「あなたは主の勇士です!」


2010.8.15(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

士師記 6章11節〜12節
さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は巷ではお休みでリラックスしている週で、休息をとっておられる方が多いと思いますが、教会は大変忙しい時期です。
 先週の日曜日は韓国から大勢の中高生が来られ、一緒に礼拝を持つことができました。そして、ミュージック・アーツ・リバイバルムーブメントと言って、ロン・ブラウンさんを始め素晴らしいミュージシャンがアメリカから来られ、賛美のためのカンファレンスが新城で三日間ありました。私もそれに参加させていただき、大変恵まれました。
 今もリソスの賛美がありました。いいですね。「おじさん賛美」という感じで、やはりおじさんの作る歌詞は、自分の昔のことを思い出してしまいます。
 賛美とは、神を誉めたたえるものですが、それが高められていくと、ただ単に主を誉めたたえるだけではなく、詩篇 一四九篇一〜九節を読みますと、

ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。

 五節に「聖徒たちは栄光の中で喜び勇め」とあります。そして、「彼らの口には、神への称賛」とあります。
 「称賛」とは「賛美」という意味なのですが、実はこの「称賛」という言葉は聖書中、一回しか使われていない「賛美」を表す特別な単語です。聖書の中で「賛美」を表すには、いろいろな単語が使われているようですが、これは一回だけだそうです。それは「最も高められた賛美」という意味だそうです。賛美とは、「神を誉めたたえます」という意味だけに捉えるのですが、賛美が高められてくると、諸刃の剣になると告げています。
日本の刀には一方しか刃がついていませんが、諸刃の剣というのは両側に刃がついているのです。一方では神様が最高に高められ、もう一方では何が起こるかと言いますと、「それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため」となっています。
 なんと、賛美も高められると、ただ神を誉めたたえるだけではなく、敵の勢力を打ち砕くのです。国々とか貴族とかというのは、ただの人ではなくて、背後にうごめいている霊的力なのです。悪しき軍勢を賛美によって打ち破る、そのような武器として変えられるのです。
 
 今日は八月十五日で、「街角プレイズ」と言って、ざわめきが主催し、全国の都道府県で一斉に四時から賛美がなされます。それはなんのためかというと、高められた賛美が国を変えるほどの霊的パワーがあることを意味します。今日、四時から日本中の勇士たちが街角に出ていって賛美をするのは、本当に大きな意味があります。今日四時から新城教会でも行われますので、是非とも「街角プレイズ」に参加していただきたいと思います。主を賛美することは、ただ単に歌うことではなくて、「主の勇士として働く」意味があります。
エペソ人への手紙 六章十〜十三節、

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

 
これはパウロが語った言葉ですが、パウロはこの事柄に関して晩年になって気づかされました。彼がローマに行き、そこで捕らえられ、牢屋にぶち込まれ自分の活動が十分にできなくなったとき、人生のことを振り返り、はっと気づかされたのです。今まで、自分の人生の中にいろいろな出来事があったけれど、それはただ単なる偶然であったり、ある人が関わっていたりとか、そのような表面的なことだけではない、という事がわかったのです。「私たちの戦いは血肉の戦いではない、目に見えない霊的な軍勢との戦いだ」と気づかされたのです。
 今日、みなさんの中で、いろいろな問題を抱えている方がおられたら、ただ単なる問題として表面的に捉えないでいただきたいと思うのです。早めに霊的戦いに気づくことが大事です。
 パウロのように、最後に気づいても、気づかないよりはいいですが、気づかないのはある意味で悲惨なことです。聖書は、情報の書ですから、早めに「私たちの戦いは血肉の戦いではなく、霊的戦いだ」と気づいたら、力強い人生を歩くことができます。そのことに気づかされた人たちのことを「勇士」といいます。
 そして、特にそこで強調されていることがあります。
エペソ人への手紙 六章十三節、

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」

 実は、人生の中には「邪悪な日」と呼ばれるような悪魔、悪霊どもが総攻撃を仕掛ける特定の日があるようです。その日に対して対抗できるように、「勇士になっておきなさい」と言うのです。
どうでしょうか。みなさんの人生を考えてみると、「あの日は本当に邪悪な日だった、あの日さえなければ、こうはなっていなかったのに」というような、何か人生の方向性が変えられてしまうような「邪悪な日」があるものです。
 悪魔はいろんな計画を私たちの人生に対して立てており、ある日、総攻撃を仕掛けるのかもしれません。しかし、そんなことがあったとしても、私たちが武装して、勇士ならば大丈夫だと言うのです。

