「あなたにとって最も大切なこと」


2010.7.25(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

マタイの福音書 22章34節〜40節
しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 ハレルヤ!みなさんおはようございます。素晴らしいピアノの演奏でしたね。「考えてみましょう。神様の愛について」というタイトルの曲でしたけれども、今日は「あなたにとって最も大切なこと」というタイトルでお話しをさせていただきたいと思います。
 前回も話しましたが、礼拝とはおもしろいもので、別に打ち合わせをするわけではないのですが、その日のテーマがいつも主によって導かれることを感じます。今日私は、「最も大切なこと」、特に、「神を愛すること」を語るように導かれていました。そうしたら、賛美もその他のプログラムも神の愛が強調されていました。礼拝とは聖霊様によって導かれ、主を愛するために集められていることを、このような中から知るわけです。
 先週私は「主の勇士の弓矢になる」という話しをさせていただきました。すると、ここに中野向君がいますが、彼は、二年前の七月に大変な病気をしました。彼は脳炎になって五十日間意識不明で、もう助かりません、という感じでした。でも、みんなが真剣に祈った時、主が彼を癒してくださり、今日も元気に集っています。
 彼が先週語られた礼拝メッセージを聞いて、「俺が見た夢とおんなじ話だ!」と言ったそうです。彼は既に自分が見た夢を礼拝の前に、家族に話していたそうですが、同じ話を私が語ったそうです。彼の様子を記しているブログがあるんですが、先週、そのブログを見ると、彼の見た夢が絵になっていました。向君が描いたのか、お父さん描いたのかわかりませんが。こんな絵でした。

 巨人に対して子供たちが弓を射かけています。巨人も矢を投げるけれど矢は届かない。しかし、子供たちが放つ弓矢によって、巨人が倒れるという夢を彼は見たのです。私がメッセージを語る前に、主は彼に夢を見せたのです。先週は子供たちが特に、霊的戦いの勇士であり鍵であると語りました。また、それぞれの年代に神が弓矢を与えておられると話しました。そのことを教会全体に知らせるために、主は彼に夢を見せたのでしょう。キリストの体とは本当に不思議なものです。一人一人に役割があり、それぞれの立場において、目的が果たされていくわけです。その結果、教会全体は神の御心の方向に進み、神の御心が現されるのが教会の素晴らしさです。

 私たちは人生において、優先順位を持っています。「自分にとって今、最も大切なことってなんだろう?」と考えてみると、みなさんはどんな優先順位を持っていますか?ビジネスマンならば、「私は仕事が最優先です」と答えるでしょうし、また、「私は家族が最優先です」という方もおられるかもしれません。ある人は、「趣味が最優先です」と、いろんな最優先があるかもしれません。
 しかし私たちにとって最も大切なことは何かについて、イエス様は語られました。
 パリサイ人たちは、イエス様が現れた時、嬉しくなかったのです。彼らは口だけはうまいのですが、行いは全くなっていませんでした。しかし、イエス様は語ることと行うことが同じで、素晴らしい業が伴っていましたから、その姿を見て、自分たちの立場が危なくなったのでしょう。彼らはイエス様をひっかけようとしました。その一つだったのですが、律法の専門家であるパリサイ人たちが、イエス様に聞きました。

マタイの福音書 22章36節、
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 そんな質問の中で、イエス様が答えたのは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです」と語られました。そして次に、「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と言われました。

