「最大の奇跡、それは復活」
 〜あの方はよみがえられました〜


2010.4.4(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

マルコの福音書 16章1節〜8節」
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 ハレルヤ。みなさん復活祭おめでとうございます。今日はこうして共に復活祭を喜び、また楽しむことが出来ます事を心から感謝します。
 この復活祭礼拝に先立ちまして、朝九時半から召天者記念会が行われました。これは、毎年、復活祭に合わせて行われているものです。新城教会の歴史も60年近くになりますが、その間、この教会で一緒に信仰を守り、主を礼拝してきた多くの兄弟姉妹が天にお帰りになりましたすでに100名近くの方々が天にお帰りになったのではないかと思います。新城教会が天にもう一つできているような感じです。
 この教会には納骨堂がありまして、ご遺族の方々が集まって主を礼拝し、共に礼拝を守って来た兄弟姉妹に思いを馳せ、心を永遠の世界に主によって繋ぐひと時を持たせていただきました。それは毎年少し緊張するというか、なんとなく寂しい思いもする集まりであります。が、そのような中にも希望があります。
 召天者記念会の中で、毎年、天に帰られた方々の写真がプロジェクターで映し出されるのですが、写真は不思議なもので、見ただけでその日の光景がよみがえってきます。私もそれを見ながら、「私もそのうち、この中に入るんだろうなぁ〜」と思い、その時のために良い写真を用意しておかなくてはいけない、と思ったわけです。みなさんも良い写真を用意しておいて下さい。新城教会が続く限り、その写真は復活祭には映し出されますので、私も髪の毛があった頃の写真を用意しておこうかなと思いました。
 人は徐々に衰え、死んでいきます。ある意味で本当に寂しい事です。

 昨日もあるジョークの本を読んでいましたら、「男を世界大陸に例えると」という内容のジョークがありました。その中で、「13歳〜18歳は、中国大陸。開発の仕方では行き先おもしろくなる」とありました。みなさんの中で13歳〜18歳くらいの方々は、これから何が起こるのか、エキサイティングですね。
 でも、18歳〜30歳になると少し変わります。「18歳〜30歳は南米。ほとんど未数だけど、無尽蔵の活力がある。」とありました。南米には無尽蔵の活力がありますが、そんな年代を生きている人もいます。次は、カナダの事を知っていないと分からないですけれども、「30歳〜45歳はカナダ。たまには思わぬ金脈を掘り当てる事がある。」ということです。
 しかし、「45歳を過ぎたら、男はシベリア。どこもかしこも一年中凍りっぱなし。」とありました。45歳を過ぎたら、男の人生は駄目だと言いたいらしいです。私はすでにシベリア以上です。

 「女を世界大陸に例えると」という内容もありましたが、ここで止めたほうがよさそうですが、私が言っているわけではないので、勇気を出して紹介しますと、「13歳〜18歳はアフリカ。文字通り処女地で人跡未踏」だそうです。
 「18歳〜30歳はアジア。熱くエキゾチック」18歳〜30歳くらいは、女ざかりという感じですよね。「30歳〜45歳はアメリカ。全てが掘り尽くされて、お金だけはがっぽりある」という一番良い年代なのかもしれません。
 「45歳〜55歳はヨーロッパ。疲れきってはいるが、見所がないわけではない」。
 けれども、「55歳を過ぎると女性は南極。その存在は知っていても、誰も関心を払わない。」となっていました。ひどいですね〜。でも、私が言っているのではありませんので、誤解しないでください。「でもあんたが、そのネタを選んだじゃん〜」と言われそうですけれども。
 いずれにしても、人生は寂しいものです。時間が経てば、だんだんと衰え、やがて人間は死んでしまうわけです。

 記念会でもお話ししましたが、人生は現実の世界です。現実の世界を私達は苦労しながら生きていますが、もしも、死後の世界があるとしたら、死後の世界も現実の世界です。それは宗教の世界ではないはずです。
 日本人は生きることは現実として捉えますが、死後の世界になると途端に宗教の世界にします。本来はそれではいけないのです。生きる事が現実であるように、死後の世界も現実として捉えなければならないのです。

