「主のいやしを受け取ろう!」


2010.10.3(SUN)
新城教会牧師 滝元 順 師

出エジプト記 15章22節〜26節
モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 ハレルヤ!おはようございます。今日はみなさんと共に礼拝が守れますことを、心から感謝しています。
 万年先生の賛美、良かったですね。万年先生は、私の弟みたいです。一緒に並んだらそう見えませんか?ツインのようです。
 今日、こうして万年先生に来ていただいて、一緒に奉仕できることを感謝しています。よくリバイバルミッションの決起大会などで、一緒に全国を廻ったりしたこともあるのですが、今日は来ていただけたことを本当に嬉しく思っています。
 また、教会に初めて来てくださった方々もおられるかと思われます。今日は大変楽しい一日ですから、ごゆっくりしていただきたいと思います。

 今日のメッセージのタイトルは「主のいやしを受け取ろう!」というタイトルです。
 今、読んだ聖書の御言葉は、大変すばらしい御言葉ですので、是非覚えて帰っていただきたいと思います。特に二十六節をみなさんでご一緒に読みたいと思います。
出エジプト記 15章26節、

そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 最後に、「わたしは主、あなたをいやす者である」と記されています。これは主が現実に語られた言葉ですから、自分に対して語られている言葉として、みなさんでもう一度読んでみましょう。「わたしは主、あなたをいやす者である。」
 今日、主が、このみ言葉を語ってくださっていると信じるなら、主が触れてくださりいやしが与えられるのです。
 教会に来ますと、霊的にも、魂も、また肉体も癒されるのです。是非いやしを受けて帰っていただきたいと思っています。

 先週は、みなさんに祈っていただきまして、韓国の釜山で4日間の奉仕をさせていただきました。とりなしの祈りをしてくださいと要請しましたけれども、本当によく祈ってくださったみたいですね。素晴らしい集会を持つ事ができました。
 少し写真を見せたいと思います。

 釜山という街は、日本に一番近い韓国の街で、こんな港町です。日帝時代はこの辺は日本人が大勢住んでいたようです。昔は神社が建っていたり、日本に対してはあまり良い感情がないような場所です。なぜならば、ここから日本が入ってきたからです。しかし今では福音が伝えられ、教会がたくさん建てられています。私は釜山の、ある教会で奉仕をさせて頂きました。

 これが教会の写真です。永楽教会と言う歴史のある教会です。韓国に永楽教会はいくつかあるのですが、釜山の永楽教会の牧師は聖霊に満たされている牧師です。
 教会の形を見ただけでは「固そうだな」と感じますが、ここで4日間の集会をしました。すごく恵まれました。

 教会員が五千人います。一度に、会堂には千人くらいしか入れません。


 これは、永楽教会の支部教会です。そこでは「いやしと解放の集会」が行われました。ヤンサンという場所で、そんなに大きい教会ではないのですが、それでも四、五百人の人たちが集まっていました。


 今回は特に「いやし」というテーマで集会を導いてくださいと言われ、奉仕させていただいたのですが、本当に素晴らしい集会でした。
 「新城でとりなして祈ってくれているな〜」ということを強く感じながら、私も元気いっぱい奉仕させていただきました。
 朝一回、夜一回の集会があったのですが、だいたい集会が2時間半から3時間です。その後、個人的な解放の祈りの時間があって、教会員は五千人ですので、どういう選定をしているのか知りませんけれども、各集会、150名くらいの人が「祈りのカード」を持っていまして、祈って欲しい課題などをいろいろとカードに記して持っているのです。
 先日、私は他の教会で集会をやった時、そのようなカードを書いてもらうと簡単に祈れるので作ったのですが、既にその情報が伝わって、この教会もカードに記入して、人々が並んでいました。毎回150人ぐらいずつお祈りしました。祈り終えるまでに、3時間くらいかかりますから、終わるのが夜中の12時ちょっと前でした。
 焼き肉を食べさせてもらった事もあるかもしれませんが、本当に元気に奉仕してきました。みなさんのとりなしの祈りを、心より感謝します。
 こういう場所で、私たちが戦うと、結果がどこに現れるかというと、新城に必ず現されます。みなさんも楽しみにしていただきたいと思います。

