「今が旬!?イスラエルの奥義を知って主の大波に乗る」


2010.5.30(SUN)
イスラエル宣教師 石堂ゆみ 師

ローマ人への手紙 11章25節〜27節
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

石堂ゆみ先生の紹介(滝元順牧師より)
 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は石堂ゆみ先生をお迎えし、メッセージを聞かせていただけることを心から感謝しています。先週もペルーから下田宣教師が来られ、今月は世界宣教月間のようですが、世界宣教の重大さと意義を知ることができますことを心から感謝します。
 私たちが教会でいつも語っていることは、全てイスラエルのことです。イスラエルについて毎回聞いているのですが、そのイスラエルについて、実は、あまり知らないのです。しかし、イスラエルを知ることは本当に重要です。
 今日のメッセージ・タイトルは、「今が旬!?イスラエルの奥義を知って主の大波に乗る」です。すごいタイトルです。今日はみなさんに大波に乗っていただきたいと願います。イスラエルのことを知らないと小波ですが、イスラエルのことを知ると、大波に乗ることができるのです。しかし、大波に乗り損ねると、こける場合もあるので、やはり正確な情報が必要です。そんな中、石堂先生は数あるイスラエル関係の教師の中で、最もシャープに中心を捉えて働いておられる方です。ですから今日はみなさん期待していただきたいと思います。
 先生はイスラエルに拠点を置き、日本との繋ぎ役として働いておられます。先生の経歴は本当にユニークです。クリスチャンになる前、先生は看護士で、それもイスラエルのヘブライ大学病院の脳外科に勤務され、その後、イスラエルでクリスチャンになられたそうです。普通はイスラエルでクリスチャンにならないです。クリスチャンに一番なりにくい国がイスラエルですけれど、1990年にクリスチャンになられ、その後、アメリカのニューヨークのマウント・サイナイ病院というユダヤ人経営の病院に勤務され、その後、この働きに入られたそうです。
 今日、先生のお話を聞くことによって、普段、私たちが知ることができないイスラエルについての情報を得ることができると思います。それを知ってとりなして祈る時に、大きなリバイバルにつながると信じています。
 今年、私は感謝なことにイスラエルに2回ほど行かせていただきましたが、1月に行った時に先生とお会いして、家内と共にお交わりさせていただきました。今回、日本に帰っておられると聞いたので、是非とも新城教会で奉仕してください、と礼拝と午後からのセミナーをお願いしました。午後からはもっともっと細かくお話してくださいます。この礼拝だけでは完結ではないと思いますので、みなさん午後からも出て、恵みを受けていただきたいと思います。一緒に高井さんという素晴らしい賛美をして下さる方も来られました。楽しみにしていただきたいと思います。みなさん大きな拍手でお迎えしたいと思います。ではよろしくお願いします。

 みなさん、おはようございます。憧れの新城教会に寄せていただいて感謝しています。私は加古川バプテスト教会に所属していますが、先月も、明先生が私たちの教会に来てくださいました。また開先生ご夫妻と賛美チームの方々にも何度も来ていただき、新城の祝福をいっぱいいただいております。今日も新城に来ると言いましたら、行きたいという人がたくさんいましたが、今回は高井姉妹と一緒に来させていただきました。
 私は今、イスラエルの宣教師として正式に教会から派遣され、去年からイスラエルに行っています。私は約20年前にイスラエルでイエス様の救いをいただきました。日本が嫌いで、どこでもいいから行きたかったのですが、たまたまイスラエルに流れつきました。そしてユダヤ人のキブツに居た時に、そこの図書館になぜか日本語の聖書があり、ユダヤ人の人が、「これはここにあっても誰も読めないから、あなたにあげましょう。」と言われ、聖書が私のところに転がりこんできました。ですから、私は本当にイスラエル、ユダヤ人に、大きな借りがあります。そして、アメリカにも住み、回り回って日本に帰ってきて、まさかまた現地に戻るとは夢にも思っていませんでしたが、また戻ることになりました。
 今、イスラエルという国を通して、いろんなことが動いています。神様がいろんな人を起こして、イスラエルの話をしたり、セミナーをしたりしています。私もそのうちの一人だと思いますが、神様が今私たちに伝えようとしておられることを、少しでもお伝えできたらと思います。このお話を始めさせていただく前に、高井姉妹にイスラエルの賛美をしていただきたいと思います。