 今日は復活祭ですが、復活祭はイエス・キリストがよみがえった事を記念する世界的なお祭りです。クリスマス以上のフェスティバルであり、世界中がこの日を祝っています。新城教会も復活祭を祝っていますが、そもそも日曜日に礼拝を行うというのは、復活の主を礼拝しているのです。日曜日のそれも朝早くに、なぜ私達は教会に集まって礼拝を持つのでしょうか。礼拝の時間をもっと遅くして欲しいと言われる人もいますが、「朝」に意味があるのです。なぜならば、イエス様は日曜日の朝早くによみがえられたからです。私たちはよみがえりのイエス様を礼拝するという意味合いで、日曜日に礼拝をします。ユダヤ教では、土曜日が安息日ですが、私達は日曜日の朝、よみがえりの主に目を向けているのです。

 マルコ16章1節〜8節を読んでいただきましたが、ここではイエス様がよみがえられた状況がレポートされています。一昨年でしたか、イギリスのBBCが一つの番組を制作しました。それは、イエスは本当に復活されたのか、それを検証するという番組でした。イエス・キリストが復活されたと聖書に記されているが、それは本当か否かということです。そこには幾つかの可能性があると言っていました。

 一つは、「イエスがよみがえったのは真っ赤な嘘で、弟子達が仕組んだトリック」という可能性です。トリックを使って、イエス様の遺体を消し、あたかもよみがえったかのように演じたというものでした。
 もう一つの可能性は、「弟子達がイエスの十字架に遭遇し、あまりにもショックを受けたため頭が狂った。精神錯乱状態だった」という可能性です。
 さらにそしてもう一つの可能性が、「イエスは本当によみがえった」という、この三つの可能性を検証していました。
 それはたいへん興味深く、ビデオに撮っておいたのですが、ビデオの自動消去機能のせいで消えてしまい、残念ながらみなさんにお見せする事が出来ません。

 マジシャンが人を消すようなトリックを仕掛けるのには、どのくらいの仕掛けが必要か、という事を実際にやっていました。人を消すために、どのくらい大勢のスタッフが必要で、後ろでどのくらいの仕掛けが必要か、という事でした。
 時々、イリュージョン等で、踊っている美女がぱっと消えたりして、「わぁ、不思議だ。奇跡だ。」と言うわけですが、それはトリックなので、そのためには裏方が大勢必要だそうです。それでイエスさまの復活に関して、あの状況ではセットは組めない、というのが結論でした。

 もう一つ、「弟子達の頭が狂っていた」という可能性ですが、弟子達の行動等を分析した結果、彼らは決して狂っていたのではなかった、正常だった、という結論でした。
 聖書に「イエス・キリストがよみがえった後、人々と出会った」と記録されていますが、「出会った」というのが、一人二人のレベルではありませんでした。なんと500人程の人達が同時に出会ったとも記されています。500人を同時に集団催眠にかけたり、全員の頭が狂ったりという事は、絶対にあり得ないのです。ですから、イエスの復活は本当に起こったとしか考えられない、という結論でした。
 福音書の記者達はそれをつぶさに見て、その事実を記録したのが聖書に出てくる復活の光景というわけです。

 この頃、毎週の様に私は話していますが、私達の信仰は「決して神話やおとぎ話ではない」のです。歴史の時系列のただ中で、人は神との交わり、復活も起こったということです。生活のただ中で、神との出会いや復活をでっちあげるのは、宗教を創作するには一番不利な方法です。
 キリスト教は創作ではなく、人類の歴史の中に実際に神が人となって歩まれ、多くの奇跡を成し、ご自分が神である事を示されたのです。そして、十字架にかかり死んだだけでなく、自らよみがえられ、弟子達や多くの人々に現れ、皆の見ている目の前で天にお帰りになったのです。そして今も、キリストは私達のただ中におられるのです。

 私は三週間程前にイスラエルに行き、写真を撮ってきました。二週に渡り、写真をお見せしながら「聖書の世界は歴史的な事実」という事を説明しています。
 しかし日本神話などは、神話なので検証のしようがありません。神代の時代に起こった事で、誰も検証することは出来ず、いくら発掘しても何も出てきません。
 仏教も同じです。経典を検証しようとしても、釈迦が死んでから500年以上経ってヒンズーの僧侶達によって作られた物なので、結局、釈迦がなんと語ったのかはわかりません。けれども唯一、聖書だけが検証可能なのです。

