「あなたはどれだけの価値をもっていますか?」


2010.8.29(SUN)
新城教会牧師 上條 実 師

マルコの福音書 14章3節〜9節
イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、冊をこんなにむだにしたのか。この冊なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 ハレルヤ!今日久しぶりにみ言葉を語らせていただけます事を感謝いたします。いつも私と家族のためにお祈りいただき感謝します。この暑い夏も健康で支えられました。皆さんはいかがでしょうか?八月も今週で終わりです。「もう終わりか」と子どもさんたちは思っている事でしょう。しかしお母さん方は「やっと学校へ行ってくれる」とうれしく思っていると思います。まもなく九月ですがまだ猛暑が続きますので、ぜひ熱中症や健康にお気をつけください。

 皆さんに祈っていただきまして、昨日と先週の土曜日東北リバイバルミッションのトラクト配布のために、盛岡市と名取市というところに出かけていきました。東北地区というと、イメージ的には涼しいと思われていますが、全く違い猛暑というよりも、極暑というような暑さの中でトラクト配布をしました。盛岡市は12名の方々が集まってくださり、5000枚を配布することができました。また昨日の名取市では15名の方が集まって下さり、3470枚のトラクトを配りました。特に昨日の名取市のトラクト配布では神様の祝福を見せて下さいました。今度の会場となります名取市文化会館の近くにある高校の前で、高校生にトラクトを配布したそうです。するとその高校の校長から呼び出しがかかったそうです。苦情を言われるかと思いつつ校長室へ出かけて行き、いろいろと東北リバイバルミッションの説明を、校長先生にしたそうです。すると、なんとその校長先生がクリスチャンであり大変喜こんで下さり「全校生徒に案内します」と言って下さり、トラクトも百部受け取って下さったそうです。ぜひお祈りください。公立高校なので、校長先生がどこまで宣伝出来るかわかりませんが、多くの高校生が導かれるようにお祈りください。皆さんがお祈りくださいましたので、このような祝福を頂く事ができました。感謝します。引き続き東北リバイバルミッションのためにお祈りください。トラクト配布は土曜日の朝十時集合としました。盛岡市にも名取市にも、朝一番にて出発しても間に合いませんでした。ですから前日に出かけました。ビジネスホテルを取ってもらい、一泊してトラクト配布に備えました。チェックインの時に、朝食をどうしようかと思いましたら、「食事はついてます」と言われました。今多くのビジネスホテルが「朝食無料」となっています。無料というのにいい食事が出てきます。今回は「無料」ということで「得した」という思いがありました。しかし無料ですというと何か引いてしまう部分があります。「ただほど高いものは無い」ということばがあるように、何か裏があるような気がしてしまいます。また食事などを無料にして得するか得しないかと言う事を今回調べてみました。今民主党に政権が移り、高速道路が無料化、高校の無償化と政治の中でも「無料」を試し始めています。色々なご意見があるかもしれませんが、高速道路などの無料はうれしい事です。また大きな町ではフリーペーパーがあります。各家庭に配られ、様々な情報や広告が掲載されており、カラー刷りの立派な情報誌、新聞みたいなものです。今回東北リバイバルミッションもそのフリーペーパーに広告掲載をさせていただきました。そのフリーペーパーに掲載されたら、安心して行く事のできる催し物なんだと現地の牧師先生が語っておりました。そんな中で、「えっ!こんなものまで無料」と思ったものがありました。それは老舗のおかきメーカーが、カフェを開設し、なんと無料でお茶と自分の所で作っているおかきの食べ放題をしているそうです。それで得するのと思いますが、そこで食べて、そこで買って行くそうです。またこんなのもありました。マンション経営で、1LDKに限りですけれども、「2年間入居すると、1ヶ月は無料」にしてくれるというのです。その宣伝効果でそのマンションは満室だそうです。
 しかし逆の無料から有料にしたことによって、宣伝チャンスを作ったところもあるそうです。無料で配布してもなかなか受け取ってくれなかったものが、有料にしたら大成功を収めた例があるようです。あるデパートでは、高級なハムを無料試食で「食べて買ってください」とやっていました。しかし今回その十グラムを値段の十分の一の値段で販売して、試食してもらったそうです。するとお金を払ったということで堂々と試食が出来、よくハムが売れるようになったとありました。また車の試乗も無料から「一回試乗するのに300円」と広告しました。すると気を使わずにゆっくりと試乗して行く人が多くなったそうです。また女性の方のために無料で化粧品のサンプルを渡してくれて、販売員が詳しく説明してくれたり、メークしてくれたりするところもあります。しかしある所では三百円を払うと、そのサンプルを使い放題、冷房の効いた半個室に入って、誰にも気兼ねすることなくメイクを直すことができるというサービスがあるそうです。無料だと気兼ねしますが有料にすると、堂々とゆっくりメークしていく事ができると言う事で、好評だそうです。そんなことを書いてあった最後にこんな事が書かれていました。
