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マタイの福音書 28章18節〜20節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
ハレルヤ。おはようございます。今日もこうしてみなさんとともに、礼拝を守ることができますことを感謝します。
先日、新年聖会を持ったばかりだと思いましたが、早いもので来週には4月になります。そして来週は「復活祭」です。それはキリスト教会において大変意義のある、ある意味で、クリスマスよりも大きなお祝いです。でも復活祭は毎年、日にちが変わりますので正直わかりにくいところもあります。「春分の日の後の満月の次の日曜日」と設定されておりまして、何となく、うさんくさい感じもします。そもそも復活祭を称して「イースター」と呼ぶのですが、これは春の女神を指します。ですから私たちはあまりイースターとは呼びたくはありませんので「復活祭」と呼びます。復活祭は春の異教の祭りとローマの文化が絡んで決められたのですが、ともあれイエスさまが甦られたのは事実です。私たちの神は死んだ神ではなく、今も生きておられる神さまです。
世界にはいろんな宗教があり、その教祖と呼ばれる人たちは、みな死んでしまいました。死に打ち勝った人物は一人もいません。そんな教祖にいくら頼っても空しいですが、死を打ち破った方がおられるとしたら、その方こそ本物の神です。イエスさまは死を打ち破ったお方です。今日読んだ聖書の箇所は、イエスさまが甦られ最初に弟子たちに語られたことばです。このことばは、全世界の人々、現代に生きている私たちにも語られたことばですので、大変重要です。
甦りのイエスさまが近づいてきて、弟子たちに言われたのです。
「わたしは天においても地においても一切の権威が与えられています。」
全幅の権威を持っておられる方は、天地を造られた神以外にありません。そしてイエスさまが、一切の権威を持っていると言われたのです。そして19節、「それ故あなた方は出て行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。
天においても地においても一切の権威を受け取られた故に、「あなた方も出て行って福音を伝えなさい」と語られたのです。ということは、完全勝利を前提として、イエスさまは弟子たちを世界宣教に遣わされたわけです。それで、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。」と語られたのです。弟子たちを遣わした目的は「バプテスマを授ける」ことと「教える」ことでした。これは、教会の使命です。福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、みことばを教え続けることです。
今日は感謝なことに礼拝後、11名の方々がバプテスマを受けられます。子どもたちも受けますし、服部さんの家族が全員でバプテスマを受けます。これは本当に素晴らしいです。
しかし、案外バプテスマを受けるかどうかで、躊躇する人が多いのです。「どうしようか、受けようか受けまいか・・・」と心が揺れます。バプテスマを受けると、何か特殊な人物になってしまうように考えるのかもしれません。私はそんな方々にいつも言うのです。「心配することはありませんよ。水から上がっても、決して額に十字の入れ墨なんか入りませんから」と。バプテスマを受けたからと言って、自分が自分でなくなってしまうものではありません。また、バプテスマはただの儀式ではありません。そこにはとても深い霊的意味があります。儀式のようにも見えますが、実は、見えない世界ですごいことが起こっています。
私はコロサイ人への手紙2章12〜15節を、バプテスマの時には必ず読みます。そこにはバプテスマを受けることによって、イエスさまの復活と同じ状態になると約束されています。みことばに従い、水の中に入って出てくるだけで、イエスさまの復活と同じ立場に置かれるのです。先ほどお読みした「天においても地においても一切の権威が与えられている。」とイエスさまはおっしゃいましたが、その権威を共有するのです。まだバプテスマを受けていない方がおられましたら、ぜひ受けて下さい。
