「聖められることを追い求めよう」


2010.5.2(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

ヘブル人への手紙 12章14節
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日はゴールデンウィークのただ中で、礼拝できることを心から感謝いたします。

今も、聖歌隊の賛美を聞きましたが、「神ともにいるならばすべて安し」と歌われました。ある方は「大安売りの歌かな」と思ったかもしれませんが、全てが平安です、という意味です。イエス・キリストが私たちと共におられるならば、全て平安に導かれます。

 今日は午後から24時間PPHと言いまして、24時間、主を賛美する集会が持たれます。是非とも、ご参加ください。そのために、いろいろな教会から兄弟姉妹が集まり、一緒に賛美することになっています。その中では楽しいイベントもありまして、今日の夜は、なんと、「まぐろの解体ショー」があります。まぐろを一匹解体して見せてくれるそうです。その解体屋さんが誰かと言うと、岡本信弘先生です。彼はいろんな事ができます。プレイズ出版の社長であり、牧師、そして、まぐろまで解体します。どれも「完璧」です。おいしい物も食べることができますので、是非とも、24時間PPHにお越し下さい。

 神様の顔が見えたら嬉しいと思いませんか?私たちの目の前に神の姿が見えたらどんなにか安心で、嬉しいでしょうか?朝、太陽が昇ってくるように、神さまが東の空から上ってきたら、「あそこに神がおられる!」と分かったら、本当に心強いです。
 私も見たいと思います。そこで今日は、神を見る秘訣についてお話ししたいと思います。
 その秘訣が、先ほど読んだ箇所に記されていました。ヘブル人への手12章14節、

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

 ここに、神を見る秘訣があります。
まず第一に、「すべての人との平和を追い求めなさい」とあります。お互いに平和であるのは大事なことです。あの人が嫌いだとか、この人が嫌だとか言うと、神様が見えなくなります。
 それと、「聖くなることを心がけなさい」と勧められています。人は、完全に聖くなることは出来ないと思いますが、「聖さを追い求めて行く」姿勢があったら、神を見ることができるのです。イエス様もこのことについて語られました。
マタイの福音書5章8節、

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

「心のきよい人には神が見える」のです。みなさん、神を知り、見るためには、やはり「心聖く」ならなければなりません。
 しかし何をして「心が聖い」と定義づけることができるのでしょうか?それはなかなか難しいと思います。しかしその秘訣が、ヘブル人への手紙に記されているように、「聖められる」ことを「追い求める」ことにより、神を見ることができるというのです。

 ですから、今日よりも明日、明日よりも明後日、明後日よりも明明後日、さらに聖くなりたい、という気持ちがあったら、神が見えるようになる、というのが聖書の教えです。
 救われる時には恵みによって救われます。気がついたら、救われています。溺れた人が救われるのは、他者の力によって引き上げられるのです。

 私も溺れて助けられた経験があります。いつも話しますが、小学校二年生の時に、桜淵の加藤ボート屋の前でおぼれかけたのです。泳げると思ってたら泳げなかったのです。畳の上では十分練習したはずですが、なんと現場に行ったら足を取られて、水を飲んで二杯、三杯、そしておぼれました。一杯目の水はおいしかったですが、二杯、三杯になったら苦しくなって、最後にはどうにもなりませんでした。今でも、水面がギラギラしている光景が脳裏に焼き付いています。これをPTSDというのでしょうか?頭の中に残像が残っています。
 しかし、私には奇跡が起こりました。背中が熱くなって、沈んでいく体がいきなり浮いて、水面に出ました。「奇跡だ!」と思ったら、奇跡でもなんでもありませんでした。私を泳ぎに連れて行ってくれた背の大きなお姉さんが、「あんた、何やっとるだん」と言って私を引き上げてくれたのです。それで助かってここにいるのです。
 救われるとは一方的なものです。

 けれども一度救われたら自分で生きていく努力が必要です。クリスチャンも同様です。「えっ、努力がいるの?」と言われるかもしれませんが、この努力は「愛を基本にした努力」です。例えば、誰かと婚約したら「相手に好かれたい」一心で、一生懸命努力するではないでしょうか。
 先週私は、おもしろい話を聞きました。私の家内から聞いたんですが、私の娘は結婚式を前にして美顔エステに行っていたという事でした。私は知りませんでしたが、やはり、主人となる人にもっと好かれたい気持ちがあったのではないでしょうか。今はエステどころか「ヨシテ」という感じですけれども・・。子供を生んで少し太りましたから。
 やはり、愛の原動力があると努力はいとわないわけです。私たちも同じです。神様は聖いお方なので、私たちも少しでも聖くなって、愛する主に近づきたいのです。その結果、かすんでいる神がはっきりと見えるようになる、というのです。

