「自分を愛するとは?」


2010.6.13(SUN)
新城教会副牧師 四元雅也 師

ヨハネの福音書 12章24節〜25節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 ハレルヤ!おはようございます。この時間帯に僕が出てくるのは本当に珍しいことです。久しぶりに礼拝でみなさんの前でお話しできますことを感謝いたします。
 前回ここでメッセージさせていただいたのは、2009年から2010年に移る12月31日の夜「ニューイヤー・カウントダウン・ワーシップ」でした。その前は、昨年の5月31日、ちょうどここにおられる多くのみなさんが、韓国リバイバルミッションに行っておられた時でした。その時、新城教会では、牧師がいなくなるという現象が起き、私一人だけが残っており、司会から賛美、メッセージまで全部したと言う、ある意味で歴史に残る礼拝が行われました。その時もいつもより百名程少なかったですし、前回のカウントダウンの時もこの人数よりも随分少なく、こういった大勢の前でお話しするのはいつぶりかと思いましたら、2007年の10月以来ということになります。今は礼拝人数もその時よりももっと増えていますし、最近はインターネットでも何十人かの方が礼拝に出ておられます。ですから僕にとっては、ある意味デビュー戦のような緊張感のあるメッセージです。
これから時々このような形でみなさんにお目にかかるのではないかと思います。というのも、今年度から、「副牧師にも礼拝の説教に立たせよう」ということをボスの順先生がおっしゃいましたので、これからみなさまにはしばらくは忍耐の時を与えてしまうかもしれませんが、少しずつなれていきたいと思いますのでどうか寛容に、よろしくお願いします。
 うちの家内はプレイズ出版でパートで働かせていただいているのですが、先週は岡本信弘先生が心配して「来週は雅也君がメッセージか〜、大変だな〜」としみじみ自分のことのようにおっしゃってくださったそうです。家内は、信弘先生が僕のことを心配してくださったというよりも「自分と子供たちの事を心配してくださった」と受け取ったようです。メッセージを控えた牧師というのはメッセージに心を向け、時間も割くので、前の週にはいつも以上に家の中に緊張感が走っているようなところがありますので、先生もそのようにおっしゃってくださったのかも知れません。

 今日はヨハネの福音書12章24節〜25節、この中から「自分を愛するとは?」というタイトルで御言葉をお話ししたいと思います。一言お祈りさせていただきたいと思います。

 ハレルヤ、天の御父様。あなたの御名を心からあがめて感謝致します。こうして愛する兄弟姉妹と共にイエス様、あなたを見上げ、またあなたを中心としたこの礼拝の時を与えてくださったことを感謝します。主よ、私たちの礼拝を受け取ってくださっていることを感謝します。また今からはイエス様、あなたが語られた御言葉から私たちは教えを受け、励ましを受けたいと願っています。私がご用をするものとして立たせられましたけれども、主がどうぞ用いてくださり、わかりやすくまた大切なことを語ることができるように力を与え導いてください。聞くお一人お一人の上にもどうか同じ聖霊様が働いてください。インターネットで聞いておられる方たちにも恵みがありますように。インターネットが祝福され、今日はメッセージが途中でとぎれることなく最後まで聞くこともできるように助けてください。またこの時、明牧師、順牧師もそれぞれご奉仕に出ておられますので、どうか、あなたがその奉仕も祝福してくださいますように。この時間を御手に委ねて、感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

 時代が変わり、今はインターネットでも礼拝ができるようになりました。僕もなかなか時代の流れについていけない、どちらかと言うと頭の固いほうですが、先日も、コーヒーでも飲もうかとヘブンズカフェに行ったとき、新しい夏の限定メニューが並んでいたので「おいしそうだね〜、どれがいいかね?」と言ったら、バリスタの姉妹が「どうぞどれでも飲んでみて、それで飲んだらつぶやいてね。」と言われました。「つぶやいて‥」と言われて、どういう意味かと思いました。みんなが集まっている所に行って「あれはおいしかった・・」とつぶやくことかな、と考えましたが違うようです。どうやら最近はツイッターというものがあり、美味しいドリンクを飲んだりとか、その時々に感じたことを携帯電話などでインターネットの中に流すのだそうです。すると、それをいろんな人が見て「あ〜、こういう情報があるんだ」と、またつぶやいたりして、そうこうしながらコミュニケーションが広がっていくというようなツールです。僕もやってみようと思っていろいろ試してみても、やはりついて行けないという感じです。現代の時代の流れは、目まぐるしく日々刻々と変化しているところがあります。

