「安心して帰りなさい!」


2010.3.7(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

マルコの福音書 5章34節
『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 3月が始まり、忙しい毎日が続いている事と思います。やらなければならない事が沢山あるかもしれませんが、主を礼拝する時間は常の忙しさから解放され、霊的にも心の健康においても、身体の健康においても大変よい事です。今日のみ言葉ですが、時々ここから語らせて頂いているのですが、私の大好きなみ言葉の一つです。もう一度読みたいと思います。

『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 ・・・『安心して帰りなさい』
 この言葉をイエスさまからかけて頂いた女性は、どんなに嬉しかった事でしょう。マルコ5章12節から見ますと、何故この女性がこのような言葉をイエスさまからかけてもらえたのかが分かります。
 この女性は12年間長血をわずらっておりました。多くの医者からひどい目にあわされ、自分の持ち物をみな使い果たし、かえって悪くなる一方でした。“先が見えず出口が無い”それこそ、最も希望がない状態です。多少苦労しても、出口があるならば希望を持って人生を歩む事ができます。しかし、いくらお金を使っても、時間を使っても、悪くなる一方となると、どんなにか辛かったのではないかと思います。

 しかしある時、彼女はイエスさまの噂を聞いたのです。「この頃、イエスさまという方が現れ、多くの病をいやしているそうだ。彼の所に行って祈ってもらったらいやされるよ」という巷の噂です。彼女はそれまでイエスさまを知りませんでした。彼女は体調も悪く、なかなかイエスさまの所に行って祈ってもらう勇気はありませんでした。特にそれは婦人科の病で、あまり女性にとって公にしたくはない病気でした。
 そこで彼女は考えました。「イエスさまに直接祈って頂く事が出来なくても、イエスさまの衣にちょっとでもさわったら、治るんじゃないか・・・」と勝手に考えたのです。それは、聖書を開いて神学的に研究した結論ではありませんでした。「イエスさまの衣にはどのような効用があるのか。み言葉は何と語っているか・・・」など、そんな事は全く知らなかったのです。ただ単に、自分で「イエスさまの衣に触ったら治るのではないか・・・」と、淡い期待を持ったのです。それで群衆に紛れ込み、イエスさまの衣に、それも後ろからちょっと触ったのです。すると期待通り、瞬間的に病が治ったのです。「すぐに血の源が枯れて、ひどい痛みが治った事を身体に感じた」と記されています。彼女は常に痛みを持ちながら生活していたのですが、瞬間的にいやされたのです。

 しかしイエスさまは自分から力が流れたのを感じたのです。すぐにふり返って、「誰ですか、わたしに触ったのは…」と周りを見回したのです。すると恥ずかしながらこの女性が「実は触ったのは私です」と申し出たわけです。その時彼女はイエスさまに怒られると思った事でしょう。しかし怒られるどころか、素晴らしい希望の言葉をいただきました。その言葉は、「娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。安心して行きなさい。病気にかからず健やかでいなさい。」
 この言葉を受けた時、どんなにか嬉しかった事でしょう。今までの12年間の苦労は、瞬間的に消え去ったはずです。そればかりか、『これからも病気にかからず健やかでいなさい』と、いやしの源であるイエスさまから声をかけて頂いたわけです。彼女は身体も心もいやされ、その上、未来も祝福されたのです。

 聖書には色々な訳があり、私は新改訳より、口語訳のほうがこの箇所は好きです。マルコの福音書5章34節を口語訳で見ますと、

『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』

「すっかり治って達者でいなさい」という表現は、日本人にぴったりくる表現ではないでしょうか。今日、このみ言葉を自分に直接、イエスさまから語って頂いた言葉として、受け取ろうではありませんか。今日、皆さんにイエスさまは語って下さるのです。『安心して帰りなさい、病気にかからずすこやかでいなさい、達者でいて下さい』と。

 この箇所から、聖書の神様がどのようなご性格かわかります。私達の神、イエスさまはとことんよいお方です。先ほども「あなたはよい方です」と祈りの中にもありましたが、私達が信じ仕えている神様は、とことん良いお方なのです。

 実は話はかわりますが、先週はリバイバル神学校の卒業式があり、21名の方々が卒業、終了されました。卒業式には大勢の方が来て、お祝いして下さったのですが、リバイバル神学校は、将来、牧師や伝道者、または主のために仕えたいと考えている方々が全国から集まり学んでいます。もしも興味がありましたら、是非お越し下さい。楽しいです。この神学校は日本で一番楽しく、ためになる神学校であると、私は信じています。時には伝道実習などもあり、路傍伝道実習もあります。

