「賛美の力」


2010.3.14(SUN)
新城教会 上條 実 牧師

詩篇 147篇1節〜6節
『ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。』

 ハレルヤ!今日も皆さんの前でお話しが出来る事を心から感謝します。本日は滝元順牧師ご夫妻を初め数名の兄姉が、イスラエル旅行に出かけておられます。水曜日に帰って来られますが、最後まで守られますようお祈り下さい。また水曜日から今度は山崎ランサム和彦先生を団長としてイスラエル旅行が行われます。そのためにもお祈り下さい。また滝元明牧師は千葉県の船橋市にてご奉仕しています。そしてざわめきは東京の練馬区に置いて奉仕しています。先生方の守りと祝福のためにお祈り下さい。
 さて今日は詩篇147編1節から6節までのみことばから学んでいきたいと思います。本日のタイトルは「賛美の力」です。今日も恵まれた賛美がなされました。賛美には力があります。しかしこの地域の方とお話しすると、皮肉たっぷりに「日曜日は朝から元気よく歌ってるねぇ」と言われたりします。一般の人は酒が入らないと歌えなかったり、カラオケにでも行かないと歌うことはないと思いますが、日曜日の朝から元気よく賛美している姿を見たり、聞いたりしたら不思議に思うみたいです。しかし私たちは先ほど読んだみことば詩篇147篇1節

『ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。』

 賛美は私たちの神、イエスキリストに向かってほめ歌うことであり、賛美は楽しく、すばらしい時です。音楽はなくてはならないものです。どこに行っても音楽がかかっています。音楽がなかったら何と寂しい世の中になることでしょう。音楽は神さまが私たち人間に与えて下さった祝福です。私たちの生活の中でも、車に乗ればすぐ音楽をかけます。また色々なお店に行けば必ずといて良いほど音楽のBGMが流れています。テレビをつければ音楽。もう音楽はなくてはならないものとなっています。特に音楽は人間の感情にすごく影響するものです。テレビのドラマを見ていてもクライマックスの時になるとクライマックス風の音楽が流れます。音楽を聴いているだけで今どんな場面かさえもわかります。BGMは素晴らしい効果があります。インターネットでBGMの効果について書かれてありました。BGMはお店の印象を決めると書いてありました。そこにはこんな事が掲載されていました。それは「BGMは、おしゃれなカフェであろうと、和食のうどん屋さんであろうと、店の雰囲気をがらりと変えてしまう力がある。どんなBGMを選択するかによって売り上げも変わってくる」とありました。今度皆さんが買いものに行く時、そのお店のBGMでどんなジャンルの曲をかけているか、考えながら買いものすると面白いかも知れません。BGMを専門的に研究して、お店づくりをするとBGM効果として、売上もアップし、リピーターも来るというのです。イメージ効果で雰囲気を明るくしたり、高級感をかもしだしたり、子供が多い時には楽しい雰囲気を作ったり、なにか私たちがBGMに操られているといっても過言ではないかと思うほどです。ある有名なデパートでそのデパートのBGMの意識アンケートを取ったそうです。すると「落ち着いた雰囲気や安らぎ感を演出する音楽です」とか「高級感を感じるBGMです」「くつろいで買い物が出来る」と様々な意見があったようです。もし高級デパートで軍艦マーチなどかかっていれば、私達はどういう風に思うでしょうか。同じデパートでもなにかバーゲン中に、みんなと争って買い物をするような気持ちがすると思います。また、病院でもBGMがかかっている事があります。