 旧約聖書は、神がモーセに与えた律法が中心となっています。十戒とは、既にみなさん十回以上聞いたと思いますが、あの中に書かれている事柄とは、「あれをやるな、これをやるな、あれやれ、これやれ」、と多くの規制がある感じです。私も牧師の息子に生まれ、初めは教会というところは堅苦しい場所だと思いました。なぜなら両親は私の小さい頃、よく十戒を教えたからです。だから私はそれを見ながら、「束縛ばかりだ」と思っていました。だから、もしも天国に行けたら最初にモーセに出会いたいと思っていました。モーセに会って文句を言ってやりたかったのです。「あんたは四十日間も山の上で神様と交渉したのだから、なんで十戒を五つくらいに減らすことが出来なかったんだ。そうしたら、人生はもう少し楽しかったのに」と言ってやろうかと思っていました。
 しかしイエス様を信じてからは、十戒とは、私たちが安全に生きるための秘訣であることが分かりました。そして、イエス様がこの地上に来て、十の戒めを二つにまで減らしてくれました。
 十戒の前半を見ますと、人と神との間柄を規定しているものです。そして、後半は、人と人との間を規定しています。今日はこの十戒については詳しく学びませんが、出エジプト記の20章を読んでみでください。よくわかります。前半が人と神との間のこと、後半が人と人の間のことです。それをイエス様は「愛」という帯で束ねて下さったのです。自分と神様との間のことは、「神様を愛する」という一言で現すことができ、また、人間関係の項目は「隣人を愛する」という一言でまとまります。「あなたがたは十戒が重荷になっているかもしれないが、『愛』という帯で結んだら、どうってことないよ」と、イエス様は言われたのです。
 聖書は分厚いですが、それを短くまとめたら、大事なことは二つだけだというのです。人間生活の中において最も大切なことをまとめたら、大事な事柄は少ないのです。
 最初の命令は「神様を愛しなさい」。そして、もう一つは「隣人を愛しなさい」。これが全てなのです。
 時々、私たちはキリスト教って結構難しいな、聖書も分厚くて挿絵もないし、字も細かいからなかなか読むのは大変だ、と思うかもしれません。みなさんどうでしょうか?毎日聖書を読んでおられますか?目が悪くなるとなかなか聖書を読むのがつらくなります。でも、私、すごいでしょう?聖書の注釈の部分までよく見えるのです。私は今年で59歳になりますが、目はばっちりです。とは言っても、遠近両用のコンタクトレンズをしているからですが…。目が悪くなると、聖書を読むのが嫌だな〜、と、読み出す途端に眠くなるような時もあります。
 しかし、聖書は厚いですけど、教えの中身をまとめたら二つです。それは「神様を愛する」ことと「隣人を愛する」ことの二つの教えです。
 ですから賛美の中で神様を愛する気持ちが湧いてくるのは重要なことです。先ほども「神様の愛について考えましょう」という曲を演奏して下さいましたけれど、聖書の最も重要なテーマです。

 神を愛したら、隣人も愛しましょう。教会は、イエス様がお生まれにならなかったら、発生していません。今日ここに大勢の方が来られていますけれども、二千年前にイエス様がこの地上に生まれなかったら誰一人として知り合いじゃないと思います。私なんてイエス様が生まれなかったら、生まれなかった人物です。なぜなら、私の父と母は教会で出会って結婚したからです。イエス様がいなかったら、私はこの地上にいません。イエス様の影響はすごいと思います。こうしてイエス・キリストによって集められた者たちは、互いに愛するということを、教会で体験するわけです。そして、この二つが全てを支えているのです。

 今日はこの重要なことについて、もう少し考えてみたいと思います。神の愛について先ほども話しましたけれども、先に「隣人を愛する」ということから考えてみたいと思います。
 「隣人を愛する」というところに、「自分と同じように」となっています。だれでも、「自分」は大事にしていると思います。やはり「自分」は、一番愛する対象です。しかしながら、この頃は、なかなか自分を愛することが出来ない人たちもいます。隣人を愛するとは、自分自身を愛することにも繋がります。
 サタンの最も成功している現代人に対する策略は、劣等感と低い自己評価だと言われます。みなさんの中にも「私は駄目だ」と思っている人がいるかもしれません。また、かなり低い自己評価を持っている人もいるかもしれません。しかし聖書は、
 エペソ人への手紙 2章10節、

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 私たちは、神の作品として、良いものとして作られた、とありますから、別に自分を偉くもないのに偉ぶるという意味ではなく、「自分自身は神によって作られた作品である」と正しく評価し、認識しなければなりません。劣等感なんて持たなくてもいいのです。
 ある本に日本人は四つの劣等感を持っている、と書かれていました。それは「身体的劣等感」「社会的劣等感」「性格的劣等感」、そして、「能力的劣等感」だそうです。誰かと比べたらキリがないですけれど、神様は私たちを「作品」として作ってくれたのですから、何かと比較される存在として作ったわけではないのです。「作品」とは、作者が心を込めて制作したものですから、それは比較対象ではなく、神は作品制作に集中して、「この人は世界にただ一人しかない!」ということを意識して私たちを創造して下さったわけです。ですから、私たちはお互いが比較対象ではないのです。だから、左右に座っている方と別に比べることは何もないのです。一人一人に神の大きな目的があるのです。教会に来ると、そのことが分かってきます。誰かと対比して落ち込むこともありません。
イザヤ書 43章4節、

