「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」


2010.8.22(SUN)
新城教会副牧師 滝元 開 師

使徒の働き 2章17節〜18節
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 今日は再び、賛美礼拝を持てることを心から感謝します。イスラエルの賛美の中にイエス様は住まわれるという御言葉通りに、賛美の中におられる主が今日もこの地において、栄光をお受けくださっていることを信じ、心から感謝します。

 この使徒の働きの御言葉が今回のこの礼拝のために主が備えてくださった御言葉です。
 今の時代は終わりの時代ですが、今、神様がしてくださることは、「わたしの霊」、イエス様ご自身の霊を私たちに注いでくださるということなので、さらにさらにイエス様の霊を私たちに注いでいただき、それぞれの場所に遣わされて行くことができればと思っています。

 先日、韓国から総勢27名の中高生の子たちが来てくださって、そして、日本の中高生と共に交わりの時が与えられました。先々週の礼拝は、韓国の子たちが本当にすごく力いっぱい賛美をしてくださって、大きな恵みが注がれました。
 今回はチェ先生が彼らを導いてくださいましたが、チェ先生が、キャンプの前に、「今回のキャンプのために与えられた御言葉です」と言ってメールで送ってくださったのが、この御言葉でした。

ローマ人への手紙 15章5節〜6節
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

 「これはイエス様からの御言葉だな」と本当に思いました。
 心を一つにして賛美する業の中にある神様の御心、国を超えて言葉を超えて主がしようとしておられることは、きっと大きなことがあるのだろう、と思いました。
 しかし、なにせ、言葉が通じない中での、中高生同士の交わりだったので、本当にどうなるかと、楽しみでありつつも、心配しつつ、期待しておりました。
 そんな中で、彼らが来て、最初に、こちらの中高生と共に、毎週行っているユースプレイヤーをしました。そして、そこで、みんなで楽しく自己紹介をしたり、賛美をしたりしました。
 その中で賛美をしたりするんですけれども、なにか破れないものがありました。踊って賛美をしたりするのですが、韓国の子たちは大体決められた踊り通りに踊り、日本の子たちは自由奔放に踊るのですが、なかなか自由にいかないんですね。
 後から、日本の中高生に聞いてみたら、一晩目で「こりゃ、だめだ。今回はいい交わりができないな」と思ったらしいんですけれども、どんどんキャンプを進め、祈りを進め、賛美を進めて行く内に、いろんな壁がどんどん崩されていきました。
 男の子たちはスタジオに25人ずらっと布団を引いて寝ましたが、夜は、特に通訳者がいるわけもなく、それぞれのチームごとに聖書を読んでお祈りするという時間を持ちましたが、それぞれ日本語で読んで、またハングルで読んで、それぞれで祈っていました。そんな中で神様が壁を崩していってくださって、本当に不思議でした。
 今回は日本人だけでなくて、こちらからはブラジルとペルー人の四人の外国人の子たちも入ってくださり、一緒にキャンプをしましたが、インターナショナルの彼らが突破口になったような形でした。何語をしゃべっているのかわからないんですけれども、すごく盛り上がっていました。わいわい言いながらベッドで頭を突き合わせながら「うわーーー」と言ってやっていました。
 キーワードは「ガールフレンド」というのがキーワードだったんですけれども、ガールフレンドがなんだかんだって言うのでわいわい喜んでしゃべっていました。「あ、通じるもんだな」と思って、それから会を進めて行きました。
 そのキャンプの最後はビクトリーという歌って踊る集会でした。まず日本人が自由に踊るんですけれども、次は韓国の子たちが出ると、必ず決まった曲を決めて、それに合わせて全員が同じ踊りをしました。すると、日本人の子たちが見ていて、「んーーー」と、なんとも表現しがたいのですが、もどかしさを感じて、それを一生懸命破ろうとして、一生懸命横で踊っていました。
 でも、どうしても破れないというのが、ずーっと続いて、最後の最後のほうに、チェ先生が前に出て踊り出しました。チェ先生がアヒルさんみたいな踊りをわーっと踊り出したら、韓国の中高生の子たちも安心したのか、みんなが本当に自由に元気よく賛美し出して、踊り出して、本当に賛美の中で一つになったというようなそんなキャンプでした。
 神様のなさることは素晴らしいと思いました。
 「国を超えて言葉を超えて」主がなされたことでしたが、後から聞くと、韓国の子たちにとっても、日本人は、あまり好きではなかったと言うのです。そもそも日本の子たちは怖いという、そのような気持ちがあったようです。韓国にいる日本の友達たちはすごく勝手でわがままだから、日本人は嫌いだ、と思っていたと言うのです。そして、日本語の賛美なんか覚えるもんか、と思っていたそうです。そんな中で、本当に変えられて、賛美の中で一つになりました。それが金曜日のことでした。

