「あなたの心は燃えていますか?」


2010.4.11(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

ルカの福音書 24 章30節〜32節
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 ハレルヤ。みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を守れますことを心から感謝します。
 今、The Second Floorのメンバーが曲を披露してくれましたが、この教会の若い人たちは本当に音楽がよくできます。先週はキッズ・ゴスペルが素晴らしい賛美を聞かせてくれました。神を賛美することは本当に素晴らしいです。
 しかし、新城教会に伝統的に音楽家が育っているのは、他でもない「グロリアシンガース」という幻のバンドの影響ではないでしょうか。私もそのバンドのメンバーの一人でした。ちょっと自慢していますが、私は昔、音楽に心を燃やしていた者の一人でした。
 中学校の頃はほとんど勉強もせず、自慢じゃないですが、この村で最初にエレキギターを弾き始めた男でした。その当時はアンプやギターなどはなかったので、自作するしかありませんでした。私は組み立てのギターキットを買ってきて、ギターを自作しました。アンプも自分で作りました。しかし最後に、どうしてもスピーカーがないことに気づきました。アンプとギターがあってもスピーカーがなくては音が出ないので困りました。でも素晴らしいアイディアが思い浮かびました。
 当時、この地域には有線放送というものがあり、私の家は792番で、岡本さんの家は350番でした。どこの家にも有線放送の為のスピーカーがついていたので、私はそこにギターをつなぎました。そして、「ジャーン」とやりましたら、少し歪んだディストーションのかかった素晴らしいサウンドでした。私は我を忘れて弾きましたが、しばらくしたらヘルメットをかぶったおじさん達が「ここだ〜!」と言って、家になだれ込んで来ました。私は怒られる前に逃げましたが、そんなことをしても別におとがめもなかったのは、古き良き時代だったのでしょうか。

 人とは、何かに心を燃やしながら生きるものです。みなさんは今、何に心燃やしていますか?新年度が始まって、新しい職場に、仕事に心を燃やしている人もいるかもしれません。ある人は恋愛に心を燃やしているかもしれません。そんな人は礼拝に来ていても、愛しい誰かさんの事を考えているでしょう。私も昔そういう時期がありました。イエスさまよりも、異性に心を燃やす事もあるわけです。
 人間は、心を燃やす対象がないと生きていけないものです。しかし、先ほどの歌にもありましたが、何に心を燃やしてみても、やはり虚しいのです。私たちが心を燃やさなければならないのは、イエスさまです。まず、イエスさまに心を燃やし、それから他の事にも燃えたらすべてうまく行きます。

 弟子達もイエスさまが十字架にかかり復活するまでは、イエスさまにも期待はしていましたが、それ以上に「イエスさまがイスラエルの王様になったら、俺たちは大臣になれる。入閣できる」と期待し、野心に心を燃やしていました。
 しかし、イエスさまがよみがえった後、よみがえりのイエスさまに出会ってからは聖霊様によって心燃やされ、復活のイエスさまによって心燃やされ、宣教のために世界に出て行きました。
 
 今日読んだルカの福音書の最後の部分を見ると、『悔い改めの福音が、エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられます』と預言されています。まさしく、心を燃やした男達が荒海を蹴って、世界に福音を伝えに出かけて行きました。先週もその事についてお話させていただきましたが、それにより、私たちは福音を聞く事ができました。
 あの時弟子達がイエスさまに燃えて、出て行かなかったならば、今、私たちはクリスチャンになっていなかった事でしょう。キリスト教自体、イスラエル周辺の民族宗教で終わってしまったかもしれません。しかし現在、キリスト教が世界宗教になった背景に、弟子達が心を燃やして世界に出て行ったという理由があります。彼らにとっては、世界がターゲットだったのです。

 今週は、大変インターナショナルなウィークになると思います。週報にもありますが、今週、私は火曜日からアメリカに行きます。アメリカのニュージャージー州にある韓国教会で一週間、霊的戦いセミナーを行います。一週間も何をやればいいのか、私は今から悩んでいます。去年の11月にもその教会で奉仕したのですが、その時、その教会の牧師は心を燃やしました。ニュージャージー州はあまり大きい州ではありませんが、「この州のために私達は献身し、主のもとに勝ち取るために働きたい。そのためには、どうしても霊的戦いが必要だ。せひもう一度来て、ニュージャージーでどう戦ったらいいのか教えて下さい。」と頼まれ、今回行く事になりました。
 私はニュージャージー州の事を全然知らないので、そんなこと出来るわけないと思いましたが、折に触れて情報を集めると、「アメリカのためにニュージャージーをとりなさないといけない」と分かってきました。日本は「アメリカあっての日本」なので、やはりアメリカのために真剣に祈る必要があります。

