「神の祝福を受けたいですか?」


2010.9.12(SUN)
新城教会副牧師 四元雅也 師

ヘブル人への手紙 12章14節〜17節
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

ハレルヤ。6月13日以来の礼拝でのメッセージです。まだまだ暑い日が続いていますがいかがお過ごしですか?9月に入っても今まで暑い日が続いているのは、私たちがまだまだ熱く主を求めなければならないからなのか見知れません。今月はリバイバルミッションが北海道と東北において行われます。

昨晩、滝元明先生に連絡したところ、北海道での集会は大変祝福されているそうです。また、決心者も10名くらい与えられているそうです。今日は北海道リバイバルミッションの集会で、愛隣チャペルと言うところでで滝元明師・ロンブラウン氏・岩井寛兄が奉仕しています。
来週日曜日からは、東北リバイバルミッションが始まります。日曜日の午後は岩手県盛岡市の舘坂橋(たてさかばし)教会にて、月曜日は同市のアイーナ盛岡において、東北リバイバルミッションNorth。一日あけて水曜日・木曜日にかけては、宮城県名取市の文化会館大ホールにおいて東北リバイバルミッションSouthが開催されます。今週は、ぜひ、祈りを持ってこの働きのためにサポートしていきましょう。また、大会に参加される方も大勢いらっしゃいます。行きたいと思われた方は、ぜひ、今からでも予定を立ててお出かけ下さい。ちょうど連休の時ですので、休みを使ってリバイバルの恵みを受けに行って下さい。

今日は、「神の祝福を受けたいですか?」というテーマでお話しします。
話の本文に入る前に、私たちが毎週礼拝に来て、聖書から神さまが私たちに与えておられるメッセージを一緒に学ぶ時を持っていることについて考えてみたいと思います。

人は、記憶する生きものです。また忘れる生きものです。イヤなことや辛いことを忘れるだけならいいことですが、覚えていなければならないことまで忘れてしまうが、また人間です。ですから、覚えておかなければならないことは、繰り返し頭にすり込まなければなりません。私たちが毎日聖書を読むことや、毎週教会でみことばを学ぶことは、そういう意味でとても大切なことです。

教会では一日の働きが始まるとき、スタッフたちが教会に集まってまず賛美を捧げて、それから日替わりで当番になった人が、聖書の一節を選んで、そこから5分か10分のショートメッセージを語ります。私の子どもが通っている学校では、クラスルームで毎日生徒が順番に1分間スピーチをすることがあります。うちの子が当番だったときは、前日に「明日何を話そうかなぁ」と頭をひねって考えます。ある時は、教会のコンサート伝道会の宣伝をしました。それと同じようなことを教会でも毎朝するわけです。教会ですので、世間話や時事講話ではなく、聖書のメッセージを話すのです。当番は前もって決められていますので、例えば、明日が自分の順番であれば、だいたい今日の内に明日何を話そうかと祈りながら考えるわけです。
時にはうっかりして自分の番を忘れて、来てから慌ててしまうこともあります。熟練した先生であれば、そんな場合でも動じることなく、その朝に読んだ聖句の中から即興でタイムリーな素晴らしいメッセージをされます。しかし、僕は何の準備もしないと大変戸惑ってしまいます。
先週の水曜日の出来事です。その日の当番は明先生だったのですが、時間になっても来ませんでした。そういうときは、大体男性スタッフの中から誰かが代わりに話さなければなりません。その日は私がやらなければならない空気がありました。なぜなら翌日の当番が私だったからです。
そんなとき、何を話せばいいのかわからずに慌ててしまうのがいつもの私なのですが、その日は珍しく、みことばもメッセージもこころに浮かんできたのです。自分なりに素晴らしいメッセージだと思ったので、嬉しくなりました。そこで、メッセージしようとしたところ、ちょうど明先生が来られ、メッセージのことも覚えておられましたので、自分は翌日にお話しすればよいと思って明先生にお任せしました。
ところが、翌朝になってメッセージの準備をしようと思ったら、なんと、昨日心に残ったメッセージが頭の中から消えているのです。考えぬいてみことばまでは思い出せたのですが、どう話そうかと思い出そうとしてもどうしても思い出せませんでした。苦しんだあげく、その朝話したメッセージは、違うみことばからメッセージを話しました。