 先日も豊橋駅前で路傍伝道実習がありました。豊橋は新城に比べたら大都会ですから、多くの人に向かって「皆さん、イエスさまを信じましょう!」と叫ぶのです。神学生は皆、やらなければいけないのです。それじゃ、入学するのはやめようと思うかもしれません。しかし、それは得意な人だけやればよいのです。人前で叫ぶのはだめだ、という人の為には「祈りのチーム」があるのです。石巻山の上で、「主よ、今日の路傍伝道が祝福されますように」と祈ったりするわけです。それなら恥ずかしくはないと思います。賜物の協力関係で路傍伝道がなされるわけです。

 路傍伝道で叫ぶ言葉には定番があり、「イエスさまはあなたを愛しています!」という言葉です。しかしいつも私は神学生達に話すのですが、「日本人には神は愛、という言葉は通じないから気をつけて叫べ」と言います。日本人が持っている神概念は「神が愛して下さる」などとは、ほとんど考えていません。背後に火がめらめらと燃え、剣を持つ不動明王に「愛してもらいたい」と思う人はあまりいません。または、千手観音の千もある手で、抱きしめられたいと思う人はいないと思います。「やめてくれ、気持ちが悪い」という人が、ほとんどだと思います。

 日本の神々は愛してもらいたいような存在ではないのです。日本の神々は“よく拝めば神になるけど、放っておけば鬼になる”という神々ですから、神にもなるし鬼にもなる、と言う事は、もともと鬼だという事です。そんな神々に愛してほしくはないのです。ですから、神の愛などわからないわけです。
 しかし教会に来ると徐々にわかります。「本物の神様は、とことんよい方なんだ」と。天地宇宙を造った神がおられますが、その方は人類の歴史の中に人間として現れて下さいました。それがイエスさまです。私はいつも話すのですが、神様は人間に対してよくメンテナンスして下さっていると思います。人間を作りっぱなしではなく、自ら人となり、人間の世界に潜り込んで、人がどう機能しているかをチェックして下さいました。自ら人を体験して下さったわけです。なおかつ私達を助け、救って下さるのですから、素晴らしいではないでしょうか。私達が信じ仕えている神様は、決して怖い方ではなく、よい神様なのです。

 しかし、日本の神々はおよそ愛してもらいたくない存在ばかりです。日本の神々は「言う事を聞いたら取引してもいいぞ」という「取引の神」です。神社などに行くと、必ず向こうからの要求があります。それがどういうものかと言うと「こう拝め!」という指示があります。神社に行くとどうでしょうか。本殿の前まで行かなければならず、遠くからは拝めないのです。そして要求される作法があります。日本の偶像礼拝には全て作法があります。神社でも“一度礼をし、二回拍手をし、二回礼をする”とか、作法が記されています。ちゃんと指示通りにやらないと、ガツンと祟られます。方法が違えば「罰が当たる」というのです。題目を指示通りの回数だけあげろ、少なかったら祟るぞ、というものです。しかし、聖書の神様はそういう方ではないのです。とことんよいお方です。この女性がいやされたのも、別に聖書から指示されて、法則に従ったから治ったのではないのです。恥ずかしいから、後ろから着物をちょっと触れば…という、普通から言えば勝手な解釈です。それにも関わらず、彼女はいやされました。その後も怒られるわけでもなく、彼女の未来まで含んだ言葉まで頂きました。この所を見たら、私達の神様は素晴らしい神であることがわかります。どんな方法でも、ただイエスさまのほうに向き、イエスさまを仰ぎ期待したら、どんな所にいても祈りを聞いて下さるお方です。

 今話したように、神社の本殿前に来いとか、仏壇の前に来い、仏像の前に来い、金を払えとか、そういう事は一切ありません。どこでも祈れるというのが、聖書の素晴らしい世界です。

