「信仰によって生きる」


2010.3.21(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

創世記 15章1節〜7節
『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」

 ハレルヤ!おはようございます。今日も皆さんの前でお話しが出来ます事を、心から感謝します。先程の開先生夫妻の賛美で、少年院でのコンサートでよく歌っていると説明された歌を聞きながら、何か、自分が少年院に入ったような気分になってしまいましたが、皆さんはいかがでしたか。少年院に入っている少年達は、こんな気分で聞いているのだろうな思いましたが、人は皆罪人です。悪魔の奴隷になっていた者ですが、イエス・キリストによって救いだされた事を心から感謝します。
 今日は午後から聖会があります。是非ともご出席頂きたいと思います。講師はヘスス・リベロ先生という、ベネズエラから来られた先生です。インターナショナル集会のために来て下さいました。私達の教会には、中南米からの方々が多くいらっしゃいます。その方々のために聖会を持って下さっています。今先生に、ここに来ていただいて、少しご挨拶を頂きたいと思います。大きな拍手でお迎え下さい。

 (ヘスス・リベロ師あいさつ)
 「神様はよいお方です。感謝します。神の恵みはいつまでもあります。そして、みことばは国々のためにあります。聖書の中に、多くの勝利者の証を見つける事が出来ます。また、敗北した人の証も見つけます。み言葉の中で勝利者と敗北者の違いが分かります。それは今日においても同じです。もし、人生に勝利したければ、聖書の中に道があります。勝利のために、幸せな人生のために、色々な領域において、霊的、健康、家族、商売、経済などについての道が示されています。何故ならイエス様がその答えだからです。
 今日は皆さんと一緒に礼拝できて本当に感謝します。この教会の牧師さん達に感謝します。順先生、フェルナンド先生、そして、皆さんと日本にいる間、本当に恵まれています。私は世界中を回ってみ言葉を教えてきましたが、この新城は皆とても優しく、特別な方々です。皆さん是非、午後にも参加して下さい。聖書の学びのとてもよい時間になると思います。

 ヘスス先生は大変素晴らしい聖書教師です。皆さん、今日午後から是非、語られるみ言葉を聞い下さい。今も語られたように“み言葉の中に幸せの道がある”のです。
 私は先週の日曜日はイスラエルにいました。しかし、新城教会の礼拝にも出席させて頂きました。嘘のようですが本当の話です。現在、新城教会の礼拝を、遠くてここまで来られない教会員の方々のために、インターネットで中継しています。イスラエルで同じ時間に(とは言っても時差があるので夜中の三時半でしたが)礼拝に出席したのです。実は、時差のおかげで起きてしまったのですが。「賛美の力」というメッセージを上條先生が語っていました。今は世界中で同時に礼拝出来るような時代です。

 私達の信仰は「事実」に基づいたものです。世界にも、日本にも、多くの宗教があります。宗教には必ず“教え”があります。教えはどの宗教でも悪い事は語っていません。なるほどと思わせるような部分もあります。ですからキリスト教でなくとも、他の宗教でもよいではないか言う人もいます。しかし、教えはあっても「教えの根拠」に関しては、ほとんど検証できません。例えば日本人は皆、神道の信者だといいますが、神道の教えの根拠となる日本神話を検証しょうとしても、検証できないのです。それは人の住んでいない神代の時代の話ですから、検証不可能です。
 仏教でも同じです。仏教の経典は釈迦が死んで五百年位たって書かれたものであり、釈迦が実際何を教えたのか、行ったのかについては記録がありません。そのため、仏教には教えはあっても、教えの根拠を検証する事は出来ないのです。

