詩篇 127篇1節〜5節
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。
ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日はお暑い中、こうして集まってくださり、一緒に礼拝を守ることが出来ますことを、心から感謝しています。日本は四季が豊かな国ですが、ようやく梅雨も明けてきたかなという感じです。これからは暑い日が続くかもしれませんが、心も熱くして主に仕えていきたいと願っています。
先ほどもみなさんで祈りましたが、今日は大勢の方が新城教会以外で活動しています。この教会は伝統的に、自分たちの教会だけではなく、日本中、世界中の教会に仕える使命が与えられています。今日は青年会の十数名の方々が、仙台の教会の礼拝に出席しています。また地域のために祈ったり、向こうの教会の青年達と交わりを持ったりして、今年行われます東北リバイバルミッションの準備に加わっています。
また、東北リバイバルミッションの決起大会等も継続的に行われていますが、私も先週は東北で奉仕をさせていただきました。仙台、郡山、そして福島で集会を持たせていただき、先週の日曜日は福島市内の教会で礼拝を守りました。本当にみなさんの祈りに支えられていることを、心から感謝しています。
新城教会には素晴らしい牧師が揃っていて、毎回、素晴らしいメッセージが取り次がれていることを感謝しています。私は一応、名目上「主任牧師」となっているんですが、主任牧師と言うのは、どういうものかと言うと、借金の名前になる位です。借金の全責任を負う役割です。一番嫌な役割ですけれども、私以外に、六名牧師がいて、彼らも全員主任牧師です。なぜならば「主によって任命された牧師たち」だからです。
先週の岡本信弘先生のメッセージ、本当に良かったですね。「勝利を勝ち取るまで」というメッセージを読ませていただいて、心が燃えました。リバイバルのために祈ることを忘れてはいけないのです。
案外、私たちは小さくまとまりやすいのですが、視点を内側に持つと神の働きは拡がって行きません。視点を常に外に持って行かないといけないのです。勝利を勝ち取るまで、国のリバイバルのために祈り続けて行く必要があります。
私は先々週、ここでメッセージを語らせていただきました。「数えてみなさい、主の恵みを」というテーマで、主が今まで良くしてくださったことを、決して忘れないようにとお話させていただきました。
みなさんどうでしょうか?近頃、何かいいことがありましたか?「あんまりいいことないな〜」という人もいるかもしれませんが、考えてみれば、大きいこと小さいこと、いろいろ感謝なことがあると思います。
私もこの二週間くらいのことを考えてみますと、「感謝だな〜」と言えることがいくつかありました。
まずは先週、iPhone4が手に入ったことですが、それは横に置いておきまして…。それから免許証の書き換えに行くと、なんとゴールド免許でした。今までは免許証に青い線が入っていましたが、今回はゴールド免許です。本当に感謝でした。それは無事故・無違反の証拠です。とは言いましても、「違反はしたけれど、捕まらなかったから感謝」という事です。誰でも時にはスピードを出してしまったり、いろいろ違反はありますが、事故もなく捕まることもなく良かったな〜、という感謝です。次の五年間は本当の意味で、無事故・無違反でいられたらいいな〜と思っています。
私はゴールド免許をもらって、「神様、どうか次回もゴールドでありますように。守られますように!」と思わず祈りました。みなさんも毎日の生活の中で大きなこと、小さなこと、なんでも主に感謝することが大事です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。」とありますので、喜ぶことが出来ないような環境があったら、祈ったらいいのです。また、それらも含めて感謝をしなければならないと思います。
教会には日々ドラマがあります。今この新城教会に属しておられる兄弟姉妹は六百五十名くらいおられますから、その家族、親族を合わせたらどれだけ広がるのか分かりません。教会に伝えられる第一報は、ドキッとするようなことが多いものです。教会は「ゆりかごから墓場まで」という感じで、赤ちゃんが産まれことから、ある時には葬式があったりします。悲しいこともあるわけです。でも、喜びはみんなで分け合うと大きくなりますし、悲しみはみんなで分け合ったら小さくなりますから、教会は素晴らしいところです。
時には「これからどうなるんだろう・・・」というような不安なこともあります。
二ヶ月くらい前でしたが、葬式がいくつかありました。すると、また私のところに「今、大変なことが起こっている」と家内から電話がありました。この教会に来られているSさんご一家がおられますが、ご主人はまだ若い四十代で強い人なんですけれども、突然、頭が痛くなってくも膜下出血で倒れたという知らせでした。奥さんから家内のところに緊急の電話がかかってきました。家内のところにかかってくる電話は、あまりいい話がありません。だいたい私はいつも耳をダンボのようにして、何がまたあったのかという感じです。
