「人生成功秘訣へのカギ」


2010.2.28(SUN)
新城教会 岡本信弘 牧師

ローマ人への手紙 8章31節〜39節
『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 ハレルヤ!主のみ名を心から賛美します。今日、こうして皆さんと一緒に、健康で主を賛美し、主の恵みにあずかることができる特権を心から感謝します。
 2010年も「少し前に年が明けた」と思っていたら、早や2カ月が過ぎ、明日から3月です。2カ月終わるということは、1年の6分の1が終わったことになり、「本当に早いな」と思います。この分だとあっという間に一年が過ぎ去ってしまい、早く年をとってしまう気がします。

 今、オリンピックが開催されていますが、皆さんも興味を持って見ておられることと思います。時差があるので、中継が夜中となり、それを見るために夜更かししている方もおられと思います(私は、ニュースだけしか見ていませんが・・・)。競技を見ている人は、「もう少しああすれば良かったんじゃないか、こうすれば…」などと簡単に批評します。しかし、選手にとってはどうでしょう。たった数分のために、血のにじむような努力をするわけです。それも、オリンピックに出場できるのは、ほんの一握りの限られた人だけです。選手は、国の代表であり、メダルが取れるか取れないかは別として、一つの分野においては、あの華やかな舞台であるオリンピックに出場しただけでも、成功者といえるのではないかと思います。
 しかし、私たちの人生において、どうなれば成功したかと評価するのは中々難しいものだと思います。

 先日東京に行ったとき、一軒の大きな本屋さんに入ったところ、平台に並んでいた中の「聖書・・・」という文字が書かれた一冊の本が目に留まりました。それは、ビジネスの本でした。私は時々、ビジネスの本を買って読みますが、あまり良い本に出会っておらず、「これはどうかな?」と思ながら立ち読みを始めました。するとその本には、私たちが今読んでいる聖書の新改訳と同じみ言葉がたくさん書き連ねてあって、“人生の成功の法則”が書かれていました。これは面白そうだと思い、それを買って帰りの新幹線の中で読みました。その著者は、自分がクリスチャンだとは書いていませんでしたが、多分クリスチャンだと思います。
 その中の初めの方にこんなことが書いてありました。
 経営セミナーに参加していた一人が、講師に「会社経営で成功するには、どんな本を読んだらよいか教えてください。たくさんありすぎてわかりませんから」と質問をしたそうです。その講師はクリスチャンではありませんでしたが、「ビジネスで成功するには聖書一冊あれば、そのほかの本を読む必要はありません」と言い切ったそうです。この本の著者は、そのセミナーに一緒に参加していて「ここまで言い切るとはすごい人だ」と感心したようです。そして、その言葉に同調して、「聖書は宗教書ではなく、人生の指南書であり、普遍的な法則と、私たちの生きる意味と価値について書かれた書物である」と自分の意見を書いていました。
 少し難しく書いてありますが、全体的には「ビジネスの成功のカギはすべて聖書の中にある」と言っている本だったのです。皆さんも読んでみるとおもしろいと思います。でも、聖書一冊あれば他の本を読む必要がなければ、この本も読む必要がなかったということになりますが・・・(笑)。
 人間の寿命は様々で、残念ながら数年しか生きられなかった人、90年、100年と長生きした人など、それぞれに人生があると思いますが、今日は、クリスチャン人生における成功のカギについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