 「邪悪な日」とは、どのような日でしょうか。もちろん、突然起こってくるような事柄もありますが、私たちの国、日本には、「邪悪な日」がたくさんあります。「この日は必ず、悪魔が総攻撃を仕掛ける」というような邪悪な日が、暦の中に多くあります。
 そして、特別な、邪悪な日がいつかと言いますと、なんと、本日、八月十五日ではないかと思われます。今日は一年の内でも、日本にとって邪悪な日であると私は考えています。憎むべき悪魔・悪霊どもが日本に総攻撃を仕掛けるそんな日でもあります。
 なぜならば、今日は日本が戦争に負けた「終戦記念日」です。日本人は「負けた」とは言いたくないので「敗戦記念日」ではなく、「終戦記念日」と言っています。
 それと共に、「盆の中日」ということで、祖先崇拝が真剣に日本中でなされているからです。この日を私たちは何気なく過ごしているかもしれませんが、目に見えない世界では、大きな戦いがある日です。八月十五日はそういう意味で、聖書が語っている「邪悪な日」に当てはまるのではないかと思います。
 その他にも日本は暦の中には、悪しき力が国民全体に襲いかかるような日が多く存在します。しかし、そんな日々があったとしても、主の勇士として武装しているならば、決して揺り動かされることはないと聖書は告げています。

 お一人一人が主の勇士として武装をして、毎日生活していただきたいと願います。そうするなら、「邪悪な日」は我々に影響を与えることは決してありません。
 今日は午後から、「国のためにとりなし祈る」というプログラムを持ちます。是非、午後二時からも出席して一緒に祈って下さい。特に今日は太平洋戦争が終わった日ですので、国の歴史をしっかりと捉え、日本の平和と安全、また、世界のためにも祈る使命が教会にはあると思います。
 教会が国のことを祈らなくなり、自分のことだけを考えるようになると、間違った方向に行ってしまいます。それは教会の役目を果たしていないと思います。私たちは国のために祈らなければなりません。今日は重要な日であると私は思っています。特に今年は15日が日曜日で、主が私たちに「祈りなさい」と語っておられるのではないかと思います。

 この中で太平洋戦争を体験された方々は、あまり多くはないかもしれません。私も戦後に生まれた者ですし、多くの人たちから戦争の記憶が薄れている今日この頃です。しかし今から六十数年前、日本はたいへんでした。日本が大きな戦争を始めて、なんと日本国民だけで、四年間の戦争で三百十万人の人たちが死にました。アジアの人たちを含めると、なんと二千五百万人近くの人たちが命を落としました。なんともそれは邪悪な日であり、年月であったかと思います。もう二度とそういうことが起こらないように、我々は祈らなければなりません。
 日本には憲法九条があり、戦争放棄が明確にされています。徴兵制もないし、戦争からは守られているようにも見えます。けれども、今は国際時代ですから、近くの国々の情勢で隣国の運命はどんどん変わっていきます。
 先週は韓国から、二十数名の中高生の若者たちが来てくれましたが、韓国に行きますと、国を守る意識は日本とは比べものにならないくらい強いです。なぜならば、男性は十九歳から二十何歳までの間に必ず兵役につかなければならないからです。韓国には徴兵制があって、男は全員軍隊に行かなければならないのです。高校を卒業して十九歳と言ったら、まだ少年です。そのような少年たちが親元から離れて二年、三年と兵役につくわけです。兵役に就く一週間前くらいは、少年たちはずっと泣いているそうです。しかし、それが国民の義務ですから仕方ありません。
 日本でそんな制度があったら、少年達はどんなに緊張するでしょうか。しかし、それは隣の国の問題ではなく、安全保障の面においては日本をも含んでのことですから、私たちは国のために祈る必要があるのです。

 私は、今週からすごく忙しいですが、私は予定の立て方はなるべく先詰めでやるようにしています。頼まれた仕事はなるべく早めにやっておくようにしています。そうすると後ろが空くので、他のことができます。何しろ一日も無駄にはしたくないと思っています。今週は、私は韓国の慶尚南道(けいしょうなんどう)居昌(コチャン)という街にリバイバル集会に行きます。月曜から金曜まで五日間連続で回集会があります。私は有名でもなんでもありません。これはただ神の計画以外の何ものでもないと思うからです。

