「神の愛の中で生きよう」


2010.6.6(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

第一ヨハネの手紙 4章12節〜16節
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日のヘブンリーキングダムの賛美、素晴らしかったですね。本当に喜びが湧き上がってきました。ここで賛美してくださるどのグループも素晴らしいですが、神を賛美することは本当に素晴らしいです。今日のヘブンリーキングダムは、服装がまちまちだったのが特に良かったです。あの脈絡のなさと言いますか、ネクタイの人もいれば、Tシャツの人もいれば、帽子をかぶっている人もいるというような感じが良かったですね。教会というのはこういうものだと思います。多様性の中の一致と言いますか、いろんな方がおられ、いろんなカラーがありますが、そこに神の愛が表されるのです。

 今日読んだ御言葉の中に「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とありました。「私は神を見た!」などと言うような人がいたら、ちょっと危ないです。聖書は「だれも神を見たことがない」と言っています。しかし、見えないお方ですが、見えるように、手にとるように感じることができるのです。それは「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」と約束されています。
 神様を見ることはできませんが、神がおられると分かるためには「互いに愛しあう」ことです。教会はイエス様がいなかったら成り立たない団体です。私も、イエス様がこの地上に生まれなかったら、生まれなかったものです(両親は教会で出会い結婚したからです)。神の愛によって集められ、お互いが愛し合う時に、神様がそこに現れてくださるのです。

 「一番好きな言葉はなんですか?」と聞かれたら「愛です」と答える人が多いです。特に私たちは愛知県に生まれました。素晴らしいですね。愛を一番良く知っている県に生まれたわけです。この間、これを話すと、「愛を一番知らないんじゃないの?」と言われました。日本の悪い指導者が愛知県から多く出たからです。私たちは神の愛を知る必要があります。教会とは、一つの大きなファミリーです。赤ちゃんもいれば、老人もおられます。ある時には嬉しいこともあり、時には悲しいこともあります。しかし、大きなファミリーの中でお互いにそれを分け合うのです。
 私は大家族に生まれまして、「分け合う」ことが嫌いでした。なぜならば、分け合うとどんどん小さくなり、少なくなるからです。私は今でも特技があります。いくつかに切り分けてあるケーキを見ても、一瞬にしてどれが一番大きいのかを0.1秒単位で判別し、そこに手が伸びるという特技です。今、私は家内と2人だけで住んでいますが、それでも大きなほうに手を出してしまう悲しさがあります。
 しかし神の愛は、分け合うともっと大きくなります。時々、悲しいこともありますが、悲しみは分け合うと小さくなります。

 2週間前、ここで長いこと共に礼拝を守っていた長谷川のおじいちゃんが天に帰られました。本当に寂しく思います。でも、95歳でしたからすごいです。最後の最後まで礼拝を守っておられました。天国に帰られる前の週にも礼拝に来られていました。「順先生、おはようございます」と挨拶して下さいました。しかし、次の週には天国に帰られました。私もそのように天国に行けるのかな、と思いました。私は長谷川家に行き、おじいちゃんの遺品を見せていただきましたが、たいへん感動しました。この教会は、やはり老人方たちの祈りによって支えられています。一人一人に役割があり、特にお歳を召した方々が祈ってくださっていることによって、教会も私も支えられています。私はおじいちゃんの祈りのノートを見つけたのですが、感動しました。教会の一人一人のために祈っていたし、私のためにも祈って下さっていました。
 ひとり一人の支えがあり、今があることを心から感謝しなければなりません。そして、そのような互いの愛によって、神ご自身が現われてくださいます。もちろん姿は物理的には見えないかもしれませんが、愛の中で神を知ることができます。なぜなら、「神は愛だからです」。