 前回、ニュージャージーに行った時、主は続いて韓国のコチャンという街で奉仕する道を開いてくださいました。それで昨年の12月にはコチャンに招かれました。
 それはニュージャージーの集会で感動し、心燃えた人が「順先生。是非とも私の故郷のコチャンへ行ってください。」と言われた為に招かれたのです。断らずに行って本当に良かったです。それがビンゴというか、神の導きでした。

 日本のリバイバルのために、朝鮮半島をとりなして祈らないといけないと感じていましたが、コチャン付近と日本が、たいへん強いつながりがあることに気づかされたからです。
 日本人で元々日本列島に住んでいた人など一人もいません。日本人は皆、渡来人なのです。かつて「伽耶」という国が朝鮮半島の南にありましたが、日本はその人達が作った国なのです。
 「伽耶」を支配していた騎馬民族が入ってきて、日本列島に先に渡来し住んでいた縄文人や弥生人を支配したのです。そのルーツが「伽耶」にあり、特に日本の天皇家のルーツはその付近にあります。
 私はコチャンに行き、びっくりしました。私を招いてくれた先生の実家の目の前が、なんと、日本天皇の故郷でした。日帝の時代は朝鮮半島は日本の領土の一部だったので、昭和天皇は「私の故郷はこの付近だ」と発言していたそうです。しかし戦争が終わると、黙ってしまいました。けれども数年前、現在の平成天皇が家系に百済の王様がいると発言し、韓国では大きな話題となりました。

 去年の12月に雅也先生とコチャンに行って奉仕しましたが、その時、その街の教会は本当に心燃やされ、「ここは重要な場所だ。祈らなくては」と、毎週日本のために韓国のリバイバルのために、天皇の故郷と呼ばれている村で祈るようになりました。
 そして、「日本から、特に、新城教会から、この地の為にとりなしのグループを送ってください。合同で祈りましょう。」という事になり、今週は雅也先生を団長に、数人の方々がとりなしに行きます。また、ソウルやチュンチョンからも牧師達が集り、「日本天皇の故郷」と呼ばれている場所で、日本のリバイバルを祈ることになっています。みなさんも是非、祈って支えてください。
 日本神話と同じ神話がその地域にあり、少しびっくりします。日本神話の元となったストーリーは、朝鮮半島から渡って来ましたが、そのテーマがすべてそこにあるのです。
 今回の働きは、その地域の教会が心を燃やしたことにより、このようなとりなしの祈りに導かれたわけです。素晴らしいです。
 
 日本と韓国が歴史に一番影響を与えたのは中国ですが、感謝な事にこの頃、新城教会には中国人の方々が来られるようになりました。本当に嬉しいです。やはり「中国なくして日本なし」ですから、中国の方々が日本で救われる事はたいへん重要です。是非とも、彼らを歓迎してください。

 それら全てはイエスさまによって、心燃やされた人達によってなされることです。イエスさまを信じたら、イエスさまに心燃やして歩んで行きたいものです。そうする時、人生は祝福され満足できます。まずはイエスさまに心を燃やさないと、他の事にいくら心を燃やしてみても、最後は火が消えて、「今までなんだったのだろう〜」となってしまいます。
 
 今日、お読みいただいた箇所は、よみがえりのイエスさまに出会った弟子達に起こったことです。
ルカの福音書 24章32節、

『そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」』

 彼らはイエスさまと出会い、気づいたら心が燃えていたのです。ということは、この箇所から「どのようなプロセスを経て、心が燃えるようになったのか」を学ぶことができます。

 先週は「復活祭」でした。イエスさまがよみがえった記念日でした。復活のその日、エルサレムは大騒動だったと思います。なぜならば、イエスさまの体は墓にはなく、生きているイエスさまが現れたという噂が広がっていたからです。皆、ある意味でパニック状態だったと思われます。
 イエスさまには十二弟子ではない、弟子達もいたようです。そり中の二人が、その日パニック状態のエルサレムを出て、何かの用事で11キロメートルほど離れた、エマオという村に向かっていました。
 ルカの福音書 24章13節〜16節、

『ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。』

 その日彼らは、何が起こったのか全く理解できませんでした。ですから、この二人はエマオに向かう途中は、もっぱら「イエスさまの復活は本当なのか、嘘なのか」を論じ合っていたようです。
 そうこうしている内に、なんと、よみがえったイエスさまが二人に近づいて来られたのです。しかし二人の目はさえぎられていて、それがイエスさまだとはわからなかったのです。彼らはイエスさまは死んでしまったと信じていましたし、この地上にはいないと思っていたので、多少イエスさまに似たような人物が近づいても、わからなかったのかもしれません。それは無理もないと思います。
 しかしこの箇所から、「どうしたらよみがえりのイエスさまが私達の所に来てくださり、心燃えるようになるのか」という秘訣を知ることができます。

 皆さんの日頃の話題の中心は何でしようか?テレビドラマの話だったり、趣味の話だったり、食べ物の話だったり、様々な話題で盛り上がり一週間を過ごされると思います。そういう話も別に悪いわけではありませんが、特に、クリスチャンとの交わりの中では、「イエスさまの事を話題の中心にする」時に、よみがえりのイエスさまが来られるのです。ある時は議論になる事もあるかもしれませんが、「イエスさまテーマで話が進むと、よみがえりのイエスさまが仲間に入って下さる」のではないでしょうか。

 この礼拝が終わると、楽しいカレータイムがあります。おいしいカレーです。教会のカレーを食べないと一週間が始まらない人もおられますが、私は残念なことにカレーはほとんど食べられません。礼拝後の祈りの時間が長くて、大体、私が行くとカレーが終わっています。
 食べながらいろいろな会話すると思いますが、世間話よりも、せめて教会に来た時くらいはイエスさまの話をしてください。お互いイエスさまによって祝福された話をしてください。また、お互いの祈りの課題を交換したり、信仰的な交わりをする時に、その中によみがえりのイエスさまが入ってくださいます。しかしそれには気づかないかも知れません。もしもイエスさまが入って来られたことがわかったら、少し緊張してしまうかもしれないので、分からない方がいいのかもしれませんが。しかし、気がつくと、心が元気になり燃えていることに気づくでしょう。
 ルカの福音書24章17節〜18節、

『イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」』

 「イエスさまも人が悪いなぁ〜」と思いますが、この二人の弟子達に声をかけられました。「あなた達が話している話題のテーマはなんですか?」と。イエスさまご本人の事を話しているのに、「あなた達が話していることはなんですか?」と聞かれたのです。
 すると弟子達は「あなたはエルサレムに住んでいるのでしょう。あの大事件を知らなかったんですか?」と逆ギレしています。
 聖書はその時の弟子達の表情まで、細かくレポートしています。『すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。』と記されています。この一言からも、当時の彼らの心境を読み取れます。「よみがえった」という噂は聞いていましたが、彼らの心の根底はその話を信用していませんでした。「そんなことありっこない。」と思っていたわけです。その日彼らはさらに混乱し心は暗かったのです。

 心が暗いとそれは顔に出ます。顔の表情とは、不思議なものです。何か辛い事があったら、なかなかニコニコ出来ないものです。やはり心が暗いと、顔つきも暗くなります。ですから、顔を見ると大体心の様子がわかります。私は常に人の顔つきを見るような職業ですから、調子がいいのか、悪いのか、大体顔を見れば察しがつきます。
 この弟子達の顔つきは暗かったのです。彼らはどん底でした。

 聖書の中には、どん底の人達の事が多くレポートされています。しかし聖書の素晴らしいところは「どん底のような中にも光が差します」というテーマがあることです。
 この二人は暗い顔つきで話し始めました。「彼はイスラエルを変えてくださると期待していたのに、殺されてしまった・・・」と一連のことを、本人であるイエスさまに話したのです。
 しかし、そんなどん底の二人がイエスさまと話し始めたら、心は燃やされ、暗い顔つきは消えたのです。

 いつも話しますが、教会に来られる方の多くは、大体暗い顔をして来られます。いろいろな問題があって教会に来る、というパターンだと思います。「なぜ教会に来たのか」ということを考えたら、最初の理由は何でしたでしょうか。「あの時は暗い顔で教会に来たなぁ。」という人が多いのではないでしょうか。
 しかし、そんな暗い思いで、暗い顔つきで教会に来ますが、イエスさまを中心に話が進んでいる内に、イエスさまが来られて、初めは目がさえぎられていてわかりませんが、やがてわかる日が来るのです。そして気がつくと、心が燃やされているのです。
詩篇 84篇5節〜7節、