 今日も少しイスラエルの写真をお見せしたいと思います。


<<ベツレヘムの近郊の写真>>

 これは、イエス様がお生まれになったベツレヘム近郊の写真です。こんな田舎でイエス様はお生まれになりました。田舎に生まれた少年が、やがて世界中に知られるようになったのです。
 イエス様はビジネス界においても、世界一成功した人物だと思います。イスラエルには世界中から観光客が来るし、世界にどれだけ教会があるのかわかりません。


<<ベツレヘムに行く途中のゲートの写真>>

 これは、イエス様のお生まれになった、ベツレヘムに行く途中ですが、今ベツレヘムはパレスチナ自治区で、このようにイスラエル側と壁で仕切られており、厳しいチェックがあります。


<<検問所の写真>>

 このような検問所があり、ベツレヘムに入ります。ここはエルサレムから、さほど遠くない街ですが、行く時は少し緊張します。


<<ベツレヘムの街の写真>>

 ベツレヘムの街です。昔は寂しい所でしたが、この村の馬小屋でイエス様はお生まれになったわけです。これは、イエス様が誕生された事を記念する、生誕教会の前の広場の写真です。世界中から人々がやって来て、毎日ごった返しています。イエス様の誕生は事実である事がわかります。


<<STARS & BUCKS CAFFEというカフェの写真>>

 スタバで一杯コーヒーを飲もうと思って近づいたのですが、よく見たら「スターズ・アンド・バックスカフェ」と「アンド」が入っていました。なんというパクリでしょうか。「やるな〜、アラブ人!」という事で、私はこういう写真を撮って、ジョー先生に送ったりして遊んでいます。


<<ガリラヤ湖の写真>>

 これはガリラヤ湖の写真です。イエス様の宣教の中心地はガリラヤ湖周辺でしたが、今でも湖は存在します。神話上の湖ではありません。イエス様はこの湖の周辺で奇跡を成し、様々な働きをされました。イエス様には12人の弟子がいましたが、その多くはガリラヤ湖で働いていた漁師達でした。ヘブライ大学を卒業したエリートとか、高級官僚とか、そういう人を使ったわけではありません。庶民の中の庶民を弟子として選びました。毎日この湖で漁師をしていた人達が、イエス様の弟子となりました。この地方の人達は、昔は海にも行ったことがなかったので、湖の事を「海」と呼んでいます。「海」はこういうものだと思っているわけです。


<<漁師の写真>>

 今でもガリラヤ湖には漁師達がいます。こういう人たちがイエス様の弟子となりました。カトリックでは、イエスさまの弟子たちが聖人になってしまっていますが、それはただのおっちゃん達です。漁師のおじちゃん達にカメラを向けたら「大きな魚を獲って来たぞ〜」と魚を見せてくれました。イエス様が食べた魚の子孫も、今でもこの湖に住んでいて、食べる事が出来ます。


<<焼き魚の写真>>

 これを、「ペテロ・フィッシュ」と言い、淡水魚ですが結構おいしいです。醤油を持って行って醤油をかけると、尚おいしいです。ということで私は必ず、醤油を持っていき、皆さんにサービスします。イエス様の活動されたガリラヤ湖は今でもあり、検証できます。


<<カペナウムの写真>>

 これは、「カペナウム」という場所です。この写真の会堂はイエス様の時代よりも少し新しい会堂ですが、この建物の下にもう一時代古い会堂の土台があります。ここはペテロの姑の家のそばに位置し、イエス様はここに来て、メッセージをされたであろう、という所です。イエス様はペテロの姑の家を定宿にしていました。この家で、多くの病人がいやされたのです。聖書にその事が記されていますが、今でも家の土台が残っています。


<<エルサレム>>

 これが、イエス様が十字架にかかったエルサレムの街であり、復活が起こったのもエルサレムです。今でもエルサレムがイスラエルの中心ですが、イエス様時代にはユダヤ教の神殿が建っていました。しかし現在は、イスラム教徒達がこの場所を乗っ取り、神殿を建て、その場所がイスラムの三大聖地の一つとなっています。神殿の下には「西の壁」という壁があり、そこはユダヤ教の聖地となっています。なかなか政治的にも微妙な場所です。ここでは、イエス様の時代の神殿の土台を見ることができ、聖書に記されている事が全て事実である事を検証できます。


