「キリストの体に属する祝福」


2010.9.26(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

コリント人への手紙第一 12章18節〜27節
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日は、みなさんと共に礼拝を守れます事を心から感謝いたします。
 先ほど、信弘先生も語られましたけれども、先週は東北リバイバルミッションがありました。そのためにお祈りしていただき、心から感謝致します。
 この教会は、航空母艦のようで、ミッションのある時には、教会からどっと飛び立って作戦にあたります。しかし、作戦が終わりますと母艦に戻って来ます。このように全員無事に戻ることが出来、共に礼拝が守れますことを心から感謝します。

 東北リバイバルミッションは、昨年の韓国リバイバルミッションの後に主が導いてくださったのですが、そのアイディアを主から頂いた時、もちろん私一人ではなく、実行委員の先生方が皆で祈って決めたのですが、「どのように進めたらいいのかな・・・」という不安がありました。
 東北と言ってもつかみ所がないというか、本当に神がそれを望んでおられるのか、あまりピンとこない部分がありました。
 しかし、働きを進めて行くうちに、これは本当に重要な働きだ、ということがわかりました。それも、韓国リバイバルミッションがあった故に、開かれた扉であることに気づかされました。

 みなさんにお祈りいただき、本大会も大変祝福されたことを、心から感謝します。
 東北は、あまり大きな教会もありませんし、教会はあまり盛んではありません。一教会の礼拝出席人数の平均は10数人だと言われます。ですからミッションを開くにあたっては、いろいろ困難もあり、私も決起大会等で東北を廻らせていただいたのですが、人が集まるのか心配していました。
 しかし、盛岡も仙台も格好がついて、東北にしては大勢の方々が集まってくださいました。特に私は、仙台のほうを心配していました。会場は仙台の街の中ではなくて、名取市という少し離れた場所でしたので、「そんな所には誰も行かないよ」なんていう意見もあり、心配していたのですが、一番多い集会は500人近くの方々が、雨にも関わらず集まって下さいました。そして素晴らしい集会になったことを、心から感謝致します。

 今回私は、写真を撮る時間があまりなかったのですが、私の携帯で撮った写真ですが、少しお見せしたいと思います。午後から報告会と祈りの時、ファミリーコーヒータイムがありますので、是非出席していただきたいと思います。そこでは別の写真を見せしたいと思います。


 このような雰囲気の集会です。賛美も大変恵まれました。

 ロンさんたちも来てくださいました。

 これは、秋分の日の集会でした。一番人数が多い時間でした。私がメッセージをさせていただきました。
 このような形で皆さんのお祈りに支えられ、ミッションを終えることができ、心から感謝します。
 現地に応援に来てくださった兄弟姉妹もおられ、本当に心から感謝します。また、こちらで祈り、支えてくださった兄弟姉妹にも、高い所からですが、お礼を申し上げます。
 これは、キリストの体に属する祝福であり、勝利であると感じました。今回は、キリストの体の一致、協力により勝利を勝ち取れたと強く感じました。

 実は、いつもリバイバルミッションを行う時に、神様から御言葉を頂いて始めるのですが、今回、これと言って掲げる御言葉がありませんでした。
 リバイバルミッションは、私も含め、4人の先生方が中心となってやっているんですが、甲子園ミッションから18年間、この4人もおもしろいコンビでして、よくも18年もやってきたな、という感じです。けれども、楽しくやっています。それぞれに特徴があって、それで一つになっていると思います。
 リバイバルミッションニュースを読んでいただきますと、巻頭言なんか先生方の特徴がよく出ています。
 うちの親父が巻頭言を書くと、だいたい日本昔話風になりまして、「私には子供が7人、孫が20人、ひ孫が10人、50人になりました」みたいな感じです。それも、ほんわかしていていいです。
 また、有賀先生になりますと、「神の絶対的・主権的…」というような、「おじさんは何を言いたいのでしょうか?」というような堅い感じがします。でもちょっと固いところがないと、柔らかだけではうまくいきません。今回、有賀先生はたいへんテンションが高かったです。血圧も高いのに、そんなにテンション高くして大丈夫かな、と思うくらい、先生は東北、福島県出身で思い入れがあり、のっけからすごかったです。
 また平岡先生の巻頭言は、近頃の世相を蕩々と述べて、福音はどこに行ったの・・・、というような感じですが、最後に世相にからめて福音が述べられます。やはり世相も知らないと、なかなか働きは難しいわけです。
 そして、やはりリバイバルミッションは初めから霊的戦いで導かれていますから、私はそういう視点で巻頭言を書かざるを得ないのです。そこで霊的戦いにはめられているところもありますが、今回は主が何を示して下さるのか分かりませんでした。しかし祈りの中で導かれたのは、ダニエル書でした。
 前にも礼拝で話したことがありますので、思い出していただければと思うのですが、ネブカデネザルという王が見た夢の箇所であり、それをダニエルという預言者が解き明かした箇所です。
ダニエル書2章36〜41節、

これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。あなたはあの金の頭です。あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。

 こんな夢をネブカデネザルという王様は見せられました。

 前にもこの図をお見せしましたが、これはバビロニア帝国に続いて起こる国々の預言でした。世界史を見ると、新バビロニアという国が出てきますが、その次に、メド・ペルシャ帝国が出て来て、バビロンを滅ぼし、次にギリシャ帝国が台頭し、ローマが全てを支配しました。そして今の時代にまで続くわけですけれども、それらは、新しく起こる国々の勢力を現していたわけです。
 一つの国が滅びたら、その国は跡形もなくなってしまうのが普通だと思います。でも、ネブカデネザルの見た夢は、不思議な夢でした。
 やがて滅ぼされてしまうバビロニア帝国が金の頭となって、次に出てくるペルシャを胸とし、次の帝国が腰となり、足の部分になりと、なんと全体で一つの体を形成しているという夢でした。

 本当はこのように、逆になってもいいのではないでしょうか。一番古い帝国は地層の深い所に眠っていて、上に新しい支配がのっかるはずです。
 しかし、現実は逆なのです。
 なんと、最初に地域を支配していた国が、金の頭、すなわち司令塔になるという夢をネブカデネザルは見せられたわけです。これらの国々は、全てイスラエルがかつて支配された帝国であったわけです。これは、我々の考えを塗り替える概念です。

 今回、そんな中から、主が私に導きを与えてくださいました。ダニエル書2章44〜45節、

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

 今回、特にダニエル書2章を示してくださいました。

 日本もこの法則に照らし合わせますと、日本に最初に入ってきて、土地を支配していた人々が持ち込んだ悪しき軍団が司令塔となって、次から次へと侵入する新しい時代が手足となり、私たちを踏みつけているという構図があるということでした。
 そして、東北リバイバルミッションは、ちょうどバビロンが金の頭であったと同じように、日本を支配している金の頭を打ち砕く働きになると言うことでした。それも、「一つの石が人手によらずに切り出されて、その石によって打ち破られた」とありますけれども、東北ミッションが「その時となりますように」というか、「なります!」と断言したいところですが、そのような御言葉を与えてくださいました。
 金の頭のような司令塔が東北にあるから、そのために戦い祈りなさいということでした。
 それで、祈り始めて、いろいろと聖霊に導かれて、歴史的調査をしたら、東北という地が本当に重要なところだということがわかりました。何回も私はセミナーなどをさせていただいたので、詳しくは語りませんが、日本は、考古学者が言うのには、一万年も縄文人と呼ばれる人々が王国を築いていました。南は沖縄から、北は北海道まで、どこに行っても、縄文の遺跡があり、縄文土器と土偶が出て来ます。
 日本では、世界のどの文明よりも長い生活様式が続き、同じ宗教的行事が何千年にも渡って続けられた歴史があります。
 しかし、その後、中国や朝鮮半島から豪族が入って来て、4世紀くらいから日本が新しい支配に置き換えられていきます。一万年とも言われる縄文人たちの国が、弥生人と呼ばれる騎馬民族によって支配されたのです。彼らは縄文人たちを支配し、取り込み、殺して、日本の色がだんだんと塗り替えられていくわけです。
 そして、完全にその支配が完成したのは、そんなに古い話ではなく、明治維新以後だと言うのです。
 明治維新に戊辰戦争という戦いがありました。最終的な戦いは、西と東、東北との戦いでした。最後に函館の戦いで官軍が勝ったことにより、蝦夷が北海道に変えられ、琉球が沖縄となり、日本は今のようなサイズとなりました。
 それは4世紀頃から始まった、朝廷支配のある意味での完成でした。それはそんなに古い話ではなく、つい最近であるのです。
 日本の霊的金の頭がどこにあるかと言うと、最初に列島に入ってきた人たちが持ち込んだ霊的存在です。長い間、この列島で行なわれて来た土偶礼拝が金の頭であって、その後入ってきた勢力は、征服者に見えるのですが、手足のように使われて動かされているのです。金の頭が打ち破られないと、いくら日本のリバイバルのために祈っても、霊的戦いをやっても、ちょうど表層の草を刈るようなもので、一回刈っても、また生えてくるような状況です。なにしろ、霊的巨人の頭を打ち破らないといけない、と主から教えられました。
 まさに、昨年、韓国リバイバルミッションがあって、そちらの戦いに勝利したので蓋があいて、中から最も強力な司令塔が、もぐらたたきのように出てきた印象でした。
 特に、アラハバキに代表されるような、土偶礼拝が何千年にも渡って日本列島において営まれてきました。けれども、それらは全く隠されてしまっています。昔、日本で縄文人と大陸系の人々の戦いがあったなんて、ほとんど意識をしません。しかし、東北に行きますと、その事に関して気づかされるのです。
 今回、私は岩手県のある場所にとりなしに行きました。ちょっとその場所の写真をお見せしたいと思います。