 しかし、聖書の教えの根拠は、そのほとんどが検証可能です。それらは事実に基づいています。
 事実に基づくことはとても大切です。近ごろ、振り込み詐欺が多くあります。詐欺師達が使うまことしやかなストーリーはすべて嘘なのです。嘘のストーリーと共に、存在を感じさせるものだから騙され、最も大事な物を盗まれてしまうわけです。「あなたの子供が事故に遭いました・・・」とか、「あなたのご主人が警察に捕まりました・・・」などと電話がかかってくるのですが、実は嘘なのです。そのストーリーを信用すれば、お金をひったくられるわけです。
 元となっているストーリーが事実なのか、偽りなのか、しっかりと見極めなければいけません。宗教も同じです。

 聖書の世界は不思議な世界ですが、同時に現実の世界です。それは人類の歴史のただ中に、神が語りかけたからです。聖書は時系列の中で、神と人との交わりの記録です。神代の世界で何が起こったのかわからないようなものではなく、人間の歴史のただ中で、神が人間と交わった記録です。
 イスラエルに行くと、それを手に取るように見る事が出来ます。少し皆さんにイスラエルで撮影した写真をお見せしながら、聖書の記述が事実である事を説明させて頂きます。今日はプロジェクターが少し暗くて申しわけありません。長い事プロジェクターを使っていたので暗くなり、修理に出しているからです。

 さて、この岩はどくろのような形をしていますが、イエス様が十字架にかかられた丘と思われる場所です。十字架はおとぎ話しではなく、「どくろ」と呼ばれている丘でイエスさまは十字架にかけられたのです。
 次の写真は、イエスさまが葬られた墓です。4月4日は復活祭ですが、イエス様は一度ここに葬られたのですが、よみがえられたのです。この大きな石が墓の入り口をふさいでいましたが、それが超自然的に取りのけられ、イエスさまは復活されたのです。墓の入り口には、「イエス様はここにはおられません。よみがえられたからです」と書かれています。

 イエス様が生活されていた時代は、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。その当時ものがイスラエルに行くと数多く残っています。これはローマが作った円形劇場です。日本では縄文時代でしたが、すでにイスラエルにはこんな立派な施設が作られていたわけです。
 ポンテオ・ピラトという人物が聖書には出てきますが、イエス様を十字架にかける時に裁判に関わった人物です。イスラエルのカイザリアという街で、ポンテオ・ピラトが実在したことを示す碑文が発見されたのです。聖書に記録されている人物たちは、皆、実在した人たちであることがわかります。
 これはローマが作った水道橋です。当時、ローマが造った都市には、すでに上水道・下水道ともそろっていたのです。日本はそのころ何をしていたのかわかりませんが、世界は動いていたのです。

 次に、旧約時代に関する映像ですが、今日はアブラハムという人物について学びたいと思いますが、彼が一番長く住んだのが「ベエル・シェバ」という場所です。今回、私達はそこにも行きました。アブラハムの時代は今から、4000年くらい前の時代です。そんな時代の事が旧約聖書には記録されていますが、アブラハムの時代に堀られた井戸が今でも残っています(実際、この写真の井戸をアブラハムが掘ったものかどうかは定かではありませんが)。しかし当時掘られた井戸が、今でも残っていて水が湧き出ているのです。

 これは生け贄をささげるための祭壇です。聖書には、神が人間と交わる時、ある時期、ある期間、動物を生贄として捧げることにより、神が人と交わるという時代がありました。そんな祭壇が本当に存在したのかと思います。
 特にベエル・シェバではアブラハムが神と契約を結び、祭壇を築いたと記録されています。その場所を発掘してみると、聖書に記されている寸法の石が出てきました。それを組み上げると、なんと聖書が示している祭壇となりました。祭壇には「四隅に四つの角がついていた」とありますが、そのものが発掘されたわけです。この写真はレプリカですが、本物はエルサレム博物館に展示されています。「罪を犯した人が祭壇の角をつかむと、命を助けられた」と記されていますが、今回、私たちは象徴的にその角をつかんで「主よ、私達を助けて下さい。日本に、リバイバルと勝利を与えて下さい」と祈りました。
 しかし今の時代は、このような祭壇は必要ないのです。なぜなら、イエス様が全人類の犠牲となり、身代わりとなって死んで下さったので、動物の生け贄は必要ないのです。祭壇とはイエス・キリストの十字架を表していたわけです。