 去年私は、アメリカ、ニュージャージー州にある韓国教会に行きました。韓国リバイバルミッションの後、「アメリカにも多くの韓国教会があるから、回ってください」と言われ、その一環で二週間ほどいろんなアメリカの韓国教会で集会を行いました。日本と韓国の一致、そしてリバイバルのためにという集会をしました。
 そして偶然、ある教会に行きました。すると、その集会に出た牧師婦人がたいへん感動され「日本と韓国が一つとなって働くことは、日本のリバイバルのため、韓国のリバイバルのため、また世界のリバイバルのために大変重要だ」と感じたらしく、聖霊によって感動させられ、私のところに来てこう言われました。「私の父親が韓国で牧師をやっています。その教会にどうしても行ってください」と言われました。
 案外、韓国の方々は日本人と違って押しが強いところがありますから、「すぐ行ってください!」と言うのです。「すぐって、いつ行ったらいいの?」と聞くと、「来月行ってください」と言うのです。アメリカに行ったのは十一月だったのですが、十二月に韓国に行ってくれ、と言うのです。
私はコチャンなんていうところは知らなかったのですが、そこで彼女のお父さんが伝道していて、私はその町に招かれて行きました。しかし、それは本当に日本との繋がりがある大変重要な場所でした。

 時々、神様は御言葉を送って、私たちに指示を与え、預言的に人生を導いてくださいます。ですから、日々、聖霊によって御言葉を受け取ることは重要です。
私は十一月にアメリカに行く前、第二歴代誌十八章のところから一つの御言葉をいただいていました。それが何かというと、ヨシャパテという王様がイスラエルの王と結託して戦争に出て行った時の話です。
 イスラエルの王は、悪賢い王でヨシャパテ王に言いました。「あなたは王服を着て戦争に行ってください。私は変装して行きますから。」ヨシャパテに王服を着せ、イスラエルの王アハブは王服を着ずに戦争に出て行きました。
当時の戦争は、親分をやっつけたら勝利するという構図でしたので、敵のアラムの軍勢はイスラエルの王、アハブを狙っていました。しかし、アハブは王服を着ていなかたったので、どこに居るのかわかりませんでした。
 しかし一緒に出陣していたユダの王ヨシャパテは王服を着ていましたので、「これがイスラエルの王に違いない」と、攻撃はヨシャパテに集中しました。それで、イスラエルの王のアハブは生き延びようとしたのです。
しかしその時、兵士が何げなく弓矢を打ったら、それがイスラエルの王アハブの急所にあたり、死んでしまったのです。
第二歴代誌十八章三十三〜三十四節、

ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。

この箇所を読んでいる時、日本の勝利のためには、王服を着ていない隠れている首領に対して聖霊によって矢を打ち込まないといけないと思いました。ですから、「主よ、どうかそのような場所に行って、戦いの祈りが出来ますように!」と昨年の十一月、祈りながらアメリカに行ったのです。そうしたら十二月に韓国に導かれたのです。するとそこがある意味、日本にとって重要な場所でした。

実は今日は太平洋戦争が終わった日ですが、日本という国を捉える時に、どうしてもテーマになるのが「天皇制」です。天皇制があるがゆえに、日本が良い方向に行かなかったという歴史があるからです。もちろん天皇というのは一人の人ですから、私たちは救われるように祈っていますけれども、「天皇制」という制度があるがゆえに、戦争も起こったのです。しかし、そのような制度がどこから始まったかと言うと、あまり日本人は深く考えないのです。
日本人に「日本という国はどうして出来たのですか?」と聞くと「そりゃ〜この土地から湧いて出て来たさ〜」と言うのです。しかし、そうではないのです。前にもお話ししましたが、日本は四世紀から統一が始まりました。なぜならば、韓国の南の方に住んでいた豪族たちが日本に入ってきて、縄文系の人たちをとりこんで統一していったからです。実は、この天皇家というのは、元々は朝鮮半島に住んでいた豪族でした。それらが日本に入って支配を拡大したために、日本は今のような形になったわけです。実は、私がコチャンに行ったらこんな場所を見つけました。

これは前にも見せたことのある写真ですが、なんと書いてあるかと言いますと、「日本国天皇の故郷」です。実は、この村には、日本神話と同じストーリーが全てあるのです。

ここにはいろいろな説明がなされていましたが、天皇が天皇になる時の儀式を「大嘗祭」というのですが、大嘗祭の元もこの村にあるのです。私は全然こんなことは知りませんでした。しかし韓国に行ってみたら、私を招いてくれた牧師の実家の前がこの場所だったのです。