もちろん、バプテスマを受けなくても、イエスさまを信じたら救われます。「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と約束されていますので、「イエスさまを信じます」と告白したら救われるのです。
キリスト教の救いはとても単純です。先週もお話ししましたが、信じるという漢字は、「にんべんに言う」と書きます。告白だけで救われるのです。
イエスさまが十字架についた時、一緒に強盗たちが右と左につけられました。始め彼らはイエスさまの悪口ばかり言っていました。しかし、そのうちに右側の強盗はイエスさまのことをただの罪人ではなく、もしかしたら救い主かも知れないと思い始め、最後にイエスさまにお願いしました。「イエスさま。あなたが天の御位にお就きになったら、私のことも覚えて下さい。」
その時イエスさまは男に、「今日、あなたはわたしとともにパラダイスに入ります」と約束しました。私はその箇所を読む度に、イエスさまが確かに救い主だと感動するのです。もしも私がイエスさまと同じ立場だったら、絶対にそんなことはしないと思います。知らない罪人が、私の左右で悪口を言っていて、最後の最後になり「私も天国に入れてくれ」なんて頼まれても、絶対に入れてあげないと思います。「何を言っているんだ。私のことをさんざん悪く言っておいて、よくもそんなことを言えたものだ。地獄の底にでも落ちて行け」と言うかもしれません。
でもイエスさまは、悪事を行った上、地上では何の償いもできず、死ぬばかりとなって、しかも、ついさっきまで悪口を浴びせかけていた人さえ天国に入れて下さいました。救いは、ただ恵みによって与えられるものです。そして口で告白するだけで、受け取ることができることがここからもわかります。イエスさまを信じますとは言っても、どこまで信じ切ることができるのかわかりませんが、まずは告白から始めることです。
そのように、救いは確かに口の告白によって与えられます。しかし、それをより確かにし、権威の領域において、「限定付権威から、限定解除の完全な権威」を受け取るためには、バプテスマが必要なのです。
イエスさまの公生涯の三年半は、病を癒し悪霊を追い出しと、素晴らしく力強いものでした。しかし、宣教の始めと最後の部分では、サタンの攻撃に出会ったのです。神の子にもかかわらず、どうしてあんな攻撃を受けたのだろうかと思います。それは、公生涯のイエスさまは確かに権威あるお方であったけれど、人として歩まれたイエスさまの権威は、限定付であったと思われます。
しかし、甦られた主は「一切の権威を受け取った」と言われたのです。ということは、甦りによって、死の力というサタンの力が滅ぼされ、全幅の権威を受け取られたのです。その権威を共有するために、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けなさい」、「授けなさい」と命ぜられたのです。そして20節では、「また私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。」そして最後に、「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなた方とともにいます。」と語られたのです。それで天にイエスさまは帰られたわけですが、まだ世は終わっていません。ということは、今日この時にも、イエスさまは私たちと一緒におられるのです。目には見えませんけれど、イエスさまがどんな時にもともにいて下さると堅く信じましょう。そのような信仰を持って歩んでいきたいと思います。
来週は復活祭で、イエスさまの甦りを記念する礼拝が、教会で行われます。そして今週は、受難週と呼ばれます。数年前に「パッション」という映画が公開されて話題になりました。それはメル・ギブソンという俳優が作った映画ですが、イエスさまの苦しみの場面を耐え難いほど生々しく描いた作品でした。パッションとは情熱という意味もありますが、受難週のことを「パッション・ウィーク」と呼びます。パッションとは受難という意味です。受難というと、苦しみをうけて苦痛にあえぐイエスさまを連想します。今週はイエスさまが私たちの罪の身代わりとなって、苦しみを受けて下さったことを覚えたいと思います。
