「神のみ前に生きよう」


2010.10.10(SUN)
新城教会牧師 滝元 明 師

コリント人への手紙第二 6章1節〜10節
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

 ハレルヤ。おはようございます。今日は久しぶりにここでメッセージが出来ます事を感謝します。
 今年の夏は7月も8月も9月も忙しくて、あまり新城にいなかったのですが、今日は皆さんと一緒に礼拝できますことを感謝します。また、私のためにお祈りしてくださっていることを心から感謝します。

 9月は10日に家を出てずっと北海道を回り、北海道でミッションがあり、その後は東北でミッションに出てこちらへ帰ってきました。また、今週はあさってから出かけて、九州を回る予定ですので、またみなさん覚えて祈ってください。今回もロン・ブラウンさんと、もう一人の女性の歌手の方と一緒に奉仕します。九州はもう何回かロンさんと一緒に行っていますので、期待も大きく、大きな会館を借りているところもあります。ある教会では福岡でも一番高級なホテルを借り、県知事や市長さんなど、上に立つ、そのような人だけを集めて集会をしたいということです。何人集まるかはわかりませんが、だいたい300人ほどの方に私が書いた「どうしても知ってほしいこと」を贈呈する予定です。それから、大分や熊本などいろいろなところを回りますので、どうか良い集会ができて、大勢の方が救われるようにお祈りください。

 特に、滝元明ミニストリーとして地域を回るときには、出席する人はクリスチャンじゃない人が多いです。ですから、クリスチャンでない大勢の方が救われるようにお祈りください。
 北海道でもロンさんとマキーダさんと一緒に回りました。集まった人は八百人近くでしたが、その中で「決心したい、求道して行きたい」ということで祝福への歩み出しの本を受け取った方が200人くらいおられました。すごく多くの人たちが真面目に主を求めているとことだと思いますので、お祈りをお願いしたいと思います。

 今日の御言葉を読んでいただきましたが、この中に、このような事が書かれていました。
コリント人への手紙第二 6章2節、

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 今私たちがこうして自由に宣教が出来る、こうして日曜日に礼拝できることは、非常に素晴らしいことです。つい最近も新聞に大きく出ていましたが、この度、中国の方が平和ノーベル賞をもらったと言う事です。
 中国は自由がないということで、言論の自由や、また宗教の自由などをいろいろ訴えたために裁判にかけられ、懲役11年で現在牢屋に入れられています。しかしノーベル賞を受けたのですが、中国政府は非常に怒っています。中国は共産国家ですので自由がありません。

 つい最近も私の所に、大連から手紙を頂きました。そこでは500人くらい工場に働く人がいて、その工場の中には礼拝をする場所が作られていました。そこでは200人くらいの人たちが礼拝をしています。去年は警察が入って、十字架を降ろし、一切キリスト教の集会をやってはいけないと言われたそうです。しかし、その人たちはめげずに、そこにいるクリスチャンたちが集まって礼拝を続けているそうです。
 そういう戦いの中で、中国ではクリスチャンが多くなり、どのくらいクリスチャンがいるかと言うと、だいたい中国では10パーセントがクリスチャンになっているということです。10パーセントということは、中国の人口が13億ですから、1億3000万人がクリスチャンだということです。
 日本は1億3000万人の人口ですが、50万人ぐらいしかクリスチャンはいません。しかし、彼らは迫害の中で真剣に伝道しています。
 その点、みなさん、日本では信教の自由があるということは本当に感謝なことです。「今は恵みの時、救いの日」ですから、私たちも真剣に福音を述べ伝えなければなりません。

 大分、日本もキリスト教に対して変わってきたように思います。私が50〜60年前に家内と一緒に開拓伝道を始めたとき、よく村の子供たちが私の家の前を通りながら、「アーメンそうめん冷そうめん」なんて悪口を言って通ったものです。今はみなさん、そのような言葉は聞きません。キリスト教に対する評価も高くなってきていると思います。
 聖書を見ると、使徒パウロという人は、すごい迫害の中で伝道をしました。
今朝も家内と一緒に使徒の働きを読み、お祈りしていました。こういうところを見ると、使徒パウロはいろいろと誹られ、迫害され、石に打たれ、いろいろな苦しい中でも喜んで福音を伝えたと書いてあります。
コリント人への手紙第二 6章3〜4節、