それは「金額というのは、相手が決める。価値は自分が決める」とありました。物に対する相場があるわけですが、それはあってないような物だ、「物には値段がついているけれども、値段は需要と供給のバランスから生まれた金額で、本当の価値というのは、あなた自身が決めるものです」とありました。
また「あなたにとって大切な価値のある物なら、値段が高くても安いと感じる」「あなたにとって全く価値のない物なら、値段が安くても高いと感じる、物に対する相場はあってないようなものだ。」とありました。そして「本当の価値を決めるのはあなた自身ですよ」と最後に書かれていました。「どうしても必要で価値のあるものなら、値段が高くても、払う価値がある」ということばを読んで、その通りだな思いました。そして「必要がなく、価値のないものならば、それをいくら安くされても高く感じる」とありました。
そして、「あなたが、手に入れようとしている物に対して、どれだけ価値をもっているかが大切です」と書かれてありました。価値というのは、私たちの中にあります。そして、本当に価値があるかないかは、自分の考えで決まるのです。
 このすぐ近くにも有名な旅館があります。行かれた方もいるかもしれませんが、チェックアウトの時、自分で値段を決める旅館があります。そこは「いくらでもいいですよ」と、自分の思った値段を払ってくださいと言うわけです。その旅館のホームページを見てみました。その旅館は昭和57年からチェックアウトの際に客が値段を決めるということでやっているそうです。今までの中で一番安く支払ったのは、百円だそうです。そして最高金額は、受けとらなかったとありましたが150,000円だそうです。
 しかし、ホームページを見ますと、「値段は自分で決めてください」とあるんですけれど、そのすぐ下に日帰りの温泉と食事の値段が出ています。なんと、「民芸ミニ会席、料理と温泉を楽しんでください。お一人様3,675円」などもありました。一番高いのは、「14,700円」というのもありました。ということは、あんまり踏み倒されても困るということで、そこのホームページに書いてあると思います。
本当の価値というのは、自分で決めるものです。これは良かった、これは良くないと、買ったり買わなかったりするわけです。私たちが手に入れようとする物に対してどれだけ価値を持つかが大切ですとお話ししました。今日は「あなたはどれだけの価値をもっていますか?」と言う事を今日学んでみたいと思います。先ほど読んでいただいたマルコによる福音書14章は「価値」に対して教えている言葉だと思います。
一人の女性がイエス様たちが食事をしている時に、食事の所に入ってきて、そして石膏の壺を割って、香油を頭から注いだという記事です。他の箇所では、足に注いで髪の毛で足を拭ったとありますけれども、イエス・キリストに対して、ナルドの油を注いだというのです。彼女は油を注いだわけですが、その時弟子たちはなんと言ったかというと、「何人かの者が」と四節には書いてありますけれども、他の聖書の箇所では、「イスカリオテのユダ」と書いてありますが、「この香油を売ると、300デナリ以上で売れて、貧しい人を施すことができる」と彼女を非難しました。しかしイエスキリストは「その人を困らせてはいけない。」と言われました。イエス様は、この女性がした行動、その香油には意味がある。価値があるということが分かっていたために、イエス様はお受けになりました。しかし、弟子たちは「もったいないことをして」とか「これは300デナリ以上に売れるんじゃないか」と憤慨をしています。やはりこれも価値観の違いです。しかし弟子たちが言うのも、もっともだと思います。「もったいない、300デナリ以上するんだぞ」と言っていますが、300デナリというのは、約1年間の収入に当たる値段です。その1年分の年収を一瞬にしてイエス様に注いだら、一方では素晴らしいと思うかもしれませんが、一方ではそれを貧しい人に与えたら、どれだけ助ける事が出来るのではないか思います。社会奉仕から見れば、すごく「もったいない」と思うわけです。
普通、イスラエルでは男性が食事をしている席で、女性が入ってくるということは、ある牧師先生のメッセージでは普通はないと書かれていました。とても無礼な事。当時の習慣としては異常な行為だということでした。ですから、「誰が入って来たの?」と思うほど、驚きの中で油の壺を壊したのです。「壊す」ということは、「この壺はもう全部必要ない。全部あなたにささげます」と、自分のものを放棄したという意味があるとその先生は書いていましたけれども、イエス様に、1年間分の収入分のお金を捧げてしまっているわけです。