<<神殿へ続く門の写真>>

 先週はイエス様が「ホサナ!ホサナ!」という歓声に迎えられてエルサレムに入られた、という話をさせて頂きましたが、この門からイエス様はロバに乗って入られました。
 しかしその後イスラム教徒達が、イエス様が二度と入っては困るという事で、門を埋めて開かないようにしました。また、再臨のイエス様がここから来られると預言されているので、門を埋めて、門の外側にはアラブ人達の墓を作りました。これはイスラム教徒たちの墓です。イエスさまを絶対阻止しようという嫌がらせのようです。


<<ゲッセマネの園の写真>>

 「イエス様は十字架にかかられる前にゲッセマネの園で祈った」と記されていますが、これがその場所です。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園に行き弟子達と共に祈った場所です。弟子達は寝てしまいましたが、イエス様は十字架の事を知っていました。イエス様は殺されたのではなく、自ら命を捨て、自ら受け取った方ですから、次に起こる事柄を全てご存知でした。しかし父なる神に、人間イエスとして真剣に祈ってくださいました。人間としてイエス様は、この地上に来てくださったので、神の子であったけれども、人間と同じ感情があったのです。血の汗したたるような祈りを捧げてくださったのがこの場所です。
 これはオリーブの木ですが、樹齢が何百年経っているのかわからないと言われており、一説によれば、2000年くらい経っているかもしれないとのことです。という事は、この木はイエス様の祈りを見聞していたという事もありえる、とガイドさんが説明してくれました。


<<石の階段の写真>>

 その夜、イエス様はユダと群集たちに捕らえられ、カヤパの官邸に引っ張られて行きました。これがイエス様が登られた階段です。階段の上にはカヤパの官邸があり、そこで十字架を目前にして一晩監禁されました。


<<牢屋の写真>>

 穴倉のような牢屋も今でも残っています。この穴から下にある牢獄に吊り下ろされたのです。なぜこれがイエス様が監禁された穴だとわかるのでしょうか。現代の発掘技術と年代測定により、これがイエス時代の遺構であり、高級官僚が住んでいた場所である事も特定されています。イエス様が天に帰られてから後の時期にはまだ、イエス様が行動された足跡は現地にそのまま残っていたわけで、初代のクリスチャン達はそこを保存しました。「ここはイエス様がカヤパによって捕らえられ、一晩入れられた穴だ」という所には教会建てて記念しました。彼らは穴の入り口に十字架を刻みました。イエスさまの存在も、十字架も、復活も事実です。


<<ヴィア・ドロローサの写真>>

 イエス様が十字架を背負って歩かれたヴィア・ドロローサがあります。これがローマ時代の道路です。イエスさまが十字架を背負って私たちの罪の身代わりとなるために、進んでくださった道です。ここに行くと、心にジーンときます。


<<アブラハムの時代の祭壇の写真>>

 これは、アブラハムの時代の祭壇の写真です。かつて、旧約の時代には、祭壇の上に生贄を捧げ、動物の血を流して「全焼の生贄」として焼き尽くし、神と交わりをし、罪を赦してもらいました。しかしそれはたいへんな事でした。イエス様が十字架にかかられた時はちょうど、過越しの祭りの時でした。数多くの羊が殺され、このような祭壇の上に捧げられました。しかし、人類の根源である神の御子が、ご自分を祭壇の上にささげてくださったのです。神の御子が血を流してくださった事により、人類は二度と動物の生贄を捧げる必要がなくなりました。ここにある旧約時代の祭壇は、預言的にイエス・キリストの十字架を現していたのです。イエス・キリストの犠牲により、人類は救われ、十字架の血によって罪は赦され、このような儀式はいらなくなったのです。


<<どくろの丘の写真>>

 イエス様は「どくろ」と呼ばれる丘で、十字架にかけられました。エルサレムの郊外に、どくろの様に見える丘があります。もしかしたらここでイエス様は、十字架にかけられたのではないかと言われています。その下には園があり墓があったと聖書は記していますが、この丘の下を発掘したら、聖書に記されている通りの園があって、墓がありました。