 私も、聖書は、人生における最強の教科書であり、成功の手引書であると思います。
 ローマ人への手紙8章31節には、『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。』とあります。私たちが成功した人生を送るためには、まず、「神様を味方につけること」、これが大切なことだと思います。
 私たちはこの目で神を見ることはできませんが、神は、私たちが目で見ているすべての被造物を作られた偉大な方であり、今も生きておられ、働いておられ、この場所にも共におられることを、皆さんは信じておられると思います。
 しかし、人は、目に見えるものによって色々なことを判断します。一方、神は見えないものに目を留めておられることをみ言葉から知ることができます。
 『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント4章18節)
 私たちはいつも目に見えるものを追い求めています。「これだけあれば幸せになれる」と考えます。ビジネス書の中でも「金持ちになるために、どうすればよいか」ということが書かれている本がよく売れるそうです。多くの人が「金持ちになることが成功の秘訣」だと考えているからでしょう。しかし私が読んだ本には、「私たちが目的を達成するためにお金を儲けることは必要だけど、金を儲けたからといって成功するわけではない」といったこと書かれていました。人は、どれだけたくさんの金を持ったら、成功したと思うのでしょうか。
 アメリカで「言葉の定義コンテスト」というのが開催され、お金の定義というものが新聞に掲載されたそうです。そこには、「お金とは、天国以外のすべての所に連れていき、幸せ以外のすべてのものを買うことができる手段」と書いてあったそうで、私もなるほど・・・と思いました。これが正しい定義だとすると、お金では私たちが求めているもの、欲しいものを何も手に入れることできないということになります。
 ある人が事業で数年の間に300億円を儲けたそうです(そんな大きな金額のお金を見たことがないので、300億というのがどのくらいの量なのかも想像がつきませんが・・・)。しかし事業に失敗し、あっという間にすべて失ってしまったそうです。その頂点と底辺を味わった後、テレビ局からインタビューを受けたそうです。
 一文無しになり、奥さんと二人きりの狭い1DKのアパートで、彼はアナウンサーに向かって、「皆さんは、今の私を見て、何と惨めな生活だと思われるかもしれません。でも、妻と二人のその日暮らしの生活の方が、300億を手にしていたときに比べたら、断然幸せです」と笑いながら言ったそうです。そして、「私が300億を手にしていたとき、何を考えていたかわかりますか。その金をどう使うかではなく『300億をいかにしたら500億にできるか』と、そればかりを頭に思いめぐらしていたのです。何と浅はかであったかと思います」と、淡々と語ったそうです。
 マタイの福音書6章19〜20節には『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。』とあり、また、16章26節には、『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。』とあります。どんなにこの世の富を手に入れても、人生の成功者になることはできないことは皆さんもよくご存じだと思います。
 私たちの成功の秘訣は、神様を味方につけ神様と共に歩むこと、これが大きな成功への条件、カギだと見ることができます。

第二番目に、自己実現ではなく神のみ心の実現のために働く、これが成功への近道だと教えています。
多くの人が自分だけ儲けて、自分だけが成功すればそれで満足だと考えますが、まことの神様に生かされている私たちは、成功してたくさん儲けても、それは“神様から預けられたもの”であるということを忘れてはならないと考えます。
 ローマ人への手紙8章32節には、『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』とあり、「み子イエス・キリストを死に渡したほどに私たちを愛してくださった方が、必ず私たちを恵んでくださる」ことを教えています。
 マタイの福音書22章に、あるパリサイ人が自分の正しさを主張するためにイエス様に質問した記事が書かれています。
 「『先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか。』そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」」(36〜39節節)
 皆さんもこのみ言葉をよくご存じだと思いますが、この二つの戒めを見てみると、共通点があります。それは、このどちらも、『自分のためではない』ということです。つまり一つは“神様のため”、一つは“あなたの隣人のため。あなたの隣に座っている人のため”に愛を注ぐこと、これが神様から私たちに与えられた戒めであり、祝福の源だと聖書は語っています。
 私たちは神様から恵みをあずかっています。それをどう使いますか?
 マタイの福音書25章には、タラントの例えが出てきます。主人が旅に出かける前に三人のしもべを呼んで、一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラントを預けていきました。預かった人はさぞ大変だったと思います。「5、2、1」というと大した金額には聞こえませんが、1タラントは6000デナリで、1デナリは一日分の労賃とありますから、一日の賃金を1万円と換算すると、1タラントでも6000万円です。ということは、5タラントというのは3億円です。それだけのお金を預かるには責任が伴います。
 彼らはどうしようかと考えたと思います。結果、主人が帰って来たとき、5タラント預かった者はさらに5タラントを儲け、10タラントを主人に差し出しました。次に、2タラントを預かった人も、さらに2タラントを儲けて4タラントを主人の前に差し出しました。主人は、その金を見て言いました。「『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25章21節)
 私はこのみ言葉がすごく好きです。私も神の前に出たとき、「よくやった、良い忠実なしもべだ」と言っていただけるような者になりたいといつも願っています。
 しかし1タラントを預かった人がどうしたかというと、「これをなくしたら大変だ。ご主人は厳しい方だし、何を言われるかわからない」と思い、そのお金を土の中に隠しておき、主人が帰ったとき、1タラントをそのまま差し出したのです。主人は、「あなたは私が厳しい者だと知っていたというのか。それならば、なぜ貯金しておかなかったのか」と言い、「持っている1タラントを取り上げて、20タラント持っている者にやりなさい」と言ったのです。この主人は、このしもべが一生懸命やったにもかかわらず1タラントを失ってしまったなら、怒りはしなかったでしょう。しかし彼は、自分のことしか考えていなかったのです。
 このように、神様から預かったものをどう使うかが、すごく重要なのです。
 このマタイの福音書6章33節は、皆さんのよく知っているみ言葉です。
 『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』
 私たちが、「これが必要だ」と思っているもの、それは私たちが神の国と神の義を第一に求めればすべて与えられる、と神様は約束してくださっています。私たちはいつも神様を喜ばせるために何ができるかと考え行動したなら、そこに神様のみ業が現されるのです。