『聖なる 聖なる 聖なる 主なる神 全能者 昔いまし 常にいまし やがて来られるお方』

(祈り)『愛する天の父なる神様、あなたはこの天と地を造られ、私たちを造られ、罪を犯した私たちを見捨てずに救い主を送ってくださいました。あなたは昔も今もそして未来も変わることのないお方であることを感謝いたします。あなたの愛は変わることはありません。イエス様、今日もそのことを覚えて、あなたの御心を受ける時としてくださいますよう、お願いいたします。あなたがどうぞこの所に深くご臨在くださり、あなたの御思いを私たち一人一人にお与えくださいますよう、お祈りいたします。
 主よ、あなたの御名を誉め讃えます。救い主なるあなたの御名を誉め讃えます。尊いイエス様の御名によってこの一時の祝福をお祈りいたします。アーメン。』

 今の曲は、「主は昔も今も、そして未来も変わることがない」という御言葉の賛美でした。

 私は先日、大阪で預言の賜物がある先生とお話しをする機会がありました。その方は、世界に、そして日本になにか祝福の大きな波が来るとおっしゃっていました。しかし、その波に乗れるのは全員ではなく、一部の人かもしれないともおっしゃいました。また、中には、その大きな波が来ていることにも気がつかない人たちもいるかもしれない、ともおっしゃいました。
 もちろんそのような波に乗れなくても、私たちは救われているものなので、救いを失うことはないわけですが、もしそのような祝福の大きな波が来るのならば、それは絶対に見落としたくないと私は思いました。

 波に乗ると言うと、みなさん何を思い浮かべるでしょうか?もちろんサーフィンが一番に出てきます。サーフィンをしているのをテレビで見ていると、大きなウェーブに気持ちよく乗っておられます。そのように、神様の祝福の波がわーっと来た時には、私たちがそれに乗っているだけで、祝福がどんどんやってくるのだと思います。すいすいとその波の上を乗っかっているだけで、祝福が来るような大波ではないかと思います。私はサーフィンをやったことがありませんが、聞いたところによると、サーフィンで波に乗ろうとする時には、遠くから来そうな波を見て、構えて待ち、一番いいタイミングに乗るのだということです。近くまで来るのを待っていては遅いのです。タイミングを逃してしまうと乗れないというのです。

 聖書を見ると、何度もイエス様は「目を覚ましていなさい」と語っておられます。「主がいつ帰ってこられるか分からないから、目を覚ましていなさい」と語られています。これは読みようによっては警告のように見えるかもしれませんが、私はそうではないと思います。警告ではなく、「目を覚ましていなさい。その時が来るから期待して待っていなさい。」という御言葉だと思います。そして「目を覚ましていれば、遠くから来るような祝福の大波が見えるはずだから、それに乗りなさい」という御言葉だと思います。
 聖書というのは文字で書かれているので、実際に書いた人がそれをどんな思いで書いたかというのは伝わってきません。ですが、それをどんな思いでこの人が書いたのだろうかと想像しながら読んでいくと、わくわく感が湧いてきます。
 先ほども読んでいただいたローマ人への手紙11章25節〜27節も、つらつらと読むと普通に読んでしまいますが、この部分はパウロが本当に感動を持って、喜びを持って語っているところです。

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい!」と始められています。これを原文で読むと、「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知らないでいてもらいたくない。」ということだそうです。ここに、余りにもエキサイティングなので、知らないでいてもらいたくない、見逃さないで欲しい、というパウロの喜びが表されています。「すごいのだよ、知らなかったら損んだよ」というくらいの意気込みがここにあります。
 では、パウロが見ていたものは何だったのでしょうか?それはパウロの時代から遙か彼方のことでしたが、彼は遠くにある大きな波を見ていました。そして、それが「イスラエルの奥義」だということです。
 「奥義」という言葉は、英語で言うと「ミステリー」です。実は「隠れていてまだわからないこと」という意味です。しかし、パウロはそれを一番最初に見つけました。そして、今興奮して、これを伝えたいと語っているのです。
 
