「愛する家族の救いのために祈ろう!」


2010.9.19(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

使徒の働き 16章11節〜15節
そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。
 今、若者達の素晴らしいダンスを見せていただきました。すばらしかったですね!今日は敬老の日ですけれども、私も敬老の日の部類に入りそうなので、見ているだけで動悸がするようでした。彼らと一緒に動いたら死ぬだろうなと思いました。しかし若い時はいいですね。力一杯、体を使って賛美できるとことは本当に素晴らしいです。

 今日は、敬老の日で、おじいちゃん、おばあちゃん方は、「長生きおめでとうございます!」。イエス様と共に長生きできるのは素晴らしい祝福だと思います。
 教会には、人生の四季があり、赤ちゃんが生まれ育っていく過程において、成人式、結婚式、ある時には、お葬式もあります。

 昨晩はここで結婚式がありました。この教会にはインターナショナル部会があり、毎週日曜日、午後4時から礼拝があるのですが、そこに来ている二人で、ジロー君とシンチアさんが結婚しました。昨日はブラジル風の結婚式でした。

 すごいですね。教育館がこんな風に変わってしまいました。やればやれるもんですね。


 新郎はペルーの方、新婦はブラジルの方です。国際結婚です。本当に素晴らしかったです。

 大勢の方が来られて、昨晩は私も少し出席させていただきました。いろんなことが教会ではあります。

 実は今日から「東北リバイバルミッション」が始まります。是非とも祈っていただきたいと思います。お手元の週報にプログラム等も載っていますので、是非とも祈ってください。
 私も今日の夜の便で盛岡に行き、明日の朝のセミナーから奉仕することになっています。
 今日の午後は、特に、東北リバイバルミッションのために祈りの時を持ちたいと思います。前回、東北リバイバルミッションは、重要な日本のリバイバルのための戦いだとお話しさせていただきましたけれども、もう一度、午後からセミナーをさせていただき、「東北リバイバルミッション」の霊的意味をよく理解していただいて、現地に行かなくても祈っていただきたいと思います。
 今日と明日(月・火)は、岩手県の盛岡で集会があり、水・木と、仙台と言ってもいいのですが、隣の名取市で集会があります。
 この働きは、人々の救いのために行われる働きです。一人でも多くの方が救われて、永遠の命を得るようにという想いで、宣教大会が開かれます。
 リバイバルミッションの働きは、本大会に至る過程が重要です。本大会に至る過程において、霊的戦いの祈りがなされ、地域の調査がなさ、全国の祈りを集結させて人々の救いのために集会が開かれます。きっといい集会になると信じています。

 今朝のメッセージは、「愛する家族の救いのために祈ろう」というタイトルをつけさせていただきました。やはり私たちの一番の願いは、愛する家族が皆救われて永遠の命を頂くことですね。
 人生は長くても80年、90年、この頃では100年くらい生きる人もおられます。今日は敬老の祝福の祈りを致しますが、教会にはお年寄りの方が結構おられます。でも、人生は、あっという間だと思います。
 私も今年で59歳になり、来年は60歳です。先日、私の所に一通の手紙が届きました。それは、「年金についてのお知らせ」でした。年金は、60歳からもらえるみたいですね。少し年金をもらうのを我慢して、65歳からもらえば金額が多くなるそうです。
「どちらがいいか、この一年でよく考えて選んでください」というお知らせでした。「えっ、俺に年金?」と、少し戸惑いましたが、お金をくれるならいいじゃないかと思いました。どちらにしようか、少し楽しみです。65歳からのほうが結構金額が多くなりますね。だから、「やっぱりそのほうがいいかな〜」と考えている最中です。

