「空の鳥を見なさい」


2010.4.18(SUN)
新城教会 滝元 開 副牧師

マタイの福音書 6章26節〜30節
『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。』

今日は、こうして久しぶりに賛美礼拝の時間を神様が与えてくださったことを心から感謝いたします。
皆様のお祈りに支えられ、日々神様の働きに携わることができ、そして、健康が支えられていることを、心から感謝します。先週は、外に出る機会が多く、普段から移動は車なのですが、水曜日には奈良市に行き、朝4時半に出て、現地でコンサートをして帰ってきました。そして金曜日は、東京でZawamekiの集会 がありましたので、新城を昼に出て、途中大きな渋滞に巻き込まれて、五時間かけて到着し、セッティング。その後すぐに集会。集会中ずっと歌ってお話しして、すべて終えたら、片づけて真夜中に車で帰ってきました。先日東京に雪が降ったその夜で、ちょうど雨が雪に変わり始めたときでした。出エジプトするかのような気持ちで走っていたら、雨がだんだん形になってきたので、これはまずいと思って車を走らせたのですが、守られ帰宅でき、健康も支えられて感謝します。次の日、ハレルヤ会のおばあちゃんが私の顔を見て、「疲れた顔しているね」と言ったんですね。「祈ってるよ」と言ってくれると思いきや、「いつもはバカに元気そうな顔しているけど、今日は疲れてるね(笑)」と「バカに疲れた」ではなく「バカに元気」と言われましたけど、疲れた中でも主が守ってくださって、今日ここで皆さんと共に神様を賛美することができたことを心から感謝します。

今日の御言葉は、「空の鳥を見なさい」という言葉です。イエス様の愛とは、空の鳥を見て感じられるような、すごく自然なものだと思います。何気ない私たちの生活の中、日常生活の只中で、「イエス様はすばらしい!」と感じられるものだと思います。特別な出来事の大きな働きの中にもイエス様は働いてくださることがありますが、それ以上に、私たちが毎日、仕事をしていたり、勉強をしていたり、家事をしている、ほんの小さな出来事の中に「イエス様がここにいてくださる!」「イエス様ってすごいなぁ!」って感じるお方。これぞイエス様なんだ!と最近とても強く感じています。
今お読みしたこの御言葉は、有名な「山上の垂訓」という中でイエス様が語られた言葉ですが、イエス様がガリラヤ湖畔の山の上に腰を下ろされ、人々を前にして、マタイの福音書五章からずっと語られました。イエス様がその山から群衆を目の前に語ったときも、すごく自然なかたちで語られたのではないかと思います。イエス様がお話ししているときに鳥が飛んで来たら、「ほら、あの空の鳥を見なさい。あの鳥を養っているのは天の父だよ」と。そして、近くに花があれば、「ほら、この花はこんなにきれいに装っているよ。ましてやあなたがたの天の父が、あなたがたによくしてくださらないはずがないんだよ」と、イエス様は語られたのです。このように、私たちの信仰生活の中で、イエス様のすばらしさをもっともっと身近に感じられたら、どんなにすばらしいことかと思います。教会で礼拝をしているときだけでなく、毎日の歩みの中で、「イエス様は今日も共にいてくださった。感謝だったね」と、日々言い続けられる歩みをしたいと願っています。大きな問題が起こってから、お祈りして勝利!!というのも感謝なのですが、日々の歩みの中にイエス様が共にいてくださるという祝福を、私たち一人ひとりがもっと体験していったら、イエス様のすばらしさがさらに溢れ、周りの人々にも流れていくことと思います。