 私は生まれて気がついたらこの教会の牧師の息子でした。私が生まれた頃、私の父は伝道者をやっておりまして、それは古きよき時代でした。あの当時は、日本の教会もウィークデーに結構伝道集会をやっていました。それで父親はウィークデーにいろいろな教会から招かれて、伝道メッセージを語っていました。その頃、日本の教会で中心的に活躍していたのは、日本人牧師というよりも、外国人宣教師でした。この辺には、スウェーデンやアメリカからの宣教師が多くおられました。今から50年以上前のことです。
 1ドルが360円の頃ですから、宣教師達は相当豊かな生活をしていました。父親は宣教師宅で、結構おいしいものなんかを食べたそうです。彼は月曜日に家を出て、金曜日に帰ってきて、土曜日にはクリスチャンホームの子供達を集め、「子供祈祷会」をやっていました。今もその祈祷会は「ホサナクラブ」として残っています。
 食料難の50何年前の話ですので、今とは話が違います。「肉を食った」「魚を食った」と、いろんなうらやましい話を聞きました。当時、我が家ではうどん以外食べませんでした。ですので、この世の中にうどん以外ないのか、と思っていました。時々母親は、カレーライスを作りました。カレーの中には鳥肝を入れていました。今でも覚えていますが、私はいつも近くの肉屋に、皮肝を30円分買いに行く係でした。
 ですからどこでもカレーライスには鳥の皮が入っていると思っていました。しかし、岡本さんの家に行ったら、魚肉ソーセージが入っていました。カレーライスほど文化の違うものはありません。

 しかし、カレーライスに牛肉が入っていた、なんて父が私たちに話すのです。私たちは「すげ〜」とそれを聞いて感動しました。そんな話をして、父が最後に何を聞いたかと言うと、「おまえら、大きくなったら何になるんだ?」という質問でした。それは洗脳みたいなものです。
 私たちはなんと答えたと思いますか?もちろん、「おじさんと同じように、伝道者!」と全員答えました。
 しかし、一人勇気のある男がいました。「僕はトラックの運転手!」と言い、みんなから迫害されました。彼の名前はI・Y君ですが…。しかし、彼も最終的には献身しましたので、やはり洗脳されていたと思います。そんな中で私も牧師になりたいと思いました。それでみんな、主のために働くようになりました。それは古き良き思い出です。

 子ども祈祷会の中で、小さい頃から、「聖さを追い求める」ことを、いつも教えられたことは、すごく感謝でした。聖くならなければ、神を見ることが出来ないと、いつも語られていたので、「聖くならなくちゃいけない」といつも思って生活しました。
 そこで必ず歌わされた歌があります。その歌はどんな歌かと言うと、「日曜学校の約束」という歌でした。みなさんご存じですか?みなさんの中で、日曜学校の約束という歌を知っている人はどのくらいいますか?あっ、結構いますね。でも、そんなには多くはないですね。これは鉄道唱歌の替え歌で、なかなか歌詞を見ると、すごい歌です。今から歌ってみたいと思いますが、私が歌おうかとも思いましたが、私よりもこの手の歌がかなりうまい人物がいまして、それは、上條実先生です。新城教会のゴスペル演歌歌手です。この春の季節にぴったりの上條実の歌う、日曜学校の約束をお楽しみ下さい。彼が歌詞を間違えないように、私は歌詞カードまで用意しました。
 よく歌詞を聴いてください。私たちはこの歌を歌いながら育ちました。では、ゴスペル演歌歌手、上條実を盛大な拍手でお迎えくださいませ。伴奏は僕がやってあげましょう。あれっ、ピックがないので、やはり開先生にやってもらいましょう。

♪日曜学校の約束は、
朝・夕神に祈りをし、
父と母とに従って、
たばこも吸わず、酒飲まず、
ダンス、映画に遠ざかり、
人を愛して喧嘩せず、
盗み賭け事戒めて、
いつも、まことを口にする。
これを守って世の中の、
子供と違う業をなせ、
良い事するはイエスさまの、
喜びなさる、み業です。アーメン!♪