<<園の墓の写真>>

 これが園の墓の写真です。イエス様はここに葬られたのではないかと言われます。そしてここにはレプリカの大きな石の蓋があります。


<<大きな石の蓋の写真>>

 これはレプリカですが、このような石が墓の入口を塞いでいただろうと言われています。墓の前には石を転がす、溝まで掘ってあります。相当大きな石が墓を塞いでいたのだろうと推測されます。聖書に記されている通りです。「誰が石をどかしてくれるのだろう・・・」と女達は悩んでいたという事が聖書に記されています。それを裏付けるかのように、溝がこのように掘られています。


<<墓の内部>> 

これは、イエス様の墓の内部です。どうでしょうか。イエス様の体はありますか?ここにはおられません。なぜなら、よみがえられたからです。


<<He is not here. Because He is risenと書かれた看板>>

 「彼はここには居ません。なぜなら、彼はよみがえられたからです。」と墓の入口に、このような看板が出ていました。私達が信じる復活は、決しておとぎ話ではなく事実です。教会は決して神話の上に成り立っているわけではありません。確固たる、事実の上に成り立っています。

 今日の召天者記念会でもお読みしましたが、Iコリント十5章13節〜19節を読みたいと思います。

『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

 これはパウロが語った言葉です。私達の信仰の中心は、「イエス・キリストが復活された」という事実です。もしもこれが神話だったら、嘘だったら、我々の信仰や宣教は全く、実質のないものであり、本当にむなしいです。イエス様の復活が嘘ならば、今日、教会を解散したほうが良いと思います。「今日で教会を止めます。来週から礼拝はありません。私も普通の仕事をして生きていきます。」というようなものです。
 なぜなら、イエス様がよみがえられた事が嘘ならば、何もかも崩れるからです。しかし、それは嘘ではなく、現実に起こったことです。

 BBCの放送の中で、福音書の記録の中で最も解せないのは、「イエス様がよみがえって後、弟子達がとりつかれた様に、最も危険な地域に福音を携えて出て行った」という事だそうです。
 普通は教祖がいなくなり、もしも十字架や復活が全て創作ででたらめだったら、絶対にそんな行動はとらないはずだと。弟子達が命がけで出て行くことは「絶対にありえない」というのです。その番組の結論は「弟子達が復活のイエス様と本当に出会い、顔と顔とを合わせてイエスさまと話したからこそ、彼らは危険を押してまで、世界に出て行き、福音を伝えたに違いない」という事でした。

 今、私達がクリスチャンとして、礼拝を持つ事が出来るのは、復活のイエス様と出会った弟子達が、本当に感動し「死者の復活もある、永遠の命もある、神が人となられたお方に私は出会った」と「超」感動し、荒海を蹴って世界に出て行ったからです。それでローマ帝国の中枢にまで入り込んで福音を伝えたのです。


<<地中海の写真>>

 弟子達は地中海の沿岸から出て行きましたが、この写真の辺りの海岸から世界に出て行ったといわれます。当時はあまり大きな船はなかったので、このような荒波の港から出て行くことは危険なことでした。私だったら嫌です。でも、当時の弟子たちクリスチャン達は、復活のイエス様に出会って「世界中の人達に知って欲しい!」という強い思いを持ち、ここから命がけで出て行ったわけです。そして、今、私達はクリスチャンになりました。天国に行ったら、イエス様の弟子達や、初代のクリスチャン達に会う事が出来ると思いますので、その時には感謝しなければいけません。「あなた達が世界に出て行ってくれた事によって、私達も救われました。ありがとうございました!」と。
 私達も同じ様に、この時代を生きていますが、復活のイエス様と出会い、弟子達が感動して荒海を越えて福音を伝えたように、私たちもそのような者になりたいと思います。私達の信仰は決して架空ではなく、事実です。

 私達はやがて死ななければならないのですが、死後の世界はあるのです。これは宗教的な世界ではなく、現実の世界です。
 日本人の持っている死後の世界観はまちまちです。「死んだらどうなりますか?」と聞くと、様々な答えが返ってきます。みんなやがて迎えなければならない死。しかし、その後に関してはあまりはっきりとした回答を持っていません。それでいいのでしょうか。