有名な聖書のみことばにヨハネの福音書3章16節があります。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
イエスさまがこの地上に来て下さったのは、世(私たち)を愛して下さった故であると教えています。それは、御子・イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためなのです。
イエスさまを信じたら、永遠のいのちを持つことができるのです。今日、みなさんイエスさまを信じておられますか?イエスさまを信じていたら、永遠のいのちがあるのです。
生まれながらの人は、悪魔の支配下にあります。もしも、生きている間に悪魔の支配があるとすれば、死んでからは悪魔の完全な支配下に置かれるといえます。生きている間は肉体を持っていますので、悪魔も私たちを完全所有できないのです。なぜならば、悪魔・悪霊どもは肉体を持たない霊的存在ですから、人を完全には支配できないのです。けれども死後の世界においては、私たちも霊的な存在になりますので、サタンは人を完全に支配できるのだと思います。生まれながらの人間は罪人として、悪魔の支配下に生まれます。しかし人間には自由意志があって、選択の余地もまだ残されています。
けれども、死後の世界に入ると、100%悪魔の支配に陥ってしまうのです。これは本当に恐ろしいことです。
しかし、地上でサタンの支配から解放され、神の支配に入ることは、死後の世界は完全な神の支配に入ることを意味します。永遠に神の支配の中で過ごすことができるのです。イエスさまを主として告白しておられる方々は、神の支配下にありますから、死後の世界はもう決まっています。それは、永遠の命です。神の完全支配に入りますから、心配はいりません。
新城教会は60年位の歴史がありますので、もう、大勢の方が天国に帰って行かれました。毎年、復活祭の時には、「召天者記念礼拝」を持っています。これは天国に帰られた人々を礼拝するのではありません。天に帰られた方々を思い出しながら、神を礼拝する一時です。きっとその人たちは、いつも新城教会のことに関心を持ち、天においてとりなし祈っているはずです。地上での別れがあっても、天国で再開できるのです。
私たちはこうして集まっていますが、いずれ天国に入り、永遠にともに過ごす仲間たちとなります。お隣の方の顔を互いにご覧下さい。その人と永遠に過ごすわけです。「この人と永遠に過ごすなんてたまらないなぁ。」とは思わないで、みんな仲良くしていきましょう。
永遠のいのちが与えられているとは、何と素晴らしいことではないでしょうか。なぜなら、悪魔の手に渡ってしまった人類を、イエスさまが十字架によって代償を払って下さったからです。悪魔の手から私たちを取り戻して下さったわけです。それ故に、もはや滅びなくて済むのです。罪を犯した者たちは死ななければならない、という定めがあったのにもかかわらず、イエスさまが罪の身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。
もしも私が死刑囚で、死刑執行の寸前に誰かが来て、「順さん。あなたは生きていた方が良い。だから私があなたの身代わりになってあげます。」と言ったらどうでしょうか。もしかしたら助かるかも知れません。ひとつの命のためには、ひとつの命が必要です。人類の根源であり、創始者であるお方が「身代わり」となって下さったのです。人類の根源である方が身代わりとなられたので、全人類が救われたのです。イエスさまの十字架の死は、私とあなたのためです。
いわばイエスさまの生涯のメインテーマである十字架と復活を記念するのが、今週なのです。
復活祭の前の一週間は、イエスさまの人生において、まさに激動の一週間でした。今日の日曜日はどんな日であったかというと、イエスさまがエルサレムに入城された日です。人々はイエスさまを「ホサナ!」と喜び叫びながら迎えたのです。イエスさまはその時、ロバに乗って入城されました。
月曜日にイエスさまはエルサレムの神の宮に行かれました。すると、そこにはいけにえのための獣の売り買いや、両替人たちが我が物顔で商売をしていました。中世のカトリック教会が免罪符を売りつけていたのと同じような状態でした。ですから宮に入られたイエスさまは、本当に怒って、商売人たちの屋台を壊し、彼らを追い出され「宮清め」をされたのが月曜日です。