それは救急車の中からの電話でした。ご主人は体に計器をつけられていたらしいのですが、みるみる目の前で数値が下がって呼吸が止まって、瞳孔が開いて心臓もほとんど止まりかけているとのことでした。病院に着いたら心臓が止まっていました。
そんなことを聞いて私は心が真っ暗になりました。もちろんすぐに祈りましたが、いやされるという信仰はほとんどなく、もう無理だろうと思いました。すぐに私は「チーム上條」に電話をして、葬式の準備を整えてくれと話しました。私はどうしても外せない用事があったので、家内とスタッフが病院に飛んで行きました。
病院に着くと、心臓は辛うじて動くようになったということでした。しかし、状況は非常に厳しく、くも膜下出血というのは、三段階に評価が別れていて、「社会復帰できる」「後遺症が残る」、そして「死ぬ」という三つの段階だそうです。彼は三つの段階の中の「死ぬ」という分類の中でも死の世界に最も近い、体半分死の世界に乗り出しているようでした。
医者が奥さんに言ったそうです。「もう何もできません。このまま様子を見守るしかできません」と。しかし彼には家族もいるし、本当にこれからどうなってしまうんだろうか、という状況でした。
でも、私たちは真剣に祈りました。すると心臓が安定したので、血管を通して出血部分をクリップする手術をイチかバチか、途中で死ぬかもしれないけどやりますか、と言われたそうです。「手術がうまくいったら植物人間になって、少しは長く生きるかもしれません」と言われたそうです。でも手術中に死ぬ確率は五割だと言われました。
家族は少しでも長く生きていて欲しいと願い、手術を決断しました。それが本当にうまくいきました。皆が真剣に祈ってくれたことにより、奇跡が起こりました。
先週私は、彼の病院を訪問しましたが、今まで訪問しても会えなかったのですが、今回出会ってびっくりしました。「これは奇跡だ」と病院も言っているそうです。彼は歩けるほどまでに回復しました。私は彼に「天国に行く寸前だったんだよ」と言ったら「え?そうでした?」と言っていました。あまり覚えていないようでしたが、彼はこれから、社会復帰するためのプログラムに入るそうです。これからも祈りが必要ですが、死んでいた人が生き返ったレベルの奇跡だと思います。
私には信仰がありませんでしたが、時々、主は教会に励ましを与えてくださいます。「どうにもならないことだって、あきらめちゃだめですよ、主は勝利を与えてくださいますよ」と励ましてくださました。
Sさんが入院されている病院に教会から何度も祈りに行きましたが、一時は本当に厳しい状況でした。私が行った日、Sさんは手術の最中で部屋にはいませんでした。奥様とご主人のお母さんがおられ、一緒に祈りました。誰もいないベッドに手を置いて、私は「死の力が打ち砕かれるように!」と祈りました。
この頃、東北リバイバルミッションという中で、日本の根源で人々をコントロールしている敵の力、死の力を打ち破らなければならないと教えられていますから、そのテーマで祈りました。すると突然、奥さんに聖霊が激しく臨まれ、びっくりしました。そのとき、もしかしたら彼はいやされるかもしれないと、希望を持ちました。そしてその通りになりました。心から主に感謝します。
教会には、まだまだ、手に負えない問題が多くあります。どうしたらいいのだろうか・・・、と日々苦しみながら祈り、同時に多方面から戦っています。一つうまくいったら次がうまくいくとは限らず、いろんな条件がありますから、常に主に聞いて祈り続けなければなりません。
時に、人生には敵が近づいてきて、敵と対峙(対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること)しなければならない時があります。今読んだ箇所にも「彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」という言葉がありました。
詩篇はイスラエルで書かれたものです。当時のイスラエルの町は城壁で囲まれていました。城壁にはいくつかの門があって、人々は門から出入りしていました。門がないと街に食料や水が供給されません。しかし門は、ある意味で弱点でもあります。なぜならそこから敵が侵入する可能性があるからです。先週も敵の弱点、私たちの弱点というテーマでメッセージが語られましたが、敵が入ってくるのは、門から入ってきます。
ですから当時は、門の守りを特に固めていました。一番優れた勇士たちがそこに配置され、陣を張っていました。ある時は敵が侵入しようとして、門で戦いがありました。もしも門を勝ち取られたら、町全体がやられてしまいます。逆に言えば、戦争の時に敵の門を勝ち取ったら、町を勝ち取ったことになるわけです。
「門で敵と語る時にも恥を見ることがない」とありますが、人生も門で敵とやり取りしなければならない、そんな状況があるかもしれません。