 土曜日には名古屋ではZawamekiの集会があり、一緒に歌った時には、すでに彼らが喜び踊って歌いました。
 そして、名古屋からの帰りのことでした。高速道路を走っていました。韓国の子たちはマイクロバスで先に出発していたのですでが、私たちは荷物を片付けてから高速道路を走って行くと、前方に教会のバスがあったので、「あっ、韓国の子たちだ」と思って、横に行きました。それは、もう夜遅く、10時くらいの出来事だったのですが、今回は超ハードなスケジュールだったので、きっと、もう疲れ果てて寝てるだろうな、と思いきや、なんとチェ先生が前でギターを弾いていました。そして、それに合わせて、韓国の子たちが大声でずっと歌っているのです。後から聞くと、韓国の子たちが自発的に歌い出し、その歌が止まらなかったと言うのです。
 一足先に伊藤義也先生とその息子の勝也君がここで荷物を降ろしてくれていたんですが、教会で夜11時頃に楽器を降ろしていたら、遠くから何か音がしたそうです。そして、よく聞いてみると、歌声だったそうです。そして、それが遠くから聞こえて、だんだん近づいてきたと思ったら、教会の前にバスが到着して「ハレルヤー!!」で終わったという、本当に賛美で溢れた彼らの姿を見ることができて感謝でした。
 そして、先々週の礼拝では彼らと一つになって賛美していましたけれども、神様の中にあるご計画というのは素晴らしいものだなと本当に感謝しました。

 そして、その次の日からは、ミュージックアーツリバイバルムーブメント(MARM)という働きがあり、ロンさんやその他のアメリカからの素晴らしいミュージシャンの人たちが来ての集会がありました。その中にも神様が働いてくださり、本当に素晴らしいセミナー、トレーニング、コンサートがあったりした集会でした。
 そんな中で、最後の最後に一緒に歌う時間がありました。MARMの働きの中で、「一番最後のプログラムを何にしようか?」と話し合いがあった時に、ロン・ブラウンさんが、「日本のチームと一緒にやりたいんだ」とおっしゃってくださり、最後の最後にダンシングを歌おうということになりました。そして、Zawamekiのチームとアメリカからのチーム、そしてイボンヌさんと一緒にダンシングをここで歌いました。
 その時は、日本中から来られた方々と賛美した中で、本当に神様が働いてくださって、喜び踊って賛美しました。イボンヌさんがタンバリンを打ち鳴らしながら、ここ会堂の中を回って走り出しました。すると、そこについて行って皆が走り出し、最後には皆がここをぐるぐる回りながら、賛美しました。
 
 神様が「国を超えて言葉を超えて」という働きの中で、韓国の戦いであったり、そして、今は順先生がアメリカで戦っておられますけれども、韓国人、日本人、アメリカ人が一つになって賛美をするという働きを主がしてくださった姿を見ることができて、本当に心から感謝しています。

 そんな中で、神様が特に新しい世代の子たちに、主の霊を注いでくださって、新しいリバイバルの戦いを進めておられるな、ということをすごく感じました。

ヨシュア記 1章1節〜3節
さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

 これはモーセからヨシュアという新しい世代に移り変わる時に、主が与えてくださった御言葉ですが、「新しい地に行きなさい。もう与えているから」と言う風におっしゃっておられます。
 神様はこれからのリバイバルという大きな戦いの中で、アブラハムからイサク、イサクからヤコブに、やがてモーセに受け継がれたその約束の地というバトンが、モーセから今度はヨシュアに渡ったように、今、リバイバルという大きな戦いのバトンを新しい世代に、主が与えてくださっておられるのではないかということを感じました。
 新しくない世代の者としては、「いってらっしゃい」というそういう気持ちではなく、それぞれに神様はそれぞれの世代の中で新しい事をしてくださっていると信じています。

