「いつも備えていなさい」


2010.5.23(SUN)
新城教会 上條 実 牧師

第一テモテへの手紙 6章17節〜19節
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

 ハレルヤ!本当に素晴らしい賛美で聞き惚れてしまいました。今演奏と賛美をして下さった「ケリグマ」の皆さんは、ペルーから来られました。先ほども語られていましたが、地球の反対側から私たちの日本のために祈って下さっていると言うことは本当に感謝だと思います。私たちも更にペルーが祝福されるようにお祈りしましょう。さきほどもご挨拶下さった下田先生はリバイバル聖書神学校を卒業されました。そして今ペルーに宣教師としてご奉仕されています。そしてご一緒に来て下さいましたレデル先生とともに働きをされております。滝元順牧師は6月にペルー行かれ、ご一緒にご奉仕されるそうです。先生方の働きが主にあって尊く用いられるようにお祈りしましょう。

 さて、みなさんは「ケリグマ」ということばの意味をご存知でしょうか?昨日子ども集会のホサナクラブで子どもたちに聞いてみました。すると、ある子どもさんが「熊を蹴る」という意味と答えていました。しかし私も何語であるかもわからず、山崎ランサム先生にお聞きしました。すると「ケリグマ」とはギリシャ語で「神の使者の告げる言葉」、「告知」、「知らせ」という意味だそうです。ケリグマという言葉の起源は、「王様のおふれ」という事らしく王様が、「今日から消費税を何パーセント」と言ったら、それを全住民に伝えなければなりません。しもべたちは町々、村々に行き、「皆さん聞いて下さい。今日から消費税何パーセントです」と知らせます。このように知らせるのが、ケリグマだそうです。今日はわざわざペルーから「ケリグマ」素晴らしい知らせを持って彼らは賛美して下さいました。イエス・キリストを信じると国を超え、民族も越え、神の家族として一つになることができることは本当に素晴らしいことです。教会は、神の家族です。家族に心配事や病気があると、そのために家族全員が心配したり、共に悩み、お互いを励まし合う。家族はすばらしいものです。
 今日、週報を見ていただきますと、祈りの課題のところに健康を害している兄姉のお名前が増えています。是非お互いの健康といやしのためにお祈りしましょう。キリストの家族としてお互いに兄姉のために祈ることができる事は本当に感謝なことだと思います。さて先ほど読んで頂きました第一テモテへの手紙6章の中からもう一度19節だけをお読みしたいと思います。

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

 先週は滝元順牧師からすばらしいみことばを頂きました。その時にお話しがありましたが、先々週は立て続けにお二人の方がお亡くなりになり、教会でお葬式をさせて頂きました。おひとりの方はT市在住の70代のご主人。そしてもうひとりの方はK市在住の50代の奥様が亡くなられました。私もすぐにご自宅に行かせていただき、葬儀の準備をさせて頂きました。お葬式というと、私たちは「お金がかかる」というイメージがあります。しかし私たち新城教会は、先ほどお話ししたように神の家族ですから、なるべくお金がかからないように、葬儀屋さんを通さず全て私たち教会が準備させて頂いています。先週金曜日奥様が亡くなられたご主人と電話でお話をさせて頂きました。彼がこんな事を言っておられました。家内をなくした後、聖書を読んでいた時『いつも備えていなさい』という意味の言葉を教えられました。私たちはいつどんなときに死にであうか分からない。だから、主にあう備えをしっかりしないといけないですねと言われていました。そのみことばが第一テモテの6章19節

