今週の礼拝メッセージ
価値観の転換 1998.1.18(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ピリピ人への手紙3章7節〜9節
 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 ハレルヤ!今日このようにして皆さんとともに礼拝を守ることができることを感謝します。皆さんにお祈りしていただき、先週は六日(火)〜九日(金)まで、北海道リバイバル聖会に行くことができました。その後、北海道にとどまり、十日(土)に決起集会、日曜日には礼拝して、その日の夜、新城に帰って来ました。先週北海道は吹雪でした。朝は早天祈祷会があり、祈りの勇士たちとともに祈りに行きましたが、非常に寒く、零下十度でした。雪の林の中で真剣に祈る時を持ち、とても恵まれました。北海道から新城に帰る時には、吹雪のため飛行機が一時間程遅れてしまい、予定だと最終の東名バスで豊川まで来て、そこから車で帰る予定でしたが、一時間ほど遅れてしまいましたのでバスがなく、名古屋からJRに乗って豊橋に帰って来ました。豊橋が終点でしたので安心して乗っている間に疲れが出てしまい、私はぐっすりと寝込んでしまいました。豊橋に着いた時、車掌が「お客さん、お客さん。終点ですよ。」と言われ、驚いて目を覚ますと車内には誰もいませんでした。豊橋まで上條牧師夫妻が迎えに来てくださり、無事家に帰ることができました。また十三日(火)からは九州に行き、リバイバル聖会がありました。素晴らしい聖会を持つことができて感謝でした。
 今日は伝道礼拝です。「価値観の転換」というテーマで、聖書からわかりやすく学んでいきたいと思います。
 ピリピ人への手紙は使徒パウロによって、ピリピの町にいるクリスチャンに送られた書簡文です。パウロはローマで迫害にあって投獄され、牢獄の中で手紙を書きました。初代教会は随分と迫害があり、何度か投獄された中で、彼はいくつかの手紙を書いています。牢獄で書いた手紙の中で一番多い言葉は「喜び」です。彼は牢獄の中で喜びながらピリピにいるクリスチャンたちにこの手紙を書いたのです。私たちは人生において、時々自分の状況によって喜びがあったり、またなくなったりしますが、本当のクリスチャンになると、どのような環境にあっても素晴らしい喜びの人生を送ることができます。ピリピ三章七節からの御言葉には、

『しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』

 パウロの血筋はベニヤミン族であり、彼の家系をたどるとサウル王がいました。ですから、彼の名前もパウロの前はサウロ(王様の直系を表す)「偉大なる者」という意味を持つ名前でした。彼は、パリサイ人と呼ばれる宗教的に厳格な人であり、彼は律法主義者で完璧すぎるような生活を送っていました。パウロはキリスト教が嫌いでした。何とかしてキリスト教を撲滅しようと考えていました。イエス様はナザレという村で大工をしており、その後約三年六ヶ月間伝道してから十字架にかけられて殺されました。イエス様は一度も悪いことをしたことがありませんでした。ののしられてもののしり返すことはなく、口には偽りがなかったと書かれています。このような完全な方が十字架に付けられました。その理由は「イエスは神の子である。メシヤ、救い主である。」と言ったために、こんな大工のせがれが救い主、キリスト(来るべき救い主)だというのはおかしいということで、「神を冒涜しているから殺してしまえ」ということでした。しかし、イエス様は殺されて葬られましたが、三日目によみがえられました。使徒たちはイエス様の復活を証し、「あなたがたが十字架につけたイエスは神の子で救い主でした。」と語りました。パウロはそれを聞いて憤りました。「これは神に対する冒涜だ。クリスチャンはすべて撲滅させなければならない。」と、ダマスコにいるクリスチャンをエルサレムの牢獄に投獄するためにダマスコに行く途中、彼はイエス様にお会いたのです。天からまぶしい光りが照り、彼は地に倒れました。すると、「サウロ、サウロ、どうして私を迫害するのか。トゲあるムチを蹴るのは難しい。トゲあるムチを蹴れば傷を負うだけだ。」という声を聞きました。彼は驚き、「主よ、あなたは一体どなたですか。」その時天から、「私は、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。」という声を聞きました。その時彼の目が開かれて、「ああ。この私が迫害したイエスは神、彼は救い主だった。」とわかりました。それで、彼の人生は一転しました。彼がわかったことは、罪のない神の御子が十字架にかかって死んでくださったことを信じるだけで罪が赦され、義とされると言うことでした。彼は「私が求めていたのはイエスだ。」とわかり、伝道を始めました。彼はイエス様のために今までのものをすべてを捨て、生涯をささげ伝道し始めました。そして、迫害の中で牢獄に入れられましたが、彼は、「キリストのためにすべてのものを捨てたけれど、それらのものは私にとってちりあくたと思っている。」と言っています。文語体の聖書では、「糞土のように思う」と書かれています。それが汚い、価値のないものだとわかったと言っています。私たちもイエス様にお会いすると人生の価値観が変わります。以前に素晴らしいと思っていたものが、価値なきものとなることがあります。イエス様は、「天国とは畑の中に隠されている宝のようなものだ。」と言われました。又、もしも、隣の畑に宝が隠されていることがわかったら、自分の財産を全て売ってもその畑を買うだろうとイエス様は言われました。パウロはイエス様を知ったら、あまりにも価値が大きいのですべてのものを、ちりあくたのように思うと語っています。
 ピリピ一章二十一節に、

