今週の礼拝メッセージ
家族の救いと祝福 1998.1.25(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 使徒の働き16章31節
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 ハレルヤ!今日皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを感謝します。先々週の主日礼拝にて、順牧師が家系のつながりを断ち切ることについて語られました。そして午後は家庭訪問祈祷会をし、新城教会に属するすべての兄弟姉妹の家を訪問させていただきました。多治見から浜松まで広範囲に祈りに出かけて行き、恵まれた時を持つことができました。私も豊根に行かせて頂きました。そして先週ゴスペルサパーを行いました。特に家族の救いをテーマとして行いましたが、多くの兄姉の家族が来られ、素晴らしい祝福の時のなったことを感謝します。そして今日もう一度学びたいことは「家族の救いと祝福」についてです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」を神様が語ってくださいました。私たちはどうしても家族が救われて欲しいと思います。クリスチャンホームの方でも親族の人が救われて欲しいと願っています。切実な思いで祈っています。しかし、現状は厳しいものがあると思います。教会に行くことを家族に何も言われないように、日曜日には朝早くから仕度をして礼拝に出席される方や、家族の反対に会いながら来られている方もおられると思います。また、ある方は家族が全く教会に無関心であったり、他の宗教に入っていたり、無神論であったり、様々だと思います。。しかし聖書は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と書かれています。ですから、今日もう一度神様の前に信仰持って行くことを学んでいきたいと願います。聖書の中には、神様が家族を大切にしている記事が多く記載されています。。アダムが天地創造の時に造れられました。当初アダムはひとりでした。神様は野の獣を見渡しましたが、アダムと一緒になるふさわしい者はありませんでした。そこで神様は、アダムの肋骨から女性エバを造り、アダムに与えました。
 またモーセの十戒の一番目から四番目は、神様と人間の関係を表しています。そして五番目から十番目は私たち人間関係のことを表しています。第一番目は「私以外に神としてはならない。」第二番目は、「わたしの他に神を造ってはならない。拝んではならない。仕えてはならない。」第三に「主の御名をみだりに唱えてはならない。」第四に「安息日を覚えてこれを聖なる日としなさい。」と書かれています。これは神様と私たちの関係です。そして人間と人間の関係の中で一番大切なこととして第五番目に「あなたの両親を敬いなさい」と教えています。両親を敬うこと、家族の大切さを教えています。その他にも、色々なところから家族が祝福を受け、家族が救われたという記事を見ることができます。今日もう一度御言葉から、家族は救われると信じ、信仰に習う者になっていきたいと思います。
 まず第一番目に創世記七章一節です。ここではノアについて書かれています。リビングバイブルという聖書からわかりやすく見ていきたいと思います。まず、新改訳聖書では、

『主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱船にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」』

と書かれています。また、リビングバイブルには、

『とうとうその日がきました。神様がノアに命じました。「さあ、家族全員と船に入りなさい。この地上で正しい人間と言えるのは、おまえだけだ。」』

と書かれています。ノアは誰もが知っているストーリーです。ノアの時代は荒れ果てた汚れた時代でした。神様がその時代を見たときに人間を造ったことを悔いた程、汚れきっていました。最終的に人類を水害によって全滅させようと計画されました。しかし、神様はノアを見た時に「この地上で正しい人間と呼べるのはお前だけだ」と書かれていますが、ノアの聖さを見ました。ノアは神から見て正しいということができる唯一の人でした。そのことのゆえに神様は人類を滅ぼすことにしているとノアに語りました。そしてノアに箱船を造らせました。そしてノアの故に、「さあ、家族と箱舟に入りなさい」と言われました。まず第一番目に今日覚えなくてはいけないのは、神様に認められる聖さです。あなたは家族の救い、親族のために真剣に祈っていると思います。「家の○○が悪いから・・・。○○宗教に入っているから」と色々な理由をあげて、難しい。まだ救われない。彼らは難しいと家族の人に問題があると思っています。しかし使徒の働き十六章三十一節の、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも・・・。」と書かれています。まず、あなたが変わらなくてはなりません。ノアと同じように聖められた生活、神の目から見て正しいとはかられる器にならなくてはいけないと語っています。しかし私たちは毎日の生活の中で罪だらけの生活をしてしまっています。思い、考え、語る時に失敗だらけの私たちです。しかし、今日覚えましょう。私たちには十字架という救いがあります。イエス様が私、また私たちの家族、全人類のために十字架にかかってくださり、葬られ、三日目によみがえってくださいました。その十字架の血潮を仰ぐ時、私たちはすべての罪を赦してくださるという約束をいただいています。今日私たちは聖餐をいただく時に、もう一度十字架の血潮を仰ぎましょう。イエス様が救い主だということを信じましょう。イエス様が流してくださった血潮によって聖い人間にしてくださると信じましょう。どうしても家族が救われて欲しい。どうしても家族が苦しみの場所「地獄」に行って欲しくないと願っています。ですからまず私たちがノアと同じように聖い人、十字架の血潮によって、全く新しい罪のない者とさせていただきましょう。ノアの故に家族が救われました。私たちも聖さを頂いて、家族を神のもとに導かせていただきましょう。
 聖さの逆のことも聖書に記されています。エジプトで奴隷生活していたイスラエルの民がやっと四三〇年の後にモーセによって出エジプトしました。その後荒野を旅する途中、恐ろしい出来事がありました。それは、民数記の十六章三十二節に書かれています。