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

というみことばでした。まことのいのち「永遠のいのち」を得るために、いつ来るか分からない死に対して、良い基礎を自分のために築いて行かなくてはいけない。主イエスキリストを信じて「いつも備えていない」。備えていかなければなりません。今の世は何が起きるか、まつたくわかりません。今まで順調に来ていても、突然何かが起こり、崩れてしまう時があります。築き上げていくは一歩一歩、一つ一つ築いていくのですが、崩れる時は一度に崩れてしまいます。だから私たちはいつも備えていかなければなりません。
 先ほども言いましたが、私たちの教会ではお葬式をする時に葬儀屋を使いません。葬儀屋を使わずに、全て教会で何もかも手配させて頂きます。今から20数年前のことになりますが、教会でお葬式があり、その当時の長老さんが「ちょっとついて来い」と言われて、市役所に行きました。そして「亡くなった時にはこういう風に手続きをするんだ」と教えてもらいました。というよりその手続きをただ後ろから見ていただけなんですが、その後教会の葬式をこれから全部担当してと言われました。しかし担当してみて、葬儀屋を通さずに、教会でできることはすばらしいことだと教えられました。
皆さんは日本の平均のお葬式の費用がいくらかご存知ですか?調べた所、2,310,000円だそうです。みなさん大変な金額です。では世界のお葬式の費用はどのくらいかかるのかも調べてみました。なんとイギリスでは123,000円だそうです。ドイツは198,000円、韓国は373,000円、アメリカは444,000円。なぜこんなに日本が高いのでしょう。それは「坊主丸儲け」ということばがありますが、亡くなった人や家族のために行う葬儀ではなく、日本の葬儀は僧侶、坊さんたちを喜ばせる、儲けさせるための葬儀になってしまっていると思います。私は昨年引っ越しましたが、以前暮らしていた行政区で一年間、地域の世話役である組長をさせて頂きました。後3日で年度が変わるという時でした。次の組長さんに引き継ぎをしました。「今年度はお葬式がなくて良かったですね」と言われ、本当に感謝だと思いながら引き継ぎを終えました。その次の朝方電話がなりました。組の方が亡くなられたという知らせでした。「すみません。まだ組長さんですよね。」と言われ、私が葬儀を取り仕切る事になりました。その方は私が教会の牧師であるということを知っていらっしゃったので、すごく心配されていました。なぜかというと私の家のすぐ横に、この地区で一番大きな寺があり、そこでお葬式をしたいと思われていたからでした。しかし私は喜んでお引き受けをしました。クリスチャンは先祖を拝む事はしませんが、私も出来るだけ地域のために祈りたいし、仏教がどんなお葬式をするのか間近で見ることができるため、祈りながら精一杯させて頂きました。葬儀会場となった寺院はこの地域では、特別由緒ある寺院だと言われている所です。しかし余りにも教会とかけ離れたことを言ったり行っているので、正直あきれてしまい、最後には霊的に目隠しにしている悪魔、悪霊に対して怒り持って、祈らざるを得ませんでした。
 寺院の僧侶から私と喪主の方とで打ち合わせに来て下さいと言うことで、指定された時間の5分前に伺いました。しかし2,30分待たされて、来ても「遅れて申し訳ありません。」の一言もありませんでした。また亡くなられた方がまだ50代のご主人でしたので喪主の奥さんは本当に悲しみに暮れていました。しかし何の慰め言葉もありません。すぐに葬式に関する事、時間、値段のこと、準備について淡々と話していくのです。それも一方的に坊さんが決めて行くのです。そして葬儀として寺院に支払う金額について話し出すと、「私たちへのお金は」と言って二本指を出しました。私は教会の常識を考えて「2万円かな?もしかして20万円?」と心の中で考えていました。するとなんと、200万円でした。その家柄を見て、決めるのです。喪主の方も言われるままに承諾していました。そして私に「組長さんですよね?」と言われ、組長はまずお昼の時間にかかるので、弁当を用意してくださいと言われました。「どの位の弁当を用意したらいいですか?」と言うと、最低でも2,000円以上の弁当を用意するようにと言われました。またその業者も指定されました。そしてその弁当のお膳の上に「膳引」と書いて、封筒を置いておくように言われました。私は全く仏教のことが分からないので「膳引」とは何かと聞きなおした所、「こんな食事で申し訳ない」と言うことで、封筒に「膳引」と書いてお金を入れるんだと教えてくれました。「いくら入れれば良いんですか」と聞くと「5,000円入れてください」それも全ての弁当の上に置くようにということでした。