『私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。』

と書かれています。
 彼がイエス様を信じた時、彼の人生は「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」というように変えられたのです。わかりやすく言うと、イエス様なしには生きることはできないということです。皆さんはいかがですか?皆さんにとって一番価値のあるものは何ですか?自分にとって生きることは何か。色々な方がおられると思います。「私にとって生きることは金」しかし、死んでしまったら金はなくなります。この地上に置いていかなくてはならないものです。また、「私にとって生きることは地位、権力、スポーツ、音楽、家族など」それらが生きることの価値になっている方がおられるかも知れません。しかし、これらのものは死んでしまえばすべてこの地上に置いて行かなくてはなりません。しかし、イエス様を信じると「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と言えます。生きることはイエス様のため、死ぬこともイエス様のためならば素晴らしいことです。このような人生になれます。
 私たちの人生は自分が良い評価を得よう考えます。パウロがイエス様を知ったことは、「生きることはキリスト」です。栄光はすべて神様のもの、迫害も、栄誉も、何もかも神様のものである、私は神様のために生き、死ぬというのです。自分のことばかりを考えて、自己中心に生きると惨めなことがたくさんあります。
 先週、私は九州リバイバル聖会で尾山令仁先生の話を聞きました。その中で、こんな話がありました。どこかの教会で一人の娘さんがコンタクトレンズを落としてしまい、コンタクトレンズを付けるまで人がわからなかったそうです。ひとりの人に「おはよう」と声をかけられたそうですが、目が見えなくて誰かわからなかったので無視したそうです。すると無視された人が怒り、「あの人が私を無視した。もう、話をしない。」と言いました。そしてその人はレンズを付けてから、「おはようございます。」と挨拶すると、今度は逆に無視されてしまったそうです。情けない話です。自分が誉められることではなく、神様のために生きることを考えると素晴らしい人生を送ることができます。最高の人生は「生きるはキリスト、死ぬこともまた益」にあります。イエス様を中心にすることが必要です。
 随分昔の話ですが、北陸で私と田中先生がクルセードを行いました。あまり大きな会場ではありませんでしたが、たくさんの人が集まりました。私が講壇に座っていると、遅れて入ってきた娘さんが座るところがないので一番前の席に来て座りました。私は上から見ていました。彼女は皆とともに賛美し出すかと思うと、全然賛美しません。ずっと下を向いています。悩んでいるようでした。それから私の説教になりましたが彼女は下を向いています。この人はきっと、初めて来た人で悩んでいると思いました。私はその姿を見て、特別におもしろい話をしました。皆が笑いに笑い、彼女も少し顔を上げて微笑みました。説教してから、「今日から幸せになりたい人はイエス様を第一にしたら素晴らしい人生を送ることができます。」と言って招きました。するとその方が最初に手をあげ、祈りました。しかし、彼女は激しく泣いていました。集会が終っても、彼女は席に座ったまま立とうとしませんでした。彼女は泣き続けていました。私はかわいそうに思い、彼女の側に行き、「初めて来られたのですか?」と聞きました。すると彼女は「いいえ。」と言いました。「教会に行ったことがありますか?」と聞きました。すると、「はい。私はクリスチャンです。」と言いました。「あなたはなぜそんなに泣いているのですか?」と聞くと彼女は少しずつ悩みを打ち明け始めました。
 彼女はクリスチャンになってから東京へ勉強に行きました。ある教会に行ったら、ある人が好きになったそうです。教会に来て人を好きになることは悪いことではありませんが、それが妻子ある男性であったことが問題でした。礼拝に行くと礼拝よりもその男性の顔の方が気になる程に彼のことに関心があったそうです。その男性にもその心が通じてしまい、男性も彼女のことが好きになったそうです。しかし、聖書には「姦淫してはいけない」と書かれています。だから彼女は苦しくなったそうです。それで、「私はこのままだと罪を犯してしまうと思ったので東京にいるのををやめて、こちらに帰って来ました。」と言いました。そして、「男を愛するって苦しいことですね。」と涙を流しながら話していました。「こちらに帰って来たけれど、彼のことが忘れられない。目が覚めれば浮かぶ。そして一日中男のことばかり考えて、苦しくて苦しくてたまりません。」と言いました。私はその時に面と向かって、「あなたは、間違っています。悔い改めなさい!妻子のある男に心を許すことは間違っている。また、あなたにはもう一つ間違っているところがあります。どこだと思う?」と言いました。それは、「あなたはクリスチャンであっても、心の中にはイエス様ではなく、男だけだ。信仰をやり直しなさい。自分の人生を神に明け渡して、イエス様でいっぱいになるようにしなさい。」と言いました。すると、彼女は神様の前に泣きながら悔い改めました。「神様、今まで男ばかりだったけれど、今日からイエス様が心の中に入ってください。」と悔い改めました。五日間行われた集会でしたが、彼女は毎日集会に来ました。彼女は日に日に変えられて良くなっていきました。最後には完全に変わりました。その集会がすべて終了して列車で帰る時に、彼女が駅まで送りに来ました。「先生、この手紙を読んでください。」と手紙を渡されました。そこには、「私はあの日から変えられました。今は男ではなく、イエス様がいっぱいになりました。」と書かれていました。
