「岩の上に家を建てよう」


2010.4.25(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

ルカの福音書 7章24節〜29節
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。

ハレルヤ!おはようございます。
 今日の聖歌隊の賛美は、いつもに増して素晴らしかったですね。恵まれました。「いずくまでも行かん」と歌われましたが、「いずく」ってどこだろう、と思ったかもしれませんが、「どこまでもイエス様についていきます」という意味です。今日もイエス様についていく決断の時であったら素晴らしいです。

 お祈りいただいて、先週までアメリカで奉仕させていただきました。ニューヨークのハドソン川の対岸のニュージャージー州にある教会で、5日間の奉仕をさせていただきましたが、計、13回の集会をしました。一回の集会の時間は約3時間ほどで13回メッセージがあったので、なかなか忙しかったです。しかしたいへん恵まれた集会であったことを心から感謝します。

 感謝なことに、私は外国での奉仕でも通訳に恵まれており、私自身の言葉は三河弁しかできませんが、英語の通訳の時はドリアさんがいますし、スペイン語の時はフェルナンド先生がいますし、自分の教会と同じように自由にメッセージができます。また韓国に行けばムン先生がいつも通訳してくださるので、打ち合わせもなく、思い通りにできるので本当に感謝です。
 今回の通訳は、その教会の方で、日本の大学を出た方でした。その方は私の通訳は初めてでした。私は通訳のための打ち合わせなど、あまり好きではなく、筋道をたてて語るよりも、思いつきでやった時の方がメッセージがいい、といつも家内に言われます。なので、あまり計画性なくメッセージを語る事が多いのですが、今回は初めての通訳でしたので、全ての内容を事前に決め、綿密に打ち合わせをしてメッセージを語りました。それが結果的には良くて本当に祝福されました。
 私達が同じ言葉でコミュニケーション出来るのは、素晴らしいことです。同じ言葉で主を賛美できるのは、素晴らしいです。しかし、どんな言語であっても通訳を介せば、人はコミュニケーションが出来る存在です。神が人類に与えてくださった言葉は大切な道具です。

 今日は、「岩の上に家を建てよう」というタイトルで、メッセージを語らせていただきたいと思います。今、読んでいただいた聖書の箇所は、大変有名な箇所です。イエス様は「山上の垂訓」という名メッセージをなさいました。この間もイスラエルに行き、イエス様がそのメッセージを語られた丘に登り、山上の垂訓の箇所を読みました。このメッセージの最後に語られたのが、今日開いたみ言葉です。
 マタイの福音書7章24節〜29節、

『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』

 この内容はルカの福音書にも同じことが記されていますが、ルカはまた違った視点でイエス様の言葉を記録しました。聖書はたいへんおもしろいもので、多くの執筆者がいて、執筆者によって着眼点が違うからです。ルカによる福音書6章47節〜49節を読むと、

『わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。』

 実は私は牧師になる以前は、土木技術者でした。私は高校も土木科で、大学も土木工学が専門でした。現場監督などもやったことがあります。土木工事の最も重要なポイントは「土台」であり、「基礎」です。基礎がうまくできたら、その上に建てられる構造物も安定します。今でも私はいろいろな工事現場を見るのが好きです。
 この頃、第二東名の工事をしていますが、あれを見るとちょっと心が燃えます。「もう一回現場をやりたいな〜」などと思う事もあります。特に工事現場を見る時、私は「構造」に興味があります。私は大学の卒論として、構造物の力学的検証に関する論文を書きました。
 どんな建物を建てても、基礎が悪かったら倒れてしまいます。基礎をうまく作ったら安定します。私はそんな職業をしばらくやっていましたので、基礎に関して関心があります。牧師になってからも、それが案外生きているかもしれません。まずは、教会堂建築に生かされたと思います。
 新城教会の会堂は実にうまくできました。なぜなら、私達の教会には、私だけでなく、一級建築士の方もおられますし、建築関係に明るい方々がおられますので、その方々とチームを作り、いろいろと研究をして会堂も教育館も神学校も計画しました。私も一応専門ですので、建設会社から見積書などがきても、ごまかしが出来ません。「これはおかしいな、計算が違うんじゃないの?」とすぐに分かります。それで、結構助かったところもあります。

 どんな事でも、やはり基礎が一番重要です。私達の人生についても、土台が大事だと教えています。ここでは、「岩の上に自分の家を建てた人が賢い人」と語られました。ルカは「岩の上に建てた家」に関して、さらに細かい描写をしています。
 そもそも、岩の上にちょんと家を置いたらどうでしょうか?風が吹いたら滑って、余計に危ないです。でも、ルカが言うには、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えてから家を建てた」と記録しています。それならば、私のような技術者が見ても、納得できます。
 この「岩」とは何かと言うと、「イエス・キリスト」です。また、「神のみ言葉に根ざして生きる」ということが、最も大切だと教えています。
 基礎が悪いと、建物も傾いてきます。傾いた建物で有名になったのが、ピサの斜塔です。基礎が悪いと、建物が傾いて倒れてしまいます。しかし、基礎さえしっかりしていれば揺るぐことはありません。