 では、パウロは何を発見したのでしょうか?これはイエス様を信じているイスラエル人と、イエス様を信じている異邦人との関係、神様のご計画にあるこの二つのものの関係のすごい奥義だというのです。
 パウロがこのローマ書を書いた時というのは、実はイエス様を信じているイスラエル人(ユダヤ人)と異邦人とが自分達の立場や位置をどう置いたらいいのかわからず、互いに「ユダヤ人が上だ。異邦人が救われたからこっちが上だ」と争っていました。それが、この当時のローマのクリスチャン達でした。パウロはその人達に向かって、「この二つのものがどう動いて行くのか、そして、それに伴う祝福がどうなのかということを、一番最初に神様に教えていただいたから、知らないでいて欲しくない」と言っているのです。

では、パウロが見ていたその奥義というものは何だったのでしょうか?
 ローマ人への手紙 11章25節〜27節、

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

 ここにすごい奥義が書いてあります。「あなたがた」というのは異邦人のことですが、「自分で自分を賢いと思うことがないように」とパウロは言っています。これはどういうことかと言うと、「イスラエル人」というのが、実は「天地を造った神様と一番最初に契約を結んだ人達である」ということなのです。
 これは私たちが聖書を見れば明らかです。天地を造った聖書の神様が、最初に契約を結び、「あなたがたはわたしの民である、私はあなたの民です」という、親子関係の契約を最初に結んだのがイスラエル人だからです。なぜそんな契約を結んだかと言うと、神様が人を造られたのですが、その人々が罪を犯して離れて行ったので、それを自分の元に引き戻すための計画を立てたのです。そのために、その計画を表す人々が必要でした。それで、一番最初に親子計画を結んだ人たちがイスラエル人でした。その契約は、本当に奥の深い契約であり、これは実はイエス様が来られて、救われる道が出来る何千年も前の話です。要するに、私たちは今神様と素晴らしい関係を持っていますが、もっと前から、神様がお付き合いしていた人がいる、ということなのです。
 イザヤ書60章14節〜16節、

あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来、あなたを侮った者どもはみな、あなたの足もとにひれ伏し、あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。あなたは捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかったが、わたしはあなたを永遠の誇り、代々の喜びの町に変える。

 ここには、神様がやがてはエルサレムを世の光にすると書かれています。ローマ書に戻ると、パウロは「あなたがたは自分で自分を賢いと思わないように気をつけなさい」と書いてあります。これは「私たちが救われる前から、この人たちは神は付き合いをしていたが、今彼らは救われておらず、本当にひどい状態になっている。けれども、それでもなお、神の約束によると、彼らの街、エルサレムが光として輝く時が来るのだ」ということです。
 パウロがここで、「あなたがたは自分で自分を賢いと思わないように気をつけなさい」とい書いているのは、このイスラエルの人たちと神との関係は、余りにも深く、私たちはそれを馬鹿にしてはならない、気をつけなければならない、ということなのです。

 先日、ある牧師の家に産まれ育ったアメリカ人女性と話をしました。彼女はイスラエルのことをあまりわかっていない方でしたが、彼女の父である牧師先生から、いつも「ユダヤ人に会ったら、この人たちは神様の目に本当に貴重な存在として映っているのだから、彼らに敬意を払いなさい。決して彼らを見下げたりしないように。たとえ救われていなくても、ぞんざいに扱わないように注意しなさい。」と言われながら育ったそうです。
 私たちは神様の御心というものを全て理解するということはできません。ですから、いくら彼らが今救われておらず、イスラエルという国が本当に悪い国に見えたとしても、神様の計画というものは、私たちに全部は見えないのです。私たちが救われる前からこのように始まっている計画を担っている民ということで、私たちはむしろ恐れを持って接するべきなのです。これはちょうど神様に対して恐れを持つように、神様が最初に選んだ人だから恐れを持ちなさい、ということです。私たちは先に今イエス様を信じて救われて、天の父の所に帰っていますが、その前があったという、その奥義をまず一つ信じなさい、ということです。パウロは他のところにも書いています。エペソ書にも「あなたより先にいたんだよ」ということが書かれています。これが奥義のまず一つ目です。