 神様を一言で表現すると「愛なるお方」です。ということは、私たちが愛の中に生きていたら、神を体験できるということだと思います。
 「神は愛です」という言葉は、日本人にはなかなか理解できないと思います。なぜならば、日本の神々は愛なる神ではなく、怖い神々だからです。よく拝めば神様風になるけれど、ちょっと放っておくと鬼と化してしまうからです。それなら始めから鬼じゃないかということです。大体、姿、形を見ても、怖い格好をしています。千手観音には手が千本くらいあります。あんなやつと手を繋いでデートしたい人なんて、誰もいません。不動明王も目がつり上がっています。愛なる神とはとても思えません。私たちが信じる神様は、そんな鬼のような神ではなく、とことん愛なる方なのです。ですから私たちが互いに愛し合うと、そこに神の姿が見えてきます。神が現されるためには、お互いの愛が重要だと教えています。教会の人数が多くなっても、お互いが愛し合っていたら、人々はさらに神を知ることができるのです。

 実は今週、私はペルーに行きます。3週間前に下田先生とケリグマという賛美グループの方たちがペルーから来てくださいました。たいへん評判でした。彼らの国、ペルーに行くことになっています。
 この教会には日本人だけでなく、インターナショナルな教会で外国人の方々も多くおられ、特に南米の方々が多くおられます。なぜそのようになったかと言うと、今から20数年前ですが、新城の文化の中心であるユニーの前でトラクト配布をしていたら、2人の外国人がいて、誘ったら教会に来られました。「どこから来ましたか?」と聞くと、「ペルー」と言われました。私は「ペルー?アフリカにそんな国あったかな?」と思いました。無知というのは怖いものです。調べてみたらペルーは南米にありました。その時から、外国人の方々のために働かなければならない、と主から教えられ、今ではスペイン語、ポルトガル語の礼拝が開かれるようになりました。毎週100人以上の方々が来られ、本当に活発にやっています。新城教会で救われ、本国に帰られた方々も少なくありません。ですから、それらの国々にもある意味、新城教会がありますから、時々訪問しお祈りすることが大事だと考えています。
 この間、ペルーから下田宣教師とレデル先生が来て、挨拶してくれましたが、彼らはペルーの貧しい地域で伝道しています。私は2月にネパールに行きましたが、ネパールとあまり変わらない位の貧困地域です。1日働いても給料が500円くらいにしかならない地域です。そこに生まれたら一生、その村で過ごさなければならないのです。だいたい10代で結婚して、子供を産んで、子供たちもそこで過ごします。最後にはそこで死んでいく人生です。レデル先生は下田先生と一緒に、一番貧しい地域で伝道しています。私は3年前にそこに行った時、「この村を神の愛によって助けなくてはいけない」と思わされ、みんなに「また帰ってきます」と言いました。しかし、あっという間に3年経ってしまいました。今回は、フェルナンド先生夫妻ともう一人、ここにも来てくださったアメリカ、タコマの竹内先生と一緒に行くことになっています。明日、アメリカのアトランタのペルー行きの飛行機のゲート前に集合です。祈っていただきたいと思います。

 実はこの写真が貧しい地域です。この村には「新しい天国」という名前がつけられています。なぜ天国かと言うと、家には屋根がないからです。みなさんの家で屋根がない家ってありますか?そういう家はないと思います。ここに行くと屋根がある家はほとんどないのです。なぜならば雨が降らないからです。
 通りの後ろには、山がかけたような部分があるのですが、これは3000年から4000年前に造られた霊を呼ぶための「ピラミッド」です。
 前回私がこの村に行った時、村には一つの問題がありました。それは、夜な夜なこの村には、お化けが出るというのです。夜中になると、ピラミッドの上から白い馬に乗ったお化けが降りてきて、村中を走り回るというのです。だから村人たちは怖くて夜は外に出ないのです。それが続いていたそうです。私が行った時、その話を聞き、「それはお化けじゃなくて悪霊ですから、クリスチャンはやっつけることができます」と話ましました。それで、私たちはピラミッドの上に登り、村のクリスチャンたちを集めて戦って祈りました。「この地を支配している悪霊の力を打ち砕きます!」と宣言して祈りました。
 それ以後、お化けが出たという報告がないそうです。私はゴーストバスターみたいですが、一つでも貢献できて感謝しています。