火曜日にはその宮を仕切っていた、祭司長・律法学者・パリサイ人・サドカイ人と言った人々がイエスさまを取り囲み、いろいろな論議を吹きかけ、何とかイエスさまの言葉尻を捕まえ逮捕するきっかけを作ろうとしました。
水曜日にはベタニヤというところに行き一日を過ごされました。その日、一人の女性が泣きながらイエスさまの前に現れ、非常に高価な油をイエスさまに注いだとあります。その時イエスさまは「わたしの埋葬の用意のための油だ」と言われました。
木曜日はかの有名な「最後の晩餐」が行われた日でした。その日は「過ぎ越しの祭り」が行われる日でした。
イエスさまの十字架刑は、韻を踏んでこの祭りの期間に実現したのです。過ぎ越しの祭りの始まりは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷であった時、エジプトの王のもとで苦役に服し虐げられていた民を、神はモーセによって十の奇跡によって救い出されたのです。その極めつけが、最後に起こった奇跡でした。それは、エジプトに住む長男が皆殺しにされるという災いでした。
みなさんの中に長男はどのくらいおられますか。わたしも長男です。あの時代に生きていなくて良かったですね。一晩のうちに長男は皆殺しだったのです。しかし、神は言われました。「傷のない小羊を連れて来て、それを殺し、その血を自分の家のドアに塗っておきなさい。そうすれば、天使がその血を見たら中へは入らずに過ぎ越します。」と言われました。
それを実行したのは、神さまの声を聞いたイスラエル人だけでした。エジプトの偶像を礼拝していた人たちはそのことばを聞くことができませんでした。その夜、長男を殺すために降りてきた天使たちが、その血を見て「ここには血が塗ってあるから、通り過ごそう・・・」といって過ぎ越し、その家の長男は助かったのです。
しかし、エジプト人の長男たちは、王の家の長男に至るまで皆死んでしまったのです。このことを記念する「過ぎ越しの祭り」の時に、イエスさまは十字架についたのです。
出エジプトの時にほふられた羊とは、預言的象徴であって、それはイエスさまのことを暗示していたのです。イエスさまが過ぎ越しの小羊のようにほふられました。イエスさまの血潮が塗られるところは、裁きに会う事がないのです。ヨハネの福音書3章18節には「主を信じない者はすでに裁かれている」と記されています。
すでに裁かれているものをも、過ぎ越して下さるというのが十字架の血の故なのです。「過ぎ越しの祭り」の日には、ユダヤ人達は特別な食事を食べるのですが、イエスさまは弟子たちと共に「過ぎ越の晩餐」をして、その後、弟子たちと祈りのためにオリーブ山に出かけました。しかしイエスさまはオリーブ山で捕らえられ、カヤパの官邸へ連れて行かれて監禁され、金曜日には十字架につけられたのです。
土曜日は、「暗黒の土曜日」と言われ、イエスさまが墓の中、いや、地獄の底にまで行かれたことを記念し、世界中のクリスチャンたちが沈黙するという伝統があります。
しかし日曜日は、輝かしくもイエスさまは甦られたのです。私たちは、イエスさまの十字架を思う週にさしかかっていることを覚えてたいと思います。
私は先々週、イスラエルに行くことができました。イスラエルではイエスさまが十字架にかかられた道をたどる事が出来ました。先日も申しましたように、イエスさまの十字架も復活も事実です。その事実を時系列の中で確認でき、確信することができました。
先週も写真をお見せしましたが、今週も少しお見せしたいと思います。
これは旧エルサレムの全景です。ここには金のドームというイスラムの神殿があります。昔はここにユダヤ教の神殿が建っていました。この門からイエスさまはエルサレムに入場されました。人々が「ホサナ」と叫んだところです。「ホサナ」という言葉は、「神さまバンザイ」といった意味もありますが、もう一つは「主よ助けて下さい」と言う意味です。
当時ローマの圧政下にイスラエルはありましたので、人々はいろいろな奇跡を行われたイエスさまに王となって欲しかったのです。ですから、ユダヤ人たちは、イエスさまに期待し、訴えて「ホサナ」と叫んだのです。それはローマからの救出を求めたのです。しかし、イエスさまはロバに乗ってエルサレムにこられたのです。