 そして、奥義の二つ目は、「神様と契約を結んだイスラエルの人々が、実は契約を守れなかった」ということです。これが旧約聖書に書かれていることですが、人々は契約を全然守れず、いろんな預言者が来てそれを修正しようとしたけれども、出来ませんでした。そしてイエス様はそれを修正するために地上に来られました。イエス様はある日突然やって来て十字架にかかられ、全人類の罪のために、とおっしゃったわけではないのです。それをしたとしても、その意味はわからなかったと思います。
 しかし、このイスラエルと神様との付き合いをずっと見ていくと、人間は罪人であって、神様との契約を守れないものでした。しかしその修正のため、神様との元の関係に帰るためには、イエス様の十字架の犠牲、そして復活がなければ救われない、ということがわかります。イスラエルの歴史を見ればそれがわかります。
 ところが、彼らはそれを断りました。イスラエルの人たちのほとんどは、せっかく彼らのところに来てくださったイエス・キリストの救いを受け取りませんでした。

 それで、そこから私たちが登場します。神様は先に私たち異邦人の目を開いてくださり、彼らがいらないと言ったその救いを見えるようにしてくださったので、先に私たちがそれを受け取ることができるようになりました。
 そしてパウロがこのローマ書で言おうとしていることは、なぜ先に契約を結んでいたこの人たちよりも全然関係のなかった私たちが、先に救われたのかということです。これがローマ書の11章に書かれています。
 ローマ書11章11節、

彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

 この「違反」というのは、「救い主を受け入れなかった」という失敗です。「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」と書いてあります。そして、それはなぜかと言うと、イスラエルにねたみを起こさせるためだと言うことです。神様はもちろん私たち異邦人を愛して、救いに導きたいからそういう風にされたわけですが、神様というお方は転んでもただでは起きないといいますか、そつがないと言いますか、自分の我が子よりも先によその子を救ったけれども、その目的というのはその子達を救うためではなく、今度はそれを用いて、自分の家の子供を救いに導こうとしておられるのです。ここに理由があるのです。それは何故かというと、「イスラエルにねたみを起こさせるためです」と書いてあります。実はこのイスラエルに異邦人がねたみを起こさせて、イスラエル人を救いに導くということは、申命記の時代に既に書いてあります。
 申命記32章21節、

彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。

 「彼らは」というのは「イスラエルは」ということです。イスラエルは本物の神様をもっていながら、よそのつまらないものを拝んで、神様の燃えるようなねたみを起こした、ということです。パウロがローマ書で言っていることは、既に申命記にしっかり書いてあったのです。パウロはいかに興奮したでしょうか。イエス様が来られて、異邦人がどんどん救われている姿を見て、「あっ、この申命記が本当になっているー!」ということが、元パリサイ人のパウロにははっきり見えていたはずです。これは彼にとっては、ものすごくエキサイティングなことではなかったかと思います。神様の目から見ると、私たちは愚かな民であり、民ではないものでした。しかし先に救われてこの神様に「天の父なる神様」と私たちが今言っているということは、大きなあわれみと祝福を受けていることです。それを思う時、この御言葉通り、じゃぁ今度は神様が最初に我が子と呼んだその人たちのために働いていこう、私たちが救われた理由は、そこにもあるんだということをパウロは言っています。
 みなさん、流れが見えてきていますでしょうか。

◆パウロが見ていた主の大波
@イスラエル人が神と契約を結んだ
A契約を守れなかったため、神はイエスを送られた
Bイスラエル人はイエスを拒否したため救いはまず異邦人に与えられた
Cその異邦人が彼らにねたみを起こさせることによってイスラエル人が救いに導かれる