 また、ワッチョという地域の教会にも行きました。この地域は、魔法使いの街として有名です。年に一度、スタジアムに何千人もの霊能者が南米中から集まり、力比べみたいなものがあるそうです。そして魔法使いの徹夜祈祷会みたいなものが毎週月曜の夜、県民の森祈祷会みたいにやっているのです。その場所はワッチョの山の上にある湖です。私はそこにとりなしの祈りに行きました。
 そこで祈りをした後、地域の教会の牧師が食事をおごってくれました。レストランに行ったら店主が、「うちのレストランは本当に新鮮だよ」と自慢していました。なんで新鮮かと聞くと、「冷蔵庫がないから」と言っていました。冷蔵庫があるところは、ストックしていますので新鮮ではないという意味のようです。この地域ではネズミの一種を食べます。店の後ろの檻の中に飼ってあるネズミをつかまえて、からあげにしてくれます。私も食べましたが、ちょっと骨っぽかったです。

 私たちは新城だけでなく、世界中に神の愛を宣べ伝えなければならないのです。神の愛を宣べ伝える時、神の愛が全うされ、神がそこにおられます。
 第一ヨハネの手紙 4章9節〜12節、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 私たちは神を見ることはできませんが、愛の中に神を見ることができるのです。それは具体的に言うと、イエス様ご自身です。イエス様はどういうお方なのかというと、「神の御子」と表現されています。神様とは天地宇宙を創ったすごく大きな方です。目では見ることはできないはずですが、偉大な天地宇宙を創った神様を紹介するために、神が人となってこの地上に来てくださったのです。神が人となってこの地上に来た時、宇宙の神が地球に来てしまったので、宇宙は大混乱したということはありませんでした。神が人となって、この地上に来られましたが、宇宙は秩序を保っていたのです。と言うことは同時に神がおられるということです。
 聖書の真理の一つは「神の三位一体性」です。イエス様は神様ですが、同時に神は宇宙を支配しておられました。ゆえに、イエスさまは神の御子と表現されています。
 この地上に来て、イエス様は神の国について語ってくださいました。ペルーに行ったことがなくても、ペルー人に聞けば、「あぁ、そういう国なんですか」と理解できます。その国に住んでいた人たちに話を聞けば、その国の様子がわかるのと同じだと思います。私たちは神の世界はわからないけれども、神の国から来てくださった方から話を聞けば、神の国はどういうところか、神が人類に対してどういう思いを持っておられるのかわかるわけです。

 日本人は天地宇宙を創った神に関してあまり関心がありません。諸霊には興味があるのですが、天地創造の神というと、「え〜、そんなのいるんですか?」と言います。しかし、この秩序だった宇宙を見て、神はいないとは言えないのです。
 この頃の天文学の世界においては、「宇宙には始まりがあった」というのが定説です。何もないところから突然始まった、というのが定説です。それ以前は何があったの?ということに関しては分からないというのです。それは神が創造されたとしか説明がつきません。でも、進化論的な考えが強いために、それを認めたくないようです。しかしこの頃では、徐々にそれも変わってきています。人間がDNAレベルで解析されるようになりましたので、やはり人間以上の知的存在がいるのかもしれない、という考え方が科学の世界でも出ているようです。「神」という言葉はなかなか使いたくないようですが、「インテリジェント・デザイン」などと言って、なんらかの知的存在が根源に関わっているのかも知れない、という考え方が出てきています。