『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。』

 新城教会では仕事を始める前にスタッフ達の朝礼があり、毎日、誰かがショート・メッセージをします。今読んだ箇所は、先週ある人が開いた箇所です。
 ここに、「なんと幸せでしょう、その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は」とあります。「シオン」というのは、「神の都」であり、究極的には「イエスさま」の事です。「イエスさまに向かう道が心の中にある人は幸せだ」と告げています。「ある時は、涙の谷を過ぎるような時があるかもしれないけれど、シオンへの道が備わっている人は、そこが泉のわく所に変えられる」と告げています。
 ある意味、弟子達も同じだったと思います。彼らは、イエスさまの事をよく知っていました。シオンへの道は内にあったのです。しかし彼らは涙の谷のどん底を歩んでいました。エルサレムからエマオという、高い所から低い所にある村に下るような、ある意味象徴的な中に、イエスさまが来られたのです。
 
 この場面の絵は有名です。プレイズ・ブックスにも売っています。我が家の古い家にはこの額が長いことかけられていました。「エマオの途上」というタイトルの聖画です。聖歌にも「エマオの途上にありしごと〜」という歌があります。 
 二人は暗い顔をして、暗い森の中を谷に沿って歩いていました。そこにイエスさまが近づいて来られたのです。
 人生にもそのような時期があるかもしれませんが、「シオンへの大路が備わっている人は幸い」なのです。彼らは復活のイエスさまと出会ったのです。それで最終的にはどうなったのでしょうか。彼らは、エルサレムからエマオに下っていたのですが、すぐにエルサレムへ引き返して行きました。『彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。』とありますが、まさにそのようでした。なんと彼らは、シオンの都、エルサレムに向かって走って戻るほど、明るい心に変えられたのです。
 今日、みなさんの中で、「私は涙の谷を歩んでいます」という人がおられても、イエスさまの事を話題にし始めたら、初めはイエスさまの事がはっきりわからないかもしれないけど、やがて心が燃えてくるのです。

 先週、豊橋のあるクリスチャンのご家庭で家庭集会が開かれました。その家庭は、最初にイエスさまを信じた人から数えると、クリスチャン歴は約九年です。九年前、その家に最初に訪問した時の事を私は今でもよく覚えています。
 その頃その家庭は、まさに涙の谷を通過しているような状況でした。なぜならば、その家の息子さんが学校に行けなくなり、布団の中に潜り込んでいて、誰が声をかけても反応しなくなってしまったからでした。私は中学生の坊やが引きこもっているぐらい、「起きろ。出てこい」と一括したらきっと出てくるだろうと、少し偉そうな思いでその家に行きました。
 「息子さんはどこに寝ているんですか?」と聞いてその部屋に行き声をかけたら、更に引っ込んでしまいました。しかし二度目に訪問した時には、布団からは出てはいましたが、ゲームばかりしていました。私が横から話しかけても、取り憑かれたようにゲームをしていて、全く良い反応がありませんでした。家族みんなの顔が暗くなり、口から時折出る言葉は「死にたい」という言葉でした。
 「このような事に関わるのはいいけれども、これからどうなってしまうのだろうか・・・、結果が悪かったらどうしようか」と心配しましたが、真剣に祈りました。そして、イエスさまの事をその家庭の話題の中心にしました。

 その家は当時、イエスさまに関する話題は全くありませんでした。偶像の神々がたくさん祀ってあり、それらの神々の話題ばかりでした。そこで私は「この家のテーマを、イエスさまにしてください。偶像の神々を話題にしないでください。」とお願いしました。やがて、その家族はお互いにイエスさまの事を話し合うようになりました。
 
 それ以来九年が経ちました。今や家族全員が主のもとに勝ち取られました。今は本当に幸せになりました。そして先週は、家庭集会に14人の方々が集まりました。その半分以上は同じような問題を体験した人たちでした。九年前にはどん底だったその場所が、実に喜びが溢れる「泉のわく所」と変えられたのです。涙の谷を通して教会に来られましたが、イエスさまを中心とした時に、人生が変わったのです。
 家庭集会において一人一人に証をしてもらいましたが、みなさん話す事が多くあり過ぎて、夜七時半から始まった集会で証が終わったのは、九時過ぎでした。イエスさま中心の家庭集会で喜びが溢れていました。中には「私はまだ、イエスさまの事をよく理解していないけれど、はっきりとわかりたい」という人もおられましたが、イエスさまを中心にすれば、初めは目がさえぎられていても、心配ありません。主は共におられるのです。

