今週の礼拝メッセージ
主の栄光が現れるために 1998.1.4(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 第一歴代誌28章11節〜13節
ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、主の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、祭司とレビ人の組分けのこと、主の宮の奉仕のすべての仕事のこと、主の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。

 ハレルヤ!新年明けましておめでとうございます。今年初の礼拝で奉仕できることを感謝します。昨年暮れから今日に至るまでに、多くの集会があり、皆さんも家に帰ったり教会に来たりと、非常に忙しかったと思います。今年も一年、天地宇宙を造られた神、イエス様に期待しましょう。
 今年はどのような年になるのだろうかと、不安と期待が半々だと思います。私にとっても、昨年の暮れから今日に至るまでまだ五日しか経っていませんが、その間、大変忙しいスケジュールでした。これは一年のスケジュールを預言的に現しているようだと感じています。三十一日の越年集会はとても恵まれた聖会でした。続いて元旦の朝十時からは新年礼拝があり、そこでは祝福祈祷の時が持たれました。私はそれが終わってすぐに東京に行き、夕方六時半から断食聖会での奉仕があり、翌朝、もう一度奉仕をし、終わってすぐ新城に戻って三十六時間PPH(Praise and Prayer Hour)で五時間、ほとんど連続の奉仕があり必死で走りぬきました。しかし、今朝このように元気で感謝しています。
 今回の三十六時間PPHに、一組の家族が来られていました。その家族の方と話をすると、その方々は去年の二十四時間PPHにも来られたそうで、その時はご主人の胃に大きなポリープができていて、医者からは年が明けて一月二十四日には再検査して、手術しなくてはならないので覚悟してくださいと言われていたそうです。それが原因で体の色々なところが悪く、約二ヶ月間微熱が続いていたそうです。しかし、主に期待して、夜中の十二時から三時までの集会に出たそうです。私はその集会についてあまり覚えていませんが、集会の中で病の方々を前に招き、癒しのために祈ったそうです。その時、ご主人に聖霊が注がれ、床に倒れてしまったそうです。すると突然胃が熱くなり、神様が何かをされていると感じたそうです。そして二十四日に病院に行くと、どこにもポリープが見あたらなかったそうです。ポリープが完全に癒されていたそうです。そしてそれは病の癒しだけに留まらず、しばらくすると父さんがイエス様を信じたそうです。続けて奥さんの弟もイエス様を信じ、今回のPPHには一緒に来られ喜んで賛美されていました。「昨年のPPHから、私の家族に素晴らしいことが起こっています。」と言われていました。来年はもっと祝福が広がると思います。これは、神の栄光です。人間の力ではなく、神が働いてくださっている証拠です。今年のPPHにも神様が素晴らしく働いてくださり、聖霊が豊かに働かれました。今年は主の栄光が現される年になると信じます。
 今朝は、「主の栄光が現れるために」という主題で御言葉を学びます。十二月三十一日の越年聖会で、五人の牧師がそれぞれ十五分ずつ神の御言葉、特に今年に対するメッセージを取り次ぎました。その中に預言的な神のみこころが現されていたと思います。
 明牧師は、イスラエルが荒野からヨルダン川を渡り、カナンの地を攻める時、契約の箱がヨルダン川の真ん中に置かれたことについて話しました。契約の箱とは神の臨在を現します。神の臨在が現れたことにより、カナンの地を攻め取ることができたというメッセージでした。今年、神の臨在が私たちの真ん中にないならば、主の栄光は現れません。私たちの真ん中に主の臨在があるように祈りましょう。
 次に、外国人ミニストリーを導いてくださっているアドリアン先生は、イザヤ書五十四章の中から、「あなたの天幕を広げなさい」と語りました。今年は「広げよ」、スペイン語で「エクステンシア」がキーワードです。聖霊様の働きは、他の場所に行ったらここでの聖霊の働きはなくなるのではなく、広がっていくものだと語りました。今年は聖霊の働きが広がっていく年であると信じます。
 岡本信弘先生は、ペテロ第一の手紙一章八節から十節で、「私たちはイエス様を見てはいないが信じている」とメッセージを語りました。
 皆さんはイエス様に実際に会ったことがありますか?イエス様は二千年前、地上に来られましたが、今は天におられます。それは私たちの目には見えない世界です。しかし、私たちは、イエス様に会ったことはありませんが、現実に信じています。それは「信仰」に他ならないのです。イエス様が共にいてくださると「認める」ことこそ、「信仰」であると語られました。
 上條実師は詩篇二十五篇四節から、「あなたの道を知らせてください」という主題で語りました。
 近頃、東京ミッションの事務所によく行きます。その時、都内の渋滞を避けて裏道を通ると早く目的地に着きます。リバイバルも時々渋滞している道があります。しかし、神の道は小道であり、細く見えるような道にみこころがあります。私たちは大道を楽々と歩いていきたいと願いますが、個人的な祈りや御言葉を学ぶ中で「小道」を知らなくてはならないと語りました。これも重要な預言的メッセージであると思います。
 さて、昨年、私に導かれた御言葉は、ハガイ書二章から、今まで二十束をつかんだけれど十束、五十桶汲んだつもりが二十桶しかなかった事態から祝福に転じたのは、神殿の石積みが据えられて後からであり、私たちひとりひとりも石積みの石の一つにならなくてはならない、と言うことでした。
 イスラエルに行くと、昔の神殿の壁が残っています。それは大小様々の石が組み合わさり形成されています。一つとして同じ大きさの石はありません。それぞれ大きさが違います。同じ大きさだと強い城壁はできません。色々な大きさの石がガッチリと組み合わさってこそ、強い城壁ができるのです。私たちはその石の一つ一つであると昨年は示されました。それは一人一人の存在が重要であり、個人の存在の偉大さについてです。
 そして、今年導かれた御言葉は、第一歴代誌二十八章十一節から十三節です。

『ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、主の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、祭司とレビ人の組分けのこと、主の宮の奉仕のすべての仕事のこと、主の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。』

 クリスマスの時に語ったメッセージを覚えておられますか。それはクリスマスにイエス様がこの地に来られた目的についてです。ヨハネの福音書一章にあるように、イエス様が生まれたのは、言葉が人となられたと学びました。
 元来、アダムとエバは神と顔と顔とを合わせて過ごすことができました。神は霊なる方ですから、人間は百パーセント霊的な目が開かれていたのです。神と目を合わせて話すことができる存在だったのです。しかし彼らが罪を犯した結果、霊的な目が閉じられてしまい、神の臨在が去りました。それから人類の不幸が始まりました。しかし、神はサタンの手に渡ってしまった人類を、もう一度助け出す救いのプログラムを開始されました。それは回復のためのプログラムです。
 手始めに神は姿を持ってではなく、「言葉」によって人類に現れてくださいました。それが旧約聖書の時代です。この時代、預言者と呼ばれる、特別神から選ばれた人々に神の言葉が与えられました。預言者は神から預かった言葉を民に忠実に伝え、民はその言葉を聞くことにより、神の意志を確認しました。この時代は、ひとりひとりに神の霊が臨むということがなく、特定な人々、預言者たちに神の霊が臨み、神の言葉が与えられたのでした。そのため、民はまた、神の言葉を忠実に再現しなくてはなりませんでした。神の宮を造ることもその理由の一つでした。預言者に神の言葉が臨み、「神のための宮を造りなさい、そうすれば栄光が現れます。」語られました。民は言葉が神からのものかどうか、語られたとおりに宮を建ててみました。するとなるほど、神の栄光が現され、神が本当に生きているということを確認しました。
 しかし、クリスマスにイエス様が生まれたことにより、今まで民に言葉を語っていた方が、実際に見える姿でこの地上に現れたわけです。民はイエス様を見て、「この方か。今まで私たちに語りかけてくださっていたのは・・。」と見て信じたのです。やがてイエス様は、人類の犯した罪の身代わりとして十字架にかかって死に、三日目に復活され、四十日後に天に戻られました。その代わり十日後に、聖霊様が地上に来てくださったのです。旧約の時代、預言者にしか臨まなかった神の霊が、ペンテコステの日以来、求めるすべての人々の上に臨むようになったのです。アダムとエバの時代、人は神と顔をあわせて交わることができました。しかし、今の時代は、実際に顔と顔とを合わせるまではいきませんが、聖霊による交わりが回復したのです。別に預言者に頼らなくても聖霊様によって、私たちは神からの細かい指示が与えられるのです。
 やがて間もなく、イエス様は帰って来られます。紀元二千年を間もなく迎えようとしていますが、聖書を見ると今が終わりの時代であることは明白です。今、聖霊様が日本に働き始めています。なぜならば、色々なことを通して、神が生きていることを人々に証明しているのです。「早くイエス様を救い主として信じなさい、そうすれば救われます、間もなく救いの扉が閉じてしまいます」と。東京ミッションのテーマは「光のある間に」ですが、「光のある間に光を信じなさい。間もなく闇が来ます。」と急いでおられるのです。すべての支配が神に移り、人間の支配が終わるのです。この時、私たちはイエス様と顔と顔とを合わせ、アダムとエバが神様と交わっていたのと同じように、いやそれ以上に、神との交わりがに回復されるというのが聖書全体のメッセージです。
 さて、ダビデは神から宮を建てるための仕様書を受け取ったあります。他の訳の聖書では、設計図を受け取ったと訳されています。神の宮を建てる設計図を神様から受け取り、それをその子ソロモンに渡し、「私には宮を建てる使命はない。あなたが建ててくれ」と託しました。ソロモンはそれを受け取り、忠実に宮を建てました。
 第二歴代誌の五章十三節には宮を建て終わった時の様子が書かれています。