 この間も、ある本を読みましたら、人間が生まれ出るのは、神がおられると言うしか説明がつかないと書かれていました。人間の細胞の中には、どのように体を作るのかを記した設計図が既に入っていると言うのです。
 私の家族も人口が多くなってきまして、11月に息子のところに2人目が生まれます。私たち夫婦にとっては3人目の孫です。孫はかわいいです。早く孫を持つべきです。孫たちを見ていると不思議に思います。両親が何も教えなくても、知恵がつき成長していく過程を見ると、本当に神がおられると思います。お腹の中にいる時には「本当に出て来るのかな」と、ちょっと心配ですが、生まれてみると見事なものです。ちゃんと指が5本あって、目が二つあって、鼻の穴も空いていて、全てが整って出てくるのです。見事です。それは人間の体の中に、すでに設計図が仕込まれており、体を組み立てる命令が出るからです。目を作れ、手を作れ、耳を作れ、と同じ図面を見ながら、各細胞が分担して体を作るらしいのです。
 私は今、家を少し増築しています。息子達一家が帰って来た時、泊まる部屋がないこともあり、それと9月から私の友人のジョー先生の息子が新城教会に1年間ステイします。私の娘は3年もジョー先生の自宅に世話になったので、やはり彼を私の家で世話をしないといけないと思って、一部屋増築しています。
 大工さんに頼むと、図面を持ってきて部屋を作り始めます。何人かの大工さんに同じ図面が渡っているのですが、それぞれ分担が決められていて、同じ図面にそって大工さんたちの分担作業することによって家は出来るのです。人間の体も同じだと言うのです。分担で出来上がるというのです。
 それは、何らかの情報が各パートに伝達されるからです。「情報伝達」とは、何らかの命ある存在が関わらなければあり得ないのです。石ころには命がありません。ですから1000年たっても2000年たっても、石ころからは情報は発信されません。石ころが「俺。石だよ。石、石。俺ここ。」なんて伝えません。ある場所に置かれたら、1000年でも2000年でもそこにあるのです。でも知的存在がかかわったら、情報が伝達されるのです。人間の体ができるのは、手を作れ、足を作れ、というように情報伝達がされます。親がしているわけではありませんので、情報発信源には神がおられる以外に説明できないのです。

 長男の娘は2歳になったばかりです。この間、東京の家に泊めてもらいました。疲れていたので、ソファで電気をつけっぱなしで寝てしまいました。そうすると、夜中の3時頃、物音が聞こえるので起きたらびっくりしました。なぜならば、孫はまだ2歳ですが、夜中の3時にテーブルの上にDVDプレーヤーを持ち出し、横にお茶とおつまみを置いて、食べながらDVDを自分で操作し、笑いながら見ていました。
 「なんだこの光景は・・・」とびっくりしました。「いつの間に覚えたんだ、末恐ろしいな〜」と思いました。2年くらいしか生きていないのに、すでに情報を受け取って生きる姿は不思議です。

 神がおられます。神様は天地を創って放っておいたわけではなく、自ら人間になって地上に来て、愛を表してくれたのです。どんな愛を表してくれたかと言うと、私たちの身代わりになって、死んでくださったのです。
 人間には、誰にでも良心があります。悪いことをしたら「悪かったな〜」と。これはどこの国でも共通です。あの国の人たちには良心がない、なんてことはありません。世界中どこに行っても同じ基準があり、泥棒したら悪い、殺人したら悪い、嘘をついたら悪い、というように同じ基準があります。良心とは、神が人に与えた罪の基準です。神様が「それは悪いことだ、罪だぞ」と告げているのです。聖書は、「罪の支払う報酬は死だ」と告げています。罪を犯すと、ちょうど1日働くと給料をくれるのと同じように、罪が支払う報酬は「死」が手渡されるというのです。罪を犯すと、「あんたは死刑です」という判決書が来るというのです。本当に恐ろしいことです。
 現代社会は世界中、罪で満ちていますから、全体的方向は、死に流れているわけです。人間は、大きな自由意志が与えられていますので、真の神を選ぶのも良し、自分勝手な生活をするのも良しです。しかし、罪の道を選んでしまうと、最終的には滅びに向かってしまい、結果は永遠の滅びです。人類は最初から犯してしまいましたので、以下同列で全人類が死へと向かってしまいました。
 そんな人類を助けるために、神自らが飛び込んできて、人間の根源なるお方が、人間の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリスト一人の死が、神であるが故に、全人類の身代わりだったのです。ここに愛が大きく表されています。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった故、罪が赦されるのです。

