどう頭をひねっても、その意味を知る事ができない場所にあると話しました。
 まさにイエス様の十字架は、その象徴なのです。イエス様が私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった、というのは理論的にはっきり解明出来ません。「二千年も前の事にどういう関係あるんだ?」という感じですが、それを事実としてそのまま受け入れる時、命が与えられるわけです。
 と言う事は、私達が誇りと出来るものは、自分の知識とか経験ではなく、神に対する全幅の信頼にあるわけです。ですから“十字架以外に誇りとするものはない”のです。
 しかしパウロの十字架理解はすごいです。「この十字架によって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられた・・・」この世界観はあまりにも深く、大きいです。“自分と世界”これが、十字架による関係です。世と関わりがなくなったのです。“世界”とは世の知識です。世の知恵によって神を見出そう、という画策も十字架によって死んでしまい、関わりが無いというのです。

 何と私達は、十字架によって命が与えられる、この基準に従って歩む人々、「すなわち神のイスラエル」の上に、神の平安と憐みがありますように、とあります。
 イエス・キリストの十字架を基準として歩む人、それが「神のイスラエル」なのです。“自分対世界・世界対自分”という十字架理解を基準として歩む者が、すなわち、「神のイスラエル」です、と言っているのです。

 と言う事はどうでしょうか。エレミヤ書11章の“再びあなたを立て直しますよ”というのはイエス・キリストの十字架によってもたらされる祝福です。そして、私達は神のイスラエルとして、その使命を果たす事が出来るのです。そこにはユダヤ人、異邦人という区別はなく、皆、イエス様の十字架を中心軸とし、神の民となるのです。
そして、神様は永遠の愛を持っておられる方ですから、何度も訪れ、愛を現わして下さるのです。私達は一度、愛を拒否されると、もう二度とその人と関係を回復しようとは思わない傾向があるのではないでしょうか。周りの人から悪口を言われたり、ひどい事をされたら、「もう二度とあの人とは口をきくものか」という感じです。

 しかし、イスラエルと神という構図で考えると、イエス様がイスラエルに生まれ、素晴らしいプレゼントを持って現れて下さったにも関わらず「そんなプレゼントいらない!」と彼らは捨てて、偶像礼拝に戻ってしまいました。しかしイエス様はそんな人達に再び現れて、彼らを救おうとされています。それを見る時、神の愛の深さと“再び”というキーワードが動いている事がよくわかります。

 イエス様は十字架にかかりよみがえられ、四十日間人々の前に現れました。その十日後に聖霊が注がれました。その時弟子達が何を語ったかと言うと、ユダヤ人達に悔い改めを迫ったのです。

使徒3章19節〜20節、

『そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』

 実はイエス様を拒否して十字架につけたユダヤ人達に対して、普通なら、カンカンに怒って「この野郎!」という感じになると思いますが、十字架事件が起こってほんの二か月たらずで聖霊が注がれ、十字架につけた律法学者や祭司長達を目の前にして、「あなた方の罪をぬぐい去って頂くために悔い改めて、神に立ち返りなさい」と語られたのです。
 神様は本当に愛の深いお方だと思います。ほんの2ヶ月足らず前、救い主を殺したのにも関わらず、何と、こんな愛の言葉をかけているからです。そして、彼らがイエスさまを受け入れやすいように何を行ったかというと、奇跡です。
 使徒3章1節〜8節、

『ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。』

ユダヤ人達は救い主イエス様が来られたのにも関わらず、葬り去ってしまい、前と同じように、宮に来て「救い主が来ますように」と毎日の祈りをしていたわけです。
 この宮の入り口の美しの門前には、足の不自由な男が寝そべっていて「右や左のだんなさん、私にお恵み下さいますか」と、物乞いをしていたわけです。それは日常の風景でした。この足の悪い男もユダヤ人であり、ほんの一カ月半位前にはイエス様を拒否していたのです。しかし、何が起こったのかと言うと、ペテロとヨハネが、「私を見なさい」と男に言ったのです。男は金をもらえると思って喜んで二人を見ると「金銀は私にはない。しかし、私達にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名前によって歩きなさい!」と言いました。
 何と、二人がイエスの名前を使った時に、この男が立ち上がったのです。これは周囲の人々にとってたいへんショッキングな出来事だったと思います。