しかしこの御言葉が告げているのは、「決してあなたは恥を見ることがありません」という約束です。今まで人生の中に、何度か敵が門から入り込んで敗北したかもしれません。けれども、それでも主が助けてくださったと感謝をします。しかしさらに聖書の約束として、「門で敵と語る時にも恥を見ない」と約束して下さっています。
詩篇一〇三篇五節「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」という御言葉を前回学びましたが、人生とは、一生を通して常に門で敵と対峙しているのかもしれません。
しかし全てにおいて主は「あなたに恥をかかせることはありません。必ず助けます。勝利します」と励ましています。
教会には子供たちからお年寄りまでおられ、それぞれの年代に、それぞれの戦いがあり、戦いつつ人生を歩んでいるわけです。それは目に見えない霊的戦いです。ここで「門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」と約束されていますが、その為の条件があります。
その条件とは、「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人」とあります。昔の戦争では、弓矢が唯一の遠くにいる敵を倒す武器でした。門に近づいてくる敵に対して、矢が尽きたら戦うことができません。しかし常に矢筒の中に矢が満ちていたら、勝利できました。矢筒に矢が満ちていたら、決して恥を見ることがないのです。
教会とは、キリストの体ですから、子供たちからおじいちゃんおばあちゃんまで、全体に、それぞれ役割があります。それぞれの年代が、その年代にしか引くことができない弓と矢を持っています。「矢筒が矢で満たされる」とは、「教会に属する全ての年代に主が与えておられる矢を使えば、恥を見ることがない」という意味かもしれません。
人生は赤ちゃんの時代から始まりますけれど、だんだん成長して、次のステージ、次のステージへと進んで行きます。そのステージごとに主が与えてくださる弓矢を受け取り、矢筒を満たすなら、決して恥を見ることがないのではないかと思います。
前にも話したことがありますが、一生とは、専門的に言えば「ライフステージ」と呼ぶそうです。そのライフステージの一連の流れを「ライフサイクル」と呼ぶそうです。人生は、胎児期と言って、お腹の中から始まり、乳幼児期、児童期、思春期、青年期、そして結婚を経て、成人期、老年期へと移っていく、それが各ライフステージです。みなさんは今、どのステージにおられますか?
日本では生まれると「ゼロ歳」から始まります。韓国に行きますと、ゼロ歳からではなく、「一歳」から始まります。私はそのほうがいいと思います。もうお腹の中で一年くらい生きているわけですから、生まれた時に一から始めたほうがいいですよね。ゼロというのは数学の記号ではなく、宗教的概念です。「ゼロの概念」とはヒンズー的概念です。ですから、ゼロから始めるというのはあまりいい数え方ではないと思うのです。
先週はこの教会に二人の赤ちゃんが誕生したと週報に載っています。上條家に念願の女の子が誕生したというビックニュースです。ついに女の子が生まれました。どんな女の子か楽しみですね。
そして、また、インターナショナルの山本ルーベンス・リベルダ夫妻にも男の子が誕生しました。この教会は日々、誰かが出産を待っています。人生はお腹の中から始まって、次に乳幼児期、児童期、思春期と進んでいきます。
先週私は、福島の教会で奉仕をさせていただきました。今回は東北リバイバルミッションの決起大会で行ったわけですが、「決起大会」というのは、「皆で東北のリバイバルのために働きましょう!」と決起する集会です。全日本リバイバルミッションは、今年は東北で準備中ですが、来年はまた韓国であります。春川とソウルであります。それと九州でも行われます。来年は三カ所になりますので、大変忙しくなると思います。韓国のリバイバルミッションの準備も既に始まっています。なにしろ、そういう集会は、みんなでリバイバルのために祈りましょう、という、心を一つにする熱い集会です。
今回福島のある教会の決起大会にお邪魔して、タイトルを見て唖然としました。なんて書いてあったかと言うと、「滝元順牧師による子育てセミナー」となっていました。「なんじゃこりゃ」という感じで、「俺にそんなセミナーをやれというのは無理じゃないか」と思いました。子供たちも育ってしまったし、得意ではないジャンルです。
先生に「なんでこんなタイトルをつけたのですか?」と言ったら、「こういうタイトルじゃないと人が集まらないから」と言うのです。
その教会は幼稚園を併設していて、クリスチャンでないファミリーの子ども達も幼稚園に来ていて、三十人くらいの幼稚園です。それで「霊的戦いセミナー」なんて言うと引いてしまうので、「子育てセミナー」にしました、という事でした。