『地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみ込んだ。』

という御言葉があります。コラも、いっしょに出エジプトし、素晴らしい神様の守りの中でモーセとともに歩んでいました。しかしある時、モーセと大祭司アロンに向かって大反発し、悪口を言いました。その時恐ろしいことに地が地割れをし、生きたままコラは地の中に飲み込まれてしまったのです。リビングバイバルには、

『いっしょにいた家族、友人を、テントもろとも、のみ込んでしまったではありませんか。』

と書かれています。ひとりの人が神様に従わずに神様に喜ばれない罪を犯したことによって、一緒にいた家族、友人、テントも全部地の中に飲み込まれてしまったと書かれています。ひとりのコラという人が罪を犯したことのゆえに家族が祝福を失ってしまいました。家族までもが殺されてしまったのです。神様は白か黒か。救いかさばきです。覚えてください。私たちは今日聖さを頂きましょう。私たちの教会ではほとんど毎週聖餐式が行われています。このことは素晴らしい、感謝な事です。今日私たちはコラのようにならないで、十字架の血潮を仰ぎ、ノアのように家族と一緒に箱舟である「救い」。天国に行く者とさせて頂きましょう。
 またヘブル人十一章七節に、

『信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。』

と書かれています。リビングバイブルには、

『ノアも、神様を信じた人です。将来の出来事について、神様から警告を受けた時、洪水のきざしなど何一つなかったにもかかわらず、そのことばを信じました。そして、時をむだにせず、すぐに箱舟の建造に取りかかり、家族を洪水から救いました。神様を信じたノアの態度は、当時の人たちの罪や不信仰と比べて、ひときわ輝いています。この信仰のゆえに、ノアは、神様に受け入れられたので。』

と書かれています。ここでノアが箱舟を造る信仰を見ることができます。「何のきざしもない時に箱舟を作った」ということです。当時は雨が降らなかったと書かれています。湿度が保たれ雨が降ることはなかったというのです。ですから、雨が降るという事実がありません。そんな時、山の上で神様が言われたとおりの大きな箱舟をノアは造り始めました。周りの人はノアをあざ笑いました。気が触れたのではないか・・などと言っていました。しかし、ノアは神様が言われたことは絶対だ。神様が言われたことは絶対に起きると信じきっていました。「信仰」です。私たちは今日神様の権威ある言葉として「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」を疑わずに信じましょう。あなたはこの御言葉を信じ切ることができますか?今全く雨の降るきざしもない。そして、洪水も起こるきざしのないような高い山の上でも「あなたの家族が救われる」と神様が言っています。必ず神の言葉が現実になると信じるかどうかです。信じるということは、岡本先生が越年聖会で語っていましたが、信仰は「神が共にいる」ということを知ることです。あなたに全能なる神様がいつも共にいてくださるかということです。あなたの神様は祈りに答えてくださる方です。全知全能なる神様です。何でもできる方です。大きくて、私たちには全てを見ることもできない、全能の神だということを覚えてください。私たちの祈りに答えてくださる。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる。」信じていきましょう。
 それと同時にノアは神の言われるとおりに箱舟を造ったと書かれています。順牧師が「神様の仕様書の通りに」とメッセージで語りましたが、神の言われるとおりに生活をしているかということです。私たちはいつも神様から語りかけを聞いて行かなくてはなりません。私には霊の耳が開かれていません。子どもたちのように開かれていないから、私は神の声を聞く事はできませんと言われる方がおられるかも知れません。神の仕様書がなんなのかわからないという方もいらっしゃるかも知れません。しかし、覚えてください。あなたは聞いています。聞こえるのです。神様があなたに語っていることをいつも耳にしているのです。それは聖書を読む中で、神様は私たちに語ってくださいます。「この言葉良い言葉だ。」と思う時があると思います。それはあなたに語っているということを覚えてください。またある時「この人のために」とか「このことのために祈らなくてはいけない」と思うことがあると思います。ある人のことを思い出したら、その人のために祈ってください。その時、神の声が出されているのです。神様が「これをしなさい」と言われた時あとでやろうと思わないでください。神様が思わせてくださった時、神様がその人を思い浮かばせてくださった時、その時が神の時です。神が語られる「仕様書」通りにしてください。全てに時があります。神がこうしなさい。このことのために祈りなさいと言われている時に私たちがその通りしているかということを覚えてください。御言葉通りしているか。思いの中で神様が思わせてくださったことをしているかということを覚えてください。その時祝福を頂く事ができます。
 また御言葉に従うことについて箴言十一章二十九節に、リビングバイブルでは、

