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エペソ人への手紙 1章17節〜23節
『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』
ハレルヤ!おはようございます。今日はみなさんの前で礼拝メッセージを語らせていただけますことを、心から感謝しています。
本当に早いもので、もう5月の中旬です。つい最近一年が始まったと思ったら、もう半ばに差し掛かってしまいました。一年は本当に早く過ぎてしまいます。人生もある意味で、あっという間に過ぎていくのかもしれません。
来週は特別なプログラムがあります。特別礼拝&ゴスペルランチということで、ケリグマという音楽チームがペルーから来てくださいます。先週は、全世界からクリスチャンが集まっての集会が東京で開かれましたが、彼らはその集会に参加し、新城教会にも来てくださいます。彼らは数年前にも新城に来てくださいましたが、ペルー初のクリスチャン音楽グループとして紹介されているチームです。是非とも楽しみにしていただきたいと思います。ペルーの民族音楽を元にした、哀愁漂う賛美を聞かせてくださいます。この教会にはペルー人の方々も来ておられ、午後にはインターナショナル集会もあります。それで私は時々、南米に行き、新城教会でクリスチャンになって南米に帰られた方々を集めて、一緒に集会をしたりしますが、6月にペルーに行くことになっています。そこで新城教会から帰った方々ともお会いしますが、向こうで宣教師として働いている下田先生の働きも助けます。来週はその下田先生も一緒に来てくださいます。
下田先生は、ペルーの中でも特に貧しい地域で伝道をしておられます。私は2月にネパールに行き、大変貧しい地域で働いている宣教師と一緒に働かせていただきましたが、ペルーの貧しい地域に行くと、そこもネパールに劣らないぐらいの地域で、大変な生活の方々がおられます。そこにも行き、何日間かの集会をする予定です。是非とも祈っていただきたいと思います。
教会にはいろいろなプログラムがあり、めまぐるしく変わっていきますが、ひとつひとつ、主と出会うための働きです。今日も今読んでいただきました聖書の箇所に「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」とあります。教会はいろいろな働きを通して、知識的に神様を知るだけでなく、体験的にも聖霊様により、神を知るための働きを繰り広げています。
今日は、みなさんと共に、特に、18節を学びたいと思います。
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
ここで、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように」とパウロは祈っています。私たちは目で物を見ています。今日も、お互いに目が見えるということは、本当に感謝です。目が見えなければ、顔を見ることもできないし、情報を得ることもできません。本当に見えるということは感謝なことです。私は中学校くらいの時から目が悪くなり、近眼になりました。それで、眼鏡をかけたりコンタクトレンズをしたりして補正していますが、今でもコンタクトレンズをしています。それも、遠近両用なので大変便利です。コンタクトレンズがないと、大変なことになってしまいます。目が見えるということは大事です。
しかし、目というのは、ただ肉体だけでなく、「心の目」もあります。心の中に目がついていて、それが開くか閉じるかで人生は大きく変化します。人間とは、目で物を見ているようですが、実は目で見ているのではなく、心で見ています。意志で物を見ているのです。関心がなければ見ることができません。関心がありその領域に目を向けると、その領域が見えてくるのです。目というのは、ただ肉体の目だけではなく、「心の目」が重要です。
特に、神を知るという領域は、肉体の目ではなく、心の目が開かれることが重要です。心の目は、霊的世界を見渡し、それを見抜く目でもあるので、肉体の目が開かれていることも重要ですが、それ以上に、心の目が開かれることが大変重要です。