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 神が人間に対して、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださっています。日本人にはなじみのない言葉だと思います。神様から愛されているなんて、なかなか信じられないことです。日本の神々というのは、恐ろしい顔をしていて、およそ愛の対象には見えないからです。でも天地宇宙を作り、私たちを生かしてくださっている神様とは、愛の神です。私たちに対して「あなたを愛していますよ」、「あなたは高価で尊いですよ」と語ってくださっているのです。ですから、決して劣等感を持つこともありませんし、低い自己評価をすることもありません。今日、お一人お一人、神が愛されていることをよく心に刻んで、私たちと神様の間は、恐れとか律法で縛られるのではなく、愛によって関係が成り立っていることを確認しましょう。

 私たちの社会を見る時、なかなか「隣人を愛する」ことが出来ない社会です。「愛する」よりも、「憎む」とか、「批判する」とか、「陥れる」ほうが多いです。「いやなやつだな」という存在が周りに多くいるのではないでしょうか。
 足し算でこんなのがありました。「18782+18782=?」という問題です。いくつになるのかわかりますか?「18782(いやなやつ)+18782(いやなやつ)=37564(みなごろし)」だそうです。ひどい答えですね。
 誰が考えたのか知りませんが、「あいつはいやなやつだ、あいついやなやつだ。皆殺しにしてやる」というような社会になっているのではないでしょうか。「18782」を足し算してはいけません。悪魔に皆殺しにされてしまいます。
 周りを見ますと、あまりお互いを愛さない風潮があります。そんな世界に生きていますけれども、お互いに愛し合ったら幸せになれます。
 みなさん、魚釣りは好きですか?私は魚釣りが大好きです。でも時間がなくてなかなか行けないのですが、魚が釣り針に引っかかった時の感触は一度やったらやめられません。私の友人のジョー先生は釣りばっかり行っていますが、この間もでかいサーモンを釣ったと言って、「どうだ、すげーだろ、順」と言って写真を送ってきました。
 釣りにはコツがあります。はじめに魚が来てえさをちょんちょんとつついた時にあげてしまうと釣れません。ちょんちょんとつつかれた時、少し待つのです。浮きがぐっと水中に入った時に引き上げると釣れるのです。

 何を言いたいかといいますと、悪魔も私たちを釣り上げるために餌を投げ込むのです。それが何かというと、「あいつ、いやなやつ」という餌です。「いやなやつ」という餌を投げ込むのです。そうすると私たちは「いやなやつだな〜」と反応し、ちょっとだけ餌をつつくのです。それで「いやなやつ、いやなやつ」と続けてつついている内に、悪魔の釣り針に引っかかり、「みなごろし」にされるのです。
 エペソ人への手紙 4章26節〜27節、

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。

 「怒っても罪を犯してはならない」とあります。みなさん、毎日の生活の中で、「くそー、いやなやつだな、頭にくるなー」というようなことが結構あるのではないでしょうか。しかし、少しは怒るようなことがあったとしても、「罪を犯すな」と聖書は告げています。罪とは「日が暮れるまで憤ったままではいけない」と言うことです。
 例えば今日、礼拝に来て誰かのことを、「あいつ、いやなやつだなー」と思ったとして、夜になっても「いやなやつだ。もう大嫌い!」となると、これは魚が餌を食べて針にかかるようなものです。次の朝起きた時も「あいつは絶対に許せん」となっていると、悪魔に釣り上げられるのです。
 「いやなやつ」という餌をまかれ、悪魔に機会を捕らえられて、釣り上げられるのです。「隣人を愛する」とは、私たちの人生を守る為の重要な教えです。私たちの生活は、常に人間関係の中で成り立っていますから、いろんなことがあるかもしれません。しかし少しは頭にくるようなことがあったとしても、一日で全て忘れて、次の日に持ち越さなければ、悪魔に釣り上げられることはないのです。
 先週も「子供たちが主の勇士だ」とお話しさせていただきましたが、なぜ神は子供たちを用いるかというと、やはり子供たちというのは、朝、喧嘩をしても、昼からは喧嘩した相手と普通に遊んでいます。なんで彼らはこんなに簡単に忘れることができるのかな、と思います。子供の頃はそれが可能ですが、大人になると許すことが出来なくなり、結局サタンに機会を与えることになるのです。魚が人に釣り上げられて、食べられてしまうのと同じように、悪魔の餌食となってしまうのです。
 「悪魔に機会を与えないようにしなさい」という、「機会」という言葉は、ギリシャ語では「トポス」という単語が使われていて、それは、ただ単に「機会」という意味だけではなく、「領域」、「地域」、「町」、「村」とか言う「共同体」をも指しています。怒りによって人も町も国も、サタンに渡してしまう危険性があるのです。