普通王様になる人は、ロバなんかには乗りません。白馬に乗って現れるはずです。ロバに乗られたには、意味があるのです。それは、旧約聖書にイエスさまに関する預言としてロバに乗ってこられることも預言されていましたし、「平和の君」として、政治的目的ではなく、神の国をもたらすためにエルサレムに来られたことを示しているのです。
次の写真を見ます。昔はここに神殿が建てられていました。しかし、起源70年にローマによって壊されてしまったのです。けれども、神殿の西側にあった壁の一部だけが現在も残っているので、ユダヤ人たちはここを聖地として、イエスさまにではなく祈っています。ユダヤ人達のアイデンティティーである神殿が再建され、自分たちの求めるメシヤ(救い主)が訪れるようにと祈っているのです。
この場所は、政治的には大変不安定な場所です。壁のすぐ上はイスラム教の聖地となっています。しかし、その真下がユダヤ教の聖地なのです。大変微妙な感情があるところです。二千年前、ここにイエスさまが来られたのです。
これは私がロバに乗っている写真です。イエスさまもこんな感じで、ロバに乗られたのでしょうか。ロバを御しているベドウィンの少年に一ドル払って乗せてもらいました。
この階段は、イエスさまが実際に歩かれたのではないかと推察される階段です。ゲッセマネの園で祈っていたイエスさまのところに、ユダが群衆を差し向け、イエスさまは捕らえられました。そしてこの階段を上られました。階段の上にはカヤパの官邸があって、イエスさまはここで一晩過ごされたのです。この写真はカヤパに捕らえられ、一晩を過ごされたといわれる牢獄です。イエスさまはこの穴からつり下げられ、降ろされたのではないかと言われます。
これは、イエスさまが十字架にかけられるために、十字架を背負って歩かれたと言われる「ビア・ドロローサ」という道です。エルサレムには、現在も人々が往来しているビア・ドロローサという道がありますが、これは、イエスさまの時代の道とは違います。本物は五メートルほど地を掘ったところにあります。これは発掘されたイエスさまが十字架を背負って実際に歩まれた道です。ここには当時エルサレムに駐屯していたローマ兵たちがゲームなどしていた落書きの跡もあります。
次の写真はイエスさまが十字架に付けられた場所であると言われる「どくろの丘」です。それは完全に断定された場所ではありません。なぜなら、エルサレムは幾度も壊されていますので、場所の特定は難しいのです。しかし、いろいろな状況を照らし合わせると、プロテスタント教会はここが十字架の場所としています。「園の墓」と呼ばれ、多くの人が訪れているすばらしい雰囲気の場所です。この下にイエスさまが葬られたと思われる、墓の跡があり、ここから甦られたであろうといわれています。
イエスさまが十字架にかかって死んで甦ったことは、決しておとぎ話ではなく、事実です。私たちの罪の身代わりとなってくださったのです。今週は、イエスさまが私たちの罪のために、代わりに苦しんでくださったと言うことを記念する週です。
しかし、そんな中にも、私たちは「イエスさまが甦られた」という事実をしっかりと押さえておく必要があるのです。
今週は、世界中の教会で、「イエスさまの苦しみ」に焦点が当たります。しかしそれを人間的に捕らえてしまっている傾向があるように感じます。それは、注意しなければならない領域ではないかと私は思います。
パッションという映画は、イエスさまはユダヤ人たちによって捕らえられ「殺された」という印象を強く持たされます。イエスさまは「人々の手によって殺された」と思わせます。もちろんそのような側面もあると思います。しかし、イエスさまは、十字架のことをどのように語っておられたのでしょうか。それをよく知らなければならないのです。
聖書を注意深く読むと、イエスさまは自ら進んで十字架に向って行かれたと記されています。イエスさまにとって最も危険なエルサレムに、自ら進んで入城されました。弟子たちはその姿を見て、イエスさまが王様になられるのだと勘違いしたのです。だからイエスさまが王様になったら、自分を大臣にしてくださいなどと、ピントの外れたことをいっています。
イエスさまは自ら十字架の苦難の道を選ばれたと語られています。そして、忘れてはならないのがヨハネの福音書10章17節〜18節のことばです。