 私は、あるお宅を訪問させていただいたら、トイレを借りる事にしています。するとその家の哲学がわかるからです。トイレには家訓や格言が書かれていたり、いろいろな哲学があるからです。「一日一善」とか「石の上にも三年」とか書いてあり、その家の情報収集になります。
 しかしクリスチャンの家に行きますと、トイレの中に祈りの課題などが貼ってあったりします。私の家内など、トイレの中に沢山のいのりの課題を張りつけて祈っています。普通、そんなくさい場所で祈って、神さまは祈りを聞くと思いますか。(一番祈りに力が入る場所だとは思いますが…)「何でお前はそんな汚い所で祈るんだ。失礼だ。祈りなど聞いてやらない」と言われるかもしれません。
 けれども聖書の神様はそうではありません。トイレで祈る祈りでも、風呂場で祈る祈りでも、聞いて下さいます。私達の神様は、決して恐ろしい神様ではありません。

 皆さんは日曜礼拝に参加して下さっていますが、決して義務だとか、来なければ一週間悪い事がありそうだから、イエスさまが怒るから、などと思わないで下さい。絶対にそんな事はありません。来たら来ただけ素晴らしいですし、また、多くの兄弟姉妹とも会う事が出来て素晴らしいです。しかし、「行かないと危ない」などと思ってはいけません。来ることが出来ない週でも、同じように守って下さいます。

 私は、教会とは一年に一度来ても、二年に一度しか来られなくても、敷居が高くない所にしなければならないと思っています。皆、色々な事情がありますから、一年に一度しか来られない人も、二年に一度しか来られない人も、同じように祝福を受けることが出来る場所であるべきです。「何だお前は一年に一度しか来ていないじゃないか」と、怒られることは決してありません。来たら来たに越したことはないのですが、来られなくても神様は私達を愛して下さっています。“愛なる神様”に仕えている事を知って頂きたいと思います。

 ですからこの言葉、『娘よあなたの信仰があなたを救ったのです。安心して帰りなさい。病気にかからずすこやかでいなさい』は、この女性だけではなく、全ての人に語られている言葉なのです。私達の神はどんな環境の中でも助け、守って下さるのです。

 今日も色々な環境の中から来られています。クリスチャンホームの方もおられますし、誰もクリスチャンはいない、たった一人と言う方もおられます。「私には戦いがある」という方もおられます。しかし主は同じように、いや、それ以上に主は助けて下さるお方です。一週間の間に色々な場所に遣わされるかもしれませんが、どこでも主は祈りを聞いて下さる事を心に刻んで、祈り続けましょう。

 私は先週の日曜日、埼玉県の教会で、10年ほど前にリバイバル聖書神学校を卒業した人が、主任牧師として就任するという事で、「就任式に来て下さい」と依頼され、お邪魔させて頂きました。また、その前の週には鹿児島に出向きました。皆さんも祈って下さって感謝します。その週の週報には、「鹿児島」としか書いていなかったと思いますが、私も、どんなスケジュールかよく知らず鹿児島に行きましたら、八つの教会が合同して霊的戦いセミナーが開催されました。牧師やリーダーたちが集まって、特に、霊的戦いについて共に学びました。その会場となったのは、8つの教会の中で一番大きな教会でした。

 その教会は鉄筋四階建ての建物で結構よい建物でした。すると「この建物は、土地を含めて1500万円で購入しました」というのです。「そうですか、安かったですね。何故そんなに安かったんですか?」と聞くと、わけがありました。
 その場所は以前は葬儀場だったそうです。かつては一階が遺族の待合所と遺体安置所、二階は主に仏式の葬儀場、三階と四階が事務所と従業員宿舎という場所でした。その後、葬儀屋が潰れて、競売にかかっていたのですが誰も買わなかったそうです。しかしその教会の牧師先生は勇気があって、その建物を買って教会にしたわけです。その教会に入るとまだちょっと線香臭かったです。私は「いやあ、先生は勇気がありますね」と言いました。私にはそこまでの勇気はないかもしれません。元葬儀場を会堂にして主を賛美し、礼拝しているのです。しかしけっこう恵まれた集会となりました。「昔ここには祭壇がありました」という場所が、私がメッセージを語る講壇になっていました。イエスさまのテーマは“死から命”ですから、ある意味、教会にとってふさわしい場所かも知れません。今までその建物は悲しみがしみこんだような場所でしたが、そこが命あふれる場所に変わるのです。霊的解放と霊的戦いが行われるには、まさに絶好の場所かも知れません。一階の元遺族待合所があまりにも線香臭かったので、畳を取り替えた方が良いのではと思いましたが、しかしそこでも礼拝出来るわけです。
 本当に、私達の神様は、どこでも命を与えて下さるお方です。