 今週私は韓国に行きます。なぜ行くのかと言いますと、来年韓国でリバイバルミッションがあり、あの冬ソナで有名な「春川(チュンチョン)」と「ソウル」の2カ所でミッションを行う予定です。それで私は来週春川に行き、来年のリバイバルミッションの準備集会があります。是非とも祈っていただきたいと思います。
 日本と韓国は距離的には近い位置にあります。どのくらい近いかと言いますと、韓国の南に釜山という町がありますが、その沖に対馬という島があります。みなさん対馬という島に行ったことがありますか?それは釜山からたったの40キロくらいしか離れていません。私は対馬に何回か行ったことがありますが、対馬に行きますと、『釜山の見える丘公園』というのがあり、晴れた日には釜山がよく見えます。対馬から釜山の花火大会が見学できるそうです。そこに立って釜山のほうを向いていると、釜山のほうから風が吹いて来ると、「あ〜、キムチの匂いがする」というくらい近いのです。
 韓国はクリスチャン人口が2割から3割くらいですが、対馬に来ると、目と鼻の先にはクリスチャンが多いのに、対馬に行くと本当にクリスチャンが少ないのです。私は一度、対馬の教会で奉仕をしたことがあります。私はいろんな教会で奉仕をさせていただきますが、今までの中で一番小さな教会じゃないか、と思います。集会には4、5人が来られました。そこで私は「対馬にどのくらいのクリスチャンがおらますか?」と聞くと、「うちの教会には、対馬の人でクリスチャンは一人もいないんです」と言われました。そこにいた方々は、元々クリスチャンで、九州のほうから仕事で来て、この教会に集っているということでした。「この島の人でクリスチャンはあまり聞かないですね」と言われるのです。
 40キロ先には大勢のクリスチャンがいるのに、なんでこんなに違うのかなと思いました。文化においても、習慣においてもあまり変わらず、対馬では道路標識なんか、日本語と韓国語の二カ国語で書かれているのです。にも関わらず、そんなに差があるのは何が理由かと言えば、やはり日本人の心の中に、隣の国についてあまりよく思っていなかったり、また逆もあるからではないでしょうか。本来は一つになって、同じ祝福を受け継がなければならない両国が、祝福が偏って、止まってしまっているのかもしれません。
 このように「国」対「国」というだけではなく、個人的にも愛を失ってしまうことがありますが、それは人生の祝福をとどめてしまいます。

 再来週は、韓国から25名の中高生たちが新城に来ます。そして、新城教会の中高生の人たちと一緒に夏のキャンプをやります。本当に素晴らしいと思います。2つの国が一つとなって、言葉や文化は多少は違うかもしれませんが、一つになって過去の全てのしがらみを超えて神を礼拝するのはたいへん重要なことです。
 私たちが日本のリバイバルを考える時に、「日本だけ」となると孤立するのです。やはり隣国の韓国のこと、また世界のことを意識する必要があります。怒りによって人を、町を、国を、サタンに手渡してしまうから気をつけなければいけません。「隣人を愛する」と簡単に表現されていますが、実は、本当に人類にとってとても大きなテーマです。

 今週、是非ともこのテーマを心に刻んで歩みたいと思います。18782の足し算を決してしないで下さい。どんなに自分にとって利益がないように見える人がいたとしても、決して憎しみに変えるのではなく、祝福の祈りと共に、背後に働く、憎しみをもたらす敵にスポットをあてて、戦っていかなければなりません。
 「悪魔に機会を与えてはならない」とあります。憎しみが、国を人を悪魔の手に渡す武器として悪魔が使っているのです。そのことをよく知って、今週は隣人を愛することを心がけましょう。そうしたら、あなたのところに祝福が必ず訪れます。今年は嫌いな人が多くなる年ではなく、和解と、壁が破られる年になったら祝福されます。

 そして、聖書が最も大切なこととして、私たちに告げているのが、先ほどもお話しした、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』という、「神を愛すること」です。それが一番重要だと教えています。
 日本人にとっては神とは、愛する対象ではありません。恐れの対象になっている場合が多いのです。日本人は年間2度、真剣に神を拝むと言われています。それが正月とこの七月、もしくは8月です。日本の文化習慣は、陰・陽というテーマで解き明かすことができると、ある民俗学者が語っていますが、日本人が一生懸命偶像礼拝をするのは正月と、盆の2回です。盆の時期というのは、実際は8月ではなくて、7月なんですが、一月から見て真逆が七月になるわけです。それは陰・陽の概念だと言うのです。
 正月の初詣とはどういう位置づけかと言うと、それは「年神」で、「良い神様」という位置づけだそうです。しかし、「盆」とは、先祖崇拝ですが、実はそれは「死の霊」で、「悪さをする神」という位置づけだそうです。それで、1月に良い神様を10の比重で拝んだら、その年の真逆に位置する7月は悪い事をする神も10の比重で拝んでおかないとバランスがとれないというのです。日本人にとって神とは「陰・陽の神々」だというのです。分かりやすく言えば、日本の神は、よく拝めば神になるけど、ほっとけば鬼になる、神にもなれば鬼にもなる神なのです。