もしそれが、おどろおどろしいメロディーが流れていれば、注射されるにも、診察されるにも嫌になりそうです。癒し系の和らぐBGMならばリラックスして血圧も上がらず、心配することなく診察を受けることができます。また皆さんは「蛍の光」という曲をご存じでしょうか?買いものしていて「蛍の光」が流れると「閉店時間なんだ」とわかります。不思議なものです。もしも真昼間にこの曲が流れたら、すごく混乱すると思います。なんとBGMは不思議だと思います。1982年の実験ですから今と変わっているかも知れませんが、あるスーパーマーケットにてテンポがゆっくりなBGMとテンポの早いBGMを流し、お客さんがA地点からB地点まで移動する時間を調査したそうです。スローテンポのBGMの場合、127秒くらいで歩いた所を、ハイテンポのBGMにすると108秒、約20秒くらい早く買い物客が動くという結果が出たそうです。またカフェでの食事で、ハイテンポのBGMをかけると4.4回、スローテンポの曲をかけると3.8回くらい1分間に口に持っていく、という違いがあるそうです。今日午後、皆さんにご協力頂いて全日本リバイバルミッションのニュース発送作業の時がもたれます。毎回発送作業をして頂くとき、BGMを流しています。よくざわめきの曲が流れています。ざわめきの曲は元気が良い、テンポの速い曲があります。皆さんの作業を見ていると、テンポの速い曲では、みなさんが会話しつつも、手はさっさと動かしている事を見ることができます。今日も試してみると面白いかもしれません。もし、ゆっくりとした聖歌であれば手もゆっくりになるかもしれません。音楽は神様の与えて下さった素晴らしい恵みであり、私たちの生活になくてはならないものです。そして音楽には力があります。しかし音楽の中でも賛美というのはただの音楽ではありません。今日のタイトルにつけさせて頂いたように、賛美には力があります。時々「まだ皆さんが集まっていませんので、賛美しながら待ちましょう」と言ってしまう時があります。何か賛美が前座のような、礼拝の付録のようなものになってしまいます。しかし賛美は神さまに向かって褒め歌うものです。王の王の前に出て賛美するわけです。決して前座になってはいけません。決して賛美は付録ではありません。今日も礼拝の始めに「ハレルヤ」と主を賛美して始まりました。そしていつも最後に「ハレルヤ」と主を賛美して終わります。賛美で始まり賛美で終わります。私は以前メッセージが礼拝の中心だと思っていました。確かにそれも間違ってはいません。しかし賛美はお刺身であれば“つま”のようなもの。無くてはいけない。けどメインではないと考えていました。しかしある方が「もし礼拝がメッセージ中心であるならば、ただの講演会と同じ。」と言っていました。礼拝の中心は牧師ではありません。私たちの真ん中に、今も生きておられる神さまが中心であり、その神さまを讃えること礼拝である。メッセージを聞き以上に、もっと神さまをほめたたえる事を覚えなくてはいけないと信じます。
 以前滝元順牧師がこんなメッセージをされておりました。それは「聖書において礼拝がどのように規定されているか」という事です。礼拝を意味する聖書の用語で「拝む」のほかにも「あがめる、感謝する、より頼む、畏れかしこむ、おののく、褒め称える、仕える、仰ぐ、捧げる、手を挙げる、ひれ伏す、ひざまずく」と言うことでした。ただ心のものだけでなく動作をも含んでくるのが礼拝だと言っていました。今日私たちは聖書のみことばを聞くと同時に、賛美も重要であること。賛美というものがいかに礼拝のウエィトを占めているかをしっかり認識して頂きたいのです。聖書の中で一番高く主をほめたたえる時に使われる言葉があるようです。それは、聖書の149篇5節〜9節 