 私は、以前、プエルトリコという、カリブ海に浮かぶ小さな島にある教会に奉仕を頼まれて、行ったことがあります。そこは本当に偶像が多いところです。カトリックの偶像がいっぱいあります。ある集会が終わると、一人の牧師が私のところに来て、「あなたの話を聞いて、是非とも私の村に来て祈って欲しい」と言うのです。
 彼が伝道している村には、悪霊を拝む山があり、プエルトリコ中から人々が集まって、サタン礼拝をし、魔術が行われたりすると言うのです。
 しかし、その牧師は、その村に入って伝道しなさい、と主から語られたそうです。彼はその村に入って行って伝道したけれど、なかなかうまくいきませんでした。それで大きな伝道集会、村の広場に天幕を張り準備したそうです。すると集会直前に強い風が吹いて、テントがすっ飛ばされてしまったそうです。
 始めはこれは偶然だと思ったそうですが、3回計画して、3回連続で同じ事があったそうです。彼はそれでびびってしまったそうです。悪魔・悪霊なんかいない、と言う人には、その村を紹介しますからぜひ行ってみてください。
 それでその牧師は大きな敗北感を感じていたそうです。そんな中で、私が霊的戦いのメッセージをしたので、「是非うちの村に来て祈ってください」と言われたのです。
 私は嫌とも言えませんので、空いた時間に結構遠かったですけど、その村まで行きました。山奥の、すごい雰囲気のある村でした。
 私はその先生に言いました。「こういう村で戦うためには、人々が集まって悪霊を呼ぶ山に登って祈ったほうがいいですよ。そこで悪霊に立ち向かって祈れば、勝利が来ますよ」と言ったら、彼は言いました。「それはやめたほうがいい!そんな場所に登ったら、大変なことになる!」と言うのです。そして、いろんな理由をつけました。
 「そんなこと言っているからいけないんだよ」と言って、その山に登ろうとしました。すると、その時です。
 山に登ろうかなという時に、足下の木の葉がくるくるっと回って、風が吹いてきて、あっと言う間にバケツをひっくり返したような大雨と大風になりました。
一瞬、ぞっとして、「登るのを止めたほうがいいのかな」と思ったほどでした。こういう時にこそ戦って登らないと駄目だと思って、勇気を出して登りました。
 頂上に着いたら、気持ちの悪いカトリックの聖人やマリアや、変な像がいっぱいあって、そこに動物の生け贄などをささげ、魔術を行う場所でした。私はその一番高い所に登って、こういう時には聖書の中にはなんと書いてあるのか?イエス様は「黙れ!静まれ!」と叫んだら、風も波も止まったとあります。ですから、私は「イエス・キリストの名によって、雨と風よ!村の悪霊どもよ、黙れ沈まれ!」と怒鳴りました。
 何が起こったのでしょうか?何も起こらなかったら、こんな話をするわけもないのですが、その瞬間でした。雨と風がびたっと止まって、厚い雲が裂けて、陽が射してきました。すごい奇跡でした。
 一緒に行った村の牧師は怖くて山に上がらなかったのですが、どこからともなく出てきて、「すごい!すごい!日本人!サムライ!!」とか言って、手をたたきながら出てきました。何を言うんだ、と思いましたが…。大きな勝利でした。

 しかし、その後のストーリーがあるのです。私は日本に帰ってきました。やはり、あのような戦いがあった時は、必ず、何かの領域の悪霊どもに対して勝利している時です。帰国したその日、インターナショナル集会が教育館で行われていました。私はそこに入って行きました。
 すると、一人の男性が「ちょっと私のために祈ってください」と、私を呼び止めました。見た事がない人でした。聞いてみたら、その人は今はこの教会でスタッフをしているイレーネさんの弟だったのです。
 彼はその頃、富山に住んでいましたが、彼の人生はなかなか大変でした。なぜならば、彼には一人の子供がいたのですが、突然その子が癌になって死んでしまったそうです。そして、家族・親族の中に、何人も肺癌で死んだ人がいたというのです。
 そして彼は一年前の定期検診で、肺に影があり、「精密検査をしてください」と言われたそうです。でも、彼は、病院に行かなかったそうです。
 その年にも検診があり、影が大きくなって、「なぜ、病院に行かなかったのですか?すぐに病院に行って精密検査をしてください」と強く言われたそうです。彼は、本当に恐ろしくなったそうです。なぜなら、自分の家族の中で肺癌で死んだ人が多くいたからです。
 新城教会に来た次の日にMRIの検査に行くことになっていたそうです。彼は、自分が肺癌であると確信していたそうです。
 私がプエルトリコから帰ってた日、半ば時差でふらふらしていたのですが、彼のために祈りました。「主よ、どうか、彼の肺癌が癒されますように、敵の力が打ち砕かれますように」と祈りました。祈った場所も覚えていますが、その時、聖霊様が働いてくださり、彼は初めて教会に来たのですが、その場に倒れてしまいました。その後に病院に行ったのです。
 何が起こったのでしょうか?これも、何も起こらなかったら話すはずがないんですが、なんと、肺の影は何もなくなり、完全に癒されていたのです。
 彼は本当に喜んで、初めの写真と良くなった時の写真を病院から借りて来て、私のいない時でしたが、写真を見せに来たと言うのです。彼はそれから後の検診にも、全くひっかかっていないと言うのです。もう何年も、彼は元気にしてます。
 このように、一つの勝利が、次の勝利に繋がるのです。そのことを通して私自身も教えられたし、また、いやしを受け取るために何が必要かということを、学ばさせていただきました。

 イエス様が十字架にかかってよみがえった後、弟子たちを宣教に遣わされました。
マルコの福音書 16章14〜18節、

しかしそれから後になって、イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

 イエス様がよみがえられたことが、噂になっていました。しかし、弟子たちの多くは甦りのイエス様と出会っていなかったので、それを信じられずに、「そんなの嘘じゃないの?」と言っていました。すると、11人の弟子たちが食事をしようと集まった、ただ中に、イエス様が現れました。
 そして、「おまえ達はわたしがよみがえったことを、なぜ信じないんだ?」と、その不信仰を責められました。イエス様は死んだ神ではありません。今も生きておられる神なのです。
 先ほどの万年先生の話ではないですが、「なぜですか?なぜですか?あなたは生きておられますか?」と祈りたくなってしまう時もありますけれども、姿は見えなくても、イエス様は今も生きておられます。
 今日、イエス様が私たちのただ中に現れたら、なんと言われるのでしょうか?やはり同じことを言われると思います。「なぜあなた方は信じないのですか?わたしが生きているという事は、聖書に記されてあるじゃないですか。わたしは生きていますよ」と言われると思います。
 また、「わたしは、あなたをいやすことができますよ、今でも業をすることができますよ」と語ってくださるはずです。ですから、みなさん、生きておられる主を信じましょう。