 いずれにしても、人生は、長いようで短いものです。しかし、人生は、この地上だけで終わるのではなく、永遠の世界があるのです。
 主を信じて、一生を全うするなら、永遠の国、天国に入ることができるのです。そして、地上で別れた家族とも、そこで再会できるのです。素晴らしいことです。
 この地上では苦しいこと、悲しいこと、いろいろありますが、天国に行ったら、二度と苦しみも悲しみも叫びもないのです。そして、別れた家族と再会して、永遠に過ごすことができる、それがある意味で「人生の本番」です。
 そのためにも、地上において良き準備をしておかなければなりません。そんな中で、一番重要なのが何かというと、「愛する家族の救い」のために祈ることが大事です。
 今、読みました使徒の働きの16章には、数日間の中に、二家族が救われたという記録があります。聖書は、私たちとっての「生きるためのマニュアル」とも言うべきものです。二つの家族が、それも数日間で救われたという記録があるのは、この中に、家族の救いのための秘訣が隠されているはずです。

 私は今までも、ここから何度かお話させていただいているので、覚えているかもしれません。パウロたち一行が「ピリピ」に行った時に起こったことです。先ほど読んだ中、16章12節に、このように記されていました。
使徒の働き16章12節、

それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

 パウロとその一行が、ピリピという街に幾日か、幾日といのは数日間ですから、4、5日でしょうか、滞在したのです。そんな短い滞在の期間に、何が起こったかと言いますと、ルデアという女性がクリスチャンになり、その後、家族全員が救われたと記録されています。
 また、もう一つは、ピリピの街に牢屋があったのですが、その看守と家族が救われ、全員がバプテスマを受けたと記録されています。
ほんの数日の滞在の中で、二つの家族が次々と救われたのです。使徒の働き16章から、愛する家族の救いの秘訣を学ぶことが出来ます。これは家族の救いの為のマニュアルです。そこから、まず最初に誰か一人が救われて、その後、家族に救いが拡がって行く様子が分かります。

 16章には、大変有名な言葉があります。それはパウロとシラスという二人が聖霊によって語った言葉です。
使徒の働き 16章31節、

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

 この言葉は、聖書の中でも有名な言葉で、世界中のクリスチャンが希望とし告白している言葉です。
 「家族の中で、私だけがクリスチャンです」という方もおられるかもしれません。しかし最初に一人が救われ、それから家族全員に救いが拡がります、また一人が救われることは、家族の救いと関連があります。
 この16章の31節を、みなさんと一緒に宣言してみたいと思います。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます!」
 この『あなた』のところを『私』に置き換えて、もう一度読んでみたいと思います。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、私も私の家族も救われます!」

 これは、神からの啓示によってパウロとシラスが語ったわけですから、これは神の約束です。もう一度大きな声で宣言してみましょうか。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、私も私の家族も救われます!」
 この御言葉を心に留めて帰っていただきたいと思いますが、少し、その秘訣を学んで行きたいと思います。

 実は、ピリピという街に、パウロ一行が出向いた背景に、一つのことがありました。それは、16章6節から10節のところに書かれています。
使徒の働き 16章6〜10節、

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 実は、パウロたち一行には、マケドニア地方で福音を語るプランはありませんでした。彼らは、ヨーロッパよりも、アジア回りで福音を伝えたいと思っていたのかもしれません。
 しかし、なんと聖霊がアジアで福音を語るのを禁じたと言うのです。ひどい話じゃないですか。我々、アジアに属する者たちにとっては、腹の立つ記述です。なんと「アジヤで福音を語るな」と聖霊は語り、この時から福音の伝達方向が、アジヤ方面ではなく、ヨーロッパ方面、西回りになったのです。
 パウロに幻が見えて、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と、懇願する姿が見えたので、彼らは自分たちの考えていた方向を捨て、向きを変えてマケドニヤに向かいました。そして、マケドニアの都市、ピリピに行った時に、なんと二つの家族が次々に救われたのです。

 これは、何を意味しているかと言うと、神がこのアジヤを見捨てるとか、そういうことではなく、家族の救いには神のタイミングがあるということです。聖霊様の指示された通りに動く時、神の業が起こることを意味しています。
 時々、私たちの人生にも、神が方向性を変えられる時があります。いろいろな出来事を通して、神が私たちの人生の方向を変えられます。しかしその先に、神の大いなる計画があり、み業が現されるのです。
 パウロとその一行は、いつも聖霊様の働きに敏感に反応し、主の御心は何かといつも求めていた様子を伺えます。