ヤコブの手紙1章25節
「みことばを一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にならず、事を実行する人になります。そういう人は祝福されます。」

みことばを通して働く立場でありながら、せっかく与えられたたみことばを忘れてしまうことが度々あります。みなさんはいかがでしょうか。

普段から私は、みことばが与えられた時には携帯電話に入力して忘れないように保存するようにしています。とにかく、みことばを忘れないで実行する人は「祝福」されるのです。

私も最近つくづく忘れっぽくなったなぁ、と思います、この間なんか、朝教会に行こうと家を出たのはいいですけど、途中になって「あれ、今朝、歯を磨いたっけ?」と心配になり、家に戻って歯みがきしていたんですが、家内から二回目だと指摘されてやっぱりそうだった?と。あれはちょっとショックでした。

歯みがきを忘れるくらいは笑い話ですが、みことばを忘れるのは損失ですので、私たちはどん欲に、みことばに親しんでいきたいですね。

聖書のことを英語でバイブルと言いますが、バイブルというと、ある事柄を正しく説明し、その言葉を理解して行動に繁栄させることで、間違いなく正しい結果を見ることができる、その事柄における権威あるマニュアルのことを言います。例えば、プロ野球でいえば元楽天イーグルス監督の野村克也氏が本を書くと、「野球人にとってのバイブル」だと評されたりします。東大合格のためのバイブルとか、会社経営のバイブルとか、子育ての‥とか、テレビゲームの攻略‥だとか、いろんな分野で簡単に「バイブル」が使われているように思います。人生のバイブル、これが文字通り「聖書」なのです。

私たちは聖書のことばを、できるだけ多く、覚えていきたいです。子ども会や中高生会のみなさんは、毎日最低一章ずつ聖書を読むことを課題として与えられています。学生時代にスポーツに勤しむことが、体力低下を防ぎ、年を取ってからの人生に良い影響をもたらすことがわかっていますが、幼いときから聖書を毎日読んで、頭の柔らかい時にみことばを詰め込んでおく事は、将来に向けとても大切なことです。年を取ってからも、私のように「忘れない」ためにも、みことばをよりいっそう求めていきたい者です。

Uテモテ人への手紙 3章15〜17節
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

‥この聖書こそは、キリスト・イエスを信じることによって救われることについての知恵を、あなた方に与える書物である。聖書は、すべて神の御霊の導き(啓示)によって書かれたものであるので、私たちに真理を教え、また罪を示し、それを正し、真っ直ぐに生活していくことができるように訓練してくれるのに役立つ。(現代訳)

私たちが聖書に親しんでいくことによって、神とは何か、救い主とはどういうお方かと言うことを知るのだと、ここに記されています。また、真理を教える、何が正しくて何が罪なのかを教えてくれる。そして、私たちが横道に逸れることなく、人生の道を真っ直ぐに歩むことができる、そのために有益な書物ですと、聖書自身が語りかけているのです。

聖書は、不思議な書物です。今から3000年以上も前に、聖書の最初の部分が記されたといわれています。ちなみにコーランが書かれたのは今から1400年前、仏教教典は2400年前です。そして、古いのですが、力強い書物です。聖書は、有史以来、政治的権力や宗教、また「人間が万能である」という思想など、様々な圧力によって存在を脅かされて来ました。現在に至るまで、聖書を全ての人が受け入れ、好んだ時代は、一瞬もありません。それにもかかわらず聖書に影響され、聖書を人生の柱とする人は後を絶たないばかりか、今も増え続けています。ですから、聖書は年間に何億冊という数が、新たに印刷され、人々の手に届けられている、印刷というものが歴史に登場して以来、いかなる出版物よりもダントツに多く出版され続けているのです。

ナポレオン
聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。

ヘレン・ケラー
私が毎日、もっとも愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に”悲惨”という文字はありません。聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。