 日本人は、神々を信じていますが、多くの人が「無神論」だと言います。死んだらどうなるかと聞くと、「そりゃ〜、なくなるさ」と言います。
 皆さん、どうでしょうか。死んで全てが無くなったら、ちょっと虚しく思わないでしょうか。一生懸命勉強をし、仕事をしていますが、最終的に死をもって、宇宙のどこを探しても、微塵たりとも意識が残らないとしたら、悲しいことです。
 今日も、召天者記念会でいろんな方々のイメージを拝見しましたが、死と共に彼らはしゃぼん玉のように消えた、宇宙のどこを探しても二度と会えないとしたら、そんな寂しい事はありません。皆さんはその考えを、ご自分の死後の世界観として選択されるのでしょうか。

 また、日本人は「仏教徒」だと言いますが、仏教の死後の世界観は何かというと、それは「輪廻」です。輪廻とは、死んでも魂は再び、生ける者たちの世界に戻ってくるという考えです。輪廻には「六界」と言って、「天界」「人間界」「動物界」・・・「地獄等」、いろいろあるようです。この地上での歩みの評価によって、次の輪廻先を閻魔大王が決めるそうです。死んだら、閻魔大王の前に出て四十九日間裁判があるようです。「おまえはこの地上で悪いことばっかりしていたから、人間界には輪廻させてやらない。動物界に行け。おまえは犬だ。」なんて言われると、犬になります。
 仏教は殺生をしてはいけないと言います。生き物を殺してはいけないと言います。なぜでしょうか。案外、日本人にはその影響があり、蚊を殺した時にも「あっ、殺しちゃった。ごめんね。」と言っている人がいます。なぜその様な意識があるのでしょうか。それは輪廻の考えがあるからです。「私の血を吸ったこの蚊も、昔、悪いことして、ついには蚊に輪廻したのかなぁ。」という考えがあるのです。
 かの有名な、徳川綱吉、犬将軍はなぜ犬を保護したかと言うと、「この犬も元々は人間だったかもしれない、この犬に良くしないと自分も人間に輪廻できないから・・・」という意識からです。誰かが死んで四十九日まで真剣に拝む理由は、「地上で悪さをしていたこの人を、なんとか人間界に輪廻させてください」という為です。四十九日を過ぎたらどこかに輪廻するわけですから、輪廻のサイクルに入ったら二度と再会は不可能です。自分が先に死んで、奥さんが後から死んだ、ご主人は犬に輪廻し、奥さんは人間になれた、けれども人間と犬では意志も通じないし、寿命も違います。お互いが人間となって再び出会う確率は本当に低いのです。
 それと共に仏教では、この地上は「苦」という前提があります。この世は苦しみの世界と決められています。だからあきらめが必要となるわけです。人に輪廻できたとしても、再び苦しい世界に戻ってくるという、輪廻地獄にはまりたいのでしょうか。

 神道は元々、祖先崇拝です。日本人は輪廻と言いながら、死後の世界観はやはり「祖先崇拝」が中心です。祖先崇拝とは何かと言うと、「死者の魂は生きている人間と一緒に住んでいる」という前提です。そのような理解と価値観がなかったら、祖先崇拝は成立しません。死んだら魂は、この地上には存在していないとしたら、祖先を拝みません。
 でも、拝むという事は、死んだ人達も一緒に暮らしているという前提があるからです。それで、祖先崇拝をするわけです。

 祖先崇拝は儒教から来ましたが、神道の死後の世界観とも習合しており、神道の祖先崇拝は、死後の魂は「怨霊」になるという考えです。「人は死ぬと怨霊」になるというのが、日本人が持っている死後の世界観です。怨霊とは、恨みを持って死んだ霊のことです。
 なぜ祖先崇拝をやるのか。「死者は怨霊と化しているから、拝まないと祟る」というのです。あんなにも愛していたご主人が、死んだ途端に怨霊と化すのです。奥さんに対して悪い事するのです。このために、怨霊が祟らないように墓参りをし、仏壇を拝みます。