 ここは「胆沢城」という呼ばれる場所です。広い場所ですが、ここでは、8世紀にアテルイとモレという、縄文の首長が率いる軍隊と、坂上田村麻呂の勢力が激突して、多くの縄文人たちが死にました。その時から、縄文人たちは力を失い、弥生系の支配が広がったと言われます。
 今回、私は、この場所にも行って、とりなしをしましたが、私たちがあまり気づかない歴史が日本にはあるのです。
 ダニエル書10章を見ると、一つ一つの国には、背後に悪霊の軍隊が対応していて、一つの支配が表面的には一掃されるように見えるけれど、以前支配していた霊的軍隊と、次の支配者によってもたらされる霊的軍隊はドッキングして、さらに地域の束縛が強められることを知りました。なにしろ東北リバイバルミッションは、規模はともかく、日本のリバイバルのために、金の頭を打ち破る働きになったら、と思っていました。いろいろと東北の決起大会、とりなしの祈りをさせていただいたんですが、そのように主が導いてくださいました。私は今回、悪魔の司令塔が打ち砕かれたと信じています。これからは、その結果が教会に現されるのではないかと期待してます。

 実は、悪魔は、いつも神様のやり方を模倣して利用します。神の持っておられる原則を拝借して自分に置き換えるのです。先ほどもダニエルが解き明かした像を見せましたけれども、頭があって、体があって、足があるような、あの大きな体は、本来はキリストの体の模倣です。
 第一コリント12章27節、

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 悪魔は「キリストのからだ」が機能しないように、悪霊どもを動員して自らの体を建て上げ、キリストの体に挑戦しているのではないかと思います。
 しかし、キリストの体の中に与えられた知恵によって、悪魔の策略が見破られ、打ち砕かれるならば、キリストの体が建て上げられるのです。
 それは、一つの石、人手によらずに切り出された石によって起こるのです。これは、イエス・キリストであり、神の国の拡大、すなわち、霊的戦いです。人手によらずに切り出された石は全土に拡大すると聖書は告げています。

 かつて、イエス・キリストを信じる前は、キリストの体に属するのではなく、悪魔の帝国の手足に属し、その手先として使われていました。
 しかし、イエス・キリストを信じることによって、悪魔の支配から切り離されて、今度はキリストの体に属するようになりました。それが聖書の教えているところです。我々がキリストの体に属するのは、本当に大きな意味と祝福であることを、今日は、学んでいきたいと思います。
 しかし悪魔はそれを止めるために、なんとか、人々がキリストの体に属さないように対抗しています。悪魔が頭となり、その配下に人々を組み込む偽物の体を国々に置いているのではないかと思います。
 しかし、サタンの策略が見抜かれる時、今度はキリストの体が建て上げられて行くのです。

 今日、読んでいただきました第一コリント人12章のところを見ていただきますと、素晴らしい世界観を私たちに提示しています。私は日本の学校教育の中で、この箇所を教えたら日本は変わると信じています。この価値観を国民が学んだら、きっとこの国は大きく変わるに違いありません。
 コリント人への手紙第一 12章18〜27節、