先週の日曜日は、皆さんと共に茶臼山公園で賛美の時を持つことができて、本当に祝福されました。新城教会の真正面に位置する茶臼山公園は、織田信長の陣地跡ということですが、霊的には、ある意味では、ずっとあの場所からこの新城教会を睨んできたような存在であったように思います。織田信長といえばすごく破壊的な力を持っていたと言われますから、私たちの中の様々な領域に破壊を持ち込んだ、悪しき力が砕かれるために、あの場所において賛美することに大きな意味があり、そして、神様の大きなご計画があったことを強く感じました。
その集会が行われる前に三度あの場所に行って、執り成しの祈りをしました。今回は、楽器や発電機を持参して演奏をしましたので、最初はどこで演奏しようかと下見も兼ねてお祈りしました。「この場所が勝ち取られるように!この地の悪しき力が打ち砕かれるように!」とお祈りしました。その後、周辺を見ていた時、一緒に行った岡本司君が突然「ワーッ!」と驚き、大きな声を出したのです。「どうしたの?」と言うと、そこに蛇がいたのです。私は蛇が怖くないので、「なんだ、蛇か」と見たのですが、その蛇は、なんとマムシでした。早速、彼と共に大きな石でそのマムシをしとめました。ある意味、神様が一つの勝利を現してくださったような気がしました。今までこの地を治めていた悪しき者の頭が砕かれて、いや、蛇の頭は砕かれるだけでなくて、蛇の息の根まで止めましたので、神様の勝利が現されたことを心から感謝しました。そして、その集会の前日の夜、三度目の執り成しの祈りに行きました。その場所で「この地で勝利することができるように」と祈って、山から下って車のライトをハイビームにすると、田んぼの向こうに何かうごめくものがあったのです。よく見ると、何と今度は鹿がいました。しかも6頭ですよ。まだ若そうな鹿達が、仲良く2頭ずつ寄り添っているのです。随分長い時間彼らは逃げずにいました。しばらくしてその鹿たちは、飛び跳ねて姿を消していきました。そんな中で与えられた御言葉をお読みします。

イザヤ書の35章の4節から6節です。
『心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。』

この御言葉与えられて、すごく感謝しました。ある意味、この地が、長年にわたって悪しき支配下にあったわけですが、復讐の神様ご自身がこの地に勝利を打ち立てられて、そして、祈りとともに神様の御業が前進して行った中に、勝利と回復があり、悪しき力、蛇の頭が打ち砕かれて、そこに鹿のように喜び踊るような祝福が注がれるのだと、それが前の晩だったのです。そして当日、先週の日曜日は本当に祝福された賛美の時でした。ちょうど桜の花が散る時でした。全部で八〇名の方が行ってくださいましたが、皆さんと共に賛美していると、風になびいて桜の花びらが舞って来るのです。春の穏やかな風と共に、すごくいい香りがフワッとして、イエス様の祝福がこの地を覆っている、主の香りがこの地を包んでいると感じる時でした。賛美の中におられるイエス様が、「わたしはこの地の中に大きな勝利をすでに現しているんだよ」と、語ってくださったような集会であったことを心から感謝します。

また3月の末は、中高生でキャンプをさせていただきました。中高生の兄弟姉妹と山梨県の富士五湖の一つの河口湖に行って、キャンプをしました。本当に楽しかったです。その時にも楽器を持って行きました。今回泊まったところは30名入るコテージでした。大きなコテージで、バンドを囲んで丸くなることのできる大きな部屋があり、2階は二段ベッドがあり、どこの収容所かなっていう感じのコテージでしたが、とても楽しくて本当に祝福されたキャンプとなりました。そんな中みんなで喜び踊って賛美しました。キャンプの最後は、富士山に登って歌いました。実は、今回は富士山での賛美第二弾だったのですが、2年前に行ったときは、富士山の四合目までしか行かれなくて、ギター一本で歌って帰ってきました。でも、今回は、車で行ける最も高いところ“五合目で歌おう!”と、決めていたのですが、前々日には雪が降って、一合目以降は不通になってしまったのですが、当日は、無事五合目まで行くことができました。マイクロバス二台を連ねて行きました。五合目は標高2000メートル以上あるのでとても寒くて、風がビュービュー吹いている中で歌いました。五合目の駐車場にドラムとベースとギターとキーボード、そして発電機を持って行って、マイクロバスをカギ状に置いてそこに陣取って賛美しました。「そこは困ります」と言われたら「ごめんなさい」と言って止めればいいと思って準備したのですが、神様がその場所を備えてくださって、富士山を間近に見上げて賛美しました。その賛美は本当に祝福されて、中高生の彼らが喜んで踊って歌いました。だから、観光客たちも写真を撮ったりしていましたけど、そんな中で、彼らもめげずに喜び歌ってくれました。賛美の中に力があると、私たちは聖書を通して教えられていますが、主は「賛美を住まいとする」とおっしゃってくだったので、賛美を捧げるとき、イエス様はそこに来られ、その地を覆っている暗闇の支配が、主のご臨在の中で打ち破られるということを信じ切って、もっと歌っていかなければいけないなと思っています。日本を象徴する山「富士山」で、イエス様の勝利を打ち立てる事が出来たことは、本当にすばらしいものであったと心から信じています。