 先週も、ある方と話をしたら、近ごろ精神的に弱っていると言われました。どうしてかを尋ねてみたところ、「私は定年退職して、今はやることが何もありません。本来は余生を楽しまなければいけないのに、気力を失ってしまいました。」と言われました。それで、「土台をイエス・キリストにしましょう」と勧めて共に祈りました。

 「自分自身のアイデンティティー」、すなわち「自分は何者か」が最近問われています。仕事人間ならば、「仕事が私の全てだ。土台だ。」と言うかもしれません。しかし近ごろはリストラなどもあり、仕事場という土台を失うことも多くあります。去年、流行った川柳の中に、「ひさしぶり!ハローワークで同窓会。」というのがありました。寂しいことです。

 有名大学の学長をしていて、定年退職をされた方と、いろいろ話をしたことがあるのですが、その人はすごく有名で、大学の学長をやっている頃は、学長だけでなく、他にも多くの肩書きがあったそうです。しかし、退職して、名誉学長になり、最近は名誉学長も退職したそうです。そうしたら、自分の名刺にあった全ての肩書きがなくなったと言うのです。そして、「その時の寂しさったらありませんよ…」と言われました。私はそんなことを経験したことはありませんので分かりませんが、その方の名刺にはかつて「○○大学学長」、「名誉学長」、「○○会議々長」などと、きっとたくさんの肩書きがあったことと思います。肩書きがあって、それが「自分自身だ」と錯覚していたのですが、それらが全てなくなった時、「果たして自分は何者なのだろう?」と考え込んでしまったそうです。「虚しさは覚悟していましたが、覚悟していたにも関わらずこの状況です。本当に信じられません。」と語っておられました。そうしてみると、人間の在り方、基礎を何処に置くかということは、本当に重要です。

 聖書は、「岩の上に自分の人生を建てあげなさい」と語っています。やがて、自分を証明するものが消えていきます。元々、私のように何もなければあまり失うものもないかもしれませんが、特に多くの肩書きがある方々は寂しいかもしれません。
しかし、私達がイエス・キリストという方、「岩」の上に家を建てておくならば、「雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても倒れない」と聖書は告げています。

先週もあるご家庭の「記念会」をさせていただきました。復活祭の時も、召天者記念会がありましたが、天に帰られた方々を記念し、主を礼拝する「記念会」が時々あります。仏教では年忌などをやったりしますが、あれは呪文を唱えて終わりですが、クリスチャンはそうではなく、集まって思い出を話し合ったり、残してくれた愛について心を向け、神に感謝するひとときです。私はその場で、死んでも天で生きているという、希望のメッセージをさせていただきました。

 人間はやがて死んで行きます。ここにあるように、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて、その家に打ちつける」というのは、まさに「人間はやがて死ぬ運命だ」ということを、語っているのかもしれません。
 しかし、「岩の上に建てた人生は決して倒れることがありません」と聖書は告げています。「岩の上」とは、イエスご自身であり、同時に神のみ言葉である聖書です。
 ここでは御言葉をただ聞くだけでなく「実行する」ことが、「岩の上に建てた人生である」と教えています。

 私達は、毎週のように教会に来て、聖書の御言葉を学んでいますが、これは「人生を岩の上に置く」作業をしているのです。私達の周りにあるものは、すぐに形が変わってしまう砂のようなものです。毎週日曜日に教会に来て、もう一度人生を岩の上に置きなおすのです。それは、神の御言葉の上に立つということです。

 ナポレオンという有名な人物がいます。彼は、世界を制覇したフランスの皇帝でした。彼が、最後に「聖書は単なる書物ではない。それに反対する全ての物を征服する力を持つ生きた書物である。」と言い残したそうです。彼は世界を制覇しましたが、最後に気づいたことは「聖書は単なる書物ではない…」と言う事でした。
 神の言葉に従って歩んでいくならば、人生は揺ぎません。しかし、他のものに土台を置いたら、全てを失ってしまうのです。

 聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の66冊の本が一冊になっている書物です。それは神ご自身が編集したと、聖書自ら語っています。
イザヤ書34章16節、