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 今の時代、このような世界観は、ほとんどないと思います。「お互いがお互いを必要とする」とか、「弱くみえる器官が大切だ」ということは、なかなか教えてもらえないのです。
 世の中は、強者の論理と言いますか、悪い言葉で言えば、生き残りゲームのような世界ではないでしょうか。いつも人は競争の世界に生きていて、「強いものに価値がある。弱いものには価値がない」という世界に私たちは身を置いています。それ故に、いろんな問題が満ちているのではないかと思います。
 でも、私たちがクリスチャンになり、教会に来始めると、今まで持っていた世界観が転換させられます。この世の世界観から、神の国の視点へと変えられていくのです。その中に、人生の祝福が備わっているのです。
 いくら教会に来ても、この世の価値観や世界観を元にして御言葉を学んでみても、いい方向には向かって行きません。それはただ、聖書を利用することになってしまうからです。
 やはり、クリスチャンになって、一番大切なことは、もちろん聖書の御言葉ですが、御言葉を運用するための価値観が、さらに重要だと思います。そんな中、このキリストの体に属するという、コリント人への手紙第一の12章の記述は、たいへん重要であると思います。「弱く見えるような器官がかえってなくてはならないもの」と告げています。
 第一コリント人への手紙 12章23節、

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになります

 この頃の人々は、見えるところに大きな価値を置いているのがわかります。デパートなんかに行きますと、どうでしょうか?女性の方々は洋服売り場の階は目が輝くのではないでしょうか。新しいファッションの服が、所狭しと並べてあります。私もたまにはそういう所に行くのですが、本当にいろいろなものがあります。それが別に悪いわけではないのですが、案外、今の時代は、見かけを飾ることに全精力を傾けている時代です。そのような価値観の世界であるわけです。知らないうちに、私たちは、見かけがよければそれでいいと言う、見かけが最も大切だという価値観に置き換えられてしまいます。
 そうなると聖書の、「最も大切なこと」の順位が低くなり、神の原理・原則が人生の中に適応されないのです。
 聖書は、もちろん見かけを否定しているわけではありません。しかしそれよりも、見えないところが重要だと教えています。
 それを体になぞらえています。体でも見える部分は、ごく表面であって生きるために重要な器官は、内側に隠されているわけです。自分の体の中なんて、ほとんど見る機会はないと思います。
 自分の心臓、胃、腸、肝臓など、一度も見た事がないのですが、それらはちゃんと機能しています。どんなに表面的にはみすぼらしくても、内側さえ丈夫なら、私たちは生きることが出来ます。しかし、私たちの住んでいる世界は、見える部分が重要だという価値観を常に提示しますから、知らないうちに毒されていくのです。
 けれども、神の国においては、目立たない所が重要なんだ、と教えています。

 教会は、どこが一番重要かというと、もちろん全て無駄はありませんが、一番重要な所は、目立たない所だと言うのです。人の目に映らないような、目に止まらない所に、重要な鍵があるのです。ちょっと弱く見えるような器官が、大変重要な器官であるのです。
 教会には、いろんな所から、いろんな背景から、脈略なく人が集められるのですが、実は、それは神がキリストの体を建て上げるために、全世界を見渡して一人一人を選んでおられるのです。それぞれの街にある教会は、神の側で計画があって、それに必要な人材を選んで組み立てておられるのです。

 今回、東北リバイバルミッションに私も参加したのですが、心から感謝しました。なぜならば、新城教会の若い兄弟姉妹やスタッフたちが、見える所、見えない所で一生懸命働いてくれたからです。ミッションも甲子園ミッションから始まって18年にもなりますから、どんな素人でも18年もやってきますと、プロになってきます。今では音響も映像も照明も、運営から何から何まで、全て自前で出来るようになりました。普通はすごくお金がかかることを、新城教会の兄弟姉妹を中心にきびきびと動き、プロ顔負け、いや、それ以上のシステムを構築できるのです。
 ミッション時には、多くの機材をトラックに積んで、現地にすっ飛んで行きます。それらをセッティングして、全て運営に関わることも、経済的なことも与えられた能力を生かして、一つの働きが完成するのです。
 私はそんな中で、人前に立ってお話をさせていただく、少し目立つ部分なのですが、ある意味において、見える場所にはあまり価値がないのです。それ以上に、見えない場所で主に、忠実に仕えている方々によって、働きは支えられているのです。
 私たちが外に出て戦っている間、この教会において、多くの方々がとりなしの祈りをして下さっています。その祈りによって、私も元気に働くことができます。