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
イエスさまはユダヤ人によって捕らえられ、殺されたと勘違いしてしまいますが、実はそうではなく、「自ら命を捨て、自ら再び命を得た」のが真実なのです。人は自分から勝手に命を捨てることはできません。その上自ら、もう一度命を戻すことなど絶対にできないことです。
しかしイエスさまはそれができたのです。だから神であるのです。イエスさまは殺されたのではなく、「自ら命を捨てて、自ら命を得てくださった」のです。父なる神さまが「そのようにせよ」と仰せになったから、そうされたのです。十字架はそのための手段であったのです。
もちろんイエスさまが私たちのために、苦しんでくださったと言うことは事実ですし、尊いものです。しかし、それを私たちは人間的に評価してはいけないのです。十字架の上でイエスさまは「(計画が)完了した」と言われ、自ら、ご自分の霊を父なる神さまにお渡しになったと記されています。そして、日曜日の朝、自ら命を受け取られたのです。この一連の出来事は、すべて父なる神からの権威の元で成し遂げられたのです。ですから、私たちはイエスさまの苦しみを覚えるとともに、イエスさまは人間に殺され、三日目に甦えられさせられたのではなく、自らその権威をお持ちであったという「勝利者イエスさま」に目を留めるべきです。
昨日私はそんなことを考えながら、いろいろなメッセージをネットで読んでいました。すると、あるブログにこんなことが書かれていました。「‥今週は受難週だ。私はクリスチャンですが、自分の人生について考えると、以外にも受難週に大きな問題が起こっている。もしかしたら、受難週と問題との間に関わりがあるのでは・・・。ああ怖い・・・」と書いていました。
私はこれを読んで、案外受難週には、かん難に対して心を開かす力が暗躍しているのではないかと感じました。クリスチャンは、いたずらにかん難を受け取るべきと考えてはいけないと思います。私たちは常に、甦りのイエスさまに目を留めなければなりません。今週は「主は私たちとともにおられる」と宣言する、勝利の週にしなければならないと祈りながら感じました。
イエスさまは私たちの身代わりにとなって「すでに」、すべての罪、病、苦しみを負ってくださり、呪いを取り去ってくださったのですから、かん難を受け取る必要はもはやないのです。天も地も造られた権威あるお方が、私たちとともにおられるという事実にこそ、目を留めるべきなのです。
私たちはどんな場合でも、どんな時でも祈ることができます。それは本当に嬉しいことです。時々「どうしよう・・・」と途方に暮れるようなことがあるかも知れません。しかし緊急事態が発生してもすぐに「主よ助けて下さい!」と祈ることができるのです。「わたしは世の終わりまでいつもあなた方とともにいます」と言われましたから、よみがえられたイエスさまに助けを求めることができます。そのとき、必ず、助けが来るのです。今週は、生きておられるイエスさまに、どんな時でも祈る者でありたいです。
私は十数年前に、初めてアルゼンチンに行きました。何も知らないでブエノスアイレスに行きました。そこでとんでもない出来事を体験しました。
ある人が「順先生。イグアスの滝というスゴイ場所があるので、あなたは滝元ですから行った方が良いですよ。」といわれて、私はついて行きました。私はその滝はブエノスアイレス市内にあると思い、Tシャツ一枚で集合場所に行きました。すると飛行機に乗って行くのだというのです。何とそこは1000キロも離れた場所にあり、ハプニングもあって結局三日間帰れませんでした。私は何も知らなかったので、他に何も持っていかなかったのです。必要な物は現地で買うから大丈夫だと思っていましたが、行った先はジャングルの中で何もない場所でした。飛行機のチケットも片道しか用意しませんでした。本当に何も知らないというのは恐ろしいものです。同行したみなさんは、往復券をすでに持っていました。
帰りになって空港に行ってチェックインしょうとすると、「満席なので乗れない」と言われました。どうしようかと思いましたが、満席とは言ってもなんだかんだで乗せてもらえるものだと思っていました。それで私は待つことにしました。