 案外人生の中で、自分の予定や、自分の計画が優先してしまいがちなのですが、そうではなく、聖霊様の導きを求めることが大切です。
 ある時には、「あなたは親族の所に行って福音を語りなさい」と主から示されることがあるかもしれません。そんな時、何を置いても、そこに行って福音を伝えて下さい。
 人が救われるというのは、どのような形で救われるのかと言うと、だれかが聖霊の示しに従うときに、救いにつながるのです。

ピリピにおいてパウロ一行は安息日に街を出て、祈り場があると思われた川岸に行きました。そしてそこに集まった女たちに話したと記録されています。
 世界中、川岸は宗教施設が集まっています。ピリピには、ユダヤ人も住んでいましたので、ユダヤ人たちも川の側に集まって、神を礼拝していたみたいです。
また、他にもいろんな宗教の人たちが、川岸で礼拝をしていました。そんな所に行って、一行は福音を伝えたのです。
 使徒の働き 16章14節、

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

 ここに家族が救われるための、一つの条件を見ることが出来ます。
  それは、「主が彼女の心を開いて」とあるように、主ご自身が聞いている人たちの心を開いてくださったのです。それで「福音が入った」のです。聖霊ご自身の導きによって、私たちが出て行く時、主が、人々の心を開かれるのです。心が開かれる時、福音の種を投げ込んだら、人は救われるのです。

 みなさん、是非ともこの東北リバイバルミッションのために、「主が人々の心を開いてくださるように」と祈っていただきたいと思います。
 心が固く閉じている状態で福音を語っても、なかなか人は救われません。私もいろいろな所で奉仕をさせていただきますが、心を開いてくださる所では実を結びますが、心が閉ざされているところでは、いくら語ってみてもなかなか難しいです。
 私もみなさんの前で、雰囲気をびんびん感じ取りながら話しています。しかし新城教会は大丈夫です。みなさんは私のこともよく知っているし、話の内容もだいたい予測して、心を開いて聞いてくださっています。私のくだらないジョークも、笑ってくださいますから感謝です。ジョークを言っても誰も笑わなかったりすると、私の心の方が閉まっちゃったりします。
 やはり聖霊様に心を開いてもらわなければなりません。

 先週私は土曜日、日曜日と秋田県で奉仕をさせていただきました。どういう所の奉仕が一番難しいかと言うと、大勢の人たちの前で話をするのは、あまり難しくありません。なぜなら、中には心を閉じている人もいるかもしれませんが、必ず、心を開いてくれる人もいるからです。
しかし、小さな会衆の中で話すほど、難しいことはありません。雰囲気がびんびん伝わって来ますので。
 秋田では、何千人が私を待っているのかな、と思いながら行ったら、前列に座っていたのは、たったの四人でした。そして、その中のほとんどのが、初めて教会に来た人たちでした。しかし、聖霊様が働いてくださったら大丈夫でした。
私は「聖霊様が心を開いてください!」と祈りました。その時、聖霊様が人々の心を開いてくださいました。それで、みんな一緒に主を信じる祈りができました。
 東北において、主が心を開いてくださるように、祈っていただきたいと思います。

 パウロ一行が聖霊の指示に従ってピリピに行った時、整えられた魂、ルデアがいました。この女性は心を開き、家族も救われ、なんと数日間、彼女の家に滞在することが出来ました。それで彼らは、ピリピでの宣教活動を続けることができました。
 その中で、次の救いが現されました。それが、看守一家の救いでした。実はこの一家が救われる前に、一つの事件が起こりました。
 ある意味で、家族の救いのためにもう一つ、重要なことがあるとこの事件を通して、教えていると思います。
使徒の働き16章13節、「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。」
 川岸にはユダヤ教の人たちも集まって礼拝していました。彼らは、天地宇宙を造った神は知っていましたが、イエス・キリストが救い主だと伝えました。