 そんな中で、教会はどうなのだろうか、教会は時代の流れに乗っているものだろうか、それとも取り残されているものなのだろうか、どうなのかな、と自分なりにも考えたりします。みなさんはどう思われるでしょうか?教会というのは時代の流れに乗っていったらいいのか。とどまったらいいのか。今のこの時代、この激しい流れの中で、教会とはどういう立場なのでしょうか。

 少し話が変わるようですが、現代人を世代ごとに区切って、「なになに世代」というように表現したりします。例えば、「昭和一桁」、「段階の世代」などがあります。ちなみにこの新城教会の牧師先生たち、スタッフたちをその世代というものに当てはめてみたいと思います。
 「滝元明師」は「昭和一桁」と言われる世代に当てはまります。昭和4年生まれです。
 そして次は「滝元順師・岡本信弘師・上條実師・滝元開師」、この4人が同じ世代にくくられるようです。順先生から開先生までです。この世代は「しらけ世代」と言われます。「しらけ世代」とは、調べてみますと、「日本の学生運動が下火になった時代に成人を迎えた政治的無関心が広まった世代を指す語」ということです。
 そして私「四元雅也」の世代は「バブル世代・新人類・三無主義」ということだそうです。「バブル世代」というのは、日本でバブル景気の頃に就職していた時代ということです。今就職を迎えておられる方には申し訳ないのですが、僕が就職した時代は、愛知県は就職口がものすごく多くあり、僕一人に対して5社、6社と、探そうと思えばいくらでも選ぶことができるという、そのような時代でした。また「新人類」というのは、「成熟した成人として社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し、社会そのものが一つの物語であるという立場を取る。社会に対してリアリティーを持たずに責任を回避しようとする」ということだそうです。ちょっと当たっているかもしれない、と思います。また、「三無主義」というのは「無気力、無関心、無責任」の象徴だそうです。自分を指して言われているようでドキッとしてしまいます。もしかしてこのように世代でくくられるのも霊的な束縛になるかもしれない。とりなして祈らなければならない領域なのではないか、という風に思ったりしました。

 現代人を表す表現というのは年々増えていきます。「昭和一桁」と言うとその他にはあまり思い浮かべられませんが、僕の世代となると、くくり方でも3種類、4種類となってきます。また最近は、人間を型でくくる血液型や、I型、T型、π型というのもあるようです。みなさんご存知でしょうか?「I型」とは、「一つのことにぐっと深く入り込む型」。「T型」は、「幅広い知識を持ちながら一つのものを追求していくタイプの人」。「π型」というのが、「追求していくものが複数ある型」ということです。まあπ型が一番いいような気がします。あとは「劇場型」とか「右脳型」とかいろんな型で人間がくくられたりします。また、最近は型ではなく「系」というくくりで人間をくくったりもします。「癒し系」、「草食系男子」、「肉食系女子」、というのもあります。
その他のくくりでおもしろいな〜と思ったものがあったので、ご紹介したいと思います。
 「人目を気にしない自然派の女性→森ガール」、「篤姫・天地人などが流行ったあたりから歴史マニアになり、史跡などを探訪したりしている女性→歴女」なんていうくくりもあるようです。女性というと一般的には歴史が苦手というイメージがありますが、そうじゃない女性のことです。そして、「会社や学校に自分で作った弁当を持って行きそうなタイプの男性」を「弁当男子」と言うそうです。いろんなくくりが多岐に渡って存在しています。情報化社会でそのような言葉が乱れ飛んでいるような時代です。僕は昔からそういうことにうとい男なのですが、インターネットを少し見るだけでも、このような情報が出てきます。

 こういう中で、教会はどうか?教会というのはそういった時代の流れに対してどういう風に立っているものであるのか、ということです。聖書を見ますと「この時代の様々な変化は目まぐるしいようだが、実はそれは上っ面だけなんだ」と、新しいと思うことでも実は昔からあるものなのだということが、伝道者の書に書かれています。「新しいものが次々と生み出されているような時代のように見えても、本質は変わってないんですよ」というのが聖書のスタンスです。そして、「この時代の人間が持っている根本的な要求や、この世界が持っている要求に対して答えを与え続けているのが聖書だよ」ということを聖書自身が言っています。
ですから、教会はこうして新しいものを取り入れて、インターネットが始まったりしているわけですが、人々が持っているニーズに対して、この霊的なニーズに対して答えを与え続けて行くという本質は本当に何も変わりません。それどころか、イエス様というお方はどれだけ時代が変わったように見えても、いつまでもいつまでも、永遠に変わることのないお方です。