 万年先生が教会をやっている場所は、日光市と言って、「日光東照宮」があります。その神は誰かと言うと、徳川家康です。徳川家康なんて、何百年も前に死んだ男です。死んだ男を拝んでも、なんのいい事もないのです。
 日本の神々は、全て空想上の神々です。日本神話の神々なんていうのは、誰かが作ったストーリーです。そして、人間も祭られています。
 また、日本人は一生懸命祖先崇拝をしていますけれど、これも死んだ人々です。死を打ち破ることが出来ない人間には、なんの力も何もないのです。
 しかし、イエス様は、今も生きておられます。今日もただ中におられます。目には見えませんけれど、教会のただ中に立っておられます。
 そして、マルコの福音書16章16節、

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 信じることは、難しくはありません。キリスト教っていうのは、難しそうだな〜と、聖書を手渡されると思います。こんなに細かい活字は、はっきり言って見た事がないからです。クリスチャンはこんな本、よく読んでいるな、という感じです。しかし、読むだけの価値がありますから、是非読んでいただきたいと思います。
 けれども、信じるというのは、本当に簡単なことです。イエス様を自分の救い主として信じればいいのです。自分を救ってくれる神だと。日本人は、いくらでも空想上の神々とか、先祖の霊なんかを信じているじゃないですか?だからまずは、良く理解出来なくても、イエス様を自分の救い主として、対象を置き換えればいいのです。それが第一段階です。今まで拝んでいた神々ではなく、「イエス様を救い主」とするのです。
 信じることは簡単です。なぜなら告白が、信じる最少量だからです。「イエス様を信じます!」と口で告白したらいいのです。「口で告白して救われる」とありますから、口で言うことが信じる最小量であり、救いの原点です。
 「信じる」という言葉は、「にんべん」に「言」と書きます。人に言えば信じることになるわけです。「私は信じます」と。「イエス様を信じます」と、告白したら、それだけで信じることになるわけです。漢字は説明に都合がいいです。
 そうしたら私たちは救われるのですが、「信じて、バプテスマを受ける者は救われる」と、「バプテスマ」という言葉が、真ん中に入り込んでいます。というのは、やはりバプテスマを受けるのは、一つの決断が伴って、救いの確立のために重要な要素だということです。
 ですから、教会に来て、「イエス様は救い主」と告白したら、是非とも勇気を出してバプテスマを受けてください。バプテスマは何かと言うと、「水の中に浸かって、五分間息を止めて、我慢して出る」のではなく、瞬間的ですけれど、ほんの一秒くらいですが、水の中に入るだけです。それだけでイエス様の十字架の死と甦りを現しています。それによって、なんとイエス様の甦りの力を共有できるのです。だから、是非とも、バプテスマを受けて下さい。

 ここに、「信じない者は罪に定められます」と書かれています。実は、私たちがイエス・キリストを信じていない期間は、気がついていないのですが、悪魔の支配下にあるのです。
 今、世界中、国を良くしようと一生懸命がんばっていますけれども、国の方向は悪い方向ばかりに行きます。日本においても、韓国においても、アメリカにおいても、本当に悪いほうに向かっています。

 私は今週の木曜日から、またアメリカに行くのですが、3日間イリノイ州のど田舎のアメリカ人教会で「霊的戦いセミナー」を行います。私とジョー先生と一緒にやるのですが、祈っていただきたいと思います。
 そこはど田舎で、見渡すと360度、地平線なのです。どこに人が住んでいるのだろう、というような場所です。そこに住んでいる人は、そこで生まれ、そこで死んでいく人が多いと言っていました。けれども、ど田舎ですが、街は危ないのです。危険です。アメリカの街は、夜なんか危なくて、なかなか外出できません。
 若者たちもドラッグなどで無茶苦茶です。公立学校に子供たちを送れないと言うのです。だから、クリスチャンの家庭はあまり公立学校に子供たちを送っていません。ホームスクーリングと言って、学校に行かせないで自分で教えたり、教会にチャーチスクールがあったりして、公立学校に行かないのです。なぜならば、学校に行くとみんな麻薬なんかを覚えておかしくなるので、親たちが学校に送らないのです。クリスチャンが自分の子供たちを送らないものだから、公立学校はどんどん悪くなるのです。本当に大変なことです。警察官が入り口に立っていて、銃をかまえて警備する所もあるそうです。それは、なぜかと言うと、やはりイエス・キリストを信じない時代、人々の間には、悪魔、悪霊どもが働いていて人々を縛っているからです。
 だからそのまま人生を終えて、死んでしまうとどうなるかと言うと、悪魔の国に行かなくてはならないのです。悪魔と永遠に過ごす国です。本来、裁かれる対象は悪魔、悪霊どもですが、悪魔の奴隷ならば、我々も罪によって滅びてしまうと聖書は警告しています。ですから、イエス・キリストを信じることは、すごく重要なことです。
 マルコの福音書16章17〜18節、

