「あなたの立場は?」


2010.2.7(SUN)
新城教会 上條実 牧師

第一コリント人への手紙 2章9節
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

ハレルヤ!今日も皆さんとともにみことばを学ぶことができますことを心から感謝します。先ほどお読み頂いたみ言葉は、私の大好きなみことばです。今年も一ヶ月過ぎてしまいましたが2009年を振り返って見て、私に下さった出来事はまさに神様が本当に良くして下さった。
まさに

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

というみことばを体験させて頂いたと感謝しています。本日は「あなたの立場は?」というタイトルで学んでいきたいと思います。先週ある方から「高校に合格しました」と喜んで報告して下さいました。一緒にお祈りしてきましたので、本当に私も嬉しく思いました。また何人かの兄姉が、高校や大学の入試を控えておられる方もおられます。是非続けてお祈りしていきましょう。合格したという喜びの知らせを聞くと本当に感謝な事です。私達クリスチャンに、神が「見た事も聞いた事も思い浮かんだ事もない祝福を神様が私達に備えて下さる」と言うのですから、このみ言葉をいつも信じて頂きたいものです。今まで見た事も聞いた事も思い浮かんだ事もない驚くような祝福を、神様は私達に与えてくださるというのです。
高校に受かった方はその高校に行く権利があります。しかし合格通知を頂き、入学金等も支払ったにもかかわらず、合格を疑い続けてその学校に行かなかったらどうでしょうか?せっかく努力し、お金も支払ったにも関わらず、その入学はキャンセルとなってしまいます。私達の信仰も同じだと思います。第一コリント2章9節「見た事も聞いた事も思い浮かんだ事もないような、神の素晴らしい祝福」を下さると、神が言って下さったにも関わらず、私達が信じず、受け取らなかったら私達には祝福を頂く事はできません。
今日午後六時から東京近辺で就職したり、学んでおられる方々のために東京集会を行います。そのため新幹線にて東京に出かけます。もしあなたも東京へ出かけるとしましょう。新幹線のグリーン車のチケットを購入したとします。その火あなたは山ほどの荷物、それも重たい荷物を持って出かけようとしています。グリーン車のチケットを持っているのですから、最高にすばらしいシートでゆっくり旅を楽しむことができるはずです。しかしなんと乗車率200パーセントというような自由席の車両に乗りこみ、すし詰め状態の通路のど真ん中で、荷物を降ろす事もできず必死で耐えて行くとしたらどうでしょう。行く場所とかかる時間は同じでも、雲泥の差があります。グリーン車のチケットがあっても自由席に行ってしまったら、何ともったいない事であるし、私でしたら、東京に到着した頃には動けなくなってしまっているかも知れません。私達の信仰生活も同じことをしていませんか?ある方の信仰生活はグリーン車に乗り、ゆったり座って、読書したり、ある方は音楽を聴いたりして旅を満喫しているかも知れません。しかしある方は、荷物を持ったまま自由席に立っているような信仰生活を送っていて「信仰とは何でこんなに苦しいものなんだ。」と苦しみ、辛くてたまらない状況の方もいるかも知れません。あなたはどちらでしょうか?私たちは知っています。イエス・キリストを信じたクリスチャンは、最高の祝福を頂く事を知ってはいます。しかし現実はどちらでしょうか?先週、私はヨブ記16章を読みました。その1節〜6節には、

『ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。たとい、私が語っても、私の痛みは押えられない。たとい、私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るだろう。』

とあります。皆さんはヨブがとてもきよらかな人であったことを知っています。そして彼は大きな試練を通りました。その試練の中友人であるテマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルが来てヨブに色々な忠告をしました。この16章の所ではエリファズという友人が、攻撃的にヨブを責めている箇所です。そののちヨブが16章で答えています。私は先ほど読んだヨブ記16章の4節のことば、