 この頃、新城教会に来られる新しい方が多いです。今朝も、「まだイエスさまが神だという事がはっきりと分らない」という方もおられると思います。でも、心配しないでください。分からないことや疑問を論じ合う内に、イエスさまが入って来られるからです。そして、イエスさまご自身が直接教えてくださるのです。
 イエスさまが割り込んできて、「聖書全体でご自分の事について書いてある事柄を解き明かされた」のです。
 ルカの福音書 24章25節〜27節、

『するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。』

 「旧約聖書に書かれている事柄は、イエスさまの事だ」ということについて、彼らははっきりと目が開かれていませんでした。しかしその事についてイエスさまから聞きました。
 「旧約聖書に記されている事柄は、俺の事なんだぞ!」と本人が語ったら、信じがたいかもしれませんが、弟子達はイエスさまだと気づいていなかったので、ある意味良かったと思います。イエスさまは弟子達に、聖書全体から、ご自分について説明されました。
 
 旧約聖書の書き始めは、「天地創造」です。「初めに、神は天と地を創造した。」と記されています。短い言葉ですが、たいへん奥深い言葉です。
 誰が天地を創造したかと言うと、神、すなわちそれはイエスさまです。
 コロサイ人への手紙 1章15節〜17節

『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』

 「御子」とは、イエスさまです。「万物はイエスさまによって作られた」、「聖書全体に書かれている事柄は、イエスさまの事」です。旧約聖書から新約聖書まで、イエスさまを中心軸にして全体を学んでいく内に、心は燃えてきます。

 みなさんの中で、今日、心が暗いという方は、是非、聖書をよく読んでみてください。旧約聖書を読む時でも、「イエスさまを探す」という思いで読んだら良いと思います。絵本に「ウォーリーを探せ!」というのがありますが、旧約聖書も「イエスさまはどこにいるの?」という思いでイエスさまを探しながら読んだら、必ず、見つかります。
 また私達には、新約聖書という情報がありますので、新約聖書を元にすれば旧約聖書も良く分かります。実は、イエスさまは新約聖書を読んだことがありません。それはイエスさまが天に帰られてから後に書かれたからです。私はそのように考えたことはありませんでしたが、この間イスラエル旅行に行った時、ガイドさんに言われて、「あっ、そうか〜。イエスさまは新約聖書を読んだことはないのか〜。」と思ったわけです(もちろんイエスさまは神さまですからすべてをご存じですが・・・)。しかし新約聖書の情報を持ちながら、旧約聖書を読むと、「あ〜、なるほど、旧約聖書のテーマはイエスさまなんだ」とよくわかります。

 例えば、イザヤ書はイエスさまがお生まれになる、700年も前に記された書物ですが、イエスさまのことが記されています。
 イザヤ書6章1節〜4節を見ると、イザヤが神々しい幻を見たことが記されています。

『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。』

 幻の中に神の宮が見えて、すごい神の栄光が現れたというのです。「セラフィム」という天使が旋回しながら、宮は神の栄光で満ちたというのです。イザヤは、その光景を見たときに、「私はこの目で神を見てしまったから、死ぬかもしれない」と恐れたほど、その栄光はすごいものでした。
 しかし、イザヤが見た幻はなんであったのでしょうか。ヨハネの福音書12章41節を読むと、

『イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである』

 イザヤが見た神々しい幻は、イエスさまの事だったのです。是非、これから聖書をよく読んでみてください。そして、旧約聖書も「イエスさまを探せ!」というように、「イエスさまはどこにおられるのか?」という思いで読んで下さい。それも聖書全体を学ぶ時、やがてイエスさまのことがはっきり分かるようになります。
 
 しかしながら、二人の弟子達の目が突然開かれたのは、その後のパートです。ルカの24章を、家に帰ってから通して読んでいただきたいと思います。
 二人はだんだんと心燃やされ、聖書全体を解説してくれた男を放したくなくなりました。それで、「私達と一緒に泊まってくれますか?そしてもっと話を聞かせてください」と引き止めました。まさかその男がイエスさまだとは知らずに、自分達と同じ宿屋に連れて行きました。そこで男がおもむろに、食前の感謝の祈りをしました。
 ルカの福音書 24章30節。

『彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。』

なんと食卓を共にした時に、「イエスさまだ」とはっきりと分かったのです。それは「主の食卓」が、大変重要だと言うことを同時に教えています。
 それは何を意味しているのかと言うと、「聖さん式」です。「聖さん式」を通して、「イエスさまがイエスさまである」と理解できるのです。
 イエスさまは十字架につかれる前、「最後の晩餐」を弟子達と共に取られました。その食卓は、普段の過ぎ越しの食事とは違って、楽しいものではありませんでした。
 ルカの福音書 22章19節〜21節

『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

 イエスさまが十字架の奥義について晩餐の時に語られた言葉です。そして、やがて、制定される聖さん式についても、ここで示唆されたのです。しかし、次の言葉を見てみてください。
 ルカの福音書 22章21節、

『しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。』

 弟子達がイエスさまと共に食卓に手を伸ばしていた時、その手の中に一本の黒い手が混じっていました。それは誰の手だったかと言うと、サタンに心を奪われたユダの手でした。敵の手が主の食卓の中に混じっていたのです。
 詩篇 23篇5節、

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』

 心が暗いと、食事も喉に通らないことがあります。みなさんも今までの人生の中で、そういう事が何度かあったと思います。
 私の家で数年前、家族のようにして飼っていたワンちゃんが死にました。その犬は15年も生きたので、私はそれでいいと思っていました。しかしやはり犬でも死ぬと悲しくて、その晩の我が家の食卓は本当に暗かったです。一応、食卓にはチキンの唐揚げなどが並んでいましたが、だれも手を伸ばしませんでした。その時、手を伸ばして食べていたのは私でした。「あんた。よく食べられるね。」と家族からひんしゅくをかいました。家族はみんな「食欲がない…」と言っていました。
 心が暗くて、食事も喉を通らなくなってしまうような時もあります。しかし、主は、「涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の場所とする」と約束されています。それは同時に「敵の面前で食卓を整えてくださる主」を意味します。
 
 教会に来て期待するのは、祈ってもらったら、ぱっと全ての問題が消えてなくなり「やった〜!」という風になることかもしれません。そういう風になる場合もありますが、そうならない場合が案外多いのかもしれません。なぜならば、人間は「喉元を過ぎれば熱さを忘れる」というもので、一発で問題がなくなると、すぐにイエスさまを忘れてしまうからです。
 だから、案外、イエスさまはじわじわと問題解決をされます。問題は二転三転しながら解決に近づいて行くのではないかと感じます。
 涙の谷のどん底で教会に来て祈りを始め、イエスさまを中心にしても、敵は依然として目の前にいるのです。しかし状況は変わらなくても、だんだんと「あれ?食欲が回復したぞ。食べれるようになったぞ・・・」と変わってきます。「敵はまだいるのに、あまり気にならなくなってきたな〜」となるのです。
 目の前の状況はあまり変わらなくても、だんだんと強くなって、今まで気にしていた事柄が気にならなくなり、気力が回復してくるのです。
 そして、「油そそがれる」というのはどういう意味でしょうか。それは敵よりも、だんだんと権威が回復され、自分の方が強く大きくなって、敵を見下げるようになるのです。敵の見ている面前でそのように変えてくださるのです。まさしくそれは、主の食卓のことを現しているようです。

 最後の晩餐の時、イエスさまは神ですから、次に起こることを全て知っておられました。自分の仲間の一人であるユダが裏切ることも知っておられました。これは、イエスさまにとって一番心が痛いことだったと思います。
 例えば、私がいつも一緒に働いている岡本先生や上條先生が私を裏切るのと同じですから。「岡本先生が私を銀30枚で売った」と同じです。そんなことがあったら、私なら相当心が暗くなると思います。
 でも、イエスさまはそんなただ中でも、皆にパンを割き、食事を分け与えました。まさに、「敵の面前で食卓を整えてくださった」ことではないでしょうか。