そして、次に救われた彼らがどうなるかということです。
もう一度ローマ書に戻ってみましょう。
 ローマ書11章26節〜27節、

その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

 これを見ると、「異邦人の完成のなる時」があり、異邦人で救われるべき予定の人が全員救われたら、その時に生き残っているイスラエル人がみな救われる、と言うのです。そして「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と、彼らが救われてイエス様を呼び求めた時に、イエス様が帰ってこられるということなのです。
 このイスラエルの民の役割とは、救い主であるイエス・キリストをこの地上で迎え入れる器だということです。最初にイエス様がエルサレムに来られた時、ユダヤ人達が「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と叫び、その時にイエス様が来らました。ですから、今度イエス様が帰ってこられる時も、同じように帰ってこられると聖書に書いてあります。イスラエル人たちがエルサレムにおいて、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」とイエス様に向かって言う時に、イエス様が入ってこられます。そういう使命を彼らは持っています。だからパウロがここで、「兄弟たち。私はあなたがたにこの奥義を知らないでいてもらいたくない」とパッションを込めて語ったのは、神様の計画というのが「イスラエル人」と「異邦人」が、うまく互いに働きあって再臨が来て、救いが完成し、神の計画がなるということです。決して私たち異邦人が教会だけで神様の計画がなるのではなく、イスラエル人たちと共にオーケストラのように一つとなるときに計画がなるんだ「その奥義を知らないでいてもらいたくない」とパウロは語っているわけです。
 当時のローマの人たちは、一切そういうことが見えていなかったのです。ユダヤ人のほうが偉いんだ、いや、異邦人のほうが偉いんだ、ともめていたわけです。それらに向かってパウロは「そんな馬鹿なことを言っていないで、神の用意しておられる大波を見て共に祝福を得ようではないか」とパッションを込めて伝えているのです。

 みなさん、パウロのことを考えて欲しいのですが、パウロは元パリサイ人です。パリサイ人から見ると、異邦人というのは、非常に汚いと言ってもいいくらい下なのです。食べてはいけないあの豚と同じくらいの位置であり、神様ですら申命記で「愚かな民」と呼んでいる、そういう人たちなのです。ところがパウロは自分で「私は異邦人の使徒です」と言っています。パウロは元パリサイ人だったので、絶対自分の民に福音を伝えたかったはずです。しかし、「神様は私を異邦人にしたのだ」と自信を持って言っています。元漁師であったペテロですら、救われた後、自分がユダヤ人だから異邦人とは交わらなくなったりしているのにも関わらず、元パリサイ人のパウロが「私は異邦人の使徒になった」とはっきり言っています。どうしてそこまで神様の御心に従順に喜んでその働きを受け取ることができたかと言うと、それは将来に見えている大きな神様の計画に乗ってくる波、その計画を見ていたからなのです。

 では、私たちの今の時代にどんな波が来ているのかということを考えたいと思います。
ローマ書11章32節〜33節、

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 もちろん、これはユダヤ人も異邦人も神様の前にそれぞれが一人ずつ罪人ですから出るのは当たり前のことです。ところがよく考えると、ユダヤ人を塊で考える時、「せっかく来てくださった救い主を断っちゃった」という民族的な罪を抱えています。そして異邦人も、異邦人としてのグループとしての罪を負ってしまいました。それはなにかと言うと、この目に入れても痛くないと言っている神様の民を、イエス・キリストの御名で長い間、迫害したからです。今日の午後はそのお話も少しさせていただきたいと思っていますが、「教会」と呼ばれるところでユダヤ人は迫害され、虐殺されました。ですから、今、イスラエルに行きイエス様の話をしても、みんなすっと引いてしまいます。
 私はアメリカ人でユダヤ人のお友達がいるので、ある時、イエス様の話を出して「イエス様はあなたのことを愛しているんですよ」と言ったら「それだけは言わないでくれ」と言われました。「イエス様が私を愛している?止めてくれ、それだけは毛穴がたつほど嫌だ。」と言われました。それほど、イエス・キリストを信じていると言っている人にユダヤ人は迫害されてしまったのです。本来、イスラエルにねたみを起こさせて、救いに導かなければいけないこの異邦人というグループが全く逆の動きをしてしまったのです。私たちもそれを背負っていますけれども、彼らを最も福音から遠いところへ引き離してしまったのです。先ほど読んだ32節に「すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」とありましたが、ユダヤ人も神の前に頭が上がらない罪を犯してしまいましたが、異邦人もまた神様に対して大変な罪を犯してしまいました。この大きなグループとしての罪を両方が犯してしまったということで、この32節は、今私たちの時代に更にリアルになってきたということです。