私たちは生きていますが、生きるということは現実問題であり、なかなか大変です。みなさんも先週一週間、本当に忙しく働かれたかと思います。大変な一週間だったかもしれません。毎日私たちは現実の世界で生きるわけです。しかし、やがてこの現実の世界から出て行く日が来ます。それは誰にでも訪れる死ぬ日です。
日本人は生きることは現実問題として捉えますが、死後の世界となると、現実ではなく宗教の世界として捉えてしまいます。これは本来、間違った考えです。生きることが現実ならば、死後の世界も現実として捉えなければならないのです。死後、何が起こるのか、その現実をしっかりと把握しなければならないはずです。
教会とは、人生の四季があるところです。牧師やスタッフは、それをいつも感じ、体験しながら働いています。実は先週、この教会でお葬式が続けて二つありました。最初の方は70代の方、もう一人の方は50代の奥さんでした。彼女は昨年の12月23日に、娘さんと一緒にバプテスマを受けられました。本当に奥ゆかしい方で、あまり大勢の人の前でバプテスマを受けるのは恥ずかしいということで、こっそりと少人数でバプテスマを受けました。しかし、はっきりと信仰を持ってスタートされました。長く心臓が悪かったようで、朝、ご主人が出勤する時に、「調子が悪いからもう少し寝ている」と言っておられたそうですが、なかなか起きてこないので見に行くと、既に帰らぬ人となっていたそうです。ご家族は本当に悲しんでおられました。
私は、一つの葬式が終わってやれやれと思っていたらご主人から電話があり、久しぶりにかかってきたと思って「元気ですか?」と明るく出たら、奥さんが亡くなったという知らせでした。すぐに教会から飛んで行きいろいろと、お世話させていただきました。新城教会には、何かあって、ご連絡をいただいたらすぐに対応する「上條実チーム」というチームがあります。どんな現場にもすぐに駆けつけて何でもやりますので、夜中であろうと連絡してください。困難な状況の中で、てきぱきとお世話させていただきます。今までこの新城教会で、最高にお葬式が重なったのは、同時に三つ重なった事がありました。しかし、三つ立派にやり遂げました。よくぞやったな、という感じでした。今回も二つ重なりましたが、神の守りの中で導かれました。
けれども、ご家族にとっては、本当につらく悲しい時だったと思います。私も心が痛くて、神様の前に出て祈った時に、一つの御言葉が与えられました。
第2コリント人への手紙 12章1節〜4節、
無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は14年前に‐‐肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、‐‐第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、‐‐それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、‐‐パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
この箇所で、「ある人を知っています」と人ごとのように記されていますが、実は、これはパウロ自身のことです。彼自分の体験です。彼には強烈な体験が幾つもありました。イエス様と出会った時も天から光が差して地に倒され、クリスチャンを迫害に行く途中、彼は改心しました。そんな強烈な体験があったのにも関わらず、それ以上に強烈な体験がこの体験だったのです。彼は二度に渡って「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知らない」と語っていますが、実際の体験を語っています。この体験がいつであったのかについては、いろいろな説があります。パウロは一度石打ちの刑に遇い、死んだと思われ城外に引きずりだされ、捨てられました。しかしその後、起き上がったという記録がありますので、もしかしたら、その時かもしれない、と言われます。
時々、「臨死体験」という話を聞きますが、実にパウロは、臨死体験をしたようです。肉体から魂が抜け出た、その瞬間を体験しました。その時に、自分の体から魂が抜けたのか、体のままだったのか、どちらか見分けがつかなかったと語っています。下を見ると、むごたらしい自分の体が転がっていました。けれども、自分はなおも手足を意識し、体も意識できたのです。「これはどういうことだ・・・」と思いながら、気がついたらパラダイス、天国にいたのです。