 しかし、川沿いには、他の宗教施設もありました。そこに行く時に、一人の女性がパウロ一行に付きまとった、とあります。
使徒の働き 16章16節、

私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

 川岸に行った時に、一人の女奴隷、それは占い師が来て、彼らに付きまとったのです。なんと叫んだかと言うと、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです!」と叫びながら、付きまとったのです。
 この女とは初めて出会ったと思います。パウロたち一行は面識は全くなかったのです。しかし、この女はパウロたちを一目見て、真実を語ったのです。「この人たちは、神のしもべだ」と。「あなたがたに、救いを宣べ伝えに来ている」と。全く間違いのない、正しいことを語っています。
 私は推測するのですが、パウロがすぐに悪霊を追い出さなかった背景に、「この女はすごい。俺たちの素性を全て当てた。別に間違ったことを語ってないじゃないか」と、少し心を開いた部分もあったのでは、と思います。
 誰でも、こういう状況が起こったら、そうではないでしょうか。全然知らない所に行った時、占い師が来て、「あなたは神の僕ですね。あなたはクリスチャンですね。あなたは祝福された人ですよ」なんて言われたら、悪い気はしないと思います。「俺はそうだよ!」と言って、「あんた、なんでわかるの?」と話すのかもしれません。パウロも人間ですから、そういう弱さは絶対にあったと思います。
 しかし、ここで教えているのは、「占いの霊」というのが、神の霊ではなくて、「悪霊から」ということです。
 この頃、日本でも占いが流行っていて、朝テレビをつければ占いがあるし、携帯電話サイトも占いサイトが多くあります。新聞でもいっぱい出ていますし、テレビではゴールデンタイムに占い師が出てきたりします。世はまさに占いブームです。
 なんでみんな占い師に群がるかと言うと、当たるからです。「当たった!すげ〜な〜」と、感動するのです。しかし、この箇所は、「占いに心を開くと、危ないですよ」ということを、同時に教えています。

 パウロは、占いの霊が、神から来るものではなく、悪霊的なものだと分かっていたのですが、すぐに悪霊に立ち向かうことはしませんでした。後の方に、「ちょっとうざいな」ということで、「イエス・キリストの御名によって命じる。悪霊よ、出て行け」と、その霊を追い出しました。なんと一発で、「即座に霊は出て行った」とあります。すごいパワーです。彼らには権威があったのです。しかし、すぐには権威を行使しませんでした。

 悪霊を追い出した後、どういうことが起こったかと言うと、彼らは捕まえられ大変な目に遭いました。
人間の心情から察すると、パウロとシラス、その一行は少しこの女の占いの言葉に心を開いたと思うのです。その結果、どういうことになったかと言うと、何度もムチで打たれ、牢の奥の方に、看守付きで閉じ込められたのです。それは預言的な事だと思います。
我々が占いに心を開くと、何度もムチ打たれるというか、人生に痛みが来ると教えているのだと思います。
 いくら占いが当たるように見えても、占いに心を開くと、最終的には人生に痛みが来て、牢の奥に入れられ、敵の看守が付いて、抜け出せなくなる危険性があることを、同時教えているような気がします。
 今、占いが流行っていますが、占いは気をつけなければいけないのです。いくら当たっても、絶対に心を開いてはいけません。それは神の霊ではなく、悪霊ですから、人生をムチ打つ力であり、二度と出る事が出来ない牢の奥に入れられ、看守が付いて、閉じ込められるのです。
 私たちの周りを見渡したら、人生で痛みを体験している人が多くいます。そして、牢の奥に閉じ込められ、鍵をかけられ、看守が付いているのではないか、と思わされる人々が、結構いるのではないでしょうか。占いに、心を開いてはいけないのです。