 これは子供たちのための歌です。しかしよく考えてみれば、たばこや酒を飲む子供や、ダンスや映画に興じている子供たちは普通考えられません…。そんな事をする子供は超不良です。こんな歌を歌いながら、「たばこを吸っちゃいかんなぁ」「酒を飲んじゃいかんなぁ」「悪い遊びをしちゃいかんなぁ」と、知らない内に小さいながら心の中に形づくられて、今日を迎えているのです。小さな頃に受ける影響と良い教育は重要です。
 今日も子供たちが居ますが、いつも礼拝中に私の似顔絵などを描いたりしていますが、それでもちゃんと聞いているのです。この子供たちが、良い教育を受けたら、勇士となるわけです。そんな中、聖さを求めることが大変重要です。

 日曜学校の約束にもありましたが、「たばこも吸わず酒も飲まず」と歌われていたように、昔のクリスチャンたちには気骨がありました。クリスチャンとは、たばこも吸わない、酒も飲まない人種という評判が社会にありました。でも、この頃はどうでしょうか?それも最近は薄れているような気がします。悲しいことです。昔はクリスチャンの堅さが川柳となっていました。
 「酒飲むな。たばこ吸うなと耶蘇教はアーメンどくさい宗旨なり」と川柳に歌われたほどです。しかし、今はそれも薄れてしまった現状があることは本当に悲しいです。

 近頃は、たばこは健康に悪いというのがはっきりとわかってきて、禁煙が一般化しました。昔は飯田線に乗ったら、車両中煙だらけでしたが、今は全て禁煙です。新幹線もほとんど禁煙です。横浜なんか、レストランも全て禁煙になったそうです。やはり悪いものは悪いということで、はっきりしなければならないのです。
 酒もどうですか?この頃飲酒運転も厳しく取り締まられます。もしも飲酒運転をやったら、一人100万円程の罰金です。同乗者全員も払わないといけないのです。5人乗っていたら、500万円です。
 たばこや酒など、なぜテレビコマーシャルがあるのか不思議に思います。小さい頃から、「これはクリスチャンとして、ふさわしくない」と分かったら、大きくなっても守られます。みなさんも「クリスチャンはたばこを吸わない!酒を飲まない!」とはっきりと決めておいたほうがいいです。「一杯くらいいいじゃないの」というところで、神様がかすんで見えなくなります。

 この間、私はすごく恵まれる証を聞きました。実は、今日ギターを弾いていたS君は上條先生の息子です。彼は今、なかなかの売れっ子です。彼はギターで飯を食っています。EXILEとかゴスペラーズのバックで弾いています。すごいものです。アメリカで修行をしてきて、彼は今メジャーな音楽業界で結構有名です。
 私は、芸能界には変なやつがたくさんいるので、薬か何かにはまらないといいけど、彼は大丈夫かなと心配して祈っていました。しかし、彼はしっかりしているのです。
 私はこの間、彼と一緒にとりなしに行きました。その時に彼が話してくれましたが、先日ゴスペラーズのコンサートでギターを弾いたそうです。コンサートには何千人も来ていて、最後は盛り上がってメンバーがステージにワインを持ってきて、「みんな飲め」とバンドも全員集めて、聴衆の前で回し飲みをし始めたそうです。それで、彼のところに杯が回ってきたそうです。その時に、彼はクリスチャンなので、「飲まない」とはっきり言いたかったそうですが、この時に言ったらコンサートの雰囲気が絶対に壊れると思って「仕事を失うかもしれない」と彼は心配したそうです。
 「イエス様、どうしたらいいでしょうか。」と祈っていたそうです。メンバーが「マネだけしろ!飲むマネだけしろ!」と言ったそうです。彼らは彼がクリスチャンで飲まないということを知っていたので、そう言ったそうです。彼も飲んだマネして、回そうかと思ったそうです。でも、彼は「もしもこの会衆の中で、自分のようなクリスチャンがいて、あいつは牧師の息子なのに、なんだ一緒に酒を飲んで…」と思われたら、つまづかせるから、多少、仕事を失ってもいいからはっきりと、「俺はクリスチャンだから飲まない」と、勇気を出して言ったというのです。彼にしちゃ、上出来じゃないですか。何千人もいる中で、クリスチャンだから飲みません、とはっきり言ったそうです。
 そうしたら、ゴスペラーズの人たちが「こいつが本物のゴスペラーだ」と言ってくれたそうです。私は彼を見直しました。