そこに行くと、園児が三列目くらいまでずらっと座っていて、後ろに父兄が強制的に座らされ、「こいつは何を話すんだ」というような顔をしていました。
私も、「何を話せばいいのかな」という感じでしたが、祈りながら話をしました。それがすごく良かったです。「私は八人兄弟の長男に生まれました。お隣が十二人でした」とか言って笑いをつかみ、最終的には私の言いたいことを話しました。「子育てセミナー」の副タイトルに「手に負えない問題解決の秘訣」というサブタイトルがついていました。
それと共に、幼稚園の子供たちが集会の前に、暗唱聖句と十戒暗唱をしたのです。「一、わたしの他に何者をも神としてはならない。二、偶像を作ってはならない・・・」、「姦淫してはならない」など、このチビたち意味分かってんのか、という感じでしたが、次から次へと十戒暗唱大会なのです。
私は「しめた!」と思い、お父さんとお母さんたちに「これはどういう意味かわかりますか?」と聞きました。「子育てはテクニックではないのです。霊的戦いです」と話しました。
特に、「なぜ十戒の初めに『わたしの他に神があってはならない、偶像をつくってはならない、拝んではならない』とあるのか知っていますか?皆さんの子ども達が暗唱しているじゃないですか。意味わかっていますか?」とお話ししました。そしてその後は「霊的戦いセミナー」をやりました。目に見えない敵がいるということを話したら、みんな食いついてきました。「食いついて」というのは、怒ったのではなく、本当に興味を持って「魚が釣れたー!」という感じでした。真剣に聞いてくれました。最後に問題がある人の為には祈りますから来てください、と言ったら、全員並びました。日曜日は礼拝の前の日曜学校にも、ほとんどの父兄が来られました。その時はもっと突っ込んで、子供たちが聖霊に満たされると人生が祝福されるという話をし、子供たちを全員前に呼び出して、目に見えない領域で使う剣を受け取る祈りをしました。この頃ネパールとかペルーでやったあの祈りです。みんなに「さあ、手を出して」と言って、「さぁーいくぞ、剣を受けよー」と言ったら、ほとんどの子どもが「もらった!」と言って、「剣が見える」と言っていました。それから聖霊を受けるように按手したら、全員が倒れてしまいました。父兄たちは子供たちが変えられていく姿を見ました。
でも、福島は白虎隊と言って子供たちが犠牲になった場所です。何か子供たちに対して悪魔がフォーカスをあてているような気がしました。だからそのこともお話しして一緒に祈りました。なにしろ、私たちの人生は常に戦いです。
しかし、お腹にいる時から聖霊様に触れられるならば、人生は決して恥を見ることがないのです。
ルカ一章四十一節、
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
イエス様を生み出したマリアはただの人でしたが、彼女は聖霊によってイエス様をみごもりましたから、聖霊に満たされていました。「おはよう」とか「ハレルヤ」とあいさつしただけで、なんとエリザベツはバプテスマのヨハネをはらんでいたわけですが、お腹の子供と同時に聖霊に満たされたというのです。聖霊に満たされた子供たちが生まれるならば、子育ては決して難しいことではないはずです。
乳幼児期、児童期は、なかなか手がかかる時期でもあります。なぜ、そんな時期の子供たちが弓矢なのかと疑問に思うかもしれません。
実は、先ほど読んだ「矢筒をその矢で満たしている人」という「矢」の大きな意味は何かと言うと、「子ども達」です。
詩篇一二七篇の一〜五節まで読んでみますと、私たちがいくら努力しても、努力が及ばない領域があることを教えています。いくら自分で家を守ろうとしても、町を守ろうとしても無理な領域があります。神の守りがどうしても必要なのです。しかし主は、「愛する者には眠っている間にも必要なものを備えてくださる」と約束しています。続いて、詩篇一二七篇三〜五節、
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。
実は人類の中で最も重要な存在はどの年代かと言うと、もちろん全ての年代が大事ですが、守りや敵と対峙する時の勝利のためには、子供たちなのです。
イエス様のところに子供たちが来ようとした時、弟子たちが「うるさい。ガキたち。あっちに行け」と荒々しく追い払いました。
当時、子供たちというのは役立たずの代名詞で、子供たちの地位は低いものでした。今は子供たちを大事にする時代になりましたが。でも、当時の文化は全く違いました。そんな中イエス様は、当時の文化とは全く違う価値観を示されたのです。
マタイ十八章一〜五節、
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
「子供たちは勇士たちだ。敵をやっつける弓矢だ」というのを、ここからも学ぶことができます。今日もここに子供たちがいますが、子供たちというのは、小さいけれども大きくて、弱そうに見えるけど一番強くて、地位も名誉もなくて偉くはないように見えるけど「一番偉い」存在、それが「子供たち」なのです。