『私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し』

にあるように、私がお前達と同じような状況になれば私もお前達と同じように攻撃するだろうと言っている所を読み「私の立場」と言う所ですごく教えられました。一クリスチャンとして、問題を抱えている方々に対してみことばから「神さまを信じれば大丈夫」とアドバイスすると思います。理想と現実ということばがありますが、アドバイスをするときは、「神さまを信じなさい」と簡単に言うことができます。しかし自分が苦しい立場にあれば、わかってはいるけど何でこんなに辛いのだろうと苦しむと思います。「あなたの立場は?」というタイトルをつけさせて頂きましたが、今日あなたがどの立場で話しているのか?そして現実どちらの立場に立っているのかを考えて頂きたいのです。私がこの2010年に与えられたみ言葉はローマ12章3節です。

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』

教えられたことは「思うべき限度を越えて思いあがってはいけない」と言うことと「信仰の量りに応じてつつしみ深い考え方をしなさい」と言うことでした。新城教会は滝元明牧師夫妻が約60年前に北設楽郡の津具村に入り教会を始まりました。その後設楽町八橋という所に移り、そして新城市の新城中学校前に移り、そして現在の場所に約50年前会堂が建てられました。津具村での開拓伝道時を考えると、当時から今を見ると、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないものばかりだと思います。神はこんなにすばらしい祝福を備えて与えてくださいました。リバイバル聖書神学校、プレイズ出版、全日本リバイバルミッション、そしてざわめきの賛美が生まれるなど、素晴らしい祝福を頂くことができました。しかしここまでの祝福は、必死で伝道してきたからとか、よく祈ったから、リバイバルのために必死に戦って来たから、この教会を神が祝福して下さった。愛知県民の森で祈って祈って、祈り続けて、1992年に聖霊様が訪れて下さった。必死に神さまのために祈り、働いたからと思ってはいけない。自分たちが勝ち取ったものでは全くなく、ただ主が私たち教会に祝福を下さったのです。「感謝」の反対語は「当たり前」だそうです。神さまが100%与えて下さった恵みでありながら、感謝どころか「当たり前」になっていないでしょうか?「思うべき限度を越えて思いあがってはいけない」「信仰の量りに応じてあなたはつつしみ深い考え方をしなさい」このみことばは、高慢になるのではなく、神は私達新城教会に、使命があるからこそ、主が扉を開いて下さった。自分が勝ち取ったのではなく、主が私達に与えて下さったのです。教会というのは主が頭であり、私達は各器官です。私たちの新城教会は主が頭であり一人一人は各器官であり、その一つ一つは主から任された使命、各器官なのです。各器官、あなたは一つの器官を担っています。あなたはあなたの立場をしっかり知り、任せられた器官、立場を越えてはいけない。へりくだって立場をしっかり認識して働きなさいと言われています。決して高慢になり、当たりまえと思い、思い上がってはいけないと教えています。私達は一人一人各器官です。主が新城教会の中であなたにだけ与えている使命があります。みんな一緒ではありません。ですからあなたしかできない働きを忠実に、思い上がって他の人の器官まで、首をつっこまないで働きなさいと教えられました。神様から私に与えられた立場を知り、一致していく事が大切です。各器官を尊重し、愛し合い、特に痛んでいる人がいるならば、その人のために痛みを負い担っていかなければなりません。他の人を裁いてしまったり、軽視したりしてはならない。キリストの愛の中で、一つとなって行くことを求めなければいけません。ローマ書の12章15節に

『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』

というみ言葉があります。教会はひとつのからだであり、大きなファミリーです。目立つ器官もあれば、目立たない器官もあります。目立つ器官ばかり評価されますが、かえって弱い器官の方が必要だとあります。あなたは一つの器官、任せて下さった領域であり、人と比べるものではない。あなたという器官、立場を知り、働き始めるとき、健康な体、健康な教会となります。立場が違うという事がわかったなら、痛みを共有することが出来ます。今日あなたがどんな性格で、どんな家庭で、どんな地位にあり、経済的、能力であるかすべてをご存じあり、だれも劣っているというのではなく、立場を担って行きなさいと教えています。他の人を責めたり、ねたんではいけません。そこに悪魔は働くのです。「思うべき限度を越えてはいけない、信仰の量りに応じてつつしみ深い考え方をしなさい」自分が神様からどの器官として、どの立場であるかをもう一度考え、祈りましょう。感謝しましょう。「目が見た事のない、耳が聞いた事もない、思い浮かんだ事もない」祝福は神様が下さいます。
では私たちひとりひとりは神さまから見るとどんな立場でしょう。それはヨハネ1章12節 