この場所は田舎ですが、ある意味で、日本を繋ぎ止めている隠された場所なのです。

韓国にはこのような古墳がたくさんあります。

これも古墳ですが、これは私が先月、熊本で撮った写真です。全く同じ形式です。

これは管理していない古墳です。新城市の隣町、豊橋市石巻にある古墳です。
このように日本にはかつて豪族が入ってきて、その延長線上でいまのような国が出来たわけです。日本の天皇制の根源は慶尚南道にあります。私はそのことをその街の人たちに話しました。日本のリバイバルのために韓国の祝福のために、この街の人たちが主に向かって真剣に祈る必要があると話しました。すると街の人たちの心が燃えたのです。
去年の十一月は三日間の集会予定でしたが、二日間集会は延長され五日間聖会は続きました。今までの集会の中で一番パワフルな素晴らしい集会でした。それで「是非とも夏休みの八月に町中の教会に呼びかけて集会をやりたいから来てください!」ということで、明日から行くことになりました。主は、偶然が偶然を呼ぶような形で、この町に私を導いて下さいました。私たちにとっては偶然のように見えますけれど、偶然ではなく、神の計画の中で導いてくださったと確信しています。
このように、王服を着ていない王が住んでいる場所で霊的な戦いをすることが、日本のリバイバルに繋がっていくと信じます。
イザヤ書 三十三章二十三〜二十四節、

あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。

実は悪魔の策略は、一つの国をしばり、繋ぎ止める先端を別の国に杭を打ち帆柱を立てているのです。その帆柱を発見し、綱を断ち切ると国が解放されるのだと思います。この御言葉は私の大好きな御言葉です。帆の綱を解いて帆柱を倒したら、「おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わない」と言うのです。
私たちは多くの人たちの問題や病が癒されるように、日々祈っているのですが、普通に祈ってもなかなか「神様は祈りを聞いてくれない・・・」、と多くのクリスチャンが失望しているかもしれません。なぜ神様は祈りを聞いてくれないのか、神様は私たちに何か犠牲を要求しているのか・・・、と思うかもしれません。しかしそうではないのです。祈りの答えがなかなか来ないのは、ダニエル書から前にも学びましたけれども、答えが届かないように立ちはだかっている敵の勢力がいるのです。それが、巧みな策略と共に祈りの答えが来ないように、ほとんど気づかない場所に杭を打って、霊的な綱によって繋ぎ止めているのではないかと思います。
しかし、神の知恵によって、聖霊によって何気なく放った弓矢によって、その場所を発見し、綱を断ち切る時に、今まで全く動かなかった問題が動き出すということを、預言的に教えているのではないかと思います。
現に、私たちがそのような祈りをし始めた時、今までいくら祈っても動かなかったような問題まで動き始めました。まだまだみなさんの中に、「この問題、一生懸命祈ってるんだけど全く動かない・・・」という問題があったら、是非とも綱の先端がどの帆柱に結びつけられているのか分かるように、是非とも祈っていただきたいと思います。きっとキリストの体全体の中で、主が知恵を与え、帆柱を発見させてくださると思います。私は帆柱発見隊のようなもので、あっちへこっちへふらふらとしている内に、帆柱へと連れていかれるのではないかと思います。きっと今週のコチャンの集会を通して、その結果は教会のただ中に、みなさんのただ中に、新しい扉が開かれると私は堅く信じています。

私は韓国の集会が終わったら、そのままアメリカに行きます。この間ここに来られた竹内先生の教会で二日間奉仕をして、その後、ジョー先生の教会に行き奉仕をします。ジョー先生に「どうしても順と一緒に祈りに行きたいところがあるから来てくれ」と言われて行くのですが、太平洋を渡ってなんらかの敵が置いている帆柱を見つけて倒したいと願っています。それが私に与えられた主からいただいた使命だと、私は確信していますし、聖霊の油注ぎによってそのことは進んで行くと信じています。

今日は「あなたは主の勇士です!」というタイトルで語っているのですが、最初にお読みしました聖書の箇所は士師記六章でした。これは有名なギデオンが勇士として選ばれた瞬間を記したところです。
士師記 六章十一節〜十二節、

さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

この頃、イスラエルは大変な中にありました。なぜなら七年の間、ミデヤン人という、周りに住んでいた異民族によって苦しめられていたからです。
士師記六章一〜三節、

イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押さえたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。

私たちの人生にも似たようなことがあるのではないでしょうか。この時イスラエルがどんな目にあっていたかと言うと、イスラエルが種を蒔いて、「さぁ収穫だ」と楽しみにしていると敵の勢力が襲ってきて、収穫物を全てさらって行ったのです。それが七年間も連続していたのです。我々の人生にも時々、「さぁこれからだ」というような時、突然問題が起こって、収穫できそうなものを全て持ち去られてしまうような、今まで積み上げてきたものが崩れてしまうことが、度々あるかもしれません。
私は教会の牧師の息子として生まれましたが、私は初め、私の両親が牧会している姿を見ながら、「将来大きくなったら牧師になんてなるもんじゃない」と思っていました。なぜならば、教会って大変だと幼い頃から感じていたからです。それはなぜかというと、教会が徐々に成長して、「さぁこれからがんばろう!」というような時に、いつも問題が起きたからです。「さぁこれからみんなで心を一つにして、がんばっていこう」というような時に、「なんでこのタイミング」というような形で問題が起こり、今まで積み上げてきたものが崩れてしまうようなことを、何度も目撃したからです。「人が集まるとやっぱり大変だな、牧師なんていう仕事は幾つ命があっても足りないな、俺はそんな仕事は絶対やりたくない」と思っていました。
しかし、そのような事が起こるのは何故かに関して、後に主が教えてくださいました。実は原因について聖書は教えています。
士師記 六章十節、

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

新改訳聖書の十節の箇所の「恐れてはならない」というところには印*がついていまして、欄外をみると、「恐れてはならない」というのが、「拝んではならない」とも訳すことが出来るというのです。実はこのイスラエルが度々、繰り返し収穫物を奪われた原因がなんであったかと言うと、イスラエルの人たちがエジプトから脱出してカナンの地に入ったのですが、カナンの地の偶像に心をとめて、カナンの人々が持っている神々を恐れました。神々を恐れると共に、礼拝していたのです。聖書の歴史、特にイスラエルの歴史を見ますと、イスラエルが偶像礼拝をした時には必ず、国になんらかの問題が起こっています。収穫期を前にして、常に敵に襲われた原因はなんであったかと言うと、意外にも、軍事的な理由でも、経済的な理由でも、政治的な理由でもなく、なんと根本的には「民が行っていた偶像礼拝」がそのような事件を起こしていたのです。
教会に来て偶像礼拝から解放されることは、本当に大きなことです。なぜならば、繰り返し起こる問題から解放されるために、最も重要だからです。
この教会では、偶像礼拝の恐ろしさについていつも語っていますから皆、わかっていると思いますが、「エモリ人の神々を恐れてはならない」とありますが、クリスチャンになっても、少し偶像を恐れることがあるのではないでしょうか。特に八月十五日は盆ですから、周りでは祖先崇拝をやっている人たちの姿を見ると、自分一人だけがクリスチャンで、なにか周りを恐れるかもしれません。しかし主は言われます。
「絶対、恐れちゃだめですよ。あなたは主の勇士です。あなたには主の権威がありますから、恐れないでください。」と励ましているのです。今日、家に帰って仏壇の戸が開いていて、なにか神々しく飾ってあったとしても、絶対に恐れてはいけないのです。みなさんは主の勇士ですから。

このギデオンが「主の勇士よ!」と声をかけられた時、彼はどんな状況であったかと言うと、彼は勇士とはほど遠い存在でした。その時、彼は何をしていたかと言ったら、酒槽の中で小麦を打っていたと記されています。当時の酒槽は石灰岩をくり抜いた洞穴のようなところでした。そこはちょうど敵から身を隠す最適な場所でした。彼はそこに入って、自分の食べる分だけの食料を確保し、自分さえ生き延びることができればいいと思っていた人でした。
そこに、主の使いが突然現れ、「主の勇士よ!あなたは勇士です!」と言われたのですから、彼には嫌味くらいにしか聞こえなかったと思います。「冗談じゃありませんよ、私なんかが勇士でありっこない」と彼は自分にかけられた言葉を受け取ることができなかったのです。