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。

 私たちが、イエス・キリストを信じるならば、なんと病人を癒すことが出来る、そんな働きが出来るのです。教会とは、霊に、魂に、また肉体に病を持った人たちを癒すために神が社会に与えた機能です。教会は与えられたこの機能を、使わなければならないのです。信じたらこの事が起きる。しかし、信じなかったら起きません。聖書の事柄は、信じるか・信じないかに掛かっています。
 教会によっては、「そんなことは信じられませんよ。不思議とかしるし、奇跡は、聖書が書き終わってからは全て終わってしまった。だから、今はそんなことはありません。悪霊だって、もういません」と言う教会も多いのです。
 しかし、そうなるとどうでしょうか?希望はないのです。牧師に、「では、どうしたらいいのですか?」と聞くと、「聖書に書いてあることを、あなたが、ただ忠実に守ったらいいんですよ」と言われます。もちろんそうですけれども、今も生きて働いてくださる神様がいないクリスチャン生活は、辛いのです。
 しかし、主は今も生きていて、信じたらいやしが起きるのです。今日はいやしのために、特別な祈りの時を後で持ちたいと思います。

 先週私は韓国に行き、いやしのために祈らせていただきました。本当に大勢の方々が癒され解放され、自由になりました。
 私は多少疲れましたけれども、でも、人々が悪霊の力から解放され、癒される姿を見るのは、本当に嬉しいことです。
 今週もアメリカ教会と韓国教会を回るのですが、そこでもまた素晴らしい業を見ることが出来ると信じます。

 しかし、私は一人で行くとあんまり、いい働きが出来ないのです。けれども、家内が行くと、何倍も力が出ます。だから、今回も家内が行ってくれます。やはり家内が行って祈るとすごいです。
 私が韓国に行って、誰かのために祈って、祈った時に主が、「この人には、もう少し祈りが必要だ」と語られることがあります。その人の顔を見たりして、「ちょっと俺の祈りだけじゃ不十分で駄目だな・・・」という時には、家内やスタッフを呼んで「この人のために祈ってあげて」と託して次の人を祈りに行くのです。
 先週も家内が韓国に行ってくれたのですが、家内が祈ると悪霊は出るは、病は癒されるは、すごかったですよ。「あのおばちゃんって誰!」と言う感じでした。パワフルでした。一人では無理だけど、やはりチームはすごく重要です。特に、夫婦は大事です。

 先日も、この教会で素晴らしい奇跡が起こりました。Sさんは、体の4分の3は死んでいました。瞳孔は開いて、呼吸は止まって、心臓も一回止まりました。これは手の施しようがないと言われました。
 しかし、みんなで奇跡を祈りました。教会でも祈ったし、私は病室にも行って祈らせていただきました。本当に主は奇跡を行ってくださって、彼はこの頃では、東名高速道路をすっ飛ばして教会に来ています。
 本当に神の奇跡は今でも起こります。ここに書かれている事柄は、信じる時に起きる事柄ですが、聖書に書かれている事柄は、書かれている順序も、重要だと思います。ここで、「病人に手を置けば病人は癒されます」に到達するまでに、何が記されているのでしょうか?

 マルコの福音書16章17〜18節、「わたしの名によって悪霊を追い出し」、「新しいことばを語り」、「蛇をもつかみ」、「たとい毒を飲んでも決して害を受けず」とあり、そして、最後に、「病人に手を置けば病人はいやされます」とあります。これはいやしを受け取るための手順です。こういう順序で祈りなさい、この手順を辿ったら癒されるということを現しているのだと思います。

 最初は何かと言うと、「わたしの名によって悪霊を追い出せ」とあります。
 先ほども、最初に話しましたけれども、この世には神様も働いていますが、悪魔、悪霊どもも盛んに働いています。この働きを止めない限り、神の恵みを受け取ろうとしても、なかなか受け取ることが出来ません。まずは、悪霊を追い出すということが必要です。
 しかし、「悪霊を追い出す」とは、どういう意味でしようか。それはただ単に、あそこに1匹、ここに1匹、と言うような、単体で動いているような悪霊ではなく、実は組織的な軍団なのです。組織的な悪魔の軍団を、打ち砕かなければならないのです。
 パウロも最終的に気づかされたのが、エペソの6章で、「主権、力、この暗闇の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊どもの戦いだ」という、組織的霊的戦いに気づかされたのです。
 彼は、宣教のただ中で、すでに霊的戦いをしていました。占いの霊を追い出したり、悪霊を追い出したりしていました。しかし、その後に問題が起こったりして、彼は「どうしてかな?」と考えたと思います。
 しかしエペソ人への手紙に書かれたのは、彼がローマに行って、牢屋に入っていた時、彼の晩年だったのです。主が、「あなた方の戦いは血肉の戦いではなくて、主権、力、この暗闇の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊との戦いだ。悪魔を頭とする悪霊どもの組織との戦いだ」と教えたのだと思います。
 ただこれは1匹、2匹、3匹というような悪霊ではなくて、「組織」と戦わなければいけないことを語っているのだと思います。彼はその事に最後に気づかされて、急遽、教会宛に手紙を書いたのだと私は考えています。
 ということは、悪霊を追い出すというのは、まずは、街を覆っている悪霊の組織に立ち向かわなければならないのです。