 時代のトレンドというのは、新しいと感じさせても実は繰り返していたりします。ファッショントレンドでも何十年か前のものがまた繰り返すとよく言われます。僕も5年くらい前に、僕の父が若かった頃に着ていた何十年か前のスーツをもらいうけて、教会に着て来た時がありました。すると、一人の若い姉妹から「先生、今日は新しいスーツを着てきたんですね」と言われ、「いや、これは何十年も前のだよ」と言ったことがありました。
 最近、私はクラッシックをよく聴くようになりました。現代はどんどん新しい音楽が出てきて、歌詞を聴いただけでは何を言っているのかわけがわからなかったり、メロディーも複雑になっているものもあると感じますが、それでも、技術的なものやその中の表現であったり、音楽から感じられる圧力のようなものは、昔から変わっていないんだな〜と思います。

 私たちには、イエス様という変わらない神様がいらっしゃる、そしてこの変わらないイエス様こそ、時代の流れが変わり、私たちが時としてそれに翻弄されるような時があっても、私たちの心の中に、ずしっと変わることのない土台として存在してくださっているということは、本当に素晴らしいことだと思います。先ほども聖歌隊の賛美の中で「この安きをも持てる 土の器なる我が身も やがてイエスに合わば変わらん 栄えある姿に」とありました。土の器だけれども、イエス様から安らぎをいただいている私たちは、未来に向かってやがてイエス様にあって栄えある姿に変えられる、そのような歌を歌ってくださいましたが、素晴らしいことだと思います。変わらないイエスさまを信じると言うことは、変わらないと言うよりも、栄えに満ちた神さまによって、自分も栄えあるものと変えられる、と言うことです。同じようなみことばが第2コリント人への手紙 4章16節〜17節に書かれています。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 ここにすごく希望に満ちたみことばがあります。「外なる人は衰えても」とありますが、人間は歳を取ると肉体的に力がなくなったり、肌に張りがなくなって衰えるわけですが、それとは違い、内側は日々新たにされて行くというのです。

 先日は少し悲しい出来事でしたが、私たちの大好きな長谷川のおじいちゃんが天に召されました。先週の礼拝でも順先生がお話しなさっていましたが、おじいちゃんは、晩年になってイエス様を信じました。ずっと教会生活を送られました。僕も家庭集会でいつも長谷川さんと一緒にイエス様を礼拝していた者なのでわかるのですが、おじいちゃんの体は年とともに衰えていくのですが、内側はどんどんどんどん清められていくのを見ました。おじいちゃんは、身体が弱って最後にはなかなか家から出られないような、引きこもりがちな生活を送っていましたが、家の中でノートに「教会の牧師のため」、「教会のこれこれのため」というように、人知れず祈りの課題を書き、部屋で祈っていたのです。それをおじいちゃんが亡くなられた後、ご家族の方が部屋を整理している時に発見されたということを聞きました。おじいちゃんは、信仰を持って、歳をとるにつれて神様に近づいていったのです。本当に私たちのクリスチャン人生というものはそういうものであるわけです。私たち皆がそうなりたいと思います。日々新しくなるということを体験するような、また体現するような、そういった人生を歩んで行けたら素晴らしいのではないかと思います。

 今日はその秘訣についてが第2コリント人への手紙4章のところからお話ししていきたいと思いますので、この話を聞いたら、みなさんにもそのヒントが与えられるかもしれないので、是非よく聞いていただきたいと思います。

第2コリント人への手紙 4章1節〜2節
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

 第2コリント人への手紙への手紙を書いたのは使徒パウロですが、このパウロが自分たちの務めについてみなさんに告白している箇所です。「自分に委ねられた務めというのはこういうものだ」という、「自分自身をすべての人の良心に推薦しています」と、自己紹介というか、自己推薦というか、そのような言葉が冒頭に書かれています。その「務め」というのが何なのか、前の章に書かれています。