 私は年に1度か2度、沖縄に行くのですが、7月、8月は沖縄でも盆行事を一生懸命やっています。それを指揮するユタとかノロとかいう霊能者たちがすごく多いのです。ある島に行きますと、島全体が宗教的意味合いを持っていて、住んでいる人たちはユタかノロ、その家族です。私はそのような島にも行ったことがあるのですが、行きましたら、時間の流れから違うのです。その島ではみんなユタりしているのです。ノロノロしているんです。それですぐわかるんです。あっ、ユタだ、ノロだな、って。

 私は、その島で最も霊能力が高いというおばあちゃんに会いました。なんで行ったかと言うと、そのおばあちゃんが近頃クリスチャンになったと聞き、「家庭集会に参加してください」と言われて、行きました。もう80歳近いおばあちゃんでした。おばあちゃんに「この島で何をしていたのですか?」と聞いたら、「わしはここでユタの一番だ。昔で言ったらノロだ」と言っていました。「なんでおばあちゃんはそんな霊能力が出て来たのですか?」と聞くと、ある暑い日に、息子と一緒に縁側に出て、縁側の前にあるガジュマルという木を眺めていたそうです。その後ろに大きな山があるのですが、突然山から鬼が降りてきたと言うのです。ガジュマルの根元には金の椅子があり、そこに鬼が降りて来て座ったと言うのです。それがおばあちゃんと息子にも見えたと言うのです。するとおばあちゃんと息子は鬼に呼ばれたと言うのです。恐る恐る鬼の前に行くと、鬼がこう告げたそうです。
 「俺はこの山に住んでいる神だ。おまえたち一家が俺のことを一生懸命拝んだら、俺はおまえたちにとって神になってやる。でも、拝まなかったら鬼になるぞ。覚えとけ」と言って、ぱっと消えたそうです。自分も息子も見たので、これは一生懸命拝まないといけない、と言って、真剣に拝むようになったそうです。すると、おばあちゃんに、なんかいろんな霊能力が出て来て、祭りの時なんて、見えるだ、聞こえるだ、みんなに指示して島を仕切るようになったそうです。
 でも、本当に一生懸命拝んだのですが、その方には八人のお子さんがいるそうですが、上から三人、男の子なんですが、三人とも精神的に調子が悪くなってしまって、普通の生活が出来なくなってしまったそうです。そして、愛する娘も死んでしまい、もう子供たちがみんなおかしくなってしまったというのです。でもおばあちゃんは一生懸命、島の神様を拝むことに専念していたのです。
 一生懸命に拝んでいたら神様になってくれる日があると思って、真剣に拝んだそうです。

 そんなある日、クリスチャンに出会ったそうです。「おばあちゃん、よく考えてごらんよ。あなたの子供たちでうまくいっている子って一人くらいいるの?みんな調子悪いじゃない。あなたは神様に一生懸命に仕えてきたのに…。おかしいんじゃないの?大体、初めの霊体験のことを考えてみてよ。初めに出てきたのは鬼が出てきたでしょ?神にもなれば鬼にもなるってことは、初めから鬼なんだよ。そんなの拝んでても何もいいことないよ。もうやめなくちゃ」と言われ、神にもなれば鬼にもなる存在から離れたそうです。
 するとそれから、家族が変わってきたそうです。おばあちゃんは霊能者だったので、家は、壁一面が拝み場で、仏壇やら何やらがありましたが、それらも全て捨ててしまい、そこを本棚にして聖書とかいろんな信仰の本を置いて、家で家庭集会をやるようになったのです。私はそこに招かれて行きました。周りはみんな霊能者の島ですが、その家族は変えられたのです。