 サタンの手が食卓に伸びているようなただ中でも、主は共におられ励ましてくださるのです。
 実は、ユダに関わっていたのは、死の力の張本人であるサタンでした。しかしイエスさまの復活によって、死の力であるサタンは滅ぼされたのです。
 まさに、イエスさまの復活後エマオの途上でなされた主の食卓は、敵に勝利した勝利の食卓であったと思います。二人の目はさえぎられていたのですが、その時、目が開かれたのです。

 私は、「聖さん式」はある意味、強力な武器だと考えています。キリスト教会において「聖さん論」にはいろいろな考え方があり、ある教会では「教会のメンバー以外は、絶対に聖さん式は受けません」というような教会もあります。
 私は、いろいろな教会で奉仕させていただきますが、ある教会では「今日は聖さん式があります。すいませんが、順先生はこの教会のメンバーではないので、ただ見ていてください。」と言われる事がありました。「そんな意地悪しないで、私は牧師なんだから、ちょうだいよ〜」と思うこともあります。また、「洗礼を受けてない人は、聖さん式は受けないでください」と言う教会もあります。
 でも一方では、「イエスさまの事が分かったら、洗礼を受けていなくても、また、どこの教会に行っていても受けてもいいですよ。自分の信仰告白として受けて下さい。」という教会もあります。私たちの教会はその立場をとっています。

 聖さん式は、霊的目が開かれる為の強力な武器だと信じています。今までイエスさまの事はあまりわからなかったけれど、聖さん式にあずかった時に、目からウロコが取れて、「イエスさまだ〜!」と分かる、そのような武器になると信じています。
 
 そもそも、食卓の中には悪魔の手がひそかに伸びていますので、私達は注意する必要があります。日本の宗教は、ほとんどが「教え」は強調しません。仏教にしても、神道にしても、「教え」はどうでもいいのです。やる事はただ一つ、「食べ物を悪霊に捧げて、その食物を食べさせる」手口です。それにより悪い意味で目が開かれ、神にではなく、悪霊を神として理解してしまうのです。
 それは本当に恐ろしいことです。第一コリント10章に聖さん式のことが記されていますが、その中心軸は、「聖さん式」よりも、「偶像に捧げた食べ物」の危険性です。
 第一コリント10章19節〜20節、

『私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

 パウロは「偶像に捧げた食べ物には気をつけろ」と注意しているのです。それは聖さん式の逆パターンであり、「悪霊と交わる」ことになると告げているのです。「食卓の中にサタンの手が伸びている」というのは、「偶像に捧げた食べ物」かも知れません。日本はそれが本当に多いのです。
 この季節は全国で「花見」があります。「花見」は元々、何を意味するのかと言うと、桜はイエスさまが咲かして下さっているのですが、日本においては「うがのみたま(稲荷)の霊が降りてきて花が咲く」というのです。それは、神からの「稲作開始」のサインだというのです。「さくら」とは、古語で「さ・くら」です。「さ」は「神」であり、「くら」は「座・椅子」です。「神の椅子」、それが「さくら」です。「花見」とは、神の座の下に食卓を持ってきて、宇賀の御霊に食事を捧げ、降霊された食べ物を飲み食いして霊に取り憑かれてドンチャン騒ぎする、ということです。それが花見の起源です。現在ではそんなことは意識されていないとは思いますが、関連があることは確かです。
 ですから、花見に行くのもよろしいですが、気をつけてください。そこにサタンの食卓がある事に気づいて、とりなしてから、「このさくらは主が創られた!」と宣言してから、主が創造されたさくらを、喜び楽しんだらいいかと思います。
 
 日本は、偶像に捧げた食べ物が多いのです。そんな中で特に危ないのは、「酒」です。酒を飲んでいいのか、悪いのか、聖書は何と言っているのか、といろいろな考え方や論議があるかもしれません。しかし「酒」とは、悪霊に捧げて作られている飲み物です。
 仕込みの時も、酒の出荷の時も、必ず、酒神にすべてを捧げます。気をつけないと酒の悪霊に捕まえられることになり、そこから人生の水漏れが起こる危険性があります。酒はサタンの食卓と共にあることを、よく知らなければなりません。
 最後の晩餐の時、裏切る者の手が一緒に伸びていたように、日本の食卓のただ中に、サタンの手が伸びていることは否めません。私達は偶像に捧げられた食べ物に対して気をつけないといけません。
 そのためにも、食前の感謝の祈りは大切です。しっかりと霊的戦いバージョンで食卓を感謝し、召し上がったら健康にもいいと思います。
 