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

 ここに“称賛”という言葉があります。賛美の中で一番高く主をほめたたえる時に使われる言葉が“称賛”だそうです。5節では『おのれの床の上で高らかに歌え』。このみことばを聞いた事があると思います。以前にも“床の上で賛美”と題して「朝起きて、一番に出てくる賛美。それはその日に、主が皆さんに与えるテーマである」と教えられて朝起きた時与えられた賛美を意識して賛美したことがあります。礼拝は神への称賛です。また、ピリピ2章10節〜11節では、
 
『それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』

とあります。『すべての口がイエス・キリストは主である』と告白する。“賛美”は告白です。他の箇所でも「イエス・キリストは主である」と告白する時救われるとありますが、私たちが賛美で告白する時、賛美が祈りとなり、賛美によって霊的に開かれます。賛美には力があります。
今日最初に読んで頂いた詩篇147篇には、心から主をあがめて賛美する時、私たちは素晴らしい祝福を頂く事ができます。私たちが日常生活でもっと賛美をささげる時、今まで開くことのなかった扉や道が開かれ、今まで癒されなかった病も賛美を通して癒されていく事ができる。賛美には大きな力があります。昨日の夜、この地域を車で廻って祈っていました。その時まもなく教会の北側を走るバイパスが旧鳳来町方面へ開通する道路を見ました。まだ開通していませんが、工事は終了していて、いつでも通行できる状況になっています。今回このバイパスは小高い山を切り、線路も高架橋でわたり、将来的には今建設中の新東名高速道路の新城インターに通じる素晴らしい道路です。今までは山あり、線路ありで、道すらなかったところです。しかし開通したら、今度はそこを安全に通る事ができます。それと同じだと思いました。私たちが賛美するとき、今まで通りたくても通れない、山あり谷ありで絶対通行不可能な状態であっても、主は道を備えていて下さいます。祈りはもちろん、賛美するとき主が道を用意して下さいます。主が工事中時は忍耐です。しかし完成したら安全な道を通ることができます。それが賛美ではないかと教えられました。皆さんは賛美をささげていますか?礼拝では、賛美をささげますが、教会から一歩出て車に乗ると違う音楽をかけていませんでしょうか?賛美以外の曲を、心開いて歌っていませんか?賛美は先ほど言ったように告白です。賛美は霊的戦いです。賛美する時今まで通らせないように立ちはだかっていた悪しき力が打ち砕かれ、道が開かれます。
 私たちは批判したり、怒ったり、噂話をしたり、悪い冗談、下品なことばをよく口にします。そしてその口で失敗します。しかし私たちの口を賛美で満たしましょう。朝起きてから休むまで賛美し続けましょう。先ほどもピリピ2章10節のみことばを引用しましたが、口で「イエスは主です」と告白する事。告白することは大きな力です。今週は声を出して賛美してみて下さい。賛美する時、不思議な事をあなたは体験すると信じます。以前にもお話しましたが、23年前、私は原因不明の病気にかかりました。病院で数々の検査を入院して受けましたが、分からず治療を受けることができませんでした。いつも体に痛みがあり、痛みが強くなると高熱が出てしまいました。その病気の時、私の口は愚痴と否定的ことばで満ちていました。そんなとき「賛美の力」という本がありますが、その中で、「いつもどんな状況でも感謝しなさい。悪く思えることも主が良くして下さるから」という内容を読みました。現状は最悪でした。しかしある日感謝して見ようと思い、愚痴や不信仰なことばを一切口に出さず、何でも感謝しました。賛美しました。その日の夕方になって驚きました。毎日最悪の状況が続いていましたが、感謝し、賛美した時、夕方まで、痛みや熱が全くなく忘れていました。主に目を向けていく時、自分の病気が良くなったことを体験したのです。あのときは主の前に、感謝や賛美する時、不思議なこと、神の力が現れることを知りました。あなたも知って下さい。賛美には力があります。先ほどお読みした詩篇147編を見ますと、賛美する時こんな祝福があるんだと書かれています。3節には

『主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。』

とあります。私のよく読むリビングバイブルでは、

『傷心の人々をやさしくいたわり、傷口を包帯で手当てして下さいます』

 私たちは様々な傷を持って生活しています。時にはある人から、その傷口に塩を塗られているかのように痛くてたまらず、辛くてたまらない時があります。悪魔は私たちを傷つけ、特にその傷口を目がけて働いてきます。教会、特に礼拝の中で主に任せなさい、主をあがめなさいと教えられながら、分かっていても明け渡すことができずにいます。主を見ることをできなくさせ、傷を見せてくるのです。しかし主は賛美の中で、やさしくいたわり、傷口を包帯で手当てしてくださるというのです。私たちはイエスキリストによって救われました。いまがどんな状態であろうと、過去どんなに傷ついたとしても、必ずあなたを愛していやして下さいます。人のことばは、いくら慰めことばを語ってもいやしにはなりません。今日主に期待しましょう。主に触れて頂きましょう。あなたの口で賛美をささげましょう。神はあなたに優しく包帯し、手当をして下さいます。詩篇34編18節には

『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』

 主はあなたの遠くにいる存在ではありません。心の打ち砕かれた者の近くにおられると書いてあります。いつも共にいて下さる。インマヌエルの神です。またイザヤ書61章1節〜3節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

 心の傷ついた者をいやすために、わたし、主は遣わされたとあります。主は心の傷ついた者を癒すために来て下さいました。今日の礼拝に主はおられます。あなたに触れて下さいます。そして詩篇147篇4節を見ると