そして、お茶はどこどこのお店で売っている最高のお茶を買うように、お饅頭も一番高い物を買って来るようにと言われました。あまりにもひどい態度と、言っていることが一方的で腹が煮えくりかえってしまいましたが「はい、わかりました。」と言って全て用意しました。200万円と言いましたが、葬儀屋にかかるお金は全て別です。ですからとてもお金のかかる葬儀でした。また組の人たちもしきたりに捕らわれて、色々むなしい事を気にしておられました。そして全部が終わって「ご苦労様でした」と解散しようとしたら、今度は「お組の方々にお礼をしたいので食事会をします」と言って、公民館に集い会食がもたれました。悲しみの中におられるのに遺族の方々が接待するのです。組の方は酒を飲ませ、酔いが回ってくるとくだらない話をし始めます。それを遺族の方々が一生懸命引きつりながら笑い、馬鹿話を聞いているのです。なんと意味のない、また愛のない葬式をしているのだろうと思わされました。しかし、教会の葬儀は違います。教会というのは、教会が儲かると言うことは一切ありません。神の家族です。だから一番に考える事は悲しみの中におられる遺族の方々、家族を支え、励まし、負担をかけないようにします。商売ではなく、教会が全て葬儀を担当することはとても素晴らしいことです。この頃この新城教会に来た方々のためにも言っておきますが、お葬式をした時受付で「お花代」を出されます。その時一般的にはお返しを頂きますが、新城教会では兄姉、家族ということで、クリスチャンの方にはお返しをしないと取り決めてあります。教会には大勢の方がおられますので、それだけでも費用はばかになりません。ですから新城教会は家族だからと言うことで、お返しをしません。基本的にそのように取り決めをしています。結婚式も同じです。だから今度葬儀があった時ご理解頂きたいと思います。亡くなられたらすぐに教会へご連絡下さい。私もしくは他のスタッフが行かせていただき、遺体の搬送も、ドライアイス、お棺の手配、役場の手続きまで、全てさせていただきます。またセレモニーホール等で行ってもお金がかかります。特に遺体の周りにお花を日飾りますが、セレモニーホールのカタログを見ても、使いまわしの祭壇で、とても高価です。しかし教会では直接フラワーショップ、お花屋さんが飾って下さいます。普通葬儀は白の菊の花というイメージがありますが、教会は違います。天国の花園をイメージして華やかに何色でも良いので、とてもきれいです。それもお花屋さんが全てして下さいますので安くできます。当たり前のことですが教会が仲介料を取ると言うこともありません。受付で皆さんから頂いたお花代とかかった経費を差し引いても今まで全て「これだけ残りました」と教会側からお返ししています。先々週葬儀をされた方も、驚かれていました。精算する時封筒を持っておられました。何を持っておられるのかな?と思いながら、「これが残ったお金です。」とお返しすると、「え〜いや…払うお金は〜」と言われましたが、逆にご返済しました。平たく言えば葬式を出した所が黒字になるのです。結局のところ、日本の葬儀はただの商売です。僧侶を喜ばせているだけ、僧侶が甘い汁を吸っているだけです。仏教ですと四十九日があります。死んだ人は四十九日まで地上を行ったり来たり彷徨っているそうです。そしてやっと四十九日になったら行くことができる、また盆になれば先祖が帰ってくると言います。どこから帰ってきますか?それは地獄の蓋が開いて、地獄から帰ってくると言うのです。盆が終わればきゅうりとなすで馬を作り、また帰ってきて下さいと行っています。きゅうりは「また早く帰って来てください」という意味があるそうです。またなすは「ゆっくり行ってください」という意味があるそうです。意味も分からず、「地獄へ帰れ」と言っています。これが日本の常識だから、しきたりだから、と言って多くの人たちは、自分の宗教と言いつつも、何も分からないまま行っています。しかし私たちクリスチャンは行く所がわかっています。イエスキリストを信じた時、「天国」に行くことができます。「まことのいのちを得るために、未来に備えて」とありますが、天国に入るため、いつも良い基礎を自分自身のために築き上げることが必要だとみことばは言っています。あなたは本当に備えをしていますか?第一テモテ16章17節から19節を見ると、「高ぶってはいけません」とあります。そして「頼りにならない富に望みを置かないように」とあります。お金はこの世では必要かも知れません。しかし死んだら全て置いていきます。誰かの物になってしまいます。何を備えていかなければいけないかということを、しっかりと学んでいただきたいのです。ある牧師がこんなメッセージをしました。人は全て死ぬ。だから自問自答してみて下さい。