 私たちはクリスチャンとして、社会ではっきりとした態度を貫く必要があります。それは大変重要なことです。常に私たちは、イエス様から見られている、愛してくださっている方から見られている、ということを意識する必要があります。イエス様に喜ばれる生活を、心がけなければなりません。そして、今日よりも明日、明日よりも明後日、明明後日と、聖くなる努力をするとき、神を見ることができるのです。目のかすみが取れて、はっきりと神が見えるようになります。心意気が大変重要であることを教えています。
ヘブル人への手紙12章15〜17節、

そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

 私たちは、常に自分自身を監督して、誰も神の恵みから落ちないように、と薦められています。「あなたがたは良く監督して」とありますが、良い事と悪い事をはっきりと告げるのが教会の役割です。幸せになるための条件を告げるところが教会です。それは同時に、不幸せになる条件についても、少しは耳が痛くても、話さなければいけないのが教会です。

 ここにも記されていましたが、「苦い根が芽を出して悩ませたり」とあります。「苦い根が芽を出す」というのです。私も時々、家の庭の草を取ったりしますが、ちゃんと取ったな、と思うんですが、しばらくすると取ったはずの草が出てきます。なぜかと言うと、根が残っているからです。根をしっかり取らないといけないというのです。
 この間も草取りの講習を受けたんですが、芝生に生えてくる雑草とは、根が横に這っているらしく、変にむしり取ると、ぶちぶち切れて、もっとたくさん出るというのです。だから、元から取らないと駄目だと言うのです。元から根をえぐり出しておかないといけないということを教えられました。
 私たちにも苦い根が出てくる素質が十分あります。その根本を十分に抜き去ることが大事です。

 エサウという男は、一杯の食物と引き替えに、自分の長男の特権を売ってしまったというのです。「腹が減った」と言って「それならばあなたが持っている長男の相続権をこっちによこせ」と弟のヤコブに言われ、「いいよ」と渡してしまったのです。後から「返してくれ」と言っても、どうにもならなかったのです。
 案外、一瞬のことが永遠を左右することもあるのです。人生にはいろいろな危険が転がっていると思いますが、一杯の食物が人生を完全に駄目にしてしまう要素もあるので、注意が必要です。
 特にそれが、「不品行」です。今は性的罪が氾濫している時代です。クリスチャンは絶対にそのような罪に負けてはいけません。すべてとは言いませんが、一回の行為が永遠を左右してしまう危険性がありますよ、気をつけてください、と言うのです。

 今、どこに行っても、「これが罪ですよ」と告げてくれる場所がありません。政府も言わないし、学校でも言わないし、家庭でも罪だとは言いません。「これは悪いな・・・」と思っても、それを声にして言えないのです。マスコミは罪を助長する情報ばかりを流しています。
 でも、聖書は「不品行」、「性的な罪」が、一杯の食物になり得る、人生を完全に変えてしまい、長男としての特権、すなわち、神から受け継ぐ最も大切なものを失ってしまう危険性があると告げています。私たちは危険な時代に住んでいます。そのような罪に対して立ち向かい、聖さを追い求めていくことが必要です。

 旧約聖書は、やがて新約の時代になってイエス・キリストによって与えられる「救い」をあらかじめ表しています。救いを最も大きなスケールで描いているのは、やはりエジプトからイスラエルが脱出した「出エジプト」だと思います。パロに苦しめられていたイスラエルの民が、モーセによって引き出されたのです。モーセとはイエス様を表します。そしてカナンの地に入ります。
 カナンの地に入る直前に、一つの大きな街が立ちはだかっていました。それがエリコという街です。英語で言うと「ジェリコ」です。その街は偶像礼拝と罪が満ちていて、強い民が支配していました。その街を突破しない限り、カナンの地に入ることができませんでした。

 ある意味で、この出来事は、私たちが強いクリスチャンになるための条件かもしれません。エリコの街に入っていく前に、「ヨルダン川」を渡るとは、「バプテスマ」だと思います。今日も二人の方がバプテスマを受けられますが、バプテスマを受けても、その後立ちはだかるのは、エリコの街かも知れません。これは旧約の時代のことなので、すべての領域に適用できる訳ではありませんが、関連があると思います。
 その時神は「すべてを聖絶しなさい」と言われました。「聖絶」とは、人も獣も何もかも悪しき影響のあるものは、全て破壊し殺してしまえ、捨ててしまえ、という厳しい命令でした。
 なぜ神様はそんな厳しいことを命じられたのでしょうか。これは旧約時代のことですので、私たちは新約眼鏡をかけて理解しないといけません。それは、内側にある神に喜ばれない要素を、全て取り去ることが大事であることを教えています。