やがて私たちもこの体験をする日が来るのです。Mさんは寝ていて、目が覚めたら「あれ?ここはどこ?」と天国の花園に寝ていたのではないでしょうか。それを見て、「俺もこういう風に死にたいな」と思いました。寝ていて朝起きたら「あれ?やけに家が広いぞ。やけに綺麗だな。わ〜、天国だ。」と。下を見ると自分が死んでいて、みんなが泣いているという死に方を、イエス様に予約しておいたらどうでしょうか。それが一番いいのではないかと思います。
パウロの体験によると、生きている世界と死後の世界には、連続性があるということです。
やがてパウロは、また自分の体に戻ってきました。この体験を、なぜ神は許されたのでしょうか?それは、私たちのためだと思います。
時々、愛する人を失い、それが永遠の別れのように感じて、絶望することがあります。しかし、絶望しなくてもいいのです。主を信じるならば、神を信じるならば、普段では解らない、死後の世界さえも知ることができます。パウロという人物はそれを体験し、聖書の中に情報を残しました。それは、今生きている者たちの為の情報です。
パウロがこのような体験をしたのは、愛する家族を失った遺族のためではなかったでしょうか。いたずらに悲しみにくれなくてもよいのです。今回の葬式でも、連続性の中で生きているという、希望のメッセージを語らせていただきました。
もし、私が寺の坊さんならば、誰かが死んだ時に、何も言うことはできないのです。人は輪廻するのか、祖先崇拝なのか、消えてなくなるのか、はっきりとした回答がないのです。曖昧な、いい加減なことしか言うことができないのです。
しかし、心の目が開かれた者たちは、死後の世界さえも、見通すことが出来るとは、なんと感謝ではないでしょうか。
今日、皆さんのお手元に、新城教会ニュースが手渡されていると思います。その中で私が毎月楽しみにしているのは、「しおんちゃん」という四コマ漫画です。あれは絶妙です。どなたが書いているのか、青木さんという方が描いています。今回の四コマ漫画を見ると、「人生の土台」というテーマです。
「嵐がきたぞ!洪水だ〜。砂の上の家はたおれた!」と一軒の家が倒れた様子が描かれています。それを見た男の子が「一軒は岩の上に建っていたんだね。ボクは何の上にたっているのかな?しおんちゃんは?」と聞くと、「わたしは岩なるイエスさまの上にたつわ。人生の土台は大切よ。」となっています。
この間の私が語ったメッセージをよく聞いておられ、それを漫画化して下さいました。四コマだけで、先日語ったメッセージが十分理解出来ます。
人生最大の洪水は死かもしれません。しかしイエス様という岩の上に人生を建てたら、決して押し流されることはないのです。岩なるイエス様の上に、人生を建てるほど、感謝なことはありません。心から感謝しましょう。
心の目が開かれると、天地宇宙を創り、私たちを創造してくださった神を知ることができるばかりか、永遠の世界まで見つめることができるのです。
第2コリント人への手紙 6章2節、
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
今日、初めて教会に来たとしても、その日に心の目を開いてあげますよ、というのが聖書の教えです。時々、教会に来ると、「クリスチャンになるのはなかなか大変ですね。聖書もぶ厚い書物だし、全部読まなければ救われないとしたら大変ですね」と言う方がおられますが、心配いりません。イエス・キリストを自分の救い主として信じるだけで、心の目が開かれるのです。
でも、信じると言ってもいろいろなレベルがあります。何を基準にしたらいいのでしょうか?信じることの最小量は「告白」です。「イエス・キリストを信じます」と口で告白するだけで、なんと、救われるのです。聖書は「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と約束していますので、「イエス様を信じます!」と告白するだけで、永遠に対して目が開かれ、神に対して目が開かれます。それは、今は恵みの時、今は救いの日だ、と記されているからです。