 私もちょっと、忙しいところがありまして、私は年末にかけて、韓国で3回奉仕があり、アメリカでの奉仕もありまして、この頃海外ばかり行ってる、と言われるのですが、韓国リバイバルミッションの後から、海外での奉仕が多くなりました。しかし、私がいろいろな場所で戦う時に、みなさんが祈ってくださることによって、私は最前線で元気に働くことができます。
 今週のためにも祈っていただきたいのですが、明日から木曜日まで、釜山で一日2、3回集会があります。ですから、10回くらい連続でメッセージをしなければなりません。一回のメッセージが2時間くらいで、毎回違うことを連続で話すのは、結構負担です。あまりシリアスに考えるとうまく出来ません。会衆を見てから、出任せで語るのが一番うまくいくようです。うちの家内が、「あんたはデマカセで話すのが一番うまい」とよく言うのですが、みなさんが祈っててくださると、デマカセがハマるのです。
 今週は、東北リバイバルミッションで勝ち取った勝利と共に働けることを感謝します。特に、今回は釜山という、日本に今のような支配を持ち込んだ、かつてカヤという国があったただ中で集会をやりますので、きっとパワフルな集会になるに違いないのです。私もわくわくしています。
 しかし是非とも祈っていただきたいと思います。また、来週の日曜日はその結果を報告できると思います。みなさんがとりなしてくださると、きっと素晴らしい集会になると思います。

 キリストの体の中で、不必要な部分はどこにもないのです。今日、みなさんの中で、「私なんか、生きていても何の価値もない。私なんか不必要な人間だ」と言われる人がいたら、その考えは捨ててください。不必要な人は一人もいません。
 「なんで不必要だと思うの?」と言うと、「私みたいに弱い人間は生きていたってしょうがない」とよく言うのです。しかし弱い方、おめでとうございます。あなたが最も重要な器官です。

 イエス様の前においては、私たちは皆、重要なポジションに属しているのです。見える器官、見えない器官、それらがお互いに補完しあって、一つのものが完成すると聖書は語っています。
 コリント人への手紙第一 12章24〜27節、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 教会に起こる事柄は、全てキリストの体全体に関わりがあるのです。今日、週報を見ますと、病気の方々もおられますし、いろいろ問題を抱えておられる方々もおられます。また、お腹に赤ちゃんを宿しているお母さんもおられます。これらは、全て、キリストの体全体の苦しみであり、喜びなのです。
 またそれを認識する時に、キリストを頭として、私たちの肢体が自由に動いて、敵の力を打ち破り、神の国は前進するのです。
 「教会に来ている人たちは、たまたま出会っただけで、互いに何の関係もない」と言わないで下さい。皆、キリストの体に属する者たちなんだ、と意識すると、頭から指令が出て、手足が動くのです。教会の中で、病気で苦しんでいたり、問題で苦しんでいる方々を見たら、それを自分の問題として扱い祈ることが勝利の秘訣です。
 また、教会喜びは、キリストの体の喜びとして受け取ることが重要であると教えています。
 教会の中に起こる事柄は、キリストの体に属することであると理解することが大変重要です。

 人間の体の各器官には、全てそれぞれ役割があります。その器官しか出来ない、その器官しか補うことが出来ない役割があります。
 例えば、食べ物を口に入れる場合、冷蔵庫に行き、一つの食品に手を出して、口の中に持っていくだけで、かなりの数のセンサーが働いています。
 まず冷蔵庫を開けます。一つの食品に目が止まります。「あっ、これ食べたい!」まずは目視して、腐っているかいないかを確かめ、大丈夫そうならば手を伸ばします。また、掴んだ時の感触でも状態がわかります。口に持ってくると、今度は鼻のセンサーが動きます。「ちょっとこれは変な匂いがするぞ・・・」と、そこでまた判別します。
 そして、口の中に放り込むと、今度は舌が味に異常がないかをチェックします。それでも問題がなければ飲み込むのです。ちょっとでも悪ければ、チェック機能が働いて途中でストップするのです。さらに、食べ物を飲み込んでからでも、胃は胃の役割があり、腸は腸の役割があります。その他、全ての器官が総動員されて、エネルギーに変え、生きる力としているわけです。