聖書は少し読みにくいところもあります。なぜならば、カタカナ言葉がたくさん出て来て、馴染みがないからです。先ほどの六章の十一節を見ても、「さて主の使いがアビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった」なんて見ても、アビエゼル人にしても、ヨアシュにしても、オフラにしても、知らない名前ばかりですから、分かりづらい名前や地名はやめて欲しいと思うのですが、そういうところも嫌わないで調べると、結構聖書は味わい深くなります。
実はギデオンはどういう家系に属する人であったかというと、彼は、イスラエルには十二部族と言って、ヤコブに十二人の子供が居てその子達から氏族が別れ出ました。彼は何族に属していたかと言うと、「マナセ族」に属していました。聖書を初めから歴史的な観点を持ちながら読むと、マナセという人がどういう人であるかがわかります。
ヤコブには十二人の子どもがいましたが、一人の息子がエジプトに売られました。それがヨセフでした。しかしヨセフはエジプトで結婚し、二人の子供をもうけました。それが、マナセとエフライムでした。おじいさんのヤコブが死にそうな時に、ヨセフはマナセとエフライムをおじいちゃんのヤコブのところに連れて行き、祝福の按手をしてもらうように頼みました。
その時に、おじいちゃんのヤコブが、マナセとエフライムに祝福の祈りをしましたが、当時は長男が重んじられていました。長男が祝福を受け取る、という構図になっていました。ヨセフの長男はマナセですから、マナセが一番の祝福を受け取るべきで存在であるわけです。
しかし、その時、なんとヤコブじいちゃんは目が悪かったこともあり、次男のエフライムに祝福の右の手を置きました。そして手を交差させて、左手をマナセの上に置きました。だから、ヨセフはそれを見ていて、「おじいちゃん、おじいちゃん。長男のほうに右手を置いてよ」と言ったのですが、おじいちゃんは「いや、これでいい、これでいい」と言って、なんと弟のほうに祝福を置いてしまいました。
そんな経緯もあって、マナセ族というのは、部族の中でも一番卑下されていました。初めからあいつらは一番弱い連中だと。そんなマナセ族に属しているのがアビエゼル人だったのです。そして、またアビエゼル人の中で「ヨアシュ」という人の息子が、ギデオンだったのです。
マナセ族というのはそもそも弱い部族で、アビエゼル人はまたまた目立たない人たちで、ヨアシュ(弱シュ)とは、弱そうな名前じゃないですか。その息子のギデオンとは、弱い中でも最も弱い、弱虫小僧だったのです。
しかし、なんとそこに主の使いが現れて「勇士よ!」と声をかけたのです。口語訳聖書を見ますと、「大勇士よ!」と訳されています。

家系を見たら勇士の家系でもなんでもないし、一番弱いじゃないか、と思ってしまうのですが、実は人の目と神の目は全然違う、ということなのです。今日もみなさんの中に、「私は弱い」と思っている人はおられますか?私は家族を見ても親族を見ても、みんな弱い、勇士なんてとんでもない、という人がいましたら、おめでとうございます。あなたが勇士なのです。
神様の選びの基準は、人間の選びの基準とは全く違うのです。普通で言ったら、全然冴えない、イスラエルの十二部族の中でも一番冴えない部族に属して、その中でも、弱い中でも弱い弱虫小僧のギデオンが大勇士になったのです。素晴らしいではないでしょうか。神は弱い者を使って、強くして用いてくださるのです。
案外、教会に来るきっかけは、弱さを覚えてくるのではないでしょうか。強かったら教会には来なかったと思います。今日、ここにおられる方の中で、だいたい八割くらいの方々は、弱さを感じて教会に来られたと思うのです。これがそもそも「勇士よ、主はあなたとともにおられる」という神の力強い声であったのです。今日、みなさんが何か弱さを感じておられるならば、それがある意味で、大勇士として立ち上がるための条件でもあるのです。
ギデオンは「勇士よ」と声をかけられ、大きな使命を聞いて、とてもじゃないけど、受け取ることができませんでした。だから神様を何度も何度も試しています。でも、神様は彼をとことん使おうと願って、愛を現したのを見ることができます。そして、やがてこの弱かったギデオンが、主の勇士となるわけです。そしてその勇士とされるための条件は、多くはありませんでした。たった一つでした。
士師記 六章二十五〜二十六節、