 ダビデとゴリアテのストーリーは子供達もよく知っている物語ですが、その戦いが行われた場所がこの写真の場所です。イスラエルとペリシテの軍隊が戦った「エラの谷」という場所です。ダビデは一発の石でゴリアテを倒しました。私たちはダビデと同じように「イエスさまの名によって霊的ゴリアテを倒します!」と宣言して楽しかったです。
 
 これはクムランという場所の写真です。この洞穴を見るために世界中から人々がやって来るのです。いつ行ってこの場所は人でいっぱいです。洞穴の近くにある売店は大儲けしています。“洞穴一つ”で儲かっているのです。家の庭にそんな穴が一つあったら幸せです。洞穴を見るために世界中からお客さんが来て、お金を落としてくれたら、そんな楽な事はありません。何で、穴一つで儲かるのかというと、実は、ここから旧約聖書一式が出てきたからです。
 旧約聖書には、イエス・キリストについての預言が多く記録されています。しかしもしも、紀元前の聖書がなかったら、イエス・キリストが生まれた後に旧約聖書をうまくでっち上げ創作したのだろう、と言われても仕方ありません。けれども紀元前の旧約聖書が考古学的にも実証されたら、聖書に記されている内容は事実だと分かります。
 実はこの穴から、紀元前に複製された旧約聖書がごっそりと出てきたのです。発見された巻物は2000年以上も前のもので、当時は「写本」と言って、原本を写して保存したのですが、何と紀元前に写本され、保存されていた羊皮紙の聖書がごっそりと出て来たのです。「死海写本」と呼ばれています。それで聖書の信憑性が飛躍的に高まりました。イスラエル建国の一年前、1947年のことでした。それは神の大きな計画だったと思います。そのために、この穴一つでイスラエルは大儲けしているのです。このように、聖書の記録は全て事実です。

 この街は「ナザレ」という街です。この街にはうどん屋が多いです、というのは冗談です。なぜなら、新城に「ナザレ」というおいしいうどん屋さんがあるからです。店の主人がクリスチャンで、この街の名前をつけたのです。
 実はこのナザレという街は、イエス様が約30年過ごされた街です。イエス様が最も長く生活された街です。当時はさびれた山村だったそうですが、今では、イエス様が過ごされた村と言うことで大勢の人が住み着き、かなり大きな街となりました。
 この街の会堂でイエスさまはイザヤ書を開かれ、61章に記されている有名なみ言葉、「わたしの上に主の御霊がおられる。主はわたしに油を注ぎ、貧しい人によい知らせを伝え、心の傷ついた人をいやすために遣わされた・・・」と記されている箇所を見つけ、「これはわたしの事を記している」と言われました。
 それを聞いたナザレの人々は驚きました。「あんたは30年もここに住んでいて、大工のせがれじゃあないか。気が狂ったのか。」と言って、イエス様を崖から突き落として殺そうとしたのです。しかしイエス様は、人々の間をすり抜けて行かれた、という事が記されていますがそれがこの写真です。こんな崖の上からイエス様を突き落とそうとしたのです。「突き落としの崖」と呼ばれ、今でもナザレに残っています。

 これはガリラヤ湖の写真です。イエス様の宣教の舞台のほとんどは、ガリラヤ湖周辺でした。ガリラヤ湖は今でも水を満々とたたえ、静かにたたずんでいます。「イエス様はここで水の上を歩かれたのか。嵐を静められたのか。奇跡をなしたのか・・・」とわかります。
 私達はガリラヤ湖々畔のホテルに二日間泊まり、素晴らしい経験をしました。私の部屋からほんの30秒歩いたらガリラヤ湖でした。パンを湖面に投げるとカモメがたくさん集まってきました。