詩篇八篇一〜二節、
私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
子供たちの時代には、神から特別な賜物が与えられています。なんと彼らの口で、敵が打ち負かされるというのです。人類が勝つことが出来ない目に見えない敵であるサタンとその一族、悪霊どもが、なんと子供たちの口によって打ち破られるというのです。大人にとっては全く信じられないようなことかもしれません。
先週も信弘先生が語っていましたが、単純に主を信じて、心の清い子供たちを主が用いようとしているのです。
九十二年に主が訪れてくださり、特に七月に霊的戦いが始まりましたが、その時に「子供たちに聖霊が注がれた」というのは、聖書に書かれている通りのことが起こったわけです。
今でも子供たちが教会で祈ることによって、教会は守られるのです。また、家庭にも敵が侵入できないのです。だから、私たちは子供たちをサポートしなければなりません。子供たちのために祈り、彼らが油注ぎを受けるように祈らなければいけないのです。でも、悪魔はそのことを知っていますから、子供たちに執拗な攻撃を仕掛けています。
最近私は、新城教会で霊的戦いセミナーを何回もやっていますが、今日の午後からもあります。特に午後は、新城と東北というテーマで話しますので、是非とも出席していただきたいと思います。韓国リバイバルミッションで、何か、今まで覆っていた蓋が開いた感じがします。そして中に隠れていた悪魔の策略がつまみ出されている感じがします。それも東北が重要な場所だということです。この頃、その点について主から教えられ、祈っているのですが、そんな中、日本の一番根源に「子供を犠牲にしたり、子供を生け贄にする」敵の力が隠されていることに気づかされました。その部分をしっかり祈らなくちゃいけない、と教えられています。特に先月私はペルーに行きましたが、ペルーに行ってその点について気づかされたのです。「この領域は日本でも、絶対に祈らなくちゃいけない」と。
ですから、今日の午後から、そのことについてお話させていただきます。そして一緒に、子供たちのために、日本のリバイバルのために、東北のために祈る時を持ちたいと思います。今日は東北に青年たちが行っていますので、そっちと繋いで映像を見ながら祈るプログラムもありますので、午後二時からのセミナーにも是非ともお越し下さい。
子供たちが聖霊に満たされ、幼児期と児童期を過ごすならば、人生に敵は侵入できないのです。また、教会、家庭にも、敵は侵入しにくくなると信じます。
子供たちも初めはくったくのない笑顔で過ごしているのですが、小学校を卒業するくらいの時期になると、やはり思春期を迎えるわけです。誰でもそういう時期を通ってきたと思いますが、なんか複雑な気持ちになってきて、不安定になるわけです。その後青年期、結婚へと人生は進んでいきます。そのような時期を経ながら矢筒の中に矢が加えられます。
ここにも多くの思春期を迎えている子供たち、さらには青年たちもおられますが、彼らは強力な矢の一本なのです。
しかし同時に、この時期はある意味、強力な悪魔のアタックを受ける時期でもあるわけです。そこで失敗すると人生の方向が大きく変わってしまいます。
伝道者の書十二章一節、
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
この言葉は「若い時代にイエス様を信じてたら、わざわいの日が来ません」と教えている有名な一節です。イエス様を信じるのが遅くなればなるほど、失うものが多いように感じます。やはり教会に来る理由は、わざわいにあって、いろんな問題があって来ることが多いからです。でも、若い時にイエス様をしっかり信じておいたら、わざわいや苦しみ、そして経験しなくていい無駄な試練を回避できるのです。
ですから親にとっては子育てをする時、子ども達に対して、何を優先するかが重要だと思うのです。子供たちを主に繋げていくことが最優先です。高い教育をつけるとか、いろんな技術をつけさせることも大事かもしれません。しかしそれ以上に、イエス様と繋がることを第一にしたら、わざわいの日から守られ、何の喜びもないというような年月へ方向へが曲げられることはないのです。
第一コリント十五章三十三節、
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
みなさんも今までの人生の中で、「あいつとつるんだがゆえに、俺の人生はおかしくなった」ということがあるかもしれません。「彼と出会ったゆえに、私の人生が良くなった」と、友達次第で良くもなるし、悪くもなるのです。この「出会い」の中にも敵の策略があります。良い出会いがあるよう、祈る必要があります。結婚でも、ほんのちょっとした出会いがきっかけとなります。「えーっ、そんなことがきっかけでで結婚されたんですか!」ということをよく聞きます。それが良い方に転ぶか、悪い方に転ぶか、なんとも言えないところです。出会いの中に主の導きがあるように祈らないといけません。