『主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。』

とあります。主は私たちでは、どれだけあるかわからない星さえも数えておられるし、その全ての星々に名まえをつけておられるというのです。皆さんは星の数がいくつあるかご存知でしょうか。人の目で見れる星の数は約7500個くらいだと言われています。県民の森祈祷会など行くときれいな星が見えます。とっても綺麗だと思いますが、人の目で見えるのは7500個らしいです。しかし宇宙全体の星の数は、太陽がある銀河系にはおよそ200億くらいの星があるそうです。そしてさらに銀河系くらいの星の固まりがおよそ千億くらいあるそうです。すると、宇宙全体の星の数は“二千億の千億倍”分かっているだけで、という事です。その数え切れない、計算できないほどの星の全てに名前をつけて下さっている主は、私たちにたいして細やかな配慮を持って愛して下さらないはずがありません。イザヤ書41章1節から4節には

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

あなたの名前をご存知の主が、あなたを高価で尊い。あなたを愛していると言っています。

先ほど読んだ詩篇147篇4節では

『主は星の数を数え、その全てに名をつける』

また5節には

『我らの主は偉大であり、力に富みその英知ははかりがたい』

同じようなみことば詩篇145篇3節

『主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。』

とあります。主を賛美する時、主の偉大さを知る事が出来ます。そして測り知ることのできない素晴らしい主の癒しや問題の解決。また祝福を、私たちが賛美する時受けることができるのです。私たちは家族の救いを願っています。しかし困難の覚えます。親に伝道する事はなかなか難しく、家族のために祈っていますが困難を極めることがあります。しかし主は計り知れない偉大な力があります。あきらめないで下さい。賛美する時奇跡を見せて下さいます。先日使徒の働き9章1節から2節を読んで主の測り知ることのできない偉大な力を認識させられました。ここは有名なサウロ、後のパウロの回心した時のことが書かれてあります。

『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。』

 この時サウロはクリスチャンを迫害する第一人者として、クリスチャンから非常に恐れられていました。サウロが道を進んで行き、まもなく目的地ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼は巡り照らされたのです。そしてサウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。という声を聞き、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」と言う声を聞きました。その後サウロは3日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。そして今回サウロに捕まえられるべき人、ダマスコにいるアナニヤに、幻で、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさいと言われ、彼のために祈れと言われました。またサウロを「わたしの選びの器」とまで言われました。使徒の働き9章19節から21節に
 
『食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」』

 このように奇跡が起こされています。ダマスコの皆が驚いてしまいました。迫害するために来たのに何であんな事を言っているのかと逆に恐れを感じてしまうほどでした。その後サウロからパウロとなり、新約聖書のほとんどと言っていいほど彼が書きました。最悪の状況、もうまもなくダマスコにつくと言ったぎりぎりの中で主はどんでん返し、奇跡を行いました。この記事を見て、絶対に諦めない。必ず主は勝利を下さる。主は私たちを愛して下さっていると知りました。主に賛美しましょう。思いきって主に賛美をささげましょう。家族の救いだけではなく、問題、経済的な事、病、いままで祈っても祈っても全く聞かれることのなかった事に対して、賛美しましょう。そして147篇6節には

『主は心の貧しい者を支え、悪者を地面に引き降ろす』

とあります。リビングバイブルで見ると

『主は謙遜な人を支えられますが、悪者どもは泥の中にねじ伏せられます』

と書いてあります。賛美して行く時、私達の周りの悪しき力が打ち破られ、地面に引き下ろす。泥の中にねじ伏せるとあります。賛美によって戦いが勝利します。皆さんの遣わされている場所が教会です。その場所であなたが声を出して賛美してみて下さい。あなたの家で賛美してみて下さい。家が変わり、住んでいる地域が変わっていきます。サウロが変わったように、計り知れない力によって家族が救われます。大きな祝福を与えて下さいます。また霊的な問題も崩れ去り圧倒的な勝利を頂く事ができます。賛美には力があります。最後に皆さんで思いきり声を出して賛美しましょう。これまでは声を出したつもりになっていた若い兄姉、子どもたちも賛美して下さい。「栄光イエスにあれ」この曲は皆さんがよくご存知の賛美だと思いますので、賛美しましょう。この賛美の中で、測り知ることができない主の力が問題や様々な事に勝利して下さいます。賛美しましょう!

<栄光イエスにあれ>
栄光 栄光 イエスにあれ 
栄光 栄光 イエスにあれ        
み座にいます 小羊よ ほむべきお方   
あなたは すべおさめる         
とわに正義をもって


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