 実は、日本で一番占い師が多い地域はどこかと言いますと、一つは「東北」です。今日から東北リバイバルミッションを行いますが、東北は、クリスチャンが少ない場所です。そこには牢の奥の方に閉じ込められている人たちが多くいます。
 どこに原因があるのかと言うと、やはり占い師の一大集団が関わっているような気がします。それは「イタコ」という集団です。恐山に行ったことがありますか?
 そこには先祖の霊を呼び出して、その声を聞かせてくれるという口寄せ集団がいます。しかし、呼び出されるのは決して先祖の霊ではありません。人が死んだら神の元に行き、生きている人とは交流が出来ないと聖書は教えています。しかしイタコは、「交流は出来ますよ。ちょっとお金を払ってください。先祖の霊を呼び出してあげますから」と言います。それで大勢の人たちがそこに行くのです。そして、先祖の霊と呼ばれる存在を降ろしてもらい、指示をもらいたいと願うわけです。そして自分の未来についても知りたいと思うのです。また、その占いが結構当たるのです。だから、みんな行くわけです。
 けれどもその結果はどうかと言うと、本当に悲しい結末です。恐山というのは、青森県にあるのですが、実は恐山とは、ある意味イベント会場みたいなもので、イタコたちはそこに常駐しているわけではありません。もっと他の秋田県や、青森に岩木山というのがありますが、その周辺に固まっていて、悪霊を招く修行をやっています。だから、その周辺は本当に暗い所です。
 今回、私は秋田県に行きましたが、「秋田県は本当に自殺率が高いんです。大勢の人たちが自殺するのです」と言われました。そして、「精神的に苦しんでいる人たちや、家庭に問題がある人、いろんな問題が溢れています」と言われました。
 なんでそんなことが起きるのか、その原因の一つに、やはり占いに心を開くからではないかと思います。

 もう一つ、占い師の集団がいる地域がどこかと言うと、これは南の方、沖縄地方です。みなさん、沖縄に行ったことはありますか?本当に気候も暖かいし、南国ムードで、時間もゆったり進んでいます。
 集会も「7時から集会をします」と案内しても、7時から集まることはあまりありません。「7時から滝元順先生が来て集会があります」と宣伝すると、教会に電話がかかってくるそうです。「もしもし、今日の7時からの集会は何時から始まりますか?」。「7時からに決まってるじゃないか」と思うのですが、それが違うのです。7時からと言ったら、大体8時ごろから始まるのです。みんな8時くらいになると来るのです。先日もテレビでやっていましたが、標準的な人は、大体一時間くらい遅れるそうです。今日も沖縄の方がおられるので、少し申し訳ないところもありますが、こちらからすると「なんで遅れたんだ」という感じですが、沖縄では、そんなことはないのです。みんなゆったりしていて、心が広いのです。
 しかし残念なことに、そこには霊能者が多いのです。沖縄には一つのことわざがありまして、「病気になったら、医者半分、ユタ半分」。ユタとは、占い師のことですが、これが社会的ポジションを得ているのです。ですから、行政や一般でも、それを認めなければならないのです。誰でも病気になったら、医者に行きますが、沖縄では、霊能者の所にも行くのです。
 しかし、あのゆったりした沖縄地方で、なんと精神的な病は、本土の2倍以上あり、多くの人たちが精神的な病で苦しんでいます。
 沖縄県宮古島に行ったことありますか?沖縄本島から飛行機で一時間くらいなんですか、私は宮古島に何回か行きました。私は宮古島の教会から奉仕を頼まれて行ったのですが、そこは本当にゆったりした島です。
でもその島は、本当にいろんな問題で満ちています。なんでこんなに自然豊な、ゆったり時間が流れている島に問題があるのか、という感じです。その背後に「占い師」がいるのです。
 宮古島の人口は、この新城と同じくらいの5万くらいです。しかし、占い師たちが使う拝み場が、900カ所以上あるのです。2時間くらいあれば廻ることが出来る小さな島の中に、900カ所以上の拝み場があるのです。そして、霊能者たちがそこに行って悪しき力を受け、また、島の人々もそこに行き、悪霊に支配されてしまうのです。