 ある人は時々、人生の中心をイエス様ではなく、恋人に置いている人がいます。しかし、恋人に裏切られたら何もなくなってしまいます。おに置いていてもなくなる時もあります。山一証券が倒産した時にも社員たちが朝テレビをつけると、「あっ!山一が倒れたって。オレの会社だ。」社員たちは前から悪いことがわかっていましたから、「会社が駄目になったどうしたら良いか?」と考えたと思います。今年はどのようなことが起こるかわかりません。頼りにしていた主人が死んだ、金がなくなった、評判も悪くなった・・。何もなくなってしまいます。しかし、「生きることはキリスト」この人生は揺るぐことがありません。
 イエス様がこのような話されました。ある人が来て、「先生。お願いがあります。私の兄弟に遺産を分けるように言ってください。」と言うと、イエス様が、「誰がわたしを裁判官、また調停者にしたのか。よく言っておくけれど、貪欲については注意しなさい。人の生きるいのちは持ち物によらない。」と言って調停を断りました。
 ある人がとても大きな農場を持っていました。彼の人生は儲けることでした。そして一生懸命に働き、ある時に豊作になりました。それで彼は悩みました。「どうしようか。この穀物を入れる倉が小さすぎる。」彼は、大きな倉を作りそこにいっぱい貯めておこうとしました。「さあ、私の魂よ。安心しなさい。飲め。食え。楽しめ。」と彼は独り言を言いました。その時に静かな声が聞こえました。神の声でした。「愚かな人よ。今晩あなたのいのちが取り去られる。あなたが蓄えたものは誰の者になるのか。」と言われました。この人の人生は金が中心でした。蓄えることばかりでしたが、今晩いのちが取り去れたらあなたの蓄えたものは何になるか。全部地上に置いていかなくてはなりません。日本人のほとんどが、財産が人生の中心です。しかし、これは神様から預かったものですので神様のために使ったら大丈夫です。
 先日、ある集会で、按手の祈りの時があり、祈りの課題を聞いて祈ってあげました。ある人が、「今私は事業をやっているのですが、おかげさまで儲かって儲かって・・・。だから、神様のために使いたいと思っていますので祈ってください。十分の一だけではなく。十分の九ぐらい献げたいのでそのために祈ってください。」と言われました。私は彼があまり調子が良いのを見て、「主よ、彼から傲慢な心を取ってください。そして神様から預かったものを神様に正しく返すことができるようにお願いします。」と祈りました。
 イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちは喧嘩しました。イエス様が「私はエルサレムに上り、そこで十字架につけられて殺される。」と話しているのに、彼らは耳を傾けていませんでした。彼らは、「おい、十二人の内、誰が一番偉いと思うか。」と話し始めました。ペテロが「オレだ・・・。」と言い、皆が「オレが偉い」と言い始めて喧嘩になりました。とても見にくい喧嘩をしました。イエス様が知らない振りをして歩いているところにヤコブとヨハネのお母さんが来ました。「私の息子がいつもお世話になっています。ところでイエス様、お願いがあります。あなたが御国の位につく時、私の息子を右と左につかせてください。」と言いました。するとイエス様は「お前たちは何を言っているのかわかっていない。右左に座ることはわたしの父が決めることだ。あなたがたは私が飲むべき杯を飲むことができるか。」と言われました。飲むべき杯は、イエス様が人のために十字架にかかって死ぬことでした。「はい。できます。」彼らはその座に座ることができたら何でも良いと思っていました。しかし、最終的にはヤコブは首を切られて殉教しました。ヨハネはパトモス島に流されました。
 イエス様は、「良く聞いておきなさい。この地の権力者たちは人の前に出て威張っているが、私はあなたがたによく言っておきます。あなたがたの内で一番偉くなりたい人はへりくだって僕のようになりなさい。そして人のために仕える人、これが一番偉い人だ。」と言われました。「わたしはあなたから見たら主であり、師でもあるが、わたしはこの三年間、僕のようにあなたがたに仕えた。」と言われました。イエス様は十字架にかかられる前に弟子たちを集めて足を洗われました。イエス様は王の王ですが、へりくだられました。神様の価値観はこの世の価値観とは違います。また、イエス様は、「人はたとえ全世界を手に入れても自分のいのちを損じたら、何の得になるか。・・・自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。」と言われました。本当に価値ある人生は自分の十字架を負って生きる人です。これが素晴らしい人生です。十字架とは、自分を殺して人を生かすことです。イエス様は自分が身代わりになって死に人を生かしました。私たちの人生も私だけで生きていくのではなく、自分を殺して人のために生きていくこれが素晴らしい人生です。私の好きな御言葉ヘブル人への手紙十一章二十五節から二十六節に、

『はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。』

 エジプトの王パロはあまりにイスラエル人が増えるので助産婦に「男の子が産まれたらすぐに殺せ。」と言いました。しかし、イスラエルの助産婦たちは殺さずにこっそりと生かしておきました。パロはある時、助産婦たちを呼びつけて、「なぜ、お前たちは産まれてくる男子を殺さないのか。」と言うと、「イスラエルの女性たちは強くて私が行く前に産んでしまっているのです。」と言いました。彼女たちは神を恐れて子どもを殺すことはしませんでした。しかし、モーセが生まれた時モーセの両親はついにモーセを隠すことができなくなり、かごに入れて彼をナイル川に流しました。するとパロの娘が水泳に来ていて、泣き声を聞きかごを拾いました。その中にかわいい男の子が入っていました。「これはイスラエル人の子どもに違いない。私が持って行って育てよう。」するとモーセのお兄さんのミリアムがそこに行き、「王女様、私が乳母を呼んできましょうか。」そして彼はお母さんを呼んできてモーセを育て、モーセが大きくなった時に彼を王女のところに返しました。モーセは王女の息子として育てられ、立派に育ち、すべての学問、力も素晴らしいものになりました。ちょうどその頃、イスラエル人たちは奴隷生活をして叩かれていました。しかし、モーセはその姿を見て、「私も本当は拾われたけれどユダヤ人、イスラエル人だ。これから先こんな生活したくない。」彼は、そのままであったらエジプト一国を持つ王様になることができたのにも関わらず、彼は同胞を顧みました。そのため、彼はその国から追われて彼はシナイ山に行きました。その時のことがヘブル人への手紙十一章に書かれています。「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」と書かれています。エジプト一国を受けるのと、イエス・キリストとどちらが大切かについて彼は判断しました。エジプト一国よりも、キリストにおけるそしりの方が価値があると思い、彼はエジプトを捨てました。彼は価値観を神に置きました。その時、「この男は見込みがある。使ってあげよう。」と、、やがてモーセに神がホレブ山で現れ、イスラエルを奴隷から解放する素晴らしい預言者として立てられました。
 私たちの人生の価値観は、イエス様を自分の宝にすることです。今年あなたにとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。イエス様のために生きましょう。そうすれば素晴らしい人生を歩むことができます。まだクリスチャンではない方は、教会も良いけれど、世の中とどちらが良いか?親戚とイエス様のどちらか?これを捨てるにはもったいない・・・と思うけれど、思い切って捨てるべきものは捨て、イエス様を宝にしてください。あなたの生き方を今日から神様のために、神様の栄光のために変えてください。政治家であったら神様のために政治をし、音楽家であったら、神のために音楽をやってください。すべて栄光を神様に帰し、神のために人生を送ってください。あなたの家庭の主は誰か?「キリストです。」その家庭は一番幸せです。夫婦の間でもイエス様。親子の間でもイエス様が中心。これが最高の喜びになります。イエス様を信じたら、死んだとしても天国に行くことができます。素晴らしい栄冠が私たちを待っています。どのように人から誉められなくても、神様のために生きたら、神が評価してくださいます。人から悪口を言われようと神様は素晴らしい栄冠を与えてくださり、人生を与えてくださいますので、イエス様とともに人生を歩いていきましょう。今日皆さんにとってイエス様が宝となっていなかったら、イエス様が宝になるように祈ってください。聖書の中には「わたしは戸の外に立って叩く。誰でも心を開くなら、中に入って一緒に住んであげる。」と書かれていますので、イエス様を宝として迎えてください。一言お祈りします。

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