さらに、先週は、皆様にお祈りいただいて、少年刑務所でのコンサートをさせていただき、心から感謝します。毎回感じることなのですが、遣わされていくときも、そして、その場で賛美するときも、皆様の祈りをすごく感じるのです。「わぁー、祈ってくださっている!」って。これは表現しようがないのですが、すごく温かなものであったり、大きな喜びであったり、力をすごく感じるのです。今回もとても強く感じることが出来本当に感謝しました。
今回の刑務所では603名の受刑者がコンサートに出席することが出来ました。少年刑務所といっても、十代の人は少なくて、25歳くらいまでの子たちがいるのですが、その中に、頭がツルッとしている子や、髪の毛が白い子がいたので、ずいぶん老けた少年だなぁと思ったら、60代の受刑者も何人かおられて、そういった方までが一生懸命聞いてくださって感謝でした。
神様が刑務所の道を開いてくださる中に、いつも「ああこれは神様だな」と強く感じさせていただいているのですが、600名規模の刑務所ですと、通常は一年前に年間スケジュールが立てられて、随分前から予定が組まれるのですが、でも今回に限っては一ヶ月前に突然お電話をいただいて、「来月来ることができますか?」とおっしゃくださったので、「喜んで!!」といってお伺いさせて頂きました。
今回、窓口になってくださったひとりの先生が、少年たちに音楽を届けるための働きということで、一生懸命準備をしてくださいました。私たち、刑務所で歌うときは、滝元開と典子(家内)なので、その頭文字をとって「HN with Jesus」という名前でコンサートをするのですが、行く前に電話がかかってきて、「今回、感謝状を渡したいのだけれども、感謝状になんて書いたらいいですか?『ざわめき』って書けばいいですか?」と、突然そう言い出されたのです。「えっ、先生、私『ざわめき』って言いましたっけ」と言うと、「すみません、ちょっとネットで調べてみたら出てきたものですから」と言われ、「ざわめきというのは讃美歌を歌うので、それを公の場で歌うと、宗教の布教活動になってしまうので、聖書を土台としたメッセージソングをお届けするということで、ですから、『HN with Jesus』っていう名前でしています」と言いました。すると先生は、「with Jesus !『ジーザス』ってことは神ですか。神があなたがたと共にいる、そういう意味なんですか」と、その先生が、神様が私たちと共にいるっていうことを知った上で受け止めてくださったのです。そして、いよいよ当日を迎えたのです。その刑務所は、建てられて120年が過ぎているのですが、すべての施設がそのまま使われているのです。総レンガ作りですごく美しい建物でした。建造物としても有名な場所なのですが、そこに到着してインターホンを押すと、対応してくださった先生が出て来られたのですが、何と腰を押さえて出てこられたのです。「あれ、先生どうされたんですか」と言うと、「今朝、やっちゃいましてね」と言われました。ぎっくり腰かと思ったら、もともと煩っていたヘルニアで、ずっとよかったのに、この朝また痛めてしまったと言うのです。コルセットして「痛い痛い」と言いながら対応してくだいました。「先生のために、もっと祈っておかなければいけなかったのかな」と思いながら準備を進めたのですが、セッティングして、着替えをする部屋まで先生が一緒に行くのですが、「痛い、もうこれ以上歩けない。おいこの方たちを控え室に連れてってくれ〜」と他の人にお願いしたりして、そんな大変な中でのコンサートでした。でも、神様は本当に働いてくださって、コンサートは本当に祝福され、イエス様はすばらしいお方であると思いました。
今回は、大きな体育館で行われ600名以上の受刑者がいるということで、伊藤義也先生に音響のために行っていただきました。全員丸刈りの一番後方に、一人だけ髪の毛のある義也先生が座って奉仕をしてくださいました。受刑者が整列して座っている体育館の後方から、私たちは入場し、その彼らの横を歩いてステージへと向かいました。その時、私は603名を見ながら歩いて入って行く中で、すごくビックリしたのは、私の感情と別に、私の心の中には、すご〜く喜んで、ワクワクしながらステージに向かう自分がそこにいるのです。それが、自分の「さあやってやるぞ」というような気持ちでもなく、自分としては、ただ、させていただくという気持ちでいるのにもかかわらず、心がワーッと燃えて何かが動いていることを感じました。それは聖霊様が、こんなにもここで歌うことを、賛美を届けることを喜んでおられるんだということを感じて、コンサートをさせていただきました。受刑者の皆さんはとてもよく聞いてくださいました。普通はステージのソデから出て、歌い終わって「ありがとうございました」とソデに戻ってそのまま終わってほかの場所に移動するのですが、歌い終わった後にも、ソデから、また入場してきた彼らの横を通って退場したのです。その間、彼らがずっと拍手をしてくださったのですが、一人一人の顔を見ながら歩いて行くと、皆が本当にいい顔をして「ありがとう」といった顔で私たちを送ってくださる姿を見て、これは主ご自身の働き以外何ものでもないな、聖霊様ご自身が、ここに来よう、ここで歌おうとしてくださったんだと、強く強く感じました。
そして、腰が痛かったその先生なのですが、先生はコンサート中、603名の後ろから、腰が痛いのにもかかわらず、ずっと立ったまま見ておられました。ですから「大丈夫かな」と心配しながら見ていたのですが、終了後先生が、なんと言われたかというと「腰の痛みがとれた」と、おっしゃったのです。神様のご臨在は受刑者の彼らにも触れてくださったけれど、その先生の上にも届いてくださったのだと、心から感謝いたしました。

