「一致のパワー」


2010.8.8(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

第二歴代誌 5章13節〜14節
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。

 ハレルヤ!韓国で奉仕をする時に、私はチェ先生と一緒に奉仕をすることが多いのですが、今日は韓国の中高生の方々が多く来られていますので、チェ先生の通訳と共にメッセージを語らせていただきます。

 今日は本当に素晴らしい礼拝です。韓国の中高生も大勢来てくださいましたし、アメリカからも素晴らしいゲストをお迎えし、私たちは心を一つにして主を賛美しました。今、ケイラブさんが言われたように、主の大いなる臨在を私も感じました。今日、この御言葉を選んで良かったと思います。心を一つにして賛美をする時、神の栄光が宮に満ちるのです。

 私たちは「全日本リバイバルミッション」という働きをしていますが、日本のリバイバルのために10数年間がんばっています。しかし、いろいろとやっても、なかなか日本は動かないので、少し失望していました。すると、神様が「リバイバルの為には、ただ日本のために祈るだけでは不十分ですよ」と語られました。「日本にリバイバルが欲しかったら、海外の宣教に協力し、祈りなさい」と言われました。「まずどこの国のために祈ったらいいですか?」と祈ったら、「まずはアメリカのために祈りなさい」と語られました。
 それで日本とアメリカの大きな接点、ハワイでミッションをするように導かれ、今から3年前に、ハワイでリバイバルミッションを行ないました。アメリカの教会と日本の教会が一つとなって集会をしました。そこで一致をした時、主が素晴らしい栄光を現してくださいました。

それが終わって、「今度は何をしたらいいですか?」と聞きました。すると、「韓国のリバイバルのために祈りなさい」と語られました。
 私は、韓国には既にリバイバルが起きているから、日本が助けることは何もないのではないか、と思いました。しかし、聖書の法則というのは、受けるだけでは駄目だというのです。与える働きをすると、気づくと自分たちも祝福されているというのです。
 2年前から韓国でリバイバルミッションをするための準備を始めました。しかし、どうやって準備をしたらいいのか、わかりませんでした。実際、韓国にはたくさんの教会があり、日本がやることは何もないからです。私のような日本人の牧師が韓国の教会に行って、「何かやらせてください」と言っても、「いや、間に合っています」と普通は言われます。
 韓国で一番大きな教会はどのくらい大きいか知っていますか?新城教会のメンバーは現在650名くらいですが、その教会のメンバーは70万人です。桁が違います。それはヨイド純福音教会です。チェ先生は同じ教団の牧師です。
 そんな大きな教会もありますので、韓国で普通、日本教会は何もすることはできません。しかし、神様は不思議です。御心があるならば、必ず道が開けていくのです。

 祈っていると、今から3年前、この教会に70人の方々が突然韓国から来られました。その方々は、「日本の教会のために祈りなさい、奉仕しなさい」と主から語られて新城に来ました。その時から韓国で働く道が開かれ、一致して韓国と日本のリバイバルのために働くようになりました。
 昨年の五月は、国際空港がある仁川でリバイバルミッションを行ないました。3日間の集会に、毎晩5000人くらいの方々が来られました。そして、ロンさんやイボンヌさんたちも奉仕をしてくれました。本当に神が与えて下さる計画を受け取る事はエキサイティングです。

 イエス様のもとに小さな力を集めると、大きな力になるのです。私たちはあまり大きな力を持っていないかもしれませんが、小さな力でもイエス様の元に持ち寄ると、大きな力に変えてくださるのです。
 「協力」という言葉がありますが、漢字で書くとどうでしょうか?左側に十字架があって、「†」、小さい「力」が三つ集まると、大きな「力」になるのです。イエス様の元に力を集め、協力したら、大きな力になるのです。私たちが一致して働く時、神様も一緒に働いてくださいます。

 ソロモン王が神の宮を建てました。その奉献式の時、集まった人たちは主の前に心を一つにしました。そして心からの賛美を主にささげました。するとその時、神の栄光が宮に満ちたと言うのです。そしてそのキーワードが「一致」でした。