『主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。』

 私達が持っている聖書は、誰が書いたのでしょうか?もちろん聖書には四十数人の筆者がいますが、これを集め、編集したのは神ご自身です。「神の御霊がこれを集めた」と自ら証言しています。ですから、聖書は人生に大きな祝福をもたらします。そして人生を岩の上に置くことができるのです。
 ここに「それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。」とありますが、聖書は、人生のためのバランスのとれた教科書です。
詩篇109篇9節に次のような言葉があります。

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。』

 今の時代は聖く歩むということが大変難しい時代です。どうやって歩んだらいいのか分からない時代です。毎日のように、道徳の規準が変わってしまう世界に私達は住んでいます。
 特に若い人たちの世代は、なかなか大変な環境があります。しかし、聖書の基準は、いつまでも変わらないものであり、神の言葉に従って歩んでいくならば、聖く歩むことができると教えています。

 先週まで私はアメリカに行っていましたが、今回奉仕したのは韓国人教会でした。しかし韓国人とは言っても、国籍はアメリカ国籍になっているような方々も多く、その教会の牧師先生も今はアメリカ国籍となっている方でした。そこに息子が一人いまして、どこの学校に通っているのかと聞いたところ、彼はホームスクーリングだと言いました。「ホームスクールは、学校に行かなくてもいいからいいな」と思ったのですが、今アメリカではホームスクールが流行っています。勉強を家でやります。お父さんやお母さんが先生になったり、インターネットで授業を受けたりしているのです。私は学校が嫌いでしたので、「私の時代にあって欲しかったな」とも思いましたが…。
 しかし、なぜホームスクールなのかと言うと、公立学校には危なくて行けないそうです。なぜ行けないかと言うと、みんなおかしくなると言うのです。公立学校ではみんな麻薬をやっているので、公立学校なんかに行ったら、麻薬中毒患者になるし、人生がどんどん壊れていくというのです。だから恐ろしくて、親は子供を公立学校には送れない、というのです。それでクリスチャンが経営しているミッションスクールとかチャーチスクールに入れるのですが、経済的な都合があったりすると、自分の家でホームスクールをやるしかない、と言うのです。アメリカの公立学校は大変荒れているそうです。
 クリスチャンや、そういう環境を心配している両親たちが、自分の子供達を公立学校から引き上げてしまうならば、そこに残るのはもはや、悪さをする子供達ばかりになってしまいます。それは悪循環です。
 しかしどうしようもないのです。時々学校で銃の乱射事件があったり、なかなか大変な環境があります。日本も、だいたいアメリカから遅れて10年、20年すると、同じような環境になります。

 いつからアメリカはそんなにおかしくなってしまったのでしょうか?もちろん、それには様々な理由があるかと思いますが、ケネディが大統領になるまでは、公立学校も主の祈りを唱えて、礼拝してから授業を始めていたそうです。聖書を読むことも自由で、祈ることも自由だったそうです。
 しかし、ケネディはカトリック信者で、主の祈りや学校での公の祈りを全て禁止し、聖書の言葉を学校から取り去ったのです。「それからやはりおかしくなったと思います。」とその牧師は語っていました。
 アメリカは合衆国ですから、様々な国の人たちが移民して住んでいます。また、様々な文化・習慣・宗教があります。そんな中、宗教的対立もなかなか厳しいのです。それで特にクリスチャンに対して、いろいろ規制があるそうです。学校の中で、他の宗教の人たちは祈っていいのですが、クリスチャンは祈ってはいけない、というのです。「それはどういうことですか?」と聞いたら「いや、わからないけど、それがアメリカです。」と言いました。イエス様の名前で祈ると違法になる、というのです。これは、クリスチャンが多いから、クリスチャンが祈り始めると、他の宗教の人達と対立していろいろ問題が起こるからということで規制があるのでしょうが、学校や国から聖書の土台が取り去られると、問題が起きると思わされました。
私達があくまでも神の御言葉を中心にして生きるならば、人生は安定します。それは歴史が証明しているところです。

 今日こうして、教会に来て、神の御言葉を学び、御言葉に注目していますが、これは大変重要なことです。是非、教会に来た時だけでなく、家に帰ってからも、聖書を開き、よく読んでいただきたいと思います。この頃は、プロジェクターで聖書箇所が出ますので、礼拝に聖書を持ってこなくても済んでしまいますが、やはりマイ・バイブルは必要です。この頃では、アイフォンのような携帯の中に聖書を入れたりできますので、アメリカで集会をやっていると、みんな集会中にアイフォンを見ているのです。私は集会中に「みんな携帯で遊んでいる…」と思ったのですが、よく見たらそうではなく、聖書が入っていて、それで御言葉を読んでいるのです。なんか聖書としての実感がないように思いましたが…。この頃は技術革新で、聖書の形態も変わってきているかもしれませんが、御言葉をしっかりと読む習慣をつけなければなりません。日曜日の朝、積んであった聖書のほこりを「ふ〜」と吹いて、「ぽんっ」とはらって教会にくるクリスチャンのことを「ふ〜ぽん信者」と言う、と聞いたことがありますが、そうではなく、毎日聖書を開いて御言葉に親しんでいく時に、人生は正しい方向に導かれていきます。