私は、先々週、韓国に4日間行きました。それは、来年、「韓国リバイバルミッション」を計画しているからです。来年の韓国ミッションは二箇所で行う予定です。一箇所はソウルで、もう一箇所は冬ソナが好きな方には朗報ですが、冬ソナの舞台である春川という街です。昨年の仁川でのリバイバルミッションが祝福され、韓国の先生方も燃やされ、継続してやりましょうという提案があり、春川では街の教会が連合してリバイバルミッションを開きたい、と提案をしてくださいました。春川があったために、韓流ブームが訪れ、日本と韓国の間に扉が開かれましたので、やはり霊的世界でも同じだと思います。何かの霊的ドアとなるのではないかと期待します。実は、春川は日本神話の根源の場所の一つでもありますので、すごく意味があると思います。そこで先生方と会って打ち合わせをし、ソウルの先生方とも話し合いをし、その間に集会などもさせていただき、帰ってきました。
また先週の日曜日は東京に行きました。東京弟子教会という、私の友人の金沢先生が牧会されている教会で奉仕させていただきました。弟子教会は、今、結構一般でも有名です。この間も先生ご夫妻は、バラエティ番組に出ておられました。先生の一生がドラマ化されたりして有名です。それで教会にはいろいろな方が来られます。なぜ有名かと言いますと、実は先生にはクリスチャンになる前、一つの経歴があります。彼には小指がありません。どこかの鉄鋼場で仕事中につめたのかな、と思ったらそうではなく、彼はヤクザだったのです。山口組系のヤクザをやっていて、組の抗争で危うく死にかけたそうです。自分と一緒に出かけた友人は撃ち殺されたそうです。そんなことから、自分の人生について考え始め、彼はやがてクリスチャンになりました。彼は、自分がヤクザをやっていた本拠地、大阪で牧師になり教会を始めました。そして現在、その教会には、ヤクザから足を洗った人や、洗いきれない人や、薬物中毒の人や、いろいろな人生の諸問題があふれている人たちが来ています。私もその教会で何度も奉仕をさせていただきましたが、「みなさんの中で背中に絵が書いてある人はいますか?」と聞くと、会衆の半分くらいの人たちが手をあげました。あまり過去を聞きたくないような人達が大勢来ています。そんな中で牧師として働くことはなかなか大変です。普段から大変な人たちですから、そんな人達が多く集まったらもっと大変になります。新しい組が出来てしまうのではないか、というような感じです。
でも先生は、そのような問題は、ただ単なる問題ではなく、霊的問題だと気づかされました。背後に悪霊的な力が働いている、と気づかされたのです。それで、私も少し協力させていただいています。今まで先生は大阪で伝道をしていましたが、今度は東京に教会を開いたのです。そこもいろいろな方々が集まっておられます。
先週の日曜日は、午前と午後に集会をさせていただきました。全てが終わったのは夜の10時くらいでしたが恵まれました。
ある人に、「午後に二人新しいもんが来ますから、よろしくお願いします」と言われ、どんな人たちが来るのかなと思っていました。午後は霊的戦いセミナーでしたが、集会が終わると一人の女性が来て「今日の話、はじめは聞いていて腹がたった」と言いました。なぜかと聞くと、その人はクリスチャンではなく、私がちょうど祖先崇拝の悪口を言っている時に入ってきたからでした。話の脈略を知らずに入ってきたので、腹が立ったらしいのですが、最後まで聞いて興味を持ったと言いました。
実は、その人はある宗教に入っている人でした。その宗教の人たちは、普通は皇室しか入ることのできないような、伊勢神宮の奥にも入って拝んだりするそうです。この間も3日間、伊勢神宮に泊まり込みで修行してきたと言っていました。先週までそういうことをやっていた中で、私の集会に出たのです。そういう方ですので、普通ではなかなかクリスチャンになるのは難しいです。ある意味、本当の神に対する目は完全に閉じている状況です。しかしそんな状態でも、イエス様に触れると、心の目が開かれます。見えない敵が明らかになり、真の神が見えるようになるのです。
そもそも「救い」とは何でしょうか?使徒の働き 26章17節〜18節、
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
私たちの心の目が開いていない原因はどこにあるのかというと、目に覆いがかかっているからです。その覆いが取られない限り、なかなか心の目の機能が回復しないのです。
第2コリント人への手紙 4章1〜4節、