 教会に来ると素晴らしいことがたくさんありますが、その一つが「罪の赦しの体験」です。みなさんの中に長いこと良心が責められている人がおられても、イエス様があなたの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さいましたから、イエス・キリストを信じたら罪は全て帳消しです。
 例えば私が死刑囚として服役していた時に、誰かが来て、「順さん、あなたの身代わりになりたいです」と言って、身代わりになって死刑を受けてくれたら、私はもしかしたら助かるかもしれません(現代の法律ではあり得ませんが)。
 同じように、全人類が死刑宣告されていたけれど、人間を創った源の方が、人間の姿をとって、人間のために代わりに死んで下さったのです。それで全員が助かったのです。イエス・キリストを信じる者はみな助かる、神は愛なる方です、と教えています。

 聖書は、神の愛を多方面から教えています。特にイエス・キリストは神の愛について解き明かされました。イエス様が語られたストーリーの中で、神の愛を表している有名なストーリーがあります。それは、ルカ15章に出てくる「放蕩息子」のストーリーです。
 ある人の息子が放蕩三昧で身を持ち崩し、大変な中から救われた、というストーリーです。これは悪をやった弟息子にフォーカスがあたりやすいのですが、本来は、「神の愛がどんなに大きいか」に関して教えているストーリーです。
 ルカ15章11節〜24節、

またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 ある父親に2人の息子がいましたが、弟息子のほうが「お父さん、あなたが生きている間に、財産をください」と言って、多くの財産を貰って遠い国に旅立ったのです。その時は景気が良かったので、彼は贅沢三昧でした。お金を湯水のように使って、本当に楽しく過ごしました。
 しかし、その地方に大きな飢饉が来たようです。本当に時代は読めないものです。うまくいくと思っていても、うまくいかないことが多くあります。
 先日、「今年のサラリーマン川柳ベストテン」が発表されました。1位になったのは、『仕分け人、妻に比べりゃ、まだ甘い』でした。2位になったのは『先を読め、言った先輩、リストラに』となっていました。
 また、『先を読め、読めるわけない、先がない』なんていうのもありました。世相を川柳にしていますが、結構おもしろいです。『体脂肪、燃やして発電、出来ないか』なんいうのもありました。『ただいまは、犬に言うなよ、オレに言え』なんて、寂しいものもありました。『「離さない!」、10年経つと、「話さない」』というのもありました。
 この頃は高齢化社会で、『70歳、オラの村では、青年部』となっていました。いろんな川柳がありますが、先は読めないものです。

 弟息子も財産をわけてもらって、ある国に行って一旗あげてやろうと考えていたわけです。その時はバブルの時期で、彼は豪遊していました。しかしある時、大飢饉があり、彼は食べ物にも困ってしまったのです。
 私たちの人生にもそういう事があるかもしれません。最終的に彼は豚飼いのところに身を寄せ、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどだったのです。
 実はこれはユダヤ人側からの表現で、当時のユダヤ人の世界観から言いますと、「豚飼い」や「豚」は、一番身分の低い世界を表しています。下の下まで落ちてしまった、どん底まで行ったとことを表しています。
 彼はどうしようもないところに陥ってしまったのです。しかしその時彼は、一つのことに気づきました。彼は「我に返った」とあります。私たちもある時、「我に返る」ことが重要だと教えています。案外、「我に返る」のは、全てがうまく行って順調な時よりも、どん底の時に我に返ることが多いのかもしれません。みなさんの中にも「私は今どん底」という人がおられたら、どん底は苦しいですが、実は聖書は「そのどん底にこそ最大のチャンスがある!」と告げています。
 「私はどん底です」という方がいたら、それをチャンスに変えていただきたいと思います。「我に返る」ならば、大チャンスに変えられるのです。