 聖書を読んでいくと、次から次へと場面が転換して行きます。一つ新しい事が起こり、それが終わらないうちに次のことが起こる、それが聖書だと思うかもしれません。しかしよく読むと、聖書のストーリーにはテーマがあることがわかります。
 今日読んだのはマルコ五章ですが、3章から連続で読んでいくと、一つのテーマが貫かれている事がわかります。イエスさまが12人の弟子を選び“悪霊に立ち向かい勝利する権威”を授け、神の国について語り、彼らを遣わしていくのです。その実地訓練としてイエスさまは弟子たちを連れて、ガリラヤ湖を渡った向こう岸、ゲラサに行ったわけです。

 実は今週、私はイスラエルに行く事になっているのですが、一月に行き三月にも行く事が出来て感謝です。今回はリバイバルミッションのツアーの団長として行きますが、イエスさまの舞台を皆でとりなし祈りながら廻ります。A、B、Cの三つのツアーのうち、私のツアーはちょっとスペシャル・コースです。「イスラエルとりなしツアー」という事で、とりなしの祈りに行きます。私はコースの全てを再チェックして、どうでもよいような場所はカットさせて頂きました。何故なら、やはりイスラエルは観光地ですから、「ここでイエスさまが○○をしました」と言われるようなシナゴーグや会堂跡に連れて行ってくれるのですが、「それは絶対に嘘だろう・・・」と思われるような場所も、結構あるのです。観光の為に適当に場所を決めたような所もあるわけです。間違った場所を見てへんに感動するのもどうかと思いますから、聖書の舞台になった場所を厳選したいと思い、コースを設定しました。そこで日本のリバイバルのために祈りたいと思います。
 イスラエルに行きますと、イエスさまがこの地上におられ、今も生きておられる事がわかります。ゲラサにも行くのですが、イエスさまがそこに行く途中、大風が吹いたと記されています。あわや舟が沈没しそうになった事が記録されていますが、イエスが「黙れ、静まれ!」と風と波を一括し、瞬間的に風と波が止まったのです。
 その後イエスさまが弟子達に言われたのは、『どうしてそんなに怖がるのです、信仰がないのはどうしたことです』と語られました。弟子達に、「お前達には信仰がない」と言われたのです。

 そして、五章に入ると悪霊に支配されていた男が解放され、それに続くストーリーが会堂管理者の娘が死にそうなので助けて下さいという願いです。するとイエスさまは会堂管理者の家に「行ってあげましょう」と言い、死にかけている少女の所に出向いて行くのです。
 しかしその途中に挿入されかのように、一つの事件が起こるのです。それが12年間血の病の女性が突然出て来て、イエスさまの着物を触りいやされた、という流れです。その女性がいやされた時に主が語られた言葉が、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と。
 イエスさまの体から力が流れて女はいやされたのですが、イエスさまは「俺がいやしてやった」とは言われず、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語られたのです。
 そんな奇跡が起こって喜んでいる最中に、イエスさまにとって本当の目的であった死にかけていた娘が死んだという、悲しい知らせです。
 「先生、もう来なくてもいいです。あの少女は死んでしまいました」という知らせが届きました。最悪の結果でした。一方では華々しい事が起きているのにも関わらず、本編は敗北のようです。行く途中、偶然のように事件が起こり女はいやされたものの、少女は死んでしまったのです。そのことを聞いて、皆はざわついたと思います。
 イエスさまと一緒に会堂管理者の家に向かっていった弟子たち一行は、「なんてことだ、この女性が割り込んで来たものだから、少女は死んでしまったじゃないか・・・」と怒ったのかも知れません。
 この女性は、すぐに死ぬような事はありませんでした。歩いてイエスさまに近づく事が出来たぐらいですから。優先順位としては、少女のいやしを優先し、急がなければならない状況だったのです。このストーリーは、こちらを立てればあちらは立たず、というような事ではないでしょうか。一方ではうまく行くけれど、こっちはうまくいかない・・・。
 人生の中でも、時にそのような事があります。私も色々な方々のために、解放の祈りをしますが、一方ではうまくいくけれど、一方ではうまくいかない事があるのです。そういう時は、「何故だろう。あっちはうまく行ったのに、何でうまくいかないんだろう…」と不信仰になります。
 皆さんもそんな時があるのではないでしょうか。モグラたたき状態に陥いる時もあるのです。ある意味、イエスさまも同じような状況でした。一方では12年間どうにもならない女性がいやされ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。病気にかからずにすこやかに帰りなさい」と語っていたら、その舌べらがかわかないうちに、「少女は死にました。来なくてよいです」という悪い知らせを聞いたからです。
 しかしイエスさまはその時、何と言われたのでしょうか。マルコ5章36節、

『イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。』

 実は、先ほども言いましたように、聖書には一つのテーマがあり、それが貫かれているのです。そのテーマは“信仰”です。
 風が吹いた時にも、12年間苦しんだ女性にも、そして、娘が死んで動揺している中でも、「恐れないでただ信じなさい!」と信仰について語られたのです。

 私達の人生の中で最も重要なのは、信仰です。信仰は「信じて仰ぐ」と書きますが、どういう意味かと言うと、聖書にその定義があり、へブル11章1節。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 これが信仰の定義です。分かりにくいようですが、リビングバイブルを引用しますと、

『信仰をどう定義したらよいでしょう。それは願い事が必ずかなえられるという不動の確信です。また、何が起こるかわからない行く手にも望み通りのことが必ず待ち受けていると信じて疑わない事です』

 「必ず主は良くして下さる」という確信を持つことが「信仰」だというのです。まだ見てはいない、受け取ってはいないけれど信じる事、それが信仰です。

 先週は岡本信弘先生が「人生成功の鍵」というメッセージをして下さいました。私はそのタイトルを見て、「自己実現の話か、可能性思考か?大丈夫かな…」とちょっと思い、また、始めはビジネス本など出ていたので、ちょっと危ない内容かなと思いましたが、そうではありませんでした。インターネットでメッセージを読んだら、主のみこころとみ言葉に従っていくという、健全で素晴らしいメッセージでした。

 私達の信仰が時々、自己実現的になる場合には注意が必要です。「自分の願望がかなうように」という視点ではいけません。信仰には、「主のみ心がなりますように」という中心軸があるのです。信仰は主の計画の実現に関わっていくわけです。しかし、聖書を見ると信仰が大変重要であるとわかります。信仰を固く持つ時、主が扉を開いて下さるのです。
 けれどもそれを聞くと、少々心が暗くなります。「やはり信仰が深くないとキリスト教ではやっていけないのかな。」「信じきる事が出来なければ、神様は働いてくれないのかな・・・」と少しへこみます。信仰を強調されると、ある人は「クリスチャンになって日が浅いから、私には無理だ」と思うかもしれません。

 しかし、12年間苦しんでいた女性に対して、イエスさまが信仰として扱われた事柄は難しいことではありませんでした。先ほども少し触れましたが、この女性が信仰と評価されたことは、全く勝手な彼女の思いこみでした。「イエスさまの所に行って、その衣にちょっと触れたら治る」と勝手に考え、それを実行したのに過ぎません。ある意味、その行為はちょっと呪術的です。時々、神社や寺に行くと、「病が治りますように」と願をかけして、像を触ったりしています。彼女の根底に、もしかしたら同じような考え方があったのかもしれません。それで、イエスさまの衣に触れば、何か御利益がある、くらいの考えたのかもしれません。

 しかしそんな中でも神の業は現されたのです。ここから何が言えるのかと言うと、先ほど語ったように、「神様はよい方である」と言えるとともに、フォーカスがイエスさまに当たる時、一見幼稚に見える行動も、信仰として評価されると言うことです。イエスさまに期待することが信仰であり、その時、信仰の鍵が動いたという現実を見るのです。

 私も時々、どう信仰を持てば良いのかわからないときがあります。しかし信仰とは単純に“イエスさまに期待する”事ではないかと思います。イエスさまに期待する中で、主は大きなみ業を現わして下さる、とここで教えているのではないかと思います。
 ですから今週、私たちはただ、イエスさまに期待しようではありませんか。信仰のレベルが高いとか、低いとか、それはあまり関係ないのです。12年間長血の女が、自分勝手な解釈で、「イエスさまに触ったらいやされるかもしれない」と考えました。彼女がただ、イエスさまに期待したように、私達も主に期待するのです。

 今日、もし皆さんの中に色々な問題があっても、イエスさまに期待していくなら、必ず勝利があります。今日もイエスさまは私達に語って下さっています。あなたの信仰、すなわち、“イエスさまに対する期待”があなたを直す、と。「安心して帰りなさい、病気にかからずすこやかでいなさい」と語って下さるのです。イエスさまに期待し、安心して帰ったらよいのです。そこに必ず勝利がある事を学ぶ事が出来るのです。