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
教会というのは、福音を伝えるところです。イエス様のことについて一生懸命伝えるのですが、なかなか日本人は関心を持ちません。みなさんの中でも、「私は家族の中でただ一人のクリスチャンです」という方がおられると思います。今日礼拝に出てくるには、なかなか大変だったと思います。日曜日にどこに行くんだと言われ「今日は仕事があるから」と、ごまかして出て来た人もいるかもしれません。また、「私はクリスチャンですから、教会に行きます」と言って教会にこられたかもしれません。
いずれにしても、家族に福音を伝えるのは難しいと思いませんか?いくら説明しても、なかなか分かってもらえません。
私は牧師の息子として生まれ、牧師になったのですが、初めはどうやって伝道していいのか、皆目、見当がつきませんでした。伝道って難しいな、と思っていました。私は牧師の息子に生まれて牧師になりましたので、華々しい証しがないのです。金沢先生のように「昔はヤクザでしたが、今は牧師になりました」というような、使用前、使用後というような華々しいものがあればいいのですが、そういうことをやる暇もなく、クリスチャンになり牧師になってしまいましたので、自分はイエス様を信じているのですが、誰かに伝えるとなると難しい、と思っていました。
そもそも、この教会の初代のスタッフたちはみんな、クリスチャンホームの子供ばかりでした。岡本信弘先生にしても、上條実先生にしても、当時集まってきた連中は、みんなクリスチャンホームでした。会堂ができた時、スタッフが集められて働きが始まりましたが、みんな伝道が不得意でした。新しい建物を建てたので、多くの見学者が来ました。最後に「キリスト教について、聖書について教えてくれますか?」という質問が一番嫌いでした。「おまえ行って来い、おまえ行って来い」と、いつもなすりつけていました。なぜなら、どうやって伝道していいかわからなかったからです。私は伝道とは、人を説得する「説得工作」だと思っていましたので、どうやってうまく話したらいいのかな、といつも悩んでいました。私は、口べたなので、そんなことは出来ないと思っていました。この頃は多少慣れたところもありますが、昔は「順先生、あんたのメッセージはわからん」とよく言われました。本当にそうだったと思います。
だいたい伝道者の方々は本当に口がうまいです。私と一緒に伝道をしているH牧師は本当に話がうまいです。彼は牧師の職を失ったら、詐欺師で十分食べていけるのではないかという程に雄弁です。あんな風にはしゃべれないし、私では無理だと思っていました。
しかし、ある時、主が教えてくれました。人が救われないのは、我々の説得の仕方が悪いのではない、心の目が覆われているのだと。その覆いを取らないと、光は届きません。そしてその覆いとは何でしょうか?「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしている」とあります。伝道をしても救われないのは、原因はただ一つ、この世の神、即ち、サタンが覆いを掛けているからです。覆いを取らない限り、光は届きません。だから、この日本で伝道をしても、なかなかうまくいかないのです。国に覆いが掛かっているわけです。まず、この世の神の覆いを取らないかぎり、いくら一生懸命伝道をしても人は救われないのです。
新城教会が、困難な日本の中にあっても、多少祝福されているとしたら、理由はただ一つです。暗闇の覆いを取ることに気づかされたからです。それから福音を伝えているからです。覆いをとらないで福音を伝えてみても、無駄足・無駄骨と言いますか、徒労に終わってしまいます。でも、目を覆っている覆いがとられたら、光が輝きます。
先々週、平岡先生と一緒に行動したのですが、日本の一教会の平均の礼拝出席数は12人だと語っていました。そんなに少ないのかなと思いましたが、そう言っていました。今では閉鎖に追い込まれる教会も多く、いくら伝道しても人が救われません。どこに原因があるのかと言ったら、覆いが掛けられているからです。覆いを取らないといけないのです。まず、教会もクリスチャンも「暗闇の覆いがかかっている」ということに対して、心の目が開かれなければなりません。