 この男は我に返って何に気づいたかと言うと、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と、彼は自分の「罪」に関して気づきました。人類の不幸の根源は罪だと先ほども話ましたが、やはり私たちが気づかなければならないのは、「自分は罪人だ」ということです。
 現代社会は罪について気づくことができない社会です。しかし罪に気づくのはすごく重要です。そして聖書と教会だけに罪の指摘があります。時に教会に来ると、「罪のこと話すからいやだ」という人もおられます。聖書を開くと、「これが罪だ」と指摘しているので、私のやりたいこと全て禁止している、と言うかもしれません。しかし罪について気づくことは重要です。

 弟息子はどん底に行って、やっと罪に気づいたのです。しかしその時「父の元に帰ろう」という思いが出てきました。実はこの「父」というのは、誰を表しているかと言うと、ただのお父さんではなく、「父なる神様」のことを現しています。彼は父の家に帰る決断して、その道を戻っていきました。そうしたら、何があったのでしょうか?
 ルカ15章20節〜24節、

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 彼は、「自分は子供としては無理でも、父のところに行って、雇い人の一人として使ってもらおう、食事にさえありつけれればいい」と思って帰りました。
 しかし、なんと帰ってみたらお父さんは「この馬鹿息子!」と言って怒ったのではなく、弟息子が遠い国に旅立ったその日から、息子の帰りを待ち、毎日家の門に立って遠い国に続く道を眺めていたのです。
 ある日のこと、道のかなたに小さな黒い点が見えたのです。「あれは誰だろうか?」と・・・。お父さんは、少し目がかすんでいたかもしれないけれど、息子の姿は忘れませんでした。「あれは息子に違いない!」と、お父さんの方から走り寄って息子を抱きしめ、口づけをして、彼に一番良い着物を着せ、指輪をはめさせ、靴も履かせてくれたというのです。

 さて、この行為は何を表しているのかというと、これが私たちが信じる神様のキャラクターなのです。神様は本当に愛なるお方なのです。私たちが罪に陥って、どん底に落ち込んだとしても、神の元に戻ろうという決断をする時に、神様のほうから私たちにかけよって来て抱きしめてくれるのです。

 「指輪をはめてくれた」とありますが、どういう意味かと言うと、実はこの息子はお父さんから財産の分け前をもらって、遠い国に旅立ちました。生きている内に財産分与をしてもらって、それを全部使ってしまいました。彼には、何もなくなってしまいました。
 でも、帰ったら指輪をはめてくれたとは、指輪は当時の実印なのです。何を意味するかと言うと、「まだまだあなたには、相続できる財産が残っていますよ」ということを意味しています。
 時々私たちはどん底に陥って、もう何もない、と思うかも知れませんが、イエス様のところに戻ると、「あなたの人生は捨てたもんじゃないですよ。相続する分が残ってますよ。その証拠に指輪を受け取ってください」と言って、指輪を私たちに与えてくれます。
 イエス様を信じるならば、神の資産を受け継ぐ権利が与えられます。素晴らしいです。この資産を受け継がない手はありません。

 そしてその後、祝宴が始まったというのです。実はこれは、神が私たちに対して抱いておられる愛と、神の元に帰る時、何をしてくれるかを教えています。神の愛がいかに大きいかを教えているところです。
 今日私たちはこのストーリーの中から、神の愛について知らなければなりません。神の愛にとどまることは本当に重要です。

 同時に、このストーリーは、息子が身を持ち崩した理由についても教えています。諸悪の根源は何かというと、それがお金でした。「お金は諸悪の根源だから気をつけろ」ということを同時に教えています。
 私たちは貨幣社会に住んでおり、お金を中心に生活は成り立っています。しかし、「金には気をつけろ」です。
 第一テモテ 6章6節〜10節、