『家族を怒らせるようなばか者は、やがて大事なものまでなくし、ついには知恵ある人の使用人になりさがります。』

と書かれています。新改訳聖書には、

『自分の家族を煩わせる者は風を相続し、愚かな者は心に知恵のある者のしもべとなる。』

と書かれています。私たちはとかく家族の救いのためにと祈っていながらも、家族に対しての愛が足らない時があります。私たちは本当に愛をもって祈っているでしょうか。愛の足りなさどころか、私たちは家族で喧嘩してみたり、家族で悪口を言い合ってみたりし、いがみ合ったり、憎みあったりしています。私たちはサタンの策略にはまってしまい、教会に誘うと「そんなところに行くか。」と言われて私たちは祈らなくてはいけないと受け取れば良いのにすぐにカチンときて怒ってしまうのです。そして「何もわかっていない。あんな人に言っても仕方がない・・・」とすぐに怒りが出てしまいます。しかし、聖書は、家族を怒らせるようなばか者は、やがて大事なものまでなくしてしまうということです。私たちは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という、この素晴らしい救いに家族も預かって欲しいと願うならば、今日家族の対立をやめ、悔い改めましょう。家族のために愛をもって祈りましょう。怒る対象は悪魔です。策略にはまらず、神の権威によって勝利をもらいましょう。またリビングバイバルの箴言十五章二十七節に、

『不正な手段で金をもうけると家族みんなが不幸になり、わいろを憎めば必ず幸せになります。』

と書かれています。不正な手段で金を儲けると家族みんなが不幸になると書かれています。これは、私に献金の事で神様が語って下さいました。私たちは、神様によって健康が与えられ、祝福頂いています。毎週日曜日に献金をささげていますが、不正なお金は、神のものを返さない。献金しなかったならばこれは不正だと教えられました。皆さんはもう十分の一をささげられているかと思いますが、まだささげていない方はささげてください。祝福です。また献金は感謝して、心からささげなくてはいけないにも関わらず、何の気持ちもなく、習慣化してささげていないでしょうか?今日は何週目だから、何献金と何も考えないで、何の感謝もなく献金をしてしまっていませんか?不正な金は家族みんなが不幸になると書かれています。だから私たちは献金を喜んで感謝を持ってささげた時、神様が祝福をくださる。家族の救いにつながるのです。リビングバイブルの第一テモテ五章八節には、

『自分の親類、ことに家族の苦しみを見て見ぬふりをするような人は、クリスチャンの風上にも置けません。神様を知らない人よりも悪いのです。』

と書かれています。こどもたちの会話を聞いていると、怒りを覚えるときがあります。子どもたちが親に対して悪口を言ったり、親に傷つけることを言ったり、行ったりしています。今朝、ある子どものお母さんが風邪を引いて寝込んでいると聞きました。その子に「お母さんのために祈ってあげたか?」と聞くと、「祈っていない」というのです。「看病してあげたか?」というと「してあげていない。」と答えた子どもがいました。自分の家族が苦しんでいても何も思わないような私たちではいけないと思います。「隣人を自分自身のように愛しなさい。」一番の隣人はあなたの家族です。あなたの家族が今どのようなことを願い、どのような苦しみを持っているかを覚え、私たちは全能の神に祈り、愛の行ないをしなくてはいけません。私たちはもう一度この御言葉を覚え、今日家族の中に苦しんでいるなら、また悩んでいる人がいたなら真剣に祈りましょう。
 また、イスラエルが出エジプトしてから時が経ち、エリコという町を攻め取る時のことが書かれています。エリコというの町は城壁に囲まれた町でした。そのエリコを偵察するようにヨシュアはつかいを出しました。つかいがエリコに侵入した時、遊女ラハブのところに身を寄せました。その遊女ラハブはエリコの町の人です。その遊女ラハブの家に兵隊たちが来ました。「ここにイスラエルの斥候が逃げ込んで来たのではないか」と聞いた時、遊女ラハブは「いいえ、そんなことはありません。すぐに向こうに行ってしまいました。」とイスラエルの民をかくまりました。その後イスラエルの民は黙って毎日城壁の周りを行進し、七日目七周回って時の声を上げました。神の奇跡により、城壁が崩れてエリコの人は、皆殺しにされてすべて聖絶されました。しかし遊女ラハブの家には目印の赤い紐をたらしておきました。遊女ラハブはイスラエルの民を助けたことによって、助かりました。普通から言えば遊女、ある意味で低い地位、誰にも認められないような女性であったかも知れません。しかし神のしもべ達だとわかっていたため、助けたのです。リビングバイブルのヨシュア記六章二十五節に、