私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

 ずいぶんひどい目にあったと思いますが、彼はめげることなく「自分を神の僕として推薦する」と言っています。また、続いて、こう書いてあります。
コリント人への手紙第二 6章4〜10節、

非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

 こういう苦しみの中、彼は伝道しました。今の時代、日本で人々が救われない理由というのは、いろいろありますが、人の風評を気にしすぎると思います。最近は内閣の支持率なんかが出ますが、「今は管内閣が支持率が低下した」とか、「上がった」とか、そのようなことに左右されます。
しかし、私たちクリスチャンは、好評を受けるか受けないかということよりも、いかに神の前に生きるかと言うことが大切です。誰かから誉められる、そんなことではありません。神の前に真実にしっかりとした義の道を歩んでいかなければなりません。
 ここに、使徒パウロ自身が「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。」と書いていますが、人間というのは、やはり誉められる時はいいのですが、そしられたり、悪評を受けたりする時には、あまりいい気持ちがしないものです。
 私たちも、1970年からリバイバルクルセードを行ない、1993年には甲子園、1998年は武道館、2000年には東京で40日をやったり、いろんな集会をしていると、いい事を言う人もいるし、悪い事を言う人もいます。誉める人もいれば、誉めない人もいます。しかし、私たちはなぜ福音を伝えるかと言うと、これは神様からの命令で、どうしてもイエス様のことを伝えなければなりません。

 ちょうど使徒パウロが「今は救いの時だ」と言ったのは、なぜかというと、いわゆる、「イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、恵みの時代が来た!律法によって義とされるのではなく、イエス様を信じるだけで救われる、イエス様が代わりに死んでくださったから、信じるだけで罪から救われて永遠のいのちを持つことができる、だからこれを伝えなければいけない!」ということでした。
 彼に対する迫害はすごいものでした。海の中に投げ込まれ死にそうになったり、石に打たれて殺されそうになったり、飢えたり、すごい苦しみの中にあっても、「伝えなければならない!」という気持ちがありました。

 先月、北海道で集会をやりました。北海道では、7日間の集会をしましたが、その前に、北海道のある牧師たちが、こういうことを言ったそうです。
 札幌でリバイバルミッションをやらせていただきたいと打診しましたが、何人かの牧師から「やらないでください」と申し入れがありました。いろんな理由があり、文句を言って来たのですが、そういうことだったら一箇所でやるのではなく、各教会を廻ってやりましょう、ということで、私とロンさんとやりましたが、あまり「やらないでください」なんて言われると、いい気持ちはしません。

 また、東北でリバイバルミッションをやりましたが、私の友人の先生は、ある団体に属していますが、すごく私たちを愛し、喜んで協力してくださっている方です。そこに行くと、先生がこう言われました。「滝元先生、この前、うちの団体で総会があり、50くらいの教会が集まりましたが、その中で滝元先生の悪口を言う人がいたのです」と言われました。「えっ?僕の悪口を言ってくれたんですか?いつの話ですか?」と聞くと、「つい最近です」と言われました。私はよく知らないのですが、その中の若い人が私の悪口を言ったと言うのです。
 しかし、その先生は怒って、「君、滝元先生のどこが悪いというのか。滝元先生の本を読んだことがあるのか。悪いというならどこが悪いか言ってみろ。」と言ったそうです。彼は私の本を読んだことがなかったそうです。
 悪口を言われるということは、あまりいい気持ちがしませんが、良いことを言う人もいます。決起大会に秋田のM先生の所に行き、「先生、いつも招いて下さって感謝します」と言うと、「先生が来てくれて本当に感謝です」と言ってくださいました。
 