第2コリント人への手紙 3章6節〜9節
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

 これは旧約聖書時代に現れた、モーセという預言者が成し遂げた働きと、パウロが神様から委ねられた働きというものを対比して、パウロが自分の務めを述べています。モーセは神から受け取った律法を人々に与えました。そしてその律法というものを通して、人は罪がどういうものか理解をするようになりました。しかし、人は、罪を理解はしたけど、そこから離れることができずに、かえってその律法の故に、死ななければならない宿命が、彼らに確定されることになりました。彼らは死ななければいけない、地獄に堕ちなければいけない、ということがその律法を通して定められてしまったのです。しかし、イエス様の十字架の贖いというものは、私たちを全ての罪から救って永遠の命を保証したのです。これを人々に教え、分かち合うことを、パウロは、「御霊の務め」だと言っています。この務めが、全ての人々が神様の前で義人だと認められるための働きだというのです。そのことを、パウロは自分の務め、人々を義とする務め、素晴らしい栄光にとんだ働きだと言い、自分自身のその務めを誇らしげに紹介しているのではないかと思います。この、委ねられた人々を義とする働きというのが「福音」です。

第2コリント人への手紙の4章の3節から5節に語られている御言葉は、私たちにとって霊的戦いが必要だという、一つの根拠となっている御言葉です。

それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

 ここに、福音を私たちから遠ざけて、私たちに覆いを掛けて、福音がわからないようにする悪魔の働きというものがあることが書かれています。
そして、5節には、パウロが2節で「自分自身を全ての推薦している」と言ったにも関わらず、ここで、「自分自身を宣べ伝えているのではない。自分自身を推薦しているけれども、宣べ伝えるのは自分についてではなく、主なるキリスト・イエスだ。そして、私はイエス様のために、あなた方に仕えるしもべなのだ」というように言っています。

この4章全体を見て、詰まるところ、イエス・キリストによる罪からの救い、この福音によって最終的に日々新しくなることが出来るということを全体的には言っています。

 続いて、7節〜12節を見ますと、パウロはちょっとおもしろい表現をしています。

第2コリント人への手紙 4章7節
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

 「この宝」というのは、「福音」のことですね。「土の器」というのは体のことです。特にパウロが自分自身のことを言っています。「この素晴らしい『福音』が『自分』という土の器の中にある。それは量り知れない力が私から出たのではなく神から出たという事がよりはっきりとわかるためであり、自分が素晴らしいとか自分が立派だということではなく、自分は土であり、神様が素晴らしいという事がよくわかるように、神様が自分自身を選んでくださっている。」と言っています。

第2コリント人への手紙 4章8節〜12節
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

 これを見ますと、パウロ自身が「イエス様は素晴らしい」ということがより強く現れる、そのために自分自身は四方八方から苦しめられたり、また迫害にあったりしている。またイエス様の死をこの身に帯びているというのは、余計にイエス様の命がみんなに現れるためだと言っています。パウロが伝道していく中で、彼は世界中を飛び回り、その当時の世界中に多くの教会を作り、また大勢の人々をイエス様の元に導いた素晴らしい伝道者であったわけですが、そのパウロは、それだけ力強い働きをしていたので、見た目に立派そうに見えたり、威厳があったり、社会的にも権力があったのではないかと思いますが、実はそうではなかったというのです。かえって迫害を受けたり、みんなからつまはじきにされたり、命の危険を感じることさえしばしばありました。また聖書を見ますと、パウロは自分の生活を支えるために神様の働きの他に、仕事を持っており、天幕づくりをしていたと言われています。そんな風に自分の生活を自分で骨折って支えなければいけなかったということは、多分貧しかったのでしょう。それからパウロはしばしば病気の故に発作にみまわれ、健康状態のために働きに支障をきたすようなこともあったのではないかと聖書を見ていくときにわかります。その他にも投獄されたり、むち打たれたり、石で打たれたりという、肉体的にも非常に苦しみを受けた方であるわけです。想像するとパウロという人はとても過酷な日々を送っていた人ではないかと思います。しかし、パウロはそれを悲観するどころか、逆にある意味では、それを自分で選び取るというような、自分から進んで苦難の道を進んで行くというようなところがあった使徒であると思います。なぜかと言うと、一つの理由づけとして彼が告白しているのは、今読んだ御言葉のように「自分が土の器であって、イエス様が素晴らしいということがみんなによりよくわかるためだ」と言っています。パウロが街に出て行きました。みすぼらしい格好だったかもしれない、もしかしたら弱々しかったかもしれない、でも福音を語り、そしてそこで人々のために祈った時に、病は癒され、悪霊は出て行き、そして人々の永遠の命が分け与えられ、聖霊が注がれる、ということが世界中で起こりました。そのようにしてその一人の力のない土の器から大きな業がこの全世界に広がっていったわけです。