 イエス様がゲラサに行った時に何があったかと言うと、「レギオン」と言う悪霊の軍団と出会いました。「レギオン」とは「軍団」と訳すことができるのですが、実は、この悪霊どもはどこにこだわっていたのでしょうか。
 マルコの福音書5章9〜10節、

それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。

 「この地方」、すなわち、ゲラサと周辺のデカポリスという十の街が集まっていた街々でした。それらの街々には、ギリシャ神話の神々が祭られていました。それらの街々にレギオンはこだわっていました。「この街が好きだ、この街から追い出さないでくれ」と。
 しかし、街にこだわっている悪霊の軍団が打ち砕かれた時に、どうにも手に負えない男が癒されました。いやしを受け取るためには、街を支配している悪霊の軍団に立ち向かう必要があるのです。それらを打ち破るなら、覆いが取れ、光が届きます、と教えています。
 コリント人への手紙第二 4章1〜4節、

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 今日この会堂に大きな毛布を持ってきて、全体に広げたら、電気がついていても光はみなさんには届きません。光を届けたかったら、まず、毛布の覆いを取らないと光は届かないのです。「福音」も同じです。福音の中に「いやし」が入っています。覆われていると、いくら神の力が来ても、人々に届かないので、まずは覆いを取れというのです。
 街全体に覆いが掛かっていたら、街全体の覆いを取る祈りが必要なのです。その後、福音を語るならば、人々は福音を聞くのです。

 1番目が「悪霊を追い出し」、2番目が「新しい言葉を語り」とあります。これはどういう意味でしょうか。
 「新しい言葉」とは、聖書を見ると、「異言を語る」ということも含まれるのですが、それ以上に、新しい言葉とは、今まで耳を塞がれ、目を塞がれ、口を塞がれている、覆われている人たちの覆いが取られたら、そこで語られる福音は、まさしく「新しい言葉」なのです。
 日本はやはり覆われています。だから、聖書の素晴らしい真理を知ろうともしないし、話しても理解できません。「それってなに?キリスト教って?外国の宗教じゃないの?私たちには日本の神々があるよ」という感じです。「イエス様って、生きておられる神様ですよ。素晴らしいことをしてくださいますよ」と告げても、わからないのです。なぜかと言うと、この世の神が福音の光を輝かせないように、覆いをかけているからです。
 この世の神、すなわちサタンが覆いをかけているから、その覆いを取りのけたら、人々に福音が「新しい言葉」として届くのです。みなさんの上にあるいやしを止めている覆いが取りのけられ、光が射し込んで、新しい神からの言葉が届くのです。
 だから、今日はみんなでいやしのために、この地域を覆っている暗闇の力、主権的な力が打ち破られるように、祈りましょう。

 私は、プエルトリコでそのような戦いをしました。すると、新城教会でブラジル人が癒されました。あれは何かというと、南米はすべてカトリックという、暗闇の覆いなのです。行くとわかりますが、中南米から南アメリカは、ローマ・カトリックです。ローマ・カトリックは、キリスト教のような顔をしてますけれど、最悪です。偶像礼拝と強く繋がっています。ローマ・カトリック背景で魔術や、偶像礼拝が行われます。そこで戦って祈った時に、覆いが取られ、教会の中でローマ・カトリックの束縛を受けているブラジル人がいやされたのだと思います。

 私たちは、日本の覆いを取らなければなりません。新城教会にはその使命が与えられて、十数年前から地域の覆いを取る働きに導かれました。そして日々、戦いは進んでいます。その中でいろんな奇跡が起きています。更に私たちは一丸となって、地域の覆いを取る働きをするならば、光は必ず街に届くのです。

 その後に、「蛇をも掴む」とあるのです。みなさん、蛇は好きですか?蛇が好きな人はどのくらいいるでしょうか?蛇を掴むとは、どういう意味でしょうか?
 アメリカにカルトの教会があるそうです。日本の新興宗教は仏教とか神道から出て来ますが、アメリカの新興宗教はだいたいキリスト教をベースにして出て来るのですが、そこでは、会衆にバスケットが廻ってくるそうです。それは「信仰試し」と称して、中に何が入っているかと言うと、蛇が入っているらしいのです。
 「信仰があるなら掴んでみろ」と、日曜日に蛇が廻って来る教会があるというのを聞いたことがありますが、嫌ですね。そんな所行きたくないです。だいたい蛇って嫌いですよね。

 でも、私は小さい頃、蛇なんて全然怖くありませんでした。この近所は蛇がたくさんいるんですが、昔は、テレビもゲームもありませんでした。遊びというと、野山を駆け巡って遊ぶしかなかったので、蛇もおもちゃの一つでした。
 蛇が出て来ると掴んで遊びました。秋にはよく出てくるので、蛇を捕まえて、蛇で綱引きなんかやっていました。時には、蛇がちぎれたりしました。私はあまり蛇は恐くありませんので、今でも捕まえられると思います。

 蛇がなぜ嫌われているかと言うと、悪魔の象徴になっているからです。そして「蛇を掴む」とは、「個人的な解放」です。
 私たちがいやしを受け取るために、まず天の覆いを取ります。御言葉を宣言し、個人を蛇の束縛から解くのです。蛇は嫌いかもしれませんが、霊的な蛇によって、がんじがらめになっている人が多いのです。その原因を取らないと、なかなかいやしに繋がりません。出エジプト記でも神は語られました。
 出エジプト記 15章26節、

そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。

 「神の命令を守りなさい」とあります。それは「おまえ、命令に従わなかったら駄目だぞ、そうしないといやしてやらないぞ・・・」というのではなく、聖書の命令とは、道路交通法のようなものです。
 道路交通法は、なんのためにあるのかと言うと、我々の安全のためです。「40キロ制限」の所で、「誰もいないから、100キロで走ってやれ〜」と、100キロで走れば、それだけ事故を起こす確率も高くなるわけです。
 みなさんも教会に来る時に、くれぐれもこのスピード違反や、交通違反をしないように、気をつけてください。「神様が守ってくれるから」と言って油断してはいけません。自分でも気をつけなければなりません。
 聖書の教えとは、決して厳しく私たちを制限するものではなく、守らないと危ないですよ、蛇に絡まれますよ、という警告です。

 しかし、蛇に絡まれてしまっても、それを解く血清もあるのです。聖書はそれも教えていますから、素晴らしいです。
 教会には、束縛を解く権威と権利が与えられていますから、「蛇を掴む」とは、個人的解放だと思うのです。この新城教会も始まって58年くらいになるのでしょうか。長い事やっています。
 今まで、大勢の人たちがクリスチャンになりましたが、残念ながら、クリスチャンを止めてしまった人たちもいます。「どうしてかな」と思っていましたが、主が言われました。「蛇の束縛があるから、それを取らなくてはならない」と言われ、18年前から個人的解放の祈りが始まりました。
 洗礼を受ける前、洗礼クラスの中で、人の霊、肉、魂の領域の解放を祈るようになりました。人の三領域、霊と、魂と、肉体に気づかれないように絡み付いている蛇を打ち破る祈りをしたら、人々は解放されるのです。
 小さい時から蛇が怖くないというのは、預言的だったと思います。霊的蛇である悪魔・悪霊どもが怖かったら仕事が出来ませんが、綱引きが出来るくらいですから、私はそれを得意としています。この三つの領域に絡み付いている蛇を打ち破る祈りをすると、霊的に解放されます。すると、いやしの力が一人一人に届きます、と語っているのだと思います。

 今も話したように、人間とは、三つの領域が一つになっています。霊、魂、そして肉体です。
 霊とは、人間だけにある機能です。それは霊的な存在にアクセスする、結びつく機能です。これがあるが故に、人に宗教心があります。
 世界の中で一番人間によく似た猿を連れてきて、人間の世界で一番猿に似たのを連れてきて、ここに立たせたら、どっちが猿で、どっちが人間か分からないかも知れません。サルのように毛深い人間だっているからです。
 猿でも案外頭がいいのがいます。人間と猿の決定的な違いは、霊があるかないかです。人間には霊がありますから、宗教心がありますが、猿は体は同じような格好をしていても、宗教心がありません。
 新城で60年近く教会をやっていますが、日曜礼拝に猿が出席した事はありません。人間しか礼拝には来ません。よく似た人は時々見かけますけれども…。あんたが一番似てるんじゃないかい?と言われるかもしれませんが・・。
 人間には霊があるからです。霊的な存在にアクセスします。その機能があるゆえに、本当の神様にも結びつくし、一方では、霊的存在、悪霊にも結びつくのです。日本人はどうかと言うと、霊的機能が結構敏感なので、手で作った神々を礼拝してしまうのです。なぜ礼拝するかというと、やはり霊感を感じるからです。「ここには何か崇高な、人間以上の霊的な力が来ている・・・」と感じて拝むのです。

 日本人って、案外霊感が強くて、霊体験が多いと思います。特に、盆の時期になったりして、全国的に拝まれるような時期にはいろいろと霊体験があるようです。
 この間も、ちょうど盆の時期に、仏壇を開けておいたら、死んだはずの爺さんが、仏壇からひょいっと出て、縁側を歩いて向きを変えて、仏壇にまた入って行ったと言うのです。「爺ちゃんだ〜!!」と言って、仏壇を真剣に拝んだと言うのです。爺ちゃんならいいですが、爺ちゃんのふりをした悪霊ならどうなるのでしょうか。大変なことになります。
 いつも話しますが、人間は死んだら、神の手に100%戻るのです。この地上に霊は存在しないのです。この地上に存在している霊は、神以外に、生きている人間か、または悪魔・悪霊どもです。偶像礼拝によって、悪霊を呼びつけてしまうと、知らないうちに「霊」が、蛇の束縛に遭うのです。
 すると神に結びつく機能は抑えられ、悪魔に対する機能だけが生きるのです。結局、人に来る情報は悪い情報ばかりになります。
 この頃、インターネットがどこでも使われています。この礼拝も、インターネットで中継されています。毎回、30人くらいの方々がこうしている間にも、インターネットで礼拝を守っています。世界で見ることができます。本当に便利な時代です。だから、このシステムも充実していかなければいけないと思っています。
 日曜日、この時間に、新城教会にアクセスすると、礼拝に出席できるのです。でも、同じ時間に悪いインターネットのサイトなんかに結びついたらどうでしょうか?悪い情報がいっぱい、画面に表示されるのです。インターネットや携帯なども、本当に気をつけなければなりません。
 悪いところに結んで、悪い情報が来るなら、人生が壊されます。同じです。霊的な機能が本物の神様のところに結びついていれば、良い情報が来て人生はうまくいきますが、偶像礼拝によって悪霊に結ばれると、悪い情報がくるので、結局、人生にいろんな問題が起こります。
 それでは何をしたらいいのでしょうか?霊の領域の蛇をつまみ出さないといけないのです。これが出来るのは教会だけです。イエス様だけです。
 悪魔のホームページからイエス様のホームページに変わるだけで、相当人間は変わります。ここにおられる方々はほとんど変わったと思います。
 「私のホームページはどうも、悪魔のホームページに結ばれているな・・」という方がいたら、繋ぎ換えの専門集団が教会ですから、是非申し出てください。