しばらくすると空港の電気が消えて、カーテンが閉められました。「すみません。どうなりましたか?」と聞くと、「もう飛行機は飛び立った」といわれました。「次の飛行機はいつ飛びますか?」と聞くと、「明日しかないよ」と言うのです。イグアスの滝はジャングルの中にあるのです。どうしようかと途方に暮れてしまいました。
そしたら、すぐ近くに難民キャンプがあると教えてくれました。そこに日本語がわかる人がいるのでそこに行け、と言われました。自分が難民になったような惨めな気がしました。しかし、そこしか頼れる場所はありませんので、行くことにしました。そしたら日本語のできる日系ブラジル人がいて、本当に安堵しました。そこの環境は劣悪でしたが、日本人である私が行ったと言うことで、みんなが喜んで集まってきました。
アルゼンチンではマテ茶というお茶を客人にふるまう習慣があります。それを飲まないと仲間に入れてもらえないのです。集落の真ん中には赤土に素堀で掘られた井戸がありました。そこから水を汲んで、マテ茶を作ってくれたのですが、下の方にアリが沈んでいるのです。こんなの飲めないと思いましたが、はやく飲めと言うもんだから、仕方なく飲むまねをしたら全部飲めと言うのです。全部飲むと、またそこに水を入れられました。アリぐらいはましな方だというのです。ある時にはボウフラがいるそうです。そんな時は、水をちょんとつつくとボウフラが下の方に逃げるので、そのすきに飲めと言うのです。
何とかそんな場所に、翌日までおいていただきました。朝になってその家の人が私にパンを分けてくださいました。パンはベッドの下から出てきました。パンが出た途端に、ハエの大群が襲ってきました。私は手でハエを追い払おうとしたら、「追ってもきりがないから、早く食べた方が利口だ。近くにゴミの山があるから、いくらでもハエは寄ってくる。」と言われました。
私は命からがら、翌日の飛行機でブエノスアイレスに帰ってきたのです。そしたら案の定、空港でおなかが痛くなってきました。トイレに行ったら、もう大変な状態でした。「これはまずいぞ・・・」と思っていましたが、何とか帰途につくことができました。私は帰れることが本当に嬉しかったです。
そうしたら機内で黄色い紙が配られました。そこにはチェックリストがありました。英語でも書かれていましたので、辞書を引きながら何とか読んでみると、「ここはコレラの危険地帯です。次のような症状があったら、直ちに申し出てください。第一、激しい下痢‥」とありました。「うわぁ。自分はコレラだ。間違いない!」と思いました。リストの項目にほとんど当てはまったのです。意味がわかった途端、血の気が引いていくような感覚を覚えました。「おお、主よ。どうしましょうか〜」という感じでした。
緊急事態はときどきあるものです。こんなとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。しかし、感謝なことに、私たちにはイエスさまが共にいて下さるのです。「イエスさま!」と叫んだ時、助け出して下さいます。私も主に助けを求めました。ある意味でそれは貴重な体験でした。信仰が強められたような気がします。ときどき問題に出くわすと、信仰が強くなります。この間、ネパールに行っても私は大丈夫でした。アルゼンチンでの経験があって良かったと思います。
主がともにいて下さる人生について、最もよく現しているのは、詩篇23篇ではないでしょうか。この箇所を、皆で読んでみたいと思います。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
先週、人生は祝福されます、というメッセージを語らせていただきました。しかし、祝福を勝ち取る、幸せに向って自己実現を果たしていく、という考えは間違いであるとお話ししましたが、ここでも同様のことを教えています。六節は大変素晴らしいです。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
なんと、いつくしみと恵みが追いかけてくると言うのです。幸せが後についてくるような人生を歩みたいですね。
人類は何をしているのかというと「幸せを追い求めている」のではないかと思います。幸せはあの山の向こうかも知れない・・・、チルチル・ミチルの青い鳥のような考えです。4月から新しい学校に入ったり、就職される方も、幸せの第一歩として踏み出されるのかも知れません。結婚生活もそうです。結婚して幸せを手にしようと追い求める人生です。