 新城教会でバプテスマを受けた人を全部集めたら、相当数になると思います。でも、日本のクリスチャンというのは、一人のクリスチャン寿命が短いと言われています。ある人の計算によると、一人のクリスチャン寿命は2年と数ヶ月だそうです。だいたい3年くらいで教会から離れてしまうというのです。ですから、日本の教会は本当に大変です。日本で昨年、どのくらいバプテスマを受けたかと言いますと、日本に8000教会ありますが、トータルで4000人しか受けていません。ということは、一教会あたり0.5人です。それは3分の2以上の教会が、誰も洗礼を受けない、救われないということです。そして、どんどん人数が減っています。なぜなら、一度クリスチャンになっても、途中で引き戻されるからです。なぜだろうか、と私も長い間思っていました。

 しかしヨルダン川を渡る前・後に、一つの戦いをしなければいけない、エリコの戦いをしなければいけないことを教えられました。それから、ひとりひとりの霊的解放の祈りをするようになりました。バプテスマ・クラスの中で、全ての偶像礼拝や、憎しみ、また、性的罪など、全てを悔い改めて、それらの繋がりと契約解除を祈るようになりました。それから教会が変わりました。みなさん喜んで教会に来られるようになりました。
 「聖絶」というのは、旧約聖書では血なまぐさいイメージですが、それは、私たちの中から、神に喜ばれない、神を見えなくする要素を全て取り去ることを意味していると思います。

 エリコの街を攻める時に、神はヨシュアにそのように命令され、ヨシュアはそれを実行しました。しかし兵士の中で、一人、その命令を聞いてはいたけど、実行しなかった人がいました。ヨシュア記7章1〜4節、

しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。2、3000人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」そこで、民のうち、およそ3000人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。

 実は、アカンという人が掟を破ったのです。「アカン」という人が何をしたのでしょうか。「あかんこと」をしたのです。神が全部捨てろと言われたにも関わらず、ちょっぴり隠していました。そうしたら、何が起こったのでしょう。
 エリコの戦いは普通ならば勝てない厳しい戦いでした。しかし神の戦略を頂いて、7周街を回り、最後の日に7周回り、全部で13周街のまわりを回ったら、ひとりでに壁が崩れて戦いに勝つことができました。しかしアカンのこと、みんなは知らなかったんです。

 続いて「アイ」という街での戦いがありました。「アイ」という街は小さな街で、こんな街は全ての軍隊を向けることはない、3000人くらい向けたら勝てる、楽勝だと思っていた戦いでした。しかし、何が起こったかと言うと、その楽勝だと思っていた戦いに負けてしまいました。そして、イスラエルの人たちの心は萎えてしまい、水のようになってしまいました。
 ヨシュア記7章5節、

アイの人々は、彼らの中の約36人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。

 時々、私たちも心がしなえ、水のようになってしまう時があります。私たちの中に、神に喜ばれないところがあったりすると、ちょっとした戦いに勝つことができない、ということを教えているのかも知れません。もちろん、このことを100%、私たちの人生に当てはめることは出来ないとは思いますが。新約時代はイエス様の十字架の血潮によって、罪は聖められる時代ですが、そんな中にあっても、常に聖さを追い求めて行くスタンスがないと、戦いに勝利できないことを教えているのだと思います。
 私たちは、イエス様の十字架の血潮があるので、罪があったらきちんと悔い改め、聖い歩みをするならば、日々の戦いに勝つことができます。

 案外、私たちは、大きな戦いは真剣に戦うのですが、小さな戦いはちょっと馬鹿にするような事があります。「こんなの大丈夫だよ。神様に頼らなくても。」というようなところがあるかもしれません。しかし案外、大きな戦いのように見えるものよりも、目の前の小さな戦いのほうが戦いは激しく、危険なのかもしれません。その戦いに勝利するには、日々、主を仰ぎ、聖さを追い求めていく姿勢が大切であることがわかります。

 旧約聖書の概念は新約聖書に確実に引き継がれています。いろいろな箇所でそれを見ることができます。使徒の働き19章を見ると、パウロがエペソの街に行き、大きな神の御業を体験したことが記されています。
 使徒の働き 19章11節〜17節、