 聖書の不思議なところは、聖書自らが私達に語りかけてくる事です。みなさんも聖書を読んでいて、これは歴史的な書物というよりも、自分自身に語りかけてくれた、という経験はないでしょうか?クリスチャンならば、一度や二度はあると思います。聖書を通して、主が語ってくださった、という経験を持っていると思います。まだみなさんの中で、そういう経験がない、という方は、是非、「どうか御言葉を通して、私に語りかけてください。」と祈ってみてください。必ず聖書の御言葉を通して、神が語りかけるという経験をすることができます。
 なぜなら、聖書の言葉は、神の霊と共にあるからです。そもそも、天地創造の時も、暗闇の上を神の霊が覆っていた時、創造が起こりました。同様に神の霊によって集められた聖書の御言葉は、神の霊と共にあり、聖書を通して神の声が聞こえてきます。
 人間は神によって作られたので、神の声をキャッチする受信機が誰にでも備わっています。神は常に私達に、御言葉を通して声をかけてくださっているのかもしれません。しかし私達が聞く耳を持っていないがゆえに、神の言葉を受け取ることができない悲しい現実があるのかもしれません。

 ある商船会社が、外国航路の通信士を募集したそうです。外国航路の通信士というのは、大変いいポジションなので、大勢の人が採用して欲しくて面接につめかけたそうです。しかし、大勢集まったのですが、なかなか面接が始まらなかったそうです。それでみんな退屈して、近くの人達とおしゃべりをして、会場はがやがやしていたそうです。
 そんな騒音の中、ひとりの人がすっと立ち上がって、部屋の中に入って行ったそうです。そして、しばらくしたらその人が、にこにこして部屋から出て来ました。それに連れて、会社の人事担当者も出てきて、「みなさん、今日はごくろうさまでした。これで面接試験を終わります。」と終わってしまったそうです。
 面接に来ていた人たちは「何を言っているんだ、面接はやっていないじゃないか。冗談を言うな。」と怒ったそうです。しかし担当者は、「もう面接は終わりました。採用されたのはこの人です。」と言いました。
 なぜかというと、みなさんはモールス信号をご存知でしょうか?今はあまり使っていないとは思いますが、昔は通信士と言ったらモールス信号でした。その信号が、ざわざわしている会場に流れていたそうです。その信号でひとり一人の名前を呼んでいたというのです。しかし、みんな隣近所の人と世間話をしていたので、モールス信号を聞き逃したのです。しかし一人の男はざわざわしている中でも、モールス信号が流れているのに気づき、自分の名前が呼ばれた時に部屋に入って行きました。それで採用されたのです。外国航路の通信士は、結局、モールス信号をキャッチできなければ、仕事にならないのです。

 案外、私達も同じようなところがあるのではないでしょうか。聖書からはモールス信号では有りませんが、「神様信号」が発信されているのにも関わらず、それをキャッチできないと、人生は滑ってしまうわけです。常に神の御言葉に耳を澄まして歩んでいるならば、人生は砂の上ではなく、岩の上に建てられた家となるのです。

 聖書の御言葉は、私達に語りかける生きた言葉です。
今週、聖書を読みながら、神から発せられる信号を是非ともキャッチしてください。私も今までの人生の中で、「この箇所は私のために記された言葉ではないか」というような印象を持つ言葉に、何度も遭遇しました。その言葉によって励まされ、助けられてきました。
神はどのようにして私達に語りかけるのでしょうか?様々な方法がありますが、やはり御言葉から語りかけられる方法が、中心になければならないのではないかと思います。
第一コリント3章10〜11節、

『与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』

 私達の土台がイエス・キリストならば、岩の上に建った家であり、人生にどんなことがあっても揺るぐことがない、というのが聖書の主張です。土台は「イエス・キリスト以外にはない」とここで告げています。
 実は、私達の人生を見る時に、土台がイエス・キリストになっておらず、まさしく「砂の上」に建てられた家というか、人生が結構あるのではないでしょうか。岩の上にしっかりと人生を建てるためにも、まずは自分達の土台がどんなものなのか、よく知らなければなりません。