 「油」というのは、旧約聖書を見ますと、王様、祭司、また預言者に任じられる時に頭に油を注ぐということが書かれています。そして、「油注がれた人」とは、誰かと言いますと、キリストであるわけですから、イエス・キリストは、「油注がれた人」という意味があるわけです。この女性は当然のことをイエスさまにしたのです。またまもなくイエス様がこの世から去って行くということを感じて、埋葬のためにこの女性は油を塗ってくれたとあります。 
 私はここを、価値という面で読んだ時すごく、攻められました。先ほども言いましたように、弟子たちが言うのは無理もない。「もったいない。一年分の収入をささげるなんて…」と考えてしまいました。しかし、この女性にはイエス・キリストのためにささげる事に価値があって、そのために全て油を注いでいるわけです。私はこのみ言葉を再度読んで、自分の中で価値観、自分の毎日の生活の中で、どれだけイエス・キリストに価値をおいているか考えさせられました。
皆さんは私のために、皆さんのためにイエスキリストはどんな価値をつけてくださっているかご存知でしょうか。第一ペテロ 3章18節には

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

 「私」という一人のために、「あなた」という一人のために、イエス・キリストは身代わりになって死んで下さったというのです。またマタイの福音書 16章26節には、

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 私たちの命は「全世界を手に入れても命がなくなったら何の得があるか」と書かれています。そしていのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょうとあります。ですからイエス・キリストは、あなたというひとりを全世界よりも価値のある存在として見て下さっています。命を捨てて、私たちを愛してくださったイエス・キリストは、私、またあなたを価値ある人物として認めて下さっています。また有名なみことばですがイザヤ43章4節

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 あなたも、こんな私であってもイエス様から見たら「あなたは高価で尊い」、「あなたは価値のある人ですよ」、「私はあなたを愛してますよ」と言って下さっています。私は誰も愛されない。ひとりぼっちだと思っていませんか?そんな事はありません。仮にそうであったとしてもイエス・キリストの目から見たならば、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と、世界の中であなた程、価値のある人はいないんだよとイエス・キリストは言って下さっています。今も、今日この時も、あなたにたいして価値を認めて、「あなたが最高なんだよ」と認めてくださっています。

 では私たちはどういうような価値を、イエスキリストに対して持っているでしょうか?私たちはイエスキリストが、私達の救い主だと信じています。私達の罪のために身代わりとなって死んで、葬られ、三日目によみがえって下さったイエスキリストを神さまとして信じています。その神さまであるイエスキリストに様々な事を祈ります。確かに祈りは聞かれます。どんな事でも祈っても良いのです。しかし私たちはどういうような価値を、イエスキリストに対して持っているでしょうか?
 あなたは、本当になんのためにイエス・キリストを信じていますか?
「はい、自分の病を癒していただくために私は信じています」という方もいるかもしれません。また、ある方は、「自分の家族の問題のために、」ある方は「問題が解決するように」またある方は「自分の商売がうまく行くように」また「人間関係のために」「結婚のために」「経済的祝福のために」などなど、私たちは、その解決を求めてイエスキリストを信じています。では私たちはどういうような価値を、イエスキリストに対して持っているでしょうか?今日是非一度考えていただきたいと思います。