 みなさん、私たち日本人が信じている神は、一生懸命拝めば神だけど、ほっとくと鬼になるということは、元々鬼だということです。聖書の神様は決して陰・陽の神ではありません。聖書には、「神は光であって、その中に暗いところが何一つない」とありますから、ある時には神になり、ある時には鬼となって責め立てるような神ではなく、とことん光なる神様であり、愛を注いでくださる神だ、と教えています。
 この愛なる神に関して、私たちはよく理解しなければなりません。日本人は、神にもなれば、鬼にもなるというような環境から救われますから、クリスチャンになっても、「イエス様もよく拝めば神になるけど、ほっとくと鬼になるのでは・・・」と考えているのではないでしょうか。
 私たちの神様はとことん愛なる神様です。ちょうど親が子を愛しているように、無条件の愛で私たちを愛してくださっているのです。
 聖書の中で一番有名な言葉と言ってもいいかと思いますが、みなさんと一緒に読んでみましょう。
 ヨハネによる福音書 3章16節、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 この「世」というところに、自分の名前を入れたらいいと思います。私の名前を入れてみます。「神は、実に、そのひとり子、イエス様をお与えになったほどに、滝元順を愛された。それは御子、イエス様を信じる滝元順が滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」となります。

 イエス様がこの地上に来てくださったのは、私たちを救い、永遠の命を与えるためです。最も大切なこととして、神を愛することだとお話ししましたが、パウロも「最もたいせつなこと」について話しています。
 第一コリント人への手紙 15章3節〜5節、

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、3日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから12弟子に現れたことです。

 この「最も大切なこと」というのは何か、「これを私も受けました」とパウロは語っていますが、イエス様は聖書に預言されていた通りに、私たちの罪の身代わりとなって死んで下さったこと、そして一度墓に葬られたこと、それから、3日目によみがえってくださったこと、そして、今も生きておられるということが、最も大切なことだとパウロは語っています。
 それは一言で言えば、「神が私たちに愛を現してくださった。神がひとり子イエス様をこの地上に、私たちの罪を赦すために、私たちに永遠の命を与えるために、送ってくださった。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって十字架に死んでくださり、今はよみがえって生きておられます。これは最も大切なことですから、このことさえ忘れなかったら、あなたには永遠の命がありますよ」と教えているわけです。

 ここに、「聖書の示す通りに」と何度も書かれています。聖書が「聖書」と言っている場合は「旧約聖書」を指しています。もう既に旧約聖書の中に預言があって、1000年も2000年もの時を経て、それが実現に至ったという事です。偶然ではなく、旧約聖書の中にすでに預言があって、その通りにイエス様が現れ、贖いを成し遂げたと言っているのです。
 聖書の内容は信用できます。なぜならば、人間の歴史のただ中に、神が人と関わり、やがて起きる事柄のサンプルを人に手渡し、その後、本物が来るという、形がとられているからです。初めは影があって、次に実像が来るという、2本立てです。聖書の内容を私たちが信用できるように、ちゃんとセッティングされているのです。クールな目を持ち、頭を持って、聖書を歴史的にも位置づけながら読んでいくと、「本当に聖書の神は人間に対して愛を持っている」、「私も愛されている」ということに気づくと思います。

 いつも礼拝の中で聖書のストーリーを話していますが、これは歴史的な事実であり作り話ではありません。
 実はこのイエス様がこの地上に来て、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり甦ってくださった、という事柄も既に旧約聖書の中にサンプルがありました。そのサンプルとなったのが誰かと言うと、「アブラハム」という人物です。
 創世記21章1節〜2節、

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

 実はこの前に、17章のところに、アブラハムが九十九歳になった時に、アブラハムのところに神様が現れました。
 創世記17章1節〜2節、

アブラムが99歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

 99歳のアブラハムには子供がいませんでした。しかし「あなたをおびただしくふやそう」と神が言われた時、彼は信じることが出来ませんでした。サラが子供なんか産むはずがないから、神からそう言われた時に信じられず、心の中ではケラケラと笑ったのです。でも、なんとアブラハムが百歳、奥さんのサラが90歳の時に子供が産まれたのです。現代でこんなことが起こったらどうですか?大ニュースだと思います。うちのばあさんが子供を産むようなものですから、とんでもないことです。でも、とんでもないことが起こったのです。
 これは何を現しているかと言ったら、イエス様の誕生についてです。救い主はやがて普通ではありえないような中から生まれますよ、ということでした。やがてイエス様は処女から生まれました。それをここで現しているわけです。

 アブラハムは百歳の時に自分の子供を得ました。本当にかわいかったと思います。百年子供がなくて、突然かわいい男の子が生まれたわけですから、本当に目の中に入れても、鼻の穴に入れても痛くない、もうむちゃくちゃかわいかったと思います。
 みなさん、孫はもっとかわいいと思いますけれど・・・。
 アブラハムがイサクをすごくかわいがっていた時に、なんと、再び神の声が聞こえたのです。どんな声だったかと言うと、
 創世記22章2節、