 これからの人生のトップページを創造主なる神にして、常にみなさんがイエス様とオンラインになっていれば、良い情報が与えられ、「この道を歩みなさい、そっちに行ってはいけませんよ、こっちを選びなさい」と指示をしてくれます。自然に指示されるのです。霊の領域からと蛇を引き出さなければなりません。

 しかしまだ、魂と肉体があるのです。魂を通して絡んで来る蛇の力はどこに存在するのかというと、「憎しみ」だと聖書は告げています。
 エペソ人への手紙 4章26〜27節、

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。

 私たちの生活の中では、やはり頭にくることもたくさんあります。人間は感情の動物ですから、少しくらい頭にきてもいいのです。しかし、一日の中で「もうあいつ憎い、大嫌い」と言っても、次の日にはけろっと忘れればいいのです。しかし、次の日、起きた時に、「くそ〜、あいつ憎らしいな」と、憎しみを持ち越すと、何が起こるかと言うと、悪魔に場所を提供することになるのです。蛇が私たちの感情を縛るのです。そして、動けなくなるのです。
 今回も、韓国に行き、この話をしました。「憎しみを捨てないと、解放されませんよ。憎しみを捨ててください」という話をさせていただいたら、本当に大勢の人たちがそれに応答して、祈っておられました。どこの国に行っても、束縛は同じなんだと思いました。

 しかし、赦すとは、なかなか難しいものです。赦すためには、一つの原則があります。それは先ほどの、信じる原則と同じで「告白」なのです。「告白したら救われる」という「救われる」という意味は「解放される」とも訳すことができます。救いは解放ですから、「誰々さんを赦します」と告白することが解放につながるのです。
 告白は、私たちの背後に巣を作っている、蛇を打ち砕くことに繋がります。私たちが「誰々さんを赦します!」と告白している内に、段々と後ろに巣を作っている蛇が打ち破られ、気がつく時、「憎しみから解放された」のを体験できるのです。
 なめくじがいたらどうでしょうか。塩をかけたら溶けます。同じようなものです。私たちは悪魔に塩をぶっかけてやらなければなりません。それは、告白です。「誰々さんを赦します!」と告白したら、憎しみの悪霊どもが溶けていって、私たちは解放されるのです。

 さて最後に、肉体に覆いをかけ、私たちを縛っている蛇は何かというと、これは性的な罪です。
 今の時代は本当に性的に乱れています。なぜ悪魔がこの方法を使うのかと言うと、それは人を縛るのに、たいへん有効な方法だからです。それゆえ、結婚をしてからでもどんどん浮気や不倫をさせたりするのです。悪魔の手口に引っかかってはいけません。
 コリント人への手紙第一 6章16節、

遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。

 性的な関係とは、ただ肉体だけでなくて、霊、魂、肉体の領域を共有することです。一回でもそのような関係があれば、相手の霊的環境と一つになって、共有してしまうのです。
 AさんとBさんがそのような罪に陥ると、Aさんの霊的な束縛は、Bさんのものになるし、Bさんの霊的な束縛は、Aさんのものになるのです。共有化されるのです。悪霊が自由に往来して、お互いを苦しめるのです。
 偶像礼拝は、何を拝んだのかちゃんとわかり、断ち切ることができますが、性的罪は、相手がどういう霊的背景を持っているのか、わからないのです。一つになることによって、瞬間的に共有化されるとは、恐いです。
 相手が死の力を背後に持っていたら、死の力を共有することになってしまうのです。だから、性的罪は本当に危険ですから、気をつけてください、というのが聖書のメッセージです。

 何年か前のことです。この教会に一人の男性が運ばれてきました。その人は自動車内で排気ガス自殺を試みた青年でした。彼は死ぬ直前に知り合いに電話したので、場所を特定して警察が見つけてくれました。
 彼はもう少しで死ぬところでした。彼は、教会との関わりがあったので、現場から連れてこられました。
 私は、「なんでそんな風になったの?」と聞くと、「ある女の子とつき合っていて、ふられた」と言うのです。それでものすごく落ち込んで、自殺未遂をしたのです。
 私は、「人口の半分は女だぞ、一人にふられたくらいで、なんで死ななきゃいけないんだ」と言いました。彼はハンサムな男でした。
 私は「あなたは、彼女とつき合っていた時に、性的な関係があったのですか?」と聞きました。すると、「ありました」と答えました。
 「それが、蛇の束縛となっているから、それを断ち切らなければいけない」と話ました。そして、相手がどういう背景かと尋ねると、いろんな問題がある家の女の子だということでした。
 「性的な関係があったから、悪霊が共有化されて、こういう結果になったのかもしれない」と説明し、祈ってあげました。彼は私の後について祈り、繋がりが断ち切られるように祈りました。
 「イエス・キリストの名によって、死の霊どもよ、よく聞け!ここに姿を現せ!」と宣言した途端、蛇が出てきました。
 彼は激しく叫び出して、自分をコントロールできず、すごい状況になりました。転がり回って苦しんでいました。彼は「助けてくれ、助けてくれ」と叫んでいました。「これからきよく生きてください」と言うと、「わかりました、わかりました」と言ったので、悪霊の力が打ち破られるようにと祈り、解放されました。
 彼は、自由になり、帰る時には、「生きてて良かったーー!!」と叫んで帰って行きました。これは極端な例かもしれませんが、本当に助かって良かったと思います。 この頃は、性的な罪も多いので、注意しなければいけません。