 牧師は教会で何をするのかというと、人々がイエスさまに期待するように導く仕事です。私はいつも話をしますが、牧師という仕事は結構大変だと話します。自己弁護のようですが、先週も牧師就任式で語らせて頂きましたが、牧師に与えられている道具は、聖書一冊と舌べら一枚だけです。この二つで勝負するわけです。聖書の“黒表紙から黒裏表紙”の間だけで勝負しなければなりません。この間からちょっとでもはみ出すと“異端”と言われ、すごい勢いで批判されます。
 特にプロテスタントの牧師には立派な衣装もなくて、十字架アクセサリーとか、悪霊を追い出すときにニンニクなどの“小道具”もなく、ただ使えるのは「言葉」だけです。それでも、業が起きるとしたら、本物の証拠です。
 普通に考えたら、聖書は新しい部分でも約2000年前の書物です。日本の古文書とは、『古事記』や『日本書紀』です。それらは七世紀か八世紀の書であり、聖書はさらにもっと古い書物です。ですから、古文書一冊に、舌べら一枚で、豪華な衣装もなく勝負する牧師はたいへんです。

先日、あるところで、現役の神主さんから、「問題があるので祈って下さい」と頼まれました。私は、「では今から祈ります」と言うと、「その服装のままで祈るんですか?」と言われました。
 その時私は、よれよれの綿パンとユニクロのフリースを着ていました。「プロテスタントの牧師はこれでいいんですよ」と言うと、「私達では考えられない」と言っていました。彼が祈るときにはすごい衣装で、葉っぱを振って拝むのです。しかしなんの効果もないのです。私はユニクロのやすい衣装で祈ってあげました。それでも主が動いて下さるとしたら、主が生きておられる証拠です。また、良い方である証拠です。
 神様が「順、その格好は何だ、その祈り方は何だ」とは言われないのです。どんな格好でも、どんな場所でも大丈夫です。また、「あんたの宗教は何だ。キリスト教に変わらなければ祈りを聞いてやらないぞ」とは言われません。
 私はいつも新しく教会に来た方に言いますが「教会に来たら、色々疑いがあるかもしれませんが、まずは素直になって下さいね。何にでも“お試しコース”があるように、今までの宗教はちょっと横に置いて、一週間くらいイエスさまに祈ってみたらどうですか」とお勧めするのです。「お試しコースでどうですか」というと気軽に日本人は祈ります。
 しかしイエスさまに祈ると、必ず、何らかのみ業が現われます。すると「これはすごい!」というのです。そして、信仰とはそんなに難しくはない、とわかってイエス・キリストを信じるのです。その結果、偶像礼拝からも離れていくのではないかと思います。

 そして、もう一つの側面も忘れてはなりません。私は霊的戦いを主から示され、特に病のいやしとか問題に関して、イエスさまに期待すると同時に、悪魔につながれている綱を断ち切る事が重要であり、その両面が必要だと教えられました。

 何年か前イスラエルに行った時、朝早く、エルサレムのホテルの高い階で、街を見下ろしながら祈りつつ聖書を読んでいた時、主が一つの忘れる事が出来ないみ言葉を与えて下さいました。
イザヤ33章23節〜24節、

『あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

このみ言葉が、あたかも主が私に直接語って下さったかのように、心の中にどんと焼きついたのです。これをリビングバイブルで読むと、

『敵の船の帆は折れたマストにだらしなく張られ、索具は役に立ちません。宝物は神様の国民が分配し、足萎えさえ割り当てに与ります。イスラエル国民は、二度と『ひどい病気で立つ気力が無い』とは言いません。神様は彼らの罪を赦し彼らを祝福するからです』と。

 病のいやしのためにはマストを発見して、それを倒し、綱を断ち切ったら解放が起きる、という事を知らされたのです。その時、「私は一生、悪魔の立てたマストを発見し、その綱を断ち切る仕事をさせて頂きたい」と主に願いました。