神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。

 エペソでのパウロは本当にパワフルでした。彼が持っていたハンカチや前掛けを人に渡すだけで、人々がいやされたり、悪霊が出て行くようなことが起こったのです。すごいと思います。
 私もそんな風になりたいもんだな、と思います。先週私は教会にいましたので、解放の祈りの時間を多くとらせて頂きました。そんなとき、「これは俺のハンカチだ。持って行ってその人に渡してくれ。」と言うだけで、悪霊は出て行き、病が癒されたらどんなに楽か、と思うのですが。実際、エペソでは、そんなことが起こったのです。
 それを見ていたユダヤ人の魔除け祈祷師たちがいました。そしてマネをしたと言うのです。「パウロが宣べ伝えている、あのイエスの名によって悪霊よ出て行け」と言ってみたら、出て行くどころか、ひどい目にあったようです。

 悪霊につかれた者に飛びかかられて、押さえつけられ、打ち負かされ、裸にされ、傷を負って逃げ出すような、散々な目にあったのです。
 この箇所から、いろいろな事を教えられます。魔除け祈祷師達は、自分の罪に関しては全く無頓着だったのです。そもそも魔術をやりながら、イエス様の名前を使うことは出来ません。イエス様の名前を、呪文のように使うことはできないのです。
 パウロには、聖さがあった故に、戦うことが出来たのです。私たちも霊的戦いに勝利するためには、聖さが必要であることがわかります。

 その光景を見た人々は、「自分もこのままじゃいかん」と感じたのです。その光景を見たユダヤ人、ギリシャ人たちが何をしたかが記されています。
 使徒の働き 19章18節〜20節、

そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨5万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

 ここに、エペソの街にリバイバルが拡がって行った重要な要素が隠されています。それは何かと言うと、クリスチャンたち、すなわち、既に主を信じていた人たちが、悔い改め、聖められる必要があると言うことです。
 魔術師たちに起こったことを見て、「自分たちもこのままではまずい」と言って、今まで隠していた罪を悔い改めたのです。彼らはクリスチャンだと言いながら、家の中に悪い物を隠し持っていたのです。彼らは偶像や魔術の本を持ってきて、全て焼き払いました。
 ここで聖めが起こりました。その結果、「主の言葉は驚くほど拡がり、ますます力強くなって行った」と記されています。これは、皆が主を見ることができるようになったことを意味します。

 私たちもこの原則を忘れてはいけないのです。私たちも隠された罪があったり、神に喜ばれないものがあると、神の業はなかなか起きません。しかし隠された罪が明らかにされ、聖められると、神の言葉は驚くほど拡がり、ますます力が強くなると言うのです。
 もしも隠しているものがあるのならば、神の前に出して、赦していただき、聖めていただくことは、神を知るためにも、神の力を体験する為にも、自分の幸せのためにも、大変重要です。

 1992年に、教会に聖霊が強く訪れた時に、いろいろな事が起こりました。特に子供たちの中に、いろいろな事が起こりました。その頃、いろんなテレビゲームが流行っていて、魔術とか呪文を使って扉を開けて次の場所に入って行くようなゲームがたくさんありました。また、彼らが読んでいる漫画も、「これって大丈夫かな」「なんか魔術的だな」というような漫画があり、そのことを子供たちに言っても、「みんなやってる。これは楽しいんだから。」とやめませんでした。
 しかし、聖霊様が訪れた時、子供達に主が直接語られました。ゲームをやっている最中に神の声が聞こえ、「そのゲームやめろ、そのゲームの後ろに悪霊が働いている」と声を聞いて、子供たちがゲームソフトや、読んでいた漫画で主に喜ばれない危険なものを、自ら教会に持ってきて捨てました。

 そうしたら、何が起こったのかと言うと、子供たちの霊の目が開かれ、イエス様を見るようになったり、天使たちを見るようになったり、悪霊を見て、やっつけるようになったりと、彼らは変えられました。あれは預言的なことだったと思います。それは子供たちだけに適応されるのではなく、大人も同じです。
 1992年に聖霊が注がれた時、皆、心さされて神の前に聖めが起こりました。そして、驚くほど、霊的戦いが進んで行きました。あの時のことを思い出せば、やはり「聖さ」が、神の働きを進めるための重要な要素であったことがわかります。

 現代の子供たちの領域は本当に危険です。いろんな漫画を見てみても、漫画を描いているのは子供ではなくみな大人で、悪い場面が多くあります。子供たちの漫画に、なんでこんなにいやらしいことを描くのか、と思うようなものや、魔術的なものもたくさんあります。それを「おもしろい、おもしろい」と子供たちが読んでいれば、悪魔に首を捕まえられ、将来、悪い方向に連れて行かれます。しかし、聖霊様の声を聞いて、「悪いものは捨て去る」なら、連れて行かれることはありません。