 イエス様がゲラサという地に行くと、悪霊に支配された男が墓場から出てきたと記録されています。この写真は男が隠れていたのではないかと思われる、当時の墓場です。この様な穴が今でも数多く残されています。
 以前にもお話ししましたが、悪霊に支配されていた男は、ギリシャ神話の神々を拝んでいてそのような状態になった可能性があると話しました。偶像礼拝によって悪霊の強い影響を受けるとお話ししました。この写真は“スシータ”という場所です。ここは現在、聖書に記述されているゲラサの可能性が最も高い場所として、数年前より発掘が続けられています。ここにはイエスさまの時代の前後、ヘレニズムの影響で建てられた街が存在していて、馬の神を祀るギリシャ神殿がありました。「スシータ」とは「馬の街」という意味です。
  豚が丘から湖になだれ落ちて死んだ事が記録されていますが、山の上に都市があることからその可能性を伺わせます。
 これが街の大通りです。悪霊に支配されていた男が解放され、正気になり、この道を通って街に入ってきたのだろうと思われます。人々は「何が起こったんだ!」と、当時は大騒動であったに違いありません。

 これは地中海の写真です。イエス様がよみがえられて天にお帰りになった後、弟子達によって世界に向けて福音が発信されました。地中海に面した、ヨッパやカイザリヤという港町から彼らは船出して行きました。今でもこの付近には古代の港が残っています。ここからパウロも弟子達も、世界に出て行って福音を伝えたおかげで、私達の所にも福音が届いたのです。ここに立つと感動します。
 どうでしょうか。写真を見ただけでも、私達の信仰が事実に支えられている事が分かります。

 さて、今日読んだ聖書の箇所はアブラムと呼ばれ、後に、アブラハムとなった男に神が直接語りかけられた箇所です。彼は父親と一緒に、古代バビロニア帝国の発祥地である「ウル」という街に住んでいました。お父さんの名前はテラといいました。
 ある日、「あなたはここから出て、わたしの示す地に行きなさい。そうしたら、あなたを祝福してあげますよ」と語られたのです。その声を聞いた時、彼は神の声に従って出て行きました。出て行くことを決めた動機付けが何であったかというと、15章6節に、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記されています。

 これは何を表しているのかというと、アブラムは「私に語りかけられたのは、天地を造られた神だ」と信じて、まだ見ていない地に向かって踏み出したのです。その時彼は大いなる祝福を受けたと聖書は告げています。
 創世記十五章一節を見ると、『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』

  神はアブラムに「わたしの示す地に行きなさい」と語られたのです。人間は自分の居場所を見つけると、そこから中々動きたくないものです。四月から新しい環境に踏み出していく方々も大勢おられます。新しい学校に入るとか、社会人になり新しい職場に入る人たちもいます。また、昨日は結婚式もありました(新城教会は、結婚式などがないと花が会堂にありません。花よりだんごの教会ですが・・・)
 しかし新しい旅立ちには不安があり、中々勇気がいるものです。しかしそんな中で、最も勇気がいる事柄は、自分や自分の家の宗教を変える事です。それは最も勇気が要る事かもしれません。
 日本人は仏教や神道の環境の中に生まれますから、そこから出てキリスト教に移るというと、相当勇気がいります。最も動かしたくないのは「家の宗教」だと思われます。
 しかしこの新城教会には、すでに自分の信仰を変えられた方々が大勢いますから、その勇気を心から讃えたいと思います。私など生まれた時から両親がクリスチャンでしたから、「とりあえず・・・」というような感じでした。しかし日本のクリスチャンのほとんどが、仏教や神道などから宗教を変えた経験があります。

 アブラハムも自分の宗教を変える決断を迫られたのです。今まで信じていた神ではなく、全く想像もしなかった神の声を聞いて従っていったのです。
 その神が「わたしについておいで・・・」と語られたのです。彼は、かなり混乱した事と思います。しかし決断して「よし。この方についていこう!」と決心したのです。神を信じた時、彼の人生は変わりました。その勇気は大したものだと思います。それは、世界のほとんどの人が、天地宇宙を造られた神の事を知らなかった時代でしたから。そんな中で、神に従っていく事には、大きな勇気がいったのかもしれません。