 この間、イスラエルのベエル・シェバという所に行きました。そこでユダヤ人達が神と契約を結ぶために使っていた「祭壇」を見ました。


<祭壇の写真>

これが祭壇です。この上に生け贄を捧げ、血を注ぎ出したのです。
レビ記8章15節、

『モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。』

 動物を殺してその血を取り、指で祭壇の周りの角に塗って、残りの血を土台に注いだ、という記述です。写真を見ていただくと、イメージがよくわかります。祭壇には四つの角が出ています。動物を殺して血を、祭壇の角に塗ったようです。そして、残りの血を、祭壇の基礎の部分に注いだというのです。これは、誰かが罪を犯した場合、国が罪を犯した場合、神に罪を赦していただくために行なわれた行為です。罪が赦されるために、かつては動物を殺したりして、生け贄を神の前に捧げ、血を注ぎ出しました。これはやがてイエス・キリストによって完成される、一つのサンプルでありました。このように罪の贖いのために、生け贄を捧げることを要求された時代がありました。その時に使われたのが、今、ご覧いただいたような祭壇でした。その時に必ずなされたのが、「土台に血を流す」ということでした。

 それは何を意味するのかというと、「砂の上の土台から、岩の土台に置き換える」を意味するのだと思います。
 もしも私達の中に罪があると、岩の土台ではなく、人生は砂の土台になってしまいます。しかしイエス様の十字架の血潮によって、土台に十字架の勝利が宣言される時、土台は勝ち取られ、岩の上に置かれます。

 1992年に、教会に聖霊様が激しく訪れてくださいました。あの時のことを今でも忘れることができません。リバイバルは今日から起こると思った程、激しい注ぎでした。しかし聖霊の注ぎというのは、ある意味で、「雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いてその上に打ちつける」のと同じです。
 その時、結果的に何が明らかにされたかと言うと、「教会の土台」が明らかにされたようでした。今までは、「これでいいじゃないか。このままで十分だ。」と思っていたのが、「あなたたちの教会は、岩の上ではなく、砂の上に建っていますよ」と、土台が明らかにされました。
 阪神大震災の時、普段では見えないものが見えるようになってしまいました。それが「土台」でした。「土台」がむき出しにされ、普段では見ることが出来ない、家の一番重要な部分があらわにされました。そして、「こんな土台じゃ、この家は壊れるはずだ。土台を作り直してください。」という結果になったのです。今や、神戸の街はきれいに復興していますが、あれはただ表面的復興だけではなく、土台から復興しているのです。
 大風、大嵐、地震などの災害が来る時に、建物の真価が試されるわけですが、私達の人生も同じではないかと思います。時に人生に大きな風が吹いてきたり、嵐が来たりする時、何が見えるのかと言うと、その人の土台が見えてしまいます。そして、その土台が岩ではなく、砂の土台ならば、倒れてしまいます。けれども、岩ならば決して倒れることはない、というのが聖書の教えです。

 ということは、私達が御言葉に根ざすと共に、私達の土台がなんであるのかについても、しっかりと知らなければならないのです。そしてもしも、岩ではない、他のものが土台ならば、十字架の血潮を注いで、もう一度聖別し、土台を岩の上に置き換えることが必要です。

 1992年に聖霊が注がれ、大きな風が教会に吹きました。その時に明らかにされたのは、「教会の土台に、悪魔が巧みな仕掛けを設けていた」ということでした。教会の基礎はすべて、神の土台だと思っていましたが、いろいろな不純物が混ざっていることがわかりました。主は、「もう一度教会の土台を作り替えなさい。」と命じられました。土台があらわにされてから十数年、私達は、教会の土台を岩の上に置くことを努力してきました。この十数年に、まだまだ、完全じゃないけれども、昔と比べるならば土台を変えてくださったのではないか、と感謝しています。

 特に、「砂の土台」とは、「霊的問題」であることがわかりました。悪しき力が私達の土台を握っているならば、人生は揺り動かされ、倒されてしまいます。けれども岩なるイエス様に置くならば倒されることはありません。
 先週、ある記事に出会いました。それを読んで多くの事を教えられました。

 デンマークの宗教哲学者で「キルケゴール」という人物がいますが、彼の書いた「不安の概念」という本の中で、彼はこんなことを語っています。
「悪魔的なるものとは、自己を閉じこめようと意欲するところの、不自由性である」と。「悪魔的なもの」とは、「自己の中に閉じこめるものであり、沈黙が特徴である」というのです。
 悪霊の働きとは、「確かにそこに何かが存在するが、それが隠されたまま」であり、「それが何か分からない」のです。悪魔、悪霊どもの働きのテーマは「沈黙」です。
 土台が岩なのか、砂なのか、それは沈黙しています。建物が岩の上なのか、砂の上なのか、土台は決して言葉を発しません。しかし、その土台が何かということが明らかにされたら、土台を変えることもできるのです。特に、悪魔的なものは、「沈黙」という言葉で表すことが出来るというのです。