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

 アブラハムにとっては「ちょっと待ってよ」という話ではないでしょうか。神はアブラハムが100歳になったとき、突然子供を一人くれて、かわいがっているさなかに、その一人子を山の上で全焼の生け贄として捧げちゃえ、と言うのです。一人息子を殺して、神に捧げろと命令したわけです。あまりにも、ひどいじゃないですか。何が光の神か。何が良い神様か。愛の神様ですか。

 なんだキリスト教の神って、ひどい神だとこのところを読むと思います。ひとり子を与えておいて、その子を全焼の生け贄として捧げろなんてどういうことだ、という感じです。
 でも、アブラハムという男はすごい人で、神の言葉に「はい」と従って、自分の息子イサクを殺そうとしたのです。もちろん、複雑な心境だったとは思いますが、神が言われたことだから、もうどうしようもない、ということで彼は一人息子を山に連れて行きました。
 その時の彼の心境が現されているのが、創世記22章6節〜8節です。これを読むと、なんか胸がじーんとします。みなさんがアブラハムになった気持ちで、自分の一人息子、まぁ、自分の家の誰か一人を自らの手で殺すために山に連れて行く気持ちで読んでみてください。
 たとえば私ならば一人息子、堅志を連れてモリヤの山に行くのです。たぶん彼なら、途中で逃げるとは思いますが…。
 創世記22章6節〜8節、

アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

 ここでイサクの、「お父さん」という言葉と、「何だ、イサク」という短い会話の中に、アブラハムの複雑な心境と雰囲気が表れています。愛しているひとり子イサクを、今から生け贄として捧げなければならないという、複雑さがそこに満ちています。イサクは今から何が起こるのかわからなかったのです。生け贄を捧げに行くのだろうけど、薪は持っているけど、生け贄はどこにあるのだろうかと思っていました。けれども、何かいやな雰囲気が漂っていたのでしょう。
 それで、「生贄はどこにあるのですか?」と父親に聞いたのです。「イサク、生贄は実はおまえだ」と言ったら、逃げてしまいますから、アブラハムも言えなかったかと思います。アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに告げて、山に登って行きました。そして何をしたのでしょうか。
 創世記22章9節〜10節、

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

 いや〜、すごい状況じゃないですか。アブラハムは自分の息子を殺そうとしたのです。神様はなんでこんなにひどいことを要求するのか、と思うかもしれません。
 しかしこんな中に、やがて父なる神様がひとり子イエス様をこの地上に送ってくださるという心境と愛が現されているのです。

 アブラハムがイサクを捧げようとした寸前、神がそれをとどめられました。創世記 22章13節〜14節、

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

 なんと神様が「おまえの気持ちはよくわかった。イサクを捧げなくてもいい」と言って、そこに一匹の雄羊が引っかかっていて、それを代わりに捧げなさいと言われたのです。
 私は先週セミナーを持ったのですが、この雄羊のことをヤギと言ったみたいで、後から思いっきり指摘されて、今ここで訂正し、悔い改めたいと思いますけれども、「ヤギであるわけないじゃん。あんた羊だに」と家内と娘に言われました。いずれにしても、ちゃんと代わりのものがあった、ということです。
 「雄羊が用意されていた」これは何を意味するのかと言うと、「イエス様」です。子羊イエス様が人類の身代わりになってくれますよ、と預言的に現しているわけです。
 聖書を読むと、旧約聖書にちゃんとイエス様がこの地上に来られること、父なる神がひとり子を、この地上に送って、私たちの罪の身代わりとしてくださることが預言されているのです。その預言的ストーリーが、アブラハムとイサクの間に起こったことです。そして結論である新約聖書を読めば、「本当に神は私を愛している」とはっきりわかるわけです。

 しかし、それはよくわかるけど、いくらなんでも神様ひどすぎると思いませんか?いくら将来の預言というものの、この要求はひどいよ。やり方ひどすぎますよ、言いたくなります。
 でも、そこにも理由があります。神様がアブラハムに試練を与えたようですが、試練は決して神が直接与えるものではないのです。周囲になんらかの環境や理由がある結果です。