 しかし今の時代、信仰を持つのはさほど難しいことではありません。なぜなら、先程も説明しましたように、私達の信仰は教えだけではなく、その根源もちゃんと検証出来るからです。また、信仰のために戦ってきた先人達も数多くいますから、彼らの信仰に習う事も出来るからです。ですから今日、私達はいともたやすく信仰を持つ事が出来るのです。一番良い時代に生きている事を、感謝しなければいけないと思います。 

 アブラムが神からの声を聞いた時、彼はけっこう年をとっていました。その時神が何と語られたかというと、「あなたに子供が生まれます」と言われました。
 実はこのアブラムが、自分の子供を得た年齢は何歳であったのかというと、実に「百歳」でした。90代の老人に対して「あなたの家に子供が生まれます!」と神は言われたのです。普通では絶対に信じられない事ですが、何と、神はそれを成し遂げて下さいました。そして名前も“アブラム”から“アブラハム”に改名されました。
 彼は老人で歯もすでにぬけていたのに、何と、彼も奥さんも子供を産めるくらいに若返り、歯が新しく生えたので、「アブラ歯ム」になったという話は、信用しないで下さい(笑)。
 いずれにしろ、彼にとっては未知数でしたが、神に従っていった時に大いなる祝福を受けたのです。私達も、アブラハムと同じように、祝福された人生を送る事が出来るのです。聖書に記されている事柄は事実であると知ると、信仰を持つ事は容易になります。
 「信仰を持つ」とは難しくない2週間前も話させて頂きましたが、私達はただイエスさまを信頼してついていけばよいのです。へブル書11章1節、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 まだ見てはいないけれど、先取りして信じる事、それが信仰です。神が言われた事はまだ起こってはいないけれど、先に信じて受け取る事が信仰です。そして、アブラハムに語られた言葉は、同時に現代を生きる私達に語られた言葉であると聖書は告げています。
 ガラテヤ3章9節〜9節、

『ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。』
 
 信仰の原則は、決断と共に神の祝福を受けるものです。教会に来て、私達は何をつかむのかというと「信仰」を掴むのです。その信仰の中に、人生の祝福が隠されているのです。
 実は創世記15章に神の言葉が記されていますが、それはアブラハムにとって始めての経験ではありませんでした。すでに前もって、12章で神様が祝福の言葉をアブラムにかけられている事がわかります。
 神様は一度声をかけて、それに応答しないからといってあきらめる方ではなく、何度も何度も声をかけて下さる優しい愛を持った方である事がわかります。
 創世記12章1節から3節を見ると、

『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

この言葉は素晴らしいです。アブラハムに語られた言葉を信仰によって、自分に与えられた言葉として受け取るなら、アブラハムにではなく、私とあなたに祝福が来るのです。これは我々に語られている言葉です。「わたしはあなたを大いに祝福します。あなたの名は祝福となる」となっています。

 「名は体を現わす」という言葉がありますが、聖書の世界は実にそれです。名前がその人の人生全体を表すのです。
 この教会にも、多くクリスチャンネームというか、聖書の中に出てくる人物の名前を付けられている子供達がいます。小学校の時など「ちょっと変わった名前だね」と、いじめられる事は無かったか心配しますが、多分、珍しがられたかもしれません。
 うちの甥に“ヨセフ”とか“エノク”などいますが、まだ“祝福”という名前の子どもはいないです。一度誰か、勇気を持ってつけたら祝福されるかもしれません。