 今度も、盛岡の集会に一人のご婦人が来られていましたが、私に会うと「先生に会いたくて来ました。私は26年前に先生のお話しを聞いて救われて、それ以来、ずっと会いたいと思っていたんです。だから来たんです」と言われました。二十六年前のことですので、私は覚えているわけもないのですが、その人は「私が今まで聞いた伝道者の中で、先生ほど素晴らしい伝道者は、今まで会ったことがありません」と言いました。
 盛岡では、私の説教を聞いて、ある教会の牧師夫人が「先生、先生の伝道説教は一番素晴らしい!一番と言ってはいけないので、ナンバーワンです!」と誉めてくれました。
 やはり、誉められると嬉しいものですが、誉められると人はどういうことを考えるのでしょうか。聖書の中にこのような言葉があります。
箴言27章21節、

るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。

 誉めてくれる時はいいようですが、これは試されているのです。誉められていいことは、「イエス様の恵みでいいメッセージが出来ました」と言う事です。悪口を言われた時には、「その人を祝福してあげます」と言うべきです。
やはり私たちは喜んで、人々がいくら悪口を言ったとしても祝福するということは、クリスチャンにとって非常に大切なことです。

 時々、教会に来ていても、人の関心ばかりを考える人がいます。私がクリスチャンになったら親戚は何というか、親は、夫はと心配します。なるべくうまく調子を合わせておこうと思うものです。
ガラテヤ人への手紙 1章10節、

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 私たちは、クリスチャンの基準はあくまで、誰かの風評ではなく、神様の前に立つことです。人の関心ではなくて神様の関心を求めていくということが非常に大切なことです。しかし、人間ですから、悪口を言われるといい気持ちはしません。
伝道者7章21〜22節、

人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。
あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。

 時々、自分の悪口を言われると良い気持ちがしませんが、「あなたも同じように悪口を言うことがあるのではないか」と言っています。ですから、人のそしりというものは、あまり気にしてはいけません。
イザヤ書51章7節、

義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

 みなさん、どうでしょうか。人のそしりを恐れている人、恐れてはいけません。人間のそしりを恐れなくても良いのです。特にそのことについて、聖書にこう書かれています。
ルカの福音書12章4節、

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。

 クリスチャン生活の中で、たとえ迫害にあっても、聖書には「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません」と書いてあります。人間を恐れる必要はありません。そして、こう続いています。
ルカの福音書12章5〜8節、

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 この中に、「空の鳥よりも私たちはすぐれている。髪の毛もみな数えられている」と書いてあります。昨日、私は散髪屋さんに行きました。何本あるかは知りませんが、神様は私たちの頭の毛まで全て数えられているのだから心配するなと言われています。神様は、私たちがどんな境遇にあるか、今私たちがどんな立場にあるか、全て知っているから、たとえ人が悪口を言っても恐れてはいけません。
 人間の言葉で傷つき悩んで病気になる人もいます。しかし、悪口を言われた時には、その人のために祈ることです。「復讐するのはわたしにある、復讐してはいけない」と聖書に書いてありますから、どんなに人がいろいろと迫害したとしても、しっかりとイエス様につくべきです。

 私は新城に伝道に来て60年ほどになります。3年間くらい津具のほうで鉱山の仕事をし、それから新城に来ました。新城の札木というところですが、新城中学の前にダンスホールがありました。それを買って、そこで七年間教会をしました。その時に、順番で組長が回ってきました。私は新城に来て、3回、組長をしました。
 この辺はなかなか古い習慣があり、昔は「庚申」という偶像を持ち運んで、組長の家で皆で拝み、それから食事をしたりしていました。それから、秋葉神社や砥鹿神社の札をもらってきたりするのも組長の仕事でした。
 しかし、私はクリスチャンですから、札木に居た時に区長さんにお話をしました。「区長さん、私は今度、組長になりますが、宗教的なことは一切お断りします。神社の寄付も集めません。神社の祭りにも参加しません。私はクリスチャンですから、よろしくお願いします」と言いました。
 すると、区長さんが、「そうか、では、次の組長さんになる人によく言っておきますから」と言い、私の家で引き継ぎが行われました。その時には、組の人が十何人集まりました。
 区長さんが私の前で皆に言われました。「滝元さんは牧師で、宗教的なことはやらないということですから、寄付金を集めたりだとか、祭りなどもやらないということですから、私の提案ですが、次の組長になる人が神社費を集めたり、祭礼のことをやってもらったらいいと思います。みなさん、どう思いますか?」と言いました。すると「賛成!」と言うのです。しかし、そこには次に組長になる人は来ていませんでした。