その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」

このことをギデオンは実行しました。その後、何が起こったのでしょうか。
士師記 六章三十四節、

主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。

実はこの時がギデオンが勇士となった瞬間でありました。主の霊が彼の上に下った時、彼は勇士となったのです。
しかし、その前に神様は何を言われたかと言うと、一つのことを言われました。それは、「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ」ということでした。これを実行した時、主の霊が注がれ、勇士となったのです。これは旧約の時代ですから、偶像というのは全て砕かなければなりませんでした。取り除かなければならなかったのです。
しかし、今、新約の時代にこれを当てはめると、私たちが勇士となり、聖霊の力を受けるためには何が必要かというと、父の持っている祭壇との繋がり、契約をしっかりと破棄し、取り除く時、主が私たちを勇士としてくださるということです。
日本人の家の中には、皆、父が持っている祭壇があるのではないでしょうか。それが何かというと、仏壇です。
仏壇とはどういう意味があるかと言うと、先祖代々、父方が受け取っていく祭壇です。それは、先祖の霊を祭っていて、一族にとって大変重要なもののように思うかもしれませんが、実はそうではないのです。いつもお話しするのですが、人間は死んだらこの地上に霊がとどまるものではありません。百%、神様の手に委ねられるのです。そして、死んでからはこの地上になにか情報を送ろうとしても、情報を送ることはできません。
しかし、日本人が先祖供養や祖先崇拝をするのには、一つの前提を持っています。それはどのような前提かと言うと、人が死んだら死んだ人の霊は、この地上にとどまるという前提です。その前提が据えられてしまう原因は、日本人はある意味で霊的に敏感なところがあると思います。盆の時期なんかになりますと、なんとなく家に先祖の霊が帰ってくる気がしたり、また、仏壇から死んだはずのじいちゃんが顔を出した、なんていうのを見たりするからです。いろんな霊現象があり、結局それを信用してしまうのです。
先週は、木曜日までミュージックアーツという集会があり、木曜日の夕方から岩手県の盛岡に行きました。そして、昨日まで盛岡において、東北六県のクリスチャンたちが集まる「リフレッシュパワフル聖会」というのがありまして、その講師として、私は二日間、奉仕をしてきました。
岩手県のちょっとした山の上でやりましたが、百数十人の方が東北六県から集まって、すごく熱い集会でした。本当に素晴らしかったです。

東北地方に行くとたいへん祖先崇拝が盛んです。この盆の時期は盛大にやるようで、クリスチャンも大変なようです。なぜ盛大にやるかと言うと、青森には先祖の霊と称する存在を専門に呼び出す場所があるからです。その名を「恐山」と言います。
みなさん恐山に行ったことがありますか?行きますと、たいへん不気味な場所です。そこには黄色い色の湖があります。なぜならそこは火山で硫黄がぶくぶく出ていて水が黄色になるからです。辺から硫黄ガスがぼこぼこ出ているのです。その湖のほとりを「賽の河原」と言いまして、石がいっぱい積んであります。そこに行きますと、看板が出ています。「いたこの口寄せ」と。
私は初めはたこ焼きか何かを売っているのかと思ったのですが、そうではなくて、口寄せというのは霊媒です。「イタコ」は目の見えないばあさんが多いのですが、そのような霊能者が東北には多くいるのです。そこに若い人たちが全国から来るのです。それも子供を不慮の事故で亡くしたとか、悲しい体験をした親なんかが来て、イタコの口寄せによって、死んだ子の霊を呼び寄せてもらうというのです。

私が行った時にもちょうど、若いカップルがイタコのばあちゃんの前で泣いていました。すると、ばあさんが変な声を出して何かを呼んでいました。すると神ががって、「おぉ寒い寒い、凍えそうだ。。。」と言い出しました。
すると二人は「あぁ…やっぱり!」と言い出しました。なぜかと聞くと、その夫妻の子供は水死したというのです。「水死したから、やっぱり寒いんだ!」と言っていました。そのばあさんが「あなたたち、死んだ息子を一生懸命拝んでないでしょう?拝まないから、あんたの息子は水の中で凍えてるよ」と言うのです。すると、「○○ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら一生懸命拝んでいました。