しかし、主がともにおられる人生は、追い求める人生ではなく、「気がついたら祝福されている人生」であり、「いつくしみと恵みが追って来る」という人生です。そしていつまでも主の家に住まう、というのです。
4〜5節には、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とあります。そして、「敵の前で、食事をととのえ、油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれてます・・・。」と続きます。
イスラエルに行って、イスラエルの自然環境の中で詩編を読むと良くわかります。今年は秋にもイスラエルツアーがあるそうです。良かったら行っていただきたいと思います。ダビデがこの歌を詠んだのは、ユダの荒野という場所です。何もない砂漠です。そこに「死の陰の谷」というものがあったみたいです。谷と言えば私たちのイメージでは、どん底といった具合に、死とか、苦しみを連想させます。
しかし、イスラエルでは、谷には良いイメージもあります。砂漠は水が乏しいのですが、ときどき水がわき出る場所があります。それは、北方にあるエルサレムなど山の上で雨が降ると、何時間か後に砂漠に水が流れてくるのです。それも鉄砲水のように激しく流れてきます。谷はその時、水路となります。それをワジと呼ぶのですが、谷には水があるので生きものが群がる場所となります。しかし動物が集まる時、同時にそこは、敵である猛禽類も寄って来ます。と言うことは、谷は戦いの現場でもあるのです。
ときどき私たちも谷を歩むような時があると思います。それは、戦いの現場のことをいっています。私たちの人生には霊的戦いがあるのです。そんな場所でイエスさまは何をして下さるのかというと、「敵の前で食事を整え、油を注ぎ、杯は溢れる」と告げています。
突然、悪い知らせを聞いたりすると、食欲が無くなることがあります。私も時々あります。病気や思わぬアクシデントに見舞われた話などを聞くと、心がしなえて食欲を失ってしまいます。先週もいくつかありました。まさに谷底であり、猛獣が周りをうろついているような感じがします。しかし、そんな中でも主は私たちが食事できるように励まして下さると言うのです。
また、敵をも見下すような権威の油注ぎを与えて下さるのです。それが私たちの主です。今、目の前に敵がいて、問題があって苦しい思いをしていても、そのただ中で食事を整え、権威の油を注いで下さり、敵を見下げるほどに力をくださるのです。
天においても、地においても、一切の権威を持っておられるこの方が共にいて下さる事を固く信じましょう。主は甦られたのです。
そして、今週主と共に生きていきたいと思います。
一言お祈りします。
ハレルヤ天の父なる神さま。御名をあがめて心から感謝致します。あなたは敵の面前で私たちのために食事を整えてくださるお方ですから、心から感謝します。今週は受難週ではありますが、常に私たちは甦りのイエスさま、共におられるイエスさまに目を留めます。敵の前で食事を整え、油を注いでくださることを感謝します。
今から聖餐式を行いますが、今からの時を祝福してください。イエスキリストの御名によって、この祈りを御前にお捧げ致します。アーメン
ルカ22章19〜21節
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
最後の晩餐の時、イエスさまは弟子たちと共に食事をされました。しかし主はその後に起こる事をご存じでした。お祝いの食事のただ中に、裏切り者ユダの手も伸ばされていました。それについてイエスさまは言われました。「しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」
まさに、最後の晩餐は、敵の面前での食事でした。しかしイエスさまの心には、詩篇23編5節の言葉が響いていたことでしょう。イエスさまはそんなただ中でも食事を楽しまれ、十字架に向かわれ、死の力に勝利されたのではないでしょうか。
聖さん式はまさに、敵の面前での食事を意味します。今日は、イエスさまが十字架にかかられた、最後の晩餐の週における聖さん式です。主が共におられることを感謝し、十字架の贖いを感謝して受け取りましょう。 |