 話は少し変わりますが、僕は先月の22日に、マーチ・フォー・ジーザスというものにでました。名古屋で土曜日のお昼頃にありました。ご存知の方もおられるかと思いますが、これは1987年にロンドンで始まり、それ以来毎年のように行われています。そして、1994年に全世界を股にかけるグローバルなクリスチャンの運動になりました。どんな運動かと言うと、イエス様の名前をかかげて賛美しながら、またイエス様が救い主であるということを人々に宣言しながら街を練り歩くというものです。「マーチ」とは「行進」という意味ですが、「イエス様のための行進」ということになります。今年、名古屋であるということで、順先生のほうから行ってこいと言われ、新城教会の兄弟姉妹と一緒に、またブラジル人の方達も大勢参加されました。
名古屋の栄の、テレビ塔のすぐ近く久屋大通に、松坂屋という大きな百貨店がありますが、その近くにある公園で行われました。

その時の動画をダウンロードしましたので、ちょっとご覧頂きたいと思います。
 旗や横断幕、タンバリン、ラッパ、いろんなものを手にとって街を歩きました。またTシャツもこのために作られたものです。映像は、今から街に出て行ってイエス様の御名を掲げて歩こう、というところです。中にはコスプレと言って、イエス様の格好をした人が十字架をかつぎながら歩いていたり、ローマ兵の格好をしている人がいました。ポールを背中に立てて、そこにスピーカーをつけてマイクで「お騒がせしております」と言いながらイエス様を宣べ伝えている方もおられ、総勢3000人くらいのクリスチャンが、名古屋に集結したと言われています。今ご覧頂いた動画には、日本人っぽくない人たちが大勢いらっしゃいましたが、実は、集まった方の9割がブラジル人の方たちでした。ペルー人の方たちもいたかもしれませんが、ブラジルや外国の方たちが「日本のために」ということで、がんばってくださいました。

 ブラジルと言えば、リオのカーニバルをぱっと思い浮かべますが、ああいうお祭り騒ぎといいますか、一つの働きをみんなでもり立てて、それを通して自分も楽しんでしまおう、というようなところも国民性としてあるんじゃないかと思います。(外国人の僕が言うのもちょっと失礼かもしれませんが)でも、それを神様のために用いて、あのような働きをしており、本当に圧倒されるような感じでした。ブラジルパワーとでもいうような熱気で、僕は思わず引いてしまうようなパワーがあり、街に出て行ってもみんなで「イエス!クリスト!」、「イエス様!日本を!愛します!」と言って「シュプレヒコール」と言うのでしょうか、ずっと叫びながら、笛を鳴らしながら、街を練り歩いていました。そこで僕も一緒に歩きながら、小さな声で「イエス様〜」と言いながら、完全に負けておりましたけれども、ちょっとついて行けんな、というところも正直ありつつ、そんな僕の姿を見ながら、「牧師のくせにあの態度はなんだ」という風につまずいていた人もいたようなんですけれども、申し訳ないという感じでした。
でも、これはすごい働きだと思います。来年もあると思いますので、みなさんも良かったら行かれたらいいと思います。

 ブラジルでは、なんと政府が「マーチ・フォー・ジーザスの日」というのを定めたそうです。今年は6月3日だったそうです。

これは、今回名古屋で行われたマーチ・フォー・ジーザスの写真です。


 これはブラジルです。たぶんこれはサンパウロの一つの会場です。

サンパウロの中でも一つに収まらずに幾つかの会場で同規模のマーチが繰り広げられたそうです。写真の場所では、何と500万人が集まっています。その他、ブラジリアとか主要な都市でも同じような集まりが、これは全てイエス様のために、ということで集まった人たちです。本当に桁違いだなと思いました。

 僕は、そんな中でも一歩さがったようなところで観察しながら参加していたのですが、彼らの情熱があの行進を後押ししていく力になっていくわけです。その行進に僕も参加しながら、一つの状況を思いだしていました。自分自身の昔のことです。「あぁ、この情熱、懐かしいな」と思いました。