 皆さんどうでしょうか。今、「皆さんは何のために勉強していますか?」自分で言ってみてください。「はい、怨霊になるためです」と。
 また、「なんで子供を育てていますか?」「やがて子供を怨霊にするためです」「なんで働いているのですか?」「やがて怨霊になるためです・・・」
 あなたは死後に怨霊になりたいですか。人々に祟り、バチを当てるような霊になりたいですか。
 いくらなんでもそれらの考えはおかしいです。無神論の無になるのも、輪廻も、怨霊になるという考えも、どれも受け取れません。そんな馬鹿な・・・、と思います。実にその通りです。

 やはり、一番受け入れやすい死後の世界観は、聖書に記されている世界観です。人間を作ってくださったのは神様であり、それは天地宇宙をも作られたお方です。私達を神の作品として、この地上に送り出してくださったのです。
 肉体に魂が宿って、80年、90年、100年くらい生きる人もいますが、ちょうど一つの家に住まうようなものです。
 私も何年か前に引越しをしました。それまでは30年近く一つの家に住んでいました。30年前は良い家だったのにも関わらず、30年も経つとぼろぼろになり、白蟻がたくさん入ってぐらぐらになりました。そこで、地震が来る前に家を建てなくてはということで、古い家を壊して新しい家を建てました。

 死ぬということはどういうことでしょうか。この地上の建物が壊れるように、我々の体も土で作られているので壊れる日が来ます。体が土である証拠に、死んだら人は土になります。土で作られているものには限りがあります。人間には新陳代謝があり、細胞が新しくなりますが、やがて老化して、家で言ったらガタがきます。「このままでは古すぎるから、新しい家に住まわせてあげたほうがいいなぁ〜」と神様が思うと、新しい家を天で作ってくれて、そちらに引越しをさせてくれるのです。それが死という事です。

 新しい家を作って引っ越したら、初めの家よりも次の家のほうがもっと良いはずです。私達も同じです。この地上の人生よりも、神様が次に用意してくださっているその家は、もっと素晴らしいのです。イエス様は言われました。「わたしはあなたがたのために住まいを備えに行くのです」と。
 新城教会からも大勢の方々が天に帰られましたが、その住まいは素晴らしい住まいです。この地上の朽ちていくようなものではなく、優れた体に住んでいるはずです。

 しかし、聖書の救いの完璧なのは、この地上での体は死によって滅びますが、なんとこの地上で使っていた体さえも、もう一度よみがえりの体に復活させて下さるというのです。すごいことです。何もかも回復されるのです。
 あの土の体は使い切ってしまったから、駄目だとあきらめたわけではなく、なんとこの地上で使っていた体さえも、栄光の体にイエス様が帰ってこられた日には復活するのです。そこまでいくと、私達は気が遠くなりそうです。しかし聖書はそう告げています。それを証明するためにも、イエス様はよみがえってくださったのです。

 イエス様のよみがえりには深いものがあって、それこそ最大の奇跡です。イエス様がよみがえられた時、以前の体とは違いました。
 多くの人がイエス様と出会いましたが、トマスという男は会わなかったので少しへそを曲げて疑いました。「俺はそんなこと信じる事はできない。イエス様は十字架にかかって、釘打たれて、手に穴があいているはずだ。その穴の中に指を突っ込んで、槍の痕もあるはずだから、そこに腕でも突っ込んでみないと信じられない。」と言いました。イエス様の姿は見えませんでしたがトマスの横で聞いておられました。
 後にイエスさまがトマスに現れた時に「トマス、わたしの手の傷跡に指を突っ込んでみるか」と言われました。よみがえりの体は幽霊のようですが、幽霊ではありません。魚も食べられました。天と地をまたにかける体を持ってよみがえらされたわけです。私達にも、そのような完璧な勝利があると聖書は告げています。それは事実なのです。それが全て嘘ならば、止めたほうがいいと、初代のクリスチャン達が言っています。