 しかし、すでにアブラハムに「あなたの名は祝福となる」と語られたのです。という事は、皆さんがイエス・キリストを信じたら、あなたの名前は「祝福」という名に変えられているのです。
 私は滝元順という名前ですが、実は私のクリスチャンネームは「滝元祝福」です。なぜならアブラハムと同じですから。お隣の方に「祝福ちゃん」と呼んであげて下さい。私たちには素晴らしい祝福が約束されているのです。
 さて、アブラハムが受け取った祝福の中身を見ると、「こんなに素晴らしい物をもらったのか・・・」と分かります。私たちも主を信じたら、同じように素晴らしい祝福を頂く事が出来るはずです。

創世記13章2節を見ると、

『アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。』

と記されています。彼は経済的な祝福を受けていたのです。皆さんはいかがでしょうか。信仰を持つなら、経済的祝福もその中にあるのです。
 しかし、「私は主を信じたのだから、経済的にも祝福されるべきだ!」という姿勢ではいけません。アブラハムはそのようではなかったからです。実は、アブラハムは気がつくと、全ての領域で祝福されていたのです。
 創世記24章1節、
 
『アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。』

彼は気づいたら、祝福されていたのです。
 キリスト教の世界には様々な神学、聖書理解、考え方などがあります。現在、世界で議論の的となっているのが“繁栄の神学”“繁栄の福音”などと呼ばれる神学です。それは、「アブラハムが祝福されたのだから、私達も祝福されるべきだ。神様。あなたは私を祝福すべきです!」と、積極的に、可能性思考的に生きて行けば、祝福を勝ち取る事が出来るという教えです。
 しかしそれはアブラハムの祝福とは逆のベクトルです。それは間違った考え方です。私達は祝福を「勝ち取らなければ」というのではなく、信仰の世界に入っていくと、アブラハムと同じように、気がついたら祝福されているのです。
 経済的に祝福されるべきとか、可能性思考に生きて行くというものではなく、アブラハムが年を取った時、「気がついたら」「・・・あれ、私って祝福されてる」ということでした。彼は祝福を意識していたのではなく、気がついたら、祝福されていたのです。

 信仰の原則は、決して、自己実現ではありません。信仰とは自分の願望を果たす為の手段や道具ではないのです。「気がついたら祝福されている」事なのです。
 祝福を真剣に求めなければ与えられない、というのではなく、主と共に歩むようになれば、気がついたら祝福されているという事です。

 今、教会で皆さんと共に礼拝を守る事が出来ていますが、それは本当に感謝な事です。こうして素晴らしい会堂があり、エアコンで温度も調整された中で快適に礼拝出来るのは、本当に感謝です。この会堂を今でも“新会堂”と呼んでいますが、いつ建てられたのかというと1980年です。何と、30年も前に建てられた古い建物です。「30年前に建っても新会堂とはこれいかに・・・」という事ですが、30年前、この会堂は完成しました。しかし中々、先見の目があったと思いませんか?真剣に研究して会堂を建てたからうまく行った、というわけではなく、主が導いて下さったのです。30年前に、現在を予測して会堂を建てるのは中々難しいです。
 当時教会堂には固定概念があり、「パイプオルガンやステンドグラスがあり、十円玉1個落としただけで皆ににらまれる」というような、静かなイメージがありました。30年前にはかなり強い固定概念がありました。
 しかしこのような漸進的な会堂を建てられたのには、先見の目があったわけではなく、不思議な事ですが、気がついたらこうなっていたのです。30年後でも“新会堂”と呼ぶ事ができる会堂が与えられたのです。
 新城教会の隣には教育館があり、プレイズ出版があり、神学校、またカフェもあります。「実にうまく建築計画を立てましたね」と言われますが、全く、初めから計画したわけではありません。会堂を建てて、カフェなどが出来るまでには30年近くもかかりましたから、計画など立つわけがありません。

 しかし不思議とうまく進んだわけです。これは強い信仰を持ち、夢を持ったからこういう風になったのではなく、「気がついたらこうなっていた」のです。そしてまた、皆さんも現在、教会に集って下さっているのです。
 ですから、信仰は、決して勝ち取る物ではなく、気がついたら祝福されてる事に気がつくのです。