甲子園時代、自分も20代前半で若かったので(今でも牧師の中では一番若輩であるわけですが)、甲子園ミッションの働きの中で、何もわからずに、何の知恵もなく、あるのは情熱だけ、という感じでした。それで、何が出来るわけでもないし、だけど自分にできることをしようという、そういう思いだけで参加していたという思い出があります。日本全国からも、同じ情熱を持つ若い人たち、元若かった人たち、いろんな人たちが集まってあのような働きを成し遂げたことを思い出しました。僕は3年前のハワイミッションの時にも、ここでそのような話をしているのですが、ハワイミッションの時にもあのハワイ事務所には何十人かの若者たちが、それこそ手弁当でリバイバルのためにということで働いておられました。

 甲子園ミッション当時、新城教会の中でも献身を志す若者が大勢出てきて、一時はボランティアスタッフとして働いている人たちでも、何十人という働き人が起こされていました。
当時は新城の教会でも、旗を持ちながら大声で「なんだ、このテンションは」と言いたくなるような大声で叫んでいる、マーチの参加者の方々と同じようなことをやっていました。

 「十字架行進」と言って新城の街を十字架をかついで歩いてみたり、「路傍伝道」と言って、街に繰り出して行って横断幕をかかげて伝道をしたりだとか、そんなようなことも懐かく思い出しました。いろいろと時間を費やし、アイディアを出し合い、その時もてる技術を投入し、路傍伝道や十字架行進を行っていました。
ある意味、「マーチ・フォー・ジーザス」を見る時に、街をそんな風に叫んで歩いて何になるんだと、冷たい目で見れば見れないこともないと思います。後に何が残るんだ、というような意見もあるわけですが、実は僕らもあの時皆そういうことをやっていました。
私たちはリバイバルミッションの働きを、ずっと続けていますけれども、日本のあるクリスチャンの中では「なんでこんな無駄なことにお金と労力をかけないといけないのだ」というご意見を持たれる方もおられるようです。でも、日本を動かし、日本を覆す働きの原動力になっていくのは、やはりそういった情熱なのではないかと思います。突進していくことだけがいいというわけではないと思いますが、若い人たちがぐぁーっと何も分からず突進していくような力が、リバイバルのための大きな推進力になっていくのは確かではないかと思います。

 先月、何年かぶりに、ざわめきの東京ワーシップシャウトに行きました。ざわめきがリバイバルミッションから独立して以来、初めて東京のワーシップシャウトに行きました。そこで見たのは甲子園ミッション時代から、あるいは初期のミッションの時代から、ずっと欠かさずに東京ワーシップシャウトにボランティアスタッフとして働いておられる方々でした。昔と変わらない情熱を持って今も受付をしてみたり、ある方は伴奏をしてみたり、音響をしてみたり、そういった働きを、変わらない気持ちで続けておられる方たちを見て、本当に恵まれました。もうミッションの働きは20年近くたっていますが、そうやって新城教会以外の方達でも、自分の働きとして担ってくださる方たちが大勢いらっしゃるということを本当に感謝しました。

 先ほどから「無駄のように見えるかもしれない」という風に申し上げていますが、これら全ての働きはやはり無駄ではないと思います。無駄ではない理由をあげればいくつでもあげられると思いますが、今日のこのメッセージの中で、自分自身の極めて個人的な理由をあげるならば、そのような甲子園ミッションの働きや、教会の働きや、無駄とも思われるような情熱だけでやっているような働きを通して、自分の中で「神様のために働くのに損得勘定はいらない」、ということを学びました。神様のために働くという時に、「これを働いたら自分にどんなメリットがあるだろうか」だとか「これをしたから何か自分が得をする」とか「損をする」とか、そういうことを考えてはいけない。この姿勢は自分の中でのひとつの大きな財産として、受け取ることができました。