 そして、長いことイエス様を拒否したイスラエルの人たちは、自分の土地を追われ、国もなくなりました。しかし、またあの場所に、全く同じイスラエルという名前で聖書時代と同じようにユダヤ人の国が出来ているのです。これはなんといっても、イエス様が再臨される印にほかなりません。そして、それだけではなく、今の時代になって、異邦人の側が歴史的に大きな間違いをしたということに気がついてきました。イスラエルの人たちに謝罪の意味を込めたり、「イエス様はあなたたちを迫害するものではなくて、愛している人たちなのですよ」、ということを伝えようとしている団体が、世界から山のように起こって、今、イスラエルの国を一斉に祈ったり支援したり、ラッシュ状態なのです。私は現地にいると感じますが、旅行者のグループは世界の隅々からやってきますし、貧しいユダヤ人を助けるクリスチャンはたくさんいらして、本当にラッシュ状態です。これは、パウロの時代よりも、更に更に大きな最後の祝福の波に近づいている証拠です。そして、このイスラエルの国、この再臨が余りにも近いというので、サタンが非常に動いて、再臨がないようにするためにはどうしたらいいかと言うと、あそこにユダヤ人にいなければいいのです。だから、イスラエルはないものにしよう、政治的にも戦争があったり、いろんなことであそこから排除しようと動き、イスラエル人たちが救われるのを妨げる動きがたくさん内側から起こっています。

 マタイの福音書に「これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」と書いてあります。だから、このイスラエルと神様の計画というのを見ると、波がもうすぐ来る、再臨の前の祝福が来る、というのがわかるのです。ですから、私たちは構えていて、リバイバルの波が来たら乗ろうではないか、ということです。

 では、その目を覚ましていなさい、というのは具体的にはどういうことかということです。
ローマ書 12章1節、

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

 今日はイスラエルに焦点を当て、その視点でお話をさせていただきますけれども、私たちにとってイスラエルという国は非常に遠い国です。位置的にも遠いです。よくわからない国です。更にいろんなニュースを聞くと、イスラエルは悪い国にしか聞こえないというのが事実です。ですが、それだからと言って、この神様の奥義を見落とさないようにしましょうということなのです。神様はイスラエルをいい国だから選んだわけではないのです。神様の目的、役割のために選んだのです。彼らが良い悪いというのは、私たちには分からない分野でもあります。私たちも罪人なのに、なぜ私が救われたのか、というのとよく似ていると思います。ですから、イスラエルが遠くて良く分からない国であったとしても、この奥義を見れば、私たちは彼らのために祈るという使命、また、彼らにねたみを起こさせるという使命があるということなのです。これは私たちの感情と反しているかもしれませんが、神様に私たちを生きた供え物として捧げるということは、私がどう思うとかいうことではなく、神様が持っておられる計画を行う、ということなのです。これは信仰のあらゆる面に当てはまることですが、このイスラエルの奥義を考えるにしてもあてはまることです。よくわからなくても、この奥義、神様の計画に従って私たちはそれをしていく、ということです。
 ローマ書 12章2節、

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 私たちの教会も、何年前かまではイスラエルのことなんて全然祈らない教会でした。しかし、この奥義を受け取り、私たちの意志とは関係なく、神様の御心だからやるんだ、と言った時に、みんなが変わってきました。自分のやりたいことではなく、とにかく神様の計画をやろう、神様の願っておられることをやろうとみんなの意識が変わってきたのです。教会全体が変わってきたと、牧師はいつも言っています。パウロもそうです。自分の意志とは関係なく、異邦人の使徒になったというのは、心の一心が彼のうちにあったんだ、ということです。
 ローマ書 12章3節、

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 私たちは異邦人として、異邦人にしかできないことを慎みを持って神様のおっしゃることをやって行こうということです。そして、私たち日本人がこのパウロの言う奥義にとってどのような役割があるのかということを、知ることは非常に大切です。
 私たち日本は具体的にどのように召されているのか、ということを知る必要があります。わきまえつつも主の御心がわかればそれをやっていくということです。