エペソ人への手紙3章の17節から19節
『こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』

イエス様の愛は、私たちの人知をはるかに超えた愛で、広くて長くて高くて深い、そんな愛であることを、今回のコンサートを通して知らせてくださったことを覚えて、本当に心から感謝しています。もっともっと私たちは、本当の愛を持って進んでいかなければならないと思わされております。

私はこの教会の牧師の息子の一人として生まれて、ずっと教会という環境という中で生まれ育ったので、この環境が普通なものだと思って生きてきました。以前は、厳しい律法という枠の中にあったような気がします。以前は今より随分厳格でした。私が小学校の頃、当時覚えた「お〜いお〜い久保田君」という歌があって、それを家で歌っていたら、「開、歌うな!」と父に怒られて、「讃美歌以外は歌うんじゃない」と言われたりもしました。今の私の息子・娘と比べたら、なんと厳しい世界に育ってしまったのかと思うのですが、それが当たり前な環境でした。また、当時、私たちはクリスチャン、そして、クリスチャンでない人たちのことを何と呼んでいたかというと、「異邦人」と呼んでいました。それが茶の間の普通の会話で、「ねぇ、あの異邦人の子がさあ・・・」という話をしていて、なんと排他的で、なんて選民意識の強い教育を受けたことかと思うものです。私はクリスチャンで愛されているけど、異邦人は異邦人だから、とすごく排他的な自分がいたと思います。でも、神様の愛はそのようなものではなくて、良い人にも悪い人にもすべての人に太陽を昇らせ、太陽を与えておられるように、イエス様はすべての人を愛しているとおっしゃっています。