 アブラハムに約束の子のイサクが生まれ、またイサクにはヤコブという子供が生まれました。ヤコブには12人の子供が生まれ、祝福はアブラハムだけに留まらずに家系に受け継がれるのを見る事が出来ます。
 今日、ここにおられる方々の中で、「私は大変な迫害の中で、クリスチャンになりました」という方もおられますし、気がついたら、私のようにクリスチャンファミリーに生まれていました、という人もいるでしょう。さらに、クリスチャン三世や四世もおられます。
 新城教会のよい所は、信仰生活を持って六十年位になる方もいますし、50年、40年、30年、そして、1週間前、今日、クリスチャンになったという色々な年代ものを見られる事です。彼らがどんな人生を歩んでいるのか、検証出来るわけです。
 実はこれは聖書の中にそのモデルがあります。このアブラハムの二代目のイサクに、神が何と語られたのかというと、創世記26章24節を見るとこうなっています。

『主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」』

 二代目のイサクに「あなたを祝福しますよ」と語られたのですが、何故祝福されたかというと、「わたしの僕アブラハムのゆえに」と語られたのです。
 初代のクリスチャンには大きな戦いがあります。中々、クリスチャンとして家族の中でやっていくのは大変です。頑張って信仰を持ち、力強く前進して頂きたいと思うのですが大変です。しかしがんばって下さい。何故ならそれはあなただけで終わるのではなく、次の世代にも関わる事だからです。
何故、アブラハムの息子、イサクが祝福されたのかというと「アブラハムの故だ」というのです。私に置き換えてもそうです。何故滝元順が祝福されたのかというと、「父、明の故だ」と言われるかもしれません。皆さんの家族がクリスチャンであるなら感謝して下さい。初代のクリスチャンであれば、必ず、その祝福は子供たちに受け継がれるのです。
 そして、子供たちが祝福された時、神は言われるのです。「あなたが祝福されたのは大変な中で信仰を持った、あなたのお父さん、お母さんの故ですよ」と。

 続いて三代目ヨセフには何と語られたかというと、創世記49章25節〜26節に、

『あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』

 何と、三代目に至っては、祝福はさらに拡大され『上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福』でした。天においても地においても、全ての領域を包括するような祝福が三代目にはあったのです。何と、私達が受け取る祝福は、その代だけで終わるものではなく、二代目、三代目、四代目と受け継がれていくのです。アブラハムの祝福は、「千代に至る祝福」につながっていくのです。なんと感謝ではないでしょうか。多少は戦いがあるかもしれませんが、未来の為に戦っていきましょう。巷では神社の祭りがあり、偶像礼拝がなされていますが、そんな中でも信仰を告白し、力強く歩んでいくことは大切です。

 それでも、「信じるのは中々難しい。聖書も難しい事を言っているし」と言う人がいます。
 しかし信じる事は本当に難しくないのです。漢字がそれを表しています。“信じる”という漢字は人べんに「言」という部位で構成されています。信じるとは、「私はイエス様を信じます」と告白すればいいだけです。それが信じることです。

 2週間前、12年間病を患っていた女がイエス様の衣にちょっと触れるという勝手な解釈の信仰を実行した事により、癒されたという話をさせて頂きました。彼女は「もしもイエス様の衣に触る事さえできれば癒されると思っていた」と新改訳では訳されているのですが、英語の訳では「彼女は着物に触る事さえ出来れば癒されると『言っていた』」と訳しています。
 「私は今は病気だけど、イエス様の衣にちょっとでも触る事さえ出来れば、癒されるかもしれない」と周りの人々に語っていたのです。それが「信仰」でした。
 皆さん、是非とも自分の信仰を、口で告白して頂きたいです。周りの方々に、「私はイエス様を信じています。私はクリスチャンです。」と告白するのです。信じるとは、告白そのものです。それは世代を越えて増大し、気がつけば天でも地でも、大いなる祝福としてあなたを覆っているのです。