 また、成功する秘訣の第三番目は、各器官としての役割を担うということです。
 ローマ人への手紙8章34節を見ますと、『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』とあり、私たち一人ひとりは、本当に弱く足らない者ですが、イエス様があなたをとりなしてくださっていると、教えています。イエス様が天においてとりなし祈ってくださっていると思うと、本当に勇気づけられます。 高校受験や大学受験を控えている学生さんがいらっしゃいますが、「試験は一発勝負だから、大丈夫かな・・・」と不安になると思います。また、4月になって、進級、進学、また就職して、新しい環境に入っていくときには、多くの人が「どうしたらいいかな」と、不安を覚えるでしょう。家族の中に病気の人がいたり、色々な問題が山積したりするとき、私たちは思い悩みます。
 あるテレビ番組を見ていたとき、不安を覚えている多くの人の中で最も不安が大きいのは、独り暮らしをしている老人だと言っていました。元気なときはいいのですが、歳をとって病気をしたとき、「このまま寝込んで、誰も知らないうちに死んでしまうのか」と、すごい不安にかられると言っていました。私は独り暮らしをしたことがないのでわかりませんが、きっと、不安だろうなと思います。
 様々な不安に常に襲われているような方もいらっしゃるようです。私は、あまり不安に心が支配されることがありません。よく言えば“神様にゆだねている”と言えますが、実際は、物事をあまり深く考えていないと言えるかもしれません(笑)。
 不安について、ある精神科医がこんな分析をしていました。「人が悩んでいるうちの40パーセントは絶対に起こり得ないこと、30パーセントは自分が考えてもどうにもならないこと、10パーセントは自分の健康のこと、8パーセントは実際直面する可能性のある問題についてである」と。
 悩みや不安の40パーセントが、絶対に起こり得ないことだと言うこの人の見解に、驚きを覚えるとともに、「なるほど」と思わされました。この数字が確かであるなら、人は、なんと取り越し苦労の多い生き物なのだろうと思います。
 それでも多くの人が問題を抱え、一生懸命自分でそれを解決しようと努力するのです。それでもどうにもならず、追いつめられ、不安に陥り、精神的な病になり、自殺をする人も多くいます。そんなに追いつめられる前に、一度教会に来てくれたらいいのにと思います。
 聖書にはこのようなみ言葉があります。 
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(ペテロの手紙第一 5章7節)
 なんと心強い言葉でしょうか。私たちが自分で一生懸命頑張ろうと思っているときには、「あなたがそれを自分でやってみなさい」と神様は言われます。しかし、「もうお手上げです。助けてください」と、私たちが神様にすべてをゆだねるときに、神様が心配してくださり、助けを与えてくださるというのです。
 私はプレイズ出版の働きをさせていただき、今年で20年になりますが、これまで皆さんのお祈りに支えられ、神様に守られてきました。しかしいつも順調だったわけではありません。