しかし、その時にイタコによって呼び出されたのは、本当に死んだ子供の霊でしょうか?そんなことは絶対にないのです。子供がなくなったら、子供は絶対に神様が天国に連れて行ってくれています。そんな水の中で、ずっと凍えているはずはないのです。絶対にありえません。神様がちゃんと命を受け取って、永遠の国、天国で喜んで生活しています。
では、その時に出てきたのは誰かと言うと、それは子供の霊ではなく、先祖の霊でもなく、「子供の死に関わった悪霊」なのです。それの霊に騙されて、そいつを家に呼んでしまうので、結局、家の中に敵が入ってきて、家中をごちゃごちゃにしてしまうのです。
私たちが勇士となる条件とは、家の中が安定していることではないでしょうか。私もいろんな所で奉仕をさせていただきますけれども、例えば、私と家内がいつも喧嘩をしていて、いつも離婚の危機にあったらどうでしょうか?私は奉仕なんて出来ません。「みなさん、離婚しないでください!」と言いながら、自分も「家に帰ったら危ないな〜」と思っていたら、奉仕なんかできないのです。
「みんなの病が癒されますよ」といいながら、自分の子供が病気だったら、仕事が出来ないのです。やはり自分の家が安定していなかったら、勇士として働くことはできないと思いませんか?
みなさんも一番の願いは自分の家が安定していることだと思います。そのための一番重要な条件が、父の家の祭壇との繋がりを断ち切ることなのです。今日は午後から、この国のためということと、盆ということに関してセミナーを持たせていただきたいと思います。
ギデオンが勇士として立ち上がる前、家の中に侵入して、家をごちゃごちゃにする敵の力を打ち破ってから、主の勇士となりました。特にこの「家の祭壇」とは、悪しき祭壇なのです。今言ったように、悪魔はうまく人を騙すのです。死んだ父親だ、母親だ、じいちゃんだ、ばあちゃんだ、息子だ、娘だ、と言ってそれで「助けてくれ〜」と言っているのですが、それを助けようとするとなんと、自分がやられるのです。

人の手が出ていて、「助けて、助けて〜」と言っているのですが、陸上の人が助けに飛び込むと、サメの餌食になるのです。祖先崇拝や先祖崇拝は全くこれと同じだと思います。人のような手だけ出ていて、「わたしは先祖だよ、先祖だよ、助けてちょうだい」と言います。生きている人たちが助けようとして手を差し伸ばすと、食われてしまうのです。このような騙し事から解放されたら、家は安定します。
その後、神様はあなたを勇士としてくださいます。今日は、皆が勇士となって、邪悪な日に決して負けることのない勇士がこの国に多く誕生したら、国は安定します。また、自分の人生も祝福されるはずです。

この教会に霊的戦いが始まった時、神様が私たちに与えてくださった御言葉があるのですが、私はいつもそれを心にとめて歩んでいます。それを最後にご紹介して、メッセージを終わりにしたいと思います。
イザヤ書 四十一章一〜四節、

島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。

いつもこの御言葉が私の心の中にあるのですけれど、私たちの人生はある意味で、まだ歩いたことのない道を歩くことであり、少し心配もあるわけですけれども、神は私たちがまだ歩いたことのない道を、安全に通らせてくださるのです。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。」

霊的戦いが始まった時、主がこの御言葉を私に与えてくださいました。本当にこれからどうなってしまうのか、と思った時に、主がこの御言葉をくださり主の勇士として立ち上がるように励まして下さいました。
「あなたはまだ歩いたことのない道を、安全に通ることができる」そして、「敵の力をけちらせながら、勝利に勝利を重ねながら歩ことができる」のです、と約束を与えてくださいました。

私はこの言葉を自分の御言葉として、受け取って毎日歩んでいます。今週もまだ歩んだことのない道を幾つか通らなければならないと思って、不安なところもあるのですが、主が必ず、勝利を与えてくださると信じています。
また皆様方の毎日の歩みも、まだ通ったことのない道を歩むわけですが、必ず安全に通らせてくださると信じます。そのためにも、家の祭壇を打ち砕きなさい、主は言われます。私たちは先祖のふりをした死の力から解放されるように戦い祈り、主の勇士として、今週も主のために働いていきたいと願っています。
最後に一言お祈りして、終わりにさせていただきたいと思います。

ハレルヤ、天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。今、あなたが預言的に語ってくださっていることを感謝します。今日、語った御言葉を教会全体に預言的に宣言します。主よ。私たちに先立って、道を用意してくださいますようにお願いをいたします。そして、主よ。一人一人が勇士となることができますように。今日は八月十五日という邪悪な日ですけれど、この時こそ、私たちが主の勇士として立ち上がる日ですから感謝します。この時を心から感謝して、イエス様の御名を通して祈りをお捧げいたします。アーメン。


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