 私たちの周りには「一致」よりも「分裂」が多いのかもしれません。人間は悲しいことに、ちょっとしたことで壁を造ります。
 私が小さい頃も、近所には壁がありました。人間とはおもしろいもので、小さな理由で分断されるのです。新城教会の前に電車が通っていて線路がありますが、線路のこっち側と向こう側で分断していました。
 私の小学校の頃、「線路の向こう側のやつら」と「線路のこっち側の味方」と分けて、いつも喧嘩をしていました。学校から帰ってくると、野球をよくやりましたが、どんなチームで対戦したかと言うと、「線路の向こう側チーム」と「線路のこっち側チーム」でした。田んぼに行ってよく野球をやりましたが、野球というのは、最後には勝負がつきます。負けたら負けでいいのですが、負けたらそれでは承知しないのです。勝っても満足しないのです。最後は必ず殴り合いの喧嘩になりました。その戦いを私たちは「設楽が原の戦い」と呼んでいました。
人間は一致するよりも壁を作ることのほうが名人かもしれません。

 けれども、神様の働きは壁のない働きです。今日も日本語、韓国語、英語と、いろいろな言語がここにあります。また、新城教会には中国から来ておられる人もいますし、ペルー、ブラジル、他のいろんな国々から来ています。それは重要なことです。お互いに一つになることを、そこで勉強するのです。違いを超えて一つになる、これを主が願っておられるのです。

 ヨハネという人物は天国の幻を見ました。それもやがて死んでから行く所ではなく、天が地上に降りてくる幻でした。天国を見て、彼は感動してその光景を書き残しました。
ヨハネの黙示録 21章1節〜4節、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 これは天のエルサレムが地上に降りてきた様子の記録です。天国は、やがて死んからで行く所ではなく、この地上に降りてくるものだ、ということを表しています。
 そこに描かれている光景はどんなものであったかと言うと、「海がなかった」と記されています。天国に行ったら海がないみたいです。サーフィンが好きな人たちはちょっとがっかりするかもしれません。
 先週は日本人の中高生と韓国の中高生が一緒にキャンプをしました。何回も海に行って遊びました。今回、海がなかったらキャンプは成り立たなかったと思います。
しかし、残念ながら、天国には海がないみたいです。「海がない」というのはどういうことでしょうか?聖書で「海」とは、しばしば「悪魔、悪霊どもの領域」を表しています。海がないというのは、そこには悪魔や悪霊どもは一匹も存在しない、ということです。
 ヨハネが見た幻では海がなく、涙がないと告げています。また、死もなく、悲しみもなく、叫びもなく、苦しみもない、と記しました。天国を一つのキーワードで表したら、「ない」というワードだと思います。天国には「何もない」なんて残念に思うかもしれません。しかしこの「ない」という意味は素晴らしいです。それは、「悪いものが何もない」という意味だからです。それが神の国です。また、壁がないという意味もあります。

私たちの人生は、「ない」というより「ある」というテーマです。「涙がある」、「死がある」、「悲しみがある」、「叫びがある」、「苦しみがある」と、「ある」というテーマです。しかし、神の国のテーマは「ない」のです。
 この神の国がどうしたら地上に降りてくるのかについて、イエス様が語られました。
実はイエス様が十字架にかかる前、ある意味、遺言のような祈りをされました。それは「大祭司の祈り」と時々、呼ばれます。ヨハネの17章を読んでくださるとわかりますが、今回は11節だけお読みします。
ヨハネの福音書 17章11節、

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 イエス様が十字架を前にして祈られたテーマは何であったかというと、「彼らが一つとなるように」、「一つとなって完成するように」という祈りでした。イエス様の十字架の意味は、どういうところにあったのかと言うと、
ヨハネの福音書 11章52節、

また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

 イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりですが、同時に「散らされている神の子を一つに集めるため」でした。イエス様が十字架にかかってくださった目的は、皆を一つにするためでした。一つになる時に、神の宮に栄光が満ちるからです。そして、一つになる時に、天のエルサレムが地上に降りてくるのです。苦しみと悲しみがあるところに神の国が降りてきて、苦しみのない海のない世界をもたらすのです。そのために、イエス様は十字架にかかってくださったのです。