 イエス・キリストという人物は葬り去られ、近頃は天に帰ったとか、姿が見えなくなったという噂を聞いていた事でしょう。やっと事件も一段落して、やれやれと思っていたと思います。しかし何と、いなくなったと思われたイエスの名前を使って、「立ち上がれ」と命じた時、奇跡が起きたのです。それはイエスが今もなお活動している証拠を意味しました。
 そして奇跡の後に弟子達が語った事は「皆さん、今使ったのはイエス様の名前ですよ。あなた方が拒否したイエス様の名前ですよ。イエス様は救い主ですよ。あなた方は拒否したかもしれませんが、神の愛は永遠ですよ」という意味であったに違いありません。「2ヶ月前は彼を拒否したでしょう、しかしこの証拠を見て下さい、イエス様の名前でこの男は立ち上がったではないですか。だから、皆さんも悔い改めて下さい」と。そして、次に語られた言葉が何であったかと言うと、三章二十節、

『それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』

 どういう意味かと言うと、イエス様はイスラエルに来られましたが、もう一度、ここに来られると語ったのです。これを“再臨”と言います。もう一度、イエス様が来て下さるという預言です。普通なら、拒否した人々の所に誰が来るものか、と思います。
 私も今回ネパールに行きますが、「順、もうネパールに来るな」と言われたら、二度と行きません。「また来て下さい」と言われたら、行くかもしれません。

 しかしイエス様は「来るな」と言われたのに、悔い改めたら「また来るよ」というのです。ここを見ると、私達の神は愛の深い方である事が分かります。この、“再び”というキーワードがここにも動いているわけです。「よく拝んだら神になるけど、放っておけば鬼になる」というような神ではなく、繰り返し、永遠の愛を持って訪れて下さるお方なのです。しかも、その証拠を見せて、「あなたを立て直してあげますよ」と語って下さるお方です。

 イエス様がもう一度この地上に帰って来られる、それを「再臨」といいます。それも、イエス様は昔と同じように肉体を持って、エルサレムに入城される日が来るのです。今は教会の時代であり、その役割は「霊的戦い」が大きな使命です。それを言いかえれば「宣教」です。宣教とは、「暗闇の支配下から、神の支配下」に人々を勝ち取る働きです。しかし、私達がいくら戦っても、福音を伝えても、全ての領域を勝ち取る事は出来ません。やはり最後の決着は、イエス様が帰って来られる時につくのです。その事が第一コリント人への手紙15章20節〜26節にあります。

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』

 イエス様は目に見えませんが、今も働いて下さっているのです。その働きは“全ての敵を足の下に置くまで”となっています。今には目に見えないけれど、働いておられるのです。そしてやがて、イエス様が栄光の体で、この地上に再び訪れて下さる日、それが人類の歴史の終わりの日です。その時、あらゆる支配・権威、権力を滅ぼすと。これは、見える敵も見えない敵も全て滅ぼし、国を父なる神様にお渡しになる、というのです。それまで教会は全力で戦うのです。イエス様が再び帰って来られた日に、私達教会は、「暗闇の世界をこれだけ勝ち取りましたよ」と胸を張って、主に申し上げる事が出来るようになりたいと思います。
 イエス様が帰って来られる日、それが戦いの終結の日であるわけです。その日まで、私達は戦い続けなければならないのです。そして、神の愛は繰り返し、私達の所に押し寄せるものであり、拒否しても、決して諦められる方ではなく、何度も訪れて「あなたを永遠の愛をもって愛していますよ」と語って下さるのです。

 皆さんの周りにも、「この人は固い、何度語っても拒否するし、この人が救われるのは無理だ」という人がいるかも知れません。しかし無理だとは思わないで下さい。神の愛は「再び」というキーワードと共に、永遠の愛により人々を愛して下さるお方であることを知りましょう。
 イスラエルで祈っている時「神の愛は本当に素晴らしい」と感じました。やはり現地に行って聖書を読むとよくわかります。日本で読んでもわからないのが、現地、現場で読むと「このようなシチュエーションで起こった事か・・・」と、開かれる所が多くありました。

 最後に、皆さんとご一緒に、エレミヤ書31章3節〜6節を、声に出して読んでみたいと思います。

『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」』

 一言お祈りします。


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