 そのために、もう一つの条件があります。それを最後に学んで終りにしたいと思います。それが何かと言うと、先ほども言いましたように、創世記の12章で最初に神がアブラムに語りかけを始めた時、「あなたは、あなたの生まれ故郷の父の家を出て私が示す地へ行きなさい」と言われたのです。

 これを聞くと心配になります。「あれ、キリスト教も出家が必要か・・・」出家し、家を捨てなければいけないのかと、少し心配になります。
 しかしこれがどういう意味かと言うと、アブラムのお父さんはテラと言いました(寺によく行っていたのかどうか知りませんが)。父親は偶像の神々を信じていました。アブラハムがどこで生まれたのかと言うと「ウル」という街に生まれたのです。今その場所が特定されています。考古学で発掘されているのです。そこは月神礼拝の中心地でした。また、テラがウルからハランに移ったと記録されていますが、ハナンもウルと同じ月神礼拝の中心地だったのです。

 実はバビロニアの宗教は日本の宗教と大変よく似ていて“トーテミズム”と呼ばれるものでした。トーテムポールをご存じだと思いますが、それが街に立っていました。トーテムの一番上に乗っていたのは牛であったと言われます。ウルでは牛を神としていたのです。そんな礼拝行為をしていた場所で彼は生まれたのです(日本でも牛は神とされています)。
 「父の家から出なさい」とは何かというと、「偶像礼拝から離れなさい」という意味でした。
 私達が祝福される秘訣は、偶像礼拝から離れる事です。申命記の11章26節〜28節、

『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

 実は、神に従うか従わないかというのは何かというと、偶像礼拝から離れるか否か、という事です。祝福か呪いかは「偶像礼拝に従って行ったら呪いがきますよ」と言うのです。
 何故なら、手で造った神々は、単に物を拝むのではなく、背後に悪霊が存在する故に、大変な事が人生に起るのです。しかし私達が創造主なる神を礼拝する事は、祝福につながるのです。イエス・キリストを信じるなら、呪いではなく、祝福の道なのです。その祝福は子々孫々流れて行くのです。
 そして気がつけば、全ての領域で祝福されているのです。しかしそれは、霊的祝福なのです。
エペソ人への手紙1章3節。

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』

また、ピリピ4章17節。

『私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。』

 「祝福された」というのは、ただ現実の祝福ではなく「霊的祝福」なのです。霊的領域に関心を払うなら、霊的祝福を受け、その結果が地上に表されるのです。ですから私達はただ単に地上の祝福を求める視点ではいけないのです。私達の受け取る祝福とは「収支を償わせてあまりある霊的祝福なのです」と。
 今日、皆さんはアブラハムの子孫です。神様は祝福を与えようとされていて、それを受け取るための鍵が何であるかというと、「信仰」です。
 その祝福は自分だけで終わるのではなく、代々続くものです。ですから時には困難があるかもしれませんが、負けてはいけません。
 ロケットを見ると三段、四段になっています。始め、一段目のロケットが点火されるとすごい推力が必要です。重いロケットがものすごい煙を吐きながら上がっていく光景を時々テレビで見ます。その時が一番墜落の危険があります。
 しかし一段目が燃え尽きて二段目に火がつくと、今度はスピードがアップします。さらに三段目に火がつくと、今度は大気圏外に出るのです。そして、最終的には人工衛星が放り出され、自動的に地球を回る軌道に入るのです。

 私達の信仰も同じかもしれません。日本で信仰を持つのはある意味一段目の人もいれば二段目、三段目、まだ人工衛星の人は多くありません。しかしそれぞれの世代に役割があり、それぞれの時代を担って、次の世代にバトンタッチしていくのです。
 教会は一段目も、二段目も、三段目も、互いに助け合って霊的祝福を受け取る場所です。信仰をもって前に進んでいこうではありませんか。最後に一言お祈りして終りにさせて頂きます。 


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