 10年くらい前のことですが、一つの大きな仕事の話が舞い込みました。気になることがいくつかありましたが、売上も落ちていたときだったので、なんとかその仕事を取りたいと、見積書を出したり、商談に行ったり、電話をかけたりと、様々な努力をしました。しかしその仕事を取ることができませんでした。私は「仕方ない」と諦めて、神様にゆだねて祈っていましたが、その後、色々なことが整えられたときに、良い仕事が与えられたという経験がありました。
 目的のために努力は必要ですが、不安を解決しようともがくようなことは不要です。そのようなものは握りしめるのではなく、手を離して神様にゆだねたなら、神様が良い方向へと導いてくださるのです。私もそのような体験を何度もしていて、神様に本当に感謝しています。
 また、今日ここには300人以上の方が集まっておられますが、この教会には、今日来られてはいないけれども、合わせると600人ほどの会員がおられます。イエス様を信じる私たちは“神の家族”です。イエス様にお互いに祈ることによって、支え合うことができます。
 コリント人への手紙第一 12章26〜27節には、『もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』と書いてあり、私たちの体が様々な器官で構成されているように、一人ひとりがキリストの体の各器官を担っていると教えています。
 「自分は何の重要な部分も担っていないんじゃないか、必要ないのではないか」と思っておられる方がいるかもしれませんが、それぞれが必ず担っている器官があり、なくてはならない存在なのです。「私はどの部分を担っているのかな」と考えたとき、私は食べるのが早く、また胃腸を悪くしたこともほとんどないので、「ひょっとすると胃袋かな」などと思いましたが・・・(笑)。
 皆さんがキリストの体のそれぞれの部分を担っているのですから、一人が欠けたなら色々なところに支障が出たり、機能しなかったりするのです。誰もオールマイティーの人はいません。一人で何でもできるわけではありません。だからこそ、お互いに祈り合い、仕え会っていくことが大切です。また、自分が人のために祈ることと同時に、神の家族である兄弟姉妹が自分のために祈ってくれていること、何より、神様がとりなし祈ってくださり、私たちのことを心配していてくださることを是非覚えてください。 
 そして、神様は、心配してくださるだけでなく、天の軍勢を遣わして守りを与えてくださいます。車を運転しているときなど、「もう少しで事故に遭うところだった」、「危なかった」と思ったことはありませんか。そんなとき、世の人は「ああ、助かった! 運が良かった」言いますが、確かに神様が天使を遣わし、守っていてくださるのです。人間をサポートするために遣わされるのが天使です。ですから私たちは、守りの中にあって日々の生活を送ることができるのです。これは本当に神様の恵みです。
 先日、順先生がネパールでのことを報告してくださいました。実際に現地に行かれた人の話を聞くという機会がなかなかないので、知らないことばかりで本当に驚きました。なんとすごい生活をしているのか、とてもそこには住めないと思いました。それに比べて私たちは、暖かい所でメッセージを聞くことができ、風呂に毎日入ることができ、便利な物に囲まれて、それがどんなに恵まれたことかとあらためて感じました。また、いまだに食べる物にこと欠く人々が世界では何億といるといわれますが、そのような人たちに、何とか手を差し伸べることができればと思われた方も多いのではないかと思います。私たちはもっと今の自分を感謝しなければいけません。