また、「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」というのを、新共同訳で読みますと、こうなっています。
第一コリント十五章三十三節(新共同訳)、「思い違いをしてはいけない。悪いつきあいは、良い習慣を台なしにするのです。」
「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」とあります。私たちは、その付き合いが本当に神が喜んでおられるのか、喜んでおられないのか、ということをよく心して生活することが大事です。
大体、中学校、高校ぐらいになり、悪い友達と出会って人生の方向が悪くなることが多いのではないでしょうか。ちょっと隠れてタバコを吸ったり、酒を飲んだりと、そこから悪習慣がつくのです。小学校時代にタバコを吸うなんて普通はないです。でもこの間、インドネシアで幼児がすぱすぱと、おじさんのようにタバコを吸って世界中からブーイングを浴びましたが、ああいうことは普通はありません。大体、中学校、高校くらいに悪い友達から「おい、ちょっとタバコを吸ってみようぜ」とか言われて、校庭の便所の後ろに行ってタバコを吸ったり、酒を飲んだりして、やがて悪くなるわけです。
でも、教会に来て、前にもここで上條先生に「日曜学校の約束」という歌を歌ってもらいましたが、人生に良い習慣をつけるのです。そり為に「タバコも吸わず、酒飲まず〜♪」なんて歌うわけです。
でも中学校、高校くらいになると、酒だタバコだと、今までの良い習慣が失われていくわけです。そこに危険があります。せっかく神が矢筒の中に矢を入れて下さったのに、悪い習慣によって矢を盗まれるのです。それで門から敵に侵入されるのです。
みなさん、良い習慣を決して失わないで下さい。良い出会い、良い友達付き合いを祈らないといけないし、他人に対しても良い友人になる必要があるのです。
酒とタバコを中学、高校くらいから覚えると話しましたが、近頃、私たちは教会の中で、いろんな祈りの課題があります。教会員の中でも、癌で苦しんでいる方がおられます。このままだったらどうなってしまうだろうか・・・、というような方もおられます。ですから本当に真剣に祈っています。是非とも共に祈っていただきたいと思います。
先々週でしたか、私は一人の方のいやしと解放の祈りをすることになっていました。その方は食道癌で、今ではそれが全身に転移してしまい、このままでは危ない状況なので祈ることになっていました。残念なことに、やはり酒が原因となって、アル中から始まったと聞いていました。だから、酒という領域も祈らなくてはいけないと思っていたのですが、ちょうどその前日、私はあるところで待ち合わせをしていて、車の中でテレビをつけると、「ためしてガッテン」という番組をやっていました。そこで酒が癌になる一番大きな原因だと特集してたいました。それも食道癌になる第一原因が酒だとやっていました。
今、タバコというのが癌の原因になるというのは、はっきりとわかっていて禁煙の運動が進んでいます。しかしみなさん、教会では意味がはっきりわからない頃から「酒は飲まないほうがいいですよ、タバコは吸わないほうがいいですよ」と忠告していたのは正解でした。
みなさんも知っているように、タバコの煙には、有害な化学物質を二百種類以上含まれているそうです。その中には発ガン物質も多数含まれていて、本当にタバコは恐ろしいです。
昨日調べてきました。タバコのほうからいきますと、タバコを吸う人と吸わない人の危険度は大きく違います。喉の癌は三十二・五倍も違うというのです。たばこは「百害あって一利なし」というやつです。
「喫煙による社会的損失」というのが、一年間で七兆三千七百八十六億円だそうです。なんでそんなものを売るのか分かりません。でも今は「禁煙しましょう、禁煙しましょう!」と、社会でも健康のための認識が広まっています。しかし、昔はそれがよく分かりませんでしたから、飯田線なんかSL機関車かと思うくらい煙を出していました。しかし、健康に悪いということで今では禁煙となりました。
近頃まで、酒のほうがまだ良い、と言われてきました。実はこの間、テレビ番組でやっていたのは、「酒はさらに悪い」というものでした。
酒を飲むと、肝臓にある酵素一号というのがアルコール分を分解するそうです。その際、強力な発ガン物質である「アセトアルデヒド」という化学物質が発生するそうです。実は酒を飲んで気持ち悪くなったり、吐き気がしたり、頭痛がしたり、顔が赤くなる、あの症状はアセトアルデヒドの働きです。
実は人間の体の中には酵素二号というのがいて、アセトアルデヒドという物質を分解し、無害な酢酸に変えるそうですが、気持ち悪くなったり赤くなっている期間は、人の体の全細胞中をアセトアルデヒドという、強力な発ガン性物質が攻撃している証拠だそうです。気持ち悪くなったり、赤くなったりするのは、発ガン物質の攻撃を受けているがゆえに起こる症状らしいのです。