 私たちは、アクセサリーのようなイエス・キリストになっていませんか?困っている時には、真剣にイエス様にお願いします。でも、それが解決してしまったら、イエス様は必要が無くなってしまっています。また、親がクリスチャンだったから、当然のように毎週礼拝は来ているクリスチャンホームの方、イエスキリストに対して、しっかりとした価値を持って生活していますでしょうか?
 ある面、イエス様を過小評価しているところがあるのではないのでしょうか?「過小評価」というのは、「物事を実際よりも低く見積もった評価」という意味です。ただイエス様を利用するというか、本当にただ困っている時は、私たちはイエス様に頼るけれども、後は必要ありません。というような人ではありませんか?時が過ぎ、また何か問題があると、「イエス様、出て来て。対処して」と、そんなような方もいるかもしれません。
私たちは霊的戦いを学んでいます。霊的戦いの中で私達は勝利をいただいています。しかしすごく陥りやすいポイントがあります。それはある物を過大評価をしてしまっています。それは悪魔、悪霊に対してです。何か少しでも悪いことがあると、「悪霊が働いたんだ!」とか、頭痛がくると、「この頭痛は悪霊から来たんじゃないか!」とか、「圧制じゃないか」と私たちはすぐに考えてしまします。悪魔は諸々の問題を過大評価させて来ますが、もう既に私達はイエスキリストによって、悪魔から勝利を奪いとっています。私たちの信仰生活の中で、一番優先するべきものというのは、なんでしょうか。第二コリント 4章18節

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

私達は見えるものに対して価値を持って、毎日生活しています。ある方は携帯電話を「これいいだろー」と見せびらかしたりします。自分に価値がある物だからこそ見せたいのです。色々な物を集めるコレクターがいます。昔、私と一緒に旅行をした人がいましたが、その人は箸袋を集めていました。ある方は牛乳瓶の蓋を集めている人もいるようです。普通なら捨てるものでも、その人には価値があるようです。しかし「見えない」存在がいるということを、私たちは覚え、その見えない敵に対して、私たちはしっかりと戦っていかなければなりません。でも、そんな中で、悪魔を過大評価させてきます。「これは戦うことができない問題だ」と、あきらめさせて来ます。悪魔は小さい問題にも関わらず大きく見せてくるのです。私たちの神は本当は愛してくださり、命をかけて価値あるものである事がわかっているのにも関わらず、小さく小さく小さく考えて、「この問題は難しい、駄目だ」と考えてしまうのです。聖書の中に、「いつも喜んでいなさい」とあります。しかし喜びがなくなり、神様が与えてくださった24時間をふさぎ込んで、悩み込んで、暗くて、涙して、落ち込んで生活している人がいるかもしれません。しかしイエスキリストを私たちが一番価値あるものとして信じて行けば、24時間をふさぐ事も、悩む事も、落ち込むことはありません。イエス・キリストは、蛇である悪魔の頭を砕き、暗闇から光、サタンの支配から神の支配に移して下さっています。命をかけてくださった神様にあなたがどれだけ関心を持ち、どれだけの価値を持ち、どけだけ献身していくのか、牧師やスタッフだけが神様に献身するのではありません。あなた自身も、毎日の生活の中でどれだけイエス・キリストにお返しするか、献身をするかが重要です。あなたのために全ての財産よりも大切な価値があるとして下さっているイエス・キリストに何をお返しできるかをしっかり考え直していただきたいと思うのです。私はこの1ヶ月以上、あるみ言葉が示されています。それはマタイによる福音書3章8節

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

 私はこのみことばを昔からよく暗唱していました。しかしこのみ言葉が大嫌いでした。なぜかというと、私の名前はご存知のように「実(みのる)」です。ですから「悔い改めにふさわしいみのるを結びなさい」と私は読めて、このみことばがきらいでした。しかしとても大切なみことばです。続いてマタイによる福音書の3章10節には