 最近、トヨタ自動車とテスラというベンチャーの自動車会社が提携を結びました。僕は自動車が好きなので、自動車関連のニュースには関心があります。
トヨタ自動車というと、みなさんもよくご存知の世界の大企業です。ある意味、自動車業界の中では世界を牛耳っている会社であるわけですけれども、それに対してテスラというのはベンチャーです。従業員も少なく、車種も少なく一車種か二車種しかありません。そことトヨタが対等な立場でわざわざ提携を結びました。トヨタ社長が記者会見で「テスラと提携を結ぶことになりました」と発表をし、その一つのスローガンとも言えるキーワードが「ベンチャーに学べ!」ということでした。マスコミには「チャレンジ精神や意志決定スピード、柔軟性というものを学ばせていただきたい。トヨタもベンチャー企業として生まれた時の精神を思い起こし、チャレンジしていきたい。豊田章男社長は会見で提携の意義をこう語った。」という風に書かれていました。巨大企業になったトヨタ自動車にとって、意志決定の早さや柔軟性、チャレンジ精神とか、そういうものがいつのまにか失われている。ベンチャーらしい勢いのある彼ら(テスラ)に学ぶべきところがある、と言うのです。

 教会でも同じようなことが言えると思います。新城教会もある程度大きくなり、実を結ばせていただいて、最近は隣同士に座っても隣の方が誰かも分からないというような状態になってきまして、とても皆の名前と顔を覚えることができないというような状況になり、これは素晴らしい感謝なことだと思いますけれども、そのような中で教会生活を送っていくことにおいて、ただ自分のクリスチャンライフが安定し、祝福され、何事もなく、平和で過ごしていくということが素晴らしいことではないか、と私たちの価値観の中で考えがちではないかと思います。それはある意味では正しいかもしれませんが、勘違いでもあると思います。今日みなさんと一緒にお読みしてきた聖書の箇所もそうですし、また聖書全体を通して僕が感じることは、クリスチャン生活はもっとダイナミックであったり、もっと情熱的であると思うのです。それはただ知識もなくワーっとやるということではなく、神様の前に熱い心を持って自分自身を捧げていく、ということにおいてそうだと思うのです。たとえ目に見える現実が困難であったとしても、また逆境であったとしても、もっと極端なことを言うと、先ほどのパウロではありませんが、逆境を選んででも、そうであったとしても、私たちは私たちの人生の中に主の御心を求めて、そして、主と共に歩んで行く、熱く神様のために生きていくという、そういうクリスチャン人生というのが、この聖書全体を通して描かれているのではないかと思います。私たちもそうなれたらと、僕も本当に心からそう思いますし、ここにいる皆でその思いを分かち合えたら素晴らしいのではないかと思います。
これを今の時代の言葉じゃないかもしれませんが、僕の時代の言葉で表現させていただきますと「青春している」ということではないかと思います。「青春だな〜」という言葉が僕の時代にはテレビドラマで流行っていましたが、「青春」と辞書で引きますと「夢や希望に満ち、活力のみなぎる若い時代を人生の春に例えたもの」とありました。「青春時代」、「青春を謳歌する」などと言います。僕も今の若い人たちを見ると、つい「いいな〜若いって」と思ってしまう年代になってきてしまいました。でも、神様の前にあってはいつも青春していたいと思います。

 滝元明先生や順先生を見ますと、なんか青春しているな〜、という感じがしませんか?明先生は誰も言わない時に「甲子園やりましょう!」と言い、順先生も世界中を駆け回って情熱的に働いておられるということを見る時に、僕なんかよりもよっぽど若々しくて、まさに青春しているな、と思うわけです。
この教会にいる若い人たち、子供さん、中高生のみなさん、結婚前の青年のみなさんには、神様の前にそのように熱い想いを持って、自分自身を捧げていくということを、今日は心に留めていただけたら嬉しいと思います。若いうちは、時には失敗してもいいのです。失敗を恐れずに情熱を神様に傾けて、いろんなことにチャレンジしていっていただきたい。そんな風に思うのです。極端な話、スタッフや順先生に怒られてでも、自分の気持ちを全面に出して神様のために前に進んでいっていただけたら、という風に思います。

 アブラハムは聖書に「信仰の父」と書かれていますが、「望み得ない時に望みを得た」と書いてあります。90歳になって、普通ならあり得ないのに自分に子供が与えられ、自分を通してこの全世界が祝福されるという神様の約束を信じて立ち上がっていったということが聖書の中に書かれています。「信仰というものは、望んでいることを保証し目に見えないものを確信させる」というように、ヘブル人への手紙の中に書いてありますけれども、望遠鏡みたいなもので遠くにあるその目的地をぐっと引き寄せ目の前にあるかのように見せるのが、信仰ではないかと思います。目の前だけを見るクリスチャン人生ではなく、信仰という望遠鏡を持って遠くにあるその目的に向かって歩んでいく、そのようなものになっていきたいと思います。