『ラッパを吹き鳴らす者、歌ううたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。』

 宮を建て終え、皆が一致して賛美した時、宮は雲で満ちあふれました。宮が主の臨在で満ち溢れ、主の栄光が現されたのです。ここで、「一致して賛美した」ということが主の栄光が現わされた中心的要因ではありません。そこにも一因はありますが、重要な要因は、「ダビデが神から受け取った仕様書を、ソロモンが忠実に再現した」からです。神の宮の仕様書を受け取っても、その仕様書通りに造らず、寸法も形も全く違っていたのでは、いくら一致して賛美しても主の栄光は現されなかったはずです。一番大切なポイントは、「御霊によって示された仕様書通りに人々が宮を作り上げた」というところにあります。
 聖霊の時代において、神の宮とは私たち個人を指しています。また、目に見えない神の教会を指しています。今日ここに、「新城教会」という、目に見えないキリストのからだの一部分があります。これが神の宮です。主が住まわれるところです。私たち個人の中に栄光が現されるためには一致して賛美することも大切ですが、その前にもっと大切なことがあるのです。それは、御霊によって与えられた仕様書通りに生きるということです。
 私は昔、建設業に携わっていたことがありますが、「設計図」と「仕様書」には違いがあります。設計図とは主に、線によって形を現したものです。しかし、仕様書とは、設計図で表現することが困難な部分を、言葉で表したものなのです。例えば、「コンクリートを使ってください。」と言っても、コンクリートにも色々な種類があります。どのくらいセメントを入れるのか、石のサイズは、水の量、それらは言葉で現さないと設計図で示すことは難しいのです。細かい指示を文章で書かなくてはならないのです。鉄筋を入れてくださいと言っても、様々な太さ、強さ種類があります。そのために建設業界には仕様書があり、工事の時はその指示に従います。
 同様に、神様はあなたの人生の設計図を持っておられますが、同時に仕様書をも持っておられます。それはもっと細かいものです。「あなたの小道を教えてください」というメッセージが語られましたが、「小道」とは「仕様書」でもあります。私たちの中に、教会に、国に栄光が現されるため一番必要なことは、「御霊の与える仕様書」を受け取ることです。その小道を歩んでいく時、神の栄光が現されるということです。今年一年間、あなたが祝福された人生を歩むために必要なことは、「御霊の与える仕様書を受け取らせていただく」ことです。毎日、「主よ。今日一日の仕様書をお与えください。」と祈ってください。
 イエス様は、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と語られました。その仕様書を受け取る重要なポイントは、「祈り」です。皆さんは「私にこのような物を与えてください。このことを実現してください。」と祈っているかと思います。それも祈りです。しかし、聖書の教える祈りとは、「受け取る祈り」です。みこころの祈りは即ち、「聞かれた祈りだ」と教えています。神が我々に祈らせたい、細かい祈りの課題があります。「このことを祈ってほしい」と主のあなたへの願いがあります。それを受け取り、忠実に祈るならば、それはみこころの祈りですから答えられるのです。今年は神から祈りを受け取り、それを祈りたいと願います。朝起きたら、「神様、今日、私が祈らなくてはならない祈りの課題を心に投げ込んでください。」と祈ってください。その祈りは何時投げ込まれるのかわかりません。聖書は、「絶えず祈りなさい」と教えていますが、それはその為だと思います。時々、仕事中に、ふっと、「このことのために祈ろう」と感じます。それは祈り時間の長さや深さには関係がありません。ただ、与えられたことを祈るのです。その時に神の栄光が現されます。
 また、皆さんにしかできない仕事があります。神の宮は多くの人たちが集められて完成しました。第二歴代誌二章一節から二節に、