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

とあります。今日悔い改めにふさわしい実を結んでいたならば、永遠に生きる事ができます。しかし良い実を結ばなかったら、切り倒されて燃やされる。裁かれるというみことばです。私は何人もの方のお葬式をお手伝いをさせていただきました。その度に思うのです。「あぁ、私もいつか天国に行くんだ。イエス・キリストを信じている。この上もない最高の祝福だ。イエス様を信じて良かった」と思うのです。しかし、それも束の間、毎日生活していると、そのイエス・キリストを軽く考えてしまい、良い実を結べず、悪い実を結んでしまいます。自分中心となり、物質中心となってしまい、お金が中心になってしまいます。イエス・キリストに生かされているということは分かっていながらも、お返しすることができず、神様のために何をお返ししようかということすら思わないものになってしまいます。神さまに向かって不平不満で一杯になってしまうのです。イエス・キリストは私たちのために、十字架にかかってくださり救ってくださいました。私たちは罪から救われ、永遠の命を持つ事ができました。しかし私たちは、罪に対して適当に考えてしまいます。しかしみ言葉はイエス・キリストの言葉です。マタイによる福音書3章8節の

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

この「それなら」と言うのは、「あなたがイエス・キリストの価値を覚えたならば」あなたは悔い改めにふさわしい実を結びなさいというのです。またみことばは「木の根元に斧が既に置かれている」とあります。「いつか悔い改めればいい」と自分勝手に好き放題させて、罪を軽く考えさせます。せっかく私たちの罪を全て赦すために、十字架でイエス・キリストは血を流してくださいました。あなたを本当に価値あるものとして、イエス・キリストは十字架で血を流してくださいました。今度は私達がに罪に対して戦って、大胆に罪に対して戦っていく必要があります。この秋も偶像礼拝の祭りがあります。既に戦っているかもしれませんが、ある方は戦いを逃れないか?台風が来て中止になればいいのにとか、寄付金を集めに来る人が自分の家だけ過ぎ去って行ってくれればいいのにとか、逃れることばかりを考えてしまいます。しかし、それに対して、はっきり戦っていかなければなりません。それはイエスキリストが、私達のために命をかけて下さったからです。またこの世の中は、性道徳が本当に乱れています。それに対しても私たちははっきりと、線を引いて、汚れたことはしない、結婚は尊いものである。絶対に性的な罪から勝利できるように戦わなくてはいけません。いとも簡単に、これは大きな罪と分かっていながらも、簡単に破ってしまうのです。
 お祈りして頂いて8月5日から7日まで三島市のある教会の子どもキャンプに招かれました。子どもたちは九人でした。ほとんどがクリスチャンホームの子でしたので、先ほどのみ言葉「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と「斧が根元に置かれている」という言葉をとおして、最初の夜に話しました。み言葉を語り、祈りの時を持ちました。その時は赤裸々に、子ども達に向かってエロチックな問題や、父と母を敬いなさいというみ言葉から、「親に対して、『くそじじい、くそばばあ』とかひどいこと言ってないか?など、罪に対してはっきりと訴えてました。その後「祈りましょう」と伝えました。一人一人が前に来て祈ってあげたましたが、本当にそこに聖霊が働かれ、子どもたちが激しく泣いて、「祈ってください」とひざまずいてお祈りしました。そんな中で、高校生の男の子がスタッフをしていたんですが、その子も「親に対してひどいことを言ったと言って、私の所に来ました。クリスチャンホームではないそうですがこのキャンプを終えたら、親の前に謝りたい。と言っていました。徹底的な悔い改めが私達には必要です。悔い改めにふさわしい実を結んでいるかを考え、徹底的に罪からきよめられる生活をしなくてはいけないとおしえられています。私はその子どもキャンプで、人に対して犯した罪は精算しなさい。人のものを盗んだら、その人に謝り、精算しなさいと語りました。本当に私たちは徹底的に罪を悔い改めて行きましょう。中途半端な悔い改めではなく、徹底的な悔い改めを目指しましょう。イエス様は、あなたのために命を捨ててくださいました。せっかく命を捨ててくださったのに、私たちはあまりにも小さく考えてしまいます。今日あなたは価値ある者です。イザヤ書49章4節(リビングバイブル)には、