 まず一つは、私たちは日本人として日本に置かれていますので、日本人の救いのために働くというのが一つです。というのは、異邦人の数が満ちる時にイスラエルの救いが来ると書いてあるからです。ですから、私たち日本人に与えられた役割は、もちろん日本にいる異邦人、日本人の救いのために今働くということが大きな使命の一つです。日本にまだ救われる予定になっている人たちがたくさんいるのです。それが全部救われた時に、ユダヤ人達が救われるわけですから、その働きをしていくことです。

 そして二つ目に、祈り、とりなし、ということです。ユダヤ人たちはまだ救われていませんので、自分で自分のために祈ることはできません。しかし、私たちはそれを祈ることができるわけです。実は、イスラエルが建国された時に、日本で熱心にイスラエルの建国のために祈っていたクリスチャン達がいたことを聞いています。その人たちはただ御言葉に従い、イスラエルが建国するはずだ、と信じて祈っていたそうです。

 そして、三つ目に、ユダヤ人に福音を伝える、ということです。私は今イスラエルに行ってユダヤ人に福音を伝えようとしていますが、異邦人でありながらユダヤ人に福音を伝えるということは、非常に難しいところではあります。しかし、一方、大阪にいる韓国の女性の宣教師の先生は、「ユダヤ人伝道に日本人は一番向いてるんだ。だから私は日本人をいっぱいイスラエルに遣わしたいんだ。」とおっしゃっています。だから私はその第一号だ、なんて言ってくださるんですが、実はイスラエルに行きますと、日本人は割と好意を持たれています。そして、イスラエルに行くとそこにいる韓国人の人が「日本人は得だよ。韓国人よりも日本人はもっと好かれてるよ。」と言ってくれる人もいます。
 実際私もハイファ大学というところの学生で、日本語のエクスチェンジを通じて、今素晴らしい道が開けています。どんな道かと言うと、この秋に日本の若者達を連れて行って、そこで日本文化を紹介するイベントをやろうということで、今大学と話が進んでいます。そしてもう一つ、ビッグなことは、大学側が日本の教会にホームステイをさせて欲しいというのです。それで、学生を一人この秋に教会にお迎えすることになっています。ユダヤ人ですが、礼拝に参加もオッケーで、いろんなユースグループにも参加してもらいます。そのように教会にイスラエルの若者を送ってくれるのです。更には日本から向こうに送ってもいいというのです。来週イスラエルに行きますが、そういう風にして日本人だからできた、日本人だから開いてきた道なのです。ですから、そのようにして、もしイスラエル人の若い学生さんが教会に来たら、聖霊の臨在に触れるのです。いろいろなチャンスがあるわけです。だからそのように日本人としてのユダヤ人伝道というものも、今始まっていることを是非知っていただきたいと思います。
 ローマ書11章25節、

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

 イスラエルは今救われていませんが、神様のご計画によれば、彼らが救われる時が必ず用意されています。ですから、それを私たちは見据えていたいと思います。最後に少しだけビデオを見ていただきたいと思います。出エジプトをみなさんはご存知だと思いますが、十の災いがあって、そして奴隷になっていたイスラエルの民がエジプトから導き登られて、そして紅海に来たとき、前に行くしかない、でも前は海だし、後ろはエジプトがどんどん追っかけてくるしという、どうしようもない絶体絶命の時に神様は紅海を真っ二つに分けて、イスラエル人だけが通れるようにされました。そしてエジプトが後から追いかけてきた時には、その水が全部ふさがり、イスラエル人はエジプトに帰る道がなくなってしまいました。つまり完全に救われた、完全に昔の状態から決別したということです。神様はこの民にこれほどまで手をかけられ、直接手を下して、彼らを特別に扱いました。この神様は昔も今も将来も変わることがないのです。そう思った時、神様はやがて今度はイスラエル人たちを霊的に罪の奴隷から退去して、彼らを救い、あの紅海のようなところ、水の下をバプテスマのように彼らを通らせて、イエス様のところに連れ帰る時が必ず来ると確信いたしました。