 私がある教会に行きますと、占いの霊につかれた女奴隷と書いてありますけれども、悪霊に支配された女性がいました。宮古島の集会では必ず、そういうことに関しても対処しなければいけません。私はそれが得意なところもあるんですけれど、毎回一人の女性が来て暴れました。精神的な病と悪霊的な病とは違うのです。混同してはいけません。
 精神的な病は、精神が疲れて発症する病ですが、悪霊的なものは、普段は普通ですが、祈り始めたり、霊的な環境になると突然おかしくなるのです。私が悪霊と戦って祈り始めたりすると、大変になる人がいます。それはある意味で、隠された土台が露にされているわけですから、どうってことはないのですが、そのとき暴れる人もいます。
 私がある教会に行ったら、一人の女の子がまるで鼠のように前歯を二本突き出して、爪を立てて襲いかかって来ました。そういう時にこそ、信仰が試されます。
 けれども、イエス様の御名はすごいです。そういう方でも解放されます。しかしそういうことが起こるのは、家がそもそも占いに関わっていたりするわけです。
 その子に「あなたに霊的問題があるってことは、家が何か、占いに関わっていないですか?」と聞いてみると、「はい、私のおじいちゃんは占い師です。それで、私の家はみんな占いに関わっています。」と言いました。
 だから私は、「あなたが救われて、解放されるだけでなく、家族が救われるように祈らなくちゃ」と言いました。そして、私は家族について聞きました。「家族はどうしていますか?お父さん、お母さんは?」と聞くと、「私の家は本当に大変なんです」と言いました。
 聞いてみると、その家は普通の家ではなく、その街でも悪い意味で有名な家族で、しょっちゅう家族がお互いに刃物を持ち出して、喧嘩するそうです。
 「お父さんはどんな状況?」と聞くと、お父さんは長い間、精神的な病で苦しんでいて、最近は「らい病」という表現は使っていませんが、「ハンセン病」に掛かって、目も鼻も口も溶けてしまって、それでも半分溶けたような手で包丁をつかんで、家族に斬りつけてくると言うのです。かわいそうだと思いました。
 すると私の心に、「明日の午前中、時間が空いてるじゃないか。その家を訪問しろ」というような思いが来ました。私はちょっと行きたくないな、と思いましたが、やはりこういう時にこそ、パウロのように向きを変えて行くことが大事なのです。
 「明日の午前中空いてるから、お宅を訪問させてもらっていい?」と聞くと、「えっ、私の家に来たら、大変なことになるかもしれないけど…」と彼女は言っていました。しかし、「大丈夫だよ、今日はあなたが霊的な解放を受けたから、きっと家族に主が働いてくれるに違いない」と言いました。
 私は教会の牧師に、「明日の午前中、この方の家に連れて行ってください」と言ったら、「順先生、大丈夫ですかね」と言いました。私は「大丈夫ですよ」と言い、翌日そこに行きました。
 その家に着いた途端、彼女が、包丁を何本か抱えて家から飛び出してきました。何が起こったのかと思ったら、私が来たので、何かあってはいけないということで、家中の包丁を持ち出していると言いました。
 でも、お父さんとはなかなか会えそうな感じではありませんでした。私は「お父さんの心が開かれますように」と祈り、家の中に入って行きました。お父さんは離れに隔離されているような感じで、ゴミの山の中に寝ているようでしたが、人間というのは、どんな人にも愛をもって接したら心を開いてくれます。
 だから、私はお父さんの所に行って、「私は愛知県から来たんですよ。牧師ですよ。今日は、お父さんの祝福のために来ましたよ。イエス様という神様を紹介に来ました」とお話しをして、「宮古島の神様は、供え物をしたり、修行をしなかったら助けてくれないし、言う事を聞かなかったら罰を当てるでしょ。でも、聖書の神様はそんな神様じゃないよ。とことん良くしてくださる神様だよ。あなたの娘さんが教会に来て、よくなったから、今度はお父さんもイエス様を信じてください」と話をしました。
 前の日に、娘さんの背後の敵の力を打ち破る祈りをしましたから、聖霊様が働いて、父さんの心を開いて下さいました。なんと私の話を聞いて、涙を流し、半分溶けてしまった手で、涙を一生懸命拭っていました。最後は「私と一緒に祈りましょう」と言ったら、一緒に祈ってくれました。そして家族がイエス様を信じることができました。
 初めは牙を剥いて、鼠のような姿で襲いかかってきた女の子も癒されて、神学校まで行きました。神様の力は本当に偉大です。

 占いは人生に痛みを与え、牢に閉じ込め、人生に看守がつくようなことが起こりやすいのです。
 日本の宗教は、ほとんど占いと関わりがあります。神道にしても、仏教にしても、また新興宗教にしても、ほとんど占いと関わりがあります。占いは、神の霊ではなくて悪霊によるものです。そして、人々を閉じ込めてしまう力となるのです。パウロとシラスは身をもって体験させられ、後の時代を生きる私たちに、教えているのではないでしょうか。
 それと共に、パウロとシラスが解放され、看守の一家が救われたのには、街全体規模の霊的戦いがあったことを教えています。