覆いがあることがわからないまま、伝道は説得工作だとしか考えていないと、なかなか福音は伝わりません。家族の中で福音を受け入れない人がいたら、「この人は頭が固い、心が堅い」というのではなく、「覆いがかかっている」ということで、まずは真剣に覆いが取られるように、霊的戦いの祈りをしなければなりません。
覆いが取られたら何が起こるでしょうか?光が届いて、神に対しての心の目がはっきり開かれ、神を見ることができるのです。ですから、信じることができなくて反発する人々に対して、その人を責めるのではなく、覆いをかけている敵の力を打ち破り、心の目が開かれるように祈らなければいけません。
先ほど話が途中になりましたが、東京の集会に来た人は、内宮の一番深い所まで入って拝んだりするそうです。そんな人は普通は覆いがかかっていて難しいと思います。しかしセミナーに出て、「今まで関わっていたのは、もしかすると味方ではなく、敵だったのかもしれない」と感じたみたいでした。
私は「皇室しか入ることが出来ないような場所に入って、どんな感じがしましたか?」と聞きました。「本当に神聖な感じがしました」と言われました。結構その方は霊感が強いと感じました。そして「失礼ですが、日本神話を歴史的事実だと信じておられますか?」と聞きました。
みなさんの中で、日本神話を歴史的真実として信じている人は、どのくらいおられるでしょうか?天皇制を見ても一代目から十代目は、架空の天皇だと言われます。一代目の神武天皇までさかのぼっていくと、縄文時代に入ります。縄文時代になぜ天皇制があったのか、支配階層があったとは信じられません。また、「アマテラスが岩戸の中に隠れていて、アマノウズメが変な踊りをして、引き出したら明るくなったという神話を、歴史的事実として信じておられますか?」と質問したら、「一応、私たちのグループでは、それを事実として信じております」と言われました。「一応ですか?」と言うと、「一応…信じております。」という感じでした。
日本人で、そんなのを信じている人はいないと思います。それは神話であり、作り話です。しかし、作り話を元にして作られた伊勢神宮の奥に入って、何かビビビッと感じたと言うのは、どういうことでしょうか。ストーリーが偽りで、存在を感じたら振り込め詐欺と同じではないでしょうか。振り込め詐欺というのは、まことしやかな偽りストーリーがあり、電話の向こうに自分のご主人だったり子供のような存在を感じて、手を出すことによって、必要なものが全て奪い取られてしまうのです。
その方は本当に一生懸命に神に仕えようと考えている人でしたが、もしかしたら、振り込め詐欺と同じではないですか、という話をしたら、真剣に聞いておられました。私はそのような話をしながら、その人の覆いが取られるようにと祈っていました。
「私の家は日本の神々の札が山ほどあるから、それらを全てお宮さんに返してこようと思います。」と言われました。私は「返さずに、全部教会に持ってきてください。教会で全て引き取って処分します。祟りなんかないように、牧師さんがちゃんと祈ってくれますから」と話をしました。そして、その方は電車に乗って帰って行かれました。
次の日に、金沢先生から「順先生、昨日すごいことがありました!」と言って、電話がかかってきました。その女性が私たちと別れて自宅に帰ったら、突然霊の目が開かれたと言うのです。今までは自分を助けてくれる神だと思っていたのが、頭が痛くなって、吐き気がして、取り乱してしまったそうです。夜中に先生の所に電話がかかってきたので、その家に行ったそうです。行ってみると、今まで見たこともないほど、偶像が溢れた家だったそうです。
しかし、その日、彼女が家に入った途端に、今まで自分の守り神であり、人生を預けてもいいと思っていた存在が、味方ではなく、敵であるということに目が開かれたのです。そして、敵のただ中で解放を受け、その夜、偶像を全て捨て、クリスチャンになる決断をしたというのです。
これは、霊的覆いが取られる時に、心の目が開かれるいい例であると思います。これは神が行ってくださった奇跡です。
教会では、今回の集会前の40日間、一日3時間みんなで真剣に祈り、東京中の偶像の拠点にとりなしの祈りに行っていたと言われました。やはり、そういうとりなしの祈りがあったことによって、覆いが取られて、奇跡が起きたと思います。普通では絶対に救われることのない人がイエス様を信じたのです。