 今日私達はイエス様のよみがえりを記念していますが、死後の世界も現実であり、イエス様に従って行くのならば、私達が失うものは何一つない事を力強く証しています。
 先ほど読んでいただいた聖書箇所では、イエス様が十字架で死に、弟子達を始め周りにいた女性達は大きなショックをうけました。実は、イエス様が十字架にかかる前から、イエス様は「三日経ったらよみがえる」と言われていました。しかし、そんなことを聞いてもなかなか信じられないものです。
 それで三日目の朝も、イエス様がよみがえられると構えていたわけではなく、遺体に油を塗ってあげたいと思ったのが女性達でした。それはイスラエルの風習で、死後、遺体に香油を塗る習慣があったようです。しかし、女性達は少し悩んでいました。墓に行っても大きな石があるから、その石を誰に取り除けてもらおうかと悩んでいたのです。そんなことを話しながら女達は墓に行きました。そうしたら、何が起こったのかというと、なんとすでに石が取り除けられており、よみがえりの現場に遭遇したのです。
 その時一番大きな問題は、「墓の入り口を塞いでいる石をどうやったら取り除けることが出来るのだろうか」でした。しかし、墓に着いた時には、すでに石はなかったばかりか、よみがえりのイエス様に出会ったのです。

 これは私達にも、大きなことを教えています。教会に来る時は、目の前に大きな石があって、「この石を誰が取ってくれるのだろうか・・・」というような悩みで教会に来られます。今日来られている方々の中にも、目の前に大きな石が立ちふさがっていて、その石を取ってもらいたい、なんとかして欲しい、というようなすがる気持ちで来らた方もいるかもしれません。しかし、その石は必ず人手によらず、取り除けられるのです。そればかりか、その奥に何があるのかというと、よみがえりのイエスさまがおられるのです。
 いろんな問題があって教会に来られますが、最終的に出会うのはただの問題解決ではなく、よみがえりのイエス様に出会います。それで、人生が変わります。普通の宗教だったら、喉元を過ぎたら熱さを忘れるという様にして終わりますが、教会は違います。目の前の石が取り除けられるだけでなく、最大の奇跡、よみがえられたイエス様と出会うことができる、なんと素晴らしい事ではないでしょうか。イエス様がよみがえられたという事が事実だとしたら、また、それが最大の奇跡だとしたら、目の前にある大きな岩も問題ではないのです。

 今、目の前に大岩が立ちふさがっているように見えるかもしれませんが、イエス様がよみがえったという、この最大の奇跡が事実ならば、目の前の岩は問題ではありません。必ずそれは取り除けられ、復活のイエス様と会い、その出会いは永遠に続きます。

 クリスチャンになってしばらくすると気づく事があります。「目の前に石がなかったら、私は教会に来る事が出来なかっただろう・・・」と。その先にあるのは、見たことも聞いたことも、考えたこともなかった事です。
 最後にこの御言葉を読んで終わりたいと思います。Iコリント2章9節

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 目で見たことも、耳で聞いたことも、心に浮かんだこともないような出来事、これは死んだ人が復活するという事です。イエス様の十字架と復活は、その後イエス様に従っていく人達に与えられる人生を預言的に現しています。目の前の石が取り除けられるばかりか、見たことも聞いたことも思ったこともないことを、神はあなたのために用意しておられます。
 ローマ書8章28節

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 時には目の前に大きな岩があって、誰が取り除けてくださるのだろうか、という様な時があるかもしれませんが、その事さえも使って、見たことも聞いたことも思いにもよらなかった出来事に出会うのです。復活ほど大きな奇跡はなく、これこそが永遠を保障するものに他ならないのです。
 イエス・キリストが復活されたという事は、事実であり、今もイエス様は生きておられます。復活の奇跡を信じる事ができるならば、目の前の岩も決して恐ろしいものではないのです。そのことをみ言葉から学び、また、実際に体験して帰っていただきたいと願っています。

一言お祈りします。
 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。今日はこうして、復活のイエス様を記念し、復活祭を祝うことができて、心から感謝いたします。復活は決しておとぎ話ではなく、歴史のただ中に起こったことである事を今日も学びました。今、死を打ち破ったイエス様がこの場におられることを感謝します。今、私達のただ中にイエス様がおられる、この事実を心から感謝します。今、霊の目を持って、耳を持って、あなたを捉えることが出来ますように。主よ、どうかここに来てください。復活のイエス様がおられるならば、目の前の岩は問題でないことを信じます。主よ、どうかひとりひとりに触れてください。よみがえりのイエス様が触れてくださいますように。
 あなたを礼拝できるこの恵みを感謝します。この地上においても、永遠の世においても、支えてくださいますから、心から感謝します。今日、勝利を体験できますように。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げします。アーメン。

皆さん、大きな拍手をイエス様にお捧げしましょう。ハレルヤー!


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