トーマス・エジソン
光、暖かさ、健康、力はすでにもう存在しているのですから、スイッチを入れさえすればよいのです。電線そのものは別に何でもありません。絶縁された二、 三本の銅線にすぎないのです。しかし、その線の中をプラスとマイナス二つの電流が流れると、すべてが変わってきます。暗黒は失せ、冷気はなくなり、仕事もたやすくできるようになります。聖書は単なる本にすぎませんが、神の御霊によって霊感されている聖書の各ページを、神の義と愛とが、プラス・マイナス二つ の電流のように流れ、キリストの十字架で合流しています。聖書だけが、私たちに救い主を示してくれます。そのことによって聖書は、私たちの全生涯を造り変えることができる力の泉となるのです。あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちたご自分の生活に倦(う)み疲れてはいませんか。また、不安や心配にあきあきしてはいませんか。スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい。

「聖書」を読まないのは、人生の大きな損失だといっても過言ではないでしょう。ぜひ、あなたも聖書を読んでください。

話は少し飛ぶようですが、日本人は「進化論」を信じる人が大多数を占めています。もはや定説か常識かという認識ではないかと思います。しかし、米世論調査企業ギャラップが2009年2月11日に発表した調査結果によると、米国では進化論を信じていると答えた人は、わずか39%にとどまり、全く信じない人が25%だった。36%は進化論に対して意見を持っていなかった。また、2008年5月に実施した調査では、人間が何万年もかけて進化してきたと考える人はわずか十四%に過ぎず、過半数に近い44%の人は、「過去一万年の間に、神が一晩で人間を創り出した」と考えていたのです。

これは、聖書の神による天地万物の創造記述を、そのまま信じている人が、全体の半数近くいると言うことです。さすがだと思います。

日本人は進化論を誤解しています。進化論を証明することなど不可能なのです。進化を実験で再現することなどできないですので、生態系を見て推測しているのです。私たちは、当然、聖書から神さまによる創造を信じて行きたいと思います。

最近、一つはセミナーのビデオ、もう一つは本から、ヤコブの人生について学ぶ時を持ち、ヤコブの人生について教訓となる事柄を教えられたので、今日はそのことを学んでみたいと思います。

創世記の物語には、人類にイエスさまという救い主が与えられるための神さまの計画が、歴史の中でいかに実現されていったかという書き出しが描かれています。起承転結で言えば「起」の章です。世界の始まりから、神さまの計画に沿って選ばれた祝福の始祖アブラハムの人生、その息子であるイサク、そして三代目となるヤコブとイスラエル12部族の発生について綴られています。

ヤコブの代で始めて「イスラエル」という呼称が与えられることになりました。この「ヤコブ」から「イスラエル」へと変えられた出来事についても、機会があったらお話ししたいと思いますが、今日はそれよりも60年ほど前の時代から話を始めたいと思います。

創世記25章20〜26節
イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

イサクの妻リベカは不妊の女でした。彼の父アブラハムと同様イサクも神の約束である契約の家系の維持に関して信仰の試練を受けたようです。イサクは祈り求め,結婚後二十年にしてやっと子供が与えられたのです。ヤコブは誕生の時、双子の兄エサウのかかとを掴んでいたところから「かかと」と同じ語根からきているヤコブという名前がつけられました。この同じ語根が、「だます」という意味をも持っていたところから、ヤコブが兄や父をだました時、そのような名前の意味が説明されています。
そして、「兄が弟に仕える」と書かれています。これは、神さまがこの二人の人生に起きる出来事を前もって、弟が兄をしのぐ存在となっていくと予言されたのです。

創世記25章27〜34節
この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

この箇所は、冒頭にお読みした「いっぱいの食物と引き替えに長子の権利を売った、エサウのような俗悪な者がいないように‥」と書かれている、その元となったストーリーです。