 教会も同じように、見える部分と見えない部分がありますが、それぞれに重要な役割があるのです。人間の体、一つでも機能がかけたら生きていくことができません。
 先週、私は東北リバイバルミッションに行って、一週間、弁当を食べ続けました。リバイバルミッションの恒例の行事は、食事が全て弁当ということです。「ベントー」という言葉が流行って、ピアスも、最初に覚えた日本語は「ベントー」かもしれません。No More Bento!!! (ノー・モア・ベントー!!) と言いたいです。
 私が弁当を食べていると、なにかカチャっと固い物に当たりました。変な物が入っているな、と思ったら、歯にかぶせてあるものが取れてしまったのです。人と話しながら食べている途中に取れてしまったので、分からないようにはき出したのですが、かぶせものの高さは、ほんの0.数ミリです。しかし口の中の高さが少し低くなっただけで、よく噛む事が出来なくなりました。いつも左側で噛まなければならなくなりました。それで食べるのが急に楽しくなくなってしまいました。人間は、歯の高さが0.数ミリ違うだけで、こんなに苦しくなるのかと思いました。
 私は取れたものをポケットの中に入れて家に帰って来て、すぐに歯医者に行って修理してもらいました。
 ちょっとしたことが、すごい大きな影響でした。歯を直さないと、明日からの韓国料理がまずいです。これで万全の用意ができたので、明日からキムチをたくさん食べて来ます。本当にちょっとしたことが、全てに影響を与えます。
 キリストの体も同じで、神は一人一人に優れた賜物を与えてくださっています。
 第一コリント人への手紙 12章4〜11節、

さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

 実は、「私なんか、なんの賜物もありません」と言う人がいますけれども、それは間違いです。神からの能力がなかったら、神が人をこの地上に造ることはなかったのです。御霊の賜物が与えられているが故に、この地上に私たちを造ってくださったのです。
 ですから、ここにおられる方で、神様からの賜物、すなわち、「神から一方的に与えられた霊的能力」がない人は、一人もいません。特に、クリスチャンの中で、御霊の賜物がない人は誰一人いないのです。皆に備わっているのです。私にもありますし、みなさんにもあります。みなさんの賜物が私を生かし、私の賜物がみなさんを生かすという、巧みな一致がそこにあります。
 第一コリント人への手紙 12章8〜11節、

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 ここで述べられているように、御霊の賜物が体の中に備わっています。ある人には知恵の言葉、ある人には知識の言葉。知恵の言葉と知識の言葉がどのように違うのか、似たようなものに見えるかもしれませんが、やはり区別されています。また信仰、いやし、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力、そのようなものが、皆に備わっているというのです。
 「そんな賜物が私にあるなんて、絶対に信じられない」という人たちがほとんどかもしれません。でも、これは聖書が告げていることであります。キリストの体の中に、ちゃんと備わっているというのですから、必ずそれは、備わっているのです。
 そして、それが機能すると、ここにあるような奇跡だとか癒しだとか、目に見えるしるしが出てくるのです。でもこの賜物が、どのように扱われているかと言うと、「キリストの体の各器官」として位置づけられ、扱われているとことは非常に重要です。単体では扱われておらず、「体全体の機能」として扱われています。

 私たちは特定の賜物に目を向け、それが与えられるようにと祈ったりすることがありますが、実はこのような機能は、体全体に組み込まれている機能だと言うのです。ある時には、それは全く気づかないのかもしれません。しかし、正常に機能しているが故に、気づかない、ということが多いのかもしれません。
 みなさん、心臓が右にあるのか左にあるのかご存知ですか?私はどっちにあるか、はっきりとわかりません。左なのかな?右なのかな?という感じです。
 正常に機能していたら、右なのか左なのかわからないと思います。今日、「胃袋がどこにあるかわかりますか?」と聞いて分かる人は、胃が少し悪い人です。
 胃が正常に機能していたら、どこにあるのか、胃がどこまでで、腸がどこまでか専門家でないとわからないと思います。でも、ちゃんと機能しています。腎臓がどこにあるのか、と聞かれても全然わかりません。でも、ちゃんと機能しているが故におしっこが出ます。
 御霊の賜物も、同じようだと思います。教会にはちゃんと与えられているのです。それがキリストの体に組み合わさっていると、それがどういう風に機能しているのかはわからないけど、実はその現れが教会の中に、証拠として現れてきます。
 このキリストの体の機能は、偉大なものです。なぜならば、それは、イエス様が頭で、頭なるイエス様が私たちに司令を出して、その結果が現されるからです。私たちがキリストの体に属することを意識し、その中で賜物が用いられるように、と祈らなければならないのです。
 そんな時に、神の大いなる奇跡を、教会の中に、また日本に見ることができると私は信じています。