第一テモテ2章4節に、
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

とあります。イエス様が十字架にかかられたときに、罪人が右左に一緒につけられました。そこで一方の罪人はイエス様をののしって、「おまえが神の子なら俺も救えー」と、この期に及んでまた罵ることをしました。しかし、もう一人の罪人は、イエス様のその姿をずっと見ていて、「ああこの人、本当に神の子だ」と、彼はイエス様を信じたのです。「イエス様あなたが天に行かれるとき、私のことを覚えてください。」とイエス様に言いました。するとイエス様は彼に対して何とおっしゃったかというと「わたしと一緒にあなたはパラダイスにいる」と、言われたのです。どうにもならない罪人で、それから聖書を学び、奉仕し、献金することもできない彼に対して、「今日、あなたはパラダイスにいるよ」、イエス様がそうおっしゃった愛はすごい愛だと思います。私たちを愛してくださった愛は、すべてを包む愛であり、どんな環境の中で、どうにもならないという人の中にも届くものなのです。

エゼキエル書18章23節に
『 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。』

そして、32節は
『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。』

とあります。イエス様の愛は、すべての人が救われて真理を知ることを願っておられるのです。私たちは、その愛をもっともっと頂いてこの地域に出て行かなければいけないと思うのです。あの人は異邦人だから私とは違うぞ。ではなく、イエス様は、すべての人を愛し、すべての方々に、同じように目を止めておられるのです。その中には、霊的には盲目にさせられて偶像礼拝でサタンに仕えている人、またある人は、違う宗教をなさっている人もたくさんおられるわけですが、その一人ひとりに対しても、イエス様は「わたしはあなたを愛している」と、今も語られ、愛を投げかけておられるのです。私たちも、その愛を宣べ伝え続けて行かなければと思っています。

イエス様が共にいてくださる中に働いてくださるその祝福は大きなものなので、それをもっともっと私たちの日々の生活の中で信じ切っていきたいと思っています。
弟子たちも、イエス様と共にいるときに、「イエス様はすばらしいなぁ、この方こそ神様だなぁ」と信じていたわけですけれど、あるときは波風がたって、「いやぁ、これは大変だ」というときがありました。そうするとイエス様は何とおっしゃったかというと、「なぜこわがるのか。信仰の薄い人たちだなぁ」と、イエス様は何度もおっしゃいました。
ゲラサ地方に行く途中、船の中で、すごい嵐が来たという記事がマタイの八章に書かれていますが、

マタイ八章23節から26節
『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。』

その激しい風と波で今にも沈みそう、でもイエス様がそこにおられるにもかかわらず「こわい、どうしよう、イエス様何とかしてください」と、弟子達も叫びました。その時イエス様は「どうしてこわがるのか」とおっしゃいました。
また、イエス様が波の上を歩かれたとき、ペテロがイエス様を見つけて、「あなたがイエス様なら、私をそこに来るように言ってください」と言い、そして、イエス様が「来なさい」とおっしゃったので、ペテロも水の上を歩いていきました。その後のことが、

マタイ14章の30節にあります。
『ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』

同じように、なぜ疑うのか、わたしが共にいるじゃないかと言って、ペテロの手をとって船に乗り込ませたわけです。私たちも、イエス様のそのすばらしさと、イエス様の力を信じ切っていったときに、イエス様の変わらないご臨在と変わらない御力が、もっともっと溢れて行くと信じます。