 私達の人生の中でも、それが言えるのではないでしょうか。例えば、人間関係がいつも同じパターンで破壊したり、新興宗教に引っかかり「もう懲りた」と思うのにも関わらず、また違うタイプの新興宗教に引っかかったり、なぜか分からないけど、同じ失敗を繰り返したり、何かに突き動かされて、やってはいけないことに手を出してしまったりする、「何か」があって駆り立てられるのは確かだけれども、その「何か」が隠されたままということが、あるのではないでしょうか。

 実は、悪魔的なものは、何かに突き動かされているけれど、その「何か」が分からない沈黙なのです。悪魔、悪霊どもの束縛を解くには、沈黙としてだけ現れるその「何か」を明るみに出す以外にありません。それは基礎が何であるかを、暴くことです。
 私達の中にも、沈黙しているが何かがあると思います。意味はわからないけれども、なぜか突き動かされる。それが悪魔的な力であり、それこそ、岩の土台ではなく、砂の土台なのです。それに関して、明らかにすることが大切です。

 イエス様が、ゲラサという地方に行かれた時、一人の男に出会いました。彼は、誰ともコミュニケーションが出来ず、墓場に引きこもっていましたが、イエス様の目の前に現れたのです。その時に、イエス様は彼に向かって話したわけではなく、その背後の、「今まで沈黙していた存在」を暴かれました。
 それまでは、男は誰の手にも負えない、どうにもならない男でした。「あの男はどうにもならん。あんな男はこの街には必要ない。」と全住民から拒否されていたような男でした。
 しかし、イエス様が、その「何か」を明らかにされました。それがなんであったかと言うと、マルコ五章を見るとわかります。イエス様が「おまえの名は何か?」と沈黙の存在に対して聞くと、その時、初めて沈黙の存在が言葉を発したのです。「私の名はレギオン。大勢だから。」と。今まで沈黙していた存在が、現れたわけです。

 イエス様はどの時点でこの戦いに勝利されたのでしょうか?それは「私の名はレギオン。私たちは大勢だから。」と、今まで沈黙していた存在が、コミュニケーション対称となった時、勝負があったというのです。
今まで全く沈黙して、その男の土台がなんであるのかわからなかったが、土台が明らかにされた時、その男は変えられ、回復し始めたというのです。

 人生が、何かの力に突き動かされているということは、土台に何かがあるわけです。その土台を暴かなければなりません。
 実に、霊的戦いとは、沈黙の中にしか現れない悪しき力を、目の前にさらす働きだと思います。敵を発見した時点で、岩の上に置くことができ回復できるのではないかと思います。

 日本も、「何か」の力が働いていて、おかしな方向に行っていることは確かです。しかし、その「何か」がわからないのです。けれども、聖書が語っているのは、それは、沈黙の力であり、閉ざされた力である悪魔だと言うことです。それが、明るみに出された時点で勝利が来るのです。

 先週、アメリカのニュージャージーに行き、韓国教会で奉仕をさせていただきましたが、彼らのリクエストは、「ニュージャージーでどのような霊的戦いをしたらいいのか教えてください」とのことでした。私は日本人ですし、そんなのはわからないと思いましたが、ある意味、アメリカの隠された沈黙の中に働く敵の力を発見するのは、東洋人の仕事かもしれない、と思いました。
 なぜなら、アメリカに最初に入ったのが「東洋人」だからです。そして、沈黙の存在を置いたのも、東洋人だったからです。なので、私もいろいろとニュージャージーについて調査研究をし、祈りながら、ジョー先生やドリアさんに頼んだりして、情報収集をして、自分なりの意見をまとめて出かけて行きました。それは本当に良かったです。調べてみて、こういう土台があるのなら、このような問題も起きるのかも知れない、という事柄をいくつか発見しました。
 皆さんにその一端を紹介したいと思います。


<アメリカ地図>
 ニュージャージーはNJと書いてある、大西洋側の小さな州です。


<ニュージャージーの州旗>

これは、ニュージャージーのステート・フラッグ(州旗)です。旗というのは、霊的環境そのものを表していることが多いです。


<集会の様子>

この教会にはまだ会堂がなく、ホテルの一室で集会を行なっているのですが、六月から新しい会堂に移るそうです。毎日、200人以上の方々が来られました。


<とりなし>

いろいろな場所にも、とりなしにも行きました。私の左側にいるのがオー先生という牧師先生で、すごく熱心な方です。


<十戒を記す石碑>

ニュージャージーの州都はトレントンという街にありますが、そこに行くと、「The Ten Commandments」と「十戒」が記されていて、アメリカはいいな〜、と思ったのですが、よく見ると、変な三角形の目が上に付いていました。アメリカはクリスチャンの国のように見えますが、実際は違う土台があるのです。