 特に重要な、総合的な賜物は何かというと、それはやはりイエス様の今現在行われている仕事、イエス様の存在そのものに関わってくると思います。
 ローマ人への手紙 8章34節、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

また、ローマ人への手紙 8章26節、

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 イエス様も聖霊様も、その働きの中心は、「とりなしの祈り」です。ということは、キリストの体に備えられている賜物が総合して出てくるのは、一言で言えば、とりなしの祈りかもしれません。
 今までこの教会が支えられてきたのも、一人一人に与えられた賜物を総合して、引き出されてきた「とりなしの祈り」にあるのではないかと思います。
 私たちはどんな賜物が与えられているか気づかないかもしれません。それは、知識の言葉なのか、知恵の言葉なのか、また預言なのか、信仰なのか、いやしなのか分からないけれど、それらの器官が総動員されて、「とりなしの祈り」が与えられるように、祈っていただきたいと思います。
 「この事柄に関して、ピンポイントで祈りなさい」と、主から課題を受け取って祈る時に、大きな勝利をもたらします。なぜならば、主が祈りなさい、と言われる事柄は、御心の祈りだからです。御心の祈りは、既に聞かれた祈りですから、勝利が現されるのです。

 今週は、キリストの体に属していることを意識しながら、「私は何を祈ったらいいですか?そのことに関して語ってください」と祈ってみてください。きっと、思いもよらない祈りの課題を受け取ることになるからです。
 私も、とりなしの祈りを神様から与えられたことによって、いろいろな困難な領域を、打ち破ることが出来ました。それを何度も何度も体験しています。
 このピンポイントの祈りがなかったら、この問題は絶対に解決しなかっただろう、ということを毎週のように経験しています。私たちがピンポイントで祈りを受け取る事が出来るか否かによって、神の国は開かれもするし、後退もするような側面があるのではないかと思います。
 それは、キリストの体の中に任されている使命ですから、神から与えられる情報を総合して、主が与えた祈りのテーマを祈らなければならないのです。

 ヨハネの福音書に大変重要なとりなしの祈りのタイミングが教えられています。
ヨハネの福音書 4章19〜23節、

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 19世紀に活躍した、神の器である祈りの人、アンドリュー・マーレーが「ここには三つの祈りのクラスがある」と言いました。
 一つは、偶像に対する間違った対象への祈りです。当時サマリヤの人たちはゲリジム山で、偶像礼拝をしていました。日本人は祈り深い民族だと思いますが、ほとんどの祈りが偶像に対する祈りです。
 もう一つは、ユダヤ教的祈りだそうです。それは、知識的、習慣的な祈りです。彼らは、聖書知識を多く持っていましたが、彼らの祈りはただ習慣的な祈りだったのです。
 しかし、イエス様が教えたかったのは、聖霊による、「本物の祈り」でした。それを主は教えたかった、と彼は語っています。
 サマリヤの女がイエス様と出会った時期はどんな時期であったかと言うと、「真昼に水を汲みに来た」時に、イエス様が井戸の側に腰掛けておられました。その時、イエス様は女に「水を飲ましてください」と言いました。そして、その後、「生ける水」に関して語られました。その時に、イエス様がこう語られました。
 ヨハネの福音書 12章24節、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。

 実は、このサマリヤの女の質問は、「どの祈りが本物の祈りですか?」という質問でした。「あのゲリジム山という、サマリヤの人たちの祈りが本物ですか?それとも、ユダヤ人のように、エルサレムで祈るのが本物なのですか?」と問いかけたところ、イエス様の答えは、「霊と誠を持って礼拝しなさい」と告げて、「今がその時です」と語られたのです。
 実は、これがある意味で、とりなしの祈り、それも、聖霊によるとりなしの基本ではないかと思います。私たちが常に、霊と誠によって、聖霊によって祈りの課題を受け取ると、タイムリーにキリストの体が機能するのです。それは聖霊によってタイミングを掴んだ祈りが重要なのです。
 そして、イエス様は「今がその時だ」と言われました。なんと、イエス様がこの女と出会った時刻は、お昼頃でした。
 イエス様とその女はいろいろと会話をしましたから、たぶん12時過ぎて、一時くらいかもしれません。このイスラエルにおいて、12時、1時、というのは、一日の内一番暑い時間です。
 その時間は何をするかと言うと、みんな家に帰って昼寝をするのです。家に帰り、昼食を食べて寝るのです。日本には昼寝の習慣がありませんが、南米に行くとシエスタと言って、昼寝の習慣があります。アルゼンチンなんかに行きますとお昼ご飯を食べた後、お店がシャッターを降ろし、みんな夕方まで昼寝をします。私にはシエスタなんて必要ないので、アルゼンチンに行ったとき、何をしていいのか退屈でした。
 