 エペソの人たちもそうでした。魔術を行っていた人たちが、その書物を抱えてきて、みんなの前で焼き捨てたというのです。魔術の本を焼き捨る行為が、どのような文脈の中で記されているのかと言うと、「パウロが持っていたハンカチや前掛けを渡しただけで癒された」という奇跡の文脈で語られています。これは何を意味しているのでしょうか。
 パウロが持っていたハンカチや前掛けに、何か魔力のようなエネルギーが働いていたのではないのです。そこには祈りが置かれていたのです。

 日本人の考え方は、「ハンカチからオーラが出ている」とか、「エネルギーが注入された」いうイメージを持ちますが、それは間違いです。パウロは「この人が、このハンカチを受け取ることによって、祈りを受け取ることになりますように」と祈ったはずです。「ハンカチは祈りの象徴」でした。それを受け取ることは祈りの実現を現していたのです。その結果、癒され、解放されたのです。

 その後魔術の本やいろいろなものを燃やしたことは、何を意味するのでしょうか。
 日本人の家には、いろんな札や守りというものが多くあります。町内会で神明社や秋葉の札が来たりします。あれには、悪しき祈りが置かれています。ちょうど、パウロが祈ったハンカチを受け取った時に、その祈りが実現したのと同じように、町内会で回ってくる神社の札やちょっとしたが、悪しき祈祷を受けることになるのです。それで、悪しき力が働くのです。
 エペソでも同じようなことがあったと思います。しかし人々はそれに気づかされ、それらをすべて焼き捨てました。

 ちっちゃな守り札や町内会で回ってくる神社の札を馬鹿にしないでください。あれは、悪しき祈りを受け取ることですから、そんな祈りを受け取ってはいけません。仮に受け取ったとしても、しっかりと断ち切って、それらを捨てなければいけません。それが自分のものなら決断して、焼き捨てることが大切です。それは聖められる為に、大変重要な要素だと思います。

 日本には危ない領域が多くあると思います。日本はちょっとした偶像や札、守り、ニューエイジ的ペンダント、また祈祷が置かれているパワーストーン、指輪などが氾濫しています。ああいうものには、魔術的な祈りが置かれています。それらを受け取ると、結局、神様が見えなくなって、人生の方向が悪魔の思うつぼにされてしまうのです。ですから、私たちが、そのような事柄に関して、鋭い目を持ち、聖められることを追い求めていくことが大切です。
 それは律法的にではなく、自分を守るために、また家族を守るためにも、大変重要だということを理解していただきたいと思います。

 先週は「土台を勝ち取る」という事をお話させていただきました。
レビ記8章14節〜15節、

ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。

 先週、祭壇がどういうものか映像でお見せしました。四つの角がありましたが、その角に血を塗ったのは、「祭壇を聖めた」とあります。「祭壇」とは新約的概念を置くならば、私たち自身です。自分自身を聖め、悪いものは悔い改めて、十字架の血潮によって消し去っていただくことが重要です。

 そして、もう一つ必要なのは、「土台に血を注いだ」というのです。「私たち」という祭壇が置かれている「土台」に関しても、「聖め」の条件を適応する必要があると、前回お話させていただきました。
 土台に血を注ぎ出すというのは、大変重要なテーマです。イエス・キリスト以外の土台は罪の土台です。罪と共にある悪魔的土台は、常にテーマが「沈黙」だと話しました。
 それらはいつも沈黙していて、姿を現さないけれども、その沈黙の存在が明らかにされたら勝利する、と先週お話ししました。

 何者かに自分は悪い方向へと突き動かされているけれども、その何かがわからない、沈黙している何かがある・・・。
 そのようなことは、人生にたくさんあります。我が家は、みんな喧嘩して関係が悪くなる。私の人生はどこに行っても、関係が壊れる、この会社、あの会社、同じような問題が起きる、何かがあるのだけど・・・。しかしその何かがわからない、沈黙しているのです。

 その沈黙は何かと言うと、それが悪魔的力であり、沈黙の存在が明らかにされる時、勝利するとお話させていただきました。
 聖霊の働きは沈黙の存在、今までコミュニケーション出来なかった存在をあばき、相対し、打ち破る働きです。霊的戦いは、実にその領域だと思います。今まで沈黙していた土台を明らかにし、土台に十字架の勝利を宣言することです。