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 私たちは貨幣社会、経済社会の中に生きていますが、金銭を愛し、金に捕らわれないように気をつけなければいけません。聖書は情報の書ですので、先に情報を得て、神の愛にとどまっていたならば、決して間違いはありません。

 この息子が遠い国に旅立ったと書かれていますが、それは「デカポリス」という地方を指しているであろう、とあるところに説明されていました。
 イエス様が活動されていた中心はガリラヤ地方だったのですが、対岸にはアレキサンダー大王が作り上げた10の街を連合、デカポリスという地方がありました。弟はその地域に出かけて行ったのではないか、と言われます。

 実はイエス様もデカポリス地方の一つの街、「ゲラサ」に行かれました。そこでレギオンという最も強い悪霊の軍団に遭遇しました。お金を愛する街には、最も強い悪霊が働いていることを同時に教えているのではないか、とありました。

 今日午後から霊的戦いセミナーをします。今年、全日本リバイバルミッションでは東北でリバイバルミッションを行うことにしています。9月に仙台と盛岡で行うことにしています。去年は韓国で、今年は東北ということで、始めは「東北か〜、遠いな〜、韓国に行くより遠い」と思いながら、少し面倒くさいという気持ちもありました。
 しかし、祈っている中で「東北リバイバルミッションは重要だ!」ということを教えられました。今日のセミナーのテーマは、「東北がわかると日本が見える〜日本の沈黙の土台を暴く〜」です。実はこの間も話しましたが、日本の根底に一つの沈黙の土台、レギオンの力があります。それが東北を見るとわかるのです。そして、なんと私たちの足下、新城市が東北と強い繋がりがあるのです。日本のリバイバルのためには、東北のために真剣に祈らなくてはならないのです。

 私は2週間前、東北リバイバルミッションの決起大会で東北地方を回りましたが、東北の教会はなかなか大変です。岩手県に行きましたが、岩手県には100万以上の人口がありますが、教会は全県下に「58」あります。ですが、去年、岩手県の58教会ががんばって伝道をして、何人洗礼を受けたのかというと、たったの14人でした。58教会の全ての予算を集めたら、何億円になるのかわかりませんが、それでも14人しか洗礼を受けなかったのです。もしも一つの教会で一人ずつ老人が亡くなっていたら、全体では50人近く減少しています。
 新城教会は今年になってから、30人以上の人々が洗礼を受けました。14人しか洗礼を受けていないというのは、どういうことでしょうか?どこに理由があるのだろうか?と考えさせられました。やはりその背後に沈黙の土台があります。私たちはその沈黙の土台を暴くと共に、神の愛を告げ知らせて行かなければならないのです。そのことについて、午後時からセミナーを持たせていただきますので、是非ご参加していただき、足下にそのような土台があったら、立ち向かって勝利を得ようではありませんか。

 今日は神の愛の中に留まる時に祝福を受けると学びましたけれども、今週も神の愛の中に満たされて歩み、お互いのために愛を持って祈り合い、支え合って行きたいと願っています。
 最後に聖餐式を持ちたいと思います。聖餐式はイエス様の愛、神の愛を表しています。パンとジュースは、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって血を流し、死んでくださったことを表しています。心から感謝して聖餐式を行いたいと思います。一言お祈りします。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝いたします。私たちのために御子イエス様を送ってくださり、神の愛を表してくださったことを心から感謝します。神は愛だからですと、私たちに愛を与えてくださっていることを覚えて心から感謝します。神の愛を感じる聖餐式を心から感謝いたします。今から聖餐を祝してください。このパンとジュースを、聖霊によって、御言葉によって、イエス様の体であり血としてくださいますように。私たちがイエス様と一つになって、神の愛を受け取る時となりますように。今日もしもどん底の中にいる方がいたならば、そこに光が灯る日となりますように。イエス様の御名を通して、感謝を持って祈りをお捧げします。アーメン。


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