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

イエスキリストを信じる時、私たちは神の子にして下さるのです。また第一ペテロ1章3節〜5節には

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。』

この四節の中に『消える事のない資産を受け継ぐようにして下さった』とあります。消えゆく事のない資産を受け継いでいる。大きな資産を、それも消えることのない資産を持つ人として下さいます。私達はただイエスキリストを信じただけで、神の子どもとして頂き、資産を受け継ぐ者という立場に変えて下さるのです。以前滝元順牧師が礼拝で「人とはいったい何者なのでしょう」というみ言葉を語っておられました。私たちは本当に、本当に小さな小さな存在です。しかし私たちは錯覚してしまいます。少し地位などがあると高ぶってしまいます。自分が何かすばらしい存在かのように考え、高慢になりやすいものです。今日自分の立場を知り、神の前にへりくだって、すべてをゆだねること、明けわたすことが大切です。すべてを明け渡すとき、主は私たちに祝福を下さいます。聖書を見ると素晴らしいみ言葉ばかりです。聖書とはヨハネ1章1〜3節に

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』

ことばは神であったというのです。この聖書は神さまご自身です。私たちがいつも聖書を読むことが、神と交わり、神のことばをいつも聞いていることになります。常に神の声を聞きましょう。聖書を読みましょう。あなたの神はどんな方でしょうか。救い主、いやし主、助け主、全能なる主など、私たちは聖書からこんな神さまですと語ることはできます。そのような神さまだと信じていながら、知っていながら、自分の生活では、新幹線の自由席に重たい荷物を持ち続けている状況です。
今日みことばを信じましょう。今も生きています。本の世界に書いてある空想の神ではありません。今も働いて下さり、この方によらずにできたものはありません。その方が私の神であり、神の子として下さり、資産を与えて下さる神さまなのです。重たくてたまらない荷物は下ろすことができます。あなたが持ち続けなくて良いのです。あなたはグリーン車で荷物を下ろして旅を楽しむことができます。悪魔は問題や病いなど、あなたの荷物を見させ、大変だぞと思わせて来ます。しかしあなたの手にはグリーン車のチケット、いやそんなものよりももっとすばらしい状況の中を、平安で過ごす事ができるようにして下さいます。私たちは何もできないものですが神の子どもとして下さいました。聖書にあることを信じた時、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

このみことばがあなたの人生に起きはじめます。祝福の連続です。有名なイザヤ43章4節には

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ』。

このみ言葉を素直に受け取って下さい。あなたを愛して下さる神さまがおられます。それも世界であなたほど高価で尊いというのです。尊いとは辞書を見てみると、「崇高で近寄りがたい。神聖である。また、高貴である。きわめて価値が高い」とあります。神はあなたをこの世の中で一番愛している。気にかけているとみことばは言っています。またイザヤ書43章11節には

『わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。』

私は救い主だと語っています。イエスキリストを信じるあなたは救われています。他の神には救いないのです。あなたがイエスを主ですと告白した時、どんなことがあってもあなたを責任持って、消えることのない資産、天のみ国につれて行って下さいます。またマルコ1章41節では

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」』

これは以前の聖書では“らい病”と書かれてありましたが、今ではツァラアトと書かれています。重い皮膚病の事です。その病で苦しみ、差別されていた方に、イエス・キリストは「私の心だ、きよくなれ」と手を伸ばして彼に触れて下さったとあります。病気のものが手を伸ばしてイエスにさわったのではなく、イエス様の方から触れて下さり、その病を癒して下さったとあります。今日病のある方はイエスさまがあなたに手を伸ばして、触れていやして下さいます。またとても有名なみ言葉でマタイ11章28節

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

問題を自分で頑張ろうとするから辛いのです。今日、あなたの立場は主の前に出る事です。「主よ、私にはこんな重荷があります。助けて下さい」と祈るとき、主はあなたに触れて下さり、問題、重荷から休ませてくれます。また、ヨハネ14章27節には