アセトアルデヒドが分解され消えていく為には、酵素二号が必要です。アセトアルデヒドを酢酸に変えるまでの過程が、「酔いが覚めるまでの期間」なんですが、酔っぱらって酔いが覚めるまで、その間はずっとアセトアルデヒドという発がん性物質の攻撃を全身が受けるそうです。それは本当に危ないことだそうです。
そして特に不思議なことが何かというと、酵素二号というのは体中にあるそうなんですが、その番組によると、「食道にだけそれがいない」というのです。食道にだけ、アセトアルデヒドを分解する酵素二号がいないというのです。だから、そこは無防備になるそうです。食道の壁はたった一ミリしかなく、薄いためにすぐにガンは転移していくというのです。癌の主犯格がタバコで、それを助ける犯人が酒だと言われていましたが、「両方とも主犯格」だということです。「タバコ+酒」というのは、どうにもならんと言っていました。恐ろしい、と思いました。
教会では、昔からそういった悪習慣から離れましょうと語られています。神様は情報が開示される以前から、預言的に「あなたの健康のために止めたほうがいいですよ」と語られていたのです。聖書には「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」とあります。だから、癌になりたくなかったら、酒だタバコだ、というものから離れて下さい。またそれが、矢を失う結果となり、強力な敵の攻撃にさらされる原因となるわけです。
良い習慣、良い付き合いを若い時代にしっかりと押さえておくことが人生の安全のために大変重要です。
詩篇一一九篇九節、
どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。
若い時代というのは、エネルギーが有り余っていますけれども、主の言葉に従っていく時、悪い道に入ることもないし、良い習慣を失うこともない、悪い人と会うこともないのです。だからイエス様を第一にして歩んで行ってください。
青年期に良い土台を作るならば、決して矢筒の矢を失うことはありません。そして結婚して良い家庭が出来るならば、そこに神の栄光が現れることは間違いないわけです。
この教会には結婚されていない多くの青年がおられますが、是非とも良い結婚のために祈って下さい。本当に幸せな結婚が出来ますように、主が家庭を通して、栄光を現してくださるように祈りましょう。主が準備してくださった素晴らしい人を連れて来てくださるように祈って下さい。
アダムが最初に創られて、その後彼は野のあらゆる獣に名前をつけたけれども、彼のふさわしい助け手は見当たらなかった、と創世記二章の二十節に書かれています。そんな時、神は深い眠りをアダムに下され、アダムのあばら骨の一本を取って、女性を創り上げたと書かれています。
あばら骨に隙間があるということは、「自分にとってベストの人が用意されている」ということです。また、「自分にとって妻は、私のあばら骨から創造された器なのだ」と。
また、奥さんにとってご主人は「ご主人のあばら骨から取られた者である」と信じて生活したら素晴らしい家庭ができるのではないかと思います。
ここには多くの成人期を迎えた、今一番バリバリ働いている、今が盛りというような方が多くおられます。日々、一二〇パーセント仕事をしておられると思います。でもそんな中、私たちはどんなに忙しくても、イエス様から目を離さないで生きていかなければなりません。
ヘブル人への手紙 十一章二十四〜二十六節、
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
私たちはやがて天国に行くのですが、この地上のものは地上に置いて行かなければなりません。しかし天に積んだ宝だけが永遠の資産となるのです。
マタイ六章二十節、
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
忙しい中にありますが、神様のために何かをしたいという熱い情熱を持って歩む時、みなさんの日々の仕事も、ただの地上の仕事ではなく、天国の仕事として位置づけられるのです。それは天に宝が蓄えられるということです。ですから、いろんな仕事があるかもしれませんが、ただ単なる自分の糧を得るためではなく、神の国の拡大のために仕事が用いられますよう、神の栄光が現されるよう祈りつつ毎日仕事をしていただきたいと思います。
いずれにしても、人生全体の中で、主は私たちを導いてくださるお方であります。やがて私たちは老人になって「私にはもう本当に体力もない。足腰も立たない」という時が来ます。そのような方々も中にはおられるかもしれません。しかしそんな中でも、主は目的を持っておられます。
創世記二十四章一節、
アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
我々もそんな人生を送りたいですね。年をとっても「あらゆる面で祝福されていた」という人生を主は約束しています。