 最後にヨハネの福音書の12章24節〜25節をお読みして終わりにしたいと思います。今日お話しした言葉を思い返しながらみなさんでお読みしたいと思います。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 ここに、真に自分を愛するということについて書かれているのではないかと思います。これは自分の命をイエス様に委ねる人のことだと思います。全部イエス様にお委ねするのです。自分を本当に愛するというのは、ここでは自分に死んでしまう、自分の命を憎む、という表現がされていますが、それは自分を拒絶したり自分を傷つけることではないと思います。「自分の命を憎む」というのは命を自分のものとせずに、イエス様にお委ねしてしまう。実はそれが本当の意味で自分を愛するということなんだよ、と聖書は言っています。逆のような感じがします。自分を大事にして他の人はどうでもいいというのが人間のつねであるわけですけれども、そうではなくて、自分というものを憎む、イエス様にお委ねしてしまって、そしてイエス様のために自分の命を捧げて生きるということが「本当は最も自分を愛している人だ」と、ここでは教えています。私たちは自分に与えられている命、賜物、健康、力、知恵、その全てを神様にあってよく理解して、土の器を通して神様が素晴らしいことを成そうとしてくださっているということを聖書の中から受け取って、そして神様の光を命一杯私たちを通して放つことができるように。私たちを通して神様の栄光が現されるように。私たちの人生を輝かせて、周りの人々を照らして神様の栄光を現していきたいと思います。そういった人生は本当に素晴らしいと思います。自分もそうなりたいと本当に心から思います。みなさんと一緒にそのような人生を目指してお互いに前進していきたいと思います。若々しく青春して信仰生活を歩んでいきたいと、そんな風に思います。

 最後にみなさんでご一緒にお祈りしたいと思います。今日のメッセージを受けて、自分自身を点検しましょう。神様の前に信仰者としてクリスチャンとして自分は若々しくなかったのではないか、と感じられたかもしれません。神様の前にまだまだ捧げきれていなかったのではないか、自分を大切にしようとして、実は勘違いしていたのかもしれない、ということを自分自身に問いかけてみてください。そして、神様の前に思いを新たにしていただき、そして信仰を持ってチャレンジしていくことができるように、若々しい青春したクリスチャンとならせていただくことができるように、みなさんで今日の決意をお祈りしていきたいと思います。それでは、しばらく個人的に神様と自分との関係の中でお祈りの時を持ちましょう。

一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ、天の御父様。あなたの聖なる御名をあがめて心から感謝いたします。今日もあなたの御前にこの礼拝の時、恵みを受けることができたことを心から感謝いたします。あなたは私たちにもっと素晴らしい、もっとダイナミックな、もっと熱い信仰生活があるよ、と今日はお語りくださいました。私たちがそのことをもっと実感し、もっと私たちの人生の中に体現していくような、そのような歩みをあなたにあってさせていただくことができますように。今日はお一人お一人の上に聖霊によって、熱い火が注がれますように。そして主よ、十字架の贖いの感謝と共に、あなたへの思いを熱く燃やしていただき、この福音宣教の業を、私たちに与えられているこの光を、輝きを多くの人々に分け与える者となることができますように、どうか祝福してください。私たちには、世界宣教というビジョンが与えられています。また、この日本のリバイバルというビジョンが与えられています。この全日本リバイバルミッション、ざわめきや様々な働きを通して、そのビジョンに向って進んでいく場所が与えられていることも心から感謝します。どうぞ主よ、そのような働きのためにも私たちが、更に熱く祈り捧げていくものとなることができるように。また私たちの周りにある家族や会社や学校、それらの私たちにしか届くことのできない場所においても、私たちがその光を輝かせていくことができるように、今日はお一人お一人を祝福してください。イエス様、あなたが与えてくださっている素晴らしい良き人生を、私たちがこれからも味わっていくことが出来るように。今日はお一人お一人を祝福してくださいますようにお願いいたします。今日のこの恵みの時を心から感謝します。また今から聖餐式をいただきますので、その聖餐式も祝福してください。イエス様の御名によって心から感謝し、お祈りいたします。アーメン。

 主に大きな拍手をささげたいと思います。「神様にあって青春しましょう!」とお互いに言って座ってください。


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