 先週はいろんな土台について話させていただいて、特に、近頃私たちが祈っているテーマをお話ししました。今年は、東北リバイバルミッションがあって、東北のために祈っていた時に、主が一つのことを教えてくださいました。東北で多く祀られている偶像に「アラハバキ」があります。それをとりなすように導かれました。
 そして、気づいたら、この新城には「アラハバキ」という存在を祭っている神社が異様に多く、新城には隠された沈黙の土台があると話しました。ある意味で、それは祭壇が置かれている土台にある、沈黙の力ではないかと思います。そのような領域にも気づかされたら、とりなしの祈り向けるのです。
 継続してそれらを調べていますが、新城は、もしかしたら大きな意味のある街かもしれません。「アラハバキ」とは、バビロンから日本に持ち込まれた可能性がある偶像です。それは縄文人が持ってきた偶像であると言われますが、もちろん諸説はありますが、アラハバキ礼拝の重要な場所があるそうです。

 街の中で最も古いものは、地名に残ります。新城教会の地名も、「愛知県新城市富沢407−1」と表記しますが、実は、「富沢」の後に省いてある地名があります。それが「字市神(あざいちがみ)」という地名です。私たちはその地名を使いたくないので省いていますが、「市神(いちがみ)」というのは、「昔、ここに市場があり、神を据えて、ここが村の偶像礼拝の中心地だった」ことを意味します。市神という地名はこの一画だけです。だから、この地域は古くから偶像礼拝が成されていた場所だったのです。
 特に、アラハバキ関係がある地名は全国に「荒」がついたり、「荒神(あらがみ)」という地名で残っています。しかし、アラハバキが顕現した特別な場所は「荒神場(あらがみば)」と呼ばれました。
 その場所に「アラハバキ」という霊が現れて、アラハバキ礼拝が盛んになされていた場所です。祭壇があった場所のことを「荒神場(あらがみば)」と呼ぶそうです。

 さて、「荒神場(あらがみば)」と呼ばれる地名が全国に何カ所あると思いますか?私はその地名を調べてみました。今は便利な時代で、全国の地名を瞬間的に表示してくれます。それは全国に「六カ所」ありました。

 「荒神場(あらがみば)」と地名がついている場所が六カ所ありますが、なんと、新城市に五箇所、新城に隣接している旧一宮町に一箇所。全国「荒神場(あらがみば)」という地名がついているのは、新城周辺以外にはないのです。私もこれには少しびっくりしました。これは沈黙していた土台ではないでしょうか。しかし土台が明らかにされた今、勝利です。みなさんも一度調べてみてください。
 この場所に十字架の血潮を宣言しなければならないのです。この街が勝ち取られたら、もしかしたら、全国を勝ち取れるのかもしれないと期待します。

 そのためにはまず私たちが、自分自身という祭壇を聖め、同時に、土台を聖め勝ち取って行く時に、神の言葉は驚くほど拡がり、多くの御業が起こっていくと期待します。
 これが、聖書の原則です。今日、一人一人がこの御言葉に心をとめ、まず、自分自身という祭壇を血潮によって聖めていただき、その土台をも聖めていただく時、主の勝利がやってきます。
 先週の聖餐式は「土台」ということを意識して行いましたが、今日は、自分自身という祭壇を意識して、聖餐式を行いましょう。今日、聖霊様がみなさんに、「この罪はちゃんと悔い改めなさい」と語られたら、悔い改めてください。
 また、「それは捨てたほうがいい、離れたほうがいい」と語られたら、離れ、捨てて下さい。

 子供たちにも言いますが、持っている漫画とかゲームの中で、「こいつはまずいぞ、やってちゃだめだよ」というような物があるならば、捨てましょう。「イエス様が喜ばれないな」という物があったら、それを捨て去ることが、神を見、神の力を体験する大変重要な条件です。
 同時に、私たちは土台についても意識して、土台を勝ち取る祈りが必要ではないかと思います。

 最後に一言お祈りさせていただいて、聖餐式の時にさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちはあなたを見たいと願っています。そのためにも、聖さを追い求めることができますように。
 私たちが、聖い歩みをすることができますように助けて下さい。今私たちは、イエス様の十字架の勝利を心から感謝します。十字架の血潮により一人一人を洗い聖めてください。
 聖霊様、今、一人一人の心に語ってください。捨てる物、離れる必要のある領域があったら、どうか教えてくださいますように。
 今からの聖餐式を祝福してください。祭壇が聖められ、私たちの住んでいる街の土台も聖められますように。イエス様の御名を通して、祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン。


[バックナンバー]