 六月に一つの教会に行きました。礼拝で奉仕させていただきました。
 最初、その教会の牧師先生から連絡が来て、「Zawamekiが出前してくださるそうなので、来てくださいますか?」とおっしゃられたので、「出前ですか?はい。行きますよ」と言って行きました。
 そして、礼拝の準備をしていたのですが、先生がなかなか出て来てくださいませんでした。やっと出て来てくださって、「先生、おはようございます」と言ったのですが、目を合わせようともせず、「滝元です。よろしくお願いします」と言っても、「あ、よろしくお願いします」という感じでした。「お呼びじゃなかったのかな?」と思いながら、セッティングをし、メッセージの前に二曲だけ賛美をしました。そして、メッセージをして御用をさせていただきました。
 そして、午後2時からZawamekiの集会でした。その頃やっと先生が目を合わせてしゃべってくださるようになったんですけれども、集会前のご挨拶でこうおっしゃいました。「今日はZawamekiを呼びましたけれども、ざわめきどころか、とどろきというか、えらい事になった」というような空気でした。
 それでも神様は何をしてくださるのかな、と思いながら賛美をしていきましたが、その時、一番前にご婦人が二人いました。87歳と90歳の方でしたが、その方々がいたので、少し控えめにしなきゃと思って控えめにしました。
すると、本当に祝福され、その老婦人のご婦人たちが踊って賛美しておられました。
 手を横にやって、ダンシング♪ダンシング♪と踊り、今度は若い子たちを連れてきて、その子たちにもさせて、ずっと立って賛美して、座ってくださいという時は座るのですが、立ち上がる時はずっと元気に賛美しておられ、本当に祝福された集会でした。

 集会が終わって2日後に先生からメールをいただきました。「今、気がつきましたが、3ヶ月前に教会の階段の修復をしていまして、左利きなのでハンマーは左手で作業をしていました。終えた後に、なぜか右腕があがらなくなって、五十肩のような感じでざわめきを迎えましたが、今、右肩の痛みがなくなりました。賛美の中で癒しを受けたようです。感謝!」というメールでした。最初は目を合わせてくださらなかった牧師先生が癒しを受けたという証しでした。イエス様が素晴らしいことをしてくださったことに感謝しました。
 そして、その次の日またメールをくださいました。「もう一つ、私自身、腰が痛かったのですが、それも癒されていました。賛美の中で、痛みがなくなり、主の癒しをいただきました。ハレルヤ!そして、集会中見ると、普段は『足が重い、血圧が心配』とか言っている老婦人たち二人が踊って賛美を捧げています。聖霊様が来てくださると、尋常でないことが起こります」というメールでした。
 本当に聖霊様が賛美の中で尋常でないことを行く先々の中で起こしてくださり、主の霊が若い人からお年寄りに至るまで、終わりの日の約束というのは、次の世代を担う若者だけじゃなく、本当にお年寄りに至るまで主は注ごうとしておられるということを、見ることが出来ると思います。