 先日、東京のある駅で、線路に落ちた女性を一人の男性が助けたというニュースを皆さんもお聞きになったと思います。テレビでは、“この空白の一分間に”というがついていました
 この男性は、電車が迫るなか、わずか一分の間に、泥酔して線路に落ちた女性を、線路の間にまっすぐに寝かせ、自分は電車が来る直前にホームの下にもぐり込んだのです。電車は、その女性の上を通過し止まりました。女性と電車との間はわずか30センチだったそうですが、助けた男性はもちろん、その女性もほとんど傷も負わずに助かりました。
 一分間という短い時間内に、女性の体位を変え、自分も安全な場所へ避難するというこの男性のとっさの機転と行動力は、すごいと思いました。先週も私は東京に行ったのですが、ホームに立ちながら「自分が事故に遭遇したらどうするか」と考えました。
 線路に落ちた人を見て、ホームから線路に降りるまではできたとしても、その後、私だったらその女性を担いで、なんとかその人をホームに上げようとすると思います。しかし、一分という短い時間では、それは到底無理で、あきらめるか、もしくは二人とも電車にひかれるかのどちらかだったと思います。

 こういった事態に出くわしたとき、誰もがこの男性と同じことができるわけではありません。また、ネパールへも、助けてあげたいと思って誰もが行って何かをできるわけでもありません。順先生は、「今度は若者を連れて行きたい。一度行けば人生観が変わる」と言われましたが、私は、「自分は若者でなくてよかった〜」と思ったくらいでした(笑)。
 皆が同じことができるわけではないですが、私たちに与えられている働きがあります。賜物があります。キリストの体の各器官として、皆さん一人一人に与えられているものを最大限に生かして神様のために生きることを、神様は私たちに願っておられます。

 一方、「成功の裏には必ずサタンの罠がある」ということも是非覚えていていただきたいと思います。
 ローマ人への手紙8章35節には、『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。』とあります。人に言えないような様々な問題、悲しみや苦しみが皆さんを襲ってくることがあります。そのすべてがサタンの働きというわけではありませんが、何とかしてキリストの愛、恵みから遠ざけようとするサタンの働きがあることを是非知っていただきたいのです。
 ペテロの手紙第一 5章8節には、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』とあり、サタンは何とかして私たちを不信仰へと引きずり落とそうとしています。その策略にはまることがないように、現実的に私たちに襲いかかる迫害や苦難や問題に、立ち向かっていただきたいと思います。
 また、私たちが知らない間にサタンが忍び寄っていることがあるのです。3月3日はひな祭りですが、ひな祭りや七夕などといった日本の文化や行事に潜んでいる罠があります。新城教会は、そういった罠にかからないようにと語られているので、皆さんは気をつけていらっしゃると思いますが、キリスト教会であっても、七夕のささを飾ったりしているところもあるそうです。
 また、多くのビジネス書には「あなたが強く望めばその通りになる」、「あなたは必ずできる、成功する」ということが書かれています。これはすごく魅力のある言葉です。これは、自己啓発であり、一見正しいように見えますが、すごく大きな落とし穴があります。
 私たちは神様の手の中にあって、初めて前進することができ、成功し恵みをいただくことができるのですが、何か成功を遂げたり、お金を儲けたりすると、自分が何かをしたから成功したかのように錯覚してしまいがちです。それは高ぶりという罠です。実業家の中にも、クリスチャンであっても、牧師でさえも、そうしたサタンの策略にはまった人も大勢います。ですから私たちは、この高ぶりという罠に充分に気をつけなければならないことを是非覚えてください。

 そしてもう一つ、成功の道を歩むために、その根底に“愛”を持っていることが大切です。皆さんは、神様が愛なるお方であることをよく知っておられます。その愛なる神様を信じている私たちは、愛を土台として、すべてのことを行っていきたいものです。どんなに成功しても、愛がなければがなければ何の意味もないということを覚えてください。
 『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(ヨハネの手紙第一 4章7〜10節)

 誰も、自分自身を愛していない人はいないでしょう。しかし、神様は、ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださるほどに、私たち人間を愛してくださいました。そして、それほど私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となれるのです。
 『私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』(ローマ人への手紙 8章37節)
 私は、神様の大いなる恵みと愛を頂いて、生かされていることを本当に感謝しています。そして、神様から与えられた愛を表していくとき、さらに祝福され、本当の成功者となることができると信じています。

 最後に、ローマ人への手紙 8章38〜39節をお読みします。
 『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』
 私たちは、私たちを愛してくださるイエス様に従い、共に歩んでいきましょう。そして聖書のみ言葉を土台としていくなら、必ず祝福され、成功した人生を歩むことができます。そのことを覚えて、お互いにとりなし合っていきたいと願います。


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