ラザロが死んで、4日もたって腐っているというときにイエス様はそこに行かれ、マルタとマリアに言ったことは、

ヨハネ11章40節に書かれています。
『イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』

マリアもマルタもラザロが死んでしまい、「イエス様もっと早く来てくだされば良かったのに」と泣き崩れていました。イエス様がそこに来てくださったにもかかわらず、その後イエス様がしようとされていることまでは信じ切ることができなかったのです。しかしイエス様は、「もし信じたら神の栄光を見ると言っただろう」と言われ、その後、「ラザロよ、出てこい」と、死んで四日目のラザロをよみがえらせたのです。私たちの日々の歩みの中に、イエス様ご自身の力がどんなにすばらしいものかと、毎週ここで御言葉を通して学んでいますが、そのすばらしいイエス様を信じ切るとき。そして、信じた私たちが、それぞれの場所に遣わされていくときに、イエス様のすばらしさ、イエス様の愛の、深く高く広く長さをもっともっと流していくことが出来ると信じます。

山上の垂訓でイエス様が人々に語りはじめられた時のことが4章の最後から5章の初めに書かれています。

マタイ4章23節から5章2節
『イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大勢の群衆がイエスにつき従った。』

そして、5章に続きます。
『 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。』

イエス様のみもとに苦しみを持った人たちがたくさんやって来ました。そして語り始められた「山上の垂訓」でした。そして、その中でイエス様がおっしゃったのが、「空の鳥を見なさい。あの一羽がこの地上に落ちることも、天の父の許しがなければ落ちないんだよ。ましてや天の父があなたによくしてくださらないはずがないんだよ」と語らえました。
最後にマタイの6章の30節をもう一度お読みします。

『きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。』

イエス様は今日も私たちに「信じなさい。わたしはあなたがたと共にいるよ」語っておられます。日々の生活、人それぞれいろんな働きをなさっておられますが、イエス様の名によって私たちは生かされていますので、イエス様の名によってそれぞれの場所に遣わされています。その場所に「わたしはそこにいる」という信仰を持って進んで行きましょう。空の鳥が神様の手の中で、元気に羽ばたいているように、私たちも神様の手の中で生かされ続けていきましょう。

一言お祈りさせていただきます。
「ハレルヤ! 愛する天のお父様、あなたのすばらしい御名をあがめて心から感謝します。今日こうして、この礼拝を通してあなたを賛美するという大きな祝福と大きな恵みの中に私たちを入れてくださったことを、心から感謝します。あなたがこの賛美を受け取ってくださり、私たちの礼拝を喜んで受け取ってくださることを心から感謝します。イエス様、今日も私たちと共におられる主は、私たちの日々の歩みの中にも共にいてくださるお方であることを心から感謝します。空の鳥を見なさいとおっしゃったイエス様、私たちは今日もう一度イエス様、あなたを見上げます。あなたのご臨在の中で、歩み続けることができるように助けてください。それぞれの家庭の中で、職場の中で、学校の中で、また新しい年度が始まって、それぞれ新しい環境の中にいらっしゃる方があるかもしれません。その新しい環境の中にも、あなたのご臨在と助けを置いてください。そして、神様あなたご自身がそこに溢れてくださいますように。それぞれの地域の中に、あなたご自身の業をなしてください。また、ある人にとっては、今大波の中で、風が吹きつけて苦しんでおられる方がいらっしゃるかもしれません。そのような中にもイエス様あなたは共にいてくださる方であることを信じて心から感謝します。なぜ疑うのか、信仰の薄い人たちと語られたイエス様、私たちはもう一度あなたを信じます。心からあなたを信じます。心からあなたを愛します。そして、あなたと共に歩みます。どうぞ今週のすべての働きの中に、あなたのご臨在を現してください。今日のこの恵みの時を心から感謝します。もう一度、すべての栄光を主にお返しし、あなたを心から賛美して、尊き主イエス・キリストの御名によってこの祈りを父なる神様の御前におささげいたします。アーメン」

イエス様に拍手の賛美を心からおささげします。ハレルヤ!!


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