 そして、話が終わった後に、その人が入ってきました。その方は学校の先生をやっていた人で、決まったことを話すと、「なぜそうしなければならないのか?なんで滝元さんだけがそれをやらないんですか?キリスト教とはそんなものなのか?」と言われました。私は、「はい。そんなもんです」と答えました。
 そこで彼は文句ついでに、常々、酌にさわっていたことを言ってきました。「君たちは賛美歌と言って歌っているが、あれは賛美歌じゃない。怒鳴っているんだ。やかましい!」と言われました。
 私も若かったので、今だったら違う言い方をしたかもしれませんが、「あのね、これからの日本を背負う青年たちが救われて、罪から救われ喜んで歌っているのを、あんたは喜べないのか?酒を飲まなくなったり、たばこを吸わなくなったり、女遊びをしなくなったりしているんだ」と言うと、先生が「酒やたばこを飲んで何が悪い!」と言いました。そこで私が、「学校の先生なのに、そんなこと分からんのか!」と言い合いになりました。
 すると幼稚園の園長をやっていた方が、「私が神社費を集めますから…」ということで、一件落着しました。
 すると、区長さんが次の日私を呼びました。「滝元さん。夕べはああゆう話になったが、村の人たちは納得していない。あんたは学識もあると思うから、神社費を集める時に神社費が入っていないと思って集めてくれ」と言うのです。私は「何を言ってるんですか。頭が良かったら、入っているのに、入っていないと思わないで集めるなんて出来ると思うのか」と話しました。区長さんは「兄弟姉妹だから、そこをなんとか助け合って…」と言いましたが、「冗談じゃない、多神教に兄弟姉妹はない。唯一の神だったら兄弟姉妹はあるが、多神教にはない。それから区長さん、ちょうどいい機会だ。あんたも悔い改めなかったら地獄に行くよ」と説教しました。「悔い改めなさい。真の神を信じなさい」と。私もずいぶん戦いました。

 富沢に来てからも、区長さんが百人くらいの人たちが集まっている前で「報告いたします。この度、○○寺の和尚さんが栄転したので、お祝い金としていくらいくら出しました」と言われた時がありました。そこで私が、「質問があります。坊さんが栄転したって言ったが、どこに栄転したのか?」と聞くと、「永平寺に栄転した」と言いました。
 私は、「あなたたちは、栄転したと思うかもしれないが、私にはどこの坊主がどの寺に行こうが偉いと思ったことはない。創価学会の人が班長から部隊長になったら栄転したんですよ。それでも2000円出しますか?牧師がどこかに行ったら2000円出してくれるんですか?」と言うと、「あの、まぁ、名誉市民として、出しました」と言われたので、「名誉市民ということなら仕方ない」と言い、次に進みました。
また、「観音に区から何千円出しました」と言うのです。そこでまた私が、「行政の組長が一つの宗教に金を出すというのは間違いではないですか。今度新城教会でクリスマスをやる時に、新城教会のために寄付を集めてくれますか?」と文句を言いました。すると、一人のボスが怒り出しました。「貴様、よそ者のくせに…。後から来て村を全部変えようとしなくたっていいじゃないか」と言いました。そこで私は、「よそ者とは何だ。居住権の自由があるのに。あなたが言ったことは自由の侵害だ。悔い改めなさい!」と言うと、「すいません」と言われました。ですから、ここでは葬式は全て教会でやることにしましたし、神社の札も全て断りました。勝利しました。