 詩篇の中に素晴らしい御言葉があります。イエス様は大祭司としての働きを完成してくださったのですが、この箇所は初代の大祭司、アロンについて述べられている箇所です。
詩篇133篇1節〜3節、

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 ここに「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう」と記されています。「兄弟たち」というのは、神の民たちを意味します。
 今日は神の民たちが世界から集められ、共に住んでいます。ここには壁がありません。かつては、壁のあった国々の人たちが一つになっています。
 神様が初めにアメリカのために働きなさい、と語られたのにはやはり意味があったと思います。なぜならば、今から六十数年前は日本とアメリカの間に大きな壁があったからです。日本がアメリカと連合軍に対して宣戦布告をし、太平洋戦争が始まりました。それをどこから始めたかと言うと、ハワイのパールハーバーからでした。今日はアメリカから兄弟姉妹が来られていますが、六十数年前ならば鬼畜米英と呼ぶ、日本の敵でした。そこには大きな壁がありました。でも、今日はこうして一緒に礼拝が出来るのは、壁がなくなった証拠です。神様は、歴史の中で築かれた、一番大きな壁から倒すように導いてくださったように思います。
 8月のこの週は、ある意味で日本にとっては重苦しい週でもあります。なぜならば、8月15日は、終戦記念日と呼ばれるからです。
 先週はどういう週であったかと言うと、8月5日という素晴らしい日がありました。それは私の誕生日でした。
しかし、6日は、広島に原爆が落ちた日でした。本当に大勢の人たちが亡くなりました。もしも日本が太平洋戦争を始めなかったら、被爆をすることもなかったのです。8月7日もこの地域においては大変重苦しい日でした。隣町の豊川市に、昔、兵器を作る大きな工場がありました。豊川海軍工廠と呼ばれていました。そこに爆弾が落ち、ほんの20分くらいの間に、なんと2500名もの人々が死にました。みなさんの中にも、その記憶を持っておられる方がいるかもしれません。
 日本は戦争を始めたけれども、最終的には負けてしまいました。しかし、日本は戦争に負けたとは言いたくないので、「敗戦記念日」とは呼ばずに、「終戦記念日」と呼んでいます。

 けれども8月15日は、韓国に行くとまた違う意味があります。それは「解放記念日」と呼ばれているのです。何からの解放かと言うと、日本の帝国主義からの解放の記念日なのです。20世紀の初めから、日本は朝鮮半島を、30年以上に渡って支配しました。そこに住む人々の言葉を取り上げ、韓国語をしゃべるのを禁止し日本語教育をしました。また、創氏改名と言って、名前も日本名に変えてしまったのです。そして、朝鮮半島にいる人たちも、日本兵として太平洋戦争に駆り出したのです。
しかし、その日帝の支配が終わりを告げ、8月15日に解放されたわけです。だから、韓国に行くと8月15日はお祝いの日なのです。
 そういう歴史の本当に悲しい出来事の中で、私たちの間には多くの壁がありました。それは罪の結果と言わざるを得ません。
けれども、イエス様の十字架によって、今日、クリスチャンの間では壁が打ち破られています。アメリカとの壁も、韓国との壁もなくなっています。これは素晴らしいことです。

 まだまだ社会の中には、多くの壁があるのかもしれませんが、十字架の元では壁はなくなるのです。それは神の国が降りて来た証拠です。人生に多くの奇跡を体験したいと思いますが、神の奇跡を体験するためには何をしたらいいかと言うと、私たちの内側から壁を取り去ることです。一致する時に神の奇跡は現れるのです。
エペソ2章14節〜15節、

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 イエス様によって敵意が廃棄される時、天のエルサレムが私たちのただ中に降りてくるのです。その民たちが心を一つにして賛美する時、詩編133篇1節の言葉「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせか」とありますが、そこには油が注がれます。
 「油が注がれる」とは何を意味するのでしょうか。それは「権威が与えられる」という意味です。教会で「油注ぎ」という言葉をよく使いますが、神が私たちに権威を授けるという意味です。しかし、この権威にはレベルがあるようです。