 みなさんはどう感じるでしょうか?アブラハムがイサクを捧げろと言われた時、案外いとも簡単に息子を捧げる決心をしていると思いませんか。
 私なら、いくら神様が語ったとしても、まずは「いやだ」と言うと思います。それもまったく言わず、アブラハムは一回言葉を聞いただけで、行動に移しています。イサクをすぐに捧げに行きました。この行動の素早さ、ひとり子さえも簡単に捧げてしまうという、動機づけは余りにも信じられません。

 なぜかということに関して、当時の周囲の環境について調べると、その理由がわかるような気がします。
 実はその当時、神々に子供を捧げるということが一般化していたのです。実はレビ記なんかを読んでいきますと、そういう事柄に関して言及されています。レビ記 18章21節、

また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

 アブラハムの時代はだいたい紀元前2000年、今から4000年くらい前のことです。日本で言ったら縄文時代中期です。縄文中期について調べると、日本でも同じようなことがありました。神々を礼拝する時には、必ず生け贄を用意して、それも最大の生け贄は子供を殺して捧げ、霊と取り引きするというものでした。そういうことが世界各地で行われていたのです。アブラハムの時代、カナンの地では「モレク神」という存に、子供を火で焼いて捧げるということをしていたのです。

 アブラハムが生活していた地域に、そもそも、そういう環境にあったのです。アブラハムが神の声を聞いて、すぐに行動をとった背景にそのような習慣があったのです。アブラハムもそういう社会に生きていましたから、礼拝とはこういうものだと思っていたのでしょう。だから、自分の子供さえも捧げてしまうという、現代人にとっては信じられない行動原理があったと思うのです。
 でも、その時に神様が「待った、やめなさい、子供に手をかけてはいけません」と言われたのは、何を意味しているのかと言うと、人身御供のような、子供を犠牲にする偶像礼拝はやめなさい、これ以上生贄は必要ありません、と。
 やがてイエス様が最初で最後の生贄であり、犠牲であって、礼拝に生け贄も犠牲も必要ない、ということを表しているのではないでしょうか。それは人身御供中止宣言でもあったと思います。
 偶像礼拝と共に子供を捧げるという忌まわしい習慣に従ってアブラハムも動いたのかもしれません。しかしそれを主、自ら中止し、子供を犠牲にすることはないと宣言してくださったのだと信じます。ここに神の深い愛があるのです。

 日本でも案外、家庭の中で子供が犠牲になっている場合が多いのではないかと思います。どこに原因があるのでしょうか。日本でも古くから同じような習慣がありました。
 実は先週、午後からそのことに関して「霊的戦いセミナー」を行ったのですが、日本に最初に入ってきた縄文人たちは、生身の子供たちや人を悪霊に捧げる人身御供を行っていました。そのような偶像礼拝の影響は現代にまで続いています。
 日本人は神に仕える為には何か犠牲が必要だ、何か奪い取られるかもしれない、という恐れがあるのではないでしょうか。イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりであり、永遠の命を受けることが出来る訳ですが、同時にイエス様が最初で最後の生け贄であり、神と出会うための生け贄は必要ないことを告げているのです。「わたしがあなたの身代わりになりましたから、愛する子供を失うことはありませんよ」という力強いメッセージでもあります。

 みなさんの中に「我が家は子供が犠牲になっているかもしれない」というような家庭があったら、日本の根底のモレク神礼拝を打ち破りましょう。悪魔はいつも人々に「生け贄を出せ」と要求します。けれども、イエス・キリストを信じるなら、生け贄は必要ありません。イエス様がすでに全てをカバーしてくださいましたから、悪魔に宣言できるのです。
 「おまえは、我が家に対して生け贄を要求できない。イエス様が最初で最後の生け贄となってくださったから。」と宣言するならば、決して、生け贄をとられるようなことはないのです。

 アブラハムのストーリーは、やがて十字架に結びつきます。今日は神が私たちを愛してくださり、全てを支払い済みという、この愛を心から感謝し、同時に、隣人を愛する者として、生きていきたいと願います。最後に一言、お祈りして、神の愛を感じながら、イエス様の流してくださった十字架の血潮と裂かれた肉、それを記念として行われる聖餐式を行いたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ、父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。あなたはひとり子としてこの地上に来てくださり、私たちのために初めで最後の生け贄となってくださったことを、心から感謝します。あなたの愛を心から感謝します。いつも神の愛の中で生きることができますように導いてください。イエス様、あなたは人類に対する、初めで最後の犠牲です。私たちは神の愛の中で一生を過ごせる恵みを、心から感謝いたします。今日のこの時を心から感謝します。愛を感じながら、今日は聖餐式を行いますから、聖餐を祝してください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。


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