 私たちは戦わなければなりません。クリスチャンは弱々しくて柔和で何でも「はい、はい」と受け入れるのではなく、「悪いことは悪い。良いことは良い」という態度を取らなければなりません。
 先ほど話した先生に私が言ったことは、「君。僕は、殺されても恐ろしくはないぞ」でした。殺されても私たちは天国に行けます。ですから、しっかり信仰に立って歩んで行きましょう。
 今日までこの教会が祝福されたのは、妥協しないで偶像と戦ってきたことが祝福されたのだと思います。ですから、みなさんも妥協しないでがんばってください。

 それから、この前私がリバイバルミッションニュースに書いたんですが、読まれてない方もいると思いますので、読みたいと思います。
 最近、キリスト教の歴史の本を読んで大変恵まれました。ローマ帝国のキリスト教大迫害の頃、使徒ヨハネの弟子で教会の監督であったと言われるポリカリポスは、ローマの神々に礼拝するように総督に強要されてもそれを拒否し、キリストをののしれば釈放してやると言われた時、この監督はこう言ったそうです。「私は86年の間、キリストに仕えてきましたが、イエス・キリストは一度として私を裏切ったことがありません。なのに私がどうしてイエス様を裏切れましょうか」と、断固として拒絶して、そのために火あぶりに処せられることになりました。
 その時、彼は、総督に対してこう言ったそうです。「一時間しか燃えない火がなんでしょう。永遠に消えない地獄のことをお忘れですか。総督!」と語り、八十六歳で殉教の死を遂げたのです。その最後の言葉は、こう記録されています。「愛する御子イエス・キリストの血潮、私をこの日、この時にかなう者として、殉教者の仲間に加えられました。それは聖霊の賜物です。アーメン。」
こう言って、彼は火あぶりにされたのです。素晴らしい言葉ではないでしょうか。
 もう一回読んでみましょう。「一時間しか燃えない火がなんでしょう。永遠に消えない地獄のことをお忘れですか。総督!」
もしも私たちが地獄に堕ちたら、消えない火で永遠に焼かれるとありますから、殉教での一時間の火くらいは大したことがないということです。私たちは信仰をしっかり持っていかなければなりません。

 私は、毎日、家内と聖書を一緒に読んでいます。家内はiPadで聖書を読んでいます。私は古い人間ですから、今の言葉は難しくて分からないことがあります。ですが、うちの娘にそれを買ってもらいました。孫から電話があり、「おじいちゃん、iPad着いたよ」と言うのです。私は初めて聞きましたので、「何?おじいちゃんにアイたい?」なんて言いながら、何度も聞きました。小学校三年生の孫にiPadが何かということを教えられました。便利ですね。聖書が全部入っていまして、大きな字になりますので、家内はこれを使って聖書をずっと読んでいます。
 今、ちょうど使徒の働きを読んでいるのですが、昔のクリスチャンたちは迫害されました。聖書を見ているとわくわくします。
使徒の働き 3章1〜8節、

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。

 聖霊様は、今も同じように働かれます。
 この前も、水曜礼拝でお話ししましたが、随分前に、甲子園ミッションの前でしたが、北海道のある教会に行きました。その時に、私は、エペソ人への手紙1章19節から、「信じる者の内に働く神の力」というタイトルで、「信じたら神が働いてくださいますよ」と話をしました。
 すると、その集会が終わった後、伝道師の先生が、ある人を連れて来ました。その方は、二回くらい教会に来たことのある人手で、5年前に交通事故に遭い、胸から下の神経が全て駄目になってしまった女性の方でした。車いすで来られ、「先生、祈ってあげてください」と言われました。
 そこで、私も「祈ってあげよう」と思いましたが、私は信仰がない者ですので、「まもなくイエス様が再臨なさるから、再臨なさる時には復活するから、あなたの足も良くなるよ」と言いました。
 しかし、ちょうどうちの娘と同じくらいの年頃だったので、かわいそうに思いました。そして、「聖書の中には、病めるものに手を置けば癒されるとあるから、祈ってあげる」と言って、彼女の上に手を置いて、「イエス様、こんなに若い娘がこんな時から交通事故で動けないなんてかわいそうです。治してあげてください。お願いします。アーメン」と祈りました。