 お昼はみんな眠る時なのです。しかし、イエス様は言われました。「霊と誠の祈りというのは、今がその時です」と。
 結構、私たちは、「この時間は寝る時間だ、この時はこういうことをする時間だ、イエス様の働きとは別だ、教会に来た時だけが神との関係が構築されて、他の時間はあまり関係ない」と思うのですが、とりなしの祈りが与えられるのは、「昼寝の時刻、今日はお休み」とか、「宗教的行事はありません」というようなただ中に、主は聖霊によってとりなしの祈りを放り込んでくださるのです。キリストの体が「今がその時」を受け取る時に、勝利が来るということではないでしょうか。

 今まで新城教会に起こったいろんな奇跡を見ても、その中で与えられたとりなしの祈りは、何気ない仕事をしている最中に、また学校において、また普段の生活のただ中で、主が戦いのためのヒントを与えています。
 みなさん、今週、何をしていても、「今がその時です!」と主は語られます。弁当を食べている最中でも、主が語ってくださったら、主が語ってくださった祈りの課題をを祈っていただきたいと思います。
 キリストを頭にして、私たちがその体に繋がる時、必ず結果が出ます。実を結ぶというのが聖書の教えです。
 ヨハネの福音書 15章5節、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 これはイエス様が語られた言葉であります。キリストの体を現しています。一つ写真をお見せしたいと思います。

 おいしそうなぶどうですね。この実はなぜ結ばれたかと言うと、後ろにある弦に、ぶどうがくっついているからです。あの弦がまた枝に繋がって根に結ばれているからです。
 みなさん、ぶどうの木が苦労して実を結ぶ姿を見た事がありますか?夜中にぶどうが苦労してうーーんとうなりながら実を結ぶ姿など、見たことはありません。枝にくっついていたら自然と実を結ぶのです。
 教会も同じです。イエス様を頭として、一人一人、与えられた賜物が一つとなってイエス様にくっついていれば、自然に実は結ばれるものなのです。

 今週は、「私はキリストの体に属している」ことを意識をして、「賜物を感謝します」と感謝し、それがどんなものか気づかないのかもしれませんけど、それはちゃんと機能しています。
 そして、他の人たちの機能も正常であるならば、必ず実は結ばれます。今週は、多くの実を結ぶ、そんな週となりたいと思います。
 東北リバイバルミッションで、悪魔がこの国においた悪魔の体が打ち破られ、今度はイエス様を頭としたキリストの体が動きだしますよ、何か預言的に語られているような気がしています。
 まだ教会の中で癒されないで苦しんでいる方、問題が解決しないで苦しんでいる方、それはお互いの苦しみです。しかし、それが今度は勝利に変わるのは、一人一人に与えられた賜物を総合する時なのです。

 今週は主が備えてくださった祈りをタイムリーに受け取って、キリストの体の中で祈りを受け取って、主の勝利を宣言する週になるように願っています。
 最後に一言お祈りして終わりにさせていただきたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝をいたします。あなたが私たちをこの地上に創造してくださったことを心から感謝します。
私たちには御霊の賜物が用意されていることを心から感謝を致します。
一人一人に主からの賜物があり、役目があることを感謝します。
今日は、教会に与えられた全ての御霊の賜物を結集させてください。
主よ、実を結ぶことが出来ますように。今週は豊かな実を結ぶ週となりますように。
今まで、押しても引いても動かなかったような問題が動き始める、そんな週となりますように。
どのように戦っても勝てなかった敵に対して、勝利する週となりますように。
 あなたは、東北リバイバルミッションで、敵の頭を砕いてくださいました。今度はキリストの体が建て上げられる番ですから心から感謝します。そのような中で、主が勝利を拡大してくださいますように。
 今から聖餐式を行いますけれども、主がこの聖餐式を祝福してください。キリストの体に属していることを確認する時ですから、心から感謝します。
 どうか、一人一人に与えられている賜物を、体の中で組み合わせて用いてくださいますように。
 イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。


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