ヨシュア記十三章一節、
ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。
ヨシュアは老人になって「もう引退してゆっくりしたいなぁ」と思ったのかもしれません。でも、神が言われたのは、「あなたは年を重ねて老人になっているけど、占領すべき地がまだたくさん残っていますよ。まだあなたが戦う戦いはあるのです。役割はたくさんあるんですよ」と告げたのです。
先日、この教会で長いこと礼拝を守って来た長谷川のおじいちゃんが天国に帰られました。私はおじいちゃんが大好きでした。九十五歳でした。なかなか生きれるものじゃないと思うのです。あのおじいちゃんは、本当に祈りの人でした。いつも私のためにも祈っていてくれました。それで教会は支えられていたと思います。私もそういう老人になりたいなぁ、と思います。私はおじいちゃんの残していった祈りのノートをみんなに紹介しようと思って、この間映像チームに「出してください」と頼んだら、コンピューターが固まってしまってお見せできませんでした。うちの映像チームのコンピューターはどうも古いようで、時々映像が出ないのです。しかし今日は出るようです。
そこには「新城教会が祝福されますように」とか、「日本のリバイバルのために」とか、いろんなことを毎日祈って下さっていました。「滝元明先生が祝福されますように」とか、「順牧師を祝福してください。主任牧師としてご奉仕、喜び、ご奉仕されますように」、「いいメッセージができますように」とか、なんかおじいちゃんの顔が浮かんでくるようです。また、「婦人の享子姉妹の主任牧師の妻としてのご奉仕、喜びのご奉仕、祝福されますように」というのもありました。
こういうノートが何冊もありました。いや〜、感動ですね。今は天国で祈ってくれていると思います。今はもう、おじいちゃんじゃないですよ。若々しく新しい家に住んでいますから。「これがおじいちゃんか!?」というような感じでしょう。天国に行って「おじいちゃん」と言ったら怒られますから、今は若々しい体に宿って、もっとパワフルに祈っているはずです。
人生全体において、主は敵に立ち向かい勝利する為の矢を用意しておられます。これらの矢を持っていたら、決して敵に攻め込まれることはありません。
使徒の働き 二章十七節、
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
「全ての年代に聖霊を注ぐ。皆を勇士として用いる」と約束しています。私たちもどこかの年代に当てはまるはずです。
イザヤ書 六十一章七〜八節、
あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。
みなさん、これは信じる者たちと主が結ばれた契約です。イエス・キリストを信じる前は悪魔の支配にありました。そして多くの物を盗まれたのです。しかしそれは「不法な略奪」でした。神はその不法な略奪を憎まれ、それを奪い返し、二倍にして返してあげますよ、と言う約束です。みなさん、私たちはこの地上においても、二倍の物を所有できます。「それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。あなたがたは恥に代えて二倍のものを受ける」と約束されているからです。決して私たちの人生は恥を見て終わることはありません。
「敵と門で語る時にも、恥を見ることがない」という約束を信じ、また教会に属する赤ちゃんからお年寄りまで、全ての年代に弓矢が与えられていることを確認し、矢筒を満たして行きたいと願っています。その時、更に教会の中に不思議としるしを現してくださり、敵の力を打ち砕いてくださり、リバイバルを地域に、国に、拡げてくださると信じます。最後に一言お祈りさせていただいて、メッセージにかえさせていただきます。
ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝をいたします。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい、とありますが、主が私たちを守ってくださっていることを感謝します。
同時に主が、矢筒を矢で満たしなさいと語っておられることを覚えます。主よ、今日はここにおられる赤ちゃんからお年寄りまで、全ての年代の矢筒を矢で満たしてください。今、心を一つにして、私たちは神が作られた共同体である教会に属することを確認します。各年代に与えられた弓矢があることをありがとうございます。今日はそれを一つにしてください。そして、決して敵と語っても、恥を見ることがないように。
主よ、どうか一人一人の人生を祝福してください。主よ、二倍を勝ち取って下さい。約束しておられることを心から感謝いたします。ここにおられるお一人お一人の上に、特別な祝福がありますように。聖霊の油を豊かに注いでくださいますように。イエス様の御名を通して勝利を宣言して祈ります。アーメン。 |