 七月に一つの教会に行きました。そこに行くことになった経緯は、今年の一月に関東でZawamekiチャーチライブをしたんですけれども、遠くから、その教会の方が二人来てくださって、その中ですごく主の恵みをいただいて、「今度うちの教会に来てください」とおっしゃってくださいました。それで、「では、行きますよ」とお約束をしました。
 そして、この七月にその教会に行くと、牧師先生がみんなの前に立って、開口一番こう言いました。「うちの信徒二人が牧師の許可もなく、今日の集会を決めてしまいました。」またお呼びじゃないのかな、というような集会でした。
 小高い山の上にある教会でしたが、すごく祝福されました。そこは予め歌う曲を選曲してくださいと言われたので、選曲した曲を送って、それをずっと歌って準備していてくださいました。特にそのご婦人たちは元気な方たちで、踊って歌う方たちでした。最後にいつものようにダンシングを歌い出したら、そのご婦人たち一同が急に前に来ました。何をするのかな、と思ったら、わーーっと踊りだし、丸くなって10人ぐらいの大人たちが踊り出しました。
 その時、神様が一人の少年に主の霊を注いでくださいました。後ろのほうにいた小学校一年生か二年生の子が、一番前にわーーっと出て来て、踊りだしました。踊り出すと、はっと我にかえって、「自分は何をしているんだろう?」と恥ずかしくなってまた戻るんですが、また見ていると、自分では居てもたってもいられなくなり、後ろから押されるように来て、また踊りました。そんなことを二度三度繰り返した後に彼がいなくなりました。「彼はどうしたのかな?」と思ったら、また現れました。その時は、手にはスリッパを持って、今度はステージの上に来て、ギターを弾く真似をしました。
 神様が本当に主の霊を注いで、彼に対してもっておられるご計画を預言的に成してくださったのではないか、というような、そんな素晴らしい恵みの中で賛美が捧げられました。
 すると、今度はその教会の牧師先生からメールが来ました。
 「ハレルヤ、主の御名を賛美します。先日は大感謝でした。私も燃え、教会員も燃えました。不思議です。賛美をCDで聞いている内は、全然覚えられないし、歌えないし、こんなんでどうなることやら、と思っておりましたら、いざ始まってみると、はじめての賛美も結構歌えるんです。リードのせいなのか、主の臨在の力のところなのか、その両方だと思いますが、とにかく楽しかったです。特に再臨の主を待ち望む賛美は燃えました。鬱的な子、Sがこんなメールをくれました。『件名:気がついた!「生きているほうが楽しい。ざわめきの皆さんから力を頂きました!」』せいぜい3、40人かと思っておりましたら、六十名の人々が集まりました。ハレルヤ!」
 神様がお年寄りから子供に至るまで、主の霊を注ぐという業を確かにしてくださっているということを、今のこの時代に中に現してくださっていることを信じています。
 賛美の中に神様の力があるということを私たちは知っていますし、信じて歌い続けていますが、そのことをもっともっと信じきって、歌い続けていかなければいけないと思います。第二歴代誌20章にヨシャパテ王様が戦った記事が書かれています。

第二歴代誌 20章12節
私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。

 どうにもならない、勝ち目のない戦いの中にある、そんな時にヨシャパテ王様がしたのは、なんだったでしょうか。

第二歴代誌 20章21節〜22節
それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 どうにもならない、もう勝ち目がない、という戦いの中で、「イエス様!あなたに目を注ぐのみです!」という時に、賛美を捧げたら、敵の力を打ち砕く業を、主は伏兵を設けて、賛美の中で成してくださいました。
 また、パウロとシラスが牢獄で歌ったことが使徒に書かれています。

使徒の働き 16章25節〜26節
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 牢獄の中で、どうにもならない時で、しかも手かせ足かせついて、身動き取れないような状況の中で賛美をした時に、神様は土台を揺り動かし、大きな勝利を与えてくださいました。
賛美の中でなされたという有名な記事がここに二つありますけれども、今の時代、私たちは勝ち目のない戦いだな、と思うことがたくさんあると思います。今のこの異常気象から始まり、世界情勢を見る時、世界の何をもっても、どんな力をもっても、経済をもっても、いろんな科学者たちの知能を結集させても、歯止めの利かない時代に私たちは来てしまっていて、ある意味、世界が勝ち目のない時代に私たちは立っていると思います。
 また、人の心を見ると、あまりにも多くの破壊のゆえに、自由なはずなのに、牢獄の中にいるような手かせ足かせの現状が今私たちの目の前にあるようなそんな時代だと思うんですけれども、こんな時にこそ、神様がこの終わりの時代に与えてくださっている主への賛美を響かせる時に、神様の勝利が現されます。そのことを信じてもっと歌い続け、そしてイエス様ご自身の霊に満たされて励んでいきたいと心から願っています。
 この終わりの時代に、私たちに必要なことは、主ご自身が注いでくださる主の霊に満たされることだと思います。