 二人の弟子達が、イエスさまと共に食卓についた時「目が開かれた」とレポートされています。そして、彼らは次の言葉を語りました。
 ルカの福音書 24章32節

『そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」』

 彼らは、自分達の心が燃えていた事に気づいたのです。そしてその後を見てみましょう。
 ルカの福音書 24章33節〜35節、

『すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、11使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。』

 彼らは、エルサレムからエマオに下っていましたが、すぐさまエルサレムへの急な坂道を、シオンへの大路に向かって走って行きました。イエスさまがよみがえったという大きな喜びを、仲間達に知らせる為に走って行きました。
 その後、『イエスさまが、彼ら自身の真ん中に立たれた』と36節にあり、37節には『彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。』と記されています。
 人間というのはおもしろいもので、一度よみがえりのイエスさまに出会っていても、再び現れると幽霊だと思ってしまう弱さはありますが、よみがえりのイエスさまと出会ってからは、彼らは本当に心が燃えました。
 ルカの福音書 24章46節〜53節、

『こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」』

 よみがえりのイエスさまが彼らに命令された事は「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まり、あらゆる国の人々に宣べ伝えられます」と言う預言でした。そして「あなた方はその証人となれ」と命令されました。
 この言葉を聞いた時、弟子達は既に熱く燃えていたのです。あの暗い顔つきの弟子達とは違いました。熱い思いを持って、彼らは荒海を蹴って世界に出て行ったのです。それ故に、私達のところにも福音が届けられたのです。

 私達もよみがえりのイエスさまと出会い、同じように心を燃やして、地域に、国に、いや世界に、そして、次の世代へと福音を伝える者にならなければなりません。

 52節を見ると、『彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。』とあります。ここに『非常な喜び』とありますが、ギリシャ語で『非常な』は、「メガス」という言葉です。マクドナルドに行くと「メガ・バーガー」というハンバーガーがあります。私の得意とする三河語では「ど・でかい」という意味です。「普通の物ではない」、「尋常な物ではない」、「メガス」、「ど・でかい喜び」が、彼らを支配していたのです。彼らはいつも宮にいて賛美していました。
 この情熱があったからこそ、彼らは荒海を超え、世界に福音を宣べ伝えることができたのです。それは、よみがえりのイエスさまに出会った故です。
 みなさん、私達もそうなりましょう!

 今日は、茶臼山の頂上で主を誉めたたえる「青空賛美集会」があります。是非、みなさん、頂上に登って真剣に賛美してください。昔、茶臼山は織田信長が本陣を置いて、設楽が原の戦いを指揮した、悪しき場所です。
 でも、そこによみがえりのイエスさまと出会ったクリスチャン達が登り、「非常な喜び」を抱いて主を賛美したら何が起こるのでしょうか。新城にリバイバルが拡がると信じます。
 一度しかない人生、イエスさまに心燃やされ、リバイバルのために働いていきましょう。
 
 今から、主の食卓にあずかります。よみがえりのイエスさまが、二人の弟子たちの前でパンを裂いた時目が開かれたように、今日は、悪魔の手が伸ばされた晩餐ではなく、エマオの途上のよみがえりのイエスさまの食卓として行います。よみがえりの主自らパンを裂いてくださり、私達に分け与えてくださるように祈ります。その時、私達の霊の目が開かれ、イエスさまの事がはっきりとわかり、心燃やされ、どでかい喜びに満たされて、主に仕えていくものになることを願っています。
 最後に一言お祈りして、聖さん式に入りたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。私達はよみがえりのイエスさまに出会い、心から感謝します。今日私達は、この食卓が、よみがえりの主の食卓であると宣言します。二人の弟子達を前にしてパンを割かれた時、彼らの目が開かれたように、イエスさまを中心として、この食卓にあずかります。聖霊によって、御言葉によって行いますから、主よ、どうか、私達の食卓を清めてください。もしも今、暗い思いがあり、食事も喉に通らないような方がおられても、敵の面前で整えられた食事として、油をそそいでください。弟子達と同じように、気がついたら心が燃えますように。
 今日は、ギデオン協会の方々が来て下さったことも感謝します。私達も宣教のために協力できますように。私達が、多くの人に福音を伝えるため、神の御言葉を伝える者になる事ができますように。
 イエスさまの御名を通して、この主の食卓を心から祝福し、御名によって祈ります。アーメン!


[バックナンバー]