エサウとヤコブが成長していくと、双子でありましたが二人は全く違った性格になりました。ヤコブは穏やかな人で天幕に住んでいました。

それに対してエサウは、野を駆け回って狩りをするのが好きだったという記述からも、ヤコブと比較すると、力強さや自身をみなぎらせて、周りの人を自分の世界に巻き込むムードメーカー的な勢いはあったように見えます。しかし、どこか短絡的で人格に欠けのある人物だったように思われます。ただ単に物質的なことではない。神の祝福にかかわりの深い長子の権利を、ほんの一時の空腹のために軽蔑したことに、エサウの軽薄で移り気な、すぐに気が変わる人柄が集約されていると思います。

ここでの誓いは、言葉によるものでした。日本人的な感覚で言ういわゆる「方便・戯れ言」というものはヘブル人の文化にはなく、ここでの誓いもヤコブ、僕たち、そして神の前に取り消すことのできない言葉であったのです。

ヘブル人への手紙 12章16節
不品行な者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

ヤコブの人生について見てみると、確かに、エサウをそそのかして長子の権利を横取りしましたし、本当はエサウを祝福しようとしていた父イサクをだまして、祝福を横取りした場面を見ると、一見ずる賢い、狡猾というヤコブのイメージを持ちます。しかし、実は穏やかで約束を守る正しい人、そして、神さまと語り、神さまにしたがったヤコブの人生像が見られます。

27節に見られる「穏やかな」という言葉からは,一見内向的とか、ひ弱そうな、という比較的ネガティブな印象を持ってしまいそうですが、じつは原語では「完全である、欠けがない」の意の語根から派生しており、詩篇では「全き人」、ヨブ記の数多くの箇所と箴言では「潔白」と訳されています。この語の類似語としては「正しい」「正直な」などがあり、反意語としては「悪」「悪者」「悪を行う」「不法を行う」などが考えられます。従ってただ単に「物静かな人」というのではなく、「神の前でも人の前でも心の定まった人」という意味であるわけです。今日はその全てを学ぶ時間はありませんが、創世記を読んでいくときに、ヤコブが罪人であることには変りがなく、人間的には「兄弟を押しのける者」であり、狡猾な者という人格を見るのですが、それとともに、彼が真実に生きることを志し、神のみこころにしたがって生きようとする敬虔さというものを随所に垣間見ることができます。

イサクの祝福を受けたヤコブは、その時から主からの語りかけによって導かれていきます。兄エサウの復讐を恐れて逃げるようにして、遠い地に伯父ラバンを頼って一人歩いて行ったときにも、神の直接の語りかけによって、彼はあらゆる危険からまもられ無事カランの地にたどり着き、ピンポイントで伯父ラバンの家の娘、後にヤコブの妻になるラケルに相対するところまで導かれました。ヤコブはここでラケルに一目惚れし、この人をお嫁さんにしようと心に誓ったのです。
伯父ラバンには二人の娘がおり、ラケルは下の娘でした。ヤコブはラケルを嫁にもらうため、花嫁料として7年間タダ働きすることを約束しました。実に七年間、彼は忠実に働いたのです。しかし、結婚式の初夜に、ラバンにだまされて真っ暗な天幕で姉のレアをラケルと思って受け取り、夜を明かしてしまいました。翌朝だまされたことを知ったヤコブにラバンは「ラケルもあなたにあげるので、もう7年間働いてくれ」と言い、約束を破られたヤコブは、ラケルのために、約束の倍の年月14年間働く羽目になってしまったのです。結局その後も裏切りを重ねた伯父ラバンに対し、文句一つ言わずに結局20年間も真面目に誠実に働いて、彼に利益をもたらしたのです。これは彼の真実な人間性の表れです。ヤコブの人生はその後もある意味では苦難の連続であったのですが、彼は一貫して神さまに信頼し、神さまの前に正しく生きていったのです。

先週の週報でお知らせしたように、今日はアメリカから、ジョー・ハイト先生の息子の、ピアスくんが来られています。彼もヤコブのように親元を離れ、主に導かれて一人遠くの国に来られたわけです。ピアスくんの滞在期間は九ヶ月ですのでヤコブの二十年間には及びませんが、それでも神さまの前に正しく、誠実な歩みをしていけば、必ず神さまが祝福をくださると思います。神さまがともにおられることを実感して過ごせるよう、みなさんも祈って上げて下さい。
でも、順先生はラバンみたいに約束を破るずる賢い人ではありませんので、ピアスくんも安心して下さい。順先生は本当に人格的にも素晴らしい方です。僕も尊敬しています。