『こうしてヨシュアは、売春婦ラハブとそのいえに共にいた身内の者とを、救ったのです。今もなお、その一族はイスラエル人の中に住んでいます。それというのも、ヨシュアがエリコ偵察のために送り込んだスパイを、ラハブがかくまってくれたからです。』

と書かれています。遊女ラハブが偵察に行った人をかくまいました。ラハブが助けたにも関わらず、その家族・親族までもが助けられたのです。その他は皆殺しされ聖絶されました。遊女ラハブの行った行ないによって家族、一族が救われました。彼女が神のしもべを助けたからです。今日私たちは愛する兄姉を愛しましょう。お互いに助け合いましょう。エリコのような敵である悪魔どもを、互いに祈りあい、御言葉の剣で打ち砕いて勝利しましょう。神の愛する兄姉を互いに愛し合ったとき、あなたの家族、親族も救われると信じます。
 また第一列王記十七章十五節にはエリヤの記事が書かれています。当時ツェレファテはききんで川がかれてしまい、水がなく、食べ物の何もないという時でした。ツェレファテにやもめがいて、その女は最後の粉と油でパンを焼き、やもめは自分の息子と死のうと思っていました。しかしエリヤはその大事なパンと水を彼女に請求しました。私でしたら絶対にあげることができないと思います。しかしその女はエリヤの言ったとうりしました。その時第一列王記十七章十五節をリビングバイブルでは、

『そこで彼女は、言われたとおりにしました。と、どうでしょう。彼女と息子エリヤは、いつまでも粉と油で作ったパンを食べることができたのです。』

と書かれています。やもめであり、母であるツェレファテの女は、貧しさのどん底の中でも、ひとり息子のためにパンを作ってあげたい。これは親心です。しかしいのちよりも大切なものを、とうりかがかりの神の遣いに食べさせたのです。自分の息子や自分のためよりも神のためにささげたのです。するとそのツェレファテの女の油と粉は尽きることがなかったとあります。生きながらえることができました。大事なものをささげた時にツェリファテの女は他の人がききんで食べるものが困っていても、彼女の所だけは違いました。祝福されたのです。今日覚えてください。神様があなたにささげなさいと言っているにも関わらず、まだ自分で握っているものはないでしょうか?もっと祈りなさい。聖書を読みなさい。もっと神に仕えていきなさい。様々なことを神に示されいるにも関わらず、私はできません、私は無理ですと実行していない事はありませんか?ある人は直接献身しなさい。と言われいるにも関わらず、自分はできないとその思いを押さえてしまっている方はいませんか。ツェレファテの女は最後のものをささげた時に、祝福を受けました。一番大切なものを神様にささげて下さい。そうしたら神様は祝福をくださるということを覚えてください。
 最後にダビデが契約の箱をオベデエドムという町からダビデの町に運んで来た時、契約の箱をイスラエルの地ダビデの町に運び込めた喜びで、ダビデは喜んび躍り上がりました。神を礼拝したのです。神様を礼拝した後第一歴代誌十六章四十三節に、

『こうして祝も終わり、国民はそれぞれ家へ帰ったので、王も家族を祝福するために戻りました。』

と書かれています。私たちは今日礼拝を神様にささげています。喜びの中で私たちは礼拝を持っています。ダビデは礼拝した後、家族を祝福するために戻ったと書かれています。家族を祝福したのです。この御言葉を読んだ時に、一つの祈祷会を神様から示されました。今日の午後二時から家族の救い・祝福のために祈る祈祷会をしようと教えられたのです。礼拝後皆さんに祈りの課題を書いていただき、皆さんと一緒に皆さんの家族の救いのために、祝福のために祈ろうと思います。ダビデは神を礼拝した後家族のために祈りました。私たちも同じように礼拝後集まって家族の救いと祝福のために祈りたいと思います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」また家族だけではなく身内のもの、いや日本のすべての民が救われ、祝福を受ける事ができるのです。私たちはきよさをいただきましょう。そのためにもう一度信仰を持ちましょう。私たちにはできませんが神様にはどのようなことでもできます。今日皆さんのすぐ横にあなたの愛する家族が親族が座って礼拝している姿を思い出してください。一緒に家族で共にひざをかがめて家で祈る。その人が家庭集会の中でその人が司会をし、御言葉を語っている姿を思い出してください。神は必ずあなたの信仰を見て神様が祝福を与えてくださるということを覚えていただきたいと思います。今年は家族が、親族が救われる年です。ハレルヤ!ごいっしょにお祈りしましょう。

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