心の目が開かれることは、本当に重要です。日本で主を信じない原因がどこにあるのかを、我々は更によく理解し、人々の心の目が開かれるため、主に覆いを取っていただかなければなりません。更に戦い、祈っていかなければならないことを教えられました。私たちの心の目が開かれると、神がわかるばかりか、敵についてもわかり、同時に、私たちの味方がどんなに多くいるのかに関しても目が開かれるのです。
旧約聖書の中に偉大な預言者エリシャという人物がいます。
第2列王記 6章8節〜12節、
アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
アラムの王はイスラエルの宿敵でした。いつもイスラエルを攻めて自分のものにしようとしていました。アラムの王は后と寝室でひそひそと「近ごろ、イスラエルに隙があるから、あの道を通って攻め込んだら、滅ぼすことが出来るから攻め込もう」と話をしました。
しかし、イスラエルに住んでいた預言者エリシャは、なんと神からの声を聞きました。「すぐにあの道に軍隊を派遣し警備しなさい。アラムが下ってくるから」と。
その情報をエリシャはイスラエルの王に知らせました。イスラエルの王はその情報を信用し、とにかく、軍隊をそこに差し向けました。すると、預言者エリシャが言った通りに、アラムが攻めてきたのです。それで攻め込まれる前に、敵を迎え撃ち事なきを得ました。
アラムの軍勢は、イスラエルがなぜその事を知っているのか、とびっくりしました。それが一度や二度ではなかったと言います。
エリシャという預言者は、心の目と耳が鋭く開いていたのです。そのために、敵が寝室の中で語るような言葉や策略さえ見抜いていました。
私たちも本当に霊の目が開かれ耳が開かれることを祈らないといけません。
時々私も牧師として申し訳ないと思うことがあります。なぜならば、教会に来ておられる方々の中で、いろいろな問題があったり、事故にあったり、いろいろな事が起こる時に、なんでもっと早くからそのことに関して、カバーする祈りが出来なかったのかと反省します。もちろん、全ては主の御手の中にありますので、なんとも出来ない領域があることも確かですが、私たちがもっともっと心の目を開いていただいて、耳を開いていただいたら、敵が攻撃しようとするプランを全て、事前に見抜いて勝利できるはずです。
私はこの御言葉を読むたびに励まされます。かつてイスラエルでこういうことがあったならば、今でも主は同じことをしてくださるはずです。私たちは真剣に心の目と耳が開かれるように祈らなければなりません。そうしたら、キリストの体の中で、「あの部分をカバーして祈りなさい」と主が語り、情報をくださると信じます。既にみなさんがとりなしてくださっていますから、やがて私たちが天国に行ったら、その全容がわかると思います。「みんなが祈ったから、敵が問題を起こそうとしていたけど、勝利したのですよ、守られたのですよ」と。やがて解る日が来ると思います。
エリシャはちょうどレーダーのような存在でした。エリシャにそのような賜物が与えられていた故に、アラムの王から憎まれ、霊的レーダーであるエリシャを倒さない限り、イスラエルに勝てないということで、アラムの王はエリシャがどこにいるのか探し出しました。エリシャの居場所を突き止めたのです。アラムの王は、エリシャをそっと取り囲み、攻め込んで彼を殺そうとしました。
朝早く、エリシャの召使いが家から出るとびっくりして、家の中に飛び込んできました。「エリシャさん、大変です!周りは敵だらけです!絶体絶命です!」。
しかし、そんな中でもエリシャは全く動じませんでした。なぜなら、彼の心の目が開かれていたからです。
第2列王記 6章15節〜17節、
神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
エリシャは天の軍勢が自分を守っていることを、しっかりと霊の目を開いて見ていました。でも、残念ながら、この若い者はそれを見ることができなかったので、うろたえていました。
時々、人生の中に、どうしようかというような問題が起きる事があります。今回も、突然家族が亡くなられて、本当にどうしたらいいだろうか、というような状況に遭遇しました。人間の真価が試されるのは、そのような時に、どのような行動をとるかにもかかっていますが、なかなか正常な判断が出来ません。パニックするという言葉がありますが、恐怖に打ちのめされるようなことがあるかもしれません。