 「何のために働いていますか?」「はい、死ぬためです。」
 「何のために勉強していますか?」「はい、死ぬためです。」
 「何のために体を鍛えていますか?」「はい、死ぬためです。」
 「何のためにおしゃれをしていますか?」「はい、死ぬためです。」
 「何のために食べているのですか?」「はい、死ぬためです。」

 むなしさを覚えませんか?私たちは生きることについて、死について、覆いをかけてしまい、解答が出ていないまま、走りつづけています。先週滝元順牧師もお話していましたが、日本人にとって生きることは現実ですが、「死」ということになると「宗教」になってしまうのです。死ぬことなど考えたくもない。だから突っ走って、突っ走って、わけのわからないまま突っ走って、「死」に飛び込んでしまう。あなたもわけのわからないままで、人生の目的も分からずに進んでいませんでしょうか。ルカによる福音書 12章16節〜21節にはこのように書かれています。

『それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」』

 あなたはこのみことばを読んでどのように思いますか。私は二つの葬式の働きをさせて頂きながら「いったいだれのものになるのか」という所が、心に響いてきました。

『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

聖書には答えがあります。私たちはイエス・キリストを信じる時、私たちは救われます。天国に入ることができます。永遠のいのちを持つことができます。死ぬことは恐ろしいことではありません。
あなたは何のために生きていますか?そして、何のために働き、何のために勉強していますか?人生の目的がありますか?私たちクリスチャンは「神さまのために生きる」という目的があります。ただ神の栄光のために私たちは働いています。神さまのために勉強させていただいています。私たちには生きる目的があり、行く場所が分かっています。この厚い書物、聖書の中で「最も大切なこと」として書かれていることをご存じでしょうか?それは、第一コリント15章3節〜4節

『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと』

 このみことばが最も大切な言葉です。私たちは生まれて、誰からも教えてもらっていないのに嘘を言い、罪を犯し始めます。聖書は「罪を犯したら、裁かれなければならない」とあります。そのために罪の意識があり、死の恐怖があります。しかしイエス・キリストはあなたの罪のために身代わりになり、十字架にかかり、死んでくださっていました。イエス・キリストはなんの罪もないひとり子でした。しかしあなたの罪のために十字架にかかり、あなたが行かなければいけない罰せられる場所に、代わりに行ってくださいました。そして聖書に従って三日目によみがえられたと言われています。そして第一コリント15章54節〜57節

『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』

 ただイエス・キリストを受け入れるお祈りをする時、あなたの口で「神さま、私の心の中にお入り下さい」、「あなたを神さまとして信じます」と告白する時に、この15章57節にある通り、神さまは死から勝利を与えてくださいます。クリスチャンは死ぬことは怖くありません。天国に入ることができる確信を頂いています。だから行き先が分かっているので恐れもありません。備えができているのです。また先に天国に帰っていった家族や、兄姉と再会できるという望みがあります。クリスチャンが備えているものは、イエス・キリストです。今日、是非このイエス・キリストをあなたの神として信じて下さい。またクリスチャンの中でも、この救いを簡単に考え、神から離れている方はいませんでしょうか?私はこの頃、すごく心の中で思わされているみことばがあります。それはヘブル人への手紙 12章16節〜17節

『また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。』

 今日、イエスキリストに対する信仰をもう一度考えていただきたいのです。「救い」は永遠です。しかし、逆に「裁き」も永遠です。「救い」は全くの恵みによって頂くことができます。ただ信じるだけです。簡単なことです。あなたが「信じます」と告白したら救われます。しかし救いを軽くかんがえていませんでしょうか?この今読んだ所にエサウという人物が出てきます。アブラハム、イサク、ヤコブとあるこのヤコブの兄弟で、エサウが長男、ヤコブが次男でした。ヤコブは炊事をするのが好きであり、エサウは狩りが得意でした。ある日ヤコブは家で赤い豆を煮ていたそうです。エサウはいつものように狩りをして、家に疲れ果てて帰って来ました。家に着くとおいしい匂いがしました。それはヤコブの料理でした。「ヤコブ、俺にこの赤い豆を食べさせてくれ」と言った時、ヤコブは「お兄さんが持っている長子の権利を売ってくれたらこの豆をあげる」と言ったのです。交換条件でした。長子の権利とは、長男が父の身分を継いで種族の代表となる様々な特権のことです。しかしエサウは一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったのです。「売ってやるから食べさせてくれ」と言って、一時の欲望に負けて、その食べ物を食べました。その後、泣いても祝福をもらうことができませんでした。今日、あなたの救いを、悪魔がねらっています。様々な欲求を、私たちに与えてきます。そして信仰生活が堅苦しく感じさせてきます。聖書にはヤコブ1章14節〜16節に

『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい』

 今日、私たちクリスチャンがいただいたその祝福を、その救いを、絶対に手放してはなりません。 だまされないで下さい。第二ペテロ2章13節。リビングバイブルでは

『彼らは正直者を装って、愛の交わりに加わりながら、一方では、胸のむかつくような罪の生活を送って、あなたがたをだましているのです。 』

 最もらしく、甘い言葉を送って私たちをだましてきます。第二ペテロ2章17節(リビングバイブル)