<アメリカの昔の地図>

実は、アメリカの最初の土台は、アメリカ・インディアンです。インディアンの人達が全土に散らばって生活していました。インディアンの人達は、アジアから渡来してきた人たちなのです。


<アメリカ・インディアン>

これは、アメリカ・インディアンの人達ですが、写真を見るとアジアの人みたいな顔つきです。私達の友達にもいそうな顔をしています。東洋人が最初に、アメリカに入り、沈黙の土台を置いたのです。


<トーテム>

これは、アメリカ・インディアンの偶像であるトーテム・ポールです。今日は時間がありませんが、世界の偶像礼拝、日本の偶像礼拝の一根源は「トーテム」だと思います。最初に入ってきた偶像から、現在の偶像まで、団子状態にして全てを拝む考え方です。


<フリーメーソン>

これは、アメリカの神を表します。このGというのは、聖書の神ではなく、「全ての神々の一番上の神」という意味です。また、Gとはジオメトリー、幾何学を意味し、神としています。


<ニュージャージーのステートシール>

 これは、ニュージャージーのステートシールですが、左側と右側に女性が立っています。これはギリシャ神話の女神です。左側にLibertyと書いてあり、右側がProsperityとありますが、これは「自由」と「繁栄」という意味です。ニュージャージーはニューヨークの自由の女神と関わりがあることがわかります。
 特にニュージャージーは、右側の「Prosperity」と名乗るギリシャ神話の女神と深い繋がりがあります。この神の名前は、前にもお話ししたゲラサでも出てきた「セレス」、またの名を「デメテル」という存在です。ニュージャージーはある意味、デメテルという女神に捧げられた土台を持つ州なのです。
 このデメテルは花束を持っています。それは「けしの花」です。ギリシャ神話の中で、デメテルについて調べるとわかりますが、デメテルは「アヘン」という麻薬を最初に作り出した神であると言われています。
 先ほども、アメリカが麻薬問題で大変だと言いましたが、なぜだかわかるような気がします。アメリカは土台において、デメテルという「麻薬を最初に作り出した女神」、すなわち悪霊に国を牛耳られているからです。そのような砂の土台があるのです。そうすると、現実の世界には、麻薬社会が出現するのです。国の土台に、このような砂の土台があることがわかります。それを明らかにし、今度は「イエス・キリストが土台である」と宣言し、置き換える祈りが必要です。


<Battle of Trenton>

トレントンでは、アメリカの独立を左右するような、一つの大きな戦いがありました。ニュージャージーは小さな州ですが、独立戦争で最多の、「296回」戦いがあり、血が流された場所でした。トレントンでの勝利が、独立に向かって大きな貢献をしたのです。イギリスに押されていた戦いが、勝利へと転換していきました。その時に戦ったのが、ジョージ・ワシントンでした。天下分け目の戦いがあったのです。ちょうど、設楽が原と同じような場所であることも分かりました。


<アッペンゼラーとアンダーウッド>

アッペンゼラーとアンダーウッドという人物は、1885年、韓国に最初に入った宣教師たちです。
 実は、去年の11月、この教会に行き、次の月に韓国のコチャンという場所に導かれました。主が人手によらず、導いてくださいました。そこで、今までの日本の土台に隠れていた、それも天皇制の中に沈黙していた敵の存在を明らかにしてくださいました。
 先週は新城から、雅也先生を始めとするとりなしチームがコチャンに遣わされ、韓国チームと一緒に「隠された土台」を祈るように導かれました。

 私はニュージャージーから、なぜ、そのような領域に開かれたのかな、と思っていて、私にとってそれは謎でした。何か、ニュージャージーと韓国に繋がりがあるのだろうと感じながら祈っていました。

 私はニュージャージーで、毎朝、四時くらいに起きて主の前に祈っていました。べつにがんばって起きたのではなく、時差で早く目覚めてしまっただけですが。
 この二人の宣教師はどこから韓国へ渡ったのかな、と思って調べたら、不思議な事に、二人ともニュージャージーの神学校を出て、そこから遣わされたことが分かりました。二人とも背景が違うので、そんなことはありえないと思いました。
 調べてみると、やはりアンダーウッドは、生まれがロンドンとなっていたので、ニュージャージーなんて関係ないだろう、と思ったのですが、二人は、生まれも育ちも別の場所で、教団も違うのにも関わらず、二人ともニュージャージーで献身し、ニュージャージーの神学校を出て、韓国に遣わされたのです。その事実を見て、本当にびっくりしました。