 最近すごく感じていることの一つに、第一コリントの13章に、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛だ」という御言葉がありますが、「信仰」だとか、「希望」だとか、「愛」というのはすごく大切で、私たちが失ってはならないものだなと、当然ですけれども、最近すごく思っています。
 「信仰」というのは、まずはイエス様を信じることなんですけれども、よくアスリートたちが「あとは自分を信じるだけです」と言っていますが、イエス様を知らない彼らは自分を信じて戦っています。私たちはイエス様によって贖われ、イエス様によって愛されており、神様が用意してくださっている約束があります。自分を愛せない、という人がよくいらっしゃいますが、私たち一人一人、イエス様によって愛されて、イエス様によって造られた人なので、自分を信じて、そしてイエスさまを信じて、この時代に信仰を持ち続けることは本当に大切なことだと思います。

 この夏は熱中症で倒れた人が3万人を超えたと、この間、ニュースでやっていましたが、聖書の中にこんな言葉があります。

黙示録 7章16節
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

 これは、天国に行ってからの姿ですけれども、「もはや、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことがない」とあります。以前は、この御言葉を見て、「太陽に打たれるってありえるかな」と本当にそう思っていましたけれども、今は本当に打たれてしまうような時代で、これがもし来年になって、この炎熱が弱まるかと言ったら弱まるはずがないと思います。本当に終わりの時代に来ていて、こんな時代で希望が持てるのかな、というような時代なんですけれども、その時こそ、私たち、いつまでも失う事のない「希望」というのを持ち続けて行きたいと思っています。

 そして、最後は「愛」です。「その中で一番優れているものは愛です」とあります。本当に愛をもって、この日本のリバイバルのために励んでいきたいと心から願っています。
 先月、豊橋の刑務所から突然のお電話をいただきました。この地域を平和にする月間だと言うことで、「そのために働いている人たちを表彰をしたいので、来てくれないか」ということでした。それは、名古屋刑務所が発行する表彰状でしたが、それ発行して表彰したいので滝元さんご夫妻で来てください、とおっしゃいました。
 私たちは、すべて主に栄光で、イエス様のなさることなので、普段は「結構です」と言うのですが、「どうしても来て受け取ってくれ」とおっしゃってくださったので、すごく忙しい最中でしたが、一日行って、豊橋刑務所でお交わりをしました。その刑務所所長はクリスチャンではないのですが、本当に心から「人が変わるための働きをしてほしい」ということで、私たちの働きにすごく共感してくださり、「もっともっとがんばって欲しい」とおっしゃってくださいました。
 その所長が言うには、「一人の人が変わるには一つの言葉で変わる」と言うのです。「どんな極悪な人でも、一つの言葉によって変わることってあり得るから、その言葉を投げ続ける働きをして欲しい」とおっしゃいました。そして、また、「歴史というのは、破壊と建設の繰り返しだ。古くからの歴史をずっと見ていっても、人類が建て上げた物をまた人類のその手で破壊していくという、その繰り返しであるけれども、本当に歴史って大変なものだな」とおっしゃいました。
 その時、私が、「その破壊の原因というのは、結局、人の心の中にある欲望ですよね、罪ですよね」と言うと、「その通りだ」とおっしゃいました。
 「だから、ひとり罪人が罪から変えられる時に、そこに、大きな変化が生まれる。それは、この歴史をも変えられるほどの大きな働きに私たちはたずさわっているのだ」ということをその時にすごく思いました。
 その中で所長が言った言葉がとても印象的でした。「受刑者にはいろんな人がいて、世間からどう見られているかわからないけど、『受刑者はモンスターじゃないんだ。』化け物じゃない」とおっしゃいました。「人は普通、色眼鏡をつけて、『この人は駄目だ。あの人たちはモンスター。私たちとは関わりがない』と思うけれども、受刑者はモンスターじゃないんだから、人を変えるための言葉を投げ続けてください」ということをおっしゃり、その言葉は神様が所長を通して私に語ってくださったようなそんな気持ちになりました。

 私たちも魂を愛するという、そんな気持ちで日々歩んで、リバイバルのために励んでいるはずであるにも関わらず、いつの間にか、「この人はいいけど、この人は良くない。この人には愛を伝えるけれども、この人はちょっと…」っていう人がいないわけではないと思います。しかし、イエス様は全ての人を愛して、全ての人に福音を宣べ伝えるようにとおっしゃっておられるので、私たちはイエスさまの愛を持って働きをさせていただきたいな、と所長と出会った中で思いました。
 イエス様がこの地上に来て、行かれたところは、罪人のところでした。