『このような偽教師は、干上がった泉のように、何の役にも立ちません。 口約束を重ねるばかりで、何一つ実行しようとしないのです。 まるで嵐に吹き飛ばされる雲のように、少しも落ち着きがありません。その行く手に待ちかまえているのは、暗やみにおおわれた、永遠の落とし穴です。』

 これぐらいいいじゃないか、と罪を軽く考えさせ17節の最後にあるように「暗闇におおわれた永遠の落とし穴」に悪魔は引きずり込むのです。第二ペテロ2章20節(リビングバイブル)

『主であり、救い主であるイエス・キリストについて学び、この世の悪い生活から、いったん足を洗った人が、またもとの罪の生活に舞い戻り、その奴隷になるなら、その状態は以前より、もっと悪くなるでしょう。キリスト様を知ったあとで、目の前のきよい戒めに背を向けるくらいなら、キリスト様について何にも知らなかったほうが、はるかにましです。古いことわざに、「犬は自分が吐いた物をなめ、豚はいくら洗ってやっても、どろの中をころげ回る」というのがありますが、まさに罪の生活に舞い戻る人々に、ぴったりのことばではありませんか。』

 クリスチャンの方、あなたは今は信仰にどこに立っていますか?本当にこのイエス・キリストのきよさの上にしっかりと立っていますか?これぐらいいいじゃないか?隠していればいいんじゃないか?後から悔い改めればいいんじゃないか?とそんな軽い気持ちで、罪を重ねていないでしょうか?このヤコブやペテロの時代は約2,000年程前です。その時も、「誘惑があるから気をつけなさい」と言っています。しかし、今の時代はどうでしょうか?2,000年以上経ち、もっと誘惑のある時代です。今は情報化社会です。先ほど演奏して下さった「ケリグマ」の方々が住んでいるペルーであったことでも、今日すぐに知ることができます。インターネットやテレビで、映像を見て生中継できる時代。またクリックするだけで、淫らな映像を見ることができてしまう時代。テレビ、雑誌などでの当たり前のようにそのような性的な乱れがあり、結婚生活も破壊され、若者もけがされています。聖書は変わらないのに、私たちの信仰が曖昧になってしまいます。主は裁きを与えるとあります。あなたの信仰はどうでしょうか?犬は自分が吐いた物をなめ、豚はいくら洗ってやっても、どろの中をころげ回るとあるように、せっかくきれいな者になったのに、自ら「自分が吐いた物をなめ」「どろの中をころげ回って」しまっていませんか?救いを軽んじていませんか?今日是非とも覚えていただきたいのです。最後に三つのみことばをみなさんに紹介して終わりたいと思います。このみことばを信じてください。そして実行してください。一つ目は第一ヨハネ1章9節

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

私たちが自分の罪を言い表すなら、神は罪を赦して下さいます。そして詩篇32章5節

『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』

「そむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦される。とあります。そしてルカによる福音書5章20節

『彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。』

 主は、あなたが告白した時に、あなたが告白して悔い改めた時に、主はその罪を赦してくださるとあります。今日、あなたは何の備えをしていますか?あの森島さんのご主人が私と電話をした時に、「家内が亡くなって、私の心にあるのは、『いつも備えていなさい』という言葉です。」と言われました。いつ私たちは死ぬかわかりません。自分で生きているようであっても、生かされています。主があなたの命を握っています。今日あなたもイエス・キリストが最も大切なこととして伝えた、イエス・キリストがあなたの罪のために、十字架で死んで、葬られて、三日目に甦られたということを信じてください。今日自分は大丈夫なのか?備えているかどうかを確認していただきたいと思います。今日死の恐れから、死の苦しみから勝利を取ってくださる神、イエス・キリストがあなたの心の扉をノックしています。あなたが、「イエス様、私を救ってください。私の心の中にお入りください。あなたを神と信じます。」と祈って下さい。最後にお祈りします。

『愛する天のお父様、今日、私たちはあなたの前にへりくだります。主よ、一人一人に語ってください。あなたの前にふさわしくない行いがあり、まだ行くべき道がわからなかったならば、主よ、私の心の中にお入りください。私に触れてください。今日、全ての罪をイエス・キリストの十字架によって赦してください。あなたが私の身代わりになってくださって、三日目に甦ってくださったことを信じます。今永遠の命に導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。』


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