パウロという人物は使徒であり、素晴らしい働きをしましたが、彼のミニストリーのただ中では、完全に霊的戦いを理解していたかどうか分からない部分もあります。
ピリピで起こったことを見ますと、「あんまり霊的戦いなんて、しないほうがいいんじゃないか?」と言う人もいるのです。なぜならば、ここに書かれているように、悪霊を追い出した結果、パウロとシラスは牢屋に入れられ、大変なことになったからです。
 それと共に、パウロはすぐに悪霊を追い出していません。「パウロだって、悪霊だとわかっていながら、すぐに追い出さなかったじゃないですか、だから悪霊を追い出すなんてことはあまり強調されていませんよ」と言う人も多くいます。
 実は、パウロが本当の意味で霊的戦いに目覚めたのは、ローマに行ってからなのです。ローマで書いた手紙の中に、エペソ人への手紙があります。その中で、彼は、力強く霊的戦いについて述べています。
エペソ人への手紙 6章10節から、

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 パウロが、エペソ人への手紙を書いたのは、紀元60年代です。このピリピという町に行ったのは、紀元50年くらいですので、大体10年ぐらいの開きがあります。10年後、彼は一つの事に気づかされたのです。ローマで少し時間があって、深く考えながら、自分の人生について振り返った時、神が一つのことを教えたのです。それは、私たちの格闘は血肉に対するものではない、ということです。私たちの信仰生活は霊的戦いそのものなんだ、ということです。彼は聖霊様からはっきりとそれを知らされたのです。
 そして、その内容は、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊との戦い」と言うことでした。
 それは何を意味しているかと言うと、霊的戦いとは、占いの霊というように、一匹、二匹、三匹・・・、というような個々の霊、「そこにいる、あそこにいる」というようなものではなく、「組織的軍団」との戦いだ、ということに気づかされたのです。

 彼が最終的に知らされたのは、霊的戦いが、組織的に攻撃を仕掛けている軍団との戦いだ、ということでした。これが一番大きなことだったと私は思います。
 私たちも霊的戦いについて知らされましたが、それは軍団との戦い、組織との戦いだ、ということでした。それは本当に重要なことです。

 実は、最初、彼らは「占いの霊」を、追い出して大変な目に合ったのですが、「占いの霊」を原語で見ると、「プニウマ・ピュトン」と記されているのです。訳すと「ピュトンの霊」です。それはギリシャ神話の神の名です。
 「ピュトン」というのは、ギリシャ神話の中でどのような位置にあるかと言うと、それは「アポロン」にやっつけられた大蛇です。実は、ピリピという町には、一つの神殿があって、そこには「アポロン」が祭られていました。
 そして、アポロンの神殿には、ユタやイタコのような、占い師たちが揃っていました。その占い師たちは、何の霊で占いをしていたかと言うと、「ピュトンの霊」で占いをやっていたのです。
 実はこの「ピュトンの霊」というのは、「アポロン」の子分だったのです。パウロは、この街の霊的構成員だけを突っついたのです。しかし、最終的には親分の「アポロン」との戦いが残っていました。それが、町を支配していた首領だったのです。彼らはそのことについて気づいていなかったかもしれませんが、そこまで前進させられました。
 彼らが牢屋に入れられた時に、夜中に寝れなかったのでしょう。彼らは祈りつつ、賛美をしました。
 祈りつつ賛美をしていた時地震が起こって、牢屋がぶっつぶれ、手かせ足かせの鎖が落ちて牢から出ることが出来ました。
 彼らが夜中に賛美し、祈っていた、というのは大きな霊的な戦いだったのです。これは前にもお話ししましたが、詩篇149篇の預言の成就でもありました。
詩篇 149篇5〜9節、

聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。

 実は、このパウロとシラスは、「おのれの床の上で、高らかに歌え」とあるように、彼らは牢獄のベッドの上で夜中に賛美をしていたのです。その時、何が起こったのでしょうか。「彼らの口には、神への称賛」とありますが、この「称賛」とは聖書の中で一度しか使われていない言葉で、「最高の賛美」という意味です。それがなされている時に、どんな事が起きたのか。それは、「国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛る」という、敵の中でも最も位の高い首領が破られる、と預言されていたのです。この預言が成就したのです。
 みなさん、いろんな困難なことがあったら、夜、賛美してみてください。「床の上で賛美しろ」とありますが、まさしく彼らは牢獄の床の上で賛美したのです。

 以前にもお話ししましたが、朝起きた時に床の上で与えられる賛美、「床の上の賛美」というのは、敵のボスを縛り上げ、打ち砕くものだ、とお話しさせていただきましたが、朝起きた時に、神が私たちの心の中に与えてくださる賛美をキャッチするのは、家族を救い出す重要な武器になるのです。
 彼らが夜中に賛美をした時、どのような敵が破られたかと言うと、アポロンが破られたはずです。なぜならば、このアポロンとは、「音楽神」です。実は、音楽をもって人々を縛っている音楽神でした。
 アポロンのカーステレオとか、音楽界でも使われていますが、アポロンの下に、占いの悪霊どもの「ピュトン」が連なり、占いによって人々を閉じ込めていたのです。しかし彼らが夜中に賛美した時、なんと音楽神のボスがぶっつぶされて、牢獄が壊れて、彼らは救い出されたばかりか、その街の「看守の家族」が救われたのは、大きな預言的意味を含んでいたのです。
今までは人々を閉じ込める側で働いていた人物と家族がバプテスマを受ける、それは街の解放のシンボルではないでしょうか。
結果的にパウロ一行は、ピリピの街の組織的な敵の力に立ち向かわされたわけです。
 ローマに行ってエペソ人への手紙を書く時に、このピリピでの事件も思い出されたに違いないと思います。聖霊様が、「あの時のことを思い出しなさい。ピュトンから始まったけど、親分はアポロンだったでしょ。それが破られる時、街に救いが来ますよ」と。
家族の救いのためには、街のためのとりなしの祈りが重要です。

 今、私たちは、新城、この地域、国の霊的組織が打ち破られるように祈っています。見えない悪魔とその勢力、悪霊どものが破られるように祈っています。それは街の看守を打ち破る働きです。悪魔が人を閉じ込めているのですが、それらが打ち破られ、人々が牢獄から引き出され、家族が救われるための重要な働きです。

 今週、私たちは東北において奉仕をさせていただきます。これは、愛する家族、また人々が救われるための働きです。そのために必要な情報が、この中に含まれている気がします。
私たちは常に聖霊様の声を聞いて、聖霊様の指示に従って行動すると共に、主が人々の心を開いてくださるように祈り、もう一つは、街を支配している敵の力が打ち砕くことです。その時、街に主の勝利がやってくることを、ここから学ぶことができます。占いなどに、決して心を開かないでください。
 家族が救われるために、このような視点で祈る時、日本に主の勝利が拡大していくに違いないと確信しています。この原則は新城市においても、日本全土においても同じであると信じます。
 家族が救われるように、最後にお祈りしたいと思います。祈ります。

 ハレルヤ、天の父なる神様。御名を崇め、心から感謝します。あなたは愛する家族を救おうと願っておられますから、心から感謝を致します。
 主よ、家族全員を救ってくださいますように。永遠の命を与えてくださいますように。今日は、家族の救いのための原則を学びました。主よ、私たちが常に聖霊様の声を聞いて、歩むことが出来ますように。
 また、主よ、人々の心を開いてくださいますようにお願い致します。
 また街を支配する占いの霊が打ち砕かれ、人々が解放される業を見せてください。主よ、戦いの勇士として、私たちを用いてください。
 今日、こうして礼拝を持つことができ心から感謝します。
 今から聖餐式を行います。この聖餐の式を祝してください。今日は特に、家族の救いのために、祈りつつ、聖餐式を行います。私たちのまだ救われていない、家族、親族の救いを現してくださいますように。
 イエス・キリストの御名により、勝利を宣言して、祈りを御前にお捧げ致します。アーメン。


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