私はいつもそういう現場に行って、クリスチャンの方々は大変な状況にも関わらず、支えられているのを見ます。「主が、天の軍勢が、支えているしかありえない」という状況を見ます。それはなぜかと言うと、敵よりも、味方の軍隊のほうが多いからです。エリシャはそのことに目が開かれていたのです。
主を信じる者には、敵よりもずっと多い天の軍勢が、火の戦車と馬を配備して取り巻いて守っているのです。それを心の目をしっかりと開いていただいて、見ることができるならば、決して恐れることはありません。
今週も、みなさんの周りに「敵よりもさらに多い、強い天の軍勢が配備されている、敵よりも味方のほうが多いのだ!」ということが解るようにしていただきたいと思います。それらを心の目で捉えるなら、大きな励ましであり力です。私たちは決してひとりぼっちではない、ということを知らなければなりません。
心の目を開いてくださるお方は、他でもない、イエス様ご自身です。今日私たちは主の前に出て、「心の目を開いてください」と祈りましょう。神についてもっともっと深く知らせていただくことができるように、また、敵の力が打ち破られ、人々が主を信じるように。心の目をさらに開いていただいて、敵を見抜くことが出来ますように。
更には、敵よりももっと多くの軍勢が、我々の周りにいること確認できますように。目を開いてくださる方は、他でもないイエス様です。
最後に一箇所、御言葉を読んで終わりにしたいと思います。ルカの福音書 4章17節〜19節、
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
実はこれは有名なイザヤ61章の御言葉を、イエス様は引用されたのですが、「ここに書かれていることは、わたしのことだ」と言われました。イエス様はこの地上に来た時に、多くの目の見えない人々を癒し、見えるようにされました。それは大きな奇跡でした。その一番深い意味は、ただ単に体の目だけではなく、イエス様こそ聖霊によって「心の目を開いてくださる方」であり「メシア」、救い主であることを意味していました。
今日、私たちは心の目を開いていただいて、私たちが受け継ぐものがどんなに栄光にとんだものなのか、また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く、神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように、とパウロは祈っています。
心の目を開いていただいて、神の偉大な働きを目にすることができますように。それらが、教会を通して人々に分け与えられます。教会はキリストの体であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられる所です。教会には心の目を開いてくださる方、即ちイエス様がおられて、人々の霊の目が開かれていきます。
今週は霊的な目を開いていただいて、力強く歩んでいきたいと願っています。
最後に一言、お祈りの時を持たせていただきます。
ハレルヤ、天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝いたします。私たちの目が既に開かれており、神が誰であるかがわかっていることを、心から感謝いたします。しかし主よ、今週は、私たちの心の目が更にはっきり見えるようになりますように。神の召しによって与えられた望みがどんなものであるか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光にとんだものであり、偉大なものであるかが、はっきりと分かる週となりますよう、お願いいたします。
今日、お一人一人の心の目を開いてください。心の目を覆っている力があったら、それが打ち破られますように。敵の力が打ち砕かれますように。そして、はっきりと主の偉大さに目を留め、残された人生、雄々しく戦うことができますよう、お願いいたします。
イエス様はそのために地上に来てくださったことを心から感謝します。イエス様の十字架の血潮を心から感謝し、今から聖餐式を行います。この聖餐を通して、心の目がしっかりと開かれますように。イエス・キリストの御名により、勝利を宣言して祈りをお捧げします。アーメン。 |