「おことばですが神様、私のこれまでの仕事はみな失敗に終わりました。 すっかり力を使い果たしましたが、何の手ごたえもありません。 どうぞ、おこころのままに報いてください。」

と書いてあります。いくら祈っても、何も答えられない。なんで答えられないんだろう?でも、聖書にはこのような言葉があります。

第一ヨハネの手紙3章21節から22節

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。

今日、徹底的に罪を悔い改め妥協せずに、信仰を守って行く時、あなたが祈る時、「求めるものは何でも神からいただくことができます」と言うのです。イザヤ書49章2節(リビングバイブル)には

神様は私のさばきのことばを、剣のように切れ味するどくします。 秘密兵器のように、私を御手の中に隠しました。 私はちょうど、神様の矢筒の中にある、先のとがった矢のようです。

以前滝元順牧師も同じような御言葉から引用されていました。私たちは先のとがった矢であり、矢筒の中満たして下さっているのです。また特にあなたを価値ある者としてくださった神は、あなたをどのように見て下さっているかと言うと、リビングバイブルでは、「あなたは秘密兵器のように」と書かれています。あなたは悪魔との戦い、霊的戦いの中で「秘密兵器」です。「秘密兵器」というのは、一番先頭に立って投げるものではなく、一番戦いの中で最後の時に、どんな不利な時にあったとしても、あなたが秘密兵器として、その戦いを勝利に導く、それがあなただ、と聖書は言っています。
 今日、イエス・キリストは、あなたのために命をかけてくれました。あなたは、イエス・キリストにどれだけの価値をつけますか?あなたが本当にイエス・キリストの価値を認めたならば、祈りの答えの鍵を渡してくれます。祈りを答える、全ての問題を解決する、全ての病を癒す鍵です。幸いに、今日は聖餐式があります。この聖餐式、毎週行われています。あなたもイエス・キリストに献身の決意をして下さい。今日は夕方六時からザコールがあります。第一青年会の人たちがやっている集会だから自分は関係ないと思わないでください。彼らは本当に福音宣教のために一生懸命、夜遅くまで準備をしています。あなたがどれだけイエス様に支払うかです。また東北リバイバルミッションのこともぜひお祈りください。ご参加下さい。ハワイや韓国でも皆さんは犠牲を持って行って下さいました。今回は愛する日本の東北です。誰かが行けばいいのではなく、ぜひあなたもお出掛け下さい。また今日は東北リバイバルミッションのための献金があります。今日神様に応答してささげたいと思います。あなたは、何に価値を認めていますか。今日イエス・キリストに価値を持ち、全ての生活の中で、最高のハイレベルの、一番最高の価値あるものとして、私たちは命がけで守って行きましょう。私たちは今日イエス・キリストにどれだけ犠牲を払うかです。最後にマルコ14章8節をもう一度お読みしたいと思います。この八節にこの女は

「自分に出来ることをしたのです」

と書いてあります。あなたのできる事をして下さい。特別な事、あなたのできない事をしなさいでは有りません。できる事をしなさいと言っています。あなたもできる事をしましょう。イエスさまは最高に価値ある方です。。

祈り
 愛する天のお父様。あなたの愛を、私に対しての価値を心から感謝します。
 私のような者に、イエス・キリストは大きな大きな価値を持って、いや、世界で一番価値あるものとして私を救ってくださったことを感謝します。今日、このイエス様に、何をお返しすることができるでしょうか。今日、イエス・キリストに、私の出来る事を精一杯お返ししたいと思います。しかし、弱い者です。すぐにその決意がしなえてしまいます。今日、聖霊様、来てください。お一人お一人に聖霊様来てください。本当に救われた喜びを精一杯生活の中で、今の自分の中で精一杯輝かすことのできるような自分とさせてください。そのために今聖餐を受けます。この聖餐で、あなたの素晴らしさを、これ以上にないと言うほど、今日はイエス様の愛を体験させてください。今からの聖餐を祝福してくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン。


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