『さて、ソロモンは主の名のための宮と自分の王国のための宮殿とを建てようと考えた。ソロモンは、荷役人夫七万人、山で石を切り出す者八万人、彼らを指揮する者三千六百人の人数をそろえた。』

と書かれています。何万人という人によって神の宮、神殿が完成していったのです。
 日本のリバイバルも神様が多くの人たちにそれぞれの仕事を命じられます。宮を建てたとき、「あなたは山から石を切り出してきなさい。」「あなたはこの宮のこのような器具を作ってください。・・・ともしび皿や、燭台、机・・・などの備品を作れ。」と言われて造った人もいます。同様に、「あなたはこの仕事をやってくれ。」と主から仕事を託されます。その仕事に忠実でありたいと願います。
 私も、「リバイバルのために、大きく用いてください」と祈りたい気持ちがありますが、そのように祈るのをやめました。なぜならば、「大きく用いてください」という願いは、「一旗揚げたい」というような世的な世界観、即ち、この世の価値観とリンクしやすいからです。別に大きく用いられなくても良いと思います。神が、「お前をここで用いたい。ここで働いてくれ」と言われたら、小さなネジとしてでも私はそこで役割を全うしたいと思います。「これを作ってくれ」と頼まれたら、それを作るために専念したいと願います。神様はみなさん一人ひとりに、そのような仕事を命じられます。
 もしも、家族の中にまだ救われていない方がおられるならば、その方に対する祈りと働きはあなたに与えられた使命です。また、皆さんの住んでおられる両隣の方々のために祈ったことがありますか?前後の人々のために祈ったことがありますか?その人のために祈るのも皆さんへの祈りの課題だと思います。
 来週、「家庭訪問祈祷会」がありますが、去年、私は沖縄の一つの教会で奉仕しました。その教会の牧師先生は二十数年間奉仕されたそうですが、教会に二十五人以上集まったことはなかったそうです。しかし、甲子園ミッションの時、霊的な目が開かれ、「家族を縛っている悪霊がいる」ということに気がついたそうです。しかし、教会としては全くそのようなことに目が開かれていなかったので、自分と奥さんの二人で、こっそりと教会員の家の前に行き、その家の祝福を祈ったそうです。また、家を支配している悪霊が砕かれるようにと、一年かけて祈ったそうです。誰にも知られないようにです。すると、不思議なことに、教会員の家族で、救われていない人たちが徐々に救われ始め、何と教会員は四倍の百人になってしまったというのです。私は去年の夏にその教会に行ったのですが、「もう今年は三十数人がバプテスマを受けた」と受洗写真がたくさん壁に貼ってありました。それも家族単位です。
 さて、新城教会にも色々な地域から人々が集められています。設楽町、豊根、浜松、浜北、名古屋、多治見からも、蒲郡、豊橋からも来られています。広範囲です。来週はその場に行き、家族の祝福のため、また、その背後に働き家族を縛っている悪霊の力が砕かれるように祈りたいと思います。そして、十八日はゴスペルサパーがありますが、救われていない家族を教会に誘うのです。きっと、家族が教会に行られるようになるでしょう。
 昨日、PPHに来られていた一人の姉妹と話したら、「家に不思議なことが起こって私の気持ちがついていかないので困っています。」と言われました。「何を困っているのですか?」と聞くと、両親は全くイエス様に興味もなく、反対ばかりしていたというのです。しかし、昨年の九月に行われた、よみうりランドでのアナコンディア大会にお父さんを誘ったそうです。わけもわからずお父さんが集会に来られたそうですが、アナコンディア先生に祈ってもらったら聖霊が下って倒れ、それ以来心が変えられて、イエス様を信じてしまったそうです。しばらくしたら、今度は母さんも、「私もイエス様を信じるよ」と言って二人とも教会に来て救われたというのです。両親がイエス様を信じるなんて予想もしていなかったので戸惑っていると言われました。魂の救いを阻んでいる悪しき力があるのです。これを砕かなくてはなりません。来週はそのためにも祈りたいと思います。
 「仕様書に忠実に生きることができますように。」と祈ってください。必ず神様の栄光が現されます。教会に属するすべての方々が神のみこころをつかまえて忠実であるのなら、神の栄光がこの場所に現れるはずです。一言お祈りします。

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