 先ほど読んだマルコの3章から5章の間の“信仰”と共に、もう一つ貫かれているテーマが「霊的戦い」です。悪魔はどこかに帆柱を立て、人をそこにつないでいるのです。でも、それが断ち切られる時に、「誰も『私は病気だ』と言わず、全ての罪は赦される」のです。
 霊的解放についても知る必要があります。第一にイエスさまに期待し、同時に、つながれているマストを発見して引き倒し、綱を断ち切ると問題は解決し、病からも守られ健康な生活を送る事が出来ると教えられました。

 私は各地の霊的戦いのセミナーで、新城教会に起きた華々しい神の奇跡の話をします。すると皆、喜んで聞いてくれるのですが、質問コーナーを設けると出る質問があります。特に牧師がその質問をします。「成功例もいいけれど、失敗例も話して下さい。牧師はそれで苦しんでいますから」と言います。
 しかし私はいつも、「失敗はない!」と答えます。なぜなら、全てはプロセス上ですから。私は奉仕させて頂いていますが、絶対に敗北はあり得ないと固く信じています。多少上下するかもしれないけれど、主に信頼していくなら、多少はあっても着地は良いと信じ切っています。ですから、絶対に失敗はないと断言するのです。プロセス上では色々あっても、必ず勝利に結びつく、と話します。

しかし、そうは言いながらも、実は失敗もあるかもしれないと思います。数年前の事ですが、この頃はネット社会で「自殺者を募集して一緒に死ぬ」などという、恐ろしい事があります。数年前のある日、そういう人とつながっている人から連絡が来て、「今、死ぬ計画を立てている人がいます。その人を新城教会に送りますから、是非祈って関わってあげて下さい」と言われました。電話の相手は誰かわかりませんが、やがて暗い顔の人が教会に来ました。私はその人に自殺しないようにと話しました。
 時々、教会では「死ぬか・生きるか」というような、究極の攻防戦もやっています。その方が来られたのは丁度、この地方で五人位の人がワゴン車の中で自殺したというニュースが流れていた時でした。その人は「実はあの五人は私の仲間でした。」と言うのです。その人は一台の携帯電話を持っていて、「この携帯は、その中の一人が私に預けた物です。死ぬ前に、次の人にこの携帯電話を渡すのです。今、一緒に死ぬメンバーを集めています」と言いました。

 彼女は本当にぼろぼろ状態でした。腕を見ると、そこらじゅうに切り込みが入っていて、かばんの中には医療用のメスや色々な道具が入っていました。「それは捨てましょう」と言うと「駄目です、これは絶対に捨てる事は出来ません」と言うのです。しかし戦いの祈りをし、次の週はスタッフを総動員して、その人の周りをとりなして祈りました。いつも自殺未遂をするのはどこかと聞くと、近くの墓場だと言うので、それは死の力以外何物でもありませんから、その現場にも行き祈り、家も訪問して部屋の中で祈るなど、出来る限りの事をしました。

 しかしその後、電話をしても彼女は出なくなってしまいました。しばらくして電話すると他の人が電話に出て「彼女がどこに行ったのか知りません」と言いました。「ついに死んでしまったのか・・・。一生懸命頑張ったのに…。でも、かろうじて天国には行けただろう」と思いました。けれども残念でした。それは数年前のことです。

 ところが感謝な事に、昨日その人がご主人になる男性を連れて、教会に来られました。「あの後から色々とありましたけど、今は力強く生きています。今度結婚することになりましたから、祈って下さい」と来られたのです。「良かった!」と思いました。その事はいつも私の心に引っかかっていましたが、主は彼女を助けて下さったのです。
 どんな状況の中でも主は助けて下さるお方です。もう一度、主に対する信仰を持ち、立ち上がらなければいけないと、昨日改めて教えられ、嬉しかったです。

 この12年間長血を患った女は、イエスさまに助けてもらいました。しかし、少女は死んでしまったのです。けれども、イエスさまは死んだ少女の手を取って「タリタ、クミ!」訳して言えば「少女よ、あなたに言う。起きなさい!」と言われると、すぐさま少女は起きあがって歩き始めた、と記録されています。
死人も生かす事が出来るイエスさまに、全幅の信頼を置き、敵と戦っていくならば、私達の信仰人生は捨てたものではないのです。元気に生きる事が出来るはずです。
今日、皆さんに主は語っておられます。「安心して帰りなさい。病気にかからずすこやかでいなさい!」と。
このみ言葉を自分に語って頂いている言葉として、安心して、イエスさまに期待して、お帰り下さい。
最後に一言お祈りして、終りにさせて頂きます。


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