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』

色々な不安に駆られる事があります。またこれからどんな時代になるのかわからず、すべてが不安かもしれません。しかしみことばを信じましょう。この世が与えるのと違う平安を下さる。あなた方は心を騒がせるなとあります。今どんな状態でも神さまは平安に過ごさせて下さり、あなたを祝福して下さるというのです。また、ヨハネ16章33節

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」』

様々な問題、困難にあなたが戦うのではありません。主が戦って下さるというのです。主は既に世に勝って下さったから大丈夫だと教えています。またマタイ10章28節〜31節では

『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』

主は雀さえもすべてご存知であり、あなたの髪の毛さえも全部数えておられるというのです。大きな神であり、またこのみことばからは細やかな神であると見ることができます。私たちが意識しないことまでも「恐れるな。私に任せなさい」と言って下さっています。また第二コリント1章4節では

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』

あなたが今どんな苦しみの中にあっても慰めて下さり、悩み、問題があってもなぐさめてくださり解決して下さる神です。神にゆだる時解決して下さり、慰めて下さいます。また第一ヨハネ1章9節

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

悪魔は責めるものです。私たちが失敗すると「クリスチャンなのに」「おまえは罪人だ」「聖くなければいけないのに」と責めてきます。確かに私たちは聖められることを追い求めて行かなくてはなりません。私たちはその悪魔が責める声を聞いて苦しんでしまいます。あなたのために十字架にかかられ、葬られ、三日目によみがえってくださった神の福音を、逆手にとって責めてきます。しかし私たちが罪を言い表すなら、罪を赦し、きよめて下さると言うのです。またマタイ6章26節

『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。』

今、不況で経済的に大変な時代です。これからのことで心配してしまいます。しかし主は「私達は鳥よりももっと優れたものではありませんか」と言っています。主は鳥をも支配しておられ、鳥をも養っておられる。そんな神が「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」と言って下さっています。今日色々なみ言葉をご紹介させて頂きましたが、まだ多くのみことばで私たちを励まし、助けて下さいます。一番最初に読んだみ言葉

『まさしく聖書に書いてある通りです。目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、そして人の心に思い浮かんだ事のないもの、神を愛するもののために神の備えて下さったものはみな、そうである』

あなたの立場は神の子であり、病気、問題などがあり、どんな状況にあったとしても神の備えて下さったものは、今まで経験したことのないすばらしい祝福です。あなたのために既に備えて下さっています。受け取りましょう。信じてそのまま受け取ったなら、あなたに神の資産を受け継ぐことができます。神の子供です。受け取る立場にあるものです。第一コリント2章9節のみことばを信じましょう。いまあなたがどんな状況であったとしても、主に任せて下さい。
私達は「荷物がいっぱいなので受け取れません。こんな問題やこんな病気、この悲しみ、大変で受け取れないんです」と自由席で必死に立っているような信仰生活を送らなくて良いのです。あなたの手には、神さまからのグリーン車の切符があります。主は全部ご存知ですから「主よ、あなたに任せます。こんな私ですが使って下さい。祝福して下さい。全部あなたに任せます」と祈るとき受け取る事が出来ます。
今日、あなたの立場は“神の子供”です。あなたの立場は、神の祝福を頂く事が出来る権利を頂いている者です。みことばをただ信じなさいと言うことは知っています。しかし信じると言うことが何かすごく遠回りするような、こんな事していて大丈夫だろうかと不安にさせてきます。しかし、そうではなくそれが一番の近道であり、安全な道です。自分で考えて行動するのではなく、今の現状を全て任せましょう。目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、そして人の心に思い浮かんだ事のない祝福を皆が体験できます。あなたの人生は全ての祝福です。今日、一生懸命頑張って、背伸びしたら疲れるだけです。全て自分自身をさらけ出し、人と比べたりするのではなく、神に任せましょう。みことばを神のことばとして受け取りましょう。そうすればあなたは神の祝福を頂けます。あなたの立場は神の子どもです。これからの人生、私は主からこんなすごいことをして頂いたと、驚くべき出来事をお互いに証ししあうものとなりましょう。あなたの立場は神の子どもです。お祈りしましょう。


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