 それで祈り終わってから、下にお茶を飲みに行きました。すると、おいしそうなケーキが出てきて、一つ取って食べようと思ったら、上の方から一人の女の人が「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!」と飛び降りてきました。やかましい教会だと思ったら、「先生、先ほどの人が立ち上がって歩き出しました!」と言うのです。あの時の感動は、忘れることができません。
 みんなでケーキなんかは放って、2階に駆け上がりました。すると、彼女は泣きながら立ち上がり、一歩二歩と歩きました。五年間歩いたことのない方が、歩いて私の所まで来て、「先生、ありがとう!」と言われました。
 私は、「いや、僕じゃない。治したのはイエス様です」と言いました。

 あの使徒行伝時代には、もっと素晴らしい奇跡がたくさんありました。完全に癒されて、走ったり踊ったりしました。そして、大問題になったと言うのです。誰が問題にしたかと言うと、それは宗教家でした。
 今の時代でも、教会でも、癒されると言ったら問題にするところがあります。甲子園の時にもいろいろと反対がありました。「病気を治すだとか、悪霊を追い出すなんて異端だ!」なんて言う人もいました。いえ、それは聖書通りです。癒されることは嬉しいことではないでしょうか。
 そこで最後に、このペテロとヨハネを捕まえて裁判にかけました。結論はこうでした。「今後、一切、イエスの名によって語る事も、伝える事も禁ずる」と言うことでした。
 その時に、ヨハネがこう言いました。
使徒の働き 4章19〜20節、

「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

 彼は死をも覚悟し、どんなに迫害があったとしても、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが正しいかどうか」と言われました。

 日本人は和を大切にしますが、真理に固く立って、誰がなんと言おうとも、神に従うことが正しいのです。ですから、「人の前に言って私を告白する者を、わたしも天の父の前で告白する」とありますから、みなさんも恐れず、学校でも職場でも、「イエス様を信じます、クリスチャンです」と言ってください。イエス様が責任を持ちます。どんなに人々が恐ろしく見えても、「イエス様を愛しています、殺すと言っても信じています」と、しっかり信じて、たとえ殺されても天国がありますから、信じて参りましょう。まだ決断が出来ていない方は、しっかり信仰を持って、バプテスマを受けてください。

 一言、お祈りします。みなさん、恐れがあったら恐れから解放されるように祈りましょう。
 
 愛するイエス様、感謝します。あのペテロもヨハネも普通の人です。彼らは聖霊に満たされて、神に従うより人に従うことのほうが正しいかどうか、自ら判断せよと言いました。あなたは魂もゲヘナに投げ込む権利のある神様だけを恐れなさいとおっしゃいましたが、恐れから解放されて、毎日の戦いの中で、イエス様に聞き従うことができるように、導いてください。
 今、リバイバルを求めています。この街に、この周辺の街に、日本に、大きなリバイバルが起きますように。中国を祝してください。中国のクリスチャンたちを今日、守ってください。投獄されているクリスチャンもいますが、命を懸けてイエス様を信じ、愛する人たちの上にも祝福がありますように。北朝鮮の人たちも覚えてくださって、早く解放されるように導いてください。
 これから聖餐に預かります。イエス様、あなたが十字架の上に命を捨ててくださいました。イエス様、『これはわたしの肉だ』とおっしゃいましたが、あなたの裂かれた肉を感謝して、聖餐に預かります。また、『これはあなたのために流す契約の血だ』とおっしゃいましたから、血潮を頂きますから、私に勇気と力をくださいますように。愛するイエス様のお名前によって感謝を込めてお祈りします。アーメン。


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