みなさん、このヤコブが、その後1700年経って生まれたイエスさまの民族的な祖先となった、ヤコブです。ヤコブが後にイスラエルとなり、イスラエルから12部族が生まれてイスラエル国家となり、後になってイスラエル人としてイエスさまは誕生したのです。もしも、ヤコブが正しい人ではなく、いい加減な人生を歩んでいたら、救い主は世に与えられなかったのかも知れません。ヤコブから五百年後のモーセの時代に、神さまは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と、自己紹介されるほど、神さまはヤコブの存在に重きを置いておられるのです。

私たちの人生にも神さまは恵みを注ごうとしてくださっています。しかし、エサウには心を変えてもらう余地がなかった、と書かれているように、かたくなになってはいけません。私たちの心を変えて、神さま主導の人生を受け入れるとき、良いことも悪いことも、全ての出来事が生かされていくのを見ることができます。

エサウの語った簡単で軽薄な一つの言葉で、人生が逆転するような結果となりました。逆に言えば、私たちが日常の中で語る言葉にも、実は人生を左右するほどの大きな力が秘められているのです。私たちは、どんな状況の中でも肯定的な言葉、前向きな言葉、信仰の言葉を語るとき、祝福を受け継ぐことができるのです。祈る時でも、たとえ習慣となって余り意識しなくても出てくるような、お題目のように心のこもっていない祈りでも、神さまの前に発せられた重い言葉なのです。ですから、私たちは祈る時にも、言葉の持つ威力を意識して祈りたいものです。

ヘブル人への手紙 12章14〜17節
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

冒頭にお読みした聖書の箇所は、私たちがきよめられた者として生き、エサウとヤコブの物語を通して、私たちが一時の感情や欲望と引き替えに、大切な神さまの祝福を売り払ってしまうようなことがないように、自分自身をよく監督するように、と勧められています。

ヤコブも人間です。確かにずる賢いところもありましたが、彼の良いところは、神の祝福というものを何にも増して必要な物として認識していたところです。

ヤコブの人生を、今日聖書から全てを見ることはできませんが、彼の人生は他に何がなくても神の祝福を受けるものでありたい。例え石をまくらに野宿しても、味方になって助けてくれる人が周りにいなくても、人にだまされて辛い思いをしても、とにかく、神さまの前に正しく、聖く生きて、祝福を受け取る事をどこまでも第一にしていたのです。

私たちが聖く、正しく神さまの前に生きるとは、どういう事か、ヤコブの人生から教訓を得ることができました。聖書は、エサウにはならないようにと勧めています。一時の感情や気持ちの流れで、大切な人生が、いや永遠が影響を受け、祝福を失うことのないように、私たちは祈り、聖書を土台として生きていかなければなりません。
この世がどんな時代でも、聖書は神さまの心理を示す、私たちの規範です。聖書に土台を据えて生きていきましょう。また、毎週繰り返しみことばを学ぶことも大切なことです。みことばがより強く私たちに働きかけるように、繰り返し繰り返し、みことばを心に書き込んでいただきましょう。大切なときにこそ、いざという時にこそ、みことばが心を支えるように、自分の声、人の声、この世の声よりも、みことばが大音量で聞こえるように、みことばを毎日読んでいきましょう。

最後にお祈りします。

ハレルヤ、イエスさま、感謝します。みことばを与えて下さって感謝します。今日一人ひとりにお語りくださったみことばを踏まえ、私たちがみことばによってあゆむものとなることができますように。ヤコブが、祝福を受け継ぐ者となったように、私たちも神さまの前に聖く、正しく、イエスさまを一心に見つめて離れない者となるように、祝福して下さい。この日本のリバイバルのためにも、日々、タイムリーなみことばによる励ましを与えて下さい。この世のいかなるものにも増して、みことばが私たちの力となっていくことができますように。お一人お一人を祝福して下さい。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン


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