ルカによる福音書 5章30節〜32節
すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

 世間からは鼻つまみ者と呼ばれるような人のところにイエス様はあえて行かれ、ザアカイも、サマリヤの女も、ゲラサの男もそうでした。また、イエス様が甦った時に最初に来た人は誰だったかと言うと、マグダラのマリヤでした。そのことがマルコによる福音書に書かれています。

マルコによる福音書 16章9節
さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。

 七つの悪霊に支配されて、どうにもならなかった彼女のところに、イエス様は行かれ、彼女を解放しました。イエス様が甦って、最初に出会ったのがマグダラのマリヤで、ある意味、マグダラのマリヤは最初にイエス様の甦りを弟子たちに伝えた、最初の伝道者になりました。
 神様の選びというのは、本当に素晴らしいものだということを私たちは見ることができます。ですから、私たちはイエス様が私たちにくださろうとしている愛に立って、人を愛し、人のためにその業を成し続けて行きたいと思っています。
 イエス様の愛というのは大きな愛で、愛には大きな犠牲が伴うものだと思いますが、どんなに大きな様々な働きをしても、そこには大きな犠牲と共に愛が投げかけられていくと思います。
 究極の犠牲というのは、イエス様の十字架であって、私たちはそのイエス様の十字架の贖いのゆえに、今こうして生かされているので、そのイエス様の愛に立って、この日本のリバイバルのために励んで行きたいと思います。

イザヤ書 53章3節〜5節
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 イエス様はさげすまれて、ののしられて、のけ者にされて、悲しみの人で病を知っていて、顔を背けられるほどの人だったと書かれています。それは私たちを愛するゆえのイエス様の姿でした。それ程までに、私たちを愛し、私たちに犠牲を払ってくださったイエス様に対して、私たちも本当にイエス様の愛に答えて生きていきたいな、と心から願わされます。

 最後に最初の御言葉をもう一度お読みします。

使徒の働き 2章17節〜18節
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 終わりの日に「わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。「わたしの霊」と見ると、「神様の力に満たされて大きなことをするぞ」というような錯覚を自分はずっと持っていたような気がするんですけれども、主イエス様ご自身の霊というのは、魂に対する愛であったり、希望と信仰を与える、そのような霊で、主の霊に満たされて、魂を愛して、どうにもならなくて苦しんでいる人が余りにも多いこの現状の中で、その主の愛を伝えるそのような者にさせていただきたいと心から願っています。
 お年寄りから幼子に至るまで、終わりの時代に主が注いでくださっている主の霊を信じて、イエス様の愛に輝いて、歩み続けて行きたいと心から願いします。
 一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、愛する天のお父様。あなたの素晴らしい御名をあがめて、心から感謝します。今日、私たちはあなたの御前に出て、あなたを賛美し、あなたを礼拝することができるこの大きな恵みを感謝します。
 今、この終わりの時代、確かに主は、全ての人に新しい霊を注ぎ始めてくださっていることを覚えて心から感謝します。どうぞ、私たちもイエス様、あなたの霊に満たされて、この終わりの時代、戦うことができるように助けてください。主よ、お願いいたします。
 多くの人々が苦しみの中に、悲しみの中に、勝ち目のない戦いの中にあることを覚えますけれども、その人たちのところにあなたの愛を宣べ伝えていくことができるように助けてください。
 また、今日ここに来られた一人一人の中にも、そのような現状の中にある方もいらっしゃるかもしれません。主よ、賛美の中で、闇の力を打ち破られる主が、主よ、どうぞ、さらに主に捧げる賛美の中であなたご自身の勝利を一人一人の人生の中に現してくださいますように、お願いいたします。
 あなたを心から愛し、もう一度心からあなたの愛に満たされて歩むことができるように助けてください。今日の時を心から感謝します。
 全ての栄光を主にお返しし、尊き主イエス・キリストの御名によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げします。アーメン。


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