 この二人がいなかったら、韓国の宣教の門は開かれなかったのです。韓国にとって、ニュージャージーは、ひとつの隠された土台であることが分かりました。私はそれを発見し、たいへん興奮しました。このようなことを教えられるのは、聖霊によるしかない、と思い感謝しました。
 そのように、私達の中に、沈黙している砂の土台があるのですが、私達は十字架の血潮を注ぎ、今度は岩の上に置き換えるのです。その祈りがどうしても必要です。

 私は現在、新城についていろいろ調べています。まだまだ発見されていない、沈黙の土台があるのではないかと、強く感じています。
 今年は、「東北リバイバルミッション」があります。私は、東北ミッションのために何を祈ったらいいのか、わかりませんでした。東北は韓国に行くよりも遠いし、つかみどころもなく、それでも東北に導かれたのは、なんらかの意味があると思って祈っていました。

 実は、東北には、ある特徴的な偶像があります。それは「アラハバキ」という縄文人が日本に最初に持ってきた偶像です。縄文人は日本に最初に入って来た人々ですが、彼らは「アラハバキ」という偶像を携えて、入ってきたと言われます。その存在を祀る神社や偶像が、東北には多くあると言うのです。

 これは、「遮光式土器」と呼ばれ、東北で出土した土偶です。これがオリジナルの「アラハバキ」だと言われています。そしてそのルーツを調べてみると、なんと、アラビア半島にあるというのです。「アラハバキ」とは「アラ・バキ」と言い、民俗学的にも、言語学的にもアラビア半島から持ち込まれた偶像であることが、証明されています。それはバベルの塔から散らされた人々が持ち込んだ偶像です。
 この「アラハバキ」が東北のテーマだということが分かって、いろいろと調べていて突き当たったのが、何と、この三河地方です。それも「新城」です。この街は「アラハバキ」という、日本に最初に持ち込まれた偶像を土台として、出来た街だということを発見し、びっくりしました。「新城」は、「アラキ」とも読むことができます。このように「アラ」がつく地名は、「アラハバキ」と関連があると言われます。新城市は、この狭い中に「アラハバキ」がいくつも祀られています。こんな場所は全国で新城だけです。私はそんなことには、全く気づいていなかったのですが、東北ミッションに対する祈りと共に、「土台をイエスの御名によって、アラハバキから取り返しなさい!」と語られているように思いました。「アラハバキ」は、東三河に最初に置かれた、沈黙の土台なのです。

 私達はこのような土台を、イエス・キリストの土台に置き換える必要があるのです。そして、「祭壇の土台に血をふりかけなさい」と旧約時代に主が語られたのは、今の時代においては「イエス・キリストの十字架の勝利を、街の土台に宣言しなさい」ということを意味します。
 私達の土台を岩の上、イエス・キリストの上におくならば、決して間違いはありません。聖書には、「御霊の与える剣である、神の言葉を受け取りなさい」と勧めていますが、神の言葉を受け取って、沈黙の中に現われている敵の力をあらわにし、土台を取り返し、岩の上に置くときに、人生は決して揺るぐことがありません。

 人生の中に、沈黙する何かがあったとしても、聖霊によってあらわにしていただくなら、勝利します。
特に、霊的戦いは、沈黙していた敵をコミュニケーション対象にするのです。今までコミュニケーション対象となっていなかった敵と相対して、打ち破る働きです。イエス様の働きはまさにその働きでした。私達もそのような働きをさせていただきたいと願っています。

 最後に聖餐式に預かりたいと思いますが、イエス様の十字架の血潮を今日は私達の土台に注いでいただきましょう。新城がバビロンから持ち込まれた偶像を土台にして出来ている街だとしたら、土台を勝ち取らせていただきましょう。
 砂の土台を発見させてくださいと祈りましょう。今日は、土台を明らかにさせていただいて、主の前に出て行きたいと願っています。

 一言、お祈りさせていただきます。

ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝致します。私達は岩の上に家を建てたいと願っています。主よ、私の人生を岩の上においてください。その岩はイエス様、あなたご自身であることを心から感謝致します。人生の基礎はイエス様、あなた以外にないことを今、宣言します。もしも私達の土台に、沈黙している何かがあるならば、今日は明らかにしてください。土台に、十字架の血潮を注ぎますから、それらが全てはっきりと分かりますように。敵の力が分かりますように。この新城に、最初に持ち込まれた悪しき土台が打ち砕かれますように。イエス様、あなたご自身を岩として、人生を、国を、立ち上げることができますように。今からの聖餐式、私達の土台に、十字架の血潮が注がれますように。イエス様の御名を通して、勝利を宣言し、祈りをお捧げします。アーメン。


[バックナンバー]