 奇跡を起こされる神様は今も同じ奇跡を起こしてくださいます。神様は生きておられる、そのことを思いながら、このビデオを見ていただきたいと思います。

(滝元順師)
 普段ではあまり聞くことができないメッセージを聞くことができて、本当に感謝しています。私たちは救われて主を礼拝していますが、最初に神が人類と契約を結ばれたのはイスラエルを選んで契約を結ばれたわけです。
 しかし、彼らが福音を拒否したことによって、私たち異邦人と呼ばれる日本人に福音が転がり込んできたわけです。それで今、私たちは救われているわけですが、「この救いというのは私たちだけだ」と思っていると、それでは大波に乗ることができないわけです。ユダヤ人たちは疎外されたような感じで、救いを捨ててしまったことにより祝福を失っているようなところがありますが、それを私たちが「救いは俺たちのものだ、彼らは拒否したじゃないか」と言ってはいけないのです。イスラエルが救われると言う、大きな神様の約束があり、そのために私たち異邦人と呼ばれる教会は祈らなくてはいけないのです。
 異邦人の時が終わるまでに、そのことをよく祈り、今度はユダヤ人たちが救われて、異邦人の教会と一つになって、神をあがめて行く時に、今度はイエス様がこの地上に帰ってこられるのです。

 今、世界中にいろんな問題があって、人がいくらがんばってもこのままじゃ無理だな、というのを私たちは目の前に見ていますが、最終的にはイエス様はこの地上に帰ってきて、決着をつけられるのです。それをイエス様の再臨というのですが、そのためにもユダヤ人が救われることが重要です。そのための鍵が私たち異邦人のクリスチャンにあるわけです。イスラエルという国は遠い国で、我々とは関係ないと思っているかもしれませんが、そうではなくて、異邦人のクリスチャンたちがイスラエルのために真剣にとりなして祈らなければなりません。私たちは日頃イスラエルのことをあんまり考えることがないですが、このような機会を通して、イスラエルのために祈らなければなりません。そして、イエス様はユダヤ人であったのです。イスラエルで生まれ育ち、そこで十字架にかかってくださったわけです。教会ではいつもユダヤの文化について、またイスラエルについて語っているわけですが、我々がイスラエルをよく知り、祈っていく時に、日本にリバイバルが起こると信じています。

今から聖餐式を行いますが、イエス様がイスラエルに生まれて、十字架にかかって死んでよみがえってくださったのです。それはただユダヤ人だけでなく、異邦人である私たちのことも思ってくださったのです。そしてまたユダヤ人が心をかたくなにしていますが、やがて最初に契約を結んだユダヤ人たちに救いをもたらします、という偉大な計画が含まれているわけです。
 今日、私たち異邦人として救われたものたちが、このユダヤ人の救いについても祈らなければなりません。イスラエルのためにとりなして行く時に、大きな扉が開かれていきます。石堂先生はそのために今働いておられます。私たちにそのような使命があることも覚えて今日は聖餐式を行いたいと思います。

 『ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今日はパウロが気づかされた大きな奥義について知ることができて、心から感謝を致します。あなたはユダヤ人と最初に契約を結ばれ、その後、このような私たち異邦人にも救いを広げてくださったことを心から感謝します。しかし今、イスラエルが心をかたくなにしていますが、その責任が私たち異邦人の教会にもあることを知りました。その罪を赦し、私たちがイスラエルの救いのために祈る時に、異邦人の教会も祝福されることを心から感謝します。私たちは日本のリバイバル、世界のリバイバルのために働いていますが、イスラエルのためにも心を砕いてとりなし祈る領域にも導きいれてくださいますように。それが結果的に日本に大きなリバイバルの波をもたらしますようお願いいたします。
 聖餐式を祝福してください。御言葉によって聖霊によってこの聖餐式がなされる時に、主よ、あなたの大いなる御業が私たちのところに拡大することを心から感謝いたします。これは私たちだけでなく、今閉ざされているイスラエルの民のためにも、主が流してくださった血潮であることを心から感謝します。今、私たち日本人、また異邦人の教会が犯した罪を赦してくださいますように。そしてイスラエルのためにも祈る者とさせてくださいますよう、お願いいたします。今この聖餐の糧を祝福してください。尊いイエス様の御名を通して祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。』


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