 私たちの社会にも、権威に関してレベルがあります。例えば、市長さんならば一つの町に対して権威があります。また、県知事ならば、県全体に対して権威を持っています。また、国の大統領や首相は、国に対して権威を持っています。権威とは、常にレベルがあるものです。
しかし、この一つになって注がれる油とは、どういう権威の油かと言うと、
詩篇133篇2節、

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。

 「アロンに注がれたのと同じ油が注がれる」と約束されています。聖書の中にアロンという人物が出て来ます。それは、エジプトからイスラエルを引き出したモーセのお兄さんの名前です。モーセによって、長い間エジプトで奴隷になっていた民はエジプトから脱出することが出来ました。聖書の中でモーセの役割は本当に大きな役割でした。しかし、モーセは一人でその働きを成し遂げたわけではありません。実は、三歳年上の兄貴、アロンという人がいたのです。モーセは話すのがあまり得意ではなかったようです。神様がモーセに色々語ったのですが、モーセの言葉を代弁したのは、モーセではなく、実はこのアロンだったのです。

 また、モーセはパロの前で様々な奇跡を行いました。一本の杖を蛇にしたり、ナイル川の水を血に変えたり、カエルを出したり、ブヨを出したり、なんと当時の世界大国であったエジプト一国を相手に勝負したのです。その世界大国の王であったパロが、最終的にはモーセ一人の挑戦に屈して、奴隷であったイスラエルを解放したのです。その時に使われたのが、なんと「アロンが持っていた杖」だったのです。アロンが持っていた杖によって、なんと奇跡が起こったのです。アロンがもらっていた油注ぎは、国家的な奇跡を呼び起こす権威の油注ぎだったのです。

 みなさん、私たちも聖霊の油注ぎをもらうならば、このアロンの油注ぎをもらわなければなりません。そうしたら国を変えることができます。そのためには何をしたらいいかと言うと、「皆が心を一つにする」ということです。先ほども「国を越え、言葉を超えて一つになりましょう」という賛美が歌われましたけれども、心を一つにして主を賛美する時に、素晴らしい神の栄光が現されるのです。

 先ほど、ケイラブさんが「ここに油注ぎがあることを感じます」と語ってくださいました。私も礼拝に参加して、賛美の中に素晴らしい油注ぎがあると思いました。これは、一致の中に与えられている「アロンの油注ぎ」ではないでしょうか。私たちは壁を作るものではなくて、壁を打ち砕き、一つになる働きを今後も進めて行きたいと願っています。

 最後にみなさんと一緒にお祈りの時を持ちたいと思います。今日は特に大勢の方々が集まっていますが、一致を現す聖餐式をみなさんと一緒にしたいと願っています。今日は「私たちは一つです」と宣言する聖餐式をしたいと思います。もしも心の中に、何か壁があったら、その壁を打ち破っていただく祈りをしましょう。
 私たちには国と国と言うような壁だけでなく、近くにも多くの壁があるものです。「私はあの人との間に壁がある」、「あそこにも壁がある・・」と感じたら、今日はイエス様の十字架によって、壁を打ち破っていただけるように祈ってください。

 今日はいろんな国の人たちが一つとなって礼拝を持っていることは、壁が崩れている証拠です。ならば、私たちの周りにある壁も打ち破ってくださるに違いありません。そこで注がれる油注ぎは、アロンの油注ぎです。主がアロンに与えた油注ぎを与えてくださるように、祈りたいと思います。一言お祈りして聖餐式を始めたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神様、感謝します。今、主がここにおられますから、心から感謝をいたします。素晴らしい神の栄光が、この礼拝の中にあることを心から感謝します。今さらに天を開いてください。一人一人に聖霊の油を注いでください。その前に、私たちの心から全ての壁を取り去ってくださいますように。
 イエス様がこの地上に来てくださったのは、私たちを一つにするためであったことを心から感謝いたします。今日はイエス様、あなたの十字架の元に私たちは心を一つにします。主よ、あなたの栄光をこの場に現してください。日本にリバイバルを起こしてください。またアメリカにも、韓国にも、世界中にバイバルが拡がりますように。
 天のエルサレムが今日、ここに降りてきますように。全ての海が消えますように。全ての涙も消えますように。全ての悲しみも、叫びも、苦しみも消えてしまいますように。勝利を宣言し、主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。


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