 翌日ここから遠く離れた、ある街で集会があって、個人名などは出しませんが、この話をしました。特に若者の集会だったので、性的な罪があったら悔い改めて、断ち切って祈りましょうと促すと、本当に大勢の若者たちが罪を悔い改めて、祈りました。すごくいい集会でした。
 集会が終わったので私は帰ろうとしたら、スタッフが来て、「一人の女の子のために祈ってくれますか?」と言うのです。なぜかと聞くと、「先ほど祈っていた時に、一人の女の子が激しく倒れて、自分をコントロールできなくなって、今、隣の部屋で解放の祈りを受けているから、順先生行って祈ってください」と言うのです。
 私はその子のために祈ってあげましたが、その子の名前を聞いてびっくりしました。なんと、前日に解放の祈りをした男性の、相手の女の子だったのです。信じられませんが、神様は本当に、愛なる神様だと思いました。男だけを解放し、女は解放しないのではなく、相手の女の子にも触れてくださったのです。

 その女の子が、ボーイフレンドをふったら、その人が自殺未遂をしたというのを聞いてすごく落ち込んでいたそうです。そこで、クリスチャンの友達が、彼女を集会に誘ったそうです。
 私はそんな人がいるなんて、全然知らないで前日に起こった話をしました。彼女は、「よく似た話だな・・」とは思ったそうですが、まさか自分のことだとは思わなかったらしいです。でも、次の日には、女の子も解放されました。
 今では、二人とも別々に教会に行き、幸せな家庭を築いています。神様は本当に愛の神様です。両方にちゃんと目を留め、救ってくださるのです。

 肉体を縛る悪魔の力に、立ち向かわないといけないのです。みなさん、このような蛇の縄目から解放されたらどうでしょうか?準備万端です。病人に手を置いたら病人は癒されるのです。この御言葉が動かないはずはないと思うのです。
 教会に来ますと、このような蛇の策略についても学びますから、常に注意深く生きるようになるのです。出エジプト記のように、神の命令に従って歩むようになれば、エジプトに下したような病気は何一つあなたには起こりません、と約束されています。

 私たちは、御言葉を知って、一度しかない人生を安全に生きなければなりません。罪があっても、大丈夫です。罪を赦すために、イエス様はこの地上に来てくれましたから、蛇の束縛を打ち破るために来てくださいましたから、必ず、それを取り去って、人生をいやし、解放し、自由にしてくださいます。そんな素晴らしいイエス様と一緒にすごすことができるとは、素晴らしいです。
 それは永遠へと続きますから、この祝福を受け取らない手はありません。今日、初めて来られた方もおられると思いますが、イエス様を自分の救い主として信じて帰っていただきたいと思います。

 最後にお祈りをしたいと思います。一度、みなさんお立ち上がりくださいますか。今日は、一人一人が癒されるように、祈りたいと思います。病のいやしのために祈りたいと思います。病気があるという方は、前に出てきてください。家族が病気だという人たちも出て来てください。
 でも、今日、ここに出られる人は、まだまだ元気な人だと思うのです。ここまで来れるのですから。大きな病気の人たちは、来られません。
 週報に載っている病気の人たちの中で、病気で教会に来られない人たちがいます。是非、今日は週報を出して、健康を害している兄弟・姉妹が癒されるように祈ってください。
 前に出て来られた方々は、いやしを受け取って、自由な人生を送ることができるように祈りたいと思います。その前に、みなさんでお祈りしたいと思います。

 まずいやしを受け取るプロセスとして、「わたしの名によって悪霊を追い出し」と学びましたが、人間には、悪霊を追い出す権威があるのです。なぜならば、人間が作られた時に、神から「地を這う生き物を支配せよ」と支配権をもらっていますから、この支配権を確認して、使わないといけないのです。
 みなさん、私たちが祈る時に、この街を支配する悪霊どもの力が破られます。しばらくの間、みなさんと共に祈りたいと思います。

 新城と、三河、日本を支配している悪霊の力が打ち砕かれるように、みなさんでお祈りしたいと思います。
 韓国へ行きますと、両手を挙げて「主よー!!」と叫んで激しく祈ります。そのように、少し元気を出して、力一杯、この地域の悪霊が打ち砕かれるように、祈り、その後、蛇の束縛を打ち砕く祈りをして、いやしの祈りの時を持ちたいと思います。
 イエス様の十字架の血潮がありますから、信じてください。
 それでは、みなさんで、一度、「主よー」と叫んで、地域の悪霊の力